ニュースクール――20世紀アメリカのしなやかな反骨者たち

ニュースクール――20世紀アメリカのしなやかな反骨者たち

ニュースクール――20世紀アメリカのしなやかな反骨者たち

 

 「ニュースクール」創設

第一次大戦が休戦状態に入ったばかりで、銃火が随所で続いていた1919年初め(略)マンハッタン島の一角チェルシーに、「ニュースクール」と称する異形の学校が創設された。開学に当たっての広告には、「ジャーナリズム、地方行政、労働団体さらには社会科学研究組織に加わろうとする」市民的意欲のあるものであれば、年齢を問わない。他大学の学生でも自由に参加できると書かれた学校である。
 その学校は後に大学となる。しかしいまは冬芽のようなものなので、単に学校もしくは学院と呼んでおこう。(略)
[31年にグリニッチ・ヴィレッジに移転]
ウィーン生まれの気鋭の建築家ジョセフ・アーバンの設計による七階建ての新校舎ビルは、オフィス、教室、図書室、オーディトリアム(講堂)の他に、ダンス・演劇の実技が可能なスタジオをも備え、ニューヨーク・モダンを代表する機能的建築物の一つとして今日にまで残る。

マーロン・ブランド

 大恐慌の下、中西部の高等学校を放校になるまでの無頼の少年期をへて、ニューヨークに出た19歳のブランドが、演劇を初めて学んだのが、ニュースクールであった。43年秋、彼は、そこでドイツからの亡命者エルヴィン・ピスカートアが主宰する演劇セミナーに登録し、ステラ・アドラーの演技指導をうけて俳優としての道を歩み始めた。大仰な所作を排し、自然で創造的な身体表現を強調したアドラーとの出会いは、ブランドにとり、人生の再出発というより、発見そのものに等しかったという。その四年後、彼はブロードウェイで上演される「欲望という名の電車」において鮮烈なデビューを飾り、スターダムヘと駆け上がっていった。
 じつのところニュースクールでブランドを教えた俳優アドラーも、抗う人であった。自伝の中でブランドは、次のように彼女を素描する。私が出会ったときのステラは41歳、ブロンドの髪が印象的な美人であり並外れた才能の人であったが、他方で常に鬱々とした思いをうちに秘めていた。長きにわたって彼女は、200以上もの舞台に立ったが、同世代の多くのユダヤ人俳優と同様、陰険な仕打ちに晒され続けてきた。理不尽な理由で役柄を奪われる、耐え難い差別であった。ステラはその差別のために自身の夢を叶えられなかったが、われわれにはすばらしい財産を伝えてくれた。彼女はつねにリアルであれと語り、また「自らの感情に基づかない俳優の演技を否定した」。そのリアリズムこそが、20世紀半ば以降のアメリカ演劇の変革を促した、と。

複雑なナショナリズム

世界大戦は、半年たった15年初め頃にはすでに、アメリカ社会に激しい衝撃を与え始めていた。しかも皮肉なことに、大統領ウィルソンが続けた中立の政策は、その戦争の衝撃を結局政治的に制御できないまでに国内に拡大させ、17年初めには危機的な政治社会対立を呼び起こすまでとなっていた。
 とくに注意すべきは、表面化したその国内対立のなかに、世界戦争の危機をきっかけに合衆国内で始まった、従来とは異なるより強固な新しい政治社会秩序を求める、さながら危機をバネとした秩序形成の論理が突出していた点であった。広くみればそれらは、ヨーロッパの大戦が刺激したアメリカン・ナショナリズムの噴出過程とみなしてよかった。ただ合衆国が特殊であったのは、そのナショナリズムが一つに収斂せず、相互に激しくぶつかり合う形の複数の水脈を持った点にあった。
(略)
[1900-14年までの移民は1335万人]
しかも彼らは、それまでのアングロサクソン中心の社会からすれば完全に差異化された、ロシア帝国ポーランドなどを含む)、オーストリア・ハンガリー帝国少数民族、バルカン、さらにはイタリアといった、南東欧からの貧しい移民またその家族が多かった
(略)
移民の多くが定住したニューヨーク、シカゴなどの大都市、さらには中規模の工業都市をみれば、そこには、合衆国国民とは何かさえ不分明なまでに多様で分化した、民族集団ごとの社会が展開した。俯瞰的にいえば20世紀初めの合衆国における工業化と都市化とは、大量の移民を海外からよびこみ、国籍を問わず労働力にたえず組み込んでいくという、国民国家の政治論理からみればほとんど考えがたい広域的な労働の移動、国際的経済社会運動を基盤とするものであった。もちろん世紀初頭から、その余りに流動的な構造に修正を加える国民国家論理が拡大し、移民制限論は徐々に力を強めつつあった。しかし、14年の大戦が勃発するまでは、制限の議論はあくまで周辺的運動に留まっていた。
[世界大戦が]そうした曖昧な状況のなかに突然、国民国家ナショナリズムの論理が暴力的なまでの勢いで割り込み、新たな社会基盤を作ろうとしたことによった。
(略)
[親イギリス的傾向が強まったが]
 なかでも早い時期に戦時熱に近いものを煽ろうとしたのが、かつての大統領であり、「純粋アメリカニズム(One‐hundred Percent Americanism)を説いて協商国側にたっての参戦を主張した、セオドア・ローズヴェルトであった。「純粋アメリカニズム」の論理の赴くところは、当然合衆国内のドイツ的なるものを敵とした。占領地ベルギーでの蛮行などドイツ軍国主義が宣伝され、ドイツ系住民、とくに入国して間もない移民は帝政ドイツのスパイとなる可能性があるかのごとく、あるいは産業活動に対してサボタージュをなすかのごとき、風評が流布した。リンチ事件まで伴うその反ドイツ主義は、16年半ばには一部ドイツ系移民の強制収容さえ主張するまでに尖鋭化した。
 しかし、対立と抗争は単に反ドイツだけでは済まなかった。(略)
アイルランド系住民は、逆に反イギリス色を鮮明にし、アイルランド民族運動への支援を語った。問題をさらに複雑にしたのは、1915年、すでに大都市住民の半ばを占めていた東欧系ユダヤ人、イタリア系、ポーランド系、ボスニア系などの新移民住民もが、そのナショナリズムの磁力に巻き込まれていた事実であった。ロシア系とされたユダヤ人は、帝政ドイツ軍がロシア領土に進軍したとき、密かにドイツに共感を寄せたといわれる。ポーランド糸、またボスニア系においても、それぞれの民族集団指導部からは母国の独立を支援する動きが表面化した。ロンドンにおける亡命民族運動の動きが彼らを刺激した。
 しかし、移民系住民が発するそうした個別の民族的ナショナリズムは、すでに拡大の勢いにある最大の力、親イギリス系の巨大なナショナリズムと随所でぶつからざるをえなかった。
(略)
 アメリカ以外の母国に帰属心を残す住民を、放置してはならない。帰属が怪しい大都市の移民に対しては、アメリカ社会は徹底した英語教育を義務と課し、さらに星条旗への忠誠を誓わせる政治社会教育を行わなければならない。歴史家ジョン・ハイアムが名著『アメリカに移民した異邦人たち』で鮮やかに描いた
(略)
「なんですって。あなたはアメリカ的生活への参加を拒否したいとご希望なの」(略)
[アメリカ化運動を担う貴婦人らは「来週来てください」と応対した貧しいボヘミア系移民街の主婦を]激しくなじった。慌てた女性は次のように応答したという。「そうではありません。私は喜んでアメリカ化教育を受けることを希望しています。……ただ今は、私以外にこの家に誰もいないのです。男の子たちはボランティアで戦争協力の仕事に参加しています。夫は兵器工場で働いている最中なのです。そして娘たちは「自由公債」の販売に協力しています。だからどうか怒らないでほしいのです、来週来てほしいと申し上げているだけなのです」。
 この逸話は、第一次大戦期にアメリカの主要都市に広がったアメリカ化運動の強引さを、少なからず揶揄してもいる。

アメリカ化運動と弾圧の拡大

 [1917年]4月以降、「全国アメリカ化委員会」など簇生する「アメリカ化」運動団体が各地で、忠誠を求める押しつけの教化運動を拡大した。英語教育の強要と、国旗への忠誠を求めることが当面の要点であった。その一方で、国内に向けての反ドイツ戦線は、怪しいドイツ系移民を敵性外国人として収容する動きを司法省に促し、18年末までには6300人が拘束されていくことになる。ドイツ語読みの個人名、食品名また街路名が英語読みに変えられ、各州の大学、高等学校では法の有無に拘わらずドイツ語教育が禁止された。ドイツ語読みであったザウアークラウト(酢漬けキャベツ)を「自由キャベツ」と改称した動きは、後々まで語られる大戦の異常さを示す一事件であった。ドイツ系市民のリンチ事件さえ報じられた。
(略)
戦時の愛国運動が最大の暴力性を発揮したのは、反戦主義者あるいはラディカルな社会運動にターゲットを絞ったときであった。
(略)
最も衝撃的な事件は、かつて三たびアメリカ社会党候補として大統領選挙に出馬し(直近の12年選挙では90万票強を得ていた)、清廉な人柄から党外にも多くの共感者を持つユージン・デブズの逮捕であった。すでに党の一線を退いていたその老政治家への訴追根拠は、18年6月、インディアナ州カントーンで行った言論の自由を弾圧する政府批判の演説のみであった。デブズはその演説によって恩赦までじつに二年半拘束され、大戦の終了を独房で迎えた。社会党指導者を各地で起訴拘束した司法省地方検事の一連の動きは、防諜法がいう戦争妨害を融通無碍に拡大解釈したものとして後年、法曹界からさえ厳しく批判される、文字通りの弾圧であった。

マッカーシズムの構造

今日の研究は、世論に広がるそうした陰謀を恐れる論理を、巧みに利用する(あるいは元々そのような種をまいた)権カエリートたちの政治的思惑が、マッカーシズムの拡大に強い影響を及ぼした事実にも言及している。そこで剔出される権力グループは、拡大するマッカーシズムの中央に位置し、世論の保守化を誘導しようとした。彼らの行動の背後には、共産党批判さらに容共批判の論理を繰り返すことで、じつはニューディール的政治改革や社会改革までをも押し潰すという国内保守の思惑が、深く纏わりついていたというのである。
(略)
ニューディールの進展を阻止し、最終的に政権の奪還を狙う共和党がその最大勢力の一つであった。しかし、それと連携するかたちで台頭したのが、30年代後半からニューディールの労働政策、さらには前章で述べた人種政策に不満を抱き、北部民主党都市派との軋轢を深めていた南部諸州の民主党保守派であった。
(略)
 大戦後に常設化され、その年に辣腕のリチャード・ニクソン(当時、新人共和党下院議員)が加わって活性化した連邦下院非米活動委員会が、ハリウッドの映画制作者数十名を喚問し、噂される共産党員としての経歴の真偽、あるいは他の党員の氏名を明かせと迫る公聴会を開始したのは、47年10月であった。(略)いわゆる「ハリウッド・テン」裁判へと発展する公聴会である。喚問が、ニクソンの出身州から始まったことが、新しい動きの政治的性格を暗示する。
(略)
荒々しい尋問が続く委員会では、現また前共産党員であること、あるいは容共的団体や人物であること、さらには改革的リベラルといった違いまでもほとんど無視する、つるし上げ的議論が展開した。議会側「証人」と称する人物の暴露的発言が、対象の範囲をさらに広げていく役割を果たしてもいた。
 いずれにせよその種の喚問という手法を通して、下院非米活動委員会は以後、映画界からターゲットを移し、赤がかった知識人が多いとされた大学界、公務員、また49年の中華人民共和国成立を機としては、アジア関係学者また出版機関にまで狙いをかえて触手を伸ばした。51年7月から52年末にかけて、著名な東洋学者オーウェンラティモアが、ソ連のスパイの廉で繰り返し指弾された事件へと至る、おどろおどろしい過程である。
 世論が急速に萎縮し、変形し始めたのは、49年から50年初めであった。その間に、連邦、州を問わず公務員に対して、さらに民間機関でも、「忠誠審査」と呼ばれる反共の誓約を求める規制が広がっていた。公式には「不忠誠」者をあぶり出すためとされたが、その実、かつての共産党との関係が問われたばかりか、ソ連社会主義を明確に否定し、合衆国に忠誠を誓うことが審査通過の要件とされた。また、議会調査委員会では、喚問状送付の可能性や、身辺へのFBI調査の可能性など、労働運動・社会運動の関係者に恐怖とも呼べる心理的重圧を加える動きが継続した。その重圧の中で他者の密告を恐れ、周囲を気にする重苦しい気運が拡大していったことは、先に引いたゲルダ・ラーナーの回想が語る通りである。
 50年、反共の動きは一つの核心にまで向かった。朝鮮戦争が勃発し戦時体制へと突入するとともに、その年の9月、強権的であることを誇示するマッカラン国内治安法が連邦議会で成立した時点である。「共産党組織」と目されるものに対して、連邦司法省が強制登録義務を課し、また「緊急時」には治安維持目的と称して拘束権限を持つとした法であった。
(略)
 47年以降の冷戦前期に、合衆国のあらかたの高等教育機関が軌を一にしたかのように、国内反共主義になびき、共産党ばかりか社会民主的と疑われる既存の人材さえも排除しかねない動きを強めた理由については、様々な社会要因が指摘されてきた。大戦期から大学が、研究費の一部として政府資金を大規模に利用しはじめた状況、また大戦後、GIプログラムなどを含めて、政府が学生援助に相当額の資金を提供しはじめた高等教育支援などが、間接的影響を持ったとされる。
(略)
あからさまな排除の陰で、騒動を事前に恐れる大学例が、通常であれば更新される任期切れ教員の契約を解除したり、教員採用において政治的傾向を斟酌する事例が、相当数発生したとされる。今日知られるのは、個人名を記載するブラックリストが大学間に横行したという事実である。
 事態の全貌は余りにも裾野が広かったことから、実のところ80年代半ば、大学とマッカーシズムとの関係を主題に被害者への幅広い聞き取り調査を行ったエレン・シュレッカーの研究が発表されるまで、全体の事実はおぼろげのままであった。
(略)
そうしたなかで、ほぼ例外的なまでに思想の自由を死守する立場を維持したのが、コロンビア大学を筆頭とする数校であったという。そしてニュースクールもそこに入る。第一次大戦期、コロンビアでなされたビアードらの闘いは、30年の後、貴重な経験としてその大学でまたニューヨークという地で、生かされたということか。

ハンナ・アーレント

「無形の大衆」を惹きつけたのは、民族共同体を謳う敵意と怨念に満ちた排他主義であり、それに基づく国家再興の論理であった。その限りではナチ運動は、ナショナリスティックであることを装った。
(略)
 しかし、アーレントはそうした追従する大衆の受け止め方に触れたあと、反転するかのように、運動の指導者は、決してナショナリスティックではなかったと断じた。第一次大戦とその後の混乱から台頭するモッブと呼ぶべき冒険的運動家たちが彼方に目指したのは、安定した国家ではなく、また統合された社会でもなかった。むしろ彼らは国家が究極的には無定型となるよう意識的に仕組み、自らのイデオロギー運動をその場で継続することを目的とした。
(略)
ナチ指導者をつき動かした行動の源泉は、ナショナリズムという国家創造の思想ではなく、それから限りなく離れていく、独自の「破壊の思想」であったとアーレントは言う。
 人類を「望ましいもの」と「生きる価値のないもの」とに選別してみる、極端なまでの人種主義思想が、彼らの「破壊」イデオロギーの核心にあった。第二次大戦中のユダヤ人絶滅へと向かう動きは、まさにその「生きる価値のないもの」というフィクションによる選別が生み出した、社会において余計なもの、「価値のない」人間の抹殺という巨大な人間廃棄の一環であった、と。
 アーレントは敷衍する。全体主義が本性をあらわにするのは、体制に反対するたしかな敵がもはやなくなった時であった。ナチスがそうであったように、共産主義権力の場合もそうである。(略)階級なき社会というフィクションを維持するために、クラーク(富農)などの「客観的な敵」を次々に生み出し、粛正し、強制収容所に送った。それも、フィクションとしてのイデオロギーが進める、自己破壊的と呼んでよい人間の廃棄である、と。