ノーホエア・マンで中原昌也

アレクサンダル・ヘモン『ノーホエア・マン』からの引用で中原昌也っぽくなるかという試み、のはずだったのだが、いまいち微妙な感じ、何故だろう。

ノーホエア・マン

ノーホエア・マン


「死ぬ行為または事実。生命の終わり。植物または動物の生命機能の不可逆的停止」
灰色の髪をビニールで覆った老女が、急な痛みが体を貫いたかのように、突然にやりと笑った。
「かなりひどいね」
「たしかに」
「見ていてまったく気もちいいというのではないです」
「怪物だわ」
「怪物だな」
「子どものころ、私には頭の大きい友だちがいた」
「ほかの子どもは大きな頭をからかって、太い棒で頭を蹴ったりした。私はとても悲しかった」
「今日は過去完了時制を勉強しています」
「私は過去完了を学ばなければいけない」
ナチスはそういう人を全部殺した」
「彼女たちはしばしば――同じ夢を――見た。同じ痛みも感じたが、これはお、どろく――驚くことでは――ない。なぜなら彼女たちはいくつかのない、ぞう――内臓を――共有しているからだ。彼女たちはよく、痛みは均等にぶ、んさん――分散――され、ときには倍増されることもあると言っていた」
「気づかない人が多いのですが、わたしたちは片方が死ねば、やがてもう片方も死ぬのです」
「気味悪いわね」
「たしかに陰鬱だな」

 そして部屋のドアがすさまじい音とともに破られ、顔に塗料を塗ったKGBの男たちがなだれこんできた。私は力を抜いて海の上をすべり、ウクライナの森に隠れた。ニワトリの頭を噛みちぎり、首からじかに血を飲んだ。列車に飛び乗り、警官を絞殺し、国境を越え、さらに国境を越えた。
秋が近かった。
鉱石のような褐色の巨大な男たちが、質素なコンクリートの階段の上にそびえ立ち、演説者は目に涙を浮かべ、手には白黒写真を握りしめていた。私の心はすばらしく冴え、周囲のありとあらゆるものを感じた。トランジスタラジオの甲高い音、低い音。真正面にいる男の段状の脂肪に覆われた毛深い首。警官が持っているアザラシ皮の警棒は、何度も血にまみれているにちがいない。煙草を吸いながらわれわれを見ているKGBの縞模様のシャツ。


 ひさしぶりの手紙です。僕は死んだと思っていますか。でも、違います。僕は少し悲しいです。馬のことをずっと考えている。とても君に話したい。その馬は大きな窓の前に立って鏡みたいに自分を見ていた。そのとき砲弾が爆発して、窓が割れて、馬は逃げた。美しい馬だった。ヤスミンのひたいに赤いピリオドができて、一秒したら頭がザクロみたいに爆発した。すごくすぐに死んだので、僕はなにも言えなかった。悪いものをたくさん見た。うまく眠れない。狙撃手の男はいいと思って、愛はいいと思って、毎日見ていた。狙撃手は殺すこともできたけれども、愛はいいと思った。女は美人だった。あのころはみんな頭が変だった。砲弾が爆発すると、あたりじゅう脳みそと内臓と脊髄と、死んだ子どもと死んだ女の小さな肉のかけらがちらばる。僕らはあの砂漠に行って戦わなければならなかった。怪我人や死人を運びました。二時間たつとモルヒネが切れてまた痛みだして、男は子豚みたいに暴れまわって、五分後にその男は死ぬかもしれないけれども、僕らは知らない。頭が変になりました。男は腹に穴が開いていて、内臓がこぼれないように手で押さえていた。男はずっと悲鳴を上げて、僕らはずっと走った。
  
床に人間の体がうつぶせに倒れて並び、何人かはすでに死んでいて、壁には血や毛髪が飛び散り、脳みそが絨毯の上で泡だっている。大理石のような灰色の顔の静かな男がいる。人々は震えながらその男が後頭部を打ち抜くのを待っており、最後には墓標のない墓に埋められる定めであることを知っている。弾丸に驚いて彼らは痙攣し、やがて死の弛緩が訪れ、血が絨毯を静かに濡らす。また弾ける音が聞こえた。これで少なくとも六回目だ。

俺のなわばりに入るな。ここは外国人のいやなにおいがする。山のふもとには転げ落ちて血を流している聖人。死んで腐った犬を引きずっている父。毛深い胸の三歳児の群れ。

男の指にこめられた不穏な決意を腕に感じた。彼の親指はホットドッグを切ったようなグロテスクな残痕で、見つめすぎないように気をつけた。ありとあらゆるものを拷問のような眠れない夜が覆っていた。男は背が低くだめになったイーストのようなにおいを発し、湿った緑色の瞳をしていた。拳銃がこめかみに突きつけられ、人差し指がスローモーションで引き金を引くところを想像した――大きく弾ける音がして、脳が全身に飛び散り、血と粘液がしたたり落ちる。女はすっかり息を吐きつくして下を向き、ふたりの男が消えるのを待っているかのように、いつまでも目を上げなかった。


「こんにちは、グリーンピースから参りました」
「俺、ハンターなんだ」男は言った。「動物を殺すのが楽しいんだよ」
グリーンピースの支持者にも大勢ハンターがいます」
「だが、俺は違う」男は言った。「さっさと俺の家の土地から出ていってくれ」
「そのスリッパ、すてきですね」彼女は言った。
「ありがとよ。さあ、とっとと俺の土地から出ていけ」


彼の欲望に、世界は決して応えてくれないかもしれない――その可能性が彼を苦しめた。預言者がいた、と壁のパネルに書かれていた。ポスターには赤毛の美人が描かれ、ゴージャスな厚いくちびるを突き出して、殺人罪で指名手配!不注意なおしゃべりが人命を奪う!と書かれていた。預言者がその後どうなったのかが気になった。吊るし首にされたのだろうか。白衣に身を包んでほほえむ大勢の看護婦の写真があった。ビー王遊びをする少年たちと、「みんなしあわせかい」と書かれた劇場の看板が写っている写真があった。ふたりの若い女性が慎み深く足を閉じ、壁のように積み上げられた実験用マウスの檻の前にいた。

彼らは錠剤のようにチーズバーガーを飲みこんだ。
私の暴力は夢。
外でリスが鳴いている。彼らが私に話しかけているのではないと、どうしてわかるだろう。彼らの言葉を知らないのに。
耳をぞくぞくさせるあの音は?
谷底で太鼓のように鳴りつづけている。
兵隊たちがやってくる。



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