ジャズ・レディ・イン・ニューヨーク ブルーノート・レコードのファースト・レディからヴィレッジ・ヴァンガードの女主人へ

ジャズを聴く少女

 両親は音楽に関心も興味もありません。私はフランス人の書いたジャズの本を読み漁りました。ユーグ・パナシエとか、シャルル・デロネエのホット・ディスコグラフィーとか――。(略)

 私はレコード集めに熱中しました。ジャズも、ブルースも。ルイ・アームストロングデューク・エリントン。とりわけベッシー・スミスには心を動かされました。ベッシーは自分でも知らずに立派な男女同権運動をしていたと私は思います。時代の先を行っていたわね。

 ベニー・グッドマンにも本当に熱中しました。いつかはこういう男性と結婚したいと考えたものです。(略)彼の困ったような表情が大好きでした。彼のクラリネット演奏が他の何より大好きでした。彼の楽団も、トリオやカルテットのレコードも大好きでした。共演者にはライオネル・ハンプトンや、ジーン・クルーパ、テディ・ウィルソン、そしてチャーリー・クリスチャンがいました。

(略)

「おや、ご覧。アルフレッド・ライオンがいるよ。あれがミスター・ブルーノート・レコードだ」

 まあ。私はそちらに目を向けました。いい男でした。とても優雅な感じ、いい意味で。素敵な顔立ちでした。魅力的な鼻。美しい黒い髪。 小柄といえば小柄ね。私はいつだって結婚相手より長身なのです。

「紹介して下さる?」私は言いました。「ご挨拶したいの」(略)

ルフレッド・ライオンはドイツからやって来たのだとわかりました。ヒトラーが出現したから国を離れたのです。 アルフレッドは、ベルリンでいちばんお洒落で知的な界隈に住んでいました。ウンター・デン・リンデンです。(略)

フランシス・ウルフも一緒に居ました。(略)アルフレッドがやって来たのは一九三七年、フランクが一九三九年です。 ふたりは十代の頃からベルリンで友達付き合いしていました。フランクの家の方がずっと裕福で、つまりもっとブルジョアで、フランクの方が芸術好き、写真家として世に出ようとしていました。

(略)

「お会いできて光栄です。貴方のお作りになったレコード、大好きですの。本当に素晴らしいものばかり。あれ以上のレコード、他に聴いたことありませんわ」

(略)

 アルフレッドは一九四一年に招集されました。(略)「こちらに来ておくれ。そして結婚しよう」

 その通りにしました。つまり私は戦争花嫁です。

(略)

私はひとり、飛行機でテキサスに向かいました。(略)

テキサス州エルパソの兵舎!大きなテーブルに、私たちはテキサンの集団と一緒に座って食事しました。

(略)

私たちはアルフレッドが外地に送られるのを待っているだけでした。ところが(略)[タイピスト仕事で弱視が悪化]盲目に近くなってしまったのです。(略)名誉の除隊!

(略)

 ニューヨークに戻ると、フランクがブルーノートを守り続けていました。(略)

シャトルーズ・イエローとブルーの美しいレーベルがブルーと白に変わっていました。戦時中の物不足で、フランクはシャトルーズ・イエローのインクを手に入れられなかったのです。

ホット・クラブ

兄と私はジャズのレコードを買い集め始め、すっかりこの音楽の虜になりました。(略)

兄と私は近所の黒人の家を一軒一軒訪ねたものです。最高のレコードが見つかる場所でしたから。扉を叩いて、レコード一枚二十五セントで譲って下さいとお願いするのです。奥からレコードを出して来てくれました――アイダ・コックスやマ・レイニーのブルースとか、いろいろな種類の昔の素晴らしい音楽ばかり。ある時、兄はとても珍しいキング・オリヴァーのレコードを手に入れましたが、ずっと物置の中にあったものですから大きく欠けていたのです。兄は悲嘆しました。すると、そのレコードを渡して下さった方々がこう言うのです。「来週戻っておいで。かけらを探しておくから」そしてほんとうに探し出してくれました!ガラクタをかき分けて見つけてくれたのです。フィリップはかけらを接着剤でくっつけました。

 そして私たちは小さくて素敵なホット・クラブを作りました。ホット・クラブ・オブ・ニューアークは私たち十人少しの集まり。

(略)

[本部を置いた]ネイヴァーフッド・ハウスは黒人地区側でした。私たちはそこに集まって(略)ジャズについて新たに学んだことを皆と分かち合うのです。おぼえています。私の課題のひとつはベッシー・スミスでした。

(略)

 ホット・クラブ・オブ・ニューアークはジャム・セッションの開催を始めました。ネスヒとアーメットのアーティガン兄弟もやって来ました。後にアトランティック・レコードを運営するふたりです。

(略)

あの頃のジャズ・ファンは熱く結束していました。私たちはどのミュージシャンもひとりひとり、どんな人か知っていました。とても近くから、彼らのキャリアの進展を見守りました。

 子供の私が親しくお会いした唯一のジャズ・ジャイアントがジャボ・スミスです。彼がどれだけ立派な立派な才能の持ち主だったか、未だに多くの人が知りません。 ジャボ・スミスは一九二〇年代のシカゴで修行していたのです。ルイ・アームストロングの持つジャズ・トランペットの王座に挑戦するために。ええ、そんな風に物事は進みませんでしたけれど。でも、当時彼がブランズウィックに吹き込んだレコードを聴けば、ジャボ・スミスがどれだけ凄いアーティストだったかわかります。

ブルーノート・レコード

 アルフレッドは私を必要としていました。私たちはふたりともジャズという音楽を愛していましたし、アルフレッドは私と一緒にいられることをとても喜んでいました。私はタイプを習いました。帳簿はすべて私が付けました。宣伝広報活動なんて何やらわかりませんでしたけれど、これも私がやりました。

 毎日、私たちはオフィスに出かけて行きました――今や私たちのものなのです。部屋がふたつと、アルフレッドと私が一緒に使う机がひとつ。私のタイプライター。共用のファイル棚。私たちは座って、手紙を開封します。いくつか注文も来ていて、私たちは喜び合います。フランクがレコードを積んである部屋に行って、注文品を揃えます。そして郵便局まで運んで行って送るのです。私が送り状をタイプします。お金が、 小切手が入って来ます。間違いなく利益は上げていましたが、大儲けしたわけではありません。でも、質素な生活を維持するには十分でした。レキシントン街の家賃を払っていましたし、住居の家賃もありました。小さな車も持っていたんです。ポンティアックで、私たちは「アゼル」と呼んでいました(ドイツ語のドンキーです)。とてもキュートな車。 アルフレッドはこの車が大好きでした。

 私たちはちっぽけなビジネスをやっているちっぽけな人間でしたが、素晴らしいものを販売していました。

(略)

私たちはあちこち出歩いて、ミュージシャンの話を聞き、彼らと会い、彼らを知ろうとしました。ミュージシャンたちは、アルフレッドが小さなレーベルをやっていることを知っていました。ミュージシャンからミュージシャンへと話は広まっていて、クラブに出かけてテーブルに座りますと、皆さんがやって来ていうのです。「この男を聴くべきだ・・・・・・いいか、この歌手を聴かなければいけない」

(略)

 一九四四年七月、アイザック・エイブラムス・ケベックブルーノートに最初のレコードを録音しました。(略)素晴らしいアーティストで素晴らしい人物でした。 今、彼のレコードを聴くと、涙が止まらなくなります。音は太くて甘美でした。特にバラッドで。そして音楽に対して進歩的な考えを持っていました。

 アイクは〝フェイス〟と呼ばれていました。 彼のニックネームです。 「おい、フェイス、 どんな調子だい?」なんて。ミュージシャンてすごい――お互いに色々な名前を付けてしまうのです。アイクは本当に顔が大きかったですから。私は彼が大好きでした。

セロニアス・モンク

 セロニアス・モンクに会いに、私たちを最初に連れて行ってくれたのはアイク・ケベックでした。モンクが誰だか、アイクは説明しませんでした。「奴を録音しよう」そう言っただけです。「行こう、聴いて欲しい奴がいるんだ」

(略)

 モンクの部屋はキッチンのすぐ脇にありました。何だかヴィンセント・ヴァン・ゴッホの絵画から抜け出て来たような部屋で修行僧の部屋のようというのでしょうか、壁際にベッド(簡易なものです)があって、窓、そしてアップライト・ピアノ。それだけです。

(略)

ビリー・ホリデイの写真がテープで天井に貼ってありました。

(略)

 恐ろしく大きな手の持ち主でした。大きな掌がふたつ、鍵盤の上で行き場を決めあぐねているように私には見えました。どこに降りて来ようとしているのでしょう?私はずっと考えていました。目を釘づけにしたまま。

 (略)

 セロニアス・モンクは謎を謎で包んだような人でした。(略)

モンクの受けた教育といえば、ほとんどがピアノの個人レッスンで、彼は多分に母親に甘やかされながら、自分だけの風変わりな音楽の世界を育てたのです。私たちが会った時、彼はもう三十歳でしたが、ビ・バップ・シーンの人気者で、少数ですが主に若いミュージシャンに崇拝されていました。

(略)

 私にとって、モンクはブルース・ピアニストでありストライド・ピアニストであり、つまりジャズの伝統主義者のように最初は見えました。 本当です。ただし、途方もなく、ほとんど王者のようにつむじ曲がりの、ですが。モンクの選ぶ音は少々外れているようでしたが、彼は恐るべきハーモニー感覚や特異なリズム感、独自の音楽構成力で最後は辻褄を合わせてしまいます――すべてがどこまでも彼自身のもので、完璧でありながら規格外です。私の理解できなかったモダン・ミュージシャンはたくさんいます――彼らは急速で猛烈でしたが、私には必ずしも理解できませんでした。でもセロニアス・モンクを私は理解しました。どんな時にも。モンクは新しい真実だった。最初に会った時から、彼は私のグルーヴとしっくりしたのです。

 彼はいつでも、何か新しいことに取り組んでいました。その日、彼は作曲中でした。 「ルビー・マイ・ディア」になる曲です。(略)

私はそのメロディがとても気に入りました。とても気に入ったので、こんな風に思ったのをおぼえています。うわ、私の名前をタイトルに入れてくれないかしら―― 「スウィート・ロレイン」とか。その後訪ねた時、セロニアスは曲のタイトルは「ルビー・マイ・ディア」に決めたと言います。「まあ」私は言いました。「ルビーってどなた?」「誰でもない」セロニアスの答です。「この名前が好きなだけだ」

(略)

 モンクのレコードは最初売れたかですって?いいえ、売れませんでした。私はハーレムに売り込みに行きましたが、どのレコード店も、モンクにも私にも用はありませんでした。 私はあるひとりの店主を決して忘れません。今も七番街の一二五丁目に、彼の姿も彼の店もありますが。彼はこう言ったのです。「この男は弾けないね、お嬢さん。どうしようもない。この男は両手とも左手だ」「お待ちになって」私は言いました。「この方は天才なのです――何もお分かりになっていないのね」

 セロニアス・モンクは私個人の使命になりました。私は実際、あらゆる人々と戦いました。私はモンクのレコードを抱えて、鼻息も荒くあちこちへ出かけて行きました。脇目も振りませんでした。やるべきことがあって、それをやりたいと思った時、私は何事にもひるみません。私はモンクを疑いませんでした。 偉大な人、とわかっていましたので。

(略)

 このころ、私はほとんどモンクの運転手になっていました。「ここに行け、あそこに行け」私は頭がおかしくなりそうでした。ミントンズにはよく連れて行きました。ハーレムのクラブで、彼は常駐のピアノ奏者として雇われていました。ビ・バップはここで生まれたものでなかったとしても、ある意味ここで完成されたのです。

(略)

 モンクを知った時、こんなに奇妙な人だとはわかりませんでした。でも、そういう人なのだ、と思うことにしました。彼がお喋りだろうが無口だろうが、演奏さえしてくれるなら私たちにはどうでもいいことでした。彼の芸術性がすべて。(略)

私はステージに出て行くモンクを見送るのが好きでした。両腕を私に回して、大きくて力強いハグをしてくれます。それだけ。そして仕事に取り掛かるのです。他のミュージシャンたちとはひと晩中陽気に騒いだりもしたものですが、 彼とはそんなこと一度もありませんでした。皆やって来ると馬鹿騒ぎになりますが、モンクはまったく違いました。ステージ上のモンクは急くようにピアノに向かいます。あの独特の摺り足で。少しの話もなし。自分のことは言いません。でもピアノでたくさんお喋りするのです。私はそれでいいと思いました。

ルフレッドとの日々

 喋り方にはアクセントがあって、いつもくすくす笑っていました。大笑いも。声はとてもチャーミングで、アクセントもとても素敵でした。本当に普通の人で、何かにとりわけ優れていたわけではありません。でもジャズのことになると別です。音楽が聴こえてくると、踊りまわっていました。だからニックネームを貰いました。ミュージシャンたちは、アルフレッドをストンピーと呼んだのです。ビートに合わせて足踏みをしながら踊っていたものですから。人生のいかなるものよりも、ジャズを愛していました。そしてジャズのことは何から何まで知っていました。だからミュージシャンたちは彼を尊敬していました。そう、ストンピーはそんな風に踊りまわる奇妙な男だけれど、彼らにはわかったのです。おい、奴はものすごい男だって。

 アルフレッドは楽譜が読めませんでした。考えてください。楽器を演奏できない人がいて、譜面も読めません。しかもヨーロッパ人で、アフリカン・アメリカン の音楽を扱っているのです。それもとても人間的な音楽で、言ってしまえば簡単に理解できるものではありません。それでもなお、ジャズを不朽のものにしているものは何か、アルフレッドは深く感じ取っていました。

 彼は何についても本当の意味での完全主義者で、多くの場合正しい判断をしました。レコーディングが終わるたびに、私たちはテイクについて話し合いました。耳を傾け、これぞベストというテイクを選び出すのです。 ある曲にアーティストが複数の解釈を施した時でも、ベストのものを選んで他のテイクは忘れるのです。近頃の記録主義者とやらが行なっていることを私は好きになれません。あの人たちはテープの倉庫からあらゆるテイクを引きずり出すのです。最初のテイク、第二のテイク、第三、第四のテイク、そしてすべてを世に出します。アルフレッドなら絶対にそんなことをしなかったでしょう。私には罪にも等しいこと、憤りを感じます。

(略)

 アルフレッドはとてもビジネスライクでしたが、公平なやり方をしていました。 ブルーノートは、ミュージシャンに印税を支払っていた数少ないレコード会社のひとつだったと思います。私は帳簿をつけていましたからわかるのです。印税額はSPレコード一枚につき二セントでしたが、何であれ私たちは印税を支払っていました。信仰のように支払っていました。

ヴィレッジ・ヴァンガード

ニューヨークの避暑地ファイア・アイランドにある小さい家庭的なレストランです。すると、ヴィレッジ・ヴァンガードのオーナー、マックス・ゴードンが隅に座ってひとりで食事をしているのが目に入りました。

 「ハロー」私は声を掛けました。「ご存じないと思いますが、私、アルフレッド・ライオンの妻ですの」

 マックスはうなずいて微笑みました。

「すごいミュージシャンがいるんです。気に入って頂けると思いますわ」

(略)

「ピアニストなんです」と私。「セロニアス・モンクといいます。ご存じ?」(略)

「もし一週間ヴァンガードに出演させていただけたら、こんな素晴らしいことはありません」

(略)

「たまたま九月に一週間空くかもしれない」

今度は私が微笑む番でした。

 マックスは実際、九月にモンクを一週間出演させました。アルフレッドは興奮していました。初日は一九四八年九月十四日。そして、誰も来ませんでした。ジャズ評論家とやらも来ませんでした。ジャズ通とやらも。ゼロです。アルフレッドと私は、ヴァンガードの壁際の長椅子に座っていました。あるところでセロニアスは立ち上がり、例の小ダンスを踊り、こう次の曲をアナウンスしました。「さて、人類の皆さま、これから演奏いたしますのは…」

 マックスが私のところへ走り寄って来て、ひどく悲痛な面持ちで言いました。「いったい何なんだ、あのアナウンスは?」

「あんな風に喋る人なんです」と私。

 お客はほとんど誰もいませんでした。 マックスは嘆き続けました。 「一体私に何を吹き込んだんだ?私を破産させようというのか?この男と心中だ」

「いいえ」と私は言いました。 「おわかりになりませんか、ミスター・ゴードン。この方は天才なのです」何年も後、マックスがみなに、自分が雇った天才セロニアス・モンクについて語るのを私は聞きました。

 ヴィレッジ・ヴァンガードの始まりはマックスのリヴィング・ルームでした。当時のマックスは、実際に住む場所がありませんでした。六番街を下ったウェスト・ヴィレッジ界隈のカフェテリアに、多くの詩人たちと屯していたのです。 マックスは物書きで、彼自身も詩人で、思索家で、ボヘミアンでした。マックス・ゴードンこそ真実のボヘミアンでした。

 彼はオレゴンの育ちですが、一家はロシアからやって来ました――リトアニアです(ヴィルナ、でしたかしら)。一九〇八年、三歳の時にエリス島で入国手続したのです。お母様と兄ひとり、姉ふたりと一緒でした。そしてお父様(ひと足先に来ていました)

(略)

 最初、マックスは小さなクラブを開きました――クラブというより、スペースです。一九三二年、場所はサリヴァン・ストリートでした。彼がヴィレッジ・フェアと呼んだその店は、多分一年ほど続きました。この店でアルコールを出して、マックスは逮捕されたりもしたようです――禁酒法の時代でした。ヴィレッジ・ヴァンガードの開店はその後、場所はチャールズ・ストリートで、一九三五年二月二十六日のことです。この年の十二月には現在の場所に移っています。七番街一七八番地の角です。

 ヴァンガードは初め、ジャズの店ではありませんでした。 マックスがこの大きな三角形の地下室で始めたのは、詩人たちの自作の朗読でした。床は裸でカーペットもソファもなく、普通の椅子とテーブルが置かれ、壁にはポスターが貼られていました。とても政治的なポスターです。というのも当時はスペイン内乱の最中で、マックスの友人がたくさん義勇軍に参加していたのです。

 マックスが当時詩人たちからもらった詩集を、私は何冊か保管しています。でもマックスには彼らに支払うお金なんてありませんでした。お客が投げ銭するのです――それが詩人たちの出演料でした。マックスも座って、朗読に耳を傾けていたのです。それが彼の生活でした――皆でテーブルを囲んで、詩作や哲学について語り合っていたのです。コーヒーのないコーヒー店のようなものです。それに酒類販売許可証もありません。彼らが何を飲んでいたのか、私は知りません。知性的な集まりだったのです。

 いずれマックスは演奏を出し物に加え始めます。多くの場合、ひと晩三幕です。出演者の多くを、才覚のあるジャズマンが占めるようになりました。私が思うに、その始まりはクラレンス・プロフィットという名の素晴らしいピアニストです。

ヴィレッジ・ヴァンガード再建

 私が引き継いだ時、ビジネスは上々とは言えませんでした。(略)何でも丁寧に目を通しました。この請求書は何?あの請求書は?(略)

マックスが付き合っていたビール会社は、彼に法外な値段を吹っかけていました。私は同じビールを半額で卸してくれる会社を見つけました。

(略)

「今夜はあれだけたくさんの人たちがクラブにいたのに、お金はたったこれだけというわけ?百人以上いたのよ。売り上げはどこ?」

 基本的なことだよ、ワトソン君。そうホームズなら言います。

 そして間もなく、さらに数人の長期にわたる従業員が、ゴードン夫人から解雇通知を受け取るのであった、というわけ。

(略)

私は毎晩、その日のうちにミュージシャンに支払うようにしました。今もこのやり方を気に入っていますし、ミュージシャンも同じです。

(略)

どんな請求書も、私は期限前に支払います。そのことでは私は頑固です。請求書をほっておけないのです。何でもすぐ払います。その結果、私は誰にも一ペニーすら借りていません。

 それでいつ状況は好転したのでしょう?徐々にです。ヴィレッジ・ヴァンガードならではの名声がありましたし、それ自身に生き延びる力がありました。そこに私の功績は何もありません。

ミンガス・ライト

 チャールズ・ミンガスは熊のようで、最高のベース奏者でバンドリーダーです。ヴァンガードで演奏する時には肉を注文していたものです。(略)

食事の大きな包みが届くと、ミンガスはキッチンでそれを開けました。生肉でした。 彼は食べました。生のまま。タルタル・ステーキではありません。生の挽き肉で、何も加えられていません。ミンガスはもの凄い大食漢でした!満腹することがないのです。

(略)

 ヴァンガードの天井には〝ミンガス・ライト〟もあります。一種の聖杯で、人々は拝みにやって来ます。穴です。ある晩、ミンガスは自分のベースで天井灯を粉々に壊したのですが、その痕跡です。マックスは電灯の周りの壊れたところをそのままにしました。これが名所になったのです。また別の時、チャールズは上の入口の扉を蝶番からもぎ取ってしまいました。その晩私はいませんでしたから、これは私が聞いたままの話です。チャールズは怒り狂ったらしいのです。外の看板の彼の名前が〝チャーリー・ミンガス〟となっていたので(訳注:チャールズはチャーリーと呼ばれることを憎んだ)。クラブの常連で立派な挿絵画家の可愛い女性がいたのですが、彼女が扉を家まで文字通り引きずって持ち帰りました。小柄な方で、扉の方が大きかったそうです。(略)けれどこれがミンガスです。凄まじい人でした。

モンク夫妻とパトロネス

 セロニアス・モンクヴァンガードに出演した時のことです。奥様のネリーはモンクの健康をいつも注意深く気遣っていました。自分のミキサーを持ってきて、キッチンのその場で彼のための健康食を用意していました。彼女がセロニアスの左側にいれば、右側には男爵夫人パノニカ・デ・ケーニグスウォーターがいました。煙草のパイプを加えて、紫煙をモンクの顔に吹きかけていました。彼らは本当に三人で住んでいました。これにはいつも驚かされました。

(略)

ドクター・フィールグッド(訳注:覚醒剤などを処方していい気分にさせてくれる医者)の中でも悪名高い病院がありました。いわゆるヴィタミン注射をしてくれるわけですが、多くの場合明らかにアンフェタミンです。その医院の前に男爵夫人のベントレーが駐車するのを、私はしばしば目にしました。 モンクが出て来て、このドクター・フィールグッドに入って行くのです。

(略)

私は思いました。セロニアスは中で何をやっているの?その後この医者は追い出され、医師免許も失いました。

 彼女はブリティッシュ・アクセントとベントレーを持つロスチャイルド家の人でした。(略)ジャズとジャズ・ミュージシャンを愛していました。(略)

男爵夫人はセロニアス・モンクを愛していました。ピアニストのトミー・フラナガンも同様に。モンクの妻はネリーだったと思います。でも男爵夫人もいたのです。(略)

最後、セロニアスはこの家で亡くなりました。これ以上何が言えるの?

ロレインさんの恋愛事情

 処女を失うことは取り立てて大きな出来事ではありません。初潮の方がよほど大ごとです。ラルフ・バートンは既婚者でした。後でわかったのです。(略)ジャズ界の遊び人だったのです。(略)私にとって彼は経験、それだけのこと。どうすれば大人になれるか、私はとても知りたかったのです。

 新婚初夜に私がヴァージンだったかですって?嘘はつけないわ。ラルフ・バートンに身も心も奪われてしまった私自身が少し嫌いでした。今となっては何でもないし、後悔もしていません。でも、アルフレッドだったらよかったのに。

 私は子供が欲しかった。でも作りませんでした。私がとっくに諦めた後になって、アルフレッドはようやく欲しいと言いました。遅すぎるわ。その時にはもう賽は投げられていたのです。

(略)

 母の具合がよくありませんでした。 このころには両親はロサンゼルスに住んでいて(略)私は会いに出かけて行かなければなりません。父は近所でバーというか、小さなサルーンをやっていました。ロス・ラッセルの小さなジャズ・レコード店、テンポ・ミュージック・ショップから遠からぬところです。もちろん、私はお店を見に行きました。ロスは当時レコードも作っていました。名高いダイアル・レコードです(略)

ある日、男性がひとり入って来て、私の隣に腰かけました。ロスがお互いを紹介してくれました。「ロレイン、こちらがチャーリー・パーカーだ」それがどうしたの?私はパーカーの音楽が好きでもなかったし、そんな意味のことを彼にも伝えました。何ていうか、シドニー・ベシェをこの若い乱暴者から守ろうとしたのです。セロニアス・モンクはしっかり聴いていました。それでも、バードとディズがやっていたことを私が理解するには、しばらく時間がかかったのです。

 母の病は重く、実際亡くなりかけていました。(略)

ある午後のこと、兄がやはり除隊したばかりの友人を連れて現れました。この男性が座ったソファの反対側に、私は自分を押し付けるように座りました。ひと目、私たちはお互いが嫌いでした。(略)

 アルフレッドからは電報が届き続けていました。「帰って来ておくれ。君が必要なんだ」そうでしょう、とわかっていました。結局私は荷造りして、帰宅しました。そして再び日常が始まりました。 彼、私、そして私たちふたりの生活―――レコード、レコード、レコード。それでも何とかすべては平穏でした。

 そこに父からの絶望的な電話です。「戻って来い。お前の母親のことなんだ。それだけだ」私は再びアルフレッドに言いました。「行かなければいけないわ」

(略)

母はホスピスに向かおうとするところでした。扉の中に入ると、兄と兄嫁、そしてあのひと目で嫌いになった男性がいました。この時、私たちはお互いにひと目見るや、すっかり恋のとりこになってしまったのです。私が今まで経験した中で、最も不思議な心変わりでした。

 彼はハーバードの卒業生でした。見た目もとてもハンサム。すごいインテリです。(略)

彼は私の人生最大の情事の相手になりました。今でもふと思い出します。

 彼こそ私の理想の男性。そうとしか考えませんでした。彼の他には何も欲しいと考えられませんでした――私もまだ小娘だったのね。本当のことをお話しすると、私が大馬鹿だっただけですが。でも、私たちは一緒にいて、申し分ありませんでした。

 一緒にいて、ですって!全部で一週間か二週間、一緒だっただけなのに。

(略)

亡くなるまで、母の手を私の掌の中に握りしめていました。そして私のすぐ脇に彼がいました。

 母が亡くなると、彼と私は一週間カタリナ島に出かけました。兄はこれを奇妙に思いました。夫は私がなぜまっすぐ家に戻ってこないのか、不信を抱いていました。母親の死が深く私に作用したのはもちろんです。でも私にはわかっていました。私はすっかりこの男性に恋してしまったのです。

(略)

滞在したのは小ぎれいなアパートメントです。私たちは料理して、お話して、そして毎晩カジノで踊りました。

 そして帰らなければならない時が来ました。(略)

LAの空港で、私の彼は本当に窓のすぐ外の滑走路に立っていました――あのころはそんなことが出来たのです。「カサブランカ」のハンフリー・ボガードみたいに。(略)

飛行機が離陸すると、私はこらえられなくなって泣き始めました。声を立てて。隣の男性がポケットから大きなハンカチーフを出して手渡してくれました。結局、ニューヨークに着くまでずっと、私を慰め続けてくれたのです。

(略)

 私は打ちひしがれてアルフレッドのもとに戻りました。それはそれはひどい恋の病でした――あんなの、人生で初めて。(略)

 私たちは手紙や電話で連絡を取り合いました。私はニッケル硬貨をパンツのポケットに詰め込んで、ヴィレッジを歩き回りました。人目につかない電話ボックスがあると、飛び込んで彼に電話するのです。

(略)

彼には、こんなことを終わらせるだけの良識がありました。アルフレッドは、何かがおかしいととっくに気づいていました。大恋愛の果てに私が手にした最後の連絡は、絶縁状です。(略)「君に何をしてあげることもできない。自分が何をしたいのか、どこに向かっているのか、まだわからない。そして君は人妻だ――君の結婚を壊したくない」お笑い草よね。とっくに壊しているのだから。でも、それでおしまい。

 何年も後、私は彼のお兄様に会いに行きました。あるところで衣料関係の仕事をなさっていたのです。「彼はどうしています?」私は尋ねました。

 「結婚したよ」とお兄様。「そして惨めなものだ」「そう」と私。彼の住所を聞くこともしませんでした。

 平和運動の友人がたくさんウェストチェスターに住んでいました。(略)

パーティがあると必ずお誘いの声がかかります。そして私は必ず駆けつけました。ひとりきりで。マックスと一緒には行けなかったのです―――彼は四六時中働きづくめでしたから。(略)

 ニューヨークに戻るには毎回車が必要でした。そして毎回、誰かが申し出て下さったものです。しばしば男性の方もいました。お願いしたこともあります。

 送って頂いた後、私はお伝えします。お電話くださらないでね。でも、くださった方もいます。

 誰の人生にも、人が入れ替わり立ち替わりするものです。要点は、こうした男の方々は、ある意味私の結婚生活の接着剤だったということです。必要なはずの何かが欠けているという時、結婚生活の維持を助けてくれる方々がいるのです。素敵な関係です。それが終わるまでの。そしてそれは終わるのです。

 こうしたことを思い出して、私は思います。まあ、これってみんな私なの?

私なのです。

ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法 冨田恵一

詞と曲は同時に

フェイゲンは言う。「いつも、詞と曲は同時に作らなきゃいけないと思っていたし、少なくとも、どんな詞にするかのアイディアくらいはないといけないと思ってた。だからボクらの詞は、いつもなんらかの形で曲に合わせてあった」「曲が先にできていて、しかるべき歌詞を書く場合も、先に歌詞があって、曲をつける場合もある」「ウォルターとぼくで歌詞を書いていて、なんらかの効果がほしくなったら、僕はその内容を強調する手を考えるし、逆に、歌詞のカウンターをねらうこともある」「作品になりそうなテーマがまず決まって、そのテーマに沿って歌詞が出来上がる場合もあるし、曲と言葉を同時に作っていくこともある。ただ基本的には歌詞を先に書き上げてから、曲作りに入る方がうまくいくことが多いね。というか、クオリティの高い楽曲を歌詞なしで作り上げるのは難しいと思うんだ」

ゲイリー・カッツ

[以下、SD=スティーリー・ダン]

端的に言えばカッツはA&R=ディレクター的義務を負っていたと考えられ(略)

[音楽的にはSDのセルフ・プロデュースであり]

では、なぜカッツがプロデューサーなのだろうか?

(略)

カッツの役割についていくつか証言がある。まずはミュージシャンの選定である。 《Nightfly》 に関するインタヴューでフェイゲンは「どのミュージシャンを使うかは、曲を書きあげた後でゲイリーとふたりで相談の上決める」と述べている。 またジェフ・ポーカロは「ゲイリー・カッツだったらアーティストを本当に知り抜いていて、その人のために働く。 その人の音楽と、いろんなミュージシャンを知っているから、そのセッションにぴったりのミュージシャンが誰だかすぐわかる」と述べ、カッツの仕事ぶりを賞賛している。

(略)

 また「ベッカーとフェイゲンがミュージシャンの働きに満足しない時、彼らはゲイリー・カッツに嫌な役を頼んだ。そういうときはたいてい休憩をとって近くのレストランにカッツを呼び出し、そのミュージシャンに対するそっけない評価を述べた後、自分たちがスタジオに戻る前に引き取らせておいてほしいと頼んだ」ということらしい。

(略)

 またパラノイアックなアーティスト(もちろんSDもだ)を担当する場合に、A&Rが最も望まれる仕事をカッツもこなしている。

「自分もベッカーもシャイでプレイヤーたちに話し掛けることが苦手だったので、カッツが代わりに世間話をしてミュージシャンたちの気持ちを和ませてくれてた」とフェイゲンは語っている。

(略)

カッツは「僕らはスティーリー・ダンのセッションをコマーシャル録りのような気楽な雰囲気にしようとしていた」と述べている

(略)

[《Meanwhile》で]10ccのふたり、エリック・スチュアートとグレアム・グールドマンは「スティーリー・ダンやフェイゲンのソロ作での素晴らしいプロデュース・ワークの再現を期待してカッツを呼んだ」らしいが[当てが外れ](略)

彼らは「あまり音楽的な人じゃない」「ほとんど何もしてくれない」と続けるが、カッ・タイプのプロデューサーが格段音楽的である必要もなく、何もしないことが《Meanwhile》制作現場ではベストだと判断したのではないか。ポーカロはこうも言っている。「(カッツは)レコード作りも、いくつもある方法の中からその人に合うものを選ぶ」。アーティストが自らをコントロールの中枢に置きたがるタイプ(スチュアートもこのタイプに分類される)の場合は、それに適したやり方があり、もちろんその場合にプロデューサーが前面に出ては、制作は軋轢ばかりで進行しない。 《Meanwhile》での何もしないに近いスタンスは正しい選択だ。とは言っても、参加ミュージシャンは一部のイギリス勢を除き、カッツのファースト・コール人脈で固められているから、やるべき仕事は適切になされているのだ。そしてカッツであれば、10ccふたりが望むサウンドを自分たちのみでなく、第三者の補助に求めていると知った時点で、的確なアレンジャーをブッキングするのも難しいことではなかったはずだ。 しかし10ccは(略)素直にカッツに相談[せず](略)カッツからもどんどんアイディアが被せられ〝共同で編曲していくようなタイプのプロデューサー〟をイメージしたまま、作業を続けていったのだと推測できる。

(略)

 一方で、「スティーリー・ダンは、フェイゲンとベッカー、そしてプロデュースのゲイリー・カッツによるユニット」(略)「私の言うスティーリー・ダンドナルド・フェイゲンウォルター・ベッカー、ゲイリー・カッツの3人を指します」といったように、カッツをSDサウンドに欠かせない存在であると評する発言も散見される。

ロジャー・ニコルズ

 SD=フェイゲン作品におけるエンジニアと言えば慣例のようにロジャー・ニコルズが挙げられるが、一般的にミキシング・エンジニアが話題にされるのとは違い、 ニコルズは特殊な立場にある。(略)

《Nightfly》でミックスを担当したのはエリオット・シャイナーであり、トラッキング(録音)もシャイナー、オーヴァーダブ・エンジニアとしてはダニエル・レイザラスがクレジットされている。(略)

[しかし]チーフ・エンジニアとしてロジャー・ニコルズが先頭にクレジットされているのだ。他の録音作品ではほとんど見かけないクレジット方法である。ロジャー・ニコルズに関するこの例外的な肩書きはSD後期から見られる。《Royal Scam》まではわかりやすくエンジニア、ミックス・ダウン・エンジニアとしてクレジットされているが、《Aja》《Gaucho》ではエグゼクティヴ・エンジニア(略)

[《Aja》の]ミックスはニューヨークのA&Rスタジオで行なわれ、「そこにいるエンジニアのエリオット・シャイナーが好きだったから「ペグ」を除いて全曲をそこでミックスしたんだ」とのフェイゲンの発言から、やはり《Aja》でもミックスはシャイナー中心だったことがわかる。

(略)

 ロジャー・ニコルズは70年にABCスタジオのハウス・エンジニアとしてキャリアをスタートさせた。SDふたりがまだ専属ライターだった頃、他アーティスト用のデモ作りの作業をニコルズとともにし、親しくなったようだ。 そしてファースト・アルバム 《Can'tBy A Thrill》の録音に際してはSDふたりがニコルズを希望し、ニコルズのスケジュールが開くのを待って録音を始めたほど、信頼をよせていた。

(略)

 ニコルズのミックスはハイファイでバランスがよく、フラットな印象だ。 (略)

ニコルズは新しいテクノロジーに対してかなり貪欲なのだ。(略)レコーディング・エンジニアのそれを遥かに超え、コンピューターのプログラムを書き、サンプラーを制作するに至る。それが本書にて頻出する Wendel(Ⅰ、Ⅱ)だ。

 

 一方のエリオット・シャイナーは67年にフィル・ラモーンのアシスタントとしてキャリアをスタートさせる。SD史のみを見ると、シャイナーをニコルズのアシスタント的立場と認識してしまうが、キャリアはほぼ同等かシャイナーの方が長い。

(略)

ニコルズに比べてよりグルーヴ構築に長けている印象がある。「もともとがドラマーからスタートした私にとって、ドラムスの音色がどうあるかは常に重要な課題でした。ドラムスの音色によって、レコードの持つ色彩感が決まると思えるからです」とシャイナーは言う。

(略)

フェイゲンは《Aja》について「僕たちが参考にしていたのはロック・サウンドじゃなくて、ルディ・ヴァン・ゲルダーがやっていた五十年代のサウンド。つまり五十年代に彼が手掛けていた一連のプレスティージ・レーベルの音さ」と語っている。(略)その質感とサウンド構築にはニコルズよりもシャイナーが適任であり、その後の作品でもミックスの大部分はシャイナーが担当する。

(略)

一貫してニコルズがエグゼクティヴ、チーフと冠せられ、エンジニアリングの中心であることを表記され続けた理由は何か?

(略)

「彼の音楽への興味は、病的なほどにレコードの雑音を憎むところから始まっていた。スタジオで働けば、音楽が完全な音として聴こえる秒速15インチの2トラックのテープ・コピーを持ち帰ることができる。彼の目的はそれだったのだ」との記述もある。

(略)

 あくまでもハイファイを目的とし、自らの音楽性を付加することのないニコルズは、SDとの相性という点でベストだったに違いない。

(略)

ニコルズはエンジニアというよりも、"オーディオ・コンサルティングを担当するSDのメンバー"といった存在になったのではないか。

(略)

 2000年の《Two Against Nature》リリースに関したインタヴューでニコルズは、SDのレコーディングが長期間に及ぶため混乱してしまうと言い、「それならばエリオットにつまみを操作してもらい、こっちはゆったりと曲の流れを思い出しながら、またドナルドとウォルターがどういったものを好むか、考えながら聴く方がずっといい」と述べている。 これは 《Aja》以降のニコルズのスタンスを端的に述べた発言だ。

(略)

《Gaucho》では辛うじてオーヴァーダブにクレジットがあるが、《Nightfly》ではトラッキングにもオーヴァーダブにもニコルズの名前はない。これは Wendel II の開発と、セッション中もその取り扱いに集中していたからであろう。

(略)

ニコルズがシャイナーやシュミット等を採用した理由に、彼らに共通するエンジニアリングの方向、クオリティがある。ニコルズはシャイナーの録った音は自分が録ったかのように感じると述べ、「私はイコライジングは嫌いです」と述べている。シュミットは「私がレコーディングをする時は、ベストの状態を録音し、なるべくEQを使いません」と言い、シュネイは「コントロール・ルーム側ですべてを解決しようとせず、まずスタジオ側にできることはないかを考えてみることが重要です」と言うのだ。

 トラッキングに関しての彼らの発言に共通しているのは、巧い演奏者が奏するよい音のする楽器を、よい音のする場所に配置、適切で最もよい音が録れるマイクを、最もよい音がする場所に立てて適切なレベルで録音しろ、ということである。

空白の10年

[80年代後半、MV全盛の音楽界に苦言を呈し、インタヴュアーに「驚くくらいの正統派なんだね」と言われた際、フェイゲンはこう答えた]

「ボクの姿勢は、エンターテイメント的な価値もあり、かつ中身もある音楽を作る必要性と関わっているように思えるんだな。ボクはいつもこう思ってたんだ。つまり、スティーリー・ダンの曲はその両方を組み合わせようとしていて、ボクたちはそういった視点でやっていた。そして、それはリスナーとの共同作業であった、とね。みんな自分の想像力を働かせなきゃいけなかったんだ。だから、君の言う通りさ。ボクは全くの正統派」

(略)

フェイゲンの音楽のように複雑な表現や技術を必要とし、かつエモーションで連続性を保つ構造ではなおさらである。しかもそれをオーヴァーダビングで制作するのだから、熟達と充分なエネルギーを発揮できるコンディション(環境、精神的、肉体的な状態や年齢)の足並みが揃うことが重要になる。その点でも、 そして 《Nightfly》のコンセプトを表現するという点でも、制作時のフェイゲンはギリギリでその範囲内にいたようだ。

「アルバムの最終ミックスを行っていた時、僕はおかしな気分に襲われた。そしてその気分はさらに異様な気分へと変わっていったが、それは仕事や愛や過去や死すべき運命といったことによるものだった。僕が次にアルバムを完成させたのは1993年になってからだった。なので、これは誰にでも起こることだが、僕の中から若者らしさが消えてしまう前に『ナイトフライ』を作っておいて良かったと思う」

 空白の10年に関して、後にフェイゲンはミドルエイジ・クライシスとの関係を語り、その原因は80年代のムードと密接な関係があったことも語っている。80年代という時代が疲弊したフェイゲンにとってさらなる重荷になっていたことは想像に難くない。

 

サウンド・マン ロック名盤の誕生秘話 その4

前回の続き。

重ね録りの弊害

 それから20年の間に建てられたスタジオは例外なく、ミュージシャンおよびその楽器を他と完全に分離するデザインを取り入れていた。そしてこれが、数を増す一方のトラックにオーヴァーダブを行なえる能力と併せて、重ね録りという慣例を生む種になった。つまり、ひとつずつばらばらに録っていくやり方だ。かつてはスタジオといえば既存の建物を改築したものばかりで、各部屋の音響はそれぞれのエンジニアが現場で試行錯誤の末に生み出したものだった。これに対し、新手のデザイナーたちはエンジニアを介して完璧な音響環境を創り出した気でいたのだろうが、結果的に性格も個性もない部屋ばかりに、音楽性とは無縁のところばかりになってしまった。すべてを一時に録るしかなかった時代に始めた者として、わたしはミュージシャン同士が演奏する際の相互作用の重要性を忘れたことがない。これはごく微妙なこともあるし、基本的にはそばで他人が奏でているものに対する意識下での感情的反応でしかないのだが、そのミュージシャンはこの時、自らのプレイで他者に同様の影響を与えてもいる。しかし、既存のトラックに自身のパートをオーヴァーダブする場合、こうした相互的反応は起こりえない。後から演奏を加えるミュージシャンは、自分が重ねているものから影響を受けるだけだ。録音機材は本来、楽曲の演奏を捉えることを意図して作られたものだった。だが今や、機材が音楽の作り方と演奏のされ方に影響を及ぼしている。

ピート・タウンゼント『ライフハウス』

 1971年1月、LAから帰国してみると、ピート・タウンゼントから手紙が届いていた。彼が考えている次のプロジェクト、『ライフハウス』と題する映画およびサントラ盤の制作に、もし良ければ手を貸してくれないだろうか、と書いてあった。(略)

 この招待状をどれだけ待ちわびていたことか。彼らのことは、まだザ・ハイ・ナンバーズと称していた最初期から知っていた。 わたしのバンド、ザ・プレジデンツと同じクラブによく出ていたし、時に一緒になることもあった。結果、両バンドが互いを認め合う関係が築かれ、わたしはピートと友好関係を築いた。だから数年後、彼らがザ・フーとして、革新的サウンドを携えてシェル・タルミーと共にIBCに現われ、わたしがエンジニア役を任されたときの驚きと喜びはご想像が付くと思う。

(略)

わたしは正直に、台本に書かれている物語が自分には理解できないと白状した。続いていかにも決まり悪そうに、ひとりまたひとりと、部屋にいた全員が同じことを口にした。

(略)

話し合いの末、その映画はバンドの食指を動かすものではないことが判明し、企画をボツにし、アルバムに専念するということで決まった。映画があろうがなかろうが、どの案も曲として独り立ちできると思われたからだ。

 実際、ピートが送ってきたそのデモはどれも驚愕だった。そこらのデモとはものが違っていて、想像力を働かせる必要はないに等しかった。素晴らしい曲の数々。美しい録音に、凝ったアレンジ、そしてシンセサイザーの革新的使用を含む見事な楽器構成。彼がシンセサイザーをかくも効果的に使ったことは言うまでもなく、 この黎明期に早くもそれを巧みに組み込む術を見出していた事実には、いまだに感嘆させられる。ピートは自宅にスタジオを有しており、当時からすでに極めて優れたエンジニアだった。 ザ・フーと仕事をさせてもらった期間中、わたしは最初から最後までピートのデモを前にしておびえていた。オリジナルと同等かそれ以上のサウンドを作れと、常に挑まれている気がしてならなかったからだ。彼のデモ録音の構成要素をこっそり頂いては、バンドが演奏するトラックに使うこともしばしばだった。

『フーズ・ネクスト』

 この前年、1970年にストーンズは、ミック・ジャガーニューベリーに近い田舎に構える別荘でレコーディングを始めた。その頃にはストーンズ・トラックが完全に稼働できる状態になっており、わたしはそれを用いて、その大邸宅、通称スターグローヴズの広大なヴィクトリア様式の玄関ホールで、「スティッキー・フィンガーズ」に入ることになるトラックをいくつか録った。その後、ピート・タウンゼントと話をしていた際、そのセッションが順調に運んだ旨を伝えたところ、ならば「フーズ・ネクスト」のレコーディングはそこで始めようじゃないか、という話になった。

 初日、まずは“無法の世界”に取り組んだ。悪くない出だしだった。ピートの許しを得て、わたしは彼がくれたデモのシンセサイザー・トラックに手を加えて少々長過ぎた尺を縮め、録音に臨むバンドに向けて流した。彼らは非凡な技術力をもってそれと寸分違わぬ見事なパフォーマンスを繰り広げ、3人は頭から終わりまで一定のテンポを維持するシンセに微塵もずれることなく付いて行った。無論、ロジャー・ダルトリーの強力至極なヴォーカルもバンドが放つエネルギーにまったく引けを取っておらず、最後は驚愕の咆吼で全体を締めくくった。

 今でもこの胸に鮮明に残っている記憶がある。トラックの中で腰を下ろし、スピーカーから飛び出てくるものがわたしの髪に分け目をつくるなか、大量のアドレナリンが全身の血管を駆け巡っている感覚だ。長年この稼業を続けてきたが、まさしくぶっ飛んだことが何度かあり、そのたびにわたしは、今耳にしているものは、たんに商業的成功を超越するだけじゃない、大衆音楽の進化におけるひとつの道標になるに違いないと確信していたのだが、これもまたそんな記憶のひとつだ。

イーグルス

そのアーティストが自分に合うかどうかは最初の数小節を聴けばたいていわかり、合わない場合は演奏している残りの時間ずっと、相手をむっとさせることなく、可能な限り体よくお断わりするにはどう言ったらいいだろうかと、そればかり考えていた。だが往々にして、そういうバンドにはわたしの言葉を悪い方に取り、口汚く罵ってくる者がいるもので、結局こちらがどう言おうが、わたしにとっても残りのメンバーにとっても、まったくもってきまりの悪い状況に陥るのが常だった。からっぽの部屋の真ん中にぽつんと座り、自分ひとりだけのための演奏を、われはこの世のセンスを知り尽くした権威者なり、といった顔で聴かねばならない状況は、最悪と言う以外にない。

(略)

やったのはカヴァー集で、チャック・ベリーのロックンロール的なものばかり。(略)サウンドに特別光るものはなく、後に彼らを有名にするあの美しいヴォーカル・ハーモニーの印象もなかった。しかも、ステージでのたたずまいもこれといった個性に欠けていたし、ぎこちなさまで感じさせるものだったから、わたしは追いかける価値なしと確信し、ロンドンに戻った。

(略)

デヴィッド・ゲフィンは諦めることなく、君は最高の状況でイーグルスを見ていないからだ、と言って譲らなかった。デヴィッドにあまりにうるさく言われて、わたしは仕方なしにLAに戻り、バンドのリハーサルを見ることにしたわけだが、今となれば、彼のその粘りには感謝の言葉しかない。

 午前中いっぱい、ヴァレーのどこかのリハーサル場で過ごした。彼らが演奏したのはわたしがアスペンで聴いたのと同じ曲目で、結果も前回とまったく同じだった。ところが、昼食休憩を取ることにし、皆で建物を出ようかというときだった。誰かが言った、「ちょっと待った、めしの前にグリンにもう一曲、〝哀しみの我等〟だけ聴いてもらおうぜ」。それはランディ・マイズナーがリードを歌い、他の3人がハーモニーを付けるバラードだった。(略)

そのハーモニーは天からの贈り物だった。あまりのことに、わたしは唖然となった。4人とも優れたリード・シンガーで、それぞれがまったく異なる声を有していた。その四声が合わさると、この上なく美しいサウンドを創り出すのだった。

 昼食休憩は取らなかったと記憶している。その日の残りは、彼らが持ってきた素材の吟味に費やし、そうするうちにますます明らかになったのだが、彼らはわたしが当初与えた評価をはるかに凌ぐ、腕の立つミュージシャンの融合体だった。バーニーとグレンのギターの対比は清新で、ランディとドンが供するリズムは、4人全員が安心して腰を下ろしていられる、堅牢でなおかつ融通のきくものだった。

 わたしはすっかり改心し、彼らとアルバムを作れる期待感に胸を高鳴らせると同時に、バンドの潜在力をもっと早くに見て取れなかった自分の力不足を情けなく思っていた。

(略)

すぐさまイングランドに戻り、翌日にオリンピックでイーグルスとアルバム作りを始めた。

1973年、「ならず者」、「オン・ザ・ボーダー」

 リンダ・ロンシュタットがタイトル曲〝ならず者〟をカヴァーして特大ヒットをものにしたのだが、どういうわけか、イーグルス版はアルバムの一曲に甘んじたままだった、理由は神のみぞ知るだ。いや、暗い話ばかりではない、〝テキーラ・サンライズ〟と〝アウトロー・マン〟といういずれ劣らぬシングルは生まれたし、アルバムは最終的に数百万枚を売り上げてくれた。(略)

 だがバンドは幻滅した。作り終えたときは絶賛していた者たちが皆、手のひらを返したように、売上不振を、期待していた頂上に一気に昇れなかったことを、一部わたしのせいにした。ここで新たな教訓がまたひとつ。レコードが売れたのはアーティストのおかげ。売れないのはプロデューサーのせい。(略)

 というわけで、1973年9月下旬、3作目「オン・ザ・ボーダー」に取り組むべく、 オリンピックで久しぶりに顔を合わせたときにはもう、プロデューサーのわたしに対する不満がくすぶっていた。グレン・フライはスタジオ内でドラッグもアルコールも禁じるわたしの方針に苛立ちをますます募らせていたし、ランディ・マイズナーにはサウンドが不満だと言われた。 わけを教えてくれと言うと、電波の入りの悪い、雑音が混じるラジオでイーグルスの曲を聴いた際に、音がさえなかったからだという。 てっきり冗談かと思ったのだが、彼は真剣そのものだった。(略)

 グレンとドンはもっとハードなロック・サウンドを欲していたが、わたしに言わせれば、当時のイーグルスはどう考えてもいわゆるロック・バンドではなく、というわけでわたしの中に、彼らの十八番だと個人的に信じて疑わないものに執着する気があったのは認める。 わたしはあくまで、美しいヴォーカル・ハーモニーとカントリー・ロック的アプローチにこだわっていた。今回、彼らは新たな素材をほとんど用意して来ておらず、しかも見るからにまるでまとまりのない集団になっていた。

(略)

 こういう路線こそが彼らにふさわしいとわたしが思う一曲が〝我が愛の至上〟だ。同曲はイーグルス初の全米1位に輝いたのだから、わたしの見方はあながち間違いではなかったと思う。けれど4週間後、わたしたちは嫌な軋み音を上げて急停車してしまい、にっちもさっちもいかなくなったため、小休止を取ることを決めた。 わたしとしてはあくまで、曲を書くための時間を与えたつもりだった。が、彼らは新たなマネージャーと共に、プロデューサーを替えるという思いを胸に、アメリカへと帰って行った。

 今にして思えば、彼らが下したその決断はまったくもって正しかった。わたしは実際、目指すものに向かおうとする彼らの前に立ちはだかっていた。プロデューサーにとって最も重要なのは、アーテイストの望みに手を貸し、後押しをしてやることであり、邪魔をすることじゃない。代わりにビル・シムジクを選んだ彼らの判断には、お見事としか言えない。(略)

強力なドラッグにまみれ、メンバー同士が激しくいがみ合う、鼻持ちならないほど尊大なバンドと数百時間もスタジオにこもるなどというのは、どう考えても無理な話だ。ビルに大いなる幸運を祈りつつ、わたしは喜んでバトンを手渡した。

スモール・フェイセス

〝イチクー・パーク〟についてはフェージングの使用が取りざたされるようになり、それをわたしの手柄とする向きもあるようだが、実を言うとあの手法を見つけたのは当時のアシスタントだったジョージ・チカンツで、スタジオに入ったわたしに実演して聴かせてくれた。わたしは素晴らしいと思い、それでその日の午後に録った曲で使った。それたがたまたま〝イチクー・パーク〟だっただけで、LSDの歌だったのは偶然の一致なのだろうけれど、ともかく聴いてもらえればその効果の程に納得していただけると思う。

(略)

[69年、ジョニー・アリデイのアルバム録音]

わたしはスモール・フェイセスを推し、 ギターにピーター・フランプトンを加えた。ジョニーは現金払いをモットーにしていたし、スモール・フェイセスの面々は小遣いを稼ぎ、フランスの首都を数日間楽しめるその機会に飛びついたのだった。

 ところが、悲しいかな、このセッションで彼らは意見を激しく対立させ、その修復はついにきかず、バンドの命運はそこで尽きてしまった。スティーヴはピーター・フランプトンとハンブル・パイを組んだ。(略)

 一方、ロニー・レイン、ケニー・ジョーンズ、イアン・マクレガンの3人はロンドンに戻り、ロニ・ウッドおよびロッド・スチュワートフェイセズの結成に向けて動きだした。

 どちらのバンドからも、時期は異なるが、プロデュースを頼まれることになった。

(略)

 フェイセズを手がけたのは、1971年後半、3作目「馬の耳に念仏」が初めてだった。(略)ロッドとは60年代に何度か会ったことがあり、あの声には昔から大いに敬意を抱いていたのだが、ヴォーカリストとしての真価を知るに至ったのは、彼がフェイセズに入ってからのことだ。バンドのプレイ・スタイルが、かの自作曲群とひとつになることで、ロッドにあつらえたかのようにぴたりと合い、彼の歌の良さを最大限に引き出していた。

(略)

 次作「ウー・ラ・ラ」に至る頃にはしかし、状況ががらりと変わっていた。ロッドは世界各国で首位に輝いた〝マギー・メイ〟を武器に、ソロ・アーティストとして巨大な成功を収めている最中で、バンドに対する関心を急速になくしつつあり、制作中のアルバムに対する興味が日を追うごとに冷めていっているのがはっきりと伝わってきた。(略)

アルバムが完成したときは、皆がほっとしていたんじゃないかと思う。

 それから間もなく、彼らは解散した。実際、必然の結果だった。 「ウー・ラ・ラ」を販促する全米ツアー後、まずはロニー・レインがバンドを抜けた。(略)

[ひどく落ち込み途方に暮れているロニーに]何か曲はないかと尋ねると、いくつかあるという。そこで彼を元気づけようと、ちょうどスケジュールが空いていたから、週の後半に一緒にオリンピックに入ってそれを録ろうじゃないか、と伝えた。その結果がシングル〝ハウ・カム?〟で、数週間後に発売されると全英チャートの首位に上り詰めた。これでロニーは少し元気を取り戻してくれた。その日のためにわたしが集めたリズム・セクション――ベニー・ギャラガー、グレアム・ライル、ブルース・ロウランズ、そしてフィドル奏者のチャーリー・ハート――はそのままロニーのもとに残り、彼のバンド、スリム・チャンスとなり(略)全英巡りの旅に出て行き、巨大なサーカスのテントを移動式の会場として使った。

ストーンズとの別れ

1974年11月のある日、わたしが[ロン・ウッドの家を]ふらりと訪ねて行くと、キッチンでミック・ジャガーと一緒になった。彼とわたしは少し前にロンドンでフェイセズのライヴを観ており、彼らが繰り広げた強力なショウにミックは激しく感心していた。

 ミックは紅茶をすすりながら、ストーンズはちょっとした苦境に陥っていると明かした。彼らはアラン・クラインと縁を切ろうとしているところで、交渉をすすめるなかで、クラインにもう1枚アルバムを作る契約になっていることが判明した。そこで彼らはクラインとの契約期間中に残した全録音を洗い直し、何らかの理由でボツにした素材を集めてアルバムに仕立て上げ、その義務を果たすことに決めた、ということだった。

 しばらく前にストーンズとの仕事は止めていたが、彼らが使おうと考えている素材はすべてわたしが録ったもので、そこでミックと、思うにキースは、わたしに頼むことにしたのだろう。少しの間だけ元の鞘に戻り、ニューヨークに数日ほど行って、後に「ブラック・ボックス」として知られることになるものにまとめ上げてくれないか、ということだった。

(略)

 それから数日間、わたしたちはするべき仕事をバリバリとこなし、何時間もかけてマルチトラック・テープを洗い直していった。どのアルバムにも入らなかったのには、それなりの理由があった。どれもこれも失敗に終わった、粗削りな素案そのまま、と言っていいものばかりだった。

 ただ、ミックとの時間が楽しかったことは認めるしかない。(略)

 ある晩、ホテルのバーに飲みに行った際、また一緒にやることを考えてくれないか、とミックに言われた。この会話は以前から何度も繰り返しており、ほぼ毎回、どうしようもないほど醜い結果に終わっていた。これまでエンジニアとして大量の時間を君たちに差し出してきた、 だからこれからはプロデューサーとして認めてくれる、印税を払ってくれるということなら、続けてもいい、と言い張るわたしに対し、ミックはあくまで印税は払わないの一点張りで、わたしのことをよりによって売女呼ばわりして、両者は決別、という具合だった。

(略)

[結局]わたしは彼とキースとの共同プロデュースという条件で、依頼を受けることにした。

(略)

[『ブラック・アンド・ブルー』セッション]

[進まぬセッションの刺激にと、アムステルダムに来ていたリトル・フィートのライヴに誘い、全員衝撃を受ける]

 わたしの策略はしかし、ストーンズ・セッションには目に見える影響を及ぼさなかった。ミックとキースがその場を利用して、ミック・テイラーの後釜に据えるギタリストのオーディションをすると決めたのも痛かった。そのせいでレコーディングに費やすはずだった莫大な時間が無駄にされることになった

(略)

 10日目、キースとひと悶着あり、後にも先にもそれ一度きりなのだが、わたしはまたも憤然としてその場を去った。数時間後、ホテルをチェックアウトするべくフロントに向かう途中、ミックの部屋に寄った。ミックがそうしてくれと言ったからで、最後の別れを言いたいのだという。行くと、ドアが開いたままになっていて、バスルームに来てくれと言われ、そこで彼と最後の会話を交わした。 わたしと彼はありとあらゆる艱難辛苦を乗り越え、巨大な成功が彼らにもたらしたすべてを余すところなく共に経験してきた仲だった。 わたしは自分の妻や子供たちといるよりもはるかに多くの時間を彼らと過ごしてきたし、当時最高のロックンロール創造の瞬間をいくつか、この目で見るという特権にも恵まれてきたわけだが、その最後の瞬間、ミックは入浴中、わたしは戸口にコート姿で突っ立ち、足下にはスーツケース。お互いにまだ若い頃、十数年も前に始まった仕事関係の締めくくりだというのに。

 それ以来、キースとはごくたまに会うけれど、そのたびに彼はわたしを温かく迎えてくれる、ロッテルダムでの一件はとっくに忘れているのだろう。ふたりの心の底におそらく、共通の友人ステュを失ったことに対する語られざる深い悲しみがあって、それが仲を取り持ってくれているのだと思う。 

ザ・クラッシュ『コンバット・ロック』

 ザ・クラッシュとの仕事は、CBSロンドンの当時のA&R長で、スティーヴ・ウィンウッドの兄、"マフ"を介してやって来た。(略)

アルバムの制作はジョー・ストラマーとミック・ジョーンズが順番に手がけることになっているのだけれど、今回は少々意見の相違があり、彼らはニューヨークでスタジオをふたつ、2週間押さえ、各人が最初から最後まで別々に、相手の干渉を受けることなくミックスをすることになった、ということだった。(略)

送られてきたものはマフの眼鏡に到底適うものではなかった。(略)

正直に言わせてもらうと、わたしはクラッシュのファンじゃなかった。いや、もっと言うと、彼らに限らず、当時存在していたパンク・バンドはどれも好きじゃなかった。

(略)

どうせ非音楽的なばか騒ぎの酷い代物に決まっている、わたしには理解も共感もできないものなのだろうと、高を括っていた。すべてを聴き終えた頃にはしかし、嬉しい驚きを感じていた。確かにやりたい放題ではある、けれど彼らはじつに賢いアーティストであることが、そしてその音源には優れたアルバムにできるものが十二分に詰まっていることがわかった。

(略)

彼らはわざわざウエスト・サセックスのわたしの自宅まで来てくれた。(略)

ミック・ジョーンズは来なかった。後にわかるのだが、彼はそもそもこの案にまったく興味がなかったのだ。

(略)

わたしはジョーとすぐさま意気投合した。彼はわたしが出した提案をどれも快く受け入れてくれた(略)

2枚組ではなく1枚にまとめたほうが、はるかに強力な作品になる気がしていた。そうした提案はすべて、大いなる情熱をもってジョーに歓迎されたから、わたしは自信を深め、 ミックスだけでなくサウンドやアレンジに関しても、思いついたどんなアイディアも片っ端から試してみることにした。(略)

午後7時頃、コントロールルームの扉が開いた。入ってきたのは何と、不機嫌そうな顔のミック・ジョーンズだった。(略)

ミックは黙って座ったままで、わたしが感想を尋ねると、いくつか自分の手で変えたいところがあると、ぼそりと言った。そこで丁重に伝えた。これはどれもわたしがやったものだから、非常に残念だ。もしも今朝10時に皆と一緒にお越しいただいていたなら、君の意見は尊重され、支持されていたと思う。(略)

彼は来たときよりもなおいっそう不機嫌な様子で帰って行った。

 翌朝、わたしは(略)ジョーに電話で言った。君との仕事は非常に楽しかったのだけれど、君の友人に対する配慮が足りなかった、このまま続けるのが最善だとは思わない。数時間後、マフから電話があり、ミック・ジョーンズは悪かったと言っている、この先セッションには関わらない、この件についてはジョーに全権を預けると約束した、と伝えられた。というわけで、わたしはジョーと再度合流し、それから数日間、彼のヴォーカルをいくつか再録し、残りのミックスを仕上げる作業を満喫した。ジョーとの時間がどれほど楽しいものだったか、言葉では伝えきれない。彼の誠実さは、わたしがこれまで出会ったなかで間違いなく指折りだ。 才気煥発で、見るからに自らの成功に微塵も酔っていなかった。誠に素敵な、才能に溢れる男。 2002年12月、彼の他界は音楽社会にとって多大な損失だった。

(略)

ミックにしてみれば、相当量の時間と労力を投資した作品を手放すのは、至極受け入れがたいことだったに違いない。(略)にもかかわらず、彼は寛大にもわたしに任せてくれたし、ほとぼりが冷める頃には、少なくともある程度は結果に満足してくれていたように思う。それを知ったのは次に会ったときのことで、ミックはすこぶる上機嫌だった。

 数カ月後、わたしは米ツアー中のザ・フーのライヴ・アルバムを録っていた。いくつかのギグでクラッシュが前座を務めることになり、せっかく機材が揃っているのだから、うちらのステージも録ってくれないか、と彼らに頼まれた。 わたしは快諾し、ニューヨークはシェイ・スタジアムとロサンゼルスはコロシアムのライヴを録った。覚えているのは、溢れんばかりの狂騒的エネルギーと、サウンドがさえなかったことだけで、ベーシストはひとり、どこか別の非音楽的惑星にいるかのようだった。わたしの見解では、使えるものは何もなかったのだが、クラッシュ・ファンの飽くことなき食欲を満たすべく、所属レコード会社がそのいくつかを世に出したことは知っている。

 幸運にも、ジョーとはその後も友人関係を続けることができて、彼はアートスクール時代からの旧友タイモン・ドッグのアルバムを作る際に、わたしのスタジオに戻って来てくれた。悲しいかな、それが彼との最後になった。