ベルリン音楽異聞 明石政紀

辺境ベルリン、ディー・テートリッヒェ・ドーリス

 ベルリンは東西陣営の辺境と化しただけではない。(略)自国の辺境ともなってしまった。たしかに街の東半分は、東ドイツの首都として、この田舎っぽく垢抜けないソ連衛星国の中心の体裁は一応保っていたが、西ドイツに属したもうひとつの街の片割れ、西ベルリンは、本土よりずっと東に位置していたため、周囲を敵対する東側の領土に囲まれた飛び地「陸の孤島」と化し、一歩街の外に出るとそこは外国、それも敵の巣という文字通りの辺境となってしまったのである。こうして二百万もの人間が毎日寝起きする西ベルリンは、全ドイツ最大の都市でありながら、地理的にも政治的にも社会的にも巨大な辺境と化したのである。

 西ベルリンが辺境と化したことで、かつてこの中心の地に集積していた権力も金もつぎつぎに西ドイツ本土に移っていった。中央政府ライン河畔の穏健な大学町ボンに移り、大空港と大銀行の本拠はマイン河畔の見本市の街フランクフルトとなり、各種大企業もベルリンからおさらばしていった。この機に乗じて、かねがね北独プロイセンの都ベルリンを目の上のたんこぶのように嫌っていた南独バイエルンの都ミュンヘンは、自ら西ドイツの「影の首都」を名乗るようになった。

 権力も金もないところには、人は集まらない。とくに働き盛りの人間は集まらない。だが権力も金もないところだからこそ、西ドイツ各地から集まってきた人間たちがいた。若者たちである。その最大の理由は、西独本土で施行されていた徴兵制が、連合国の軍政下に置かれていた特別行政区の西べルリンには適用されなかったということだ。(略)軍事を嫌う徴兵適齢期の若者たちが、たくさんこの辺境のメトロポールに移り住むようになったのである。

(略)

 権力も金もないところは物価も家賃も安い。これも実入りの少ない若者たちには有利だった。こうして西ベルリンは(略)ドイツきっての貧乏人が大量居住する大都会となったのである。たしかに豪勢な目抜き通りクアフュルステンダムは、資本主義の豊かさを貧しい東側に見せつけるための「ショーウィンドー」の役割を果たしてはいたが、西ベルリン自体も、けっきょくのところ「奇跡の経済復興」を果たした西ドイツ本土からカンフル注射される補助金で生き長らえていたハリボテの金欠都市だったのだ。

(略)

第二次大戦が終わるまで、ベルリン西地区はドイツきってのジャズ・タウンだったが、戦後西独ジャズの中心となったのは「フランクフルト・サウンド」で有名な中部のフランクフルト・アム・マインのほうだったし、六〇年代末から七〇年代にかけてのロック・ミュージック最盛期には、西ベルリンでもタンジェリン・ドリームやアシュラ・テンペルのようなサイケ・グループ(略)などが生まれはしたが、発想の特異さや後代への国際的影響という点では、クラフトワークやカンといった西部ライン地方のバンドの存在のほうがはるかに大きかった。かつてベルリンを拠点としていたドイツの大音楽産業も、とっくのとうにハンブルクやケルンといった西ドイツ本土の街に移転していた。

(略)

ではこの西べルリンの辺境的側面をもっとも反映していた音楽はいったいなんだったか?

(略)

パンクやニューウェイヴの追い風を受けて出現したアンチ・プロ反抗アンダーグラウンドサウンドだったとわたしは思う。

(略)

 たしかに西ドイツ各地でもこうした音が生まれた。メディアはこれら新手の音楽を十把一からげに「ノイエ・ドイチェ・ヴェレ(ドイツの新しい波)」などと呼んだが、その内実はてんでばらばらで、典型的な怒号パンク三和音のみならず、素直に歪んだ電子童謡 (デュッセルドルフのデア・プランやハンブルクアンドレーアス・ドーラウ)、疑似バウハウスモダニズムアナクロ表現主義サンプラー・ゴシック(ハンブルクのホルガー・ヒラー)、踊り踊らせる脱臼肉感ビート(デュッセルドルフDAF)、政治思想を背景にした純粋ノイズ・コンポジション (フランクフルトのP16. D4) と千差万別だった。共通点といえば、せいぜい歌詞が以前のドイツ産ロックのように借り物の英語ではなく、地元言語のドイツ語で歌われるようになったことくらいである。それと並行してバンド名も、英語ではなくドイツ語で命名されるようになり、ヴィルトシャフツヴンダー(奇跡の経済復興)、フライヴィリゲ・ゼルプストコントロレ (自主規制)、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン (倒壊する新築) などと、いかにも戦後西ドイツらしい名前を掲げたバンドも生まれた。こうした烏合の西ドイツ新音楽のなかで、個々の差はあるとはいうものの、西ベルリンのバンドは、総じてパンクの基本発想に即したデッドエンド、デッドテック、ディレッタントの3D効果に抜きん出ていたと言えるだろう。

(略)

この辺境の大都会では、ディー・テートリッヒェ・ドーリス、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン、マラーリア、シュプルング・アウス・デン・ヴォルケンといった閉塞感たっぷりの各種デッドテック・バンドが生まれることになる。

(略)

楽器が弾けなくとも機材がなくとも、さっそく音を出してしまうという思いっきりのよさが身上だった。楽器がなければそこらに落ちているものを拾ってきて楽器をつくればいい。ベルリンのバンド、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンはほんとうに廃品置き場で拾ってきた鉄くずでパーカッションをつくったし、スタジオ機材がなければ、スーパーマーケットで買ってきた卓上カセット・レコーダーでさっさと録音すればいい。

 そこではコード進行があってなくてもいいし、無調だろうがノイズだろうがなんでもいいし、音がどんなに調子っぱずれでも、歌がどんなにヘタックソであろうと、機材がどんなにチープであろうといいのだ。

(略)

 さて、デッドエンド西ベルリン・デッドテック・バンドの一部が一堂に会した象徴的イベントが、一九八一年九月四日の金曜日、壁の間近のポツダム広場に張られたサーカス・テント、テンポドロームを会場に催された《大没落ショー~天才的ディレッタント祭》だった。

(略)

発起人ヴォルフガング・ミュラーがやっていたグループ「ディー・テートリッヒェ・ドーリス」(略)

ノイジーでチープなサウンド、ヘタウマ頓狂ヴォーカル、真面目なのか冗談なのかわからない人を食ったユーモアを湛え、同じベルリンのバンド、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンのように「音楽プロ化」することもなく、技法的にこれといって進歩することもなく、進化しようともしなかった。その音盤も、最初のうちこそ「ふつうの」レコードだったが、そのうち専用プレーヤー付きのカラフル極小音盤セット、ライヴでテープを流して自分たちは口パクをやり、各コンサートの会場音を重ねていった「ライヴ再生」盤、べつべつにリリースした二枚のレ コードを同時にかけると第三の音楽が生まれる企画と、脳細胞を活性化させる意表を突く発想に満ちたものになった。

(略)

グループ名、ディーは定冠詞、テートリッヒ(ェ)は「死にいたらしめる」を意味する形容詞、ドーリスは女の子の名前で、「必殺ドーリス」といった感じだが、同時にドイツ語で「致死量」を意味するディー・テートリッヒェ・ドージスにひっかけた洒落でもある。というわけで日本では「致死量ドーリス」、「致死量子ちゃん」と呼ばれることもある。

(略)

ドーリスの名のもと、音楽のみならず、オブジェから8ミリ映画、エッセイからラジオ・ドラマまで、さまざまな天才ディレッタント的産物が発表された。

 ドーリスの最後の音盤企画は、二枚のレコードを同時に再生すると第三の音楽が生まれるというものだ。そのうち一枚は西ドイツのレーベル、もう一枚は東ドイツの国営レコード会社に発売の話が持ち込まれ(略)二枚を同時にかけると新しい音楽が生まれるという音盤上のドイツ統一を狙った企画だったが、東独側が発売を拒否。けっきょくは西ドイツのレーベルが二枚とも出すことになったが、奇しくもそれからまもなくして、ドイツはほんとうに西独主導のかたちで統一することになる。

ドイツ国歌の怪――替え歌から国歌へ

 ドイツ国歌のメロディはよく知られている。あのハイドンの簡素で美しい旋律だ。でもハイドンはドイツ人じゃなくてオーストリア人じゃなかったっけ?

 そんなことはどうもいい。ハイドンが生きていたころはドイツとオーストリアの区別はなかったし、べつに作者が外国人だってかまわない。

(略)

 ハイドンが生きていたころは、今のような「国歌」の概念は存在しなかったし、この大作曲家もあの旋律をドイツ国歌として作曲したわけではない。(略)神聖ローマ帝国の最後の皇帝でもあったフランツ二世への君主讃歌として書いたのである。

(略)

 さて、ハイドンの君主讃歌の歌詞はどんなものだったのだろう。

(略)

 神よ、皇帝フランツを護りたまえ

 われらのよき皇帝フランツを(略)

 

 この歌詞、よく読んでみると英国国歌《ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン》(略)によく似ている。歌詞だけでなく、ゆったりとした讃美歌風の曲調も似ている。じつはこのハイドンの君主讃歌、英国の国王讃歌を範にとったものだったのだ。

 ハイドンがこの曲を書いたころは、オーストリアがナポレオンの革命軍に脅かされていたときだった。 ナポレオンの軍勢が歌っていたのはフランス革命の闘争歌《ラ・マルセイエーズ》。というわけでハイドンの讃歌は、革命軍から君主政を護ろうとする反動チューンだったのである。

(略)

 いったいどうしてこんな曲がドイツ国歌になってしまったのか?

 答えは簡単。替え歌されたのである。

(略)

ホフマンがこの《ドイツ人の歌》をつくったのは、ハイドンの原曲が誕生してから半世紀近くを経た一八四一年のこと。(略)

歌詞は三番まである(略)

まずは一番。

 

ドイツ、至上のドイツ

この世界の至上のドイツ

マースからメーメルまで

エッチュからベルトまで

いかなるときも

友愛をもって結束すれば

(略)

熱烈な統一主義者だったホフマンは、プロイセンバイエルンザクセンといった領邦分裂世界を超えた「至上の統一ドイツ」という意味をそこに込めていたからだ。それが一八七一年のドイツ統一の実現後、しだいに帝国主義的、国粋主義的に解釈されるようになり、ドイツの世界覇権を標榜したヒトラー第三帝国では、ほんとうに「世界に冠たるドイツ」の意で歌われるようになってしまったのである。

 この第一番のもうひとつの特徴は、ドイツはどこかという地理的限定がなされていることだ。

(略)

ホフマンが理想として頭に描いていたドイツとは、ドイツ語圏全域を統一した国であることがわかってくる。

 これはドイツという国が存在しなかった時点の夢としてはいいのだが、後年の第三帝国時代にはヒトラーの領土拡張政策と危なく重なってしまう。

(略)

ホフマンの詞が想定していたドイツにほぼ近いかたちが、ヒトラーの魔の手によって一時的に完成したことは皮肉な事実である。とにかくよそ様の土地を自分のもののように扱うこの歌詞第一番、かなり問題がある。というわけで、今ではこの一番は歌われない。

 それでは第二番。

 

ドイツの女性、ドイツの忠節

ドイツの酒、ドイツの歌

これぞ世界に保たれるべき宝

(略)

 うってかわって飲み会で杯を交わしているノリで、いかにもこの替え歌がつくられたロマン派時代にふさわしい心情・美徳ものである。じっさい(略)統一の夢を謳うと同時に、酒を酌み交わしながら声を合わせる宴会ソングとしても構想されたものだ。

 この第二番の詞の意は(略)

宴会で酔っ払った迷惑サラリーマンが、

「女はやっぱり日本人にかぎるよ。女房もけなげなもんで、なんやかんや言いながら、おれに尽くしてくれるしなぁ。日本の女は最高だぁ、最高。酒もやっぱり日本酒じゃなくちゃいけねぇ。(略)」などとクダを巻いている図を想像してみればいい

(略)

国粋ロマンチシズムに酔いしれた旧時代の酒宴向きである。

 というわけで(略)この歌詞も今では歌われない。

 

 それでは第三番。

 

統一と正義と自由を

ドイツの祖国に(略)

友愛をもって身も心も邁進せん(略)

ドイツの祖国に栄えあれ

 

 今度は、統一と正義と自由の理想社会像である。これが自由主義者として官憲のブラック・リストに載っていたホフマンが夢に描いた統一ドイツの理想社会像である。(略)原曲の君主讃歌を逆手にとった歌であることがはっきりしてくる。

 そして、この第三番が今でも歌われる歌詞だ。

 

 ハイドン/ハシュカの原曲とホフマンの替え歌の決定的な違いは、原曲では君主が主人公、替え歌では民族国家が主人公ということである。この相違に(略)十八世紀の専制君主制から、十九世紀のブルジョワ主導型民族国家形成への移行の意志が反映されているとも言える。(略)

[反体制ソングのホフマンの替え歌は]おおっぴらに歌うことはご法度だった 。(略)

おおっぴらに歌われていたのは(略)《ラインの守り》と言う。(略)

 

(略)

この大河の番人にならんとする者はだれなのか?

愛しき祖国よ、安心されん

忠実な守りが決然と立っている

ラインの守り!

 

(略)ライン河を越えてくる敵は、いったいだれなのか?(略)

西の隣国フランスだ。

(略)

《ラインの守り》がどんな曲か聞いてみたい方は(略)《カサブランカ》を観てみるといい。(略)

シュトラッサー少佐の音頭によりドイツ将校たちが歌っているのが《ラインの守り》だ。

(略)

ホフマンの替え歌が生まれてから三十年後の一八七一年、 ドイツは帝国として統一された。(略)

統一ドイツには正式な国歌はなかったし、国歌扱いで歌われていたのは、プロイセンの国王讃歌をもとにしたドイツ皇帝讃歌である。ドイツ統一プロイセン首相ビスマルクの主導で実現し、プロイセン国王が統一ドイツ帝国玉座に就いたからだ。反体制活動家ホフマンが夢見たドイツ統一はたしかに実現したが、「国の歌」として歌われていたのは、皮肉なことに反動的な君主讃歌だったのである。

 歌詞は次のとおり。

 

勝利の栄冠の汝に万歳

祖国の支配者よ

汝、皇帝に万歳!

(略)

 これもじつは替え歌である。

 旋律は英国の国王讃歌《ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン》をそのまま流用したものだからだ。というわけで当時は、英国とドイツは同じメロディで君主を称え、それを国歌ないしは準国歌としていたのである。

 かたや当時、反体制派の社会主義者たちはフランス革命の歌《ラ・マルセイエーズ》を替え歌し、自分たちの闘争歌にしていた。

(略)

君主賛美の英国国歌《ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン》と(略)革命行進歌のフランス国歌《ラ・マルセイエーズ》は、その後各国で生まれていく国歌の二大プロトタイプとなったものだ。

(略)

[ホフマンの《ドイツ人の歌》の浸透に]拍車をかけたのが第一次大戦だ。

 第一大戦では英国が敵国となったため、視界の悪い戦場でイギリス国歌と同じ旋律のドイツ皇帝讃歌を口ずさむと敵と間違われてしまうという危険があったし、友軍に誤射されていた部隊が《ドイツ人の歌》を歌ったら、銃撃がとまったという逸話も報告された。万歳愛国主義が猛威をふるったこの時代、若き志願兵たちがホフマンの《ドイツ人の歌》 を歌いながら敵に向かって進撃し、お国のために命を捧げたというランゲマルク英雄伝説も生まれ、これが大々的に流布された。そして帝国主義列強の覇権争いのなか、かつてホフマンが統一の夢を込めて謳った「至上のドイツ」に、世界に冠たるドイツとの解釈が付着するようになり、英語でも冒頭のくだり が「ドイツ、世界第一の国ドイツ」などと訳され、僭越国家ドイツのイメージが広まってく。

 けっきょく第一次大戦は一九一八年、僭越な後進列強ドイツの敗北で終わり(略)皇帝讃歌もお払い箱となった。すでにドイツの「音の標識」と化していたホフマンの《ドイツ人の歌》が、共和国大統領フリードリヒ・エーベルトにより公式に国歌として制定されるのは終戦から四年後の一九二二年のこと。つまりそれまで「正式な国歌」はなかったのだ。この制定は、国際試合などでお宅の国歌はなんですかと開催国からきかれ、外交上の必要に迫られてくだされた決定でもあった。社会民主党員のエーベルトは、理想社会を訴えた歌詞の三番を歌うのが望ましいとしたが、「われらはドイツをなによりも愛している」との理由で第一番の歌唱も認めた。そしてじっさいに歌われていたのは、覇権主義的な匂いがまとわりつくようになっていた一番だった。

 こうしてホフマンの替え歌は、とうとうドイツの国歌として公式認定されたわけだが、もうひとつ同じハイドンの旋律を歌っていた国がある。それがこの曲の原産地オーストリアだ。

 

 オーストリアではハイドン/ハシュカの皇帝讃歌が、陛下が交代するごとにそれに応じて歌詞を少々変えられ、ハープスブルク帝政が崩壊するまでずっと歌われつづけてきた。

 第一次大戦の敗戦でハープスブルク体制が崩壊し、大国から小国に縮んでしまったオーストリアは、お隣のドイツがハイドン/ホフマンの《ドイツ人の歌》を国歌として公式認定するのと前後して、首相カール・レナーじきじきの作詞、ヴィルヘルム・キーンツェルの作曲による新曲を国歌として採用する。(略)

[しかし]国民のあいだで浸透せず、帝国崩壊から十年ほど経た一九二九年には昔馴染みのハイドンの旋律が国歌として復活。それが「かぎりなく祝福あれ、いとしき故郷の土!/緑のモミの枝と金色の穂が地を朗らかに飾る…」というオトカー・ケルンシュトックの詞で歌われるようになった。こうしてお隣さんどうしのオーストリアとドイツは、歌詞はちがえど、同じ旋律で自国を称えるようになったのである。

 さらにそれから十年ほど経た一九三八年、オーストリア人のドイツ国家元首アードルフ・ヒトラーは、オーストリアをドイツに併合(略)オーストリア人民はドイツ国民となり、ハイドンの旋律をそのままに今度はホフマンの《ドイツ人の歌》を斉唱するようになる。

 

 《ドイツ人の歌》にこびりつくようになっていた覇権主義の匂いが、強烈な悪臭となって世界を覆うようになるのはこのヒトラー時代のことだ。(略)

「世界に冠たるドイツ」が(略)侵略戦争に乗り出すことになるわけだが、この時代、「第二の国歌」として歌われていた曲がある。

 それがナチ党歌《ホルスト・ヴェッセルの歌》だ。

 

旗を高く掲げよ!

隊列は固く組まれた!

突撃隊は行進する(略)

同志よ、赤色戦線と反動を撃ち殺し(略)

ともに行進せん……

 

 露骨な歌である。こういうのをみんなで一緒に歌っていたのだ….。とはいってもこのナチ党歌、「血塗られた軍旗は掲げられた……」と革命の血なまぐささを露骨に漂わせるフランス国歌《ラ・マルセイエーズ》の伝統に連なる闘争行進歌である。

 この曲は、共産党員に殺害されてナチ聖人に祭り上げられた突撃隊員の学生ホルスト・ヴェッセルの作とされるが、旋律の出所ははっきりとしない。

(略)

問題なのは、旋律が同じ、あるいは同じようなものでも、つけられる歌詞、曲に託される機能、歌われる状況、歌い方、楽器の使い方などによって、オペラの一節にも、戯れ歌にも、ナチ行進歌にも、左翼闘争歌にもなりうるということだ。たとえば「赤色戦線と反動を撃ち殺し」という下りを「ファシストと反動を撃ち殺し」とちょっと変えただけで、すぐさま左翼赤色戦線の闘争歌に早変わりする。

(略)

地獄に堕ちた勇者ども》を観てみるといい。風光明媚なヴィース湖畔で繰り広げられるナチ突撃隊の乱痴気騒ぎシーンで、ご乱交に興じていた隊員たちが突然起立して真顔で歌うのがこの《ホルスト・ヴェッセルの歌》だ。

(略)

 第三帝国が阿鼻叫喚と瓦礫のなかで消滅したあと、ふたたび独立国となったオーストリアは、自分たちが歌っていたハイドンの旋律を復活させようとしなかった。(略)

オーストリア共和国の国歌となったのは、もうひとりのヴィーン古典派の代表格モーツァルトの作とされていたフリーメイソンカンタータの一節の替え歌《山々の国、大河の国》

(略)

[西ドイツ]は、世界中から白い目でみられるようになっていたハイドン/ホフマンの《ドイツの歌》を国歌として復活させるどうかでもめ、新国歌創出の試みもいくつかあったが、けっきょく一九五二年、お馴染みの《ドイツ人の歌》の三番だけを歌うことで決着がついた。この決着がつくまで、国際スポーツ大会などで西ドイツの「臨時国歌」の役割を果たしていたのは 、ベートーヴェン/シラーの《歓喜の歌》だ。一九六四年の東京オリンピックで、東西ドイツが合同チームを送り込んできたときに使われたのもこの曲だったし、《歓喜の歌》は今やヨーロッパ連合EUのシンボル・チューンである。

(略)

いっぽう[東ドイツ](略)は、西ドイツに先んじて新しい国歌を制定する。東ドイツは、上っ面だけではやたらと反ファシズムを標榜していので、もともとヒトラー時代の国歌の旋律を使うつもりはなかったようだ

(略)

東ドイツの歌詞は、西ドイツ国歌のハイドンの旋律で途中まで歌える。ほんとうに最後の三行をのぞいて歌えるのだ。ということは、作者ベッヒャーも詞を書くとき、ハイドンの旋律を念頭に置いていたということだろう。

踊り場ベルリン、デルフィ・パラスト

 さてベルリンが本格的に一大ダンス・シティと化すのは、第一次大戦後の 一九二〇年代、ヴァイマル共和国の開放と混乱の空気のなか、ベルリンがヨーロッパ最大の文化都市に躍り出たときだ。このころには午後のティーダンスや夜のダンス歓楽が人々の日常文化の一部と化し、ヴァイマル時代末期の一九三一年には、ベルリン各地に九百近くもの踊りのできる娯楽飲食施設があったといわれる。ひとりでやってくるご婦人の踊りのお相手をするアインテンツァーという職業も生まれ、当時ベルリンに住んでいた後年の映画監督ビリー・ワイルダーもこの仕事をしたことがあるらしい。こうした踊り場のなかで圧倒的な威容を誇っていたのが、タンツパラスト(ダンス宮殿)と呼ばれる巨大ダンスホールで、これらの多くは経済が安定していた一九二〇年代の後半に建てられたものだ。

(略)

 これらの踊り場でダンスのために供されていた音楽は、流行歌や古典名曲のダンス・アレンジ、あるいはワルツ、タンゴと各種さまざまだったが、そのなかで圧倒的人気を誇っていたのは、アメリカ合衆国から渡来した新音楽種「ジャズ」だった。ベルリンでは第一次大戦後の開放的雰囲気のなか、アメリカのダンス音楽がつぎつぎに流行、ラグタイムだろうがフォックストロットだろうがチャールストンだろうが、なんでも「ジャズ」と総称され(略)

当時のジャズはモダン・ジャズ以降の傾聴型音楽とは違い、なによりも踊り場のための実用ミュージックだったのである。

(略)

十九世紀の世界の覇者たるヨーロッパ産のダンス音楽だったワルツやポルカは古くなってしまい、今度は二十世紀の新覇者アメリカのジャズが若々しく活力のある新鮮な音楽として世界を席巻するようになったのである。

(略)

クルシェネク、クルト・ヴァイル、 ヒンデミットといった刷新の心意気に溢れた若い作曲家たちは、ジャズの語法を、肥大化しどん詰まりになっていたヨーロッパ音楽言語を活性化させるカンフル剤として、あるいは世相を反映する舞台装置として自作に積極的に導入した。

(略)

 ヴァイマル共和制がヒトラー独裁制に変わっても、ベルリンのジャズ・ダンス・フィーヴァーは収まらなかった。いくら偏狭なナチ教条派がジャズ旋風をドイツ民族を蝕む疫病とみなし、ジャズ踊りを破廉恥な行為と攻撃しても、当のドイツ人民はジャズ、あるいはジャズもどきの音楽で踊っていた。局地的にジャズ禁止令が出されることもあるにはあったが、ジャズはドイツの流行曲のなかにも奥深く浸透して混交、もはやどこまでがジャズでどこまでがジャズでないかという区別も曖昧になってしまい、禁止令の効果も薄かった。それどころか、ジャズ熱に浮かされたベルリンの大ダンスホールが全盛期を迎えるのは、よりによってナチ時代の一九三〇年代から四〇年代初期にかけてのことだったのである。

 このナチ時代、ことに若者たちを熱狂させたのは、一九三〇年代半ばから流行しはじめたスウィング・ジャズだ。よりによってベニー・グッドマンやアーティ・ショーといったユダヤ系ミュージシャンを筆頭スターとするスウィング・ミュージックが、反ユダヤ・ナチ体制下の若者たちのお気に入りのチューンとなってしまったのだ。

(略)

ヒトラー時代、「スウィングの殿堂」との異名をとっていたベルリンの巨大ダンスホールがある。それがデルフィ・パラストだ。

(略)

座席数六五〇、ダンスフロア、レストラン、バー、カフェを擁する大娯楽宮殿で、六メートルはあると思われる天井には夜の星空世界が演出され、周囲に置かれた疑似ギリシア風の彫刻が壮大な神託的雰囲気を醸し出すという、うっとうしくなるほど豪華な雰囲気に包まれていた。

 かたや外の世界では、世界大恐慌がドイツを直撃して経済は混乱の極みに陥り、急速に台頭した極右ナチス極左共産党が街頭で乱闘を繰り返していた。夢と幻想を演出するデルフィのような仮想楽園は、まさに日常からの逃避場だった

(略)

 ヒトラー政権が成立すると、ナチ突撃隊のユダヤ系市民に対する嫌がらせや暴行が横行するようになり、デルフィのユダヤ系オーナー、ケーニヒもナチ突撃隊員だった従業員のひとりにピストルで脅かされて国外に脱出した。それでもデルフィの営業は滞りなくつづけられていった。 ケーニヒはペーパー・カンパニーをつくって自分の伴侶だった非ユダヤ系女性エルフリーデ・シャイベルに経営権を譲渡、こうして表面上デルフィ・パラストは、ナチ政府の望むような「非ユダヤ系」 企業に早変わりした。だからナチ時代になっても間断なく営業がつづけられたのである。

 ドイツがスウィング全盛期を迎え、デルフィ・パラストが「スウィングの殿堂」と化すのは、よりによってこのおぞましいナチ時代で、その頂点が一九三六年のベルリン・オリンピックの夏である。このときには、諸外国からやって来る観光客におもねったナチ政府が、各所に掲げられていた「ユダヤ人お断り」の看板を取り外し、ヒトラーも口先では世界平和を訴えて幻想を振りまき、ナチ・ベルリンが「開かれた国際都市」を気取った。それどころか観光客がヒトラー・ドイツに好印象を抱いていただくよう、ゲッベルスの音楽界監視機関 「全国音楽院」も、ベルリンのバンドに英米の国際ヒット・チューンの楽譜を取り揃えるよう指示したほどである。

(略)

まだ敵国ではなかったアメリカン・カルチャーは音響面でも映像面でもベルリンを席巻、とりわけ一九三六年二月末に公開されたエリノア・パウエル主演の音楽映画《踊るブロードウェイ》は、ベルリンで四ヶ月にわたる大ロングランを記録。このハリウッド・ミュージカルは、第三帝国時代をつうじて最長上映記録を誇る映画のひとつとなったし、その主題歌《ユー・アー・マイ・ラッキースター》も大ヒット、二十種以上のカヴァー・ヴァージョンのレコードが発売された。景気のよいスウィングとタップダンスに彩られた軽快なアメリカ文化は、ヒトラーの国粋民族共同体のむさ苦しさを逃れようとする若人を水面下で感化、それがアメリカナイズされた戦後カルチャーにつながっていくことになる。

 開戦後アメリカ映画が輸入されなくなると、今度はゲッベルスのドイツ映画界がその需要を「穴埋め」するためにハリウッドの向こうを張ったような豪勢なミュージカルを製作するようになる。(略)

暗い戦時に「国民を良い気分に保っておく」ため、景気のいいポピュラー音楽の重要性を唱えた文化界の主ゲッベルスも、この手のミュージカルを奨励する傾向にあったし、ごりごりのナチであるはずの親衛隊員が純血イデオロギーに反した雑種音楽ジャズにどっぷり染まっていたことさえあったのだ。ナチ時代の音楽文化は、一般に想像されるよりはるかに複雑怪奇かつ複層的なものだったのである。

(略)

[42年以降]締めつけも強くなった。(略)当局は私服取締官を踊り場にもぐりこませ、敵性音楽が演奏されていないか目を光らせるようになったが、アメリカの生きのいい曲は客に受けたし、ミュージシャンのほうもそういう音楽をやりたがったので、禁断のチューンに即席ドイツ語名をつけ、あたかも問題のない自国産の音楽であるかのように見せかける偽装工作もおこなわれた。取締官のほうもこの手の音楽に疎い者が多かったので、それに騙されることが多かったらしい。

(略)

ドイツ軍がスターリングラードで決定的敗戦を喫した翌一九四三年、スウィングの殿堂として知られたデルフィは、とうとうその門を閉じ、国防軍の物資貯蔵所として徴用され、それとともにこの建物の踊り場としての歴史も終わりを告げる。

(略)

[戦後]戦争で損傷を受けたこの建物は、かつての豪勢な装飾を再現されることもなく、簡略化された外装と内装で映画館となった。今では地下一階に入っているライブ・ハウス「カジモド」が、デルフィの踊り場としての歴史を間接的に偲ばせているにすぎない。

 

女パンクの逆襲 フェミニスト音楽史

スリッツ、ヴィヴィアン・アルバーティン

一九七六年、スリッツのギタリストであるヴィヴィアン・アルバーティンは私に言った。「私の周りの男たちはみんなバンドを組んでいて、彼らは見上げるべきヒーローだった。だけど私には誰もいなかった。私はジョニ・ミッチェルになりたいとも彼女みたいな見た目になりたいとも思わなかった。ファニーにすらなりたいと思わなかった。そこで突然、私にはヒーローは必要ないんだって気づいた。私がギターを手に取ってただ弾けばいい。 なぜ弾きはじめたかというより、どうしてそれまで弾いてなかったのかって話ね」

X-レイ・スペックス、ポリー・スタイリン

ポリーの父親オズマン・モハメッドは、ソマリアの家に妻がいると言っていたとはいえ、彼女の母親であるブロムリー生まれのジョーン・ノラ・エリオットとの関係は本物だった。彼らの関係がだめになったのは、どちらも相手の文化を完全に引き受ける気はなかったからだ。ジョーンは自分の子供たちがソマリアの他人たちに育てられるのは嫌だったし、もうひとつの選択肢として、彼女自身がそこに移住してイスラム教徒に改宗し、 一夫多妻制のもとで生きることも拒否した。オズマンは彼女と子供たちへの愛情があったにもかかわらず、彼の伝統的な生き方を変え(られ?) なかった。

 スタイリンの娘でよく彼女と一緒に演奏していたミュージシャンでもあるセレステ・ベルは言う。「オズマンは基本的に西洋文化は堕落していると考えていました。 (略)母も西洋文化をどちらかというと軽蔑していましたから(二四歳でハレ・クリシュナに改宗)。私の母はイングランド人の母親にイングランドで育てられたけれど、自分がイングランド人だとは決して思ったことがなく、彼女の魂は根本的にソマリア人だったと私は信じています」。もちろん、スタイリンが実際にソマリアに移住した際、現地社会からの期待のせいで彼女が故郷で直面していたのと同じ程度にたくさんの困難を経験することになったのは苦い話だ。

 スタイリンは精神科病院で過ごすことになり、後に薬物治療で抑えることになる宇宙のような幻覚を見た。 ベル曰く、「有色人種の若者の多くがそうされるように、彼女は統合失調症と誤診されました。 でも実のところ、彼女は双極性Ⅰ型障害に苦しんでいたのです。彼女の精神的苦痛の多くは、感情と情熱を抑えつける傾向のある人々に囲まれてじめじめした灰色の島国で身動きができないでいるという感覚から引き起こされたものと私は信じています」。

 したがってポリー・スタイリンはパンクにうってつけだった。 それはすなわち居心地の悪さを感じて体制に挑むことだったから。スタイリンは一九七八年から二〇〇八年まで、ロック・アゲインスト・レイシズムのライヴに出演しまくった

ブロンディ、デボラ・ハリー

パンク版マリリン・モンローたるハリーのダイアモンド型の頬骨のおかげもあって、彼女はパンクの恋人となり、まもなく国際的なヒットチャートの常連へと押し上げられた。しかし本当のところ、パンクはブロンディにとってちょっと手を出してみたいろいろなことのうちのひとつだった。彼女はもともとフォークの人で、ウィンド・イン・ザ・ウィローズという古風な名前のバンドにいた。クリス・シュテインと共に、彼女は優れた技能でさまざまなジャンルに取り組んできた。"ハート・オブ・グラス"ではディスコをうまく吸収し、“ラプチャー”で世界のダンスフロアにヒップホップを紹介した。後にハリーはジャズ歌手にもなった

(略)

 ふたりが最初に組んだのは、キャバレー/マッシュアップのグループ、ザ・スティレットズだった。(略)

 スティレットズのふざけたレトロ風味は“リップ・ハー・トゥ・シュレッズ”で作り直され(略)

 「僕らは一九五〇年代が好きだった。その頃はすべてがより生々しかったから。僕らはみんなシャングリラスロネッツみたいなガールグループに夢中だった。彼女たちにはパンクのアティテュードがあったけれど、もっとシュッとしてるんだ」と、シュテインは振り返る。「小さなガキだった頃にはそれをわかっていなかった。ああいうのは商業的だと思っていた。だけど自分がバンド活動をはじめて、すぐにあれがどれだけドラマティックで素晴らしいものだったのかわかったんだ。(“リップ・ハー・トゥ・シュレッズ”には)自己否定の要素もある。そこにはかつて自分がバカみたいだ(と思われているんじゃないか)と気に病んでいたデビー自身に向かっている部分も少しあるんだ。どこかにそれが混ざっているのさ」。

(略)

“リップ・ハー・トゥ・シュレッズ”における磨き上げられたシスターフッド否定のパスティーシュは、コンセプトとしてはレインコーツの“ノー・ワンズ・リトル・ガール”の裏面にあたる。

ザ・レインコーツ

 一九七六年にセックス・ピストルズマンチェスターでの最初のライヴを観たのはたったの二四人、「しかし全員がすごいことをはじめた」という言い伝えは(略)『24アワー・パーティ・ピープルズ』の脚本でも承認されている。(略)

ジーナ・バーチにとっては(略)スリッツが彼女たちの調子っぱずれでダブに染まった怖いもの知らずの音楽を演奏するのを観たことが、そうした啓示の瞬間だった。これこそが私がやりたいことだ、と彼女は思った。これだ。

(略)

「それまで見たことも楽しんだこともない何かを目撃したって感じだった。(略)

コンセプチュアル・アートを発見した時みたいに大興奮。

(略)

 それからまもなくするとバーチは、ポルトガル人シンガーのアナ・ダ・シルヴァがフロントを務める、クラシックの訓練を受けたヴァイオリン奏者のヴィッキー・アスピノールを含んだ新しいバンド、ザ・レインコーツのベース奏者として、ウエストボーン・パーク・ロードの外れのスクウォットに暮していた。 レインコーツは予想外のリズムチェンジと音色をおおいに楽しむポスト・パンク・バンドの先駆けとして、初期のラフ・トレードに欠かせない存在となった。(略)

ラフ・トレードには、女性の権利は暗黙の了解事項という気風があった。ポートベロ・ロードの裏の荒れ果てた通りにある、このインディペンデント・レコード店の先駆けは、レインコーツやクラッシュといった近隣の人々や地元のレゲエバンドだったアスワド、スリッツらを含む、DIYミュージシャンやファンジン作者たちが集う文化の中心地だった。創業者ジェフ・トラヴィスが高校卒業後キブツで働きながら吸収した社会主義者集団の考え方を基盤にはじまったラフ・トレードの店舗とそこから派生したレーベルは、イデオロギーにおいて快活なジェンダー平等の理想に根ざしており

メルシエ・デクルー

メルシエ・デクルーのキャリアはその時々の彼女の男によって形作られてきた。ミシェル・エステバン(一緒に録音をはじめた時には既に元彼だった)だったり、一九八四年の「ズールー・ロック」とその翌年のジャズの実験『ワン・フォー・ザ・ソウル』(略)の両方を作ったイギリスのプロデューサー、アダム・キッドロンだったり。

(略)

 メルシエ・デクルーの「コラボ恋人」たちのひとりに、彼女の決定的なイメージの多くを撮影したニューヨークのミュージシャン兼アーティスト、セス・ティレットがいた。(略)

ティレットは彼女の当時のボーイフレンド(略)リチャード・ヘルのコンサートで彼女を一目見て恋に落ちた。「リジーの目と眉毛は信じられなかった。彼女はあの巨大なシルバーの髪で、ぴちぴちの道化師の格子柄のパンツを履いていた。彼女は僕がそれまで目にしたものの中で最高に素晴らしいものだった」と、ティレットは回想する。

(略)

ヘルが見ていないあいだに、メルシエ・デクルーはパンクに飛び込んでいた。彼女の狩りのスリル(獲物は自分自身?)は、彼女が出した初の音楽のレコードであるザ・ローザ・イェメンに鳴り響いている。彼女とマイケルの弟だったディディエによるギターデュオだ。

(略)

「リジーは信じられないくらい勘が鋭くてクールだった。俺はローザ・イェメンにいちばん強い想いを持っている。これらのトラックは不快で、みだらで、セクシーだった」と、Zeレコーズの設立者でトップのマイケル・ジルカは回想する。「彼女たちは偉大なリズム、空間、力学のセンスを持っていた――誰にも教えられていなくて完全に野性的なんだ。トラックにはリズムベースがない。それが当時のZeの前提だった」

 堂々と原始的で、そのバカバカしさにおいてダダ的な彼女たちの “ローザ・ヴェルトフ”には、ジャズの革新者オーネット・コールマンによる、サウンドの等価性を掲げるハーモロディック理論が歪んで反映されている。このトラックはまるであの精神を高速洗浄する類のドラッグのひとつのように効く。あなたに一瞬だけ超越の感覚をもたらし、それから「現実」に引き戻して、当惑と歓喜を残す。まるで奇妙な情熱に取り憑かれたシャーマンのように、メルシエ・デクルーは、犯罪やジャーナリストや警官への偏執狂的言及が散りばめられた理解不能な呪文を唱える

(略)

 彼女の音楽的自己の探究の旅において、メルシエ・デクルーは自身の詩的で不安定なアイデンティティを、それぞれ別の半球で生まれた、彼女にとって最大に商業的成功を収めた音楽ふたつにうまく織り込んだ。一九八一年のコンパス・ポイント・オールスターズによるコラボーション“マンボ・ナッソー”は(略)クリス・ブラックウェルによって集められた折衷的セッションプレーヤー集団と制作された。

デルタ5、ギャング・オブ・フォー

「誰もが私たちを女性バンドと呼んだけれど、それは一種の誤解です。このグループにはいつも男性がふたりいたのだから」と、デルタ5のベース奏者ベサン・ピーターズはため息をつく。(略)

リーズは完全に大真面目でたくましい左翼学生の集団が存在する反権威思想の最前線だった。

(略)

「私たちはみんなリーズで出会いました。 ザ・ミーコンズ、ザ・ギャング・オブ・フォー、そして私たちはみんなまだリーズの大学生でした。私は一九七八年に学位を取得して、その後も居着いていたんです。 もうひとりのベース奏者、ロス・アレンはファインアート専攻でした」。現在はフランスの奥深くの村で高度技術弁護士として在宅勤務しているピーターズは回想する。「すべてがしっかりと互いに結びついていました。私たちはみんなお互いと一緒に出掛けて、巨大な友達のグループとして混ざりあっていました。ギャング・オブ・フォーはかなり早い時期にEMIと契約しました。 彼らはお金を持っていて、それは前代未聞のことでした。私たちは彼らの設備を使って自分たちのことをやり、それから私たちだけで外に出てギグをやって、バンに乗って高速道路を行ったり来たりしました」

"マインド・ユア・オウン・ビジネス"の誕生は、この時代にふさわしく共同的なものだった。

スリッツ

スリッツはガール・パンクの出発点となった始祖であり(略)

同じくパイオニアであるレインコーツにさえ影響を与えた(略)

一九七六年、私は(略)『サウンズ』に載る彼女たちについての記事を書いた。 アリ・アップは一四歳で、バンドは結成されたばかり。彼女たちがそのはちゃめちゃな輝きでニューヨークのウェブスター・ホールの観客を驚かせた時にも私はそこにいた。まもなくスリッツの一員となるネナ・チェリーがロビーの物販コーナーにいて、パンクのマーケティング・ゲリラことベター・バッジズ製のスリッツのバッジを売っていた。私たちは“スペース・イズ・ザ・プレイス”を歌うジューン・タイソンの電磁気のような声に先導され、古ぼけて既にガタが来ているこぢんまりした劇場の通路をサン・ラが悠々と歩いてくるのを畏敬の念をもって見上げた。こうしたスリッツの自由奔放なトライバリズムは、ジャーナリストと取材対象のあいだの第四の壁をやすやすと破壊して私を引っ張り出し、その結果、私はトレンディになる前の一九七〇年代のグラストンベリーからジェントリフィケーション前の一九九〇年代のブルックリンにあった知る人ぞ知る箱まで、さまざまな会場でステージに飛び乗って彼女たちと共演することになったのだった。

パンクが黙殺した同性愛

 一九七〇年代の英国におけるパンクのたまり場には、ケンジントン・ハイ・ストリートの〈ソンブレロ〉やロンドンのソーホーにあった〈クラブ・ルイーズ〉のようなゲイ・クラブも多かった。下位文化とされていたそれは既に合法化され、同性愛者の権利運動は支持を集めていた。しかし、世間の態度が法律に追いつくのが遅く、同性愛はまだ少しばかり影に身を潜めていて、暴力的なスキンヘッドの間では、パキ・バッシング(南アジア系移民を殴ることを意味する、無頓着すぎて恐ろしいスラング)同様にゲイ・バッシングがさかんだった。

 一九六七年に同性愛が合法化されていたにもかかわらず、「英国の敵意に満ちた空気の中では、パンクは特に役に立たなかった」と、ライターでパンク愛好家のジョン・サヴェージは振り返る。 「初期の参加者の多くがゲイまたはバイセクシュアルだったにもかかわらず、英国パンクは同性愛に賛同の意を示さなかった。超エキサイティングな時代だったが、四〇年を経た今、私がよく覚えているのは、パンクの沈黙の共謀です。誰も同性愛について語ろうとしていなかった。フェミニズムはあり。でも同性愛者の権利や認知にまつわる意識はなかった。ゲイ的な主題を扱ったパンクの曲は、すべて暗号化されていて、どこか周縁的なものだったのです」

 つまり、UKパンク第一波からは、ゲイのジャンルは生まれなかった。

ネナ・チェリー

 一部のレコード会社にとっての恐ろしい可能性、すなわち新しい命がマーケティングのスケジュールを狂わせるという事態は(略)ネナ・チェリーに起こった。

(略)

『ロウ・ライク・スシ』のレコーディング中、チェリーは(略)妊娠していることに気づいた。チェリーは、サーカ・レコードの社長アシュリー・ニュートン(DJ ハーレー・ヴィエラ=ニュートンの父)に妊娠を伝えた。「アシュリーは産むなとは言わなかったけど、すごく困惑した顔をしていた。私はただ『大丈夫よ』と言い、事実、もと もとそうあるべきだったかのようにうまくいった(略)それは悪いことではなく、美しいことだった」

 チェリー(と彼女の弟でミュージシャンのイーグル・アイ)が生まれた音楽の王族には、彼女の“おじさん”ことジャズの伝説オーネット・コールマン、彼女の父親でシエラレオネ出身のパーカッション奏者アーマドゥ・ジャー、そしてマルチメディア・アーティストである母親モキがおり、モキの手による衣装とステージデザインは、ネナを育てた継父でハーモロディック理論のトランペット奏者、ドン・チェリーの周辺に漂うカラフルな雰囲気に大いに貢献していた。ネナのアヴァンギャルドボヘミアン的育ちとパンクを最初に結びつけたのは、パンクの偶像破壊者のひとり、ウィットに富んで言葉巧みなイアン・デューリーだった。彼はジャズ界に足を踏み入れ、自分のバンドであるザ・ブロックヘッズとのツアーに参加するようドン・チェリーを招いたのである。当時一四歳だったネナもついていって、同じく出演者だったスリッツと出会った。竜巻のようなリードシンガーのアリ・アップとすぐに大親友になったネナは、二年にわたってこのバンドに参加した。それから彼女は激烈なポスト・パンクのリップ・リグ・アンド・パニックの一員になった。

セレクター、ポーリン・ブラック

 「私たちが登場した時には、第二次スカ革命が勃発中でした。一九六〇年代にジャマイカで作られた知られざる音楽の形態が前に出てきて、パンク、クラッシュ、スリッツ、ボブ・マーリー、アスワドやスティール・パルスのような若い人たちが作るレゲエの新しい波を大事にしている特定の若者たちの層に支持されたんです。 私たちはその一部で、ポリー・スタイリンみたいにロック・アゲインスト・レイシズムに出演して、実際に主張していました。人種差別と路上の“サス”法を打倒しよう、と」。ポーリン・ブラックが言及しているのは、「(犯罪の)意図を持ってうろついた疑い」というオーウェル的に証明不可能な理由で警察がキッズ(ほとんどが若い黒人男性だ)を逮捕できるようにする、当時の不正極まりない法制定のことだ。彼女は続ける。「ある考え方をしている黒人たちと白人たちはみんなパンクとレゲエを結びつけているのだから、そこに団結しない理由はないし、ある程度までは私たちはシステムの外側でつながりあっていると思っていました。それが私たちがしていたことです」

 デニス・ブラウンやカルチャーのようなトリオやバーニング・スピアなどが指揮を執るコンシャス・ラスタのルーツ・レゲエのクルーは、一九七〇年代後半の何年かにツアーと国際的なレコード契約が増えた後、一九八一年にボブ・マーリーが亡くなり、より押しの強いダンスホールサウンドが台頭したこともあって、もっと一般に受け入れられやすい2トーン・ムーヴメントによって自分らが脇に追いやられてしまったと感じていた。危機感を持ったジャマイカ人たちはその動きを軽視しようとしたけれど、 英国人が自分たちなりの何かをパーティに持ち込んできたことは認めざるを得なかった。それはオリジナルのルーツ・ミュージックほど重くはなかったが、ラジオでうまく機能するような歯切れのよさと弾みがあった。そのスキャンク[スカ、レゲエなどに合わせて踊るダンス]が備えた活気は、一九六〇年代前半の独立の波に続いたカリブ系移民の第一波によってその顔を変容させられつつある都市の姿を反映していた。彼らはぼろぼろの古い英国の再建を目指した戦いの後、帰郷した戦場の英雄たちが向き合えなかった仕事をするためにやってきたのだ。

 新しい多文化主義の英国は、一九七八年にマーリーが“パンキー・レゲエ・パーティ”で歌ったように、パンクとレゲエというふたつの抑圧された若者たちのサブカルチャーを結婚させようとしていた。

(略)

 ポーリン・プラックは、自らの持つ画期的な例外性を意識しないわけにはいかなかった。「私は、音楽業界で重要なはたらきをした有色人種の英国女性がほぼ不在だったという事実を打ち砕いたんです(略)ポリー・スタイリンがいて、その前にはジョーン・アーマトレーディングがいて、どちらも素晴らしかった。私は他の多くのパンク女性たち、有名人と親しくしたりクラッシュを観に行ったりするロンドンにいるタイプとは違って、おなじみの古い表現手法を採用しようとは考えませんでした。私はコヴェントリーに住んでいて、X線技師の仕事をしていました。別の“やっていきかた”なんです。また、フェミニストの権利の話となると、白人女性たちは黒人女性たちを包摂しているのか、それとも別々にあるものなのか?私の経験では、いつも決まって共にあるべきです。そして、それがいかに進んでいくのかが、私にとって興味深い部分です。私はポリー・スタイリンみたいな人の方に共通するところがあります」

 ふたりが初めて顔を合わせたのは(略)あの有名な“ロックの女性たち”グループ写真の撮影現場で、スリッツのヴィヴ・アルバーティン、スージー・スー、デビー・ハリー、クリッシー・ハインドの前の席に案内された時だった。

 ブラックとスタイリンはお互いに顔を見合わせた。「私たちはふたりとも、『自分らはここでいったい何してるんだろう?』と思っていました」と振り返るブラックの声には反抗の響きが含まれており、それは彼女が現在もなお受容のための闘いを忘れていないことを示している。どちらの女性も、当時の英国ではまだ比較的珍しかったミックスレースだ。さらに、ブラックの混乱に拍車をかけた事実として、彼女はスタイリンとは違って、自分がどこから来たのかを知らされないまま、"ブラックネス"の文化的アイデンティティの概念をまったく持たない家族に養子として迎えられていたのだった。そんなわけで、彼女がジャマイカのスカを初めて聴いたのは、学校の休み期間に白人のスキンヘッドの女友達が45回転盤をかけていた時だった。

 英国のさまざまな地方の黒人の街、ロンドンのブリクストン、ブリストルセントポールマンチェスターのモスサイド、バーミンガムのハンズワース……これらすべてセレクターの"オン・マイ・レディオ" がリリースされた二年後には反警察暴動で燃えていた。

ジェイン・コルテス

 ジェイン・コルテスが、一九五〇年代のビートニクが愛した表現形態である詩とジャズを使って複雑なアイデアを音楽的にあらわし、アマゾンの戦士が放つ矢のように鋭く直接的にリスナーに叩き込むというラディカルな使命に着手した頃、パンクという言葉はまだ同性愛者や「負け犬」を意味していた。彼女と同じように獰猛かつ自由な発想を持つ演奏家が揃ったザ・ファイアスピッターズを率いて、変革のエンジンのように唸りをあげ高速回転するリズムに乗せ、血のダイヤモンドよりも鋭い歌詞を唱える彼女は、ヴォーカリストとして文字通り「コントロールを保つ」ことができた。

 彼女が一九八六年に発表した“メインティン・コントロール"のような前にぐいぐい進む曲の数々は、後に続くスポークンワードのアーティストたちに踏襲される雛型となった。

(略)

パンクの先祖である彼女は、その明確な目的意識と創造的な自信によって、アーティスト兼アクティヴィストとして自らの人生を生きることができた。彼女はひとりの女性として、自身のバンドであり、彼女が私に説明したところによれば「一〇代のボーイフレンド」で最初の夫となったオーネット・コールマンにも同行したファイアスピッターズの複雑なポリリズムを指揮する時と同じ確信に満ちた姿勢で人生を生きた。

(略)

彼女はマントラのようなコーラスを繰り返し、大胆な精度の高さで問題をその本質的成分まで蒸留させて歌詞から新しいニュアンスを絞り出しつつ、言葉が聴く者の頭に叩き込まれるまで反復を続ける。彼女はまるで自らのハーモロディック軍の先頭に立つ将軍のように、ファイアスピッターズのリズムに乗った。しばしば「フリー・ジャズ」と呼ばれるこのサウンドは、ふたりが結婚していた時期にコールマンによって開発された。この自由な音に彼女が影響を与えたのは言わずもがなだが、彼女はふたりの芸術的な道筋を別々のものとして捉えていた。

(略)

ハーモロディックは正真正銘の解放の音だ――それはパンク以上に、規則正しいリズムが持つ優位性と境界線に則ることを拒絶している。その代わり、より伝統的なメロディとモチーフが折々に立ち上がり、音楽が羽根を広げることがある。

(略)

「わたしが育ったワッツのコミュニティでは、いつも音楽に触れていました。大編成のブルースとR&Bバンドが入る一〇代のダンスがたくさんあって、ラジオでもそれがかかっていました。両親は素晴らしいレコードコレクションを持っていました」

 コルテスは、両親の棚にあったラテンやアメリカ音楽を他の若いアーティストたちに聴かせることによって、自分たちが受け継いでいる伝統に目覚めさせた。彼女はザ ・ワッツ・ポエッツやザ・ラスト・ポエッツといったもっとよく知られている男性たちに並んで、一九六〇年代のワッツのブラック・アート・ムーヴメントの中心的存在だった。そこで彼女はコールマンや、彼のトランペット奏者で、チェロキー族の血筋らしい頬骨を持つ熱意にあふれてひょろっとした一〇代の少年ドン・チェリーと親交を深めた。アクティヴィズムこそが常に彼女の泳ぐ海だった。コルテスはまだ一〇代の頃から学生非暴力調整委員会(SNCC) の調査員としてミシシッピ州に派遣され、戻ってきて会員たちに選挙の状況について報告していた。

(略)

「あなたが真剣になって公の場に出ていく時、本当のはじまりが訪れます。あなたは自分自身を表現する方法を見つけたのです。自分が書いたものについて友達に話しているうちに、何かが起こる。 わたしの場合、ミシシッピに行って公民権運動に参加しました。その時、わたしの政治的な考えと個人的なことが合流したのです。一九六〇年代のアメリカには、それは豊かな文化がありました。政治的な集会や、いかに自分を表現するかを探れる場所の数々。わたしの個人的な詩的表現、黒人の詩的表現、声、すべてが混ざり合ったのです」(略)

「わたしが自分で自分の作品を発表するようになったのは、自分のやったことを完全に自分で管理したかったからです。力と、より多くの平等性を持つのは良いこと。もしあなたがそういう生き方をしているなら、ビジネスとクリエイティヴは同時にできるはずです。それこそがあなたの人生なのですから」

Taking the Blues Back Home

サンドラ・イザドール、フェラ・クティ

彼は傑作“アップサイド・ダウン”を、彼のアフリカ系アメリカ人ミューズであるロサンゼルス出身の歌手サンドラ・イザドールと一緒に制作した。

 複雑で魅力的なアフロビート・サウンドを生み出したナイジェリア生まれの大物クティは、独自の並外れた生き方で伝説となった。 ラゴスでコンクリートの自宅周辺を囲って形成したコミューンをカラクタ(悪党の) 共和国と名付け、擦り切れたナイロン製のパンツ一丁の姿で王様のようにインタビュアーを迎える彼は自らの世界の支配者だった。

(略)

一九七七年のロンドンでクラッシュのジョー・ストラマーが「ロンドンは退屈で燃えている」と歌っていた一方、ラゴスではクティのカラクタが軍によって燃やされ灰となった。ゆるやかな一夫多妻制のもと彼と一緒に暮らしていた三六人の女性たちは残酷に殴られ、レイプされた。時代に先駆けたアクティヴィストだったクティの母フンミラヨは、この時に負った傷がもとになって亡くなった。

(略)

もしイザドールがいなかったら、ふたりが一緒に録音した “アップサイド・ダウン“のような社会的な意識の高い燃えるような曲を彼が書くことは決してなかったかもしれない。 イザドールがクティを政治の方に向かせたのだ。ふたりは一九六九年、彼が自らのバンドであるクーラ・ロビトスと一緒にロサンゼルスに滞在していた数ヵ月のあいだに出会った。南アフリカ音楽とジャズで実験し、ラジオ・ナイジェリアのために番組を制作していた当時のクティは、社会的地位が高く尊敬を集める、植民地政策のもとですら優遇されていた教会および教育者の家庭に生まれた、かなりブルジョワ的な人物だった。彼にとってイザドールは思わず目を奪われる女性だっただけでなく、政治的および知的に人を目覚めさせる人物だった。イザドールはかつて若きブラックパンサー党員として収監されたことすらあった。彼女は彼にブラックパワーの本を与え、彼は彼女に愛だけでなく音楽で返答した。彼は地元のサパークラブバート・バカラックを歌っていた彼女をロンドンに連れて行き、自身のアルバム『ストラタヴァリウス』のために、クリームのドラマーだったジンジャー・ベイカーと共演するレコーディングを敢行した。イザドールは、英国の直接的な支配が終わってもなおナイジェリアを支配していた植民地的精神性と、クティの故郷の海岸から現地の有力者の共謀のもと船で運ばれてきた何千もの人々の子孫であるアフリカ系アメリカ人が経験してきた抑圧とを結びつけて考えるよう彼を導いた。そうしているうちに、電撃的に結びついたカップルのあいだには、ラゴスで一緒にレコーディングをする話が持ち上がった。

 一九七六年にイザドールがクティのカラクタ共和国に到着した時、彼女が数年前にロサンゼルスで知り合った男は、まったく違う生き方をしていた。彼はビッグバンドのアフロビート・サウンドに磨きをかけていた。彼のクラブ〈ザ・シュライン〉は、たくさんの支持者たちと大勢の側近で賑わっていた。彼の共同体はひとつのコンクリート建築から四方八方に広がる村のようで、その住人にはアフリカ70バンドの二〇人ほどのミュージシャンたちの一部だけでなく、コール&レスポンスのコーラスを歌う大勢の女性たちも含まれていた(そのうち二七人は、軍の攻撃を受けた後、クティが支援のしるしとして結婚した相手だ)。

 

ファンクはつらいよ その3

前回の続き。

《Motor Booty Affair》

俺にとって《Motor Booty Affair》は、ビートルズの絶頂期のようなものだった。最も野心的かつ多彩で、今でも再発見されるに相応しいアルバムの最右翼だ。

(略)

野心的なサウンドや多彩なスタイルだけでなく、プロジェクト全体に広がるユーモア、コミカルな自己認識も似ていたと思う。そうなると、ビートルズに例えれば、このアルバムは俺たちにとっての《Sgt. Pepper's》ではなく、《Yellow Submarine》なのかもしれない。俺が思うに、映画『イエロー・サブマリン』は、ビートルズのレコード同様、文化的な常識を覆した。大人のテーマと所感を子ども向けに料理し、ナンセンスを極めた記念碑的作品だった。映画の中に登場する怪物は、海にいる魚を吸い込むと、次は海底全体を吸い込み、さらには自分自身まで吸い込んでしまう。《Motor Booty Affair》に生息しているのも、この手の生き物で、そこには滑稽な闇がある。このアルバムで、俺たちは皆、俺たちなりのイエロー・サブマリンに住んでいたのだった。

LSDの再来

一九七九年の暮れ、リムジン運転手の女性とコカインをやっていると、彼女が俺の方を振り向き、「これ、試してみて」と言った。その手に握られていたのは、フリーベース(クラック)のパイプだ。俺はパイプを受け取り、試してみた。パイプを吸った瞬間、LSDの再来だと思った。あまりに心地良く強力で、まるで射精したかのような気分になった。最初の恍惚が終わると、一刻も早くまた吸いたいと思った。しかし、最初に感じた恍惚を再び味わうために、どれほどの時間をかけることになるか、そしてそのために、どれほどの代償を払うことになるか、当時の俺には知る由もなかった――わかるはずもなかったのだ。

音楽ジャンル〈ファンク〉の確立

《Uncle Jam Wants You》の本質は、生き延びるために必死で闘っている音楽のリスナーを募集するポスターだった。俺たちは、ディスコに完全屈服することなしに、ダンス・ミュージックを生かし続けようとしていた。

(略)

 俺たちは戦時体制に突入していた。(略)〈(Not Just)Knee Deep〉が大ヒット・シングルになると思っていたものの[ワーナーには宣伝する気がなかった]

(略)

俺たちがファンク・バンドを出せば出すほど、他のレーベルやプロデューサーも、俺たちのサウンドに似たファンク・バンドを作った。それはそれで良かった――模倣は最大の賛辞なのだから――しかし、俺たちは大きな目標を見据えていた。陳列棚のスペースについて考えていたのだ。俺たちは当時、ソウルやR&Bとは別に、ファンクのスペースをレコード店に設けたいと話していた。俺たちの構想は、ひとつの音楽ジャンルとしてファンクを独立させ、そのジャンルを埋め尽くす、というものだった。(略)[だが]ワーナーは主に、俺たちの影響力を制限することにしか興味がなかったようだ。彼らは、モータウンのようなレーベルの誕生を危惧しており、Pファンクは、この種の問題を引き起こす最有力候補だった。こうした考えには先例がある。七十年代前半、メジャー・レーベルは、自社の利益の大部分をブラック・ミュージックが稼いでいることに気づいた。コロムビア・レコード・グループは、モータウンのような企業にこうした利益が流れる理由を解明しようと、ハーヴァード・ビジネス・スクールに研究を依頼した。この研究結果は、長い間出回っていた。そしてこれは、ブラック・ミュージック企業の動きを止めるための作戦帳となった。

(略)

 一方が上がると、他方が下がる。時折、パーラメントファンカデリックの関係はシーソーのように感じられた。パーラメントが《Mothership Connection》から《Motor Booty Affair》まで好調を維持した一方、ファンカデリックは《Motor Booty Affair》と同時期にリリースされた《One Nation Under a Groove》で、一気に飛躍した。当時、俺はパーラメントのアルバム一枚につき、六十万ドルから七十万ドルの前払金を手にしていた。大半のソウル・アルバムよりも多額で、ポップ・アルバムに匹敵する額だ。それでも、ニュー・アルバムの制作に着手すると、波が引いていくような気がしてきた。これが音楽業界のシステムだ。計画的に流行を発生させ、衰退させる。レコード・ビジネスは、そうやって運営されている。これは、他のビジネスでも同じことだ。

スライ・ストーンデヴィッド・ラフィン

 一九七九年のクリスマス頃(略)俺は農場を買った。(略)その冬、俺はスライ・ストーンと親交を深めた。(略)

これまで、スライと俺が顔を合わせたのは、通りがかりやツアー中の楽屋だけだった。一緒にツアーをしていた時ですら、友人として一対一で膝を突き合わせて話したことはなかった。しかし、ニューヨークではきちんと話をする時間があり、即座に意気投合した。俺たちは、同様の関心を持ちながらも、異なった世界観を持ち、同様の技能を持ちながらも、異なった歴史を持っていた。音楽から政治、ドラッグ、さらにはスターダムという奇妙かつ歪んだ心理状態に至るまで、あらゆることを語り合った。俺が駆け出しの頃、スラィは世界の頂点を極めていた――彼はアイドルであり、アイコンだった。そして、ポップ・ミュージック界にとどまらず、世界に燦然と輝く光のひとつだった――しかし、七十年代はPファンクとその他のアーティストの時代となり、スラィは若干衰えを見せた。とはいっても、彼自身の凄さは相変わらずだったため、むしろ音楽市場が彼から遠ざかったのだろう。いずれにせよ、彼は勢いを失い、その状況からカムバックする自信を欠いていた。彼は、世間に鼻っ柱をへし折られたと自覚しており、そのことばかり与えていた。パーティの最中、スラィは俺に問いかけた。「なあ、お前の仲間うちで、俺がもう大スターじゃないって、俺をからかえるヤツは誰だ?」。

「そう考えてるヤツはあまりいないなあ」と俺は答えた。

(略)

そして、スライが農場にやってきた。彼は常に、何らかの苦境に陥っていた。この時は、コネチカットの売人から逃げていたはずだ。一時、誘拐されていたなんて話すら耳にしたこともある。俺は彼に、好きなだけ泊まっていいぞと言った。結局、彼は一年滞在した。朝は一緒に魚を釣り、それからハイになり、昼食を取り、さらにパーティを続ける、という暮らしをしていたものだ。少なくとも、一緒にいた時間の半分はハイになっていたが、レコーディングもしていた。この時にレコーディングした音源は、途轍もないものだった。スラィは何もせず座っている時でも、いきなり目を開けて、誰も考えついたことのないような才気溢れる歌詞を口に出し、こちらを驚かせることがあった。スライとレコードを作るのは初めてだったが、俺は感銘を受けると同時に、謙虚な気持ちになった。あんなにも多彩な個性が奇妙に入り混じった人物に、俺は出会ったことがない。彼は底抜けに面白く、無頓着でワイルドだと思えば、細かいところにまでこだわりを見せた。そしてアレンジとプロデュースにかけては天下一品の腕を持っていた。

(略)

ある日の午後、家にいるには天気があまりに良かったので、スライと俺はドライヴに出かけた。五分ほどして、スライがこう提案した。「デヴィッドを誘おう」。デヴィッドとは、テンプテーションズのリード・シンガーだったデヴィッド・ラフィンのことだ。(略)

俺たちはドラッグ・ディーラーの家へと向かった。到着直前、俺は現金を持っているのかとスライに尋ねた。彼に持ちあわせはなかった。スライがデヴィッドの方を見ると、デヴィッドも肩をすくめた。現金を持たずにドラッグ・ディーラーの家を訪ねるというのはよくあることで、だからこそ、信用を築くことが大切だった。家の前に車を停めると、俺たちはスライを交渉役として中に送り込んだ。彼は如才なく、最高に口が達者だ。(略)「ツケでいいぞ」と売人は言った。「都合してやるよ。 今忙しいから、ちょっと待っててくれ」。俺たちは、外のポーチに座り、良い天気の中くつろいでいた。(略)

「待ってんのが問題なんだよ。イライラしねえか?」とデヴィッドは言った。(略)「なんでこんな扱い、許してるんだよ?」。

(略)

「何が望みなんだよ?テンプテーションズ並みに速く動けってワケか?」と俺は言った。

(略)

 何百回となくドラッグを買ってきた俺だが、あの時のことをよく考える。 あの日、最終的にデヴィッドを救ったのは――そしておそらく、あの時期の俺たち全員を救ったのは――金欠という状況だった。皮肉なことだが、真実だ。クラックは、とにかく金がかかる。だからこそ、人はクラックに支配される。そしてクラックは、人をジャングルへと陥れる。

(略)

 それから間もなくして(略)ホール&オーツは、デヴィッドとエディ・ケンドリックスを迎えて《Live at the Apollo》をレコーディングし、大ヒットを記録した。(略)

しかし、これがデヴィッドを破滅させた。再び金を手にした彼は、捕食者の標的となったのだ。(略)死因は薬物の過剰摂取と伝えられている。

スライの狂気、「スターになってもいいか?」

 スライのようになりたいと思う者は大勢いた。例えばリック・ジェイムズ。彼がやったことの半分以上は、スライの間接的な模倣だ。しかし、あの種のクールさを醸し出せるのは、マイルス・ディヴィスとスライのふたりしか存在しない。

(略)

「クレイジー」は偉大さの必須条件だ。しかし、本当にクレイジーである必要はない。俺はクレイジーに振る舞うが、実際のところはかなり正気に近い。しかし、スライは演技などしていなかった。彼は自身の才能を信じていただけでなく、自身の偉大さも信じていた。そして、彼は大半の場合、極めて好人物だったが、金とドラッグが絡むと平気で人を利用した。もちろん、彼はあまりに頭が切れたため、人を騙そうとはしなかった。単刀直入に利用してもいいかと相手に尋ねるのだ。ドラッグを買いたい時――おそらくドラッグ・ディーラーや女性の前で格好つけたかったのだろう――彼なりの尋ね方があった。彼は「スターになってもいいか?」と言うのだった。

 彼に金を貸したら、返ってこないかもしれない。それを覚悟しなければならなかった。スライに金を貸すということは、金をあげるということで、こちらも、彼と同じことを彼にやり返さなければならなかった。俺は「わかったよ。でも来週は俺がスターだからな」と言っては彼を笑わせたものだ。

(略)

[車椅子に乗った女性から「いい加減、しっかりしないとね」と言われたスライ]

 しかし、その女性は間違ってはいなかった。スライはいい加減、しっかりしなければならなかったのだ。特にライヴに関してはそうだった。スライのパフォーマンスで、観客が盛り上がらないことも多く、彼はステージに出るのを拒むことすらあった。実のところ、彼は何かやるよう指示されるだけで、必ず正反対のことをやった。気の乗らない彼をステージに上げるためには、殺すぐらいしか方法はなかった。

 俺はスライとほとんど真逆だった。マディソン・スクエア・ガーデンで『Motor Booty Tour』の初演が中止の危機に晒された時、俺はスカスカになったクルーを率い、最小限のメンバーでショウを敢行した。スライは、あまりに実直な俺をよくからかった。「ジョージには、リトル・ワンがたくさんいるんだ」といつも言っていた。

(略)

俺は、不満を間違えた方向にぶちまけることはなかった。興行主が理不尽でも、観客に八つ当たりはしなかった。スライは俺のそんなところに感心していた。彼も冷静でいたいとは思っていたが、それができなかった。しかし、マイルス同様、特別域にいて、誰よりも高いレヴェルにいた。ふたりの才能はあまりに圧倒的で、欠点も見逃された。彼らは何をやっても許されたのだ。

 スライと俺は、ドラッグの使い方も違っていた。俺はドラッグで有名だったが(略)その使い方は常に地味だった。これは子どもの頃から同じだ。他の少年たちは本物の不良だった。しかし俺は、皆で店を強盗するとなっても、警察が現れる前に必ず現場を離れた。そんなことで捕まったら、父親にお仕置きされるからだ。そして考えてみると、俺は実際に強盗を働く必要などないことに気づいた。強盗をやろうとしているヤツらと一緒にいるところを見られればいいだけだ。ドラッグも同じだった。俺はハイになったが、決して中毒にならないよう心していた。俺は翌日も働けるよう、妥当な時間に眠りにつきたかった。それに、ドラッグに骨の髄までしゃぶられながらも、さらにドラッグを求めるなんて、我慢できなかった。

キャピトル・レコードと契約

 俺はドラッグに耽溺し、身を落とした。(略)レコード会社はPファンクを牽制すべく力の限りを尽くし、俺はドラッグに溺れていたせいで、それを阻止することもできなかった。当時、最高のアドバイスを必要としている時に俺が頼ったのは、ネニ・モンテスだった。彼と縁を切ることはできなかった。(略)気がつくと、仕事が全くなくなっていた。

(略)

 どん底の状態にあった時、テッド・カリアーという男が、ネニに仕事の話を持ってきた。テッドはキャピトル・レコードのブラック・ミュージック部門を率いており、俺とブーツィーにプロデュースしてほしいバンドがいるという話だった。バンドの名前はイグゼイヴィア。(略)彼らは、俺たちが任務を遂行できるか確信を持てなかったため、俺たちを綿密に監視するという条件を出したのだ。俺たちは直球のファンク・レコード〈Work That Sucker to Death〉を書き、同曲はキャピトルにとって大きなヒットとなった(略)

 しかし、イグゼイヴィアのシングルとは名ばかりだ。曲の真っ只中で、俺がブーツィーに呼びかけている声が聞こえるはずだ。PファンクのパーカッションにPファンクのギター、PファンクのチャントにPファンクのエネルギー。これは、生粋のPファンクだ。

(略)

〈Work That Sucker to Death〉のヒットのおかげで、数カ月のうちにキャピトルとのソロ契約が決まった。

(略)

誰かがマイルス・デイヴィスの名前を出すと、テッドは「そいつは誰だ?」と尋ねた。俺たちは笑ったが、彼がふざけているわけではないとわかると、笑いも途絶えた。キャピトル・レコードのブラック・ミュージック部門でトップを務める男が、マイルス・デイヴィスを知らないとは。車を降りた後、スライは俺の方を振り返ると、こう言った。「おい、あの野郎、ナメきってやがるな」。

 確かにそうかもしれなかったが、それでも俺は契約を結ぶ必要があった。こうして俺は、キャピトルとアルバム四枚契約を交わした。いつものごとく、曲は準備できている。俺はふたつのプロダクション・グループを使ってレコーディングを行っていた。ひとつのグループは、ジュニー・モリソンが率いていた。(略)俺がジュニーと作った楽曲は、《One Nation Under a Groove》と《Electric Spanking of War Babies》用にレコーディングした楽曲の延長線上にあったが、装飾やサウンド・エフェクトをさらに凝らしていた―――八十年代は、鮮やかな色彩と派手なニューウェイヴの全盛期だったのだ。

(略)

ジュニーと仕事をしをていない時、俺はゲイリー・シャイダーとデヴィッド・スプラッドリーとレコーディングしていた。(略)

おかしな話だが、スタジオにやってきた俺が、ふたりの働く姿を見て、取り残された気分になることもあった。(略)

あまりにも酩酊していたところに、ドラッグも切れかけていたため、ふたりが俺なしでプロジェクトを進めているのではないかという被害妄想に陥った。(略)クラックをやると、こんなザマになるのだ。(略)監督は俺だと言わんばかりの態度を取り、「俺はここにヴォーカルをいれるからな」と事務的な口調を装った。(略)

[パーカッションだけのトラックにフリースタイルの語り口調で自由連想駄洒落のオンパレード]

 そう、これは有名な犬の話

 自分の尻尾を追いかける犬は、そのうち目を回す

レッド・ホット・チリ・ペッパーズ

 トミー・ボーイ・レコードの創始者、トミー・シルヴァーマンは、ニュー・ミュージック・セミナーというミュージック・カンファレンスをスタートし、一九八四年に俺をスピーカーとして招待した。(略)

セミナーの後、ある若者が俺のところにやってきて、自己紹介した。

(略)

[ZEP]がブルースを取り入れたように、イギリスのグループがファンクを地球のポップ・ミュージックへと変化させるだろう(略)この若者は、俺の見解に反論した。彼の見解は、俺が彼のバンドのアルバムをプロデュースすれば、そうした状況は避けられる、というものだった。彼は、アンソニーと名乗った。そして彼のグループは、レッド・ホット・チリ・ペッパーズといった。俺は彼と握手を交わし、準備ができたら俺の農場に来るよう言った。それから約二カ月後、バンドが俺の農場を訪れた。

(略)

息子のトレイシーがロサンゼルスにいて、成長著しいファンク・シーンや、フィッシュボーンのようなバンドについての噂を聞いていたのだ。ペッパーズも同じサークルにいた。ファンもついており、ミュージシャンシップもカリスマも備えていた。

 俺は次第に、アンソニーの持論が正しいのではないかと思うようになった。アメリカ出身のペッパーズが、ファンクを大衆に届けるグループになりえると思いはじめたのだ。レコード会社は、ファンクを真のメインストリームへと持ち込めるよう、白人グループと契約したがっているようだった。

(略)

 ペッパーズは白人の若者だったため、政治的な意見を率直に述べることもできた。年長のソウルやファンクのバンドなら、それは許されなかっただろう。この頃、俺はラジオ・アーティストとして自らのイメージ・チェンジを図っていたため、アンソニーが言っているようなことを自分でも言えるとは思えなかった。ファンカデリックがデビューした当時の若い俺ならば、そういった発言ができたかもしれない。しかし時代は変わった。 年を重ね、チャートにも入っていた俺には、バンドメイトやファンに対する責任も負っていた。俺が率直な政治的発言ができる時代は、終わりを告げた。

(略)

俺はペッパーズが大好きだった。彼らとは最高に楽しんだ。まるで、ファンカデリックに新加入した若手メンバーからエネルギーをもらっていた七十年代前半のようだった。俺は間違いなく、メンター、教師、父親代わりといった存在だった。俺は自分の経験を洗いざらい語り、彼らが自分なりの結論を出せるよう計らった。そして、ニュージャージーのバーバーショップで語っていたのと同じジョークを彼らにも語った。

 その後、彼らは行いを改めたが、ヘロインに嵌っていたのと全く同じように、まっとうな生き方に嵌った。彼らは、度を越えた健康志向になったのだ。九十年代半ば、俺たちはドイツでペッパーズと再会したが、彼らはジュースやら豆腐やら生乳やら、健康食品に凝りまくっていた。ビースティ・ボーイズも同じだ。俺たちとツアーをしていた頃の彼らは、この上なくワイルドだったが、後年は仏教徒の僧侶をツアーに同行させていた。

ヒップホップ

 《R&B Skeletons in the Closet》は、俺がヒップホップと真っ向から向き合った最初の作品だった。《Uncle Jam Wants You》をリリースした直後から、俺はヒップホップを意識していた。特にニューヨーク・エリアでは、子どもたちがラジカセを持ち寄り、バックグラウンド・ミュージックに合わせてラップしはじめていた。ヒップホップはジャマイカのトースティングと若干の繋がりがあり、ダズンズとも結びついていた。ダズンズとは、俺が物心ついた頃から子どもたちが遊び場でやっていた、コミカルな悪口合戦だ。俺はラッパーたちのエネルギーが好きだった。また、彼らが単純な音楽と複雑な言葉遊びを組み合わせるところも好きだった。さらに、ターンテーブルは楽器だという考え方も気に入っていた。

(略)

そして、ヒップホップはファンクの生命線でもあった。音楽は年々変化していた。変化を受け入れなければ、変化に背を向けられてしまうものだ。ラップがヒップホップへと成長すると、既存の曲の基盤を使い、ソウルやファンクをサンプリングすることで、新しい曲を作るという、さらなる要素が加わった。ヒップホップは、俺たちに復活のチャンスを与えてくれた。ヒップホップのサンプリング以外に、どこで自分の曲が聴けるってんだ?ケイテルの懐メロ・コンピレーションぐらいしかないだろう?初期のラップはPファンクから派生したが、それは好都合だった。

(略)

 その後、ラップから多額の金銭が発生したが、それでも俺が注視していたのは、ラップの独創的な側面だ。(略)

時折、ヒップホップというジャンルは、天才を輩出し、俺は耳をそばだたせた。はっきりと覚えている最初の出来事は一九八七年、誰かにエリック・B&ラキムの〈Follow the Leader〉を聴かされた時だ。その時点までに、俺は多くのラッパーを聴いていたが、あのレコードを聴いて、全く身動きが取れなくなった。まさに、「何じゃこりゃ?」な瞬間だった。クールなフロウに乗せたあのレコードのリリックは、俺がニューヨークで何年も前に聞いたファイヴ・パーセント・ネイションの説教のようだった。ファイヴ・パーセンターがチャントする時、彼らは知識を加える。ラキムはあの声の抑揚を完璧にマスターしていた。そして彼の言葉には、多彩な意味が幾重にも込められていた。彼の言葉はストリートかつ詩的で、機知と思慮に富んでいた。俺はあのレコードを聴いて、自分は音楽業界で何も成し遂げてはいなかったと感じ、「俺も一からやり直さなきゃ」と思った。しかし、最高の気分だった。まるで、引退していたボクサーが復帰するかのような気分だ。指先から興奮が溢れ出さんばかりだった。

 最初から俺の心を掴んだもうひとつのヒップホップ・グループは、パブリック・エナミーだ。サウンドは、上向きに融合すれば音楽になり、下向きに分解されれば混沌になる。そして音楽と混沌は、同じ線上にある。〈Bring the Noise〉を聴いた時、彼らがそれを理解していることがわかった。自分が作っているものが騒音だと認めているということは、すでに音楽の作り方を完全に理解する過程にいるということだ。彼らには、ヴォーカルと音響があった。彼らは冒頭から「ベース、どれだけ低く出せる?」と言っている。Pファンクで俺たちは、いつもギターを低くチューニングし、できる限り深いヴァイブレーションが出せるようバーニーのシンセサイザーを設定していた。また、彼らにはコンセプトがあった。「俺は銃など持ったことがないって、ヤツらに言ってもいいか?」という台詞は、犯罪者はいかに作り上げられ、社会は自らを守るために、いかに敵を特定するかを語る、トップレヴェルの思考だ。さらに彼らの感性は、Pファンクを成功に導いた感性と共通点を持っていた。パブリック・エナミーはコンセプト・アルバムを作り、傘下にアーティストを擁していた。そして最重要なのは、自分たちの商品が深刻になりすぎることなく、それでも真面目に受け入れられるよう、その取り扱い方法を心得ていたことだ。

プリンス

 八十年代半ば、本物のファンクをやっていたスターは数少なかったが、その中で最高に格好良かったのはプリンスだ。

 彼はPファンクを熟知しており、俺たちと同じ手法もいくつか試していた。二バンド形式のバランスを信じており、それを自分なりの解釈で行うと、レヴォリューションとザ・タイムを対抗させた。また、ザ・ファミリー、シーラ・E、ジル・ジョーンズといったアーティストのソングライティングとプロデュースも行っていた。さらに、声のピッチを上げたプリンスの分身的なキャラクター、カミールは、スター・チャイルドを若干彷彿とさせた。

(略)

[デビューを控えたプリンスに]ワーナー幹部が《Ahh… The Name Is Bootsy, Baby》をかけると、プリンスは身を凍らせたそうだ。このままではリリースできないと、彼は自分のアルバムを持ち帰り、さらに八カ月をかけてアルバムを完成させたという。

 ワーナー・ブラザーズのモー・オースティンによれば、プリンスは俺を称賛し、エルヴィス、ジェイムズ・ブラウンと肩を並べるアーティストだと言っていたそうだ。

 八十年代前半、俺もプリンスに感服していた。《Dirty Mind》や《1999》の後に、その思いはますます強まった。(略)俺たちがファンカデリックでやっていたことを、ロックやニューウェーヴでアップデートしていることがわかったのだ。特に《1999》は、ピッチを上下させたヴォーカルや、大衆向けのシングルと斬新な実験曲の混合、さらにはジャケットに至るまで、俺たちと共通点があった。

(略)

 俺が《Cinderella Theory》制作のためにミネアポリスを訪れた時、プリン スは挨拶をしにスタジオに立ち寄ったが、レコーディングにはあまり顔を見せなかった。俺がきちんと仕事を終えられるよう、最適な状況を与えようと努めてくれたのだ。プリンスと一対一で接触するのは、大半が深夜だった。俺がひとりホテルでハイになっていると、プリンスから電話を受け、自宅に招待されるのだった。こうして、彼の家で一緒に話をしたものだ。

 俺は昔から陰謀に興味を持っていた。(略)当時、陰謀論者が惚れ込んでいた本がある。ミルトン・ウィリアム・クーパーの『Behold a Pale Horse』だ。俺は、あの本を大声でプリンスに読み聞かせた。ただし、大真面目にではなく、半分ふざけながら読んでいた。俺は陰謀を信じていたが、陰謀を信じてしまうと、何も信じられないという状況を引き起こす――だから、俺は「陰謀」というよりも、「陰謀論」を信じていた、といった方が正しいだろう。

(略)

 プリンスは俺の朗読を聞きながら、質問することもあれば、冗談を言うこともあった。彼があの本についてどう思っていたのか、はっきりとはわからない。俺はプリンスの前ではドラッグをやらなかった。彼に敬意を払いたかったからだ。クラックを吸いたくなったら、俺はパイプを持ってトイレに行き、そこでクラックをやった。プリンスはドラッグをやらないと常に言っていた。確かに俺も、彼がドラッグをやる姿を見たことはない。だが、少なくともコーヒーぐらいはキメていたはずだ。俺が知る限り、午前五時半に寝て、午前八時に元気溌刺で起きられるヤツなど、プリンス以外いない。

サンプリング使用料

[デ・ラ・ソウルのデビュー・アルバムが大ヒット]トミー・ボーイは(略)十万ドルを支払った。当時の俺たちは、この支払いが原盤使用に対するものなのか、音楽出版権に関するものなのか、よくわかっていなかった。まだ何のルールも定まっておらず、サンプルに関する勘定方法もきちんと理解されていなかったのだ。

 他のラップ・アクトも、俺たちに金を支払ってきた。

(略)

 俺たちは、新しいシステムの活用方法を模索しているところだったが、アーメンはすでに一歩先んじていた。(略)彼の戦略とは、もっと訴訟を起こすことだった。彼はパブリック・エナミーを訴えた。(略)三百万ドルというとんでもない額が請求された。アーメンの秘書だったジェーン・ペトラーは MTVに出演し、俺の代理としての訴訟だと説明していたが、それは事実無根だ。俺はチャック・Dフレイヴァー・フレイヴとともにMTVに出演し、サンプル使用に異存はないと話した。これにより、訴訟は取り下げられた。

(略)

アーティストが俺たちの楽曲をサンプリングし、そのレコードが大して売れなければ、アーティストも俺たちに大金を支払う必要はない。しかし、そのレコードが五十万枚から百万枚の売上を記録した場合、使用料は五万ドルとなり、百万枚以上の売上の場合は、十万ドルとなる。俺はそんなことを大雑把に考えていた。もちろん、もっと細かい計算方法もあっただろう。それならそれで、俺は受け入れたと思う。俺が受け入れられなかったのは、全てを裁判に訴え、お役所や悪意と結びつけることだった。

(略)

[MCハマーのサンプル使用料を回収]する過程で、俺たちはワーナーが俺たちのカタログの所有権を主張していたことがわかった。また、アーメンが《Mothership Connection》収録の楽曲だけでなく、パーラメントファンカデリック、さらには俺の名前が登場する全楽曲の音楽出版権を主張していることもわかった。俺たちがさらに書類を調べると、ワーナー側に緊張が走った。彼らは、その場での回答を控え、後で折り返すと言った。その後、ワーナーはアーチーに電話をかけてきたが、彼らは喧嘩腰だったうえ、木で鼻を括るような態度をとった。しかし、過去の記録をしらみ潰しに探していくと、どうやらワーナー・ミュージックは、チャペル・パブリッシングを買い取ることで、俺たちのカタログを取得したようだった。そして、チャペル・パブリッシングの楽曲には、ポリグラムとリックズ・ミュージックの楽曲も含まれていた(略)しかし、契約書の様々な条項を調ベても、ポリグラムは俺たちのカタログを売却する権限など持っていなかった。俺たちは、カタログがどのように売却されたのかをポリグラムに問い合わせた。するとポリグラムは、俺の委任状を取得して著作権をレーベルに譲渡し、それをワーナー・ブラザーズに売却したと答えた。奇妙な行為がまかり通る、奇妙な時代だった。

 サンプリングの法的問題にまつわる金銭水準を大幅に引き上げたアルバムは、ドクター・ドレーの《The Chronic》だ。

(略)

[アーメン]は手当たり次第に訴えを起こしただけでなく、和解内容を誠実に公表しなかったため、アーティストを萎縮させた。ネニはアーメンに異議を唱えたが、ネニ自身も自分が所有しているカタログについて、正直に話そうとはしなかった。そしてふたりは、裁判所でカタログの管理を巡り、争いを始めるのだった。

 一方で俺は、自分が知る唯一の方法で事態を収拾しようとした。(略)一九九三年、俺は《Sample Some of Disc, Sample Some of DAT》と題した三枚組ディスクをリリースした。同作は、Pファンクのレコードから抽出したキーボードの旋律やホーン のパート、ギターのリフやドラムのブレイクなどを数百ほど収録している。これは、楽曲使用料を回避したサンプリング・キットだった。アーティストがこの中のサンプルを使用する場合は、俺たちが作った料金表に基づき、代金を請求するという手筈になっていた。自分の収入源が脅かされるため、アーメンはこの作品に激怒し(略)無許可のサンプルを集めた作品だと主張したのだ。

(略)

 ヒップホップがPファンクに与えた影響について、俺は複雑な感情を抱いている。ヒップホップのおかげで、Pファンクの音楽が再び耳目を集めた。それは間違いない。しかしそのせいで、全てに再び値札がついてしまった。つまり、俺から金を巻き上げることに強い関心を持っていた人々が、再び大挙して押し寄せたというわけだ。(略)

俺が弁護士を雇って調査を依頼するたび、その弁護士は寝返り、反対側から俺に手を振るのだった。ドラッグさえやっていなければ、道を踏み外さずに済んだだろうか?それはわからない。

(略)

 今日に至るまで、俺はレコード会社からきちんとした支払いを受けていない。しかし、問題はラッパーにあるわけではない。

(略)

 ラッパーは皆、俺が個人的に彼らを訴えたことがなく、今後もそれは起こりえないということを知っている。

マスター・テープ

 プライマル・スクリームとの仕事中、俺はいつものように音楽業界誌を読んでいた。すると、ファンカデリックのアルバムの広告が出ていた。《Hardcore Jollies》、《One Nation Under aGroove》、《Uncle Jam Wants You》、《Electric Spanking of War Babies》の四枚だ。四枚ともワーナー・ブラザーズのアルバムで(略)どういうわけか、今度はプライオリティ・レコードから再リリースされることになっていた。なぜワーナーがきちんと保管していない?俺はネニに電話をかけたが、彼は俺が驚いていることに驚いていた。ネニは、自身が主宰するテルセール・ムンドのもと、俺に代わって四枚の原盤を管理していると言った。しかし、彼が原盤の譲渡について話せば話すほど、俺には覚えのないことに思えてきた。ネニは嘘をついている。俺もアーメンもそう思った。そしてネニとアーメンは、原盤の所有権について闘いはじめた。

 振り返って考えると、この事件にきちんと注意を払い、綿密な調査をすべきだったと思う。俺のエネルギーは、《Hey Man… Smell My Finger》の興奮と、ワーナー・ブラザーズの宣伝不足による苛立ちに費やされていた。また、クラックでもエネルギーを浪費していた。次のクラックをいつ手にできるのか、もしクラックが入手できない場合には、どんな困難が襲いかかるのかをるのかを心配しながら、俺はジャンキーにありがちな行動を取っていた。しかし、じっくり腰を落ち着けてプライオリティから再リリースされたアルバムの状況を考えることができた時でも、事態は曖昧で不透明だった。確かに、マスター・テープは俺が持っていた。

(略)

[どうやら]プライオリティが使ったのはマスター・テープではなく、ワーナー・ブラザーズの元社員の妻が同社からレコードを盗んで作ったデジタル・テープだった。アナログ盤からデジタル・テープを作ったアルバムもあったようだ。プライオリティから再リリースされた作品を聴いてみるといい。右トラックの音量が異様に大きいのがわかるはずだ。

《Dope Dogs》

俺はニュー・アルバム《Dope Dogs》の制作に着手した。俺はこの頃までに、ヒップホップを大量に聴いており、いくつかのスタイルには、特に強く感化された。俺はボム・スクワッドがパブリック・エナミーで作っていた音楽が大好きだったため、昔のPファン ク・レコードをサンプルして、彼らと同じことを自分でもやりはじめた。ただし、有名なサンプルは使用しないよう努めた――すでに他のアーティストが使い尽くしていたからだ。こうして俺は、アウトテイクやレア・トラック、ライヴ・トラックからサンプリングを行った。俺は最も手のかかる方法で、アルバムを自らプロデュースした。三、四秒のループを曲の最初から最後まで流した後、ループの中で使用しないパートをミュートしたのだ。もっと洗練された方法でソース楽曲を扱うこともできただろう――ボム・スクワッドは外科的に曲を切り刻むと、最大のインパクトを与えたい箇所にそのサンプルを乗せ、その過程で、オリジナル楽曲を変化させることもあった――しかし、俺にはそれをやるスキルもなければ、興味もなかった。俺はむしろ、ピクサーがやっていることなど理解できない、昔気質のディズニーのアニメーターに近かった。手作業しなければ気がすまなかったのだ。

(略)

 俺はループを作ると、ブラックバード・マックナイトを呼び、ループの上からギターを弾かせ、そこにバーニーのオルガンを乗せた。(略)他のミュージシャンもスタジオにやってくると、同じことをやった。こうして、現代から過去に敬意を示したというわけだ。