サウンド・マン ロック名盤の誕生秘話 その3

前回の続き。

69年ビートルズ

[68年12月ポールから電話]

全曲書き下ろしたものをTV番組用に、観客を入れて生で演奏するとともに、アルバムとして出そうと考えている。(略)一緒に作ってくれるかな?わたしは宝くじに当たった気分だった。

(略)

 メンバーがぽつぽつと現われた。まずはポール、次がリンゴ、続いてジョージ、最後にジョンとヨーコ。全員が一堂に会するのは久しぶりらしく、親睦を図る当意即妙のやり取りが交わされ、だんだんと互いの存在に慣れていき、ある程度落ち着いたところで、プロジェクトに関する具体的な話に入った。ひとつだけ、軽い違和感を覚えたのがヨーコの存在だった。(略)彼女はジョンと同じ椅子に座ったまま動こうとせず、時には残りの3人の誰かが投げかけてくる質問に、ジョンに代わって答えていた。ジョンはそれに心から満足している様子(略)

わたしはどうにも据わりの悪い思いでいた。他の人々の気持ちも推して知るべしだろう。(略)

最初の曲に取りかかり、何度か通しでやった後、ポールが不意にわたしを振り向き、イントロはどうしたらいいかな、と聞いてきた。あまりの衝撃に、わたしは卒倒しそうになった。エンジニアとして雇われただけだと思って来たのに、たった今、リハのしょっぱなから、アレンジに関する意見を求められたのだ。 わたしはあらん限りの迅速性と自信をもって答え、イントロに関する案を提示すると、彼らはそれを気に入ってくれ、それを機にリハーサルが始動した。よそ者をあっという間に、いとも簡単に受け入れてくれたことに、わたしは感激していた。

(略)

『Recording The Beatles』にはわたしが呼ばれた理由について、映画関係の仕事に携るのに欠かせない組合員証を持っていたから、と示唆されている。この本に載っているわたしの関与に関する情報の大部分がそうなのだが、これもでたらめもいいところだ。わたしは音楽家組合以外のどこにも属したことがない。

(略)

ポールが抱いていた案は、船いっぱいにビートルズ・ファンを乗せてチュニジアのどこかにある古代に建てられた屋外円形劇場に連れて行き、そこでステージをするというものだった。だがそれは他の3人の好みと特には合わず、なかでもリンゴはとりわけ不服そうで、何よりも食べ物のことを気にしている様子だった。2日目、メンバー間の緊張状態が臨界点に達した。われわれスタッフ一同は大慌てで外に出て、4人だけで意見の相違を解決してもらうことにした。

(略)

 今でもよく覚えている、あの寒い灰色の午後、わたしはトウィッケナムの殺風景なサウンドステージの外で、番組ライン・プロデューサーのデニスと腰を下ろし、祈っていた。世界最大の成功を収めたバンドのプロジェクトに起用されたという高揚感が、どうかたったの2日で、激しいブレーキ音と共に急停止してしまわないように、と。

 何が起きたのかについて、わたしは詳しく語る立場にないが、よく知られているとおり、ジョージがバンドを後にし、数日後に説得されて戻った。

 この件に片が付くや、わたしたちは仕事を再開した。すべてすぐに水に流されて、何事もなかったかのような雰囲気だった。ひとつだけ目に見えて変わった点はヨーコで、相変わらずたいていスタジオに来てはいたものの、ジョンの椅子に一緒に座ることはなくなった。

(略)

不意に、ただごととは思えないけたたましいノイズが耳に飛び込んできた。誰かが猫を踏んづけたかのような騒音だ。機材のどこかに異常が発生したのかもしれない。わたしは慌てふためき(略)目を凝らした。(略)

頭から黒い袋をすっぽり被った小柄な人物で、袋からマイクのコードが伸びていた。どうやらそれはヨーコで、自分も演奏に貢献しようと思い立ったらしかった。

マジック・アレックス、ルーフトップ・コンサート、「サムシング」

海外行きという発案に伴う当初の興奮も、リンゴがどうにも気に入らないと宣言してから冷めていき、ジョンとジョージからも異論が出なかったことで、結局、廃案となった。

 これでちょっとした問題が発生した。それはつまり、TV番組にするというポールの原案の破棄を意味したからだ。

(略)

 ビートルズはサヴィル・ロウに立つ自社ビルの地下にスタジオを作らせており(略)わたしはジョージ・ハリスンに連れられて様子を見に行くことになった。

(略)

アップル・エレクトロニクス社の長がヤニ・アレクシス・マルダスという男で、ジョン・レノンはマジック・アレックスと呼んでいたが、わたしに言わせれば、いかさまアレックスに他ならなかった。わたしはアレックスと1967年のストーンズ欧州ツアー中に会っていた。彼はある日、ギグの場にふらりと現われると、ミックにライトショウの案を売りつけた。(略)ごくごく平凡なディスコ・ライトとしか言えない代物で(略)良く言えば妄想に取り憑かれている、悪く言えば紛うことなき詐欺師というのが、わたしの到達した結論だった。ただ、弁が立ったのは確かで、その数年前にビートルズを言いくるめ、自分は電子工学の天才であると彼らに信じ込ませていた。だが実際のところ、元同居人で、マリアンヌ・フェイスフルの最初の夫にしてアート・ギャラリーの主人、ジョン・ダンバーによれば、けちなTV修理工でしかなかった。

 ブライアン・ジョーンズは1965年、ギリシャから英国に来て間もなかったアレックスと知り合い、ダンバーのギャラリーに展示されていた彼の『ナッシング・ボックス』に深い感銘を受けていたジョン・レノンに紹介した。文字どおり、不規則に点滅する明かりが付いただけのただの小箱を、ジョンはLSDによる酩酊状態でその場に座り込み、じっと見つめていたらしい。

(略)

 アレックスはその後、史上最高の画期的スタジオを作れるとジョージに請け合った、72トラックのレコーダーを設計・製作できるとまで言い切ったらしい。まだ8トラックが最大だった時代の話だ。

(略)

アレックスがレコーディングというものをほとんど、いや何も知らないことは明らかだった。コンソール卓は1930年代のバック・ロジャーズのSF映画から持ってきたのではないかと思うような年代物。

(略)

わたしが思わず噴き出し、げらげらと大笑いしたときも、ジョージから偏見は良くないとたしなめられた。(略)

けれど結局、関係者全員に、そしてジョージにとっては至極無念なことに、彼らがぼったくられ、そこの設備一式がわたしの第一印象どおり、悪い冗談以外の何ものでもないことが程なくして判明した。

 ジョージ・マーティンが救済に駆けつけてくれて、アビイ・ロードから機材を借り受ける手はずを整え、それを運び、設置してくれたのが、かの名人デイヴ・ハリーズだった。

(略)

数日後、ビリー・プレストンがふらりと顔を出し、即座に参加を求められ、エレクトリック・ピアノの前に座った。結果的に、これが何とも素敵な、思いがけぬ贈り物になった。ビリーとビートルズは、ハンブルクはスター・クラブ時代からの旧知の仲で、皆が再会を喜んでいた。

(略)

 サヴィル・ロウでは、世界一有名な4人のミュージシャンが自ら書いた曲に磨きをかけ、納得のいくものに仕上げていく様子を目の前で見させてもらえた。エンジニア冥利に尽きると思っていたし、その気持ちは日を追うごとにますます強くなっていった。しかもこの時の彼らは「サージェント・ペパーズ」で広く知られることとなった信じられないほど複雑かつ革新的な制作手法を離れ、これ以上ないほどシンプルな編成でそれを行なっていたのだから、なおさらだ。

(略)

リンゴから不意に、屋上に行ったことはあるかと聞かれた。ロンドンのウェスト・エンドが見渡せて、良い眺めなのだという。(略)

[壮観な景色を見てわたしは]口にした。大人数を相手にやりたいと思っているなら、この屋上でウェスト・エンド全域に向けてやったらどうだろう。下に降りてその案を皆に伝えたところ、短い話し合いの末、それでいくことに決まった。

(略)

 ある日の午前中、他の3人がスタジオに現われる前にジョージから、今日は終わった後、少し残ってくれないかな、デモを録って欲しいんだ、と頼まれた。ひとつ自分で書いた曲があるのだけれど、みんなの前ではやりたくないと言う。(略)

[それが「サムシング」]だった。これはすごい、彼の最高傑作なんじゃないか、と思ったのを覚えている。歌い終えたジョージがコントロール・ルームに入って来て、プレイバックを聴き、どう思うか尋ねてきた。自信がないようだった。素晴らしい、絶対にみんなにも聴かせたほうがいいよ、とわたしは伝えた。これはあくまでも推測だが、ジョンとポールの陰で生きてきた結果、自信をくじかれていたのだろう。

グリン・ジョンズ版「レット・イット・ビー」

 1969年5月1日、ジョンとポールから電話があり、話があるからアビイ・ロードに来てくれないかと言われた。コントロール・ルームに入ると、そこにはうず高く積まれたマルチトラック・テープの山ができていた。聞けば、1月に君が出してくれたアルバム案を再検討した結果、君に任せることにした、サヴィル・ロウで収めた全録音をミックスしてひとつにまとめて欲しい、という。考えただけで興奮してきて、いつから一緒に始められるのかと、勢い込んで尋ねた。ふたりの答えは、君の案なのだから、君ひとりでやってもらって一向に構わない、だった。全幅の信頼を置いてもらえたと思い、その時は有頂天だったのだが、間もなく気づくことになった。彼らがこのプロジェクトに対する興味を失っていたというのが、真の理由だった。

 ともかく、わたしはオリンピックのミックス・ルームに直行し、それから3晩を費やしてアルバムを編集し、翌日のオリンピックでのセッションでそれを4人に聴いてもらった。

 わたしはもともとエンジニアという扱いであり、それで十分に満足していたし、その気持ちはジョージ・マーティンが制作に携わらないと知ったときも変わらなかった。(略)彼が関わらないと知った当初は、正直、かなりの気後れを感じたのをよく覚えている。

(略)

何とも微妙な立場にいるわたしを気づかい、サヴィル・ロウに移る前、ジョージは親切にも昼食に誘い出し、大丈夫、君はいい仕事をしている、何の問題もない、私の足を踏みつけて気分を害するようなことは何もしていないよと、優しい言葉をかけてくれた。 何と素敵な紳士なのだろう。

 自分版「レット・イット・ビー」のミックス済みマスターを渡した後、私はアルバムに制作者クレジットを載せてもらえないだろうかと、メンバー各人に尋ねて回った。 欲しいのはクレジットだけで、印税は要らないという点も、はっきりと伝えた。 ポール、ジョージ、リンゴの3人に異存はなかったのだが、ジョンはいぶかしみ、どうして印税が要らないのか、意味がわからないと言われた。わたしの説明はこうだった。君たちの地位を考えれば、僕の関与がどんな形であれ、アルバムの売り上げに影響を及ぼすことはない。だから今回の僕の仕事にはクレジットが分相応だと思うし、それだけでも今後のキャリアにとって十二分にプラスになるはずだから。 ジョンの答えはついにもらえなかった。

 蓋を開けてみればしかし、どんな答えであろうが、関係なかった。バンド解散後、ジョンはそのテープ群をフィル・スペクターに渡したからで、スペクターはそこら中にへどをまき散らし、あのアルバムをいまだかつて聴いたことがないほど甘ったるいシロップ漬けの糞みたいな代物に一変させてしまった。(略)

わたし版の“ゲット・バック"/“ドント・レット・ミー・ダウン"は一応、シングルとして1969年4月に発売された。

オールマン・ブラザーズ、ディラン

リハーサル中のオールマン・ブラザーズを見たものの、まだアルバムを作れる状態ではない気がした。まだ最初期の話だ。 潜在力は明らかに見て取れたものの、少々粗削りだった。どういうわけか、彼らはドラマーをふたり使うことにしていた。簡単にものにできる芸当ではないし、実際、ふたりでどう叩き合うのか、いまだ模索している最中だった。そのせいだろう、リズム・セクションはぎこちなく、安定感に欠けており、それでわたしは見送ることにした。その晩はデュアン・オールマンの自宅にお邪魔し、彼とすぐさま意気投合して、音楽やミュージシャンについて明け方近くまで大いに語らい、楽しい時を過ごした。デュアンは驚異的なギタリストであると同時に、人間的にも魅力的な男だった。

 続いて、ヤン・ウェナーと共にニューヨークに飛んだ。 機上、彼は先頃ボブ・ディランに行なったインタビューの原稿をまとめていた。その記事はヤンにしかできない離れ業だった、ディランは数年来インタビューを受けていなかったからだ。

 ニューヨークに着き、手荷物受取所を抜けて歩いて行ったわたしの目に飛び込んできたのは、何とディランその人だった。柱に寄りかかって人間観察をしていた。 ヤンが歩み寄って話しかけるなか、わたしは荷物を拾い上げ、迎えのリムジンを見つけようと外に出た。ディランとは面識がなかったし、話の邪魔をしたくなかったからだ。ところが、ヤンに肩をトントンと叩かれたので振り向くと、そこにかの偉人が立っていた。わたしにわざわざ挨拶に来てくれたのだ。彼はわたしが録り終えたばかりのビートルズのアルバムについて尋ね、長年にわたるストーンズとの仕事についてお褒めの言葉をくれた。興奮したわたしはお返しに、彼の仕事にわたしたち皆がどれほど影響を受けているのか、一気にまくし立てた。すると、ディランが言った。ビートルズストーンズと一緒にアルバムを作ってみるのも面白いと思っているんだけど、彼らが興味を示すかどうか、確かめてもらえないかな?

 わたしは度肝を抜かれた。(略)イングランドに戻るとすぐにわたしは各人に電話を入れ、賛同か否か確かめて回った。キースとジョージはふたりとも、非現実的に過ぎるけれど、そうはいってもディランの大ファンだからやってもいい。リンゴとチャーリーとビルは、他のみんながその気ならばいいんじゃないか。 ジョンはきっぱりノーとは言わなかったものの、さほど引かれない様子。 ポールとミックはいずれも、冗談じゃないという返事だった。

 今でもよく、 もしも実現していたらどうなっただろう、と思うことがある。いずれにせよ、一筋縄で行かなかったのは間違いないだろうが。

(略)

 ラガーディア空港での邂逅から6週間後、わたしはついにディランと仕事をするに至った。彼の最初のプロデューサー、ボブ・ジョンストンから、ワイト島音楽祭でのステージを生で録って欲しいと頼まれたのだ。ディランは当時ザ・バンドを引き連れていた。彼らの1作目「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」はわたしの音楽的嗜好に莫大な影響を与えた作品であり、それだけに楽しみで仕方なかった。

 ギグの前の晩、わたしは招待を受け、彼らが島に借りていた大邸宅のボールルームでのリハーサルに行った。この晩のことは一生忘れない。その広々とした、豪華絢爛なボールルームでたったひとり(略)翌日に予定されていた大半の曲のパフォーマンスを、そしてそれをほぼ完璧にまで磨き上げる過程を見るという恩恵に与かったのだ。ただ、コンサート自体はそれほど良くなかった。1時間もしないうちに、ディラン氏は癇癪を起こして、さっさとステージを降りてしまった。

(略)

次に会ったのは1984年、当時彼をマネジメントしていたビル・グレアムからライヴ盤「リアル・ライヴ」の制作を任されたときのことで、ディランはツアーでヨーロッパに来ていた。バンドにはミック・テイラーとイアン・マクレガンがいて、ふたりに会うのは久しぶりだった。ストーンズ在籍時代に諸々の経験をしていただけに、ミックと顔を合わせるのは少々気が重かったのだが、再会してみていい意味で驚いた。まるで別人のように更生していたからだ。

(略)

 諸々を終えてディランはアメリカに帰り、わたしは自宅に戻り、全コンサートの録音をラフ・ミックスして彼に送った。(略)いざ話し合ってみると、曲については意見が一致したものの、パフォーマンスについての見解がまったくもって違うことが判明した。ディランはどのテイクもことごとく最悪の例をこともなげに選んできたのだ。試験か何かの類だったのだろうか、答えは永遠にわからない(略)

ディランは極めて感じが良く、意見に進んで耳を傾けてくれ、最後にはわたしが推すテイク群を使うことで納得してくれた。

 自宅スタジオでミックスを終え、それを持ってLAに向かい、マスタリング・ラボのダグ・サックスとマスタリングに入った。(略)

 ボブはLAに住んでいたから、一応礼儀として、もし良かったら来ませんか、と声をかけた。すると驚いたことに、マスタリング・セッションに出たことがなかったらしく、ぜひ見させてくれ、という言葉が返ってきた。ディランは最後まで残り、わたしが車まで歩いて見送りに行った際には、握手をして感謝の言葉までくれた。その車はよく覚えている、見たこともないほどおんぼろの古いキャデラックのオープンで、ボディは錆びだらけ、残っている塗装は皆無に等しいという代物だったからだ。笑みを浮かべ、さっと片手を挙げると、ボブはハリウッド・ブルヴァードを西に向かい、午後の陽射しの中に消えていった。そして悲しいかな、以来、彼とは一度も会っていない。

ハウリン・ウルフ

 1970年は、元旦のリンゴ宅でのパーティで幕を開けた。(略)別の部屋から響いてくるドラムの音を耳にし(略)見に行くと、キース・ムーンがリンゴの4才になる息子ザックに手ほどきをしてやっていた。キースはザックの憧れの存在で、名付け親でもあった。

(略)

1月の第1週はアビイ・ロードとオリンピックで「レット・イット・ビー」の仕上げと、ジョージ・ハリスンとのビリー・プレストンのアルバム作りに明け暮れた。

(略)

3月末に地元に戻り、ローリング・ストーンズと夜通し続きの苛酷極まりない数週間を過ごし、さらに(略)ハンブル・パイの[A&Mでの]1枚目に向けた最初期のセッションをいくつか手がけた。

(略)

 続いて、チェス・レコードから電話があり、ブルース界の伝説ハウリン・ウルフがオリンピックスタジオでいくつかセッションをするから、エンジニアを務めてくれないか、と頼まれた。

(略)

チェスから来た男[ノーマン・デイロン]がいかにしてレコード・プロデューサーになったのか、わたしには理解できない。そいつはあらゆるレベルにおいて、徹頭徹尾無能であることが判明した。死んだ魚かと思うほど糞面白くない男で、ブルースのことが微塵もわかっていないことが、すぐさま明白となった。

 精一杯売れ線を狙ったのだろう、そのプロデューサーはリズム・セクションにリンゴ・スターとクラウス・フォアマンを押さえていた。いや、ふたりとも優れたミュージシャンではあるし、個人的にも大好きだが、どんなに頑張っても、彼らにブルースがわかるはずもなかった。そもそも、ふたりがなぜこの依頼を受けたのかがわたしには理解できない。特にリンゴは初日、何が何だかがさっぱりわからないから教えてくれ、頼むから俺とクラウスが残りのセッションから外れられるように手を貸してくれ、と言ってわたしに泣きついてきたのだから、なおさらだ。だからそのプロデューサーにそれとなく伝えた、あのふたりを入れたのは間違いです、自分ならたぶんビル・ワイマンとチャーリーワッツを口説いてステュと一緒に呼んで、残りのセッションで弾かせられますよ。

(略)

ステュとチャーリーと同じく、ビルもかの偉人と対面し、一緒にやれる機会にすっかり興奮し、すべてを放り出して車に飛び乗った。というわけで、リンゴとクラウスはお役ご免となった。

(略)

 ウルフは大男で、胴回りは樽ほどもあり、巨大な手から伸びる十指は、ギターなどとてもではないが弾けないだろうと思うほど太かった。喋る声も野太く、さながら喉の奥に砕いたガラスを数ポンド流し込まれたかのような響きだった。ミュージシャンたちがスタジオで曲を覚えている間、彼はコントロール・ルームに座り、わたしにさまざまな逸話を語り、自らが書いた歌詞についてあれこれと説明してくれた。ただ、お恥ずかしい限りなのだが、実のところ、何を言っているのか大部分は理解できなかった、訛りがきつ過ぎて、わたしにはほぼ意味不明だったからだ。わたしはすっかり魅了され、うっとりとして隣に腰を下ろしたまま、わかっていないことはおくびにも出さず、彼の言葉を必死で解釈しようと努めつつ、もう一度繰り返してくれと言って、失礼な奴だと思われることだけは許されないと、固く肝に銘じていた。ウルフは文字どおり心優しき巨人で、わたしはその面前にいられることのありがたみを深く噛みしめていた。

 ただ、ウルフ本人は自分が一体なぜそこにいるのか、まったくわかっていない様子で、それが何とも悲しかった。エリック・クラプトンのことは知っていたかもしれないが、それも誰かから聞いたからでしかなかった。他のミュージシャンのことは誰ひとり知らないようだった。一体全体何が起きているのか、皆目見当もつかないまま、商業的目的で所属レーベルに利用され、操られているとしか、わたしには見えなかった。彼は高齢で、混乱し、万全の体調ではなかった。

 とはいえ、至上の瞬間もあった。“リトル・レッド・ルースター”を始めようかというときのことだ。(略)

 ミュージシャンたちが通しでやり始めると、ウルフはそれを止め、コントロール・ルームに入り、段ボール製のくたびれ果てたギターケースを開け、古めかしい、同じくくたびれ果てたFホールのアコースティック・ギターを取り出した。

 ギターを手にしてスタジオに戻ると、彼はエリックの真向かいにどっかと腰を下ろし、目をまっすぐに見据えて言った。「こいつの弾き方を教えてやろう。俺が死んだら、誰かにちゃんとやってもらわんといかんからな」

 何が起きようとしているのかに気づくが早いか、わたしはレコーダーのもとへと走って録音ボタンを押し、畏敬の念に打ち震える、王位を狙う若者に老師が教え授ける様子を録った。あの場にいた全員にとって、それはまるで壮大な叙事詩を見ているかのごとき瞬間だった。

次回に続く。

サウンド・マン ロック名盤の誕生秘話 その2

前回の続き。

シェル・タルミー

[ジョージィ・フェイムとは]互いに馬が合う感じだった。(略)バンドを連れておいでよ、2、3曲録ろう、レコード契約を持って来られるかもしれないし、どうだろう? (略)だが当日、ジョージィはシェル・タルミーを連れて現われた。どうやらシェルがジョージィに近づき、プロデュースを手がけたい旨を伝えていたらしく、そこでジョージィは一石二鳥を狙ったというわけだった。無論、わたしとしては、控えめに言っても、あまりいい気はしなかった。シェルとは初対面で、彼がどこの誰なのかも知らなかった。そこでわたしは、これは僕のセッションであり、僕がプロデュースすると、きっぱりと言い放った。シェルはそれを黙って聞いてから、せっかくこうしてふたりいるのだから、仲良くやろう、まずはどうなるか様子を見てみようじゃないかないかと、穏やかな口調で提案してきた。 それで不承不承同意したのだが、これが結果的に、わたしにとって過去最高峰の決断になった。シェルがなすべきことをちゃんと心得ているのは、セッションを始めてすぐにわかったし、向こうもわたしに対して同じように思ったらしかった。こうしてわたしたちは親友になり、共に仕事をするようになり、これが後の有益な協力関係につながり、それからの数年間、彼が制作した大半のレコードでわたしはエンジニアを務めることになった。そうして生まれたのがザ・フーの“マイ・ジェネレーション"であり、ザ・キンクスの“オール・デイ・アンド・オール・オブ・ザ・ナイト"や"ユー・リアリー・ガット・ミー”だった。

アンドルー・オールダム

 わたしは変わらずスチュと一緒に住んでいて、ストーンズがわたしとIBCを見限ってアンドルー・オールダムと出て行ったのはもう、過去のこととして割り切っていた。

(略)

[熱を上げていた女性から頼まれアンドルーの仕事を引き受けることに]

わたしは彼に伝えた、このセッションをやることを心から嬉しいとは思っていないが、無理矢理やらされることになった、だからここはひとまず仲良くやり、とっとと仕事を済ませて帰ることにしようじゃないか。(略)

これは認めるしかないのだが、わたしはアンドルーの制作手腕にたいそう感銘を受けたのだ。セッション終了後、アンドルーに聞かれたので、嫌々ながらそう伝えた。

 アンドルーはすかさず電話に向かい、秘書に連絡を入れ、最近自分が手がけたレコードを何枚かタクシーで届けるよう命じた。かわいそうな秘書よ、時刻は午前1時だった。ともかく、レコードが到着した。彼はわたしにそれらを聞かせると、いかにも嫌味な口調で合格かどうかと聞いてきた。認めるのは癪だったが、あまりにも良くて驚いたと正直な気持ちを白状した。するとアンドルーは、今後、自分のためにエンジニアをしてくれないかと言ってきて、わたしは了承した。

 これがわたしとアンドルーとの数年にわたる仕事につながった。アンドルーは自身のレーベル、イミディエイト・レコードを設立し、1965年から1970年というその存在期間中、同社から世に放たれた作品の多くをわたしが録った。そして、そこから生まれた最も重要なものといえばもちろん、これを起点として始まり、何年も後〝ブラック・アンド・ブルー〟セッション中にわたしが止めるまで続いたストーンズとのレコーディング作業に他ならない。

ストーンズ、ジミー・ミラー

典型的なストーンズとのセッション開始予定時刻は夜8時だった。7時55分頃、わたしがスタジオに着くと、必ずと言っていいほど、チャーリーがコントロール・ルームで静かに待っている。数分後、そこに加わるのがビルで、彼も同じく時計の針並みに規則正しく、ふたりとも予定時刻ぴったりに始められる準備を整えている。続いてミックとブライアンが8時頃に現われ、あとはキースを待つのみとなる。遅刻時間は長短さまざまで、30分のこともあれば、朝の6時まで来ないこともある。だが誰も何も言わない、そんなことをしても無駄だと承知しており、現状を甘んじて受け入れている。キースが現われるまでにやれることをやっておくのが常で、録ったものを聴き直したり、追加作業が必要なトラックにミックかブライアンがオーヴァーダブを行なったりした。

 初期、スタジオに転がっているほぼどんな楽器からでも調べを引き出せるブライアンの能力は、バンドのサウンドの多様性に大きく貢献したものだった。たとえば〝ルビー・チューズデイ〟でリコーダーを吹いたのも、セッション・パーカッション奏者が置いていったマリンバに目を留め、〝アンダー・マイ・サム〟を力強く引っ張るパートを思いついたのもブライアンだった。 ブライアンはまさしくリフの王様だったし、その代表例が〝ザ・ラスト・タイム〟なのだ

(略)

キースの類い稀なるリズムをブライアンが多種多様なサウンドで補完していた。

 ミックとキースはスタジオでたびたび曲作りをしていた。どちらか一方が骨と皮だけのアイディアを持って現われる。キースの場合は概して、2、3小節分のコード進行を抱えて来て、椅子に腰かけ、それを何時間も繰り返し延々と弾き、そんな彼にビルとチャーリーが付き合い、 桁外れの辛抱強さを見せ、掛け替えのないサポートを供する。そのうちにブライアンとステュかニッキー・ホプキンスが加わり、いくつか違うアイディアと楽器編成を試す。 曲が形を成してくると、それまでわたしと一緒にサウンドに耳を傾けていたミックがコントロール・ルームを出て、演奏に合わせて歌い、言葉を適当に羅列しただけの意味のない歌詞を唱えながらメロディを編み上げていく。最終的にわたしがそれを録り、その成果をプレイバックで聞かせ、それをもとに参加者各人がミックとキース、そしてアンドルー・オールダムの、後年はジミー・ミラーの厳格な指揮の下、それぞれのパートを磨き上げていく。

(略)

彼らが創り上げようとするものから放出されるアドレナリンと興奮は、キースが良しとするテイクにたどり着く頃にはもう、とっくの昔に消え失せていた。(略)

初期テイクのほうがマスターとして選ばれたものよりもはるかに出来が良いことも多々あった。

(略)

「サタニック・マジェスティーズ」の傷の痛みがようやく引いた頃、やっぱりプロデューサーを使うことにした、とミックに言われた。アメリカ人がいいという。どこの馬の骨とも知れないアメリカ人がやって来て、エゴ丸出しの偉そうな顔でああだこうだとうるさく指図してくる様子を考えただけで、わたしは寒気がした。そこでふと思い出したのだが、その2週間ほど前、わたしはたまたまジミー・ミラーと会っていた。彼はオリンピックの隣のスタジオでトラフィックを録っていて、感じのいい人に思えたし、いい仕事をしていた。それでミックに、わざわざ誰かを輸入するまでもない、じつに立派な男がもうここロンドンにいるじゃないか、と伝えた。ミックとキースの審査を受け、ジミーは晴れて合格となった。ただ、わたしが推薦者だったとはつゆも知らぬジミーが最初にした仕事は、エディ・クレイマーをエンジニアの座に据えることだった。幸いにも、ストーンズの面々がわたしを戻すよう強く推してくれて、2、3日間だけのことで済んだのだが。

 

未来の子供達(紙ジャケット仕様)

スティーヴ・ミラー・バンド

[68年ロンドンにやってきたスティーヴ・ミラー・バンド]

割り当てられた6週間の録音期間の内、1カ月が過ぎたが、テープに残すに足るものは何ひとつなかった。スティーヴは曲やアレンジ、録音技術に関するさまざまなアイディアを延々と試すばかりで、いずれも失敗に終わっていた。彼が普通のミュージシャンでないこと、そしてまったく新たな何かを探し求めていることはよくわかったが、今すぐにでも何かが変わらなければ、バンドの信頼と敬意も、エンジニアの奉仕も失いかねない状態だった。そこでわたしは彼を座らせ、ごく穏やかな物言いで説いて聞かせた。今のままでは残りの2週間を続ける意味が僕には見えない、もしもこのままでいくというなら、僕は降ろさせてもらう。何がいけないのかと問われたので、わたしはプロデューサーが要ると伝えた。責任を持って場を仕切る者もいなければ、何らかの決断を下す気でいる者がいるとも思えない、このプロジェクトは首のない鶏と変わらない、と。

 わたしが仕方なく口にしたその言葉を彼は気持ちよく受け入れ、さらにこう申し出てきた。どうだろう、そのプロデューサー役は君がやってくれないかな、それならこのまま残ってくれるかい?

 ついに来た。ようやくプロデュースを頼まれたのだ。 わたしは檻から放たれた気分だった。エンジニアがプロデューサーになるというのは、当時、前代未聞の話だった。両者は完全に別個の職業と見られていたからだ。それは明確に定義された階級制度であり、わたしはずいぶん前から壊されて然るべきだと感じていた。

 わたしは当時26才、それまでの8年間を何人かの優れた、そしてひとりないしふたりのさほど優れていないプロデューサーとの仕事に費やしてきた。

(略)

自分が制作に貢献しているのはわかっていたし、クレジットも報酬もなかったが、それを微塵も苦々しくは思わなかった。たぶん、遅かれ早かれ機会は巡って来ると感じていたのだろう。

(略)

 ステレオ・クロス・フェードを使ったのは、このアルバムが最初で、今のところ最後だ。次のトラックが右からフェードインして来て、それに押されて前のトラックが左から出て行く。この後も何度か試してはみたのだけれど、この盤ほどの効果は出せていない。

1968年、プライアン・ジョーンズとグナワ

 1968年は、多種多様なアーティスト勢との仕事に明け暮れる、嵐のごとき日々と共に幕を開けた。 週6日働き、1日に2組、違うアーティストを手がけることもざらだった。手始めがピーター、ポール&マリー、続いてスモール・フェイセス。マイク・サムズのジングル、フランスのスター、ジョニー・アリデイと数日、再びスモール・フェイセスと幾晩か徹夜、続いてジョー・コッカープロコル・ハルムジョージィ・フェイムスティーヴ・ミラー・バンド、そしてマーキー・クラブでザ・ムーヴのライヴ盤、といった具合だ。

 3月、「未来の子供達」の完成から少し経った頃、ブライアン・ジョーンズから、一緒にモロッコに行かないかと誘われた。毎年その時期に、アトラス山脈の集団グナワのパフォーマンスがマラケシュの市場広場で見られるから、それを録ってもらえないか、ということだった。

 ブライアンはポール・ゲティ・Jr[石油王と呼ばれた世界有数の大富豪の長男]を知っていて、ゲティは市の中心地に豪邸を持っているから、そこに泊めてもらえるという。ブライアンとの友情については正直、懐疑的なものがあったのだが、まあいい、ここは思い切ってみるか、と心を決めた。

(略)

 グナワは15人ほどの男性ミュージシャンから成る集団で、下はティーンエイジャーから上はリーダーを務める高齢の者までおり、そのリーダーを中心に皆でコール&レスポンスを繰り返すチャントを歌いながら、複雑極まりないパーカッシヴなリズムを紡いでいく。 年配のふたりが首から下げた大きな太鼓の担当で、湾曲した長い棒状のスティックでそれを叩き、残りの者たちは大きな金属製のカスタネットを奏でる。 全員揃いの白いカフタンに身を包み、歌のハーモニーとパーカッションだけで音楽と、わたしが思うに、メッセージを発していた。ブライアンが考えていたのは、彼らのリズムとチャントを録り、それを持ってニューヨークに行き、米黒人ブルースおよびソウル・ミュージシャンのプレイをその上に重ね、アフリカ音楽の伝統と新種をひとつにする、というものだった。

(略)

これはこの先、いつまでも忘れないと思う。モロッコでの最初の朝、頭上20フィートほどの天井のすぐ下、美しいステンドグラスの窓から差し込んで来る陽射しで、わたしは目を覚ました。アルコーブ[壁の一部をへこませて作った空間]に設えられたベッドに、毛皮の掛布と色とりどりの絹のクッション。贅沢の極みだった。起きてシャワーを浴び、外に出ると、召使いが待っていて、壁に囲まれて中央に沈床園を設えた、目を見張るほど美しい中庭へと誘われた。そこにはテーブルが用意してあり、そこで 朝食をいただいた 。目の前の木からもいだばかりの新鮮なオレンジのジュースも美味だった。おかしなもので、人は細かいことばかり覚えている、記憶というのは往々にして味と匂いに関連づけられるものなのだ。

(略)

 マラケシュに着くが早いか、ブライアンはどこかで麻薬を手に入れ、そこにいる間中、正気をなくしてフラフラしていた。そこでわたしは自由を満喫することにし、ひとりでテープレコーダーを携えて広場に行っては、グナワをはじめ、いろいろな、いずれも驚愕のミュージシャン集団の演奏を収める仕事に励んだ。彼らは皆、この上なく突飛な手製の楽器を奏でていた。地べたにあぐらをかいて座り、歌いながら3弦楽器を弾く男。それは木製のシガーボックス製で、短い棒が刺さっており、棒の先に小さな金属製の羽根が付いていて、彼が弦を弾くたびにそれが震動し、独自のパーカッション的サウンドを響かせていた。ブレーキドラムを錆びついたスパナで叩いている男もいた。(略)わたしが見たことのある楽器を弾いている者は、ひとりとしていなかった。それは世にも不可思議で面白い不協和な光景と音であった。

(略)

 ポールはグナワを夕食に招待し、豪邸の大広間でわたしたちだけのために演奏してもらうことにした。(略)何から何まで、まるで映画のようだった。グナワは外のほうが落ち着くと言って中庭で食事をし、それが済むとわたしたちが待つ中に入って、刺激に満ちたパフォーマンスを見せてくれ、わたしはそれを市場や広場に常にあった余計なノイズに邪魔されることなく録った。生涯忘れない一夜になった。

 

セイラー(紙ジャケット仕様)

セイラー(紙ジャケット仕様)

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スティーヴ・ミラー・バンド「セイラー」

[68年]4月末、わたしは初めてカリフォルニアに飛んだ。(略)

 6月、LAに戻る前の晩、スティーヴ・ミラーから電話があり、バンド名をセイラーに変える、次のアルバムはその新しい名前を反映したコンセプトものにしたい、と言われた。「サージェント・ペパーズ」に感化されての決断だったのかどうかは知らないけれど、今にして思えば、そうだったのかもしれない。ともかく、わたしは多少当惑した。

(略)

ティーヴは丸めた大きな紙を携えていた。それをベッドの上に仰々しく広げると、彼は鉛筆を手に取り、紙の端から端まで波線を描き、これが今度のアルバムを図で表わしたものだと言った。こいつは面倒なことになった、と思った。スティーヴのことは気に入っていたし、仕事上の関係は極めて良好だった。そこで、彼はわけのわからないことを言っているのではない、理解できないのは僕のせいだと考えることにして、とりあえず話題を変え、LAへの機上でひらめいた案を伝えた。1曲目にSEを駆使したインストを置き、想像力を大いに働かせれば、地元の港に帰って来る船乗りの姿に聞こえるようにする。続く曲群は、数年間の航海後にその船乗りが発見する、社会および自身の恋愛に関する変化を表わすものにする、というのはどうだろう?

 スティーヴとバンドはその案を気に入ってくれて、翌日からレコーディングを始めた。霧の深い真夜中、サンフランシスコの埠頭に行って、アルバムの幕を開ける不気味な霧笛の音を録り、続いてそのファースト・トラックの導入にふさわしい音風景作りに着手した。バンドのメンバー全員に1音だけ歌わせ、その録音をオルガンと合わせ、速度を上げたり下げたりしてピッチを変え、それをひとつずつ順番に入れ、最初のコードに仕立てた。こうして生まれたのがインスト・ナンバー〝先祖の歌〟で、書いたのはスティーヴだが、ボズ・スキャッグスが弾いている。

(略)

バラード〝いとしのマリー〟では、スティーヴの声が際立っている。 スティーヴは自分の声を重ねてハーモニーを作るのを好んだ。たぶん、レス・ポールの影響があったのだろうとわたしは踏んでいる、形成期のスティーヴにとって、レスは心の師のような存在だったからだ。わたしが仕事をしたシンガーでこれをやったのは、スティーヴが最初だった。スティーヴは卓越した技で自身の声同士を見事に融合させている。

(略)

 録り終えたアルバム(「セイラー」)には、当初のコンセプトは跡形も残っていなかった。物語性はなくセッションの半ば頃には忘れ去られていた――バンドは名前を変えなかった。その件が話題になることさえなかった。別に大したことじゃない。結果的に大成功だったからだ。あのアルバムはスティーヴの傑作の一枚と称えられている。

1968年10月、レッド・ツェッペリン

[疎遠になっていたジミー・ペイジから電話。新しいバンドを作るので]願わくはこのわたしとやりたい、ということだった。

 わたしは一も二もなく飛びついた。ジミーとは地元が一緒で、60年代前半からよく知る仲だったし、ジョンは長らくロンドン随一のセッション・ベーシストだったからだ。ジョンとはエンジニア時代に毎日のように顔を合わせていて、彼がこれ以上望めないほどの人格者であることも知っていた。

 そのふたりが組んだのだから、いいものになるに決まっているという確信はあったものの、数週間後、オリンピックに赴いたときにはまだ、自分がこれから何に足を踏み入れることになるのか、よくわかっていなかった。正直、足下から吹っ飛ばされるほどの衝撃だった。それからの9日間でわたしたちが作ったアルバム(「レッド・ツェッペリン」)は、ロック史における大きな一歩に他ならない。ロックをまったく別のレベルへと連れて行った歴史的一枚だ。

 彼らが創出したサウンド、彼らが考案したアレンジ、彼らの楽才の水準、そのどれもが等しく驚愕だった。彼らが用意していたものがわたしの目の前で次第に姿を現わしていくなか、セッションは回を重ねるごとにわくわく感を増していった。わたしはただ録音ボタンを押し、あとは椅子の背に身体を預け、僕は今、重要な現場にいるのだという興奮を抑えていればよかった。

(略)

 アルバムが完成したのはちょうど、『ロックンロール・サーカス』(略)をまとめているときだった。そこで、ある日の制作会議にそのアセテート盤を持って行き、ミックに聴かせて言った。このバンドはこの先とてつもない大物になる、だから今のうちに前座に呼んだらどうだろう、いい話題作りになると思うんだけど。 わたしの言葉はあっさりと聞き流された、ミックにはまるでぴんと来なかったからだ。数カ月後、あるビートルズ・セッションからの帰り道、ジョージ・ハリスンをオリンピックに引っ張り込んでマスター・テープを聴かせたのだけれど、結果は同じで、彼にもさっぱりだった。少々戸惑ったのを覚えている、わたしがこんなにもすごいと思うものがなぜ彼らにはわからないのか、まったく理解できなかったからだ。

(略)

 わたしがステレオでドラムを録音する手法を見つけたのは、このアルバムのセッション中のことで、それはまったくの偶然だった。ドラムの録音にわたしは通常、マイクを3本、ないしは4本使う。トップに1本、フロアタムに1本、バスドラムに1本で、あと1本はスネア用だが、これはごく稀にしか用いない。当時はトラック数が常に限られていたため、たいていはドラムを1トラックに収めたもので、セッションによっては、ベースと一緒に入れることもあった。

 すでにベーシック・トラックの録りは済んでいて、アコースティック・ギターを重ねることになった。そこでわたしはドラム用のノイマンU67を1本、ギターに使ってオーヴァーダブを終え、そのマイクを元に戻し、次のベーシック・トラック録りに移った。録音を終え、フェーダーを上げてドラムを聴いたところ、ついうっかり、そのマイクをオーヴァーダブに使ったトラックに合わせたままにしていたことに気づいた。ステレオの左の奥に振ったままにしていたのだ。もう1本のドラム・マイクは中央に合わせていたから、そのせいでサウンドが左に寄っていた。そこでふと、左右に振ったらどうなるだろうと思い、フロアタム・マイクが少しだけスネアのほうに向くよう位置を調整し、2本のマイクがスネアから等距離になるようにした。結果は強力極まりないもので、ステレオの新たな概念をくれるものだった。ステレオ像全体にドラムが広がっているのは不自然なので、各トラックを半分ずつ左右に移動させ、結果、この時以来使い続けている手法が出来上がった、というわけだ。

次回に続く。

サウンド・マン ロック名盤の誕生秘話 グリン・ジョンズ

ジミー・ペイジ、ロニー・ドネガン

 わたしは教会に侍者として残り、水曜の晩は教会のユースクラブに通うようになった。(略)

ある晩、素人コンテストが開かれた。(略)10代前半の、誰も見たことのなかった少年がステージ前方の縁に腰かけて、脚をぶらぶらさせながらアコースティック・ギターを弾いた。かなりうまくて、確か優勝もした気がする。(略)

これが、わたしとジミー・ペイジとの最初の出会いになった。

 

 1957年、15才になる頃、わたしはトラディショナル・ジャズに惹かれていた。学校に上級生らが組んだバンドがあって、わたしも入りたかったのだが、けんもほろろに追い返され、偉そうにするなと耳の辺りに平手打ちまでもらった、ミドルスクールの“粋がった”小僧としか見てもらえなかったからだ。そのバンドのクラリネット奏者はディック・モリッシーといい、彼はその後、英国史上屈指のモダン・ジャズ・サックス奏者になった。

(略)

姉がレス・ポールとメアリー・フォードの“リトル・ロック・ゲッタウェイ”のSP盤を買ってきたときのことは、よく覚えている。 何から何まで真新しいサウンドだったからだ。レス・ポールはマルチトラッキングを使った最初のアーティストだった。まず、モノの録音機でギター・パートを録り、それをプレイバックして別の録音機で録りつつ、そこにセカンド・ギターを足し、この行程を望みのアレンジができるまで続ける。(略)今で言うマルチトラック録音が出現する数年前のことだ。もちろん、他の購買者たちと同じく、わたしもそんなことはつゆも知らず、すごいサウンドだなと、ただただ感心するばかりだった。レコーディングに対する彼のこうした革新的姿勢がアンペックス社の発展につながり、同社は世界初のマルチトラック・テープ・レコーダーを開発し、2台目はすぐさまレスに提供された。

 そんなレス・ポールのレコードが不意に色褪せ、取るに足りないものに思えたのが、ロニー・ドネガンの“ロック・アイランド・ライン”をラジオで初めて耳にしたときのことだ。それは生まれてこのかた聞いたことのない類のもので、翌日にはもう、わたしは店に駆けて行き、それを買っていた。(略)ドネガンは英国に熱いスキッフル・ブームを巻き起こし(略)わたしをアメリカ民謡へと、さらにはブルースへと導いてくれたのだった。

(略)

 何軒か先に住んでいたピーター・サンドフォードという人が、わたしがギターを買ったとの話を聞きつけ、フォークとブルースに関する本とレコードの膨大なコレクションを気前よく見せてくれたおかげで、わたしの関心は一気に高まった。彼はわたしにすこぶる優しく、家でゆっくり吸収したらいいと、何でも貸してくれた。 スヌークス・イーグリン、ブラウニー・マギー、サニー・テリー、ウディ・ガスリー、バール・アイヴスを教えてくれたのも彼だった。わたしはそんなレコードや歌集を部屋に持って帰っては覚え、指をネックのどこに置くのか、ずるをして見てしまわないように、暗がりの中で何度も何度も繰り返し弾いたものだった。

IBCスタジオ採用までの経緯、ジョー・ミーク

 1959年の7月、わたしは学校を後にした。当時17才、何をしたらいいのか、さっぱりわからなかった。わかっていたのは、事務仕事はしたくない、9時から5時までの仕事は絶対に嫌だ、ということだけだった。(略)

[友人二人とバンドを組み]サットンのパブ、レッド・ライオンの奥の部屋で、隔週の金曜日にそこでやるようになった。わたしたちはすぐさま人気を博し、部屋代を抜いても一晩に30~40ポンドは稼げた。当時にしてみれば大金だった。

(略)

[試験の結果は]8科目受けて、通ったのはたったの2科目、歴史と英文学のみ。 両親にしてみれば失望以外の何ものでもなく、高等教育を受ける学力も、したがってもっと社会的に認められた職に就くために必要とされる学歴もない息子の将来をふたりが案じているのがわかって、わたしは暗澹たる気持ちになった。

 そんなある日、仕事から帰宅した姉スーから出し抜けに言われた。あんた、レコーディング・スタジオで働いてみる気はない?聞けば、スーの職場の上司には付き合っている女性がいて、受付で上司を待っていたその彼女に、スーは人生の楽しみを音楽に見出している弟のことを伝えた。すると彼女はスーに言った、私はウェールズ音楽専門の小さなレコード・レーベルを持っています、良かったら自分が使っているレコーディング・スタジオで面接を受けられるように話をしてあげましょうか――もしも、弟さんにその気があるならば、ですが。言うまでもなく、音楽業界で働くという考えなど、それまで頭の隅を過ったこともなかった。 レコーディングのことは微塵も知らなかったし、一般的なごく当たり前の職業以外で働くことを考えたこともなければ、そういう業界以外で働く知り合いもいなかった。この機会はつまり、お互いによく知りもしないふたりの女性の間で交わされた社交辞令的な会話の結果として、わたしの目の前にやって来たものだった。何という運命のいたずらなのだと、昔からたびたび考える。数日後、大いなる不安を抱えたまま、わたしは面接に臨んだ。そのスタジオはポートランド・プレイスのIBC、当時のヨーロッパで間違いなく最も優れた独立系レコーディング・スタジオだった。そこのマネージャーで、感じの良さそうなウェールズ人のアラン・スタッグは、レコーディングに関する専門的な質問をたっぷりと投げかけてきて、どれひとつとして、わたしには答えられなかった。それでも彼は一応、今のところ人手が足りているが、次に空きが出たら必ず君を候補として考えよう、と言ってくれた。

(略)

 わたしは百貨店の仕事に戻った、たぶんスタジオから連絡が来ることはないだろうと思っていた。もしもそのまま放っておかれ、こちらから何もしないでいたら、そのとおりになっていたに違いない。面接から6週間くらい過ぎた頃、母に言われた。連絡がないのなら、おまえからスタッグさんに電話をかけて、記憶を突いた方がいいんじゃないのかい?わたしは反論した、次に空きが出たら考えると言われたのだし、そんなことをしても意味がないよ。幸いなことに、母はとりあえず電話だけはしなさい、と言って譲らなかった、あんたに失うものはないのだから、と。そこでしぶしぶアラン・スタッグに電話をかけ、わたしが誰かを思い出してもらうと、何とちょうどその日、ベテラン・エンジニアのひとりが辞表を出してきたのだという。だから見習いという梯子の一番下にひとつ空きが出る、それで、君、いつから来られる?その日、もしもこの電話をかけていなかったら、IBCから連絡が来ることは絶対になかったろうし、わたしが音楽に仕事として関わることはまずなかったと思う、間違いない。 

 次の日から早速、わたしはIBCで、下っ端アシスタント・エンジニアとして働き始めた。それはつまり、各セッションの前に担当エンジニアの要求に合わせてスタジオを整え、滞りない進行に努め、うまくいかないすべてのことについて叱責を受けつつ、セッション前、中、後に先輩たちから大小さまざまな言葉の虐待を受け、さらにその合間に大量のお茶汲みと機材磨きをこなす、ということだった。

 最初にあてがわれたセッションはロニー・ドネガンのものだった。あまりのことに夢かと思ったのを覚えている。 (略)しかも、わたしの愛聴盤でみんなの羨望の的だった10インチ・アルバムのジャケットの写真がIBCのBスタジオで撮られたものであることも判明した。一介の若者にとって、それはとてつもないことだった。

 IBCは特定のレーベルと提携をしていない、私営のスタジオだった。当時、RCA、デッカ、パイ、EMIはどこも自前のスタジオを持っていたから、それ以外のところをすべて独立系レーベルが好きに使えた。結果、ありえないほど雑多なアーティスト、ミュージシャン、クライアントがIBCを訪れては去って行ったものだった。音楽もこの上なくくだらないジングルからビッグ・バンドに至るまで――ジュリアン・ブリームからアルマ・コーガンまで、米NBCテレビの人気番組『幌馬車隊』の音楽からモダン・ジャズ・クインテットに至るまでと、多種多様

(略)

 当時、レコード・プロデューサーはA&Rと呼ばれていた、“アーティスト&レパートリー”の略だ。彼らは皆、どこかのレーベルに属していて、会社からあてがわれた、あるいは自分が連れて来たアーティストと、そのアーティストが録音する音楽のレパートリーに関する全責任を負っていた。曲が書けるアーティストはごく稀な存在であり、したがって音楽出版社が売りつけてくる大量の曲群の中からA&Rが選ぶのが常だった。この仕組みは彼らに極めて強大な力を持たせるもので、うまくやれば、自らの利益になるよう状況を好きに操作することもできた。たとえば、自身の出版社を興せば、売れっ子アーティストに曲を吹き込ませる交換条件として、曲の出版権を折半したり、シングルのB面やアルバム曲の出版権をもらったりといった取引を他の出版社と交わして収益力の増大を図る、という具合だ。

 A&Rが曲を選び、担当アーティストにふさわしい方針を定め、歌うキーを決め、アレンジャーを選定し、選ばれたアレンジャーはミュージシャンを押さえる仕切り屋を使う。 仕切り屋は例外なく年かさのミュージシャンで、自らが連れて来るセッション・ミュージシャン全員の代理人および組合の代表的な役割をする。 A&Rはアレンジの細かな諸々とミュージシャンの選択に関わることもあれば、関わらないこともある。 大半のA&Rにはお気に入りのレコーディング・エンジニアがいて、ほとんどの場合、誰が働いているかを基準にしてスタジオを選ぶ、当時、フリーのエンジニアはいなかったからだ。これらすべてが予算の範囲内で行なわれる、予算はA&Rが立て、社の上司の承認を得たものであり、以降はすべてそのA&Rが管理する。 続いてA&Rはセッションを監督し、エンジニア、アレンジャー、ミュージシャン、アーティストが自分の納得のいく仕事をしてくれるよう、常に目を光らせておく。願わくは、サウンドも自らが思い描いたとおりになるよう努める。というわけで、スタジオの成功においてエンジニアが極めて重要な存在であること、そして技術力と創造性というわかりきったもの以外にも、人間性や音楽の趣味の多様性が問われることが、かなり早い段階で明らかになった。

 IBCはヨーロッパ随一の機材を誇る独立系スタジオというだけでなく、エンジニアリングの幅広い才能にも恵まれていた。その筆頭がエリック・トムリンソンで、彼はわたしが入ったときからすでに上級エンジニアで、間違いなく世界最高のひとりだった。(略)

この上なく複雑なオーケストラものであっても、ランスルー(通し演奏)をたった1回聴いただけですべて記憶し、バランスを調整し、レコーディング態勢に入れた。彼にはとても親切にしてもらい、わたしはその匠の仕事ぶりから多くを学ばせてもらった。

(略)

 偉大なる故ジョー・ミークはIBCをたまに使った。彼は自宅に自前のスタジオを持っていて、そこでかの非凡なサウンドを育んだわけだが、しばしばIBCにテープを持ち込んでは、同社の自家製イコライザーのひとつに通し、サウンドを軽く元気づけていた。(略)

彼は優れた革新的エンジニアで、寡黙で優しく、過大なエゴとは無縁の人物に思えた。

ジミー・ペイジ、ニッキー・ホプキンス

 わたしがIBCに就職してからの2年間、週末はレコーディングの予定がまったく入っていなかった。なので、日曜は自分たちのプロジェクトをスタジオで録っていいことになった。

(略)

その時間を利用すれば実験ができる、コンソール卓での経験も少しばかり積めると気づいたわたしは、僕が仕切る日曜のセッションは無料でスタジオが使えるぞと、知り合いに触れ回った。この言葉に惹かれて、やる気に満ちた若いミュージシャンが団体でやって来た。そのひとりがジミー・ペイジで、彼の噂は友人のコリン・ゴールディングからすでに耳に入っていた。ふたりともキングストン・アート・スクール(略)の学生で、エリック・クラプトンもそこに通っていた。わたしはジミーに、君にならちゃんと金をもらえるセッションの仕事を取って来られるかもしれない、と伝えた(略)

あれよあれよという間に、ビッグ・ジム・サリヴァンに代わり、ロンドン随一のセッション・ギタリストの座についた。

 シリル・デイヴィスは、ある日曜日にふらりと現われた。優れたハーモニカ奏者でヴォーカリストで、イアン・スチュアート、アレクシス・コーナー、ブライアン・ジョーンズと並び、英リズム&ブルース・ムーヴメントを起こしたひとりでもある。彼は相棒としてニッキー・ホプキンスを連れて来ていた。 わたしがマイクをピアノにセットしに行くと、そこにいたのが、穏やかな声の、極端にひょろりとした、灰色がかった青白い顔の、見るからに何サイズも大きな服を着た若者だった。その立ち居振る舞いには何から何まで、活力がまるで感じられなかった。ところがセッションが始まったとたん、そのプレイにわたしは仰天させられた、それまで聴いたことがないほど滑らかで、メロディックで、技術的に完璧だったからだ。しかもそれをすべて、最小限の動きとまったく変わらない表情のままやってのけた。その日の終わり、わたしは彼に言った。どうしてこれまで出会わなかったのか不思議でならないよ。君さえ良ければ、ぜひ今後セッションに推薦させて欲しいんだけど、どうかな?それからわたしたちは親友になった。その後長年にわたり、わたしはニッキーをザ・フーキンクス、そしてストーンズのセッションに呼び、彼はイアン・スチュアートがブルースじゃないからと言って嫌がった曲群で常に甚大なる影響力を発揮してくれた。ストーンズの最高傑作群を生んだのは、ニッキーとミック・テイラーがいた時代に他ならないとわたしは思っている。

ローレンス・オリヴィエ

 1960年、私はエンジニアとして初めてコンソール卓の前に座る機会を手にした。それはトラファルガーの海戦を題材にした[録音で](略)

ネルソン提督役のサー・ローレンス・オリヴィエヴィヴィアン・リーと離婚してジョーン・プロウライトと再婚するというニュースがその朝、大々的に報じられたばかりだった。

(略)

興奮した何人もの取り巻き軍団とBスタジオに飛び込んで来たオリヴィエは、全身の穴という穴から湯気をシュウシュウと立てている状態だった。

(略)

 オリヴィエはその日、劇中で最も重要かつ感動的な台詞を読むことになっていた。 トラファルガーの海戦で絶命する前の晩、ネルソンが愛するレディ・ハミルトン宛てに書いた手紙だ。 彼が役の中にするりと入り込み、一気に変容するさまは、まさに見物だった。そのたった一度のテイクが終わる頃、その場にいたわたしたちは全員、呆然として言葉を失っていた。午前中の遅い時間に、若い役者の一団がやって来た。(略)わたしの目にも明らかに、彼らはオリヴィエの存在に恐れをなしていた。が、わずか数分の内に、オリヴィエは皆を和ませ、緊張を解いてやった。真のプロだ。彼は個人的問題をすべていったん脇に置き、周囲の人々や目の前の仕事への意識を最優先させていた。

 IBCで働く面白さは、仕事の多様性にあった。扉を通って次に何がやって来るのかは、予想もつかなかった。午前中の粉石鹸のCMジングルに始まり、午後はトラディショナル・ジャズ・バンド、晩は流行りのポップ・スターを従えた30人編成の楽団。翌日は、60人から成る聖歌隊を伴うロンドン交響楽団をロンドンの公会堂で録る、といった具合だ。

(略)

 わたしがエンジニアとして初めて臨んだ音楽セッションは、ジョー・ブラウンのものだった。これまでに会った誰よりも優しい男だ。彼は当時大スターで、そうなって然るべき人物であり、その日は最新ヒットに続くシングルを録りに来ていた。一方、担当A&Rはパイ・レコードのトニー・ハッチといい、彼もまた巨大なエゴを抱えた不愉快な男だった。それこそ全身これ自尊心のような人間で、50年代のおぞましき英公営住宅群ほどの魅力もなかった。(略)

 ハッチはやって来るや、猛烈な剣幕で怒鳴り散らし、わたしを落ち着かせるどころか、なおさら緊張させた。

(略)

 セッションは首尾良く運んだ。 ジョーは感じが良く、結果に至極満足しているようだった。ところが翌朝(略)[社長に]トニー・ハッチから電話があり、担当エンジニア、つまりわたしの経験不足のせいで昨日は大失敗に終わった、パイ・レコードはIBCにその責任としてセッション費の全額を持たせる意向であると言われたという。(略)

[テープに問題がないことを確認したIBCはハッチに]とっとと失せろ、と伝えた。(略)大口の取引をあっさりと失いかねなかったことを考えると、それはアラン・スタッグの非常に勇気のある決断だった。

イアン・スチュアート、ストーンズ

 1962年、プレジデンツのベーシスト、コリン・ゴールディングからイアン・スチュアート、通称〝ステュ〟を紹介された。コリンによれば、近所の知り合いに面白い男がいて、そいつはジャズとブルースのレコードの膨大なコレクションを持っている。だから絶対に会ったほうがいいという。果たして、その最初の出会いに端を発して育まれた友情は、わたしの人生に莫大な影響を与えてくれた。わたしたちはその日、ブルースに対する関心を語り合った。彼はいたって謙虚で、実はピアノを弾けることを、そしてブルースをこよなく愛する同好の士たちとザ・ローリング・ストーンズなるバンドを組んでいたことをわたしが知ったのは、ずいぶんと後になってからのことだった。 もっと言えば、彼はブライアン・ジョーンズと共にバンドを始めた張本人で

(略)

[家を出ることになり]

同居人候補として考えるに値する人物がステュしかいないことは、初めからわかっていた。ただ、彼は実家で快適に暮らしていた。(略)

彼の気が変わったのは、わたしが家に女の子を連れ込める自由という特典を指摘してからのことだ。(略)

ステュは家財道具のひとつとして愛用のアップライト・ピアノを持ってきた。今でもはっきりと覚えている、朝、わたしが目を醒ますと、居間から何とも美しいブルースの音色が聞こえてきて、ステュが毎朝焼く、わざと焦がしたトーストのおなじみの匂いも一緒に漂っていた。様子を見に行くと、ステュはピアノの前に座っていた。下着のパンツ一枚の半裸姿で、スツールの脇には開いたままの手紙。手紙は昔の恋人からのものらしく、彼はその中身に激しく動揺したのだろう、やり場のない気持ちを収めるのにブルースを弾くしかないという様子だった。(略)

それから1時間かそこら、これまでに出会ったなかでも最高峰に位置するブルース・ミュージシャンが即興で奏でる感情の送りに酔いしれていた。

(略)

[三人目の同居人]ブライアンは広告代理店に定職を持っていて、わたしは昼となく夜となくスタジオで働いていたし、ステュはストーンズのギグで家にいないことが多かった。その家のすぐ先に修道院付属の女子校があり、学生たちは下校途中、ストーンズのバンがうちの車寄せに停まっているのを見つけるたび(略)こぞってそのバンに口紅で落書きをし(略)ボディに隙間がなくなると、彼女たちは窓に書くようになり(略)

オールダムは見かけがそぐわないという独断で、ステュをバンドから外すとの裁定を下し(略)

[ステュは]ロード・マネージャーの職を供された。それはきっと、メンバーたちの彼に対する忠義心に基づく申し出だったに違いなく

(略)

わたしがその決定に対する嫌悪の念を伝えると、ステュは意外にも、「大いに満足している」と言った。「俺はそもそもポップ・スターとして暮らすという考えにはこれっぽっちの魅力も感じていない、それにあいつらはものすごい成功を収める気がする、だから俺にとっては世界を見て回るのに打ってつけの機会になると思う」。

(略)

ストーンズは間違いなく真の果報者だった。優れたピアニストの奉仕を受けただけでなく(略)信頼の置ける友人がロード・マネージャーとして付いていたのだから。キース・リチャーズは昔からいつも語っている。俺は今もスチュのために働いている、俺に言わせれば、ザ・ローリング・ストーンズはあくまでスチュのバンドなんだ、と

ジェフ・ベック

あの界隈の水には何か特別なものが入っていたに違いない。ジミー・ペイジジェフ・ベックエリック・クラプトンにスチュを生んだ地域は、それこそ投網に収まるほど狭かったのだから。

(略)

 ある日、スチュが非常にかわいい、ノルウェー人の若い女性を家に連れて来た。

(略)

[スタジオから明け方に帰ると]目の前に立っていたのは、ジェフ・ベックだった。 スチュが運良くノルウェー人の友達を捕まえたという話をどこかで聞きつけ、彼が不在であることを知り、その留守につけ込むことにしたのだ。(略)

[二度とうちに来るな、と警告したが]

 それから何年も後、ARMSツアー中に、ジェフはわたしに明かした。あの晩の後もこっそり家の裏に回っては、ステュの部屋に窓から忍び込み、同じルートで見つからずに帰りおおせたという。ほぼ毎回、隣の部屋でわたしが寝ていたというのに。

(略)

 ステュはストーンズに徹頭徹尾、平等主義をもって接した。彼は常に歯に衣着せぬ物言いをした。 その振る舞いに気取りは一切なかった。誰に対しても、あけすけな、腹の皮がよじれるほど笑える意見をまっすぐにぶつけていた。メンバーたちはしばしば、そんな物言いを話半分に聞き流してはいたものの、ステュがうまいことを言ってだまくらかそうとする他の連中と違うことは彼らにもよくわかっていたし、わたしが思うに、ステュの言動の多くはバンド全体にもメンバー個々にも極めて前向きな影響を確実に与えていた。彼は毎回、ショウの出番の時間になると、「さあ行こうぜ、俺のかわいい糞野郎ども」と言って彼らを楽屋から追い立てていた。ステュが1985年に早世して以来、ストーンズにそんな口をきいた人間は、間違いなく、この地球上にひとりとしていない。

 彼らがオリジナル曲を書くようになり、進み出した新たな方向性について、ステュは完全には認めていなかった。彼はいわく「チャイニーズ」な、つまりマイナー・コードのものは、一切弾こうとしなかった。要するに、伝統的なリズム&ブルースかブギウギ形式以外のものはすべてお断りだったから、おかげでわたしたちは彼がやらないものをやるために別の人間を入れなければならなかった。

(略)

 ストーンズは長きにわたり代々、素晴しいピアノ奏者を擁してきた。最高の人材ばかりだ。個人的に天才だと思っていたニッキー・ホプキンス、チャック・リーヴェルビリー・プレストン、そして(略)イアン・マクレガン。いずれも独自のスタイルを有するその道のスペシャリストであり、それぞれまるで異なるタイプだったわけだが、ステュが弾いているときのローリング・ストーンズは躍動感が格別だった。ステュが入ると、まるで違うバンドになった。リズム・セクションはまったくの別物になった。わたしがこれまでに耳にしたなかでは、あれがベストの布陣だ。 ステュにはビル、チャーリー、キースと寸分違わず共感しているとしか思えない、並外れた感覚が備わっていた。

次回に続く。