歴史の中の『新約聖書』・その2

前日のつづき。

歴史の中の『新約聖書』 (ちくま新書)

歴史の中の『新約聖書』 (ちくま新書)

  • 作者:加藤 隆
  • 発売日: 2010/09/08
  • メディア: 新書

守れない掟

[人妻に欲情したら目を抉れという]
 守りきれないことがあまりに明らかな命令が含まれている掟をイエスが与えているとされている文書が新約聖書にあるということは、無視できない問題です。
 生前のイエス以来のもともとの反律法の立場からの一種の警告になっているのではないかと、考えたくなるほどです。つまり、次のようなことです。神およびそれに匹敵するようなイエスの権威を背景にして新しい掟を強制しようとする動きがある場合、そのような方向の立場からの企てならマタイ福音書がある、と言うことができる。しかしそこに示されている掟は守りきれないものだ、だから新しい掟で対処しようとすることはやるべきでない、このような警告です。

ルカ福音書

[ルカ福音書使徒行伝を合わせた]「ルカ文書」の立場の特徴を一言で言うならば、「人による人の支配」というべきです。(略)
 マタイ福音書では、イエスは突出して優れた者で、特別な者です。(略)しかしルカ文書の場合には、イエスと並んで洗礼者ヨハネの誕生物語が記されています。神に優遇されているのは、イエスだけでないことが、冒頭からはっきり示されています。
(略)
マルコとルカの場合、イエスの他にも聖霊を与えられる者がいます。(略)[マルコでは]救いは神がなすことであって、聖霊を与えられた者たちといえども、与えられていない人のことはどうしようもない、ということになっているように思われます。
 これに対してルカ文書では、聖霊を与えられていない者たちに対して指導者たちが、さまざまな指導を行っていて、そうした活動に価値があるように描かれています。
[そこから指導に従わない者は救われないのかという問いも起きる]
(略)
 すべての者が救われるのか、一部の者たちだけが救われるのか、という観点から見ると、新約聖書のほとんどの文書では、一部の者たちだけが救われるとされています。その中で、ルカ文書は、すべての者が救われるという立場になっている可能性がかなりあって、珍しい例になっています。

ヨハネ福音書

[ヨハネ福音書はざっくりと言えば「イエス中心主義」。神と「世」は断絶しており「神なし」の状態で人々は救われていない、だが神がイエスを「世」に送ったので、イエスを受け入れることで神に結びついて救われる可能性が生じる]
 人々の前には、神との関連でイエスしかないので、イエスだけが重要になります。このために「イエス中心主義」といった表現が、適切かと思われます。
 これは、かなり特殊な立場です。キリスト教では、イエスは確かに重視されます。しかし、必ずしも、このような意昧での「イエス中心主義」であるのではありません。マルコ福音書やルカ福音書でも、イエスは重要です。しかし、聖霊を与えられた実例として重要なのであって、聖霊を与えられる者は他にもいて、彼らはいわばイエスと同等です。(略)
[イエスが最初に聖霊を与えられたとするマルコとはちがい、ルカではヨハネについて最初に記述し、イエスが「最初の」者ではないように書かれている](略)
[マタイはイエスを唯一特別な存在としているが]人々にとって重要なのは、イエスが与える掟であって、イエスは、その掟を伝えた者でしかありません。
 またパウロの十字架の神学では、イエスの十字架刑が重要です。しかし、本当に意味があるのは、人々にとっての十字架刑の効果であって、十字架の神学の考え方が成立して、救いが実現するとしても、イエスの十字架刑はそのための不可欠の出来事だったというだけです。十字架刑という出来事における役割を果たしたら、イエスのなすべき業は終了です。重要なのは、神との関係が実現することです。

アブラハムをめぐる祝福」の構造

[ソロモン王時代に]王国が拡大して、国のメンバーに、「十二部族」出身でない者が加わるようになった。(略)
 新しい者たちは、政治的・軍事的には、非征服者・敗北者たちであり、一段劣った位置づけであるべきである。しかし彼らが単純にヤーヴェを崇拝するようになると、「神の前での平等」といったことから、十二部族出身の者たちと、新しい者たちとが、平等になってしまう。
 この問題を解決するために、神学的思考が働いて、その結果として生じたのが「アブラハムをめぐる祝福」の構造である。
 アブラハムは、族長であって、十二部族の祖先である。アブラハムの子がイサク、イサクの子がヤコブ、そしてヤコブの十二人の子が、十二部族のそれぞれの祖先だということになっている。(略)
[無条件で神に祝福される「十二部族」とは違って、新しい者たちは「十二部族」を祝福する条件をクリアしてようやく神から祝福される]
今風に、有体に言うならば、十二部族出身の者が「一級国民」、非十二部族出身の者が「二級国民」にされているということになります。(略)
[やがて王国は分裂消滅]長い時間がたつうちに、十二部族出身なのか、非十二部族出身なのか、といったことは、事実上、意味が薄れてしまうということになって、「アブラハムをめぐる祝福」の構造の当初の目論見の意義も、薄れてしまったと考えてよいかと思われます。

ヨハネ福音書の問題点

 「神」「イエス」「この世の人々」といった項目についてのヨハネ福音書の考え方はきわめて図式的で、一度了解してしまうと、たいへん確固としたもののような印象を与えます。(略)
神の側に属したい人々、そしてイエスを「受け入れる」「肯定する」という方向に対してやぶさかでない人々にとって、ヨハネ福音書は、自分の態度が価値あるものだと繰り返し確かめてくれるような物語になっています。
 しかしヨハネ福音書では、この図式ばかりが強調されていて、人間の毎日の複雑な生活の中で「イエスを受け入れている」とは具体的にどのようなことなのかについての指針が、あまりに貧弱です。(略)イエスおよび神を拒否する者たちと自分たちは違うのだということは、理屈としてははっきりしています。しかし現実の日々の生活では、他の者たちと自分たちの生活のあり方がほとんど同じようで、本質的に違うところがないかのようなのです。
[そのためヨハネ福音書心酔者たちはセクト化する傾向がある]
(略)
 神は、イエスをこの世に送るということしかしていないということになっていますが、神は他にもさまざまな介入をし得るし、新約聖書の他の文書を見ただけでも、実際にさまざまな介入をしています。そのような神の可能性、神の自由を、未然に封じ込めるような立場になっています。

「はじめに言葉ありき」

[ヨハネ冒頭の言葉を引用してキリスト教全体を論じた日本の知識人がいたが]
これはいくら何でも、乱暴です。「はじめに言葉ありき」「はじめにロゴスがあった」は、新約聖書の中にいろいろとある文書の一つでしかないヨハネ福音書の立場の一端を示す文句で、新約聖書全体を代表するものではなく、ましてやキリスト教全体を代表するものでもありません。