ウォーホルの60年代

マッチョな美術界

 抽象表現主義の世界はずいぶんとマッチョだった(略)画家たちはみんな威勢がよく腕っぷしが強そうなタイプで、互いにつかみあっては「前歯をへし折られるぞ」とか「おまえのスケをちょうだいするぜ」とかいっているのだった。ある意味でジャクソン・ポロックはあんなふうに車をぶつけて死ななければならなかったのだし(略)この剛気というのが伝統の一部で、それが彼らの悶々としたアートと表裏一体となっていたのだ。彼らは何かというといきりたち、作品や色恋ざたをめぐって殴りあいをやっていた。(略)
美術界は当時、たしかにいまとは違っていた。ぼくも自分がバーで、そう、たとえばロイ・リキテンスタインのところにつかつかと寄っていって、あんたはぼくのスープ缶を馬鹿にしたらしいな、ちょっと「表へ出ろ」とかいう場面を想像してみようとした。いや、つまり、なんとも野暮だな、ということ。ああいう喧嘩渡世みたいな風習が影をひそめたのはうれしい。ぼくの腕力の問題はともかくとしても、ああいうのはぼくのスタイルではないのだった。

63年10月大陸横断西へ

西へ行けば行くほど、ハイウェイではあらゆるものがポップに見えた。ぼくらはみんな、突如なじみのあるところへ来たという気がした。つまりポップはどこにでもある――それこそが肝心なので、ほとんどの人はそれをまだあたりまえのものとしてしかうけとめていないけれど、ぼくらはそれに幻惑されていた――ぼくらにとっては新しいアートなのだった。一度ポップを「つかん」でしまえば、標識ひとつも以前と同じようには見えなくなる。そしていったんポップ的な発想をしはじめると、アメリカも以前とは違ったふうに見えてくるのだった。
(略)
グレイス・ケリーモナコヘ行ったことにしてもぼくにはわからなかった。ヒマラヤ山脈のちっぽけな何もないところに住むなんて想像もつかなかったのだ。車で走るとドライヴインがあり巨大なアイスクリーム・コーンの広告がありホットドッグのかたちをしたレストランがあり、そしてモーテルのネオンサインがチカチカ輝いているところ!――ぼくはそんなところにしか住みたいとは思わなかった。
(略)
ぼくらが向かっていたハリウッドは地獄の辺土にあったようなものだった。古いハリウッドは終わってしまっていたけれど、新しいハリウッドはまだ始まってはいなかった。新しいスターの神秘性をまとっていたのはフランス娘だった――ジャンヌ・モローフランソワーズ・アルディシルヴィ・ヴァルタンカトリーヌ・ドヌーヴ

ジュディ・ガーランド

「あれは60年代最高のパーティだったね」、とレスター・パースキーがいった。65年の春、彼がファクトリーでやった「50人の最も美しい人たち」というパーティのことだった。(略)
ジュディ・ガーランドがしっかり来ていたのだ。ぼくは五人の少年が彼女を肩にのせてエレヴェーターからはこびだすのを見た。(略)
ジュディ・ガーランドはMGMの敷地で育った人間。つまり、ジュディのようにその実像がとても非現実的な人に会うとぼくはゾクゾクした。彼女はすべてを一瞬のうちに切りかえてしまうことができた。(略)
「あたし、ぜったい、テネシー・ウィリアムズの芝居で主役やるんだからね」。(略)途中でレスターがさえぎって冗談っぽくこういった。「でもさ、ジュディ、おもしろいことにテネシーのほうは、あんたのことを大女優というより大歌手だと思ってますよ」。(略)
ジュディはテネシーアレン・ギンズバーグウィリアム・バロウズといっしょに立ち話をしているところへ行き、ふりかえってレスターを指していった。「あんたはあたしが演技できないっていったと彼から聞いたけど!」(略)
[ジュディがMGM総帥ルイス・B・メイヤーに何年間も通わされていた精神分析医は]
MGMから給料をもらっていて、メイヤーがその医者に、雇い主と喧嘩するな――彼らはあなたが好きなんだから、といわせていた、といった。そしてレスターはこの話にショックをうけて、「おそろしい……ほんとにおそろしいことだ」と何度もくりかえしていうのだった。
 それからジュディは大きく口をあけて笑いだした。そして、その隅にスパゲッティをからみつかせたまま歌いはじめた。「サムウェア・オーヴァー・ザ・レインボー」。ぼくはただただ信じられなかった。ぼくは思った。なんてことだ、あのジュディ・ガーランドがぼくのすぐまえに座って、スパゲッティを詰めこんだ口で「オーヴァー・ザ・レインボー」をがなっているなんて!

ボブ・ディラン、イーディ

ぼくは彼とつきあいはじめたころ、ぼくの銀色のエルヴィスの絵を一点、彼にあげさえしていた。ところがのちに、彼がそのエルヴィスをダートボードに使っていたという噂を聞いてぼくは平気ではいられなかった。(略)「彼はきみがイーディをだめにしたと思ってるらしいよ」。「『ライク・ア・ローリング・ストーン』を聞いてみなよ。ぼくはあそこに出てくる“メッキの馬に乗った策士”というのはあんたのことだと思う」(略)みんなのいっていることにはおよその見当がついた――ディランはぼくが嫌いだということ、彼はイーディのドラッグはぼくのせいだと思っているということ。


ほかの人がどう思っているか知らないけれど、ぼくはイーディにドラッグをあたえたことなど一度もない、ほんとうに一度も。ダイエット・ピルの一粒でさえも。(略)彼女はそれらを街のレディたちに打っていた医者から手に入れていたのだった。ときどきぼくのことをワルだといって非難する人があった――他人が自滅していくのを黙って見ている、だからこそ彼らを映画に撮ったりテープに録ったりできるんだ、と。だけどぼくはそうは思わない――現実的なだけなのだ。ぼくは幼いときから自分が攻撃的になったり、あるいは誰かにどうしろこうしろ、といおうとしたところで何の結果ももたらさないことを学んでいた(略)黙っているほうがじっさいにはずっと力になることを知っていた。そうすれば少なくとも自分自身を疑いはじめるだろうからだ。ほんとうに時期が熟せば人は変わっていくものだ。それまではどうしようもない、そしてその時にいたるまでに死んでしまう者もいる。人が変わろうとするときに他人がそれを止めることができないのと同じように、変わりたくない人を変えることもできないのだ。(略)
[10年後偶然会った時に]あの絵のことを聞いてみると、彼はマネージャーのアル・グロスマンにやったことを認めた。そして首を振って、残念そうにこういった。「でも、もしきみがまた一点くれるようなことがあれば、アンディ、今度はそんなヘマはやらないよ……」。(略)[その直後]ロビー・ロバートソンと話していて、ぼくがディランから聞いたばかりのことを伝えると、彼はニヤニヤしだした。「そうね」とロビーは笑った。「ただ、正確にいうと彼はあの絵をグロスマンにやったわけじゃないんだ――交換したんだよ――ソファとね」

ジミヘン

[渡英してスターになる前、ジミー・ジェームズといっていた頃]
彼は髪を短くして、すごくきれいな服を着ていた――黒いパンツと白いシルクのシャツ。(略)とてもいいやつで、ずいぶんとソフトに話した。ある日の夜、彼はぼくに、自分はワシントン州のシアトル生まれだ、といった。そして、空気といい水といい、そこがどんなに美しかったか、といっているのを聞くと、どうやら彼はホームシックになっているようだった。(略)ぼくらが話した夜、彼はただシンプルにブラック・アンド・ホワイト・エレガントで、どこかしらとても悲しそうに見えた。

銃撃事件後不審者への恐怖がつのるも

ぼくは情緒不安定な者は避けるべきだった。だけど、どのキッドとは会い、どのキッドとは会わない、とかいった選別はぼくのスタイルにはまったくそぐわなかった。そしてそれ以上に、はっきり口には出さなかったし誰にも打ち明けなかったものの、ぼくにはひとつの恐れがあった。つまりクレイジーだったりドラッグ漬けだったりする連中がまわりでペチャペチャしゃべったり気違いじみたことをやっていてくれないと、ぼくは自分の創造性を失ってしまうのではないか、という恐れ。つまるところ64年以来、彼らこそぼくの発想ぜんたいの源泉だった。ぼくは彼らなしにやっていけるかどうか自信がもてないのだった。