誰がイタリア・ルネッサンスを

ルネッサンスとくればイタリアと決定付けたのは誰か、その動機はetc。
以前に読んだ本なのだが、

中世とは何か

中世とは何か

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例のコレで
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ルネッサンスの区切りについて興味を持って読み直してみました。
ブルクハルトによる亀裂

美術・文明史家で、ニーチェの友人であり、ギリシアをこよなく愛したヤコブ・ブルクハルトは、歴史上初めて、今もわれわれを縛りつづけている時代区分を定着させました。(略)[十五世紀の]イタリア美術に熱狂しながら、彼は断絶論を唱えます。この人物こそが、大文字の<ルネッサンス>を発明し、〈中世〉から切り離し、きっぱりとした境界をそこに設けるのです。(略)この時代はそれまではっきりとした境界や日付を与えられていたわけではないのです。彼の『イタリア・ルネッサンスの文化』は偉大な本にはちがいないのですが、決定的な亀裂を作り出してしまいます。(略)
[「最近」を意味しただけの「近代」が進歩・最先端を意味するようになる]

なぜイタリアだったか

イタリアは確かに華々しく、しばしば文化的に進んでもいましたが、しかし政治上の進歩について言えば非常に遅れていたこともまた事実なのです。このことによって彼はヨーロッパ人の歴史認識を誤らせ、これが中世観として定着してしまうのです。(略)
 このブルクハルトの歴史観は、もちろん十九世紀におけるゲルマン文化の期待に応じたものです。分割されてなお偉大なるギリシア、細分化されてなお偉大なるイタリアは、偉大なるドイツ、分割を乗りこえプロイセンからオーストリアにかけて広がる、新たなローマ、新たなアテネとなるべきドイツの到来を告げているというわけです。神聖ローマ帝国の消滅は1806年のことで、ブルクハルトの仕事に先立つことわずか半世紀にすぎないということを忘れないようにしましょう。ブルクハルトはドイツを、ヨーロッパを南へと押し広げ、そこにまったく釣り合いを欠いたノスタルジーを吹きこむのです。
(略)
[熱狂的な起源探し、国民創建、優越性のお墨付きの探求](略)
ついには多くの人々が、ルネッサンスをもって紀元ゼロ年とするにいたります。
(略)
それぞれの国民が、いまや自分こそが新たなるイタリアである、近代の最高峰であると主張します。

476〜1492という区切りは19世紀になってからの新しいもの。

1453年東ローマ帝国の終わりがあり、そこから始まるのが……、ルネッサンスというわけですよ。ビザンティン帝国の崩壊は、実際ギリシア文化を吸収した学者を何人もヨーロッパに向かわせます。彼らがわれわれにギリシアをもたらし、われわれはその後継者となります。してやったりというわけですね。こうして歴史の証人となったことで、中世の意義は薄れます。近代人は中世の聖職者たちに頼ることなくギリシアを直接受容できるのであり、そもそもギリシア文化はそれまでほとんど実践されていなかったのです。このときギリシアは古代の中の古代として現れるのです。
(略)
中世はまず第一にラテン語の文化でした。ですからラテン文化というのは、とりわけいわゆる「教会」ラテン語というものは、田舎っぽく野暮なイメージがあるのです。
(略)
中世の学問に糧を与えていた作家たちの大半、とりわけ教父たちは読むに及ばずとされるのです。これに対し、人文主義者たちによって名誉が回復されたギリシア語は、上品で、繊細で、大胆だとされます。一方には司祭のおぼつかない口調で読まれる怪しげなラテン語があり、もう一方には自由な精神が用いる貴族的なギリシア語がある……。

複数のルネッサンス

パノフスキーの仕事『西洋美術におけるルネッサンスと再生』(1960)以来、すべての歴史家はただ一つのルネッサンスではなく複数のルネッサンスが存在すること、そして「再生」の論理そのものが中世史と不可分の関係にあることを認めているのです。たび重なる再生、たび重なる改革という考えかたを採用することなしに、中世を理解することは不可能でしょうね。

12世紀ルネッサンス

古典ギリシア文化はまだ当分の間知られないままです。目につく例外はアリストテレスで、12世紀に部分的に再発見されます。アラブ人経由のアリストテレスの大々的再発見は13世紀のことで、ラテン語訳によっていました。

グローバリゼーションvsフランチェスコ

フランチェスコは最近人々が「経済的おぞましさ」と名づけたものに逆らうのですが、彼のやりかたには今のグローバリゼーションに反対する人々には見られないような厳格さと知性があります。というのも彼はただ拒絶するだけではなく、自問するのです。彼自身は清貧を選びましたが、商人たちの偽りなき誠実さと信仰心を問題にすることはありません。金銭を前にするときも、彼はあらゆる領域で行っている原則を守ります。つまり自分で決めた規則は自分自身と同志たちにしか強制しないというものです。この規則を社会全体に広げることはありません。彼はその使命をまっとうします。彼の言うことを聞き、そこから結論を引き出すか否かは人々の自由に任されるのです。
(略)
 フランチェスコは権力の行使を嫌っていて、そもそも修道会の設立にも大いに迷ったほどでした。幸福な清貧、天地創造に対する賞賛と感嘆の念のほかには、彼はいかなる企図ももってはいません。彼にはユートピアもありませんし、偉大なる夕べや完全な社会に対する千年至福説めいた期待もありません。フランチェスコによれば、フランシスコ会の使命とは支配することではありません。彼らは、幸福感の高まりをうながす誘因なのであり、ある満たされない気持ちを絶えず証し立てることによって、富裕な者たちや学者たちに対し必然的にその義務を思い起こさせるのです。

許容可能な富

富者はしたがって、不安と慈善の気持ちから、死後のための財産を煉獄の中につぎこみます。中世の重要な発明である煉獄は、罪にまみれた魂が天国に行けるのを待ちながら、つまり地獄を免れながら、浄化と償いの試練に絶えるための場所です。いうなればこのとき、許容可能な富という概念が明確化するのです。一時期、聖アウグスティヌスの精神のもとに「正当な戦争」を定義しようとした人々がいたのとまったく同様に、「正当な価格」についての了解が成り立つというわけです。