- ジャズを聴く少女
- ホット・クラブ
- ブルーノート・レコード
- セロニアス・モンク
- アルフレッドとの日々
- ヴィレッジ・ヴァンガード
- ヴィレッジ・ヴァンガード再建
- ミンガス・ライト
- モンク夫妻とパトロネス
- ロレインさんの恋愛事情
ジャズを聴く少女
両親は音楽に関心も興味もありません。私はフランス人の書いたジャズの本を読み漁りました。ユーグ・パナシエとか、シャルル・デロネエのホット・ディスコグラフィーとか――。(略)
私はレコード集めに熱中しました。ジャズも、ブルースも。ルイ・アームストロングやデューク・エリントン。とりわけベッシー・スミスには心を動かされました。ベッシーは自分でも知らずに立派な男女同権運動をしていたと私は思います。時代の先を行っていたわね。
ベニー・グッドマンにも本当に熱中しました。いつかはこういう男性と結婚したいと考えたものです。(略)彼の困ったような表情が大好きでした。彼のクラリネット演奏が他の何より大好きでした。彼の楽団も、トリオやカルテットのレコードも大好きでした。共演者にはライオネル・ハンプトンや、ジーン・クルーパ、テディ・ウィルソン、そしてチャーリー・クリスチャンがいました。
(略)
「おや、ご覧。アルフレッド・ライオンがいるよ。あれがミスター・ブルーノート・レコードだ」
まあ。私はそちらに目を向けました。いい男でした。とても優雅な感じ、いい意味で。素敵な顔立ちでした。魅力的な鼻。美しい黒い髪。 小柄といえば小柄ね。私はいつだって結婚相手より長身なのです。
「紹介して下さる?」私は言いました。「ご挨拶したいの」(略)
アルフレッド・ライオンはドイツからやって来たのだとわかりました。ヒトラーが出現したから国を離れたのです。 アルフレッドは、ベルリンでいちばんお洒落で知的な界隈に住んでいました。ウンター・デン・リンデンです。(略)
フランシス・ウルフも一緒に居ました。(略)アルフレッドがやって来たのは一九三七年、フランクが一九三九年です。 ふたりは十代の頃からベルリンで友達付き合いしていました。フランクの家の方がずっと裕福で、つまりもっとブルジョアで、フランクの方が芸術好き、写真家として世に出ようとしていました。
(略)
「お会いできて光栄です。貴方のお作りになったレコード、大好きですの。本当に素晴らしいものばかり。あれ以上のレコード、他に聴いたことありませんわ」
(略)
アルフレッドは一九四一年に招集されました。(略)「こちらに来ておくれ。そして結婚しよう」
その通りにしました。つまり私は戦争花嫁です。
(略)
私はひとり、飛行機でテキサスに向かいました。(略)
テキサス州エルパソの兵舎!大きなテーブルに、私たちはテキサンの集団と一緒に座って食事しました。
(略)
私たちはアルフレッドが外地に送られるのを待っているだけでした。ところが(略)[タイピスト仕事で弱視が悪化]盲目に近くなってしまったのです。(略)名誉の除隊!
(略)
ニューヨークに戻ると、フランクがブルーノートを守り続けていました。(略)
シャトルーズ・イエローとブルーの美しいレーベルがブルーと白に変わっていました。戦時中の物不足で、フランクはシャトルーズ・イエローのインクを手に入れられなかったのです。
ホット・クラブ
兄と私はジャズのレコードを買い集め始め、すっかりこの音楽の虜になりました。(略)
兄と私は近所の黒人の家を一軒一軒訪ねたものです。最高のレコードが見つかる場所でしたから。扉を叩いて、レコード一枚二十五セントで譲って下さいとお願いするのです。奥からレコードを出して来てくれました――アイダ・コックスやマ・レイニーのブルースとか、いろいろな種類の昔の素晴らしい音楽ばかり。ある時、兄はとても珍しいキング・オリヴァーのレコードを手に入れましたが、ずっと物置の中にあったものですから大きく欠けていたのです。兄は悲嘆しました。すると、そのレコードを渡して下さった方々がこう言うのです。「来週戻っておいで。かけらを探しておくから」そしてほんとうに探し出してくれました!ガラクタをかき分けて見つけてくれたのです。フィリップはかけらを接着剤でくっつけました。
そして私たちは小さくて素敵なホット・クラブを作りました。ホット・クラブ・オブ・ニューアークは私たち十人少しの集まり。
(略)
[本部を置いた]ネイヴァーフッド・ハウスは黒人地区側でした。私たちはそこに集まって(略)ジャズについて新たに学んだことを皆と分かち合うのです。おぼえています。私の課題のひとつはベッシー・スミスでした。
(略)
ホット・クラブ・オブ・ニューアークはジャム・セッションの開催を始めました。ネスヒとアーメットのアーティガン兄弟もやって来ました。後にアトランティック・レコードを運営するふたりです。
(略)
あの頃のジャズ・ファンは熱く結束していました。私たちはどのミュージシャンもひとりひとり、どんな人か知っていました。とても近くから、彼らのキャリアの進展を見守りました。
子供の私が親しくお会いした唯一のジャズ・ジャイアントがジャボ・スミスです。彼がどれだけ立派な立派な才能の持ち主だったか、未だに多くの人が知りません。 ジャボ・スミスは一九二〇年代のシカゴで修行していたのです。ルイ・アームストロングの持つジャズ・トランペットの王座に挑戦するために。ええ、そんな風に物事は進みませんでしたけれど。でも、当時彼がブランズウィックに吹き込んだレコードを聴けば、ジャボ・スミスがどれだけ凄いアーティストだったかわかります。
ブルーノート・レコード
アルフレッドは私を必要としていました。私たちはふたりともジャズという音楽を愛していましたし、アルフレッドは私と一緒にいられることをとても喜んでいました。私はタイプを習いました。帳簿はすべて私が付けました。宣伝広報活動なんて何やらわかりませんでしたけれど、これも私がやりました。
毎日、私たちはオフィスに出かけて行きました――今や私たちのものなのです。部屋がふたつと、アルフレッドと私が一緒に使う机がひとつ。私のタイプライター。共用のファイル棚。私たちは座って、手紙を開封します。いくつか注文も来ていて、私たちは喜び合います。フランクがレコードを積んである部屋に行って、注文品を揃えます。そして郵便局まで運んで行って送るのです。私が送り状をタイプします。お金が、 小切手が入って来ます。間違いなく利益は上げていましたが、大儲けしたわけではありません。でも、質素な生活を維持するには十分でした。レキシントン街の家賃を払っていましたし、住居の家賃もありました。小さな車も持っていたんです。ポンティアックで、私たちは「アゼル」と呼んでいました(ドイツ語のドンキーです)。とてもキュートな車。 アルフレッドはこの車が大好きでした。
私たちはちっぽけなビジネスをやっているちっぽけな人間でしたが、素晴らしいものを販売していました。
(略)
私たちはあちこち出歩いて、ミュージシャンの話を聞き、彼らと会い、彼らを知ろうとしました。ミュージシャンたちは、アルフレッドが小さなレーベルをやっていることを知っていました。ミュージシャンからミュージシャンへと話は広まっていて、クラブに出かけてテーブルに座りますと、皆さんがやって来ていうのです。「この男を聴くべきだ・・・・・・いいか、この歌手を聴かなければいけない」
(略)
一九四四年七月、アイザック・エイブラムス・ケベックがブルーノートに最初のレコードを録音しました。(略)素晴らしいアーティストで素晴らしい人物でした。 今、彼のレコードを聴くと、涙が止まらなくなります。音は太くて甘美でした。特にバラッドで。そして音楽に対して進歩的な考えを持っていました。
アイクは〝フェイス〟と呼ばれていました。 彼のニックネームです。 「おい、フェイス、 どんな調子だい?」なんて。ミュージシャンてすごい――お互いに色々な名前を付けてしまうのです。アイクは本当に顔が大きかったですから。私は彼が大好きでした。
セロニアス・モンク
セロニアス・モンクに会いに、私たちを最初に連れて行ってくれたのはアイク・ケベックでした。モンクが誰だか、アイクは説明しませんでした。「奴を録音しよう」そう言っただけです。「行こう、聴いて欲しい奴がいるんだ」
(略)
モンクの部屋はキッチンのすぐ脇にありました。何だかヴィンセント・ヴァン・ゴッホの絵画から抜け出て来たような部屋で修行僧の部屋のようというのでしょうか、壁際にベッド(簡易なものです)があって、窓、そしてアップライト・ピアノ。それだけです。
(略)
ビリー・ホリデイの写真がテープで天井に貼ってありました。
(略)
恐ろしく大きな手の持ち主でした。大きな掌がふたつ、鍵盤の上で行き場を決めあぐねているように私には見えました。どこに降りて来ようとしているのでしょう?私はずっと考えていました。目を釘づけにしたまま。
(略)
セロニアス・モンクは謎を謎で包んだような人でした。(略)
モンクの受けた教育といえば、ほとんどがピアノの個人レッスンで、彼は多分に母親に甘やかされながら、自分だけの風変わりな音楽の世界を育てたのです。私たちが会った時、彼はもう三十歳でしたが、ビ・バップ・シーンの人気者で、少数ですが主に若いミュージシャンに崇拝されていました。
(略)
私にとって、モンクはブルース・ピアニストでありストライド・ピアニストであり、つまりジャズの伝統主義者のように最初は見えました。 本当です。ただし、途方もなく、ほとんど王者のようにつむじ曲がりの、ですが。モンクの選ぶ音は少々外れているようでしたが、彼は恐るべきハーモニー感覚や特異なリズム感、独自の音楽構成力で最後は辻褄を合わせてしまいます――すべてがどこまでも彼自身のもので、完璧でありながら規格外です。私の理解できなかったモダン・ミュージシャンはたくさんいます――彼らは急速で猛烈でしたが、私には必ずしも理解できませんでした。でもセロニアス・モンクを私は理解しました。どんな時にも。モンクは新しい真実だった。最初に会った時から、彼は私のグルーヴとしっくりしたのです。
彼はいつでも、何か新しいことに取り組んでいました。その日、彼は作曲中でした。 「ルビー・マイ・ディア」になる曲です。(略)
私はそのメロディがとても気に入りました。とても気に入ったので、こんな風に思ったのをおぼえています。うわ、私の名前をタイトルに入れてくれないかしら―― 「スウィート・ロレイン」とか。その後訪ねた時、セロニアスは曲のタイトルは「ルビー・マイ・ディア」に決めたと言います。「まあ」私は言いました。「ルビーってどなた?」「誰でもない」セロニアスの答です。「この名前が好きなだけだ」
(略)
モンクのレコードは最初売れたかですって?いいえ、売れませんでした。私はハーレムに売り込みに行きましたが、どのレコード店も、モンクにも私にも用はありませんでした。 私はあるひとりの店主を決して忘れません。今も七番街の一二五丁目に、彼の姿も彼の店もありますが。彼はこう言ったのです。「この男は弾けないね、お嬢さん。どうしようもない。この男は両手とも左手だ」「お待ちになって」私は言いました。「この方は天才なのです――何もお分かりになっていないのね」
セロニアス・モンクは私個人の使命になりました。私は実際、あらゆる人々と戦いました。私はモンクのレコードを抱えて、鼻息も荒くあちこちへ出かけて行きました。脇目も振りませんでした。やるべきことがあって、それをやりたいと思った時、私は何事にもひるみません。私はモンクを疑いませんでした。 偉大な人、とわかっていましたので。
(略)
このころ、私はほとんどモンクの運転手になっていました。「ここに行け、あそこに行け」私は頭がおかしくなりそうでした。ミントンズにはよく連れて行きました。ハーレムのクラブで、彼は常駐のピアノ奏者として雇われていました。ビ・バップはここで生まれたものでなかったとしても、ある意味ここで完成されたのです。
(略)
モンクを知った時、こんなに奇妙な人だとはわかりませんでした。でも、そういう人なのだ、と思うことにしました。彼がお喋りだろうが無口だろうが、演奏さえしてくれるなら私たちにはどうでもいいことでした。彼の芸術性がすべて。(略)
私はステージに出て行くモンクを見送るのが好きでした。両腕を私に回して、大きくて力強いハグをしてくれます。それだけ。そして仕事に取り掛かるのです。他のミュージシャンたちとはひと晩中陽気に騒いだりもしたものですが、 彼とはそんなこと一度もありませんでした。皆やって来ると馬鹿騒ぎになりますが、モンクはまったく違いました。ステージ上のモンクは急くようにピアノに向かいます。あの独特の摺り足で。少しの話もなし。自分のことは言いません。でもピアノでたくさんお喋りするのです。私はそれでいいと思いました。
アルフレッドとの日々
喋り方にはアクセントがあって、いつもくすくす笑っていました。大笑いも。声はとてもチャーミングで、アクセントもとても素敵でした。本当に普通の人で、何かにとりわけ優れていたわけではありません。でもジャズのことになると別です。音楽が聴こえてくると、踊りまわっていました。だからニックネームを貰いました。ミュージシャンたちは、アルフレッドをストンピーと呼んだのです。ビートに合わせて足踏みをしながら踊っていたものですから。人生のいかなるものよりも、ジャズを愛していました。そしてジャズのことは何から何まで知っていました。だからミュージシャンたちは彼を尊敬していました。そう、ストンピーはそんな風に踊りまわる奇妙な男だけれど、彼らにはわかったのです。おい、奴はものすごい男だって。
アルフレッドは楽譜が読めませんでした。考えてください。楽器を演奏できない人がいて、譜面も読めません。しかもヨーロッパ人で、アフリカン・アメリカン の音楽を扱っているのです。それもとても人間的な音楽で、言ってしまえば簡単に理解できるものではありません。それでもなお、ジャズを不朽のものにしているものは何か、アルフレッドは深く感じ取っていました。
彼は何についても本当の意味での完全主義者で、多くの場合正しい判断をしました。レコーディングが終わるたびに、私たちはテイクについて話し合いました。耳を傾け、これぞベストというテイクを選び出すのです。 ある曲にアーティストが複数の解釈を施した時でも、ベストのものを選んで他のテイクは忘れるのです。近頃の記録主義者とやらが行なっていることを私は好きになれません。あの人たちはテープの倉庫からあらゆるテイクを引きずり出すのです。最初のテイク、第二のテイク、第三、第四のテイク、そしてすべてを世に出します。アルフレッドなら絶対にそんなことをしなかったでしょう。私には罪にも等しいこと、憤りを感じます。
(略)
アルフレッドはとてもビジネスライクでしたが、公平なやり方をしていました。 ブルーノートは、ミュージシャンに印税を支払っていた数少ないレコード会社のひとつだったと思います。私は帳簿をつけていましたからわかるのです。印税額はSPレコード一枚につき二セントでしたが、何であれ私たちは印税を支払っていました。信仰のように支払っていました。
ヴィレッジ・ヴァンガード
ニューヨークの避暑地ファイア・アイランドにある小さい家庭的なレストランです。すると、ヴィレッジ・ヴァンガードのオーナー、マックス・ゴードンが隅に座ってひとりで食事をしているのが目に入りました。
「ハロー」私は声を掛けました。「ご存じないと思いますが、私、アルフレッド・ライオンの妻ですの」
マックスはうなずいて微笑みました。
「すごいミュージシャンがいるんです。気に入って頂けると思いますわ」
(略)
「ピアニストなんです」と私。「セロニアス・モンクといいます。ご存じ?」(略)
「もし一週間ヴァンガードに出演させていただけたら、こんな素晴らしいことはありません」
(略)
「たまたま九月に一週間空くかもしれない」
今度は私が微笑む番でした。
マックスは実際、九月にモンクを一週間出演させました。アルフレッドは興奮していました。初日は一九四八年九月十四日。そして、誰も来ませんでした。ジャズ評論家とやらも来ませんでした。ジャズ通とやらも。ゼロです。アルフレッドと私は、ヴァンガードの壁際の長椅子に座っていました。あるところでセロニアスは立ち上がり、例の小ダンスを踊り、こう次の曲をアナウンスしました。「さて、人類の皆さま、これから演奏いたしますのは…」
マックスが私のところへ走り寄って来て、ひどく悲痛な面持ちで言いました。「いったい何なんだ、あのアナウンスは?」
「あんな風に喋る人なんです」と私。
お客はほとんど誰もいませんでした。 マックスは嘆き続けました。 「一体私に何を吹き込んだんだ?私を破産させようというのか?この男と心中だ」
「いいえ」と私は言いました。 「おわかりになりませんか、ミスター・ゴードン。この方は天才なのです」何年も後、マックスがみなに、自分が雇った天才セロニアス・モンクについて語るのを私は聞きました。
ヴィレッジ・ヴァンガードの始まりはマックスのリヴィング・ルームでした。当時のマックスは、実際に住む場所がありませんでした。六番街を下ったウェスト・ヴィレッジ界隈のカフェテリアに、多くの詩人たちと屯していたのです。 マックスは物書きで、彼自身も詩人で、思索家で、ボヘミアンでした。マックス・ゴードンこそ真実のボヘミアンでした。
彼はオレゴンの育ちですが、一家はロシアからやって来ました――リトアニアです(ヴィルナ、でしたかしら)。一九〇八年、三歳の時にエリス島で入国手続したのです。お母様と兄ひとり、姉ふたりと一緒でした。そしてお父様(ひと足先に来ていました)
(略)
最初、マックスは小さなクラブを開きました――クラブというより、スペースです。一九三二年、場所はサリヴァン・ストリートでした。彼がヴィレッジ・フェアと呼んだその店は、多分一年ほど続きました。この店でアルコールを出して、マックスは逮捕されたりもしたようです――禁酒法の時代でした。ヴィレッジ・ヴァンガードの開店はその後、場所はチャールズ・ストリートで、一九三五年二月二十六日のことです。この年の十二月には現在の場所に移っています。七番街一七八番地の角です。
ヴァンガードは初め、ジャズの店ではありませんでした。 マックスがこの大きな三角形の地下室で始めたのは、詩人たちの自作の朗読でした。床は裸でカーペットもソファもなく、普通の椅子とテーブルが置かれ、壁にはポスターが貼られていました。とても政治的なポスターです。というのも当時はスペイン内乱の最中で、マックスの友人がたくさん義勇軍に参加していたのです。
マックスが当時詩人たちからもらった詩集を、私は何冊か保管しています。でもマックスには彼らに支払うお金なんてありませんでした。お客が投げ銭するのです――それが詩人たちの出演料でした。マックスも座って、朗読に耳を傾けていたのです。それが彼の生活でした――皆でテーブルを囲んで、詩作や哲学について語り合っていたのです。コーヒーのないコーヒー店のようなものです。それに酒類販売許可証もありません。彼らが何を飲んでいたのか、私は知りません。知性的な集まりだったのです。
いずれマックスは演奏を出し物に加え始めます。多くの場合、ひと晩三幕です。出演者の多くを、才覚のあるジャズマンが占めるようになりました。私が思うに、その始まりはクラレンス・プロフィットという名の素晴らしいピアニストです。
ヴィレッジ・ヴァンガード再建
私が引き継いだ時、ビジネスは上々とは言えませんでした。(略)何でも丁寧に目を通しました。この請求書は何?あの請求書は?(略)
マックスが付き合っていたビール会社は、彼に法外な値段を吹っかけていました。私は同じビールを半額で卸してくれる会社を見つけました。
(略)
「今夜はあれだけたくさんの人たちがクラブにいたのに、お金はたったこれだけというわけ?百人以上いたのよ。売り上げはどこ?」
基本的なことだよ、ワトソン君。そうホームズなら言います。
そして間もなく、さらに数人の長期にわたる従業員が、ゴードン夫人から解雇通知を受け取るのであった、というわけ。
(略)
私は毎晩、その日のうちにミュージシャンに支払うようにしました。今もこのやり方を気に入っていますし、ミュージシャンも同じです。
(略)
どんな請求書も、私は期限前に支払います。そのことでは私は頑固です。請求書をほっておけないのです。何でもすぐ払います。その結果、私は誰にも一ペニーすら借りていません。
それでいつ状況は好転したのでしょう?徐々にです。ヴィレッジ・ヴァンガードならではの名声がありましたし、それ自身に生き延びる力がありました。そこに私の功績は何もありません。
ミンガス・ライト
チャールズ・ミンガスは熊のようで、最高のベース奏者でバンドリーダーです。ヴァンガードで演奏する時には肉を注文していたものです。(略)
食事の大きな包みが届くと、ミンガスはキッチンでそれを開けました。生肉でした。 彼は食べました。生のまま。タルタル・ステーキではありません。生の挽き肉で、何も加えられていません。ミンガスはもの凄い大食漢でした!満腹することがないのです。
(略)
ヴァンガードの天井には〝ミンガス・ライト〟もあります。一種の聖杯で、人々は拝みにやって来ます。穴です。ある晩、ミンガスは自分のベースで天井灯を粉々に壊したのですが、その痕跡です。マックスは電灯の周りの壊れたところをそのままにしました。これが名所になったのです。また別の時、チャールズは上の入口の扉を蝶番からもぎ取ってしまいました。その晩私はいませんでしたから、これは私が聞いたままの話です。チャールズは怒り狂ったらしいのです。外の看板の彼の名前が〝チャーリー・ミンガス〟となっていたので(訳注:チャールズはチャーリーと呼ばれることを憎んだ)。クラブの常連で立派な挿絵画家の可愛い女性がいたのですが、彼女が扉を家まで文字通り引きずって持ち帰りました。小柄な方で、扉の方が大きかったそうです。(略)けれどこれがミンガスです。凄まじい人でした。
モンク夫妻とパトロネス
セロニアス・モンクがヴァンガードに出演した時のことです。奥様のネリーはモンクの健康をいつも注意深く気遣っていました。自分のミキサーを持ってきて、キッチンのその場で彼のための健康食を用意していました。彼女がセロニアスの左側にいれば、右側には男爵夫人パノニカ・デ・ケーニグスウォーターがいました。煙草のパイプを加えて、紫煙をモンクの顔に吹きかけていました。彼らは本当に三人で住んでいました。これにはいつも驚かされました。
(略)
ドクター・フィールグッド(訳注:覚醒剤などを処方していい気分にさせてくれる医者)の中でも悪名高い病院がありました。いわゆるヴィタミン注射をしてくれるわけですが、多くの場合明らかにアンフェタミンです。その医院の前に男爵夫人のベントレーが駐車するのを、私はしばしば目にしました。 モンクが出て来て、このドクター・フィールグッドに入って行くのです。
(略)
私は思いました。セロニアスは中で何をやっているの?その後この医者は追い出され、医師免許も失いました。
彼女はブリティッシュ・アクセントとベントレーを持つロスチャイルド家の人でした。(略)ジャズとジャズ・ミュージシャンを愛していました。(略)
男爵夫人はセロニアス・モンクを愛していました。ピアニストのトミー・フラナガンも同様に。モンクの妻はネリーだったと思います。でも男爵夫人もいたのです。(略)
最後、セロニアスはこの家で亡くなりました。これ以上何が言えるの?
ロレインさんの恋愛事情
処女を失うことは取り立てて大きな出来事ではありません。初潮の方がよほど大ごとです。ラルフ・バートンは既婚者でした。後でわかったのです。(略)ジャズ界の遊び人だったのです。(略)私にとって彼は経験、それだけのこと。どうすれば大人になれるか、私はとても知りたかったのです。
新婚初夜に私がヴァージンだったかですって?嘘はつけないわ。ラルフ・バートンに身も心も奪われてしまった私自身が少し嫌いでした。今となっては何でもないし、後悔もしていません。でも、アルフレッドだったらよかったのに。
私は子供が欲しかった。でも作りませんでした。私がとっくに諦めた後になって、アルフレッドはようやく欲しいと言いました。遅すぎるわ。その時にはもう賽は投げられていたのです。
(略)
母の具合がよくありませんでした。 このころには両親はロサンゼルスに住んでいて(略)私は会いに出かけて行かなければなりません。父は近所でバーというか、小さなサルーンをやっていました。ロス・ラッセルの小さなジャズ・レコード店、テンポ・ミュージック・ショップから遠からぬところです。もちろん、私はお店を見に行きました。ロスは当時レコードも作っていました。名高いダイアル・レコードです(略)
ある日、男性がひとり入って来て、私の隣に腰かけました。ロスがお互いを紹介してくれました。「ロレイン、こちらがチャーリー・パーカーだ」それがどうしたの?私はパーカーの音楽が好きでもなかったし、そんな意味のことを彼にも伝えました。何ていうか、シドニー・ベシェをこの若い乱暴者から守ろうとしたのです。セロニアス・モンクはしっかり聴いていました。それでも、バードとディズがやっていたことを私が理解するには、しばらく時間がかかったのです。
母の病は重く、実際亡くなりかけていました。(略)
ある午後のこと、兄がやはり除隊したばかりの友人を連れて現れました。この男性が座ったソファの反対側に、私は自分を押し付けるように座りました。ひと目、私たちはお互いが嫌いでした。(略)
アルフレッドからは電報が届き続けていました。「帰って来ておくれ。君が必要なんだ」そうでしょう、とわかっていました。結局私は荷造りして、帰宅しました。そして再び日常が始まりました。 彼、私、そして私たちふたりの生活―――レコード、レコード、レコード。それでも何とかすべては平穏でした。
そこに父からの絶望的な電話です。「戻って来い。お前の母親のことなんだ。それだけだ」私は再びアルフレッドに言いました。「行かなければいけないわ」
(略)
母はホスピスに向かおうとするところでした。扉の中に入ると、兄と兄嫁、そしてあのひと目で嫌いになった男性がいました。この時、私たちはお互いにひと目見るや、すっかり恋のとりこになってしまったのです。私が今まで経験した中で、最も不思議な心変わりでした。
彼はハーバードの卒業生でした。見た目もとてもハンサム。すごいインテリです。(略)
彼は私の人生最大の情事の相手になりました。今でもふと思い出します。
彼こそ私の理想の男性。そうとしか考えませんでした。彼の他には何も欲しいと考えられませんでした――私もまだ小娘だったのね。本当のことをお話しすると、私が大馬鹿だっただけですが。でも、私たちは一緒にいて、申し分ありませんでした。
一緒にいて、ですって!全部で一週間か二週間、一緒だっただけなのに。
(略)
亡くなるまで、母の手を私の掌の中に握りしめていました。そして私のすぐ脇に彼がいました。
母が亡くなると、彼と私は一週間カタリナ島に出かけました。兄はこれを奇妙に思いました。夫は私がなぜまっすぐ家に戻ってこないのか、不信を抱いていました。母親の死が深く私に作用したのはもちろんです。でも私にはわかっていました。私はすっかりこの男性に恋してしまったのです。
(略)
滞在したのは小ぎれいなアパートメントです。私たちは料理して、お話して、そして毎晩カジノで踊りました。
そして帰らなければならない時が来ました。(略)
LAの空港で、私の彼は本当に窓のすぐ外の滑走路に立っていました――あのころはそんなことが出来たのです。「カサブランカ」のハンフリー・ボガードみたいに。(略)
飛行機が離陸すると、私はこらえられなくなって泣き始めました。声を立てて。隣の男性がポケットから大きなハンカチーフを出して手渡してくれました。結局、ニューヨークに着くまでずっと、私を慰め続けてくれたのです。
(略)
私は打ちひしがれてアルフレッドのもとに戻りました。それはそれはひどい恋の病でした――あんなの、人生で初めて。(略)
私たちは手紙や電話で連絡を取り合いました。私はニッケル硬貨をパンツのポケットに詰め込んで、ヴィレッジを歩き回りました。人目につかない電話ボックスがあると、飛び込んで彼に電話するのです。
(略)
彼には、こんなことを終わらせるだけの良識がありました。アルフレッドは、何かがおかしいととっくに気づいていました。大恋愛の果てに私が手にした最後の連絡は、絶縁状です。(略)「君に何をしてあげることもできない。自分が何をしたいのか、どこに向かっているのか、まだわからない。そして君は人妻だ――君の結婚を壊したくない」お笑い草よね。とっくに壊しているのだから。でも、それでおしまい。
何年も後、私は彼のお兄様に会いに行きました。あるところで衣料関係の仕事をなさっていたのです。「彼はどうしています?」私は尋ねました。
「結婚したよ」とお兄様。「そして惨めなものだ」「そう」と私。彼の住所を聞くこともしませんでした。
平和運動の友人がたくさんウェストチェスターに住んでいました。(略)
パーティがあると必ずお誘いの声がかかります。そして私は必ず駆けつけました。ひとりきりで。マックスと一緒には行けなかったのです―――彼は四六時中働きづくめでしたから。(略)
ニューヨークに戻るには毎回車が必要でした。そして毎回、誰かが申し出て下さったものです。しばしば男性の方もいました。お願いしたこともあります。
送って頂いた後、私はお伝えします。お電話くださらないでね。でも、くださった方もいます。
誰の人生にも、人が入れ替わり立ち替わりするものです。要点は、こうした男の方々は、ある意味私の結婚生活の接着剤だったということです。必要なはずの何かが欠けているという時、結婚生活の維持を助けてくれる方々がいるのです。素敵な関係です。それが終わるまでの。そしてそれは終わるのです。
こうしたことを思い出して、私は思います。まあ、これってみんな私なの?
私なのです。