『新約聖書』の誕生

『新約聖書』の誕生 (講談社選書メチエ)

『新約聖書』の誕生 (講談社選書メチエ)

ゼロテ派と「サマリア人の譬」

ゼロテ派は、いわばユダヤ国粋主義者である。「ゼロテ」とは「熱心」という意味で(略)
彼らは律法を遵守する。しかしファリサイ派のように、整った日常生活を行うだけでよいとするような立場には満足しないのである。そして非ユダヤ人の支配権力をくつがえすために、彼らは暴力も厭わない。(略)過激な者は、懐に小刀を潜ませて、必要とあらばテロをも辞さないという覚悟をしていたという。小刀はラテン語で「シカ」といい、ここから彼らは「シカリ派」と呼ばれることもあった。(略)小さな集団でしかない彼らにとっては、ローマ当局の要人に近づくことさえ容易ではない。(略)そこで彼らは、自分たちの国粋主義的理念からは裏切り者と考えられるようなユダヤ人の小物を狙うことになる。
 すでに見たようにエッセネ派は、親ローマ派の仲間である可能性があったと思われる。そのため、白い着物を着て無防備に旅をしているエッセネ派の者が狙われたりしたようである。(略)
ゼロテ派は「強盗」という意味の「レースタイ」という名前で呼ばれることもあった。イエスとともに十字架につけられた二人の「強盗」は、ゼロテ派の者である可能性が大きい。
 またルカ福音書に記されている「サマリア人の譬」で、旅人が「強盗たち」に襲われるが、この強盗たちもゼロテ派だと示唆されていると思われる。旅人を「半殺し」にしたというのも、十戒の「殺すな」という掟を守っているためと考えられる。(略)通りがかった祭司とレビ人という二人のユダヤ人がこの旅人を助けない(隣人にならない)のも、ゼロテ派によって襲われた者を助けると今度は自分の身があぶなくなると考えたからとするならば了解できることだし、サマリア人が旅人の隣人となって救助活動を行ったのも、サマリア人が外国人で、ユダヤ人社会内部の対立の局外にいるからだと考えるとよく理解できるようになる。
 ちなみに、襲われた旅人はエッセネ派の者だったという説があり
(略)
この譬は、「困っている人を見たら助けましょう」といった教訓を与えるものとしてしか解釈されていないようだが、ルカ福音書の文脈のなかでは、この譬はそんな暢気な教えを述べたものではない。(略)
ゼロテ派的な主張は、一世紀半ばを過ぎるころにユダヤ人社会において支配的となる。ユダヤ人全員が武器をとってローマに立ち向かおうという機運が高まったのである。そして66年に、ローマにたいするユダヤ人による全面的な反乱である「ユダヤ戦争」がはじまる。しかしこの企てはローマ側の勝利に終ることになる。

ヨハネとイエス

 エッセネ派は、町や村で他のユダヤ人とともに生活することを厭って、荒野で自分たちだけの共同体生活を行う徹底的なエリート主義集団だった。これにたいし、ヨハネは民全体に働きかけようとしたのである。(略)
ヨハネ自身は、自分は準備をする者であり、最終的な解決はまもなく神自身が訪れることによって実現すると考えていたと思われる。(略)
エスヨハネの弟子の一人であった可能性はかなり大きい。後のキリスト教においてイエスヨハネにたいして優越していると示すことに多くの関心が向けられていることから、この可能性が逆に強くなる。またイエスヨハネ運動の洗礼を受けたことも確実である。(略)
ヨハネヨルダン川のほとりにとどまって、民衆は彼のところに出かけねばならなかったのにたいして、イエスは自分が、町や村の日常生活の世界にいるさまざまな人びとのところに出かけて、働きかけたのである。
(略)
一般ユダヤ人の多くは、病気の癒しといった御利益的な面についてしか関心を抱かない。差別撤廃の働きかけについても、人びとは一応は歓迎するようだが、ユダヤ人指導者側からの圧力がかかると、人びとの態度も萎縮してしまう。彼らは自分たちが日常生活をつつがなく送ることしか考えていないのである。「いつまで私は、あなたがたに我慢しなければならないのか」というイエスの厳しい言葉は、一般ユダヤ人のこうした態度についての悲痛な叫びだと思われる。

聖書検討作業

[イエス処刑後]エルサレムで活動をはじめた集団は、二つのグループから構成されていた。一つはイエスの弟子たちのグループで、中心は「十二人」と呼ばれる者たちであり、その筆頭はペトロであった。もう一つはイエスの親族からなるグループで、そのなかに後のエルサレム教会の第一人者になる「主の兄弟ヤコブ」がいた。(略)
エルサレム共同体の創始者たちは、イエスの復活と顕現という超自然的な事実だけでイエスの権威は神によって認められたと考えたのだから、このことだけを主張するという方法も可能な選択肢の一つだったかもしれない。しかし彼らは既存の権威によっても、イエスの権威を正当化しようとした。(略)彼らはユダヤ教の聖書を繙いて、十字架・復活の事件をふくめたイエスの存在に積極的な意味を与えるようなテキストをそのなかに見つけだすという作業を行ったのである。(略)これはかなり知的な作業であって(略)
ある程度以上のレベルの知識人がいて、この聖書検討作業を助けた可能性が大きいように思われる。(略)
古いテキストを自分たちの目の前で生じた出来事についての預言であると見なして検討するという態度自体が、エッセネ派的だと指摘されたりしている。
(略)
新約聖書がまとまった一つの書物として成立し権威をもつようになるのは、四世紀以降である。つまりそれ以前のキリスト教には、このような意味での新約聖書は存在しなかったことになる。したがってキリスト教新約聖書を絶対的根拠とするものだと考えることは、現実のキリスト教の理解としては不十分だということになる。
 新約聖書がなくてもキリスト教は存在したのである。(略)新約聖書の意義は(略)歴史の具体的な枠組みのなかでのキリスト教の展開との関連において考えられねばならないことになる。

マルコ福音書

ヘレニストは、基本的には、イエスの直接の弟子たちが指導者となっているエルサレム教会主流派と厳しく対立した勢力である。イエスの言動を網羅的に記したとされている文書をつくることは、イエスの直接の弟子たちの権威を相対化する(略)
[マルコ福音書には]厳しい弟子批判がくりかえし記されている。(略)
[イエスの意図を変更しようとするペトロをイエスが「引き下がれ、サタン」と叱りつける箇所等]

ペトロ

共同体への寄付について虚偽を語った者が、ペトロの言葉を聴くとその場で息を引き取ってしまうというエピソードが使徒行伝に記されている。しかもペトロの周囲には「若者たち」が控えていて、そのようにして亡くなった者の死体を素早く葬ってしまう。
 このエピソードはペトロの権威がいかに強力だったかを示している。しかしあまりに厳しいペトロの態度の前に、ペトロから距離をとる者たちが出てくるようになる。
(略)
[紀元44年のヘロデ王の迫害によりペトロは]しばらくのあいだはエルサレムから遠ざからざるをえなくなり、主の兄弟ヤコブエルサレム教会における最高指導者としての地位が確定する。これ以後ペトロは、重要な伝道者の一人といった地位に甘んずることになる。

パウロ

キリスト教徒となったローマ帝国の高級官僚である地方総督セルギウス・パウルスがパウロたちに、ローマ帝国の枠組みを利用しながらキリスト教を広めるという方針を示唆したと推測される。(略)使徒行伝の記述において、サウロというユダヤ的な名前から、パウロというローマ的名前に変更が行われているのは、こうしたことを示唆しているのではないだろうか。だが、こうした方針は、エルサレム教会側には受け入れがたいものだった。ローマ帝国の枠組みを利用しながらキリスト教を広めるという方針は、パウロのこれ以降の活動のライトモチーフとなる。

ヤコブ

[ユダヤ戦争敗北で動揺するユダヤ人に]
キリスト教こそがユダヤ教のもっとも完成した形態であって、ユダヤ人はキリスト教の側につくべきであると主張されるようになる。
 このためにまず、律法の価値を積極的に評価するという手段が採用される。
(略)
 パウロ的教会では「信仰のみ」という考え方が先行してしまって、各人が勝手な振舞いをし、無秩序が支配している。著者は「信仰」を否定しているのではない。しかし「信仰」があるならば「行い」が伴わねばならないと強調される。
 このようにパウロ的教会のあり方が批判されるのは、こうした無秩序なあり方がキリスト教に関心を抱いているユダヤ人たちを尻込みさせているからであろう。

明日につづく。