歴史の中の『新約聖書』

ざっくり引用したのでわかりにくいかもしれぬ。

歴史の中の『新約聖書』 (ちくま新書)

歴史の中の『新約聖書』 (ちくま新書)

新約聖書における対立

旧約聖書は、キリスト教の母胎となったユダヤ教聖典で、それをキリスト教が引き継いだものです。新約聖書は、キリスト教独自のものです。(略)
[だからといって新約にはキリスト教の統一的な見解が書かれていると考えるのは]
間違いの元です。旧約聖書は、どちらかというと、全体として統一的だと言えないこともありません。しかし新約聖書は違います。
 新約聖書の中では、互いに違ったさまざまな立場が主張されていると、まずは考えるべきです。互いに否定しあっていると、言ってもよいくらいです。新約聖書は内部において互いに論争的だ、と言っても過言ではありません。

[ダビデ、ソロモンにより栄えた王国は、王の死後、南北に分裂。アッシリアにより北王国は滅び、南王国は属国として生き残る]
 国が滅ぶということは、その国を守るべき神が動かなかったことを意味します。このような神は、頼りにならない神、ダメな神、として見捨てられるのが古代の常識です。(略)[しかし]南王国では、ヤーヴェ崇拝を簡単に捨てられませんでした。
[神学的に大展開し、ヤーヴェがダメだからではなく、民に「罪」があるから救ってもらえなかったとした]
 イエスの時代に、普通のユダヤ人として生まれたら、と考えてみると、よく分かります。ユダヤ人だから、我々の神は「ヤーヴェ」である、しかし、民は「罪」の状態にある、救われていない、救われるためには、律法と神殿がある、このように教えられます。しかし、律法を勉強して、完璧に遵守しようとしても、絶対に完成には至らない。神殿を尊重して、犠牲の儀式を尊重しても、救いは完成しない。そのうちに人間は、寿命が来て、失意のうちに死んでしまいます。神学的には、なんとも惨めな状態だと言うべきです。

タテマエ、普遍性

[神はユダヤ人しか救わないという「タエマエ」]
 しかし「ジッサイ」には、神とユダヤ人の間の関係も切れていて、断絶しています。(略)ユダヤ教民族宗教なのに、ユダヤ人も救われていないなんて、そんなバカなと思うかもしれませんが、この「救われていない状態」が「罪」の状態です。
(略)
[これに対しキリスト教では神はユダヤ人以外も救うので「民族主義」ではなく「普遍主義」である。しかし全人類を救うわけではなくイエスを筆頭とする一部の人のみを救う。]

黙示思想から救いへ

 ユダヤ教においても、自分たちが「罪」の状態にあるということになって、それでどうすれば「義」の状態になれるのか、といったことばかりが注目されていました。しかし、「罪」の状態にあるのなら、罰せられて、滅ぼされるのだ、という当たり前のことにようやく気がついたということになります。(略)
[そこからさらに]
神が動くとして(略)「この世」を「罰する」「滅ぼす」という方向にしか神は動けないのか、ということがあります。イエスの意義は、この問題のところにあります。

人間の側が罪の状態にあるかどうかなどとは、いわば関係なく、神は救いの業を行うことができる、そして実際に神が救いの業を始めている(略)
[救いのための唯一の手段とされる神殿と立法を無視してみせることが、イエスが「神と直接に結びついている者」である証明になる。そのため行動は過激化、神殿境内で大暴れ]

マルコ福音書

[イエスに関する文章成立を抑え、口承にこだわった直弟子が年老い]
 マルコ福音書は、その内容の中で厳しい弟子批判がなされているということがありますが(略)
 書かれた福音書、権威ある福音書を作る、ということ自体が、「反弟子たち」の立場からの行動だということになります。

パウロ

ユダヤ戦争後にパウロは、注目されることになります。
 この時期にユダヤ教は、はっきりと律法主義的な流れに収斂して、イエス以来の流れがそこから分岐します。
 それまで、ユダヤ教の流れの中にともあれ存在していたキリスト教徒たちは、ユダヤ教という軸なしで、独立して独自のあり方で存在しなければならなくなります。特に、律法を尊重しないという点が鮮明になります。しかし、律法なしで、どうして行くかについて、十分な経験がないのです。
 そうした中で、ユダヤ戦争以前に、律法をはっきり否定して活動をしていた「パウロ的伝統」が、注目されることになります。古文書として残っていたパウロの手紙が集められて、世に出されるといったことも行われます。

山上の説教・日本語訳

[「心の貧しい者たちは……」と訳されている「心」にあたる語は、ギリシア語で「プネウマ」、「聖霊」「悪霊」「汚れた霊」と訳される。そして「心」は、普通は「カルディア」というギリシア語の訳語として使われる]
数行後に「心の清い者たち」という表現がありますが、ここのギリシア語は「カルディア」です。
 「清いカルディアの者たち」を「心の清い者たち」と訳しているすぐ近くで、「プネウマにおいて貧しい者たち」を「心の貧しい者たち」と訳しているのは、よほど強烈な意図があるとしか思えません。何かを誤解させようとしているように思われます。(略)いずれにしても、「山上の説教」の冒頭で「貧しい」とされているのは「霊」のことです。

ルカ福音書「平野の説教」

この演説は「貧しい者は幸い」という祝福の言葉で始まっています。いくらか後に「富める者は不幸だ」という呪いの言葉あります。(略)マタイ福音書は、これを「霊において貧しい者は幸い」として、経済的な貧富の問題を扱うことを回避している、ということになります。(略)ここの「貧しい者」は「財産を捨てて〈貧しい者〉になった者」と意味を限定させる試みが多いようですが、この箇所についてのものとしては、意味を不当に狭く解釈しようとする試みだと言うべきです。
[つまり単純に「貧乏人は救われてる」とイエスは言っている]

残り少しだが疲れたので明日につづく。