ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法 冨田恵一

詞と曲は同時に

フェイゲンは言う。「いつも、詞と曲は同時に作らなきゃいけないと思っていたし、少なくとも、どんな詞にするかのアイディアくらいはないといけないと思ってた。だからボクらの詞は、いつもなんらかの形で曲に合わせてあった」「曲が先にできていて、しかるべき歌詞を書く場合も、先に歌詞があって、曲をつける場合もある」「ウォルターとぼくで歌詞を書いていて、なんらかの効果がほしくなったら、僕はその内容を強調する手を考えるし、逆に、歌詞のカウンターをねらうこともある」「作品になりそうなテーマがまず決まって、そのテーマに沿って歌詞が出来上がる場合もあるし、曲と言葉を同時に作っていくこともある。ただ基本的には歌詞を先に書き上げてから、曲作りに入る方がうまくいくことが多いね。というか、クオリティの高い楽曲を歌詞なしで作り上げるのは難しいと思うんだ」

ゲイリー・カッツ

[以下、SD=スティーリー・ダン]

端的に言えばカッツはA&R=ディレクター的義務を負っていたと考えられ(略)

[音楽的にはSDのセルフ・プロデュースであり]

では、なぜカッツがプロデューサーなのだろうか?

(略)

カッツの役割についていくつか証言がある。まずはミュージシャンの選定である。 《Nightfly》 に関するインタヴューでフェイゲンは「どのミュージシャンを使うかは、曲を書きあげた後でゲイリーとふたりで相談の上決める」と述べている。 またジェフ・ポーカロは「ゲイリー・カッツだったらアーティストを本当に知り抜いていて、その人のために働く。 その人の音楽と、いろんなミュージシャンを知っているから、そのセッションにぴったりのミュージシャンが誰だかすぐわかる」と述べ、カッツの仕事ぶりを賞賛している。

(略)

 また「ベッカーとフェイゲンがミュージシャンの働きに満足しない時、彼らはゲイリー・カッツに嫌な役を頼んだ。そういうときはたいてい休憩をとって近くのレストランにカッツを呼び出し、そのミュージシャンに対するそっけない評価を述べた後、自分たちがスタジオに戻る前に引き取らせておいてほしいと頼んだ」ということらしい。

(略)

 またパラノイアックなアーティスト(もちろんSDもだ)を担当する場合に、A&Rが最も望まれる仕事をカッツもこなしている。

「自分もベッカーもシャイでプレイヤーたちに話し掛けることが苦手だったので、カッツが代わりに世間話をしてミュージシャンたちの気持ちを和ませてくれてた」とフェイゲンは語っている。

(略)

カッツは「僕らはスティーリー・ダンのセッションをコマーシャル録りのような気楽な雰囲気にしようとしていた」と述べている

(略)

[《Meanwhile》で]10ccのふたり、エリック・スチュアートとグレアム・グールドマンは「スティーリー・ダンやフェイゲンのソロ作での素晴らしいプロデュース・ワークの再現を期待してカッツを呼んだ」らしいが[当てが外れ](略)

彼らは「あまり音楽的な人じゃない」「ほとんど何もしてくれない」と続けるが、カッ・タイプのプロデューサーが格段音楽的である必要もなく、何もしないことが《Meanwhile》制作現場ではベストだと判断したのではないか。ポーカロはこうも言っている。「(カッツは)レコード作りも、いくつもある方法の中からその人に合うものを選ぶ」。アーティストが自らをコントロールの中枢に置きたがるタイプ(スチュアートもこのタイプに分類される)の場合は、それに適したやり方があり、もちろんその場合にプロデューサーが前面に出ては、制作は軋轢ばかりで進行しない。 《Meanwhile》での何もしないに近いスタンスは正しい選択だ。とは言っても、参加ミュージシャンは一部のイギリス勢を除き、カッツのファースト・コール人脈で固められているから、やるべき仕事は適切になされているのだ。そしてカッツであれば、10ccふたりが望むサウンドを自分たちのみでなく、第三者の補助に求めていると知った時点で、的確なアレンジャーをブッキングするのも難しいことではなかったはずだ。 しかし10ccは(略)素直にカッツに相談[せず](略)カッツからもどんどんアイディアが被せられ〝共同で編曲していくようなタイプのプロデューサー〟をイメージしたまま、作業を続けていったのだと推測できる。

(略)

 一方で、「スティーリー・ダンは、フェイゲンとベッカー、そしてプロデュースのゲイリー・カッツによるユニット」(略)「私の言うスティーリー・ダンドナルド・フェイゲンウォルター・ベッカー、ゲイリー・カッツの3人を指します」といったように、カッツをSDサウンドに欠かせない存在であると評する発言も散見される。

ロジャー・ニコルズ

 SD=フェイゲン作品におけるエンジニアと言えば慣例のようにロジャー・ニコルズが挙げられるが、一般的にミキシング・エンジニアが話題にされるのとは違い、 ニコルズは特殊な立場にある。(略)

《Nightfly》でミックスを担当したのはエリオット・シャイナーであり、トラッキング(録音)もシャイナー、オーヴァーダブ・エンジニアとしてはダニエル・レイザラスがクレジットされている。(略)

[しかし]チーフ・エンジニアとしてロジャー・ニコルズが先頭にクレジットされているのだ。他の録音作品ではほとんど見かけないクレジット方法である。ロジャー・ニコルズに関するこの例外的な肩書きはSD後期から見られる。《Royal Scam》まではわかりやすくエンジニア、ミックス・ダウン・エンジニアとしてクレジットされているが、《Aja》《Gaucho》ではエグゼクティヴ・エンジニア(略)

[《Aja》の]ミックスはニューヨークのA&Rスタジオで行なわれ、「そこにいるエンジニアのエリオット・シャイナーが好きだったから「ペグ」を除いて全曲をそこでミックスしたんだ」とのフェイゲンの発言から、やはり《Aja》でもミックスはシャイナー中心だったことがわかる。

(略)

 ロジャー・ニコルズは70年にABCスタジオのハウス・エンジニアとしてキャリアをスタートさせた。SDふたりがまだ専属ライターだった頃、他アーティスト用のデモ作りの作業をニコルズとともにし、親しくなったようだ。 そしてファースト・アルバム 《Can'tBy A Thrill》の録音に際してはSDふたりがニコルズを希望し、ニコルズのスケジュールが開くのを待って録音を始めたほど、信頼をよせていた。

(略)

 ニコルズのミックスはハイファイでバランスがよく、フラットな印象だ。 (略)

ニコルズは新しいテクノロジーに対してかなり貪欲なのだ。(略)レコーディング・エンジニアのそれを遥かに超え、コンピューターのプログラムを書き、サンプラーを制作するに至る。それが本書にて頻出する Wendel(Ⅰ、Ⅱ)だ。

 

 一方のエリオット・シャイナーは67年にフィル・ラモーンのアシスタントとしてキャリアをスタートさせる。SD史のみを見ると、シャイナーをニコルズのアシスタント的立場と認識してしまうが、キャリアはほぼ同等かシャイナーの方が長い。

(略)

ニコルズに比べてよりグルーヴ構築に長けている印象がある。「もともとがドラマーからスタートした私にとって、ドラムスの音色がどうあるかは常に重要な課題でした。ドラムスの音色によって、レコードの持つ色彩感が決まると思えるからです」とシャイナーは言う。

(略)

フェイゲンは《Aja》について「僕たちが参考にしていたのはロック・サウンドじゃなくて、ルディ・ヴァン・ゲルダーがやっていた五十年代のサウンド。つまり五十年代に彼が手掛けていた一連のプレスティージ・レーベルの音さ」と語っている。(略)その質感とサウンド構築にはニコルズよりもシャイナーが適任であり、その後の作品でもミックスの大部分はシャイナーが担当する。

(略)

一貫してニコルズがエグゼクティヴ、チーフと冠せられ、エンジニアリングの中心であることを表記され続けた理由は何か?

(略)

「彼の音楽への興味は、病的なほどにレコードの雑音を憎むところから始まっていた。スタジオで働けば、音楽が完全な音として聴こえる秒速15インチの2トラックのテープ・コピーを持ち帰ることができる。彼の目的はそれだったのだ」との記述もある。

(略)

 あくまでもハイファイを目的とし、自らの音楽性を付加することのないニコルズは、SDとの相性という点でベストだったに違いない。

(略)

ニコルズはエンジニアというよりも、"オーディオ・コンサルティングを担当するSDのメンバー"といった存在になったのではないか。

(略)

 2000年の《Two Against Nature》リリースに関したインタヴューでニコルズは、SDのレコーディングが長期間に及ぶため混乱してしまうと言い、「それならばエリオットにつまみを操作してもらい、こっちはゆったりと曲の流れを思い出しながら、またドナルドとウォルターがどういったものを好むか、考えながら聴く方がずっといい」と述べている。 これは 《Aja》以降のニコルズのスタンスを端的に述べた発言だ。

(略)

《Gaucho》では辛うじてオーヴァーダブにクレジットがあるが、《Nightfly》ではトラッキングにもオーヴァーダブにもニコルズの名前はない。これは Wendel II の開発と、セッション中もその取り扱いに集中していたからであろう。

(略)

ニコルズがシャイナーやシュミット等を採用した理由に、彼らに共通するエンジニアリングの方向、クオリティがある。ニコルズはシャイナーの録った音は自分が録ったかのように感じると述べ、「私はイコライジングは嫌いです」と述べている。シュミットは「私がレコーディングをする時は、ベストの状態を録音し、なるべくEQを使いません」と言い、シュネイは「コントロール・ルーム側ですべてを解決しようとせず、まずスタジオ側にできることはないかを考えてみることが重要です」と言うのだ。

 トラッキングに関しての彼らの発言に共通しているのは、巧い演奏者が奏するよい音のする楽器を、よい音のする場所に配置、適切で最もよい音が録れるマイクを、最もよい音がする場所に立てて適切なレベルで録音しろ、ということである。

空白の10年

[80年代後半、MV全盛の音楽界に苦言を呈し、インタヴュアーに「驚くくらいの正統派なんだね」と言われた際、フェイゲンはこう答えた]

「ボクの姿勢は、エンターテイメント的な価値もあり、かつ中身もある音楽を作る必要性と関わっているように思えるんだな。ボクはいつもこう思ってたんだ。つまり、スティーリー・ダンの曲はその両方を組み合わせようとしていて、ボクたちはそういった視点でやっていた。そして、それはリスナーとの共同作業であった、とね。みんな自分の想像力を働かせなきゃいけなかったんだ。だから、君の言う通りさ。ボクは全くの正統派」

(略)

フェイゲンの音楽のように複雑な表現や技術を必要とし、かつエモーションで連続性を保つ構造ではなおさらである。しかもそれをオーヴァーダビングで制作するのだから、熟達と充分なエネルギーを発揮できるコンディション(環境、精神的、肉体的な状態や年齢)の足並みが揃うことが重要になる。その点でも、 そして 《Nightfly》のコンセプトを表現するという点でも、制作時のフェイゲンはギリギリでその範囲内にいたようだ。

「アルバムの最終ミックスを行っていた時、僕はおかしな気分に襲われた。そしてその気分はさらに異様な気分へと変わっていったが、それは仕事や愛や過去や死すべき運命といったことによるものだった。僕が次にアルバムを完成させたのは1993年になってからだった。なので、これは誰にでも起こることだが、僕の中から若者らしさが消えてしまう前に『ナイトフライ』を作っておいて良かったと思う」

 空白の10年に関して、後にフェイゲンはミドルエイジ・クライシスとの関係を語り、その原因は80年代のムードと密接な関係があったことも語っている。80年代という時代が疲弊したフェイゲンにとってさらなる重荷になっていたことは想像に難くない。