『新約聖書』の「たとえ」を解く

『新約聖書』の「たとえ」を解く (ちくま新書)

『新約聖書』の「たとえ」を解く (ちくま新書)

三つの福音書の特徴

マルコ福音書の立場を一言で述べるならば、「聖霊主義」ということになる。「神との直接の結びつきだけに意味がある」という立場である。(略)
[聖霊を与えられた者は]イエスしかいない。他の者たちには聖霊が与えられず、つまり神と結びついていない。(略)[敵対者や群衆のみならず]「イエスの弟子たち」も、否定的に位置づけられている。こうした中でイエスは活動を進めて、結局は一人で十字架刑に処される。マルコ福音書は、聖霊を与えられて活動する者が、どのような生き方をすることになるかをイエスという最初の実例をもって示した物語である。物語の中にはイエス以外に聖霊を与えられる者はいないが、イエス以外の者への神の聖霊付与があり得ることが前提にされている。マルコ福音書が読者として期待しているのは、このような潜在的聖霊付与者である。
(略)マタイ福音書はいわばマルコ福音書の改訂版である。マルコ福音書のような聖霊主義は退けられている。イエスモーセ律法に代わる新しい掟を与える者であり、したがってイエスは「第二のモーセ」とでもいうべき存在である。(略)イエスが与える掟は従来のモーセ律法よりも優れている。マタイ福音書の立場をあえて一言で述べるならば「新掟主義」とでも言うべきだろう。(略)神は最終的な審判を行うとされている。それまではイエスが与えた掟を守るよう努めるべきである。
(略)ルカ文書の立場も基本的には「聖霊主義」である。しかしマルコ福音書の場合のように、聖霊を受けていない者たちを全面的に否定するのでなく、彼らをそれなりに肯定的に位置づけている。たとえば「神を愛すること」がもっとも望ましいが、それができない者は「隣人愛の実践」によってもそれなりに肯定的に評価される、といった具合である。しかもルカ文書では、マルコ福音書の場合と違って、聖霊を受ける者がイエス以外にも何人も具体的に登場する。しかし聖霊を受ければ誰でも華々しい活動を行うのではなく、目覚ましい活動をする者もいれば、それほどでない者もいる。こうした段階的な肯定的世界観に基づいたキリスト教指導者たちによる世界規模の管理構想が示されていることがルカ文書の重要な特徴である。

隣人愛
[イエスを接待するのに忙しい姉がイエスの話を聞いているだけの妹に腹を立てると、「マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを彼女から取り上げてはならない」とイエスが答える話の意味]

「神を全身全霊で愛している」ならば、たとえば「隣人を愛する」などということはできない。「隣人」を愛していて、そして「神」を愛していると言うのならば、その場合には「全身全霊で」というあり方では神を愛していないことになる。このような「神への愛」では、掟の要求を満たしていない。
(略)
エスの話を聞いているマリアの姿は、「神への愛」のあり方のイメージである。「神への愛」は「全身全霊」のものである。イエスの話を聞く以外のことはマリアはできないということに、うまく対応している。マリアには「もてなしの仕事」をする余裕がない。
 これに対してマルタは「もてなし」の仕事をしている。イエスは客であり客をもてなす仕事をするこのマルタの姿は「隣人愛」のあり方のイメージになっている。このマルタは、イエスの話を聞くという行為を行っていない。イエスの話を聞くことが「神への愛」ならば、マルタは神を愛していないということになる。
 マルタのイエスヘの要望の内容――マリアが手伝いをすべきだ――は意味深長である。マルタは「神への愛」よりも「隣人愛」の方が重要だと考えていることになる。
(略)
ここでの「律法学者」が「隣人愛しか選べない者」とされていることである。(略)「隣人愛」しか選べない者は、他の者から「神への愛」を奪おうとする。彼らには「神への愛」の方が優れていることが分からないのである。そこで「〈隣人愛〉しか選べない者は、〈神への愛〉を選んでいる者から、〈神への愛〉を取り上げてはならない」というきっぱりした命令が必要になる。

[関連記事]
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com