サウンド・マン ロック名盤の誕生秘話 その4

前回の続き。

重ね録りの弊害

 それから20年の間に建てられたスタジオは例外なく、ミュージシャンおよびその楽器を他と完全に分離するデザインを取り入れていた。そしてこれが、数を増す一方のトラックにオーヴァーダブを行なえる能力と併せて、重ね録りという慣例を生む種になった。つまり、ひとつずつばらばらに録っていくやり方だ。かつてはスタジオといえば既存の建物を改築したものばかりで、各部屋の音響はそれぞれのエンジニアが現場で試行錯誤の末に生み出したものだった。これに対し、新手のデザイナーたちはエンジニアを介して完璧な音響環境を創り出した気でいたのだろうが、結果的に性格も個性もない部屋ばかりに、音楽性とは無縁のところばかりになってしまった。すべてを一時に録るしかなかった時代に始めた者として、わたしはミュージシャン同士が演奏する際の相互作用の重要性を忘れたことがない。これはごく微妙なこともあるし、基本的にはそばで他人が奏でているものに対する意識下での感情的反応でしかないのだが、そのミュージシャンはこの時、自らのプレイで他者に同様の影響を与えてもいる。しかし、既存のトラックに自身のパートをオーヴァーダブする場合、こうした相互的反応は起こりえない。後から演奏を加えるミュージシャンは、自分が重ねているものから影響を受けるだけだ。録音機材は本来、楽曲の演奏を捉えることを意図して作られたものだった。だが今や、機材が音楽の作り方と演奏のされ方に影響を及ぼしている。

ピート・タウンゼント『ライフハウス』

 1971年1月、LAから帰国してみると、ピート・タウンゼントから手紙が届いていた。彼が考えている次のプロジェクト、『ライフハウス』と題する映画およびサントラ盤の制作に、もし良ければ手を貸してくれないだろうか、と書いてあった。(略)

 この招待状をどれだけ待ちわびていたことか。彼らのことは、まだザ・ハイ・ナンバーズと称していた最初期から知っていた。 わたしのバンド、ザ・プレジデンツと同じクラブによく出ていたし、時に一緒になることもあった。結果、両バンドが互いを認め合う関係が築かれ、わたしはピートと友好関係を築いた。だから数年後、彼らがザ・フーとして、革新的サウンドを携えてシェル・タルミーと共にIBCに現われ、わたしがエンジニア役を任されたときの驚きと喜びはご想像が付くと思う。

(略)

わたしは正直に、台本に書かれている物語が自分には理解できないと白状した。続いていかにも決まり悪そうに、ひとりまたひとりと、部屋にいた全員が同じことを口にした。

(略)

話し合いの末、その映画はバンドの食指を動かすものではないことが判明し、企画をボツにし、アルバムに専念するということで決まった。映画があろうがなかろうが、どの案も曲として独り立ちできると思われたからだ。

 実際、ピートが送ってきたそのデモはどれも驚愕だった。そこらのデモとはものが違っていて、想像力を働かせる必要はないに等しかった。素晴らしい曲の数々。美しい録音に、凝ったアレンジ、そしてシンセサイザーの革新的使用を含む見事な楽器構成。彼がシンセサイザーをかくも効果的に使ったことは言うまでもなく、 この黎明期に早くもそれを巧みに組み込む術を見出していた事実には、いまだに感嘆させられる。ピートは自宅にスタジオを有しており、当時からすでに極めて優れたエンジニアだった。 ザ・フーと仕事をさせてもらった期間中、わたしは最初から最後までピートのデモを前にしておびえていた。オリジナルと同等かそれ以上のサウンドを作れと、常に挑まれている気がしてならなかったからだ。彼のデモ録音の構成要素をこっそり頂いては、バンドが演奏するトラックに使うこともしばしばだった。

『フーズ・ネクスト』

 この前年、1970年にストーンズは、ミック・ジャガーニューベリーに近い田舎に構える別荘でレコーディングを始めた。その頃にはストーンズ・トラックが完全に稼働できる状態になっており、わたしはそれを用いて、その大邸宅、通称スターグローヴズの広大なヴィクトリア様式の玄関ホールで、「スティッキー・フィンガーズ」に入ることになるトラックをいくつか録った。その後、ピート・タウンゼントと話をしていた際、そのセッションが順調に運んだ旨を伝えたところ、ならば「フーズ・ネクスト」のレコーディングはそこで始めようじゃないか、という話になった。

 初日、まずは“無法の世界”に取り組んだ。悪くない出だしだった。ピートの許しを得て、わたしは彼がくれたデモのシンセサイザー・トラックに手を加えて少々長過ぎた尺を縮め、録音に臨むバンドに向けて流した。彼らは非凡な技術力をもってそれと寸分違わぬ見事なパフォーマンスを繰り広げ、3人は頭から終わりまで一定のテンポを維持するシンセに微塵もずれることなく付いて行った。無論、ロジャー・ダルトリーの強力至極なヴォーカルもバンドが放つエネルギーにまったく引けを取っておらず、最後は驚愕の咆吼で全体を締めくくった。

 今でもこの胸に鮮明に残っている記憶がある。トラックの中で腰を下ろし、スピーカーから飛び出てくるものがわたしの髪に分け目をつくるなか、大量のアドレナリンが全身の血管を駆け巡っている感覚だ。長年この稼業を続けてきたが、まさしくぶっ飛んだことが何度かあり、そのたびにわたしは、今耳にしているものは、たんに商業的成功を超越するだけじゃない、大衆音楽の進化におけるひとつの道標になるに違いないと確信していたのだが、これもまたそんな記憶のひとつだ。

イーグルス

そのアーティストが自分に合うかどうかは最初の数小節を聴けばたいていわかり、合わない場合は演奏している残りの時間ずっと、相手をむっとさせることなく、可能な限り体よくお断わりするにはどう言ったらいいだろうかと、そればかり考えていた。だが往々にして、そういうバンドにはわたしの言葉を悪い方に取り、口汚く罵ってくる者がいるもので、結局こちらがどう言おうが、わたしにとっても残りのメンバーにとっても、まったくもってきまりの悪い状況に陥るのが常だった。からっぽの部屋の真ん中にぽつんと座り、自分ひとりだけのための演奏を、われはこの世のセンスを知り尽くした権威者なり、といった顔で聴かねばならない状況は、最悪と言う以外にない。

(略)

やったのはカヴァー集で、チャック・ベリーのロックンロール的なものばかり。(略)サウンドに特別光るものはなく、後に彼らを有名にするあの美しいヴォーカル・ハーモニーの印象もなかった。しかも、ステージでのたたずまいもこれといった個性に欠けていたし、ぎこちなさまで感じさせるものだったから、わたしは追いかける価値なしと確信し、ロンドンに戻った。

(略)

デヴィッド・ゲフィンは諦めることなく、君は最高の状況でイーグルスを見ていないからだ、と言って譲らなかった。デヴィッドにあまりにうるさく言われて、わたしは仕方なしにLAに戻り、バンドのリハーサルを見ることにしたわけだが、今となれば、彼のその粘りには感謝の言葉しかない。

 午前中いっぱい、ヴァレーのどこかのリハーサル場で過ごした。彼らが演奏したのはわたしがアスペンで聴いたのと同じ曲目で、結果も前回とまったく同じだった。ところが、昼食休憩を取ることにし、皆で建物を出ようかというときだった。誰かが言った、「ちょっと待った、めしの前にグリンにもう一曲、〝哀しみの我等〟だけ聴いてもらおうぜ」。それはランディ・マイズナーがリードを歌い、他の3人がハーモニーを付けるバラードだった。(略)

そのハーモニーは天からの贈り物だった。あまりのことに、わたしは唖然となった。4人とも優れたリード・シンガーで、それぞれがまったく異なる声を有していた。その四声が合わさると、この上なく美しいサウンドを創り出すのだった。

 昼食休憩は取らなかったと記憶している。その日の残りは、彼らが持ってきた素材の吟味に費やし、そうするうちにますます明らかになったのだが、彼らはわたしが当初与えた評価をはるかに凌ぐ、腕の立つミュージシャンの融合体だった。バーニーとグレンのギターの対比は清新で、ランディとドンが供するリズムは、4人全員が安心して腰を下ろしていられる、堅牢でなおかつ融通のきくものだった。

 わたしはすっかり改心し、彼らとアルバムを作れる期待感に胸を高鳴らせると同時に、バンドの潜在力をもっと早くに見て取れなかった自分の力不足を情けなく思っていた。

(略)

すぐさまイングランドに戻り、翌日にオリンピックでイーグルスとアルバム作りを始めた。

1973年、「ならず者」、「オン・ザ・ボーダー」

 リンダ・ロンシュタットがタイトル曲〝ならず者〟をカヴァーして特大ヒットをものにしたのだが、どういうわけか、イーグルス版はアルバムの一曲に甘んじたままだった、理由は神のみぞ知るだ。いや、暗い話ばかりではない、〝テキーラ・サンライズ〟と〝アウトロー・マン〟といういずれ劣らぬシングルは生まれたし、アルバムは最終的に数百万枚を売り上げてくれた。(略)

 だがバンドは幻滅した。作り終えたときは絶賛していた者たちが皆、手のひらを返したように、売上不振を、期待していた頂上に一気に昇れなかったことを、一部わたしのせいにした。ここで新たな教訓がまたひとつ。レコードが売れたのはアーティストのおかげ。売れないのはプロデューサーのせい。(略)

 というわけで、1973年9月下旬、3作目「オン・ザ・ボーダー」に取り組むべく、 オリンピックで久しぶりに顔を合わせたときにはもう、プロデューサーのわたしに対する不満がくすぶっていた。グレン・フライはスタジオ内でドラッグもアルコールも禁じるわたしの方針に苛立ちをますます募らせていたし、ランディ・マイズナーにはサウンドが不満だと言われた。 わけを教えてくれと言うと、電波の入りの悪い、雑音が混じるラジオでイーグルスの曲を聴いた際に、音がさえなかったからだという。 てっきり冗談かと思ったのだが、彼は真剣そのものだった。(略)

 グレンとドンはもっとハードなロック・サウンドを欲していたが、わたしに言わせれば、当時のイーグルスはどう考えてもいわゆるロック・バンドではなく、というわけでわたしの中に、彼らの十八番だと個人的に信じて疑わないものに執着する気があったのは認める。 わたしはあくまで、美しいヴォーカル・ハーモニーとカントリー・ロック的アプローチにこだわっていた。今回、彼らは新たな素材をほとんど用意して来ておらず、しかも見るからにまるでまとまりのない集団になっていた。

(略)

 こういう路線こそが彼らにふさわしいとわたしが思う一曲が〝我が愛の至上〟だ。同曲はイーグルス初の全米1位に輝いたのだから、わたしの見方はあながち間違いではなかったと思う。けれど4週間後、わたしたちは嫌な軋み音を上げて急停車してしまい、にっちもさっちもいかなくなったため、小休止を取ることを決めた。 わたしとしてはあくまで、曲を書くための時間を与えたつもりだった。が、彼らは新たなマネージャーと共に、プロデューサーを替えるという思いを胸に、アメリカへと帰って行った。

 今にして思えば、彼らが下したその決断はまったくもって正しかった。わたしは実際、目指すものに向かおうとする彼らの前に立ちはだかっていた。プロデューサーにとって最も重要なのは、アーテイストの望みに手を貸し、後押しをしてやることであり、邪魔をすることじゃない。代わりにビル・シムジクを選んだ彼らの判断には、お見事としか言えない。(略)

強力なドラッグにまみれ、メンバー同士が激しくいがみ合う、鼻持ちならないほど尊大なバンドと数百時間もスタジオにこもるなどというのは、どう考えても無理な話だ。ビルに大いなる幸運を祈りつつ、わたしは喜んでバトンを手渡した。

スモール・フェイセス

〝イチクー・パーク〟についてはフェージングの使用が取りざたされるようになり、それをわたしの手柄とする向きもあるようだが、実を言うとあの手法を見つけたのは当時のアシスタントだったジョージ・チカンツで、スタジオに入ったわたしに実演して聴かせてくれた。わたしは素晴らしいと思い、それでその日の午後に録った曲で使った。それたがたまたま〝イチクー・パーク〟だっただけで、LSDの歌だったのは偶然の一致なのだろうけれど、ともかく聴いてもらえればその効果の程に納得していただけると思う。

(略)

[69年、ジョニー・アリデイのアルバム録音]

わたしはスモール・フェイセスを推し、 ギターにピーター・フランプトンを加えた。ジョニーは現金払いをモットーにしていたし、スモール・フェイセスの面々は小遣いを稼ぎ、フランスの首都を数日間楽しめるその機会に飛びついたのだった。

 ところが、悲しいかな、このセッションで彼らは意見を激しく対立させ、その修復はついにきかず、バンドの命運はそこで尽きてしまった。スティーヴはピーター・フランプトンとハンブル・パイを組んだ。(略)

 一方、ロニー・レイン、ケニー・ジョーンズ、イアン・マクレガンの3人はロンドンに戻り、ロニ・ウッドおよびロッド・スチュワートフェイセズの結成に向けて動きだした。

 どちらのバンドからも、時期は異なるが、プロデュースを頼まれることになった。

(略)

 フェイセズを手がけたのは、1971年後半、3作目「馬の耳に念仏」が初めてだった。(略)ロッドとは60年代に何度か会ったことがあり、あの声には昔から大いに敬意を抱いていたのだが、ヴォーカリストとしての真価を知るに至ったのは、彼がフェイセズに入ってからのことだ。バンドのプレイ・スタイルが、かの自作曲群とひとつになることで、ロッドにあつらえたかのようにぴたりと合い、彼の歌の良さを最大限に引き出していた。

(略)

 次作「ウー・ラ・ラ」に至る頃にはしかし、状況ががらりと変わっていた。ロッドは世界各国で首位に輝いた〝マギー・メイ〟を武器に、ソロ・アーティストとして巨大な成功を収めている最中で、バンドに対する関心を急速になくしつつあり、制作中のアルバムに対する興味が日を追うごとに冷めていっているのがはっきりと伝わってきた。(略)

アルバムが完成したときは、皆がほっとしていたんじゃないかと思う。

 それから間もなく、彼らは解散した。実際、必然の結果だった。 「ウー・ラ・ラ」を販促する全米ツアー後、まずはロニー・レインがバンドを抜けた。(略)

[ひどく落ち込み途方に暮れているロニーに]何か曲はないかと尋ねると、いくつかあるという。そこで彼を元気づけようと、ちょうどスケジュールが空いていたから、週の後半に一緒にオリンピックに入ってそれを録ろうじゃないか、と伝えた。その結果がシングル〝ハウ・カム?〟で、数週間後に発売されると全英チャートの首位に上り詰めた。これでロニーは少し元気を取り戻してくれた。その日のためにわたしが集めたリズム・セクション――ベニー・ギャラガー、グレアム・ライル、ブルース・ロウランズ、そしてフィドル奏者のチャーリー・ハート――はそのままロニーのもとに残り、彼のバンド、スリム・チャンスとなり(略)全英巡りの旅に出て行き、巨大なサーカスのテントを移動式の会場として使った。

ストーンズとの別れ

1974年11月のある日、わたしが[ロン・ウッドの家を]ふらりと訪ねて行くと、キッチンでミック・ジャガーと一緒になった。彼とわたしは少し前にロンドンでフェイセズのライヴを観ており、彼らが繰り広げた強力なショウにミックは激しく感心していた。

 ミックは紅茶をすすりながら、ストーンズはちょっとした苦境に陥っていると明かした。彼らはアラン・クラインと縁を切ろうとしているところで、交渉をすすめるなかで、クラインにもう1枚アルバムを作る契約になっていることが判明した。そこで彼らはクラインとの契約期間中に残した全録音を洗い直し、何らかの理由でボツにした素材を集めてアルバムに仕立て上げ、その義務を果たすことに決めた、ということだった。

 しばらく前にストーンズとの仕事は止めていたが、彼らが使おうと考えている素材はすべてわたしが録ったもので、そこでミックと、思うにキースは、わたしに頼むことにしたのだろう。少しの間だけ元の鞘に戻り、ニューヨークに数日ほど行って、後に「ブラック・ボックス」として知られることになるものにまとめ上げてくれないか、ということだった。

(略)

 それから数日間、わたしたちはするべき仕事をバリバリとこなし、何時間もかけてマルチトラック・テープを洗い直していった。どのアルバムにも入らなかったのには、それなりの理由があった。どれもこれも失敗に終わった、粗削りな素案そのまま、と言っていいものばかりだった。

 ただ、ミックとの時間が楽しかったことは認めるしかない。(略)

 ある晩、ホテルのバーに飲みに行った際、また一緒にやることを考えてくれないか、とミックに言われた。この会話は以前から何度も繰り返しており、ほぼ毎回、どうしようもないほど醜い結果に終わっていた。これまでエンジニアとして大量の時間を君たちに差し出してきた、 だからこれからはプロデューサーとして認めてくれる、印税を払ってくれるということなら、続けてもいい、と言い張るわたしに対し、ミックはあくまで印税は払わないの一点張りで、わたしのことをよりによって売女呼ばわりして、両者は決別、という具合だった。

(略)

[結局]わたしは彼とキースとの共同プロデュースという条件で、依頼を受けることにした。

(略)

[『ブラック・アンド・ブルー』セッション]

[進まぬセッションの刺激にと、アムステルダムに来ていたリトル・フィートのライヴに誘い、全員衝撃を受ける]

 わたしの策略はしかし、ストーンズ・セッションには目に見える影響を及ぼさなかった。ミックとキースがその場を利用して、ミック・テイラーの後釜に据えるギタリストのオーディションをすると決めたのも痛かった。そのせいでレコーディングに費やすはずだった莫大な時間が無駄にされることになった

(略)

 10日目、キースとひと悶着あり、後にも先にもそれ一度きりなのだが、わたしはまたも憤然としてその場を去った。数時間後、ホテルをチェックアウトするべくフロントに向かう途中、ミックの部屋に寄った。ミックがそうしてくれと言ったからで、最後の別れを言いたいのだという。行くと、ドアが開いたままになっていて、バスルームに来てくれと言われ、そこで彼と最後の会話を交わした。 わたしと彼はありとあらゆる艱難辛苦を乗り越え、巨大な成功が彼らにもたらしたすべてを余すところなく共に経験してきた仲だった。 わたしは自分の妻や子供たちといるよりもはるかに多くの時間を彼らと過ごしてきたし、当時最高のロックンロール創造の瞬間をいくつか、この目で見るという特権にも恵まれてきたわけだが、その最後の瞬間、ミックは入浴中、わたしは戸口にコート姿で突っ立ち、足下にはスーツケース。お互いにまだ若い頃、十数年も前に始まった仕事関係の締めくくりだというのに。

 それ以来、キースとはごくたまに会うけれど、そのたびに彼はわたしを温かく迎えてくれる、ロッテルダムでの一件はとっくに忘れているのだろう。ふたりの心の底におそらく、共通の友人ステュを失ったことに対する語られざる深い悲しみがあって、それが仲を取り持ってくれているのだと思う。 

ザ・クラッシュ『コンバット・ロック』

 ザ・クラッシュとの仕事は、CBSロンドンの当時のA&R長で、スティーヴ・ウィンウッドの兄、"マフ"を介してやって来た。(略)

アルバムの制作はジョー・ストラマーとミック・ジョーンズが順番に手がけることになっているのだけれど、今回は少々意見の相違があり、彼らはニューヨークでスタジオをふたつ、2週間押さえ、各人が最初から最後まで別々に、相手の干渉を受けることなくミックスをすることになった、ということだった。(略)

送られてきたものはマフの眼鏡に到底適うものではなかった。(略)

正直に言わせてもらうと、わたしはクラッシュのファンじゃなかった。いや、もっと言うと、彼らに限らず、当時存在していたパンク・バンドはどれも好きじゃなかった。

(略)

どうせ非音楽的なばか騒ぎの酷い代物に決まっている、わたしには理解も共感もできないものなのだろうと、高を括っていた。すべてを聴き終えた頃にはしかし、嬉しい驚きを感じていた。確かにやりたい放題ではある、けれど彼らはじつに賢いアーティストであることが、そしてその音源には優れたアルバムにできるものが十二分に詰まっていることがわかった。

(略)

彼らはわざわざウエスト・サセックスのわたしの自宅まで来てくれた。(略)

ミック・ジョーンズは来なかった。後にわかるのだが、彼はそもそもこの案にまったく興味がなかったのだ。

(略)

わたしはジョーとすぐさま意気投合した。彼はわたしが出した提案をどれも快く受け入れてくれた(略)

2枚組ではなく1枚にまとめたほうが、はるかに強力な作品になる気がしていた。そうした提案はすべて、大いなる情熱をもってジョーに歓迎されたから、わたしは自信を深め、 ミックスだけでなくサウンドやアレンジに関しても、思いついたどんなアイディアも片っ端から試してみることにした。(略)

午後7時頃、コントロールルームの扉が開いた。入ってきたのは何と、不機嫌そうな顔のミック・ジョーンズだった。(略)

ミックは黙って座ったままで、わたしが感想を尋ねると、いくつか自分の手で変えたいところがあると、ぼそりと言った。そこで丁重に伝えた。これはどれもわたしがやったものだから、非常に残念だ。もしも今朝10時に皆と一緒にお越しいただいていたなら、君の意見は尊重され、支持されていたと思う。(略)

彼は来たときよりもなおいっそう不機嫌な様子で帰って行った。

 翌朝、わたしは(略)ジョーに電話で言った。君との仕事は非常に楽しかったのだけれど、君の友人に対する配慮が足りなかった、このまま続けるのが最善だとは思わない。数時間後、マフから電話があり、ミック・ジョーンズは悪かったと言っている、この先セッションには関わらない、この件についてはジョーに全権を預けると約束した、と伝えられた。というわけで、わたしはジョーと再度合流し、それから数日間、彼のヴォーカルをいくつか再録し、残りのミックスを仕上げる作業を満喫した。ジョーとの時間がどれほど楽しいものだったか、言葉では伝えきれない。彼の誠実さは、わたしがこれまで出会ったなかで間違いなく指折りだ。 才気煥発で、見るからに自らの成功に微塵も酔っていなかった。誠に素敵な、才能に溢れる男。 2002年12月、彼の他界は音楽社会にとって多大な損失だった。

(略)

ミックにしてみれば、相当量の時間と労力を投資した作品を手放すのは、至極受け入れがたいことだったに違いない。(略)にもかかわらず、彼は寛大にもわたしに任せてくれたし、ほとぼりが冷める頃には、少なくともある程度は結果に満足してくれていたように思う。それを知ったのは次に会ったときのことで、ミックはすこぶる上機嫌だった。

 数カ月後、わたしは米ツアー中のザ・フーのライヴ・アルバムを録っていた。いくつかのギグでクラッシュが前座を務めることになり、せっかく機材が揃っているのだから、うちらのステージも録ってくれないか、と彼らに頼まれた。 わたしは快諾し、ニューヨークはシェイ・スタジアムとロサンゼルスはコロシアムのライヴを録った。覚えているのは、溢れんばかりの狂騒的エネルギーと、サウンドがさえなかったことだけで、ベーシストはひとり、どこか別の非音楽的惑星にいるかのようだった。わたしの見解では、使えるものは何もなかったのだが、クラッシュ・ファンの飽くことなき食欲を満たすべく、所属レコード会社がそのいくつかを世に出したことは知っている。

 幸運にも、ジョーとはその後も友人関係を続けることができて、彼はアートスクール時代からの旧友タイモン・ドッグのアルバムを作る際に、わたしのスタジオに戻って来てくれた。悲しいかな、それが彼との最後になった。