分配的正義の歴史 道徳的な言葉は非人間的

出だしが地味なので、後半にはこんな話もあるよと。
「道徳的な言葉は非人間的である、とマルクスは考えたのである」
「道徳的規範が我々自身から遠く隔たっている場合、それは支配のための簡単な道具にされる」
『「人間らしくする」ことや「社会化する」ことは、「より公平に」することや「公正に」することではない』



分配的正義の歴史
作者: サミュエル・フライシャッカー 中井大介
メーカー/出版社: 晃洋書房
発売日: 2017/04/01

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救貧法

近代の分配的正義という概念が、前近代の救貧法に内在していると見なされる場合がある。
(略)
16世紀中頃までに国家は、少なくとも名目上貧困救済の権限を教会からもぎ取るようになった。
(略)
1601年のイギリス救貧法では(略)貧者への援助の要件として、働くかわりに援助を求める労働可能な人々に対する厳しい罰則が添えられているのは、小さな問題ではない。少なくとも救貧法は、貧者を助けようとするのと同じくらい、貧者を支配しようとする試みであった。それは教会を支配しようとする試みでもあった。これらの処置が宗教改革を取り巻く闘争の最中で発生したのは決して偶然ではなく(略)
貧困救済が宗教的権利から市民権へと移行していくうえでの、重要な一歩だったのである。
(略)
子どもたちや労働可能な人間を働かせるために教区委員に権限が与えられた。イングランドとその他の場所において、そのような法律は「値する」貧者と「値しない」貧者を区別し、働くかわりに物乞いするという罪を犯した人間に厳しい罰則を課すという、初期の教会の政策を引き継いだのであった。さらに国家は、正義よりも慈善という美徳に訴えかけることで、このような政策を正当化し続けた。
(略)
T・H・マーシャルが述べているように、イングランドにおいて「貧民」は、「権利を授けられた人間ではなく権利を剥奪された人間」であると理解されていた。1834年の新救貧法によって、自由の放棄が貧民救済の代償とされたとき、それはあまりに露骨であったが、ようやく1930年の救貧法によって、貧者を救済するという義務は、「貧者自身ではなく公共が負う」ものとして受け止められた。
(略)
 私の議論が正しいとすれば、前近代の慣行や著作のなかにそのような理念が存在していたことを暗示させるものなど、ほとんど存在しないことになる。貧しい人々は貧しいままであるのが相応しいというのが、最も有力な――ほとんど疑いようのない――見解であった。人間は貧困から抜け出す権利を持ち合わせているのだという理念を見出すためには、我々は18世紀に目を向けなければならない。

貧者に対する態度の大変貌

 18世紀が目撃することになったのは、貧者に対する態度の大変貌であった。(略)
イマニュエル・カントは、すべての人間が「能力・勤勉・幸運」によって社会的地位を獲得できるはずだと主張できるようになり、フランスとアメリカ中の人々は、社会の流動性を積極的善として祝福するようになった。同世紀の中頃において、多くのイギリスの著述家たちは、「人間のくずの最たる者ども」が「彼らの属するものよりずっと上の地位」を熱望していることに対して、さらには「異なる階級の人々」が交じり合ってしまう危険性があることに対して、陰気に警鐘を鳴らしていた。だが同世紀の未までに、階級を区別していたこのような痕跡の多くが、事実上消滅することになった。
(略)
18世紀の末までに、アメリカでは家系に誇りをもつ人々を嘲笑することが一般的になった。
(略)
 一連の科学的・政治的発展と並行した、このような態度の変化を通じて、貧困の撲滅が可能だという見通しが立つようになり、近代の分配的正義という概念は、ここから生まれることになった。18世紀末までに、国家こそは人々を貧困から救い出すことができる存在であり、そうすべき存在なのだ。貧困に相応しい者など誰も存在しないし、誰も貧しくなる必要などないのだから、財を分配ないし再分配することは、少なくとも部分的には国家の仕事なのだ、という信条が明瞭に見出されるようになる。

アダム・スミス

その貧しい労働者は、土壌と季節に悪戦苦闘するという不快を担い、常に過酷な天候と最も厳しい労働に晒される。(略)彼は全人類の荷をその肩に背負い、その荷に堪えきれず、その重圧によって埋められ、そしてこの世の最も低い部分へと押しやられる。
貧困によって貧者の私生活に加えられる危害にはじめて幅広い関心を示したのは、ルソーではなくスミスであった。(略)この文章を引用した理由の一つは、スミスを近代的な分配的正義に敵対する人物と見なす人々に反論するためであった。
(略)
我々の目から見た場合に、スミスの積極的な提案が物足りなく感じられるとすれば、次のことを思い起こす必要がある。貧しい者たちは、貧しいままにおかれる必要があり、でなければ働かなくなってしまうだろう。貧しい者たちは、そもそも怠惰な人間であり、必要性だけが飲酒や放蕩によって彼らが無駄な時間を費やすのを防ぐだろう。スミスが著述活動を行っていたのは、このような考え方が一般的な見識であった時代なのである。
(略)
スミスは、「貧困問題」とは何であるのかという我々の考え方を変化させた。彼の先人たちの間で「貧困問題」は、主に低い階級の人々の悪徳と犯罪行為にいかに対処すべきか、という問題であった。スミス以前では、世界は貧民階級なしで済ますべきだとか、それが可能なのだとか考える人は稀であった。18世紀後半に至るまで、大半のキリスト教徒たちは、次のように信じていた。真に美徳に満ちた人々が頂点で富と権力を手にする地位につき、「貧しく下等な群衆」が底辺を占める社会の階層組織は、神によって定められたのだと。
(略)
貧者は暮らし向きのよい人々よりも劣っているという考え方を、スミスは辛辣に批判する。貧者が有する美徳と技能を軽蔑的に描写しようとする虚栄心を、スミスは『国富論』で繰り返し攻撃する。彼は、他の全員と同様に本来的な能力を備えた人間として貧者を描き出しており、「異なる人々の間にある生まれつきの能力の差異は、実際に我々が認識しているよりもはるかに小さい」と述べている。

マルクス

 富者と貧者の区別を非難するうえで、カール・マルクスは間違いなくこれまでに最も影響力のある人物といえる。
(略)
しかし、マルクスは分配的正義を擁護したと見なすのは間違いである。彼は、そのような用語を用いて資本主義への批判を展開したのではない。
(略)
 個人の権利という考え方を批判した『ユダヤ人問題によせて』、権利への請願を「ブルジョア的表明」で「イデオロギー的に馬鹿げたこと」だと述べた『ゴータ綱領批判』、この二つの著作でマルクスは、正義が社会主義の思想に適合しないツールであるということを最も明瞭に打ち出している。マルクスは後者において、財の再分配への社会民主主義的な要求についても拒絶しており、実際のところ「何よりも分配を変更させるものとして社会主義を表明すること」を拒絶したのであった。
(略)
経済的分配を生産から引き離して扱うのは間違いである、とマルクスは考えている。第一に、分配されるべき最も重要な財は生産手段である。彼にいわせれば、分配を純粋に「生産物の分配」として扱うのは、経済活動に関する浅薄な見解の露呈に他ならない。食料、衣服、住居が分配される以前に、まずは、土地、用具、その他の資本財が分配されなければならない。また、社会における勢力均衡の大部分は、消費財の分配でなく、これら生産要素の分配によって決定される。土地や資本財を所有する人々は、労働によって生きる人間において不足する消費財の分配に支配力をもつことになるだろう。だから「分配構造は生産構造によって完全に決定される」、というわけである。
(略)
社会主義の目標は、分配だけでなく生産についても人間らしくすることである――あるいは両者は分離不可能であるため、経済活動を人間らしくすることである。
 「人間らしくする」ことや「社会化する」こと(略)は、「より公平に」することや「公正に」することではない。
(略)
マルクス自身は、いかなる意味でも「正義」の唱導者ではなかった。彼は、伝統的な正義の考え方で焦点となる諸権利を拒否したのであり、共産主義にいっそう適した正義という考え方のために、新たな意味を展開させようとはしなかった。実際のところ、彼は道徳的な用語をほとんど嫌っていた。道徳的な言葉は非人間的である、とマルクスは考えたのである。(略)
技芸、科学、そして最も基本的な日々の活動を我々が実行する方法が、不健全な社会制度によって腐敗させられうるのだとすれば、道徳も同じように腐敗させられうることになる。またマルクスは、このような方法によってすべての道徳は腐敗する、と信じているようである。なぜなら規範というものは、我々の前に立ちはだかる神や同様の超自然的存在ないし原理によって裏書された異質なものとして立ち現れる場合に限って、「道徳的」というラベルを受け取るのだからと。カントが自由のうちに見出した非自然主義的な性質を踏まえれば、カントによる自由を通じた道徳の正当化でさえも、マルクスからすれば道徳的規範を我々から離れた遠くに追いやるものなのである。道徳的規範が我々自身から遠く隔たっている場合、それは支配のための簡単な道具にされる。そして互いを叩きのめすために、他の人々に望むことをするように強要したりおだてたりするために、我々は道徳を用いがちである。適切に人間らしさを付与された一連の社会的規範というものは、外部から我々のもとに現れるのではなく、我々自身の規範として我々が――隣人たちと一緒になって――創造し、我々が日々形成するものとして、我々の前に立ち現れることになるのだろう。
 正義は――道徳において特徴的なように――、疎外された、驚異的な、他律的な様相を呈する。さらに正義は、個人主義のもつ疎外化する力を促進する。だから正義は、理想的社会では存在しえないのであろう。

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