ファンクはつらいよ その2

前回の続き。

ジミ・ヘンドリックススライ・ストーン

 俺たちのインスピレーションの大半は、ロックン・ロール、とりわけロックに革命を起こしていた黒人アーティストを深く吸収することによってもたらされた。最大のインスピレーションとなったのは、もちろんジミ・ヘンドリックスだ。

(略)

[ジミの1stは]壮大で革新的だった。四十七年後の今でさえ、完全理解が困難なほどの先見的な特質を持っており、それはまるで、宇宙からメッセージが発せられているかのようだった。ジミと共演する機会はなかったが(略)

[チェンバース・ブラザーズのパーティで遭遇]

俺たちは圧倒された。彼は内気でソウルフル、控えめながらも実に魅力的だった。

 ジミが最初の雷鳴だとすれば、二番目の雷鳴はスライ・ストーンだ。(略)

彼は、クラブで何年もギグをしてきたアーティストのように、洗練されたR&Bを作ることもできれば、最高にハードなロック・バンドのように、サイケデリックな演奏もできた。ジミ・ヘンドリックスはロンドンで新たなサウンドを見出したが、スライはサンフランシスコで同じ事をやっていた。

(略)

スライには全てを吸収する能力があった。スライは、ビートルズと同じことができた唯一のアーティストだ。ビートルズには四人いたが、彼はひとりでそれをやってのけていた。初期のスライは、俺に多大な影響を与えた。彼は何年も俺に影響を与え続けていたが、後に俺のコラボレーターとなり、音楽的パートナーとなった。

ファンカデリック

ソウル・サーキットだけでなく、未知の領域だったロックン・ロールの会場でも公演を行った。黒人アーティストの中で、俺たちのような音楽をやっている者はいなかった。〈Time Has Come Today〉を一九六八年の秋に大ヒットさせたチェンバース・ブラザーズのようなバンドは、チャートを賑わしていたが、その音楽は極めてポップだった。(略)

ウォーは、素晴らしいサウンドを作っていたが、その中にはラテン音楽やジャズまで入っており、ストレートなロックではなかった。天才のスライですら、主にポップの領域で活動しており、大抵の場合はチャート・ヒットを狙っていた。

 俺たちはロックへと一直線に突き進み、大きく開花した。最初から、俺たちのステージはクレイジーだった。ファンカデリックがスタイルを確立する前、俺たちはウェスト・ヴィレッジ流に着飾りはじめていた。(略)

〈Music for My Mother〉がヒットした後のツアーでは、バカげていればいるほど良いとばかりに、とことん奇抜な格好をした。俺たちは、小道具を売る店に足を運び、アヒルの足や、鶏の頭を買った。つばの大きなアーミッシュ調の帽子もあった。そして俺は、ステージ上でおむつを履きはじめ、ある時はホテルのタオル、またある時はアメリカの国旗を使っておむつを作っていた。しかし、ステージ衣装で最も過激だったのは、バンドの全員が奇抜な格好をしていたわけではないという点だ。数人はそうだったが、カルヴィンのようなメンバーは、未だにスーツを着ていた。観客側から俺たちを見ると、あらゆる要素が衝突していた。想像できる限りのあらゆるスタイル、さらには予想外のスタイルまでが、一度にぶつかりあっていたのだ。

(略)

バンドには、ヘンドリックス並みの爆音で演奏できるギタリストが二、三人おり、バーニーは、キング・クリムゾンさながらにクラシック調の彩りを添えていた。

(略)

あまりに広いジャンルで公演をブッキングしていたため、俺たちは次第に、観客の層に合わせて演奏することを覚えた。観客が最新のダンスに興味を持つティーンエイジャーの場合は、アップテンポで曲を演奏する。新しい考え方にまだ馴染むことができない黒人が大半を占める観客を前に、ジャッキー・ウィルソンやチャック・ジャクソンの前座として演奏する時には、ラジオ向けの長さで曲を演奏し、〈Testify〉に遡った他、〈Gypsy Woman〉や〈Knock on Wood〉のカバーをやる。また、フィルモアのような会場の場合は、観客にミュージシャンが多いこともあるため、エディやバーニーにソロの腕前を披露させるといった調子。最も寛大だったのは、グレイトフル・デッドのようなバンドのファンで(略)俺たちが情熱を傾けて演奏さえすれば、白いTシャツでステージに上がっていてもかまわなかった。

インヴィクタスと契約

こうした背景の中、ファンカデリックは変貌する文化の寵児となった。デトロイトでは、俺たちはスライよりも人気があった。デトロイトでの俺たちは、ビートルズさながらで、誰もが前途有望だと認めるヒップなバンドだった。俺たちがトゥエンティ・グランドで公演をすると、観客の中にはジーンズとミンクのコートに身を包んだモータウンの人々が大勢いた。俺は下着もつけずにシーツ一枚の姿で、ステージから彼らのテーブル に歩み寄ると、ドリンクを頭からかぶって、彼らをからかったものだ。当時の俺は、坊主刈りにした頭に、ペニスと星の絵を描いていた。王様が道化師を面白がるように、モータウンの人々も楽しんでいた。俺が公演中、ベリー・ゴーディダイアナ・ロスに小便をひっかけたという噂もあったが、それは坊主頭にかけたワインが流れて、シーツにこぼれ落ちていただけだ。

 俺たちはヒッピーで、ヒップだった。その理由のひとつは、ビジネスの経済的側面の変化を理解していたことにある。サム・クックの時代、R&Bシンガーにとって最大の野望は、コパカバーナ公演や、ラスヴェガスの大クラブでの公演で、それが想像しうる最高地点だった。しかし、ロック・バンドは皆、マディソン・スクエア・ガーデンを満員にしている。なぜ俺たちはローリング・ストーンズになれない?なぜ俺たちはクリームになれない?肌の色の違いだけならば、それは俺たちにとって問題にはならなかった。俺たちは、最高に格好良い曲と、最高に騒々しいギターにと、最高のシンガーを擁していたのだから。

(略)

 反体制という地位を確立し、それが利益を生みはじめると、体制側の人間が、新たな投資を狙って近づいてくる。(略)

[ホーランド=ドジャー=ホーランドがホット・ワックスとインヴィクタスを立ち上げるためにモータウンを去ると、ジェフリー・ボーエンも一緒に退職]

ファンカデリックのシングルがヒットしはじめ、デトロイトとその周辺でナンバー・ワンを獲得すると、ジェフリーはすぐさま俺に連絡してきた。「ザ・パーラメンツを再始動して、ポップ・アルバムを作ろう」と。

(略)

俺はインヴィクタスよりもホット・ワックスと契約したかった。というのも、ホット・ワックスは、業界でも屈指の独創性を持つニール・ボガートが運営していたからだ。彼と運命をともにすれば、俺たちは成功する。俺はそう確信していた。しかし、インヴィクタスはキャピトルが配給しており、キャピトルは白人ロック・アクトを多数擁し、ブラック・ポップ・バンドの獲得にも熱心だったため、俺たちはインヴィクタスに配置された。ほとんど間髪を入れずに、俺たちはザ・パーラメンツからパーラメントへと改名した。

(略)

 インヴィクタスでのアルバム制作は、まるでコメディのようだった。モータウンでは、ベリー・ゴーディ(略)が出社すると、「会長がお見えになりました」とアナウンスが流れた。モータウンの出世頭だったホーランド = ドジャー= ホーランドは、新レーベルを設立すると、自らを手の届かない存在に祭り上げ、エディ・ホーランドがベリー・ゴーディの役を担った。エディは、同室している者にも直接話しかけず、ジェフリーを通して意思を伝えた。彼は権威的に振る舞い、傲慢な印象を与えたが、俺はあまり気にしていなかった。どちらにせよ、俺たちは反逆者だ。彼の偉そうな言動は、俺たちのサイケデリックな言動と同様、生きるための戦略であると、俺は悟っていた。(略)

実のところ、俺は表向きのイメージよりも遥かに控えめで、冷静で、慎重な人物だ。だからこそ、クレイジーなスタイルを貫徹することができた。

アシッドで痔、商業化されたドラッグ

 《Osmium》の(略)ジャケット写真の撮影は、最も鮮烈な思い出のひとつだ。撮影はトロントで行われた。俺はシーツだけを身にまとい、各メンバーはヒッピー風に着飾った。最も思い出深いのは、俺たちが当時、とてつもない量のアシッドをやっていたことだ。(略)肉を食べてアシッドをやると、肉にも幻覚が見えるようになる。まるで生きているかのように、肉が脈動しているように見えるのだ。あれは恐ろしかった。しかし、さらに酷かったのが、俺たちの胃の荒れっぷりだ。アシッド (酸)とは言いえて妙で、LSDは酸性だった。LSDは、消化器官を刺激し、尻も破裂させる。俺たちは当時、常人の想像を超える時間をトイレで過ごした。誰もが痔主だった。

(略)

酷く暑い日で、塩気のある汗が、皆の尻の穴に入った。阿呆どもは、赤ん坊のように泣いていた。さらに、花園には蜂がいた。あの撮影がスチール写真ではなく映画だったら、皆が恐れおののきながら、蜂に尻込みしたり、蜂を叩いたりしている姿が見られただろう。

(略)

六十年代の理想主義(略)は、ほぼ完璧な形で成熟した後、発酵しはじめた。ウッドストックが終焉だった。ウッドストックがドラッグにどんな影響を与えたかを見ればわかる。ドラッグが社会に循環する方法が変わったのだ。長年の間、ドラッグはコミューンで行われていた。ドラッグは、友達と共有するものだった。誰かがテーブルの真ん中に金を置くと、二人、三人と金を出し、四人目がその金を全て拾い上げて、皆のためにマリファナを買いに行った。誰も販売については語らなかった。販売について語られなかったため、誰もドラッグを商品と見なしてはいなかった。そのため、粗悪品や劣悪なサービスといった問題もなかった。しかしそれから、突如としてドラッグは産業となり、全てが百八十度変わってしまった。品質が大きな問題となった。

(略)

ドラッグが商業目的となると、ドラッグの良さが即座に失われた。しばらくすると、少しでも利益を増やそうと奮闘する小事業主が何千人も誕生し、彼らは利益のためなら人々に毒を盛ることすら厭わなかった。こうして、LSDの中にストリキニーネが混入されはじめた。また、娯楽用ドラッグにPCP (フェンサイクリジン)が混入された。(略)

 同じことがセックスでも起こった。フリー・ラヴが素晴らしい時期もあった。人々は無邪気に恋に落ち、セックスすることについても何ら問題はなかった。この状況は永遠に続くものではなく、ゆくゆくは誰もが仕事に戻り、結婚をして家庭を持つと、皆がわかっていた。フリー・ラヴは、素晴らしい思想だったが、それも音を立てて崩れ去った。七十年代初頭から、より恐ろしく致命的な性病が、忍び寄りはじめたのだ。

 これら全ては、社会的な運動があくまで表面的なものに留まり、権力構造には何ら変化を与えないようにするための方策だった。ピース・アンド・ラヴのメッセージは、心の底から誠実に発せられない限り、陳腐極まりない。そして一時的に、このメッセージは心の底から誠実に発せられていた。戦争は終わろうとしていた。若者文化は、耳を傾けられようとしていた。女性は尊重されようとしていた。しかし、車輪が回りはじめたことに気づいたお偉方は、その車輪を止めようと、介入したのだった。俺は今日に至っても、国務省が文化戦争終結の動きに一枚噛んでいたはずだと思っている。

《Free Your Mind》《Maggot Brain》

[ファンカデリック2ndを制作]

一方、俺はプロテスト・ソングとは別の方向に進んだ。俺には、社会的・心理的な事柄、特にその中でも生、死、社会統制といった最もシリアスな考えには、可笑しさがあるように思えた。そして、そこに留まり、喜劇と悲劇、現実と非現実の間のスペースに漂うと、一種の知恵のようなものが生まれてきたのだ。

 誰よりもこれに長けていたのは、もちろんビートルズボブ・ディランだ。だからこそ、彼らはこの時代を生き延びただけでなく、その後に起こったあらゆることの基調を定めた。しかし、代弁者としての重圧がのしかかりはじめ、ファンや記者が深遠な思想を探しはじめると、彼らはこうした重圧や期待をかわせるだけの鋭い直感を持っていたため、わざと突飛なことを言った。

 彼らは、ナンセンスから芸術を創り出した。ジョン・レノンが、ビートルズはキリストよりも有名だと言って騒ぎを起こした時も、彼は社会問題の代弁者に祭り上げられないよう、皮肉を込めて横柄にナンセンスな発言をしたのだった。彼は人々に捕まらないよう、掴みどころのない発言をした。それは彼の作品にも入り込み、〈I Am the Walrus〉のような曲にもはっきりと見て取れた。この曲が深遠なのは、誰もが浅薄であることを歌っていたからだろうか?あるいは、深遠であるという考えを物笑いの種にしていたのだろうか?それとも、人々の心をより大きく開こうとしていただけなのだろうか?ボブ・ディランも同じだった。しかし、俺が彼の流儀を理解するまでには少々時間がかかった。最初は、彼がことのほか正直に思えた。ギターを手に、鼻にかかった声で、愛と政治について歌う、ひとりの男。しかし、彼のインタヴューを見はじめると、とりわけ彼が吟遊詩人モードから抜け出した時に、彼の本質をより明確に理解できた。

(略)

また俺は、精力的に読書をした。ブラック・パンサーの本、小説、三文小説、アンダーグラウンド・コミックの他、ヒッピー時代の名作と現在考えられているベストセラーは全て読んだ。当時、特に大きな影響力を誇った本の中に、エーリッヒ・フォン・デニケンの『未来の記憶 (Chariots of the Gods)』がある。誰もがこの本を持っていた。デニケンは、ピラミッドからミステリー・サークルに至るまで、人類の歴史で最大の功績は、宇宙人が成し遂げたものであるという理論を掲げていた。

(略)

こうしたシリアスな知恵、歴史的陰謀すれすれの興味深い理論の全てが、俺の頭の中で融合した。もしくは、これらがアシッドの中で溶解したといった方が正しいだろう。《Free Your Mind..and Your Ass Will Follow》の大半は、LSDを使って制作された。ギターのサウンドやプロダクションを聴き、歌詞や曲のタイトルを見れば、それがわかるはずだ。

 またここから、本当の意味でブラック・ミュージックの新段階が始まった。

(略)

一九七〇年の夏、マーヴィン・ゲイはスタジオに入り、《What's Going On》の制作を開始した。さらに同年、スライ&ザ・ファミリー・ストーンが、《What's Going On》のアンサー・アルバムともいえる《There's a Riot Goin' On》のレコーディングを開始した。《Free Your Mind》は、この新トレンドに先んじてリリースされた。

 俺もマーヴィンやスライと同様の責任を感じてはいたが、彼らとは対処の仕方が異なった。俺は皆とアシッドでハイになっていたから、テープを回し、バンドが演奏を始めると、歌詞やモノローグ、スローガンを即興で作りはじめた。

(略)

 《Free Your Mind》がリリースされたちょうどその頃、ジミ・ヘンドリックスが死んだ。これで明らかに一時代が終わった。一九六九年五月、彼はトロントにやってきて、逮捕されていた。荷物検査の際、荷物からドラッグが見つかったそうだ。しかし俺は、こっそりドラッグを仕掛けられたのだろうと思った。すぐ見つかる場所にドラッグを持つバカなどいないだろう?だから彼の訃報を聞いた時にも、俺は彼が殺されたのだと考えた。俺が思うに、彼が作っていた音楽は体制側にとってあまりにも大きな脅威となっていたのだろう。

(略)

スタジオで可能なこと、レーベルがリリースできる音楽には限界があった。しかし、《Free Your Mind》のようなレコードでは、スタジオ技術が俺の頭の中で流れるサウンドに追いつき、俺はとうとう、重く歪んだ奇妙なレコードを制作できるようになった。

(略)

俺は、スタジオをクリエイティヴな実験室として使い、サイケデリック時代のエネルギー全てを保存しようと試みた。ヒッピー文化の衰退、インナー・シティの腐敗、合法および違法な意識拡張といった外部的な現象と、内部的な状況が一体となったのが、一九七〇年終盤だ。この頃、俺たちはデトロイトのユナイテッド・サウンドに戻り、ファンカデリックのサード・アルバム《Maggot Brain》をレコーディングした。

(略)

これが不朽の名曲となったのは、曲が続く十分間の大半で聞かれるエディ・ヘイゼル のギター・ソロのおかげだ。もちろん、このソロをレコーディングした時のことは覚えている。決して忘れることはないだろう。

 エディと俺はスタジオで、恐ろしいほどハイになっていたが、自分たちの感情に意識を集中させていた。バンドはジャム・セッションをしていた。彼好みのスロウなグルーヴで、俺たちは彼のソロを始めようとしていた。彼が演奏を始める前に、俺はこう言った。母親が亡くなったかのように演奏してみろ。その日を想像し、どんな気持ちになるか、どのようにその悲しみを消化し、ギターを通じて心情の全てを表現するか?

(略)

エディは、バンドの演奏する昔ながらのスロウなジャムに乗り、ソロを弾いた。俺はトラックから他の楽器を全て取り除き、エコープレックスを四、五回かけた。こうして、演奏の面でもサウンド・エフェクトの面でも、曲全体に不気味な雰囲気が加わった。曲の冒頭にカサカサという雑音が入っているが、これは蛆虫が頭で湧いている音なのか、と尋ねられることがある。しかし、そうだとは答えられない。俺はただ、何か奇抜で新しいことをやろうとしていただけだ。画期的なエフェクトは、こうして誕生することが多かった。この数年前に、スライ&ザ・ファミリー・ストーン は〈Sex Machine〉という曲をレコーディングしていたが、スライのヴォーカルは、電子的処理を施されたかのように聞こえた。しかし実際のところ、彼は紙で覆ったトイレットペーパーの芯に向かって歌い、その声をワウワウ・ペダルに通していただけだ。また、モータウンでは、コーラの箱を踏みつけて、パーカッションの音を出していた。一方で俺は、ミキシング・ボードでエフェクトをかけながら、そのエフェクトでどんな雰囲気が出るかをモニターし続けた。

《Cosmic Slop》

 《Cosmic Slop》は、風変わりなソングライティングで政治的な曲を書くことができるという一例だ。

(略)

 俺たちが進化する中で、ブラック・ミュージックのアイコンたちは過渡期にあった。ジェイムズ・ブラウンにとっては、納得のいかない時代だった。彼は以前と同じように活動していたが、シングルに力を入れていた。ところが、シングルの市場は衰退していた。この時期の彼の作品で、アルバム全篇を通じて素晴らしかったのは、一九七二年にリリースされたアポロでのライヴ盤だけだ。ステージ上の彼は、四十代になっても相変わらず圧倒的だった。そして俺は、数多くのバンドが、彼と同じエネルギーを取り入れようと試み、全キャリアを賭ける姿を目にした。他のバンドは、バッファローのダイク&ザ・ブレイザーズ、ワシントンDCのチャック・ブラウン、ニューオーリンズミーターズと、局地的なスターだった。

 俺はこうしたバンド全ての活動を追っていたが、より広い客層にアピールすることに関心があったため、レッド・ツェッペリンザ・フージミ・ヘンドリックスといったロック・アーティストのことも念頭に置いていた。《Cosmic Slop》のレコーデ ィング中、俺は絶えずジミのことを考えていた。彼の音楽がどこからスタートし、どれほど遠くまで進んだかについて思いを巡らせていたのだ。実際、彼は《Electric Ladyland》で宇宙へと行ってしまったため、《Band of Gypsies》では地球に戻ってこなければならなかった。後者は傑作だったが、より保守的で、コンテンポラリーなR&Bを彼なりに解釈した作品だ。ジミだけではなかった。エリック・クラプトンも、クリームから戻ってくると、伝統的なロックン・ロールを作りはじめ、これがルーツ・ミュージックへと変化した。スライも宇宙にいたが、長居はできなかった。

〈Let's Take It to the Stage〉ステージで勝負だ

当時は常にバンド間で対抗意識があり、俺たちが売れはじめると、競争はますます熾烈になった。グループは、お互いに嫉妬しはじめた。アース・ウィンド&ファイアーとジョイント・コンサートをしたことがあったが、彼らは俺たちの演奏を阻んだほどだった。〈Let's Take It to the Stage〉とは、「俺たちは口論も喧嘩もしない――ステージで勝負しよう」という意味だ。借りを返すために、俺たちは他のバンドにバカげた名前をつけた。ジェイムズ・ブラウンは、ゴッドファーザーではなくゴッドマザー。ルーファスには、スルーファス。そして、アース・ホット・エア&ノー・ファイアーなんて名前もつけた。ファンカデリックは、頻繁にこれをやるようになった。他のポップ・カルチャーについて語り、競争相手を陽気に口撃する。十五年後に、ヒップホップ界で人気となることをやっていたのだ。

 ある日、俺たちはロサンゼルスのハリウッド・サウンドで、ロック・ギターを前面に出した〈Get Off Your Ass and Jam〉をレコーディングしていた。エディ・ヘイゼルは不在で、この曲でギタリストを務めたマイケル・ハンプトンは、リズム・ギターのために組み合わせたピグノーズのスタック・アンプを試していた。俺たちがテイクをひとつ終えて休憩していると、ヘロイン中毒のホワイト・キッドがスタジオに迷い込んできた。(略)演奏するから現金を融通してくれないかと尋ねてきた。「ソロができる曲はないか?二十五ドルくれれば弾くよ」(略)

準備をし、トラックをスタートすると、彼はまるで憑かれたかのようにギターを弾きはじめた。曲の全篇で、これまでのロックン・ロールを網羅したかのような演奏をし、曲が終わっても、演奏を止めなかった。俺たちは皆、驚いて目を丸くしながら、「すげえな」と声を上げた。二十五ドルの約束だったが、俺は五十ドルを渡した。それほど気に入ったのだ。彼は金をポケットに入れて立ち去った。それだけのことだった。トラックを聴きかえすと、俺はさらに感銘を受けた。〈Get Off Your Ass and Jam〉は、最高に格好の良い曲だった。(略)他の曲でも起用したいと思い、俺はこの男を探したが、彼は姿を消し、再び姿を現すことはなかった。連絡も来なかった。この曲で彼がクレジットされていないのは、彼が一体誰だったのか、俺たちにも全くわからないからだ。

エアロスミス

 Pファンクのステージ設備は、エアロスミスが一九七六年に使い終えたもののお下がりだった。俺たちとエアロスミスには、間接的な関わりがあった。バーニーは、チャビー&ザ・ターンパイクスでジョーイ・クレイマーと一緒に演奏していたし、俺たちとエアロスミスは一時期、マネージャーが一緒だったこともある。奇妙な話だが、俺は彼らをファンク・バンドと見なしていいた。〈Rag Doll〉のような後年の曲からもわかるように、彼らはリズムに合わせて、緩やかに演奏していた。彼らの他にこれができたロック・バンドは、レッド・ツェッペリンだけだ。しかし、レッド・ツェッペリンがそういった演奏をしたのはステージの上だけで、スタジオではエフェクトを駆使し、複雑な音楽を作っていた。

 そして宇宙船――これは、俺の期待以上の出来だった。五十年代後半から六十年代前半のアメ車に、児童公園にある遊具と巨大な昆虫を混ぜたような外観で、見事だった。宇宙船の底部から手品師のキャビネットのようなブラック・ボックスに入ると、エレベーターが上昇する。スモークが激しく焚かれて照明が眩く光る中、俺は階段の頂上から登場するのだ。宇宙船は壮観だった。ソウル・ミュージックでは、お目にかかれない代物だった――さらにいうなら、ロックン・ロール でも前代未聞だった。それはまるで、趣向を凝らしたブロードウェイのミュージカルのよう、もしくは、数十年後のラスヴェガスのショウのようだった。

興行主とラジオDJ

 俺たちは、他にも革新を起こした。従来のシステムは、興行主とラジオDJが金銭的な責任と利益を分かち合っていた。ラジオDJは、コンサートを主催してはいけないことになっていたが、俺たちは、そのシステムを出し抜く方法を彼らに教えた。彼らの妻に興行主の免許を取らせたのだ。(略)

これによりラジオDJは力を与えられ、俺たちと喜んで仕事をするようになった。

(略)

 それでも問題は生じるもので、ちょっとした論争が起こった。俺たちがマザーシップとツアーを始め、そのライヴの観客動員数が多いことが明らかになると、公平性が欠如していると嘆きはじめる人々が現れた。彼らの考える公平性の欠如とは、主に人種の話だった。アトランタのある集団は、俺たちが黒人興行主を使っていないという理由で、俺たちのショウで抗議行動をしようと、公民権運動家のホセア・ウィリアムズを雇った。(略)

[調査にやってきたホセアに]彼が知らなかったことを話した。俺たちは大きなアリーナやスタジアムで公演をするようになると、チケット一枚につき二十五セントをユナイテッド・ニグロ・カレッジ・ファンド (黒人大学連合基金)に寄付するようになり、それを何年も続けていたのだ。また、コンサートには何万人もの観客が動員されるため、金額も大きくなっていた。ホセア・ウィリアムズはその事実を知ると、ブリーフケースを閉じて立ち去った。「ここには何もない」。彼はそう言った。

 それでも、粗探しは終わらなかった。白人の興行主は逆の面で憤慨していた。俺たちが抗議隊のプレッシャーに屈し、黒人の興行主しか雇わなくなるのではないかと心配していたのだ。全員をなだめ、それと同時に自分たちのやりたいことをそのまま続けるために、俺たちはダリル・ブルックスとキャロル・カーケンドールを雇い入れた。ワシントンDCでタイガー・フラワーという会社を経営していた黒人男性と白人女性だ。

(略)

[キャピタル・センターの]周りで抗議行動をしていた男性と話をつけた。Pファンクに抗議したところで何の得にもならないことがわかると、彼は今後、抗議者が出た時の対応を手伝うと申し出てくれた。政治同盟のほとんど全てが、結局はこんなふうになる。敵対する人物はいるかもしれないが、なだめて仲間に引き入れることもできるのだ。誰もがパンを持ち、好みの面にバターを塗りたがる。全ては、これに気づくかどうかの問題なのだ。

 その後、九十年代に、マイケル・ジャクソンの父であるジョー・ジャクソンの家で首脳会談が行われた。ジャネット・ジャクソンは白人の興行主ばかり使っていると怒りを買い、ボイコットの話まで出ていた。俺たちはミーティングに到着して話を少し聞くと、アーチー・アイヴィーが登壇し、意見を述べた。「俺たちもこれに賛同したい。俺たちはもちろん、ブラック・ビジネスの味方だからな。しかし、この部屋を見回してみても、お前らのうちの半数が、俺たちにきちんと金を払ってないじゃないか。これじゃあ、ジャネットに反対したり、彼女の選択の自由を否定したりする気にはなれないな」。

ファンク、カサブランカ、ドラッグ天国

突如として、ファンクはメインストリームのポップ・ミュージックな会話にも登場するようになった。限られた規模ではあるが、以前もこれと同じことが起こった。スライがクロスオーヴァーし、ポップ界のスターとなった時だ。しかし、スライは先駆者であると同時に天才で、彼自身が独自のジャンルだった。実際のところ、七十年代には誰もファンクにはなりたくなかった。少なくとも、ファンクとは呼ばれたがらず、誰もがポップやクロスオーヴァーになりたかった。その理由は、ジャンルによって予算が決まったからだ。イギリスのロック・グループはアメリカに進出すると、予算を増やした。しかし、黒人アーティストの場合、予算は比較的少なかった。《Mothership Connection》と《The Clones of Dr. Funkenstein》では妥当な前払金を手にしたが、ロック・バンドには遠く及ばなかった。俺たちは黒人アーティスト向けの予算を“ジュニア・バジェット”と呼んでいた。

 《The Clones of Dr. Funkenstein》の後、金回りは良くなった。俺たちは、チャートの常連であることが証明されたのだ。パーラメントの次作で、ファンク人気はさらに高まるだろう、と誰もが考えていた。 しかし、この新たな環境を活かすことのできないバンドも存在した。例えばオハイオ・プレイヤーズは、俺の大好きなバンドだ。ずば抜けた才能に恵まれ、ホットなグルーヴと、見事なライヴ演奏の手腕を有していた。しかし彼らは、バンドの成長期に大観衆の前で定期的に演奏していなかったため、大ヒットを放ってレコード制作のために多額の金をもらうようになっても、より大きな会場での演奏に適応することができなかった。(略)

俺たちと一緒にヒューストンのサミットでコンサートをした時、彼らは小さなコラム型スピーカーを持ってやってきた。振ると反響するようなスピーカーだ。彼らは、会場がどれだけ大きくてもそのスピーカーを使うと言い張ったが、それはまるで、アリーナの中央に高校の体育館を置くようなものだった。

 俺たちは、他のバンドに対してある程度のライヴァル意識を持っていた。少なくとも、常に周囲を見回し、ライヴァルの動向を意識していた。当時、俺たち以外で最大の黒人グループは、アース・ウィンド&ファイアーだったが、活動内容は大きく異なっていた。彼らは早い時点でハードなファンクを諦め、クロスオーヴァー・ポップへと鞍替えしていた。しかし、 それでも俺たちのマザーシップを作ったジュールズ・フ ッシャーを雇い入れると、ステージで使うピラミッドをデザインさせていた。その他には、キャメオやリック・ジェイムズなど、俺たちと一緒にツアーすることもあった新進アーティストや、ファンク・バンドとして再出発したバーケイズのようなヴェテランのソウル・グループがいた。

 そんな俺たちにも、ライヴァルのいない場所がひとつあった。カサブランカの内部だ。カサブランカには、モータウンのような社内プロデューサーはいなかった。ジョルジオ・モロダードナ・サマーをプロデュースし、ケニー・カーナーとリッチー・ワイズはキッスをプロデュースし、俺たちは俺たちでプロデュースした。このように、重複がなかったため、モータウンのような競争はなかった。その代わり、他のアーティストは同僚のようだった。社内で偶然顔を合わせる機会もあったが、俺たちはお互いを祝福し、キッスがハードロック、ドナがディスコを制覇する様を感嘆しながら見守っていた。こんなことができる環境が整ったのは、主にニールのおかげだろう。彼はあまりに行動が速く、頭も切れたため、彼についてこられるレーベルなど存在しなかった。また、セシル・ホームズからジーン・レッドに至るまで、レコード・ビジネスについて業界内でも屈指の知識を誇るヴェテランを擁しており、社内基盤も整っていた。

 クリエイティヴな面でも、財政的な面でも、あらゆる面において、カサブランカは真の成功例に思えた。あらゆる面の中には、もちろんドラッグも含まれる。カサブランカは、ドラッグ天国だった。コカインを鼻から吸引しながら、電話の応答をしていたほどだ。しかし、当時は特におかしな行動でもなかった。 あの頃、コカインは日常の摂取物だった。ハリウッドもやっていた。ウォール街もやっていた。市井の人々もやっていた。レコード会社の重役と昼食に行けば、食事の途中で重役はポケットからコカインの瓶を取り出し、テーブルに瓶の中味を出して吸引していたものだ。昼食の席でも、全く公の場でもそうだった。

(略)

ミュージシャンの大半は常時マリファナを吸っており、そのうちの少数はヘロインやエンジェルダストのようなハード・ドラッグをやっていた。最高のドラッグは、クエイルードだった。これはコカインと並んで、カサブランカの皆がやっていたが、セックス用のドラッグだ。あのドラッグをやると、セックスがしたくなる。幸運にも、クエイルードで一晩過ごせる時には、まさしくセックスで夜を明かすことになった。若くて美人の秘書やバックアップ・シンガーと親密になるだけでなく、不細工だと思っていた女でも、クエイルードを飲めばすぐに股間が疼きはじめ、そんなことは全く気にならなくなるのだ。(略)すぐさま勃起できたし、勃起せずに射精することもできた。女性陣もクエイルードを大いに気に入っており、「714」と印刷された小さな錠剤で、楽しい時間は約束される。しかし、クエィルードは忽然と姿を消し、どこにも見あたらなくなった。一時的にレモンと呼ばれるメキシコ産の代替品が出回ったこともあったが、本物のクエイルードの効果には及ばない。俺にはどうしても、政府がクエイルードを消したとしか思えない。あそこまで効果のあるものは、消えてなくなるものなのだ。

(略)

ロックン・ローラーは、ショウの後に気分を鎮めたり、思考を拡張したり、もしくは女と楽しむためにクエイルードを愛用した。しかしちょうどその頃、ディスコが台頭しはじめる(略)

俺がすぐさま気づいたのが、ディスコ・ピープルはファンキー・ピープルとタイプが違うということだ。ファンキー・ピープルは貧しい人が多い一方、ディスコ・ピープルは金持ちのパーティ愛好家だった。異性愛者もいたが、多くが同性愛者で、大半が物質主義者だった。金持ちがパーティすると、退廃的になる。あまりにも金があり、欲しいものは何でも買える。あまりにも多くの物を手に入れすぎて鈍感になり、ドラッグやセックスでは満足なハイを味わえなくなるため、特別待遇を受けることでハイになるのだ。

 ディスコの台頭で、俺はそんなことを感じはじめた。パーティ会場には、メルセデスランボルギーニが四台並んで停まっていた。また、ドラッグをやっている金持ちは、あらゆる意味で注文が多いことに気づかされた。彼らは最高のセックスとドラッグを要求し、一刻も待ってはいられなかった。彼らはポッパーのようなドラッグを好んでいた。俺たちもバーバーショップ時代にポッパーを試したことがある。当時は処方箋なしで購入できたのだ。ポッパーとは心臓用の薬、アミル・ニトライトだった。このドラッグの作用を知らずに試せば、自分がおかしくなったと思うことだろう。汗をかき、毛穴が開き、三十秒ほど爆発的な快感が訪れる。ディスコ・ピープルはこれをセックス用のドラッグとして使っていたが、ポッパーにはクエイルードのようなクールさやセクシーさはなかった。激しくて、少し危険。手早いセックスのためのドラッグだ。

 俺の本質は未だヒッピーだったため、ディスコに興味を引かれることはなかったが、ディスコに楽しませてもらうこともあった。

(略)

 ドラッグは問題だったが、問題だと思わなければ、問題にはならなかった。同じことがセックスにもいえた。当時、自分は性的倒錯者なのではないか、セックス中毒なのではないか、と誰もが心配しはじめ、高額な精神科医に通いはじめていた。それがハリウッドの流行だったのだ。何か異常なところはないものかと願いながら、誰もが精神科医にかかっていた。俺自身も、セックスを専門とするハリウッドの精神科医のもとに通った。ソングライティングの助けになるかもしれないと、女医と会話をして情報交換をしていたのだが、蓋を開けてみると、どんな患者よりもこの女医が一番の色情狂だった。彼女は異常な状況や環境に精通しており、誰かが特に異常な話をすると、その話で興奮を味わっていた。彼女の名前は教えられない。患者と医師の守秘義務というやつだ。

次回に続く。

ファンクはつらいよ ジョージ・クリントン自伝

パーラメンツ、フィル・スペクター、マンボ

俺の勤労意識が父親譲りだとすると、俺の音楽愛は母親譲りだ。父親は教会に通い、趣味でゴスペルを歌っていたが、四六時中働いていたため、本格的に音楽活動をする機会はなかった。(略)父親は、日曜歌手だったのだ。一方、母親は大の音楽好きだった。彼女は家で一日中音楽をかけ、一緒に歌っていた。(略)

母親はイースト・オレンジで、ワーウィック牧師が所有する食料品店の隣に住んでいた。ワーウィック牧師は、プルマン式寝台車のポーターから料理人を経て、ゴスペル・レコードのプロモーターとなった人物だ。彼はディオンヌ・ワーウィックの父親でもあった。俺たちが母親のもとを訪れると、ワーウィック家の子どもたちはいつも近所で遊んでいて、ディオンヌだけでなく、シシー、ディー・ディー、家族全員と知り合いになった。

(略)

パッツィー・ホルトという少女をリード・シンガーに配した(略)ブルー・ベルズも好きだった。(略)パッツィーは当時から極めて力強い声を持っていた。後にローレンス・バラードの後釜としてスプリームスに加入したシンディ・バードソングも、ブルー・ベルズに在籍していた。数年後、パッツィーがパティ・ラベルに改名し、俺がヘアドレッサーになると、俺は彼女のヘアを担当することになる。

(略)

俺の名前に因んだストリート、クリントン・アヴェニュー(略)はエセックス・レコーズというレコード店があり、俺は放課後、同店の清掃係として働いていた。当時、レコードの返品はあまり一般的ではなかった――売れなかったレコードは、レーベルに返品されず、店の裏のゴミ箱に捨てられていたのだ――(略)

俺はそのうちの数枚を自分のものにし、白人のドゥワップ・グループや、白人ロッカーのレコードは、学校に持って行って売っていた。こうして俺は一時期、マディソン・ジュニア・ハイスクールのレコード王となった。

そして、『アメリカン・バンドスタンド』が始まると、突如としてアーティストの容姿を確認する手段ができた――驚いたことに、アーティストの中には白人もいた。しかし、五十年代半ばは、誰もアーティストの人種など知らず、気にしてもいなかった。自分の心を動かす音楽で踊り、自分をより大きく感じさせてくれる音楽を手に入れていたのだ。リトル・リチャードは、俺が白人の生徒に売っていたレコードの中に入っていた。俺は一枚につき十五セントを稼いでいた。ジェリー・リー・ルイス(略)も、人々の心を動かしたアーティストだ。俺のお気に入りでもあった。(略)

ジェリー・リーは本当にファンキー、阿呆かと思うほどファンキーだった。彼はノってくると、最高の演奏をした。

(略)

 フランキー・ライモンは、マイケル・ジャクソンだった。本物のマイケル・ジャクソンが登場する十五年前のことだ。幼いフランキーは、未来からやってきたかのような子どもで、誰もが忘れることのできない声とステージ上の存在感があった。(略)

一九五五年頃、フランキーはティーンエイジャーズという新たなグループで〈Why Do Fools Fall in Love〉をリリースしたが、これは俺の世代の目を覚ます曲だった。考えてみると、彼はマイケル・ジャクソン以上の存在だったかもしれない。おそらく彼は、エルヴィス・プレスリーマイケル・ジャクソンを合わせてひとつにしたような人物だったのだろう。

(略)

フランキーは俺よりもほんの少し年下だったが、ほぼ同い年だった。

(略)

俺たちは十四歳で、音楽をやることで何を得られるか――格好良いと思われ、女子に好かれ、学校のソーシャル・ライフで主役になること――を即座に悟った。東海岸全体のあらゆる学校で、同じ現象が起こっていたはずだ。ティーンエイジャーズがヒットすると、必然的に誰もが歌った。誰もが、歌だけに専念した。

 重要なのはヴォーカル・アクト。プラターズサム・クックといった類の人々だ。バンドで演奏する者など、皆無だった――ジャズは古すぎる。俺たちもジャズを聴いてはいたし、ありがたいとも思っていたが、ジャズはきちんと理解できない時代遅れな音楽だった。実際、俺の住む地域で訓練を受けたミュージシャンとなると、俺もウェイン・ショーターと、ラリー・ヤング・ジュニアのふたりしか知らなかった。

(略)

[ウェイン]の名が売れてきたと評判になりはじめた頃ですら、その奇妙さは相変わらずだった。彼が練習する音がよく聞こえてきたが、俺たちには全く理解不能だった。あのホーンも、俺たちには破裂音にしか聞こえなかった。

(略)

ヴォーカル・グループの大半は、鳥、車、煙草から名前を取っていた。俺は煙草の銘柄を選んだが、喫煙者ではなかった。というのも八歳の頃、煙草を吸っているのを父親に見つかり、キャメルを一箱吸わされて以来、煙草が苦手になったのだ。(略)

それでも、危険かつ大人の香りがする煙草は、シンボルとして格好が良いと思った。パーラメントは人気ブランドだったため、俺たちはザ・パーラメンツとなった。

(略)

俺はスモーキー・ロビンソンのスタイルに、プーキー・ハドソンの趣を混ぜてみた。セカンド・リードだったファジーハスキンズは、ウィルソン・ピケットのように荒々しく、ブルージーな抑揚をつけて歌うソウルフルなテナー。カルヴィン・サイモンはデヴィッド・ラフィンのようで、グレイディ・トーマスは低中音を担当した。そして、最も低い声を持つレイ・デイヴィスは、ベース・バリトンだった。

(略)

五十年代後半、俺はコルピックスのソングライターとしてニューヨークに出入りするようにはなった。

(略)

 俺は自分の書いている曲に注意を払っていたが、他の人々が書く曲にも気を配っていた。また、メロディーや歌詞だけでなく、曲の売り込み方法にも興味をそそられていた。

(略)

 フィル・スペクターを例に挙げてみよう。彼は、ビルボードやキャッシュボックスといった音楽誌で、全面広告枠を購入するという手法を取った。一ページあたり二千ドルはしただろう。当時としては大金だ。(略)

俺を仰天させたのは、買い取ったページの使い方だった。彼はページの真ん中に小さな点を置いただけで、あとは空白のまま残したのだ。第一週目は、小さな点と、下部に自身のフィレス・レコードのロゴを配しただけだった。翌週には、点が大きくなり、その翌週には、さらに点が大きくなった。まるで世界で最も遅いアニメのように、同じ時間、同じ場所に登場した点は、最終的にはフィルがリリースする新しいレコードの絵柄となった。この手法を使うには、先見の明と資金力、そして大きな自信と創造力、さらには度胸が必要だ。俺にとって、マーケティング・コンセプトは、音楽そのものと肩を並べるほどに重要だった。

(略)

音楽に対する人々の反応を理解するという点に限れば、もうひとつ俺に大きな影響を与えたのが、音楽とダンスとしてのマンボだった。五十年代、マンボは俺たちのディスコのようなものだった。誰もがお洒落をし、スーツを着て、マンボ・シーンへと繰り出した。現在、テレビで流行っているダンス・コンテストのように、一般人がダンスフロアで実力を発揮すると、一躍有名人になった。マンボは、世界の共通言語だった。マンボは、ギャングの喧嘩すら止めた。踊りの上手い美女は、ギャングの境界を越えて、ダンス・パートナーを見つけることができた。

(略)

実のところ、未だ叶えられていない俺の野望のひとつは、ラテン音楽の巨匠、ティト・プエンテの名曲〈Coco Seco〉をレコーディングすることである。(略)原曲を忠実にカバーし、大声で歌い上げるつもりだ。

 街を観察し、あらゆる音楽を聴き、ブリル・ビルディングに通う。これが、俺にとっての大学教育だった。六十年代前半のある時期、陸軍から戻り、ヒット曲を探していたエルヴィスが、新曲を選びにやってくるという噂が流れた。(略)

[落ちぶれていたオーティス・ブラックウェルが一番手で〈Return to Sender〉をプレゼンすると]他のソングライティング・チームは全て、各々のファイルを閉じて帰宅した。

 他の人々が皆、作った曲を引っ込めざるをえない曲を作る。俺はこの考えを気に入った。また、俺はデトロイトにあるモータウンの動向にも大いに注目していた。こうして俺は、頭の中でシンガーからソングライターへと転向した。五十年代後半から六十年代前半まで、他人に曲を書いたり、自分のシングルをリリースしようと奮闘したり、曲作りの技術を学んだりと、俺はできる限りのことをやっていた。

(略)

もう少しというところでいつも、俺たちは成功を逃していた。六十年代前半に大ヒットを出していたら、どうなっていただろう?俺は時々考える。

フラフープ工場、バーバーショップ

情熱で金は稼げなかった。とりわけ、俺は養う家族のいた身だ。(略)自分は今、成功と失敗の分かれ道にいる。そう感じていたものの、無一文も同然だった。靴に穴が開いているどころか、靴の穴に穴が開いているぐらいの困窮ぶりだった。そんな時、フラフープ工場が街にやってきた。一九五九年のある日、リチャード・ナーとアーサー・メリンというカリフォルニア出身の男ふたりは、あるアイデアを思いついた(正確には、ふたりだけではないのだが)。彼らはワムオー社の創立者で、四十年代後半に設立された同社は、トリネコの木からスリングショット(パチンコ)を作っていた。社名は、パチンコ玉がターゲットに命中する音に由来している。約十年後、スリングショットでは立ち行かなくなり、同社は新製品を探しはじめた。

ある夜、ディナー・パーティで、オーストラリア出身の男が(略)オーストラリアの遊びの話をした。子どもたちが竹製の輪を腰でグルグル回して運動するというものだ。ワムオー社のふたりは、これならアメリカの子どもたちにも流行るかもしれないと(略)明るい色で彩られた大きなフラフープの製造方法をすぐさま開発した。

(略)

爆発的な人気を博した。四百万ものフラフープが、四カ月で売れた。(略)

こうして一九五九年、ほぼ一夜にして、ニュージャージー州の俺の自宅近くに工場が建てられた。これより少し前、俺はアウトローズというギャングにいた――ここでいう「ギャング」とは、一緒につるむ男の集まりを意味するにすぎない――そして俺たちは皆、フラフープ工場へ行って仕事を得た。(略)

幸運にも、アウトローズはフラフープを手早く製造する方法を発見した。六歳から八歳ぐらいの子どもたちなら、フラフープの製造工程を楽しむだろうと読み、彼らを取り込んだのだ。フラフープは、長いプラスチックの一片から作り出された。プラスチックの両端を持ち、それを真ん中で合わせたら、フラフープの出来上がり!子どもたちはフラフープ作りを大いに楽しんだため、アウトローズはタイムカードを押したら、仕事は子どもたちに任せ、後で戻ってくるだけだった。あまりにも多くの子どもたちが工場で作業したため、製造過剰になり、俺たちは製造ペースに対応するため、二番目の倉庫を借りる必要に駆られたほどだ。その時、組合が俺たちのやっていることを嗅ぎつけ、俺たちの「子ども十字軍」を閉鎖しにやってきた。しかし、俺たちは組合も追い出した。規制など御免だった。年かさの組合員が数人、フラフープをホチキスで留める作業のために残ったが、これは子どもには危険な作業だと判断してのことで、それ以外は、アウトローズの子どもフラフープ工場は魔法のように功を奏した。

(略)

じきにワムオー社は、ドイツのフランクフルトに工場を移転し、俺はまた職にあぶれた。

(略)

バーバーショップでの仕事だ。(略)床を掃き、店主のために店の戸締りをし、ちょっとした商売を学ぶといった地味なものだ。(略)

俺はいくつかのヘアスタイルを得意としていた。そのうちのひとつがクオ・ヴァディス――サイドは短く刈り込み、トップを高くする、きりっと引き締まった髪型だ。

(略)

バーバーショップで働きはじめてまもなく、ミスター・ホワイトが死んだ。俺は一番多くの顧客を抱えていたため、店を引き継いだ。他の床屋は椅子を使う場所代を俺に支払い、彼らが一ドル稼ぐたびに、俺はその中から二十五セントを徴収した。俺は店をシルク・パレスと改名すると、カーテンを使って優雅な雰囲気を添え、洗練された店にした。バーバーショップは繁盛し、椅子は常に埋まり、棚には商品が取り揃えられた。

(略)

当時、ブラック・ヘアの中ではストレートが流行していたため、俺たちはストレート・パーマを多く手がけていた。 シンガーからピンプ、牧師に至るまで、ストレート・パーマをかけたがった。

ドラッグ、偽札120万ドル

 五十年代半ば、ドラッグはそこまで流行っていなかった。もちろん、マリファナは常に人気だったが、五十年代が終わる頃、大きな変化が起こった。ドラッグの種類が変わったのだ。 変化は、ギャングの没落後に起こった。これに伴い、路上での凶悪犯罪が急増した――殴り合いだけではない。特に仲の良かった俺の友人は、ショットガンで殺されてしまった。ギャング時代が終わる頃、ヘロインが登場した。ヘロインは、瞬く間に流行した。俺の妻の兄弟ふたりはヘヴィーウェイト級ボクサーで、どちらもヘロインで刑務所に送られた。ヘロインは、とりわけ若年層に蔓延した。ダイナーや校庭、映画館に入れば、 ヘロインをやっている者たちを目にした。地元の陸上チームは、世界屈指の速さを誇ったが、酷い有様だった。リレー選手のうち二、三人がヘロインをやっており、競技前の準備中に、ひざまずいてハイになっていたのだ。誰かが大きな声をかけなけれいば、立ち上がらないほどだった。七十代の老人も、ティーンエイジャーも、ヘロインをやっていた。

(略)

信じられないほどの蔓延ぶりだった。俺たちは、「昨日は誰が死んだ?」と訊いて、人々を苛立たせていた。この問いが、朝の挨拶だったのだ。

 ヘロインをやっていない人々ですら、いかにもヘロインをやっているといった表情を練習していた。(略)

ハイに振る舞うことが、粋だとされていたため、ヘロインをやっていようがいまいが、誰もがヘロインのやり方を知っていた。ヘロイン中毒者は、寝ている時でも、起きている振りをする。皆がそれを真似していた。

(略)

 ある日、俺が客の髪を仕上げていると、ジャージー・シティから来た痩せっぽちのホワイト・キッズふたりが店に入ってきた。(略)

ふたりは、怯えた調子で少し世間話をすると、カウンターに箱を置き、中身を見せた。道理で怯えていたわけだ。箱の中には、二十ドルの偽札が、百二十万ドルほど入っていた。(略)

俺たちは彼らの話を聞くと、偽札全てを二千ドルで買い取った。(略)

 紙幣は明るい緑のインクで印刷されたピン札だった。使い古した風情を出そうと、俺たちは札束をコーヒーに浸した。その後は、札束を平らにならし、バーバーショップの裏の壁に貼りつけた。(略)

実際に、この偽札は流通した。俺たちは地元で、そして旅先で偽札を使った。俺は、三千ドルもする新しい椅子を床屋に備えつけた。ニューヨークのレコーディング・スタジオ代も、この札で賄った。ミュージシャンには偽札だと告げながら、二百ドルの代わりに千ドルを支払った。彼らは気にも留めない様子だった。連邦政府紙幣に対する信頼は絶大なのだ。たとえそれが本物でなくても。

 この頃、街ではドラッグがらみの大量逮捕が行われていた。(略)

[サム]は、店に入り浸っては、皆と楽しくやっていた常連だった。(略)

ある朝、五時半頃だろうか、俺たちは店内で、偽札をコーヒーに浸し、くしゃくしゃに丸め、平らにして干すという一連の作業をしていた。するとそこに、州警察の制服を着たサムが現れた。(略)彼は、覆面警官として任務を行っていたのだ。彼はその日、店に留まると、三十人ほどをドラッグ使用のかどで逮捕した。(略)

彼は俺たちには甘かった。というのも、俺たちが近所の子どもたちにしていたことを認めていたからだ。俺たちは、子どもたちの好きなように音楽を聴かせ、彼らに安全な場所を提供していた。サムは床屋全員を見回したが、壁に貼りつけてある偽札を見上げることはなかった。しかし、見上げまいとするその姿勢は逆に、どの眼差しよりも緊張感に溢れていた。「賢者へ一言」と彼は言った。「この界隈で、怪しい金が出回っていると聞いた。俺がその金について何か知っている人物だったとしたら、その金を処分するだろうな」。そして彼は、帽子を取って挨拶し、出て行った。その瞬間、俺は関係者に電話をかけ、金を処分しろと命じた。「こっちには持ってくるなよ。もう要らないからな」。残金はたくさんあった。二十万ドルぐらいだろうか。俺たちは、いわゆる再販経路を通じて、その金を処分した。

 それから二、三年経った頃だろうか。新聞を読んでいると、通貨偽造の罪で刑務所に入っていた老人の記事を見つけた。その老人は、孫たちがジャージー・シティで印刷版と大量の偽札を見つけ、それを持ち去ったと話していた。

スモーキー・ロビンソンの凄さ

 五十年代が終わる頃、ドゥワップを愛する者たちは皆、ドゥワップの衰退を察知していた。ドゥワップが消えていく様を見るのは悲しかったが、同時に楽しみな気分にもなっていた。俺たちは、次なる大ブームを待ち構えていたのだ。

(略)

 モータウンは、他のレーベルとは全く違っていた。社長は、ベリー・ゴーディ

(略)

モータウンの出す曲全てに俺は魅了された。しかし、レーベルをさらなる高みへと引き上げたのは、スモーキー・ロビンソンだ。(略)

 スモーキーに対して俺が抱いていた感情は、愛を超えたものだった。俺は、彼を研究対象としたのだ。彼は化け物のようなソングライター、当代随一のソングライターだった。彼は、フックや言葉遊びを山と用意していたが、どういうわけか一曲の中で全ての帳尻を合わせることができた。彼は、途轍もないシンガーでもあった。そして、途轍もないグループを持っていた。モータウン初期、ミラクルズは誰をも魅了した。

(略)

俺を虜にしたのは、多彩なアーティストとの仕事ぶりである。彼は、しかるべき曲を提供し、特定の方向へとイメージ作りをすることで、すでに地位を確立したグループをさらにレヴェルアップすることができた。スモーキーは、変幻自在の男、魔術師だった。彼は、他のアーティストが必要とするものを見極め、それを与え、後ろに控えると、自身のヴィジョンが実現する様を眺めていたのだ。

(略)

スモーキーがテンプスを手がけると、グループは一段レヴェルアップした。スモーキーが彼らに〈My Girl〉を提供すると、たちまちテンプスは首位を独走した。(略)

次にスモーキーはマーヴィン・ゲイと組むと、マーヴィンでも同じことをやってのけた。スモーキーには、並外れた能力が備わっていた。他人の芸術性を見定めると、そこを集中して強化し、アーティストが独力では発揮しきれていなかった芸術性を開花させるという能力だ。これは、俺が学んだ教訓の中でも特に大切なことだっった。また、もうひとつ重要な教訓となったのは、曲を書いている時、ひとつの感情だけに囚われてはいけない、というものだ。彼女に別れを告げられて傷ついた、この世界に失望しているなど、自分の感情を告白することだけを目的としてはいけない。(略)

自分の中にある感情の全てを表現したら、様々な文脈でこうした感情を正確に表現できるシンガーやミュージシャンを複数見つける。どんな時でも、思考や感情はいくらでも浮かんでくる。こうした思考や感情の全てを世に出すことが、ソングライティングの目的だ。スモーキー・ロビンソンは、それを俺に教えてくれた。

デトロイトのピンプ文化

デトロイトを理解できるようになると、俺はデトロイトに対し、ニュージャージーに次ぐ第二の故郷のような思いを抱きはじめた。だからといって、カルチャー・ショックがなかったわけではない。かなり大きなショックもあった。俺は中西部で、ピンプ文化に遭遇するようにでなった。東海岸でもピンプの姿は目にしていたが、ニュージャージーでは暗黙の存在だった。ピンプは、独自の流儀、さらにはある種の威厳を持ち、独自の生き方をしていた――ずっと後のことになるが、俺たちはサー・ノウズというキャラクターを創った時初めて、ニューヨーカーのピンプ文化に対する考えを知った。しかし、デトロイトのピンプ文化は生々しいものだった。少女たちは十二歳でピンプを選ぶか、もしくはピンプに選ばれた。逃れるチャンスがほとんどないようなファーム・システムがあり、売春は大々的で、えげつなかった。モータウンと自動車メーカーを擁していたデトロイト。野暮と洗練が奇妙に混在していたため、そのスタイルは半歩遅れていた。デトロイトでは、皆が髪をプロセスし、ストレートにしていたが、しっかりとセットされてはいなかった。ヘイスティングス・ストリートを流すピンプが乗っていたのは、デュース・アンド・ア・クオーター (225)――これは、ビューイック・エレクトラ・225のことで、この名前は、車全体の長さが二百二十五インチ(約五・七メートル)だったことに由来している。デトロイトでは最高級とされていた車だが、キャデラック・エルドラドが最低条件とされていたニューヨークなら、一笑に付されていただろう。そして、服装も野暮だった。デトロイトのピンプは、既製のスーツを着ていたが、ニューヨークでは、ピンプ稼業に手を染めるなら、既製のスーツなど買ってはいられない。東海岸では、小学校の頃から服をオーダーメイドし、そのお下がりを年少者にあげていたのだ。しかし、デトロイトは既製服。モータウンのアーティストですら、既製服を買っていた。

 それでも、モータウンのグループが野暮だったというわけではない。一番ルックスが良く、お洒落だったのはフォー・トップ スだ。彼らは、既製服を着るというデトロイトのライフスタイルの中で、異彩を放っていた。デトロイト以外の土地に幾度となく行っていたためだ。

(略)

[63年にデトロイトに]帰ってきた時には、すっかり洗練されていた。(略)終演後も綺麗な別のスーツに着替えない限り、会場を出ようとしないタイプの男たちだった。ドアの外で、女性が六人待っていようが、彼らは気にしなかった。(略)

ダイナ・ワシントンとラスヴェガス・ツアーを行い、そのスタイルでリスペクトされた。

サム・クック

 当時の音楽シーンは、モータウンの独壇場だった。俺は、モータウンに畏怖の念を抱いていたのが、モータウンとは並走していた――つまり、同じトラックでは走っていなかった。そして年を追うごとに、俺たちとの違い、そして距離はより明確になっていった。また、俺には別の生活もあった。地元ニュージャージーの シルク・パレスだ。店の経営は順調で、繁盛していた。アーニー、ウルフギャング、グライムズをはじめとする床屋たちは、俺がいない間、店を守っていた。

(略)

[店にあった]ジュークボックスのおかげで、俺たちはあらゆる地域のR&Bシーン、ソウル・シーンを聴くことができた。(略)フィリー・サウンドもあれば、シカゴにはオリオールズ、デルズ、デュケイズがいた。注意深く耳を傾け、ラベルに載っているライターやプロデューサーのクレジットを読んでいれば、セントルイス出身のグループと、クリーヴランド出身のグループの区別をつけられるようになった。

 移動中でも、俺は音楽にどっぷり浸かっていた。(略)俺は毎日バスで仕事に通っていた。バスにラジオがついていることもあったが、ラジオがない時でも、バスが街を走っていれば、家や店の軒街先から大音量でラジオが聞こえてきた。毎日、俺はアーバン・ネットワークを聴いていたというわけだ。

(略)

あらゆる種類の音楽が、俺たちに流れてきた。(略)もちろん、俺たちの嗜好はソウルに根差していたが、ソウルとは一度に多くのことを意味した。俺たちは、当時王位に君臨していたバート・バカラックについても熟知していた。彼が、同じ地元出身のディオンヌ・ワーウィックと仕事していたからだ。顔見知りがたちまちビッグになる姿を見るのは、心温まるものだった。俺たちはまた、カーティス・メイフィールドについても熟知していた。彼はまるで、ひとりモータウンといった趣だった――インプレッションズで見事なゴスペル・サウンドを作り、自身のソングライティングに対しても、極めて強い意識を持っていた。

(略)

 しかし、少なくともしばらくの間、最大のスターだったのは、サム・クックだ。彼は俺のバーバーショップに一、二回来たことがある。実物の彼はクールなピンプ風情で、とにかく洗練されており、静かな自信を湛えていた。もちろん、彼は二枚目だったため、女性からも大いにモテていたし、自分のやることについて、全てを掌握しているようだった。俺は彼のビジネスセンスに敬服していた。サムはあらゆる意味で、先駆者だった。クロスオーヴァー・ヒットを出し、ソングライティングを自ら仕切り、SARという自身のレーベルを興してヴァレンティノズやシムズ・ツインズといったグループを売り込んでいた。(略)

[彼の死について]今でも腑に落ちない。あの頃のサムは、アーティストとして、ビジネスマンとして、大きなことを成し遂げようとする一歩手前だった。 もしかすると、それを阻みたい人々がいたのかもしれない。俺が確実に知っているのは、バーバーショップにいた俺たちが受けた衝撃の大きさだ。あらゆる場所にいた音楽ファンが、大きな衝撃を受けていただろう。俺たちは一日中、呆然としていた。その一年前に起こったジョン ・F・ケネディの暗殺と似ていた。

ディラン、ビートルズストーンズ、ジミー・ミラー

 世界が変わっていた。(略)新世代の白人ロックンローラーが台頭しはじめていた。ヒルビリー・ミュージックをロカビリーへ更新していた五十年代的な意味では、彼らはロックンローラーではなかった。六十年代のロックンローラーは、フォーク、ブリティッシュ・ブルース・ロック、クラシックの素養を持ったミュージシャンなど、多方向からやってきたのだ。ボブ・ディランを例に挙げてみよう。最初は彼の歌声を好きになれなかった。しかし、彼がキャラクターを作り上げており、自由に何かをしようとしていることは、即座にわかったため、その意味では彼の声を気に入った。A地点からスタートしても、B地点以外の場所に行けるというのは、若いアーティストにとって開放的な考えだった。

(略)

[ビートルズ]はチャック・ベリーサウンドをよりメインストリーム向けにしており、ある意味ではビーチ・ボーイズのようだった。しかし彼らは、疑う余地のないソングライティングのスキルを持っていた。ビートルズで俺が最も気に入ったのは、そのファッションでも絶叫するファンでもなく、彼らがアメリカのリズム・アンド・ブルースに大きな敬意を持っていたという事実だ。俺は、この部分で大半のイギリスのグループを正当だと判断した。

(略)

もうひとつの人気バンドは、いうまでもなくローリング・ストーンズだ。彼らはアメリカのブルースを深く愛していたが、俺には当初、それがわからず、痩せこけたイギリスの若者が、ジェィムズ・ブラウンの物真似をしているようにしか見えなかった。しかしもちろん、その印象は後に覆され、俺は意見を変えた。海の向こうからやってきたイギリスのグループが、ブラック・アメリカンの音楽を心から愛し、畏敬の念と不遜さを持ってブラック・アメリカンの音楽を扱う過程で、新しい音楽を作り出している。俺はほどなくしてそれに気づいた。それから数年後、ラジオでエリック・クラプトンロバート・ジョンソンについて話しているのを聞き、俺は恥ずかしくなった。〈Crossroads Blues〉や〈Sweet Home Chicago〉など、彼の楽曲の大半を知っていたが、彼の生涯はおろか、名前すら知らなかったのだ。アメリカにいる黒人男が、何千マイルも離れたところにいる白人男からブルース・ミュージックを学ぶなんて、ありえないだろう?しかし、当時はそんな状況だった。俺たちは、建設的にお互いの音楽を吸収していた――彼らが俺たちの音楽を取り込み、それをリメイクし、俺たちに返す。そして俺たちも、彼らの音楽を取り込み、それをリメイクし、彼らに返していた。ブリティッシュ・ロックの初期段階に深く関わっていた人物のひとりが、この原則の生きた手本だ。彼の名前はジミー・ミラー。ブルックリン出身で、俺がニューヨークで曲を書きはじめた当初、短期間ではあったが彼がライティング・パートナーだった。ジミーと俺は、一九五九年にふたりでレコードをプロデュースしたが、(略)[レーベルは、俺たちをクレジットに入れなかった]傷ついたジミーはロンドンへと渡ると、〈Gimme Some Lovin'〉や〈I'm a Man〉など、スペンサー・ディヴィスのごく初期のレコードに携わった。彼はスティーヴ・ウィンウッドとともにトラフィックへと移り、最初の二枚のアルバムをプロデュースした。俺は彼のキャリアを追い、六十年代後半、彼がローリング・ストーンズとも仕事をしていることを知って驚いた。

(略)

〈Honkey Tonk Women〉の冒頭でカウベルを鳴らしているのも彼だ。ジミーがストーンズと仕事をしていることを知り、俺は嬉しく思ったが、ストーンズに対する俺の印象も変わった。これで間違いなく、ストーンズが自分たちの音楽をアメリカのサウンドに根差そうとしていたことがわかったのだ。

ファンクの初期型、〈Testify〉のヒット

俺たちは、メロディーに厳しく、一糸乱れぬフックを持ったモータウンの伝統を受け継いでいたが、こうした音楽がロックン・ロールと交わると、そのフィーリングを延々と長引かせることが可能であることに気づい"た。(略)

これがファンクの初期型だった。そして俺にとって、レイ・チャールズは最もファンキーな人物のひとりだった。というのも、彼はどんな曲をどれだけ長く演奏しても、パワーを落とすことなく曲を魅力的に仕上げたからだ。翌日、俺はコーラスに合わせて歌詞を書いた。「友人、詮索好きな友人たちは/俺に何が起こったのかと問いただす/変化、変化が起こっているのさ/それは明らかなこと」。(略)

ヴァースの作り方に関して、俺に大きな影響を与えたのはフォー・トップスだ。〈Standing in the Shadows〉や〈Reach Out〉といった曲は、ボブ・ディランのソウル的模倣といった類のものだった――やや一本調子にヴォーカルを引き延ばすヴァースから、大きなコーラスで盛り上がりを見せるのだ。

(略)

[〈Testify〉がヒット]

 突如として、全てが一変した。(略)俺たちはもはや、成功を目指して足掻くヴェテラン・ドゥワップ・バンドではなかった。アメリカ最新のヒットメーカーとなったのだ。あっという間に曲がヒットしたため、俺たちはその事実を理解し、消化する時間すらなかった。

次回に続く。

ハイパーソニック・エフェクト 大橋力

オーディオの世界は凡庸な一般人にはアレな部分があって、この本にもそんな部分が若干なくもないと言えなくもないのかもしれないとぼかして書いても怒られるのかもしれない、と長々前置きをつけたほうがいいかなという不安もありつつ、熱帯雨林の環境音は騒音規制値を超える音圧でも心地よい、とか、脳は何らかの情報入力を求めている、みたいな一般人にもわかる話も。

イトゥリ森で出会った音環境

[地上最大規模の熱帯雨林]イトゥリ森で出会った音環境は、想像を絶する衝撃的、驚異的なものでした。 特に強調したいのは、その音世界の独自性です。(略)

あくまでも美しく快く豊かでありながら、 透明感や爽やかさに欠けることがありません。 しかもそれは時々刻々、劇的な変容をくり返します。

(略)

それは「音がなく静かな音環境であることがよい音環境の条件だ」といった思想が、 自然に対する知識の空白(略)からくる蒙昧妄断に他ならないことを告げるものでした。 こうして私は、「人類の棲むべき適切な音環境とは、美しく快く豊かな音世界でなければならない」ということを確信したのです。

 日本に帰って再び接した無音に近い筑波の音環境は、もうひとつの衝撃を私にもたらすものでした。 それは、イトゥリ森の音を知ってしまった耳にはほとんど不気味で、空白化した音環境が [人を死へと誘う筑波病へのメッセージ]になりうることを実感させずにはおきません。

(略)

この衝撃は、 環境学者としての私に、音環境を、ひいては情報環境を自己の守備範囲から決して外してはならない、と決意させて余りあるものでした。 同時に、 これらの体験は、[情報環境を構成する音環境のなかの〈音のビタミン〉のようなものの欠乏による情報の栄養失調が筑波病を導いているのではないか]という作業仮説を直ちに導くものとなりました。

 以上のような経緯によって、イトゥリ森から帰ったのち、 私は、情報環境の大きな柱のひとつとして〈音環境〉 の概念を改めて本格的に構成し、そこから新たに出発することになりました。 さらに、その際天啓のように顕れた問題意識として、熱帯雨林の環境音や民族音楽の音などに特徴的な、 [非言語性脳機能に親和性の高い音] というものの存在を視野からはずさないことに注意しました。

 山城祥二と大橋力

 まず、この生命現象の実質的な第一発見者、音楽家 山城祥二とその音を巡る感覚・思考・行動に触れなければなりません。山城祥二は、本書の著者大橋 力の音楽集団〈芸能山城組〉を主宰する音楽家としての名義です。そのレコード作品創りの過程のなかに、まったく未知の現象だったハイパーソニック・エフェクトとの遭遇が起こっています。以下は、山城の一人称的な主観的体験と大橋の三人称的な客観的思考・行動との交錯した記述となります。

 専門的な音楽教育をまったく受けていないアマチュアの合唱指揮者(略)だった山城は、世界諸民族の音楽に向かって平等に開かれ、西欧音楽はそのワン・オブ・ゼムにすぎないものと位置づける立場に立っていました。この姿勢は、昭和期後半の日本の音楽界に大きな影響を及ぼした民族音楽学小泉文夫東京藝術大学教授、そして中村とうようミュージックマガジン編集長(略)の注目と支援を受けるところとなりました。小泉教授には世界諸民族の音楽とその背景にある文化や社会を知るというインプットの面を、中村編集長には芸能山城組の音楽を記録したレコードを世に出すというアウトプットの面を中心に、それぞれ直接的、具体的な非常に価値ある助言と支援を受けています。

〈ハイパーソニック・ネガティブエフェクト〉

  以上を総合して観ると、ガムラン音に含まれる可聴域上限 16kHzをこえる高周波成分は、その[周波数に応じて連続的に]、かつ[正負にわたって]、被験者たちの基幹脳活性指標を変化させます。そのとき、32kHz から 40kHz までの帯域を境に、それより低い 16kHz までの周波数帯域成分を共存させると、可聴音(HCS)だけ呈示したときよりも基幹脳活性指標は低下し、この帯域をこえる 40kHz 以上の高い周波数帯域成分を共存させると、基幹脳活性指標は高まります。

(略)

 以上により、16kHzから 32 kHz付近までの HFC を含む音が呈示されたときに観察される基幹脳活性の低下とそれに関連する諸現象を〈ハイパーソニック・ネガティブエフェクト〉と呼ぶことにします。また、このとき基幹脳活性を低下に導く高周波成分を〈ハイパーソニック・ネガティブファクター〉と呼びます。さらに、これまで、実際には 40kHz以上の超高周波が呈示音中に含まれたことによって発現し、〈ハイパーソニック・エフェクト〉と総称していた現象は、必要に応じて〈ハイパーソニック・ポジティブエフェクト〉と呼んで、前者と区別します。なお、その必要がない多くの場合、これまで同様、それを単に〈ハイパーソニック・エフェクト〉と呼ぶことにします。

脳は何らかの情報入力を求めている

 私たちの開発した〈最大エントロピースペクトルアレイ法〉(MESAM)は、これまでの音響学が使ってきたさまざまな音響分析手法では鮮明に捉えることができなかった、ミクロな時間領域で変容するスペクトルそれ自体の連続性をもった高精度の描写を可能にしただけでなく、そのアレイ表示を可能ならしめたことによって、音がダイナミックに変容するありさまの全体像を認識しやすい状態で具象的に描き出すことを実現しました。

(略)

 この手法を使って〈楽器〉という人工物の世界を眺めてみましょう。たとえば、西欧近代の合理性を体現し「楽器の王者」と讃えられる〈ピアノ〉の響きを調べてみます。するとそれが、意外にもハイパーソニック・エフェクトの発現に必須の 40kHz 以上の超高周波を識別できるレベルで含んでいないという事実に出合います。

(略)

 これに対して、たとえば武満 徹 作曲の『ノヴェンバー・ステップス第一番』における横山勝也の名演によって世界の認識が改まるまで、日本でも外国でも楽器として必ずしも高い評価を与えられているとはいえなかった〈普化尺八〉の音はどうでしょうか。まずその豊富な超高周波の存在が驚異的です。ピアノの高周波が人類の可聴域上限 20kHz に達していないのに対して、尺八の超高周波はそれを10倍以上も上廻る 200kHz に達しています。そしてその三次元スペクトルアレイに現れた音構造の変容は、ハイパーソニック・エフェクトの発現を可能にする 40kHz 以上の帯域に十分及んでいるうえに、文字どおり波乱万丈に変容する高度に複雑な姿を視せます。MESAM による分析が実現する以前には想像もできなかったものです。こうして浮かびあがらせることのできた普化尺八のスペクトルアレイは、森羅万象をたったひとつの音で表現することを志す「一音成仏」というその表現理念が、虚構とはいえないことを教えます。

(略)

 ピアノと尺八という対照的なこの二つの楽器の音のスペクトルアレイの背後には、音楽をほとんど離散的・定常的な音の粒子の配列・組合せとして、つまり楽譜と同じ理念に基づいて捉えている西欧音楽と、それを主にミクロな時間領域における音の変容の側から捉えている日本音楽とのきわめて鮮明な対比が顕れています。

(略)

なお、尺八によく似た特徴をもつ音として、バリ島の〈ガムラン音楽〉の存在が注目されます。

 目を転じて、私たちが生存する[環境の中の音]を観てみましょう。この地上でもっとも複雑な生態系であろう、アフリカや東南アジアの熱帯雨林の環境音は、豊かな超高周波の存在とそれらがミクロな時間領域にみせる複雑な変容とが、尺八の音やガムランの音との共通性を感じさせます。こうした熱帯雨林の音に豊かな高複雑性超高周波を与えているその音源は何でしょうか。鳥たちの鳴き声、木々のざわめき、水音など、その音源の候補は多種多様なものが考えられます。そしてこれらの貢献も決して否定できません。しかし、それらと大きく違った熱帯雨林特有の決定的な超高周波音源となっているものが存在します。それは、[虫の音]です。

(略)

都市の人工物の発する音の特徴は、ハイパーソニック・ファクターに欠けるという点でピアノの音と共通した性質をもっています。

(略)

たとえば騒音規制をみると、〈音量・音圧〉という一次元の量的指標で構成されたおどろくほど素朴な水準にあり、存在する音そのものの内容つまり「質」はまったく問われていません。そのため次のような問題が出てきます。たとえば熱帯雨林の環境音は、しばしば都市の居室に求められる35~45 dB という値をはるかにこえ規制値を大幅に上廻る 60dB 以上 70dB に迫るほどの値を示します。ところが、こうした音圧をもつ熱帯雨林の環境音は、その値とは裏腹に、途方もなく快適に、静寂感さえ漂わせて聴こえるのです。

(略)

 このような、環境からやってくる[あってはならないもの]から目を転じて、環境のなかの[なくてはならないもの]を観てみましょう。

(略)

 新たに浮上してきた[脳は何らかの情報入力を求めているかもしれない]という問題を考えるうえで、かつて一部の研究者によって行われた〈感覚遮断実験〉は、たいへん示唆に富んでいます。

(略)

このように五感から脳に入力される感覚情報を極端に制限すると、健常な若年被験者が数分のうちに幻覚妄想を覚えるようになり、数十分のうちに錯乱状態になったと報告されています。

 人間の脳はしばしばコンピューターにたとえられます。これによって、これまでのほとんどの人びとが、脳のベースラインは[感覚情報入力のないアイドリング状態]であり、何らかの情報が入力されたときに初めて脳が活動するという暗黙の前提に立ってきたといえるでしょう。

(略)

ところが、上記の感覚遮断実験の結果から観ると、人間の脳は、自覚しているか否かにかかわらず、常に五感から入力される感覚情報に対して受容応答し続ける状態にあり、もしもそれらの情報入力が高度に遮断されると、きわめて特殊な、あるいはきわめて異常な環境からの情報入力、〈ハイ・ストレッサー〉として検知されることになります。その状態は、もはや脳が正常に機能し得ない内容の応答、おそらくは〈自己解体性の応答〉をとる可能性が大きいことを示唆しています。

 いい換えれば、脳とは、ある種の情報入力がゼロだと破綻してしまう装置かもしれないのです。

「楽器」としてのカートリッジ

CDが規格通り 22.05 kHz 以上ではすこしの再生信号も出力しないのに対して、LPはそうした帯域にも明瞭な再生信号の存在を示し、しかもそれは、微弱ながら100 kHz をこえる勢いを見せています。

(略)

つまりLPは192 kHz サンプリングPCMハイレゾ並みの周波数応答をもった、極上ともいえるハイレゾリューション・メディアだったのです。

(略)

CDでは、記録された音声信号がほぼそのまま電気信号に変換されます。それに対して、LPではいくつものステップで、決して忠実性に沿わない修飾を受けます。ところがこうして起こる信号の変質は、再生音を著しく美化する場合があるのです。

(略)

カッティングやプレスという製造工程において、続いてレコードのカートリッジによるトレースという過程で、それらの修飾は無視できないレベルに達します。

(略)

こうした非線形性が、設計者の意識・無意識両面できわめて積極的に追求された結果物として、千差万別のノンリニアーな特性をもったカートリッジたちがいわば「楽器」として誕生してくるのです。

(略)

[レコードに刻まれた音溝によって演奏される小さな楽器]、それがカートリッジの正体なのです。それは、聴こえない超高周波はもとより[聴こえる音たち]にも著しい修飾の効果をもたらすことができ、たとえばピアノのように、超高周波をほとんど発生しない楽器音も、美しく装うことがあります。

 後に述べるマイクロフォンにも、[生演奏音によってダイアフラムを震わせる楽器]という性格があり、このプロセスで効果的な修飾が施されることがあります。しかしカートリッジにおける修飾は、それとは比較にならない驚くばかりのスケールに及んでいるのです。

 すこし具体的に観てみましょう。まず音溝信号として存在することができてもカートリッジの発電素子を取り付けたカンチレバーがそれに追随して動けないような不自然な波動は、信号として拾えず音になりません。これは、限度をこえて不自然な電気信号がマスター音源に含まれていた場合、CDだとそのまま拾ってしまうところ、うまく造られたカートリッジはそれを拾わない(実は拾えない)ことによって、不快感をやわらげて自然に近づけるという効果につながる可能性があります。そしてさらに決定的にカートリッジの魅力を高めるのが、振動系のもつ固有の振動特性です。しかもそれは、カンチレバーとコイルとダンパーなどで構成されるごく小さい1個の振動システムに集約されるため、そこに構成される響きは、善かれ悪しかれ、[ひとつのまとまった固有の音宇宙を構成する]、という注目すべき結果を導きます。こうした効果につながるミクロな部分の設計が大きく成功した場合、原信号の忠実な再生ではとうてい足元にも及ばない「天来の美音」が出現する可能性があります。それは往々にして、演奏の限界をこえて音楽の完成度を高め、作曲家や演奏者の随喜の涙をさそうケースさえありうるでしょう。

(略)

 もうひとつの魔力の泉は、システムの出口で電気信号を空気振動に変換するスピーカー、とりわけ超高周波帯域を担当するスーパートゥイーターです。この分野では、〈ゴトウユニット〉というブランドに象徴される、当時の(あるいは今も)音響学の専門家から観ると明らかにオーバースペックのホーン型スピーカーユニット、しかも常軌を逸したと思われるほどの性能と価格に達しいわば神格化しているそれらに対して、熱狂的な支持が形成されています。そのマニアックな状態に対して、「何の科学的根拠をもたないオカルト」などの批判も盛大に浴びせられましたが、ブームはゆるぎもしませんでした。

ハイレゾリューション・オーディオ

周知のとおり PCM方式では〈ナイキスト周波数〉の存在によって標本化周波数の1/2の周波数までしか伝送できません。そのため、96kHzサンプリングのフォーマットでは48kHzまでが伝送可能になります。ところが、第7章3節に詳しい検討結果を述べたように、16kHz から 32 kHz にかけての周波数帯域はハイパーソニック・ネガティブエフェクトを発生し、この面からマイナスの作用を現す危険性を否定できません。また、32 kHz から 40 kHzの帯域成分は正負どちらとも判定できず、96kHzサンプリングの規格下ではわずかに 40 kHz から 48 kHzにハイパーソニック・ポジティブエフェクトの発生が期待されれるものの、全体としては、32 kHz以下のネガティブエフェクトの勢力が著しいものとなっています。つまり、96kHz サンプリング条件下では、ハイパーソニック・(ポジティブ)エフェクトの顕著な発現は期待できません。このことから観るかぎり、96kHz というサンプリングレートは、ハイパーソニック・エフェクトの発現という視点からはプラスの評価を下しにくく、どちらかといえば回避すべきフォーマットとするのが妥当かもしれません。

 それに対して、比較的広く使われている 192 kHz/24 bit という規格は、ハイパーソニック・エフェクトを発現させる 40kHz 以上の帯域成分を 96kHz まで伝送でき、特に有効な 70 kHzから90 kHz 周辺の帯域成分がそこに含まれうるので、十分実用水準に達しています。もちろん、より高密度の規格であれば申し分ありません。

 もうひとつの流れは、DSD方式によるものです。この方式は(略)超高周波領域に良好な応答をもち音質的にも優れていることは確かなのですが、宿命的に付随する〈1 bit 量子化ノイズ〉(1 bit ノイズ)の影響をいかに克服するか、という問題を避けられません。

 1bit ノイズ(略)のエネルギーは決して無視できるものではなく、標本化周波数が相対的に低い 2.8 MHz サンプリングの SACD が実用化された初期の段階では、この聴こえない 1 bit ノイズが大量に共存したディスクからのデータをそのまま再生してしまうために、超高周波領域を担当する〈スーパートゥイーター〉に過大な入力が入り、焼き切れるという事故が頻発しました。そのため、SACD プレイヤーの再生回路にこれを防止する 35 kHz~60 kHz くらいのローパスフィルターが挿入され、結果的にハイパーソニック・エフェクトの発現に有効な 40kHz以上の超高周波成分も除かれてしまった一種のハイカット音が再生される状態が起こっています。

(略)

 ハイレゾ配信でDSD方式が真価を発揮できるのは、5.6 MHz 以上の標本化周波数規格をもつ場合です。5.6 MHz条件下でのDSD では、1 bit ノイズの影響は 100kHzくらいまでは軽少であり、しかも、実際の音源に含まれている超高周波成分と協調して音質を和らげてくれる場合もあり、そこに形成される独特の柔軟な再生音は、厳密さを身上とするスタジオエンジニアリングレベルではやや「甘い」と思われるのですが、コンシューマーユースとしては申し分ありません。

ハイパーソニックサウンドに対応できるマイク

たとえば、ナチス政権下のドイツに誕生した永い歴史と、クラシック音楽収録用マイクロフォンとしておそらく現在もっとも大きなシェアをもつ〈ノイマン社〉という存在があります。このメーカーのポリシーは、それを体現したと思われる U 87 という代表的なモデルのコンデンサーマイクロフォンから推察できます。それはひとことでいえば、西欧クラシック音楽の演奏音から欠陥を抑制し長所を強調して美しい音を録ってくれるというものです。

(略)

「弾き手」がどうであろうとも、マイクロフォン自らは美しく歌わなければならない]、というのがノイマン社のポリシーといえます。(略)

[U87は大きなダイアフラム]のもつ固有振動によって「美容整形」します。このラージダイアフラムの構造によって周波数応答は 16kHzくらいから低下してしまうので、ハイパーソニックサウンドを捕えるには不適です。このような性質によって、U87 は、不規則性、不安定性が瑕疵となりがちな西欧クラシック音楽の声楽や弦楽などを、実演奏よりも、場合によっては驚くほど美しく聴こえさせてくれるのです。それは、「生演奏よりもレコードの方が音がよい」などといわれるほどの絶対的といってよい効果を発揮することがあります。

 ところが、ヨハネス・ブラームスころまでの西欧音楽に対しては比類なく有効なノイマンのマイクは、イーゴリ・ストラビンスキーあたりから後の時代の楽曲では、とりわけ民族音楽、ロックミュージック、ニューエージミュージックなどの影響が無視できなくなってくるにつれて、そしてオーケストラとともに普化尺八や薩摩琵琶などの民族楽器が使われるに及んで、U87に象徴されるノイマンのマイクロフォンだけだとまったく物足りず、「生演奏でなければ全然だめ」といったことが起こりかねない気配が漂うようになりました。

 この空白を突くようにして現れたのが、ノイマン社と同じドイツ国籍の〈ショップス社〉のコンデンサーマイクロフォンです。ショップス社のサウンドポリシーは、ノイマン社と真逆といえるほど対照的なものです。(略)

〈スモールダイアフラム〉を標榜し、入力した音楽信号を色づけせずそのまま電気信号に変換する(略)ショップス社のマイクロフォンには、初登場した1970年代のモデルのなかにすでに、100 kHzくらいまでの応答をもつものが存在していたことが、当時の録音物を取り出し計測してみることで、今にしてわかります。

(略)

 超高周波に対して優れた応答を示す製品を提供しているその他のメーカーとして、計測用マイクロフォン製作で権威のあるメーカー、デンマークの〈ブリュエル・ケアー社)(B&K)から独立した〈ダーニッシュ・プロ・オーデイオ社〉(DPA)が注目されます。100 kHzまでの応答をもつ DPA 4007 をはじめ、ハイパーソニックサウンドに対応できる有力な製品を擁しています。

 ポリシーとしてハイパーソニック・エフェクトを意識し、超高周波への応答を追究しているメーカーは、これらの他に、同じくドイツの〈ゼンハイザー社〉(MKH 8000 シリーズ)や日本の〈三研マイクロホン社) (CO-100K)があります。これらの新機軸のモデルによく目を配って、ハイパーソニック・ファクターを取り逃がさないマイクロフォンを準備しなければなりません。

ウルトラディープ方式『ハイパーハイレゾ AKIRA 2016』

 現在流通しているハイレゾファイルは、黎明期にあっては当然のことですが、いわば玉石混淆の状態にあります。

(略) 

これらのデータをあらためて検討し、ハイパーソニック・ウルトラ処理のためにきわめて適切な周波数構造をもった天然の熱帯雨林環境音のひとつを見出すことができました。それはマレーシア領ボルネオ島のよく保全された熱帯雨林の絶好の地点で、私たちがオリジナルに開発した 5.6 MHz 可搬型 DSDレコーダーにより収録してきたもので、ミクロな時間領域にゆらぎをもつ超高周波を200kHzあたりまで1bitノイズの汚染を受けていない状態で確保している驚異的なものです。

 この環境音からハイパスフィルターを使って超高周波成分だけを取り出し、それを超高周波を喪ってしまったハイカットディジタルアーカイブの、マルチチャンネル音源の場合各チャンネルごとに図15.21 のようなシステムにより、VCA を使って可聴域音声信号の振幅に相関させた動的に変動するハイパーソニック・ファクターを生成し、これを上記の可聴域成分に補完してみたところ、驚くべき有効性が発揮されました。その音質は、CDの欠陥や限界がいわば 「跡形もなく」 消滅しているだけでなく、 生音のアナローグ録音を彷彿とさせるような、 あるいはそれに優越するようなリアリティーを顕し、まったく新しい魅力にあふれる音源に生まれ変わることが体験されたのです。音素材の各チャンネルごとに、ハイパーソニック・ネガティブエフェクトも考慮して吟味した超高周波を補完するこの新しい方法を、〈ハイパ一ソニック・ウルトラディープエンリッチメント〉 (ウルトラディープ方式、ウルトラディープ処理) と名付けました。

 この新しいウルトラディープ方式の導入を前提にして 『CD AKIRA』のステレオ48kHzサンプリングディジタル・マスターおよび 『DVD オーディオAKIRA 2002』 からの4.1サラウンド 96kHzサンプリングのディジタル・マスターを比較検討し、その結果に基づいて、 96kHzサンプリングの『DVDオーディオ AKIRA 2002』 のディジタル・マスターを主音源とし、 一部にCDマスターを同期させてミックスするかたちの新音源を造ってこれらをそれぞれハイパーソニック・ウルトラディープ処理に付したのち11.2MHzDSDレコーダーに記録し、 これを素材に『ハイパーハイレゾ AKIRA2016』を制作しました。

 これらの音声信号の処理に当たっては、ミクシングコンソールの性能が、きわめて重要な意味をもってきます。というのは、CD時代に入ってから機能的な絶頂期を迎えたスタジオ用アナローグ・コンソールの有力な機種たちには、フェーダーオートメーションをはじめとする最新技術の重装備化と引き換えに、量り知れないほど貴いものを喪っているかもしれないからです。

(略)

それらのコンソールでは、48kHz/16 bit PCMという規格のもとでは存在してもしなくても実質的に差はないものとなってしまう 24 kHz 以上の高周波を、トラブルの原因になりうるといった配慮から、あえてカットしてしまう、という対処を選択してしまったことです。

(略)

 この問題は、強力なハイパーソニック・エフェクトの発現を約束するウルトラディープ処理にとっては、その死命にかかわるほどの大事です。ところが、この点についてはひとつ、ほとんど奇蹟的な幸運がありました。それは、スタジオ用電子機器類のほとんど神格化された設計家ルパート・ニーヴの存在です。特に彼の造るアナローグ・ミクシングコンソールは、そのえもいわれぬ音の魅力によって世界中のミクシングエンジニアたちの垂涎の的になってきました。ところで、このニーヴには、少なくとも60kHzに及ぶ超高周波の存在が音に魅力を与える、という経験的信念があります。

(略)

私たちがこうしたニーヴのコンソールを使うことになったとき、そのことを知った彼は出荷直前の9098i コンソールを工場に引き戻し、64のインプットチャンネルすべてについて 200kHzまでの性能を実現するように再調整して送り出してくれました。

 (略)

このコンソールを中核にして、まず始めに、4.1 チャンネル DVD オーディオデータからサブウーファーチャンネルを除く4チャンネル分全体を、上に述べた特別な熱帯雨林の超高周波(ハイパーソニック・ファクター)を材料にして各チャンネルごとにウルトラディープ処理に付し可聴音に相関させて超高周波を補完したのち、11.2 MHz DSD フォーマットで記録しました。そうすると、そこには、現行の定義に従えば一応ハイレゾに分類される96kHzサンプリング PCM の『DVDオーディオ AKIRA 2002』の音源とはまったく次元の異なる、アナローグ的感覚のリアリティーあふれる音に激変した音が現れたのです。

(略)

 こうして完成した『ハイパーハイレゾ AKIRA 2016』の真価は、市場に出回っている世界中で歓迎され大成功した『CD AKIRA』と聴き較べるとよくわかります。冒頭の曲「金田」の「雷鳴」から、『ハイパーハイレゾ AKIRA2016』のもつ生音・生演奏を彷彿とさせるリアリティーに、衝撃を受けることになるでしょう。同時に、どこまでも透明な音場と音空間、スピーカーの外側まで拡がる個々の音源の定位感、高い解像力と両立した音のニュアンスの豊かさも魅力をいや増します。2曲目「クラウンとの闘い」に入り、この曲で強調されている〈AKIRA〉のメイン楽器のひとつジェゴグが登場すると、CDとの低音表現の大きな違いに驚きます。CDの低音はどちらかというと硬質かつ直線的な音色で「叩きつける」ように迫るのに対して、ウルトラディープ処理をほどこしたハイパーハイレゾファイルでは躍動感あふれる弾力たっぷりの重低音に包み込まれる、という同一録音とは思えないほどの違いが生じたのです。実は、理由がまだわからないのですが、ハイパーソニック・エフェクトが人間の音の感受性に及ぼす影響のひとつとして、おそらく誰でもすぐにわかるほど鮮明なのが、この低音の増強感なのです。曲がさらに進み、声明を主題にした「唱名」、能を主題にした「回想」に至ると、『ハイパーハイレゾ AKIRA』には CD ではほとんどあり得ない精神性の高く深い境地が確かに醸し出され、CD とはまったく次元の異なる音宇宙が拡がるのを否定できません。

 このようなもろもろの魅力に加えて、全盛期の LP レコードを思わせる耳あたりのよさが後押しして、『ハイパーハイレゾ AKIRA 2016』に「聴き始めたらもうやめられない」魔力のようなものをもたらしています。とりわけ、性能の確かな再生システムをお使いの多くの方々では、聴き進むにつれて「もっと音量を上げて聴きたい」という気分に駆られる可能性が高いことでしょう。実はこれこそ、ハイパーソニック・エフェクトの惹き起こす〈接近行動〉の現れなのです。

むすび 〈明晰判明知〉と〈暗黙知〉とを架橋する

このような限界をもった近現代科学の〈明晰判明知〉と、バリ島伝統の〈暗黙知〉 という互いに遠く隔たった知識構造、それらを架橋できるか否かに挑む「星」を背負ったのが、私たちのハイパーソニック・エフェクト研究なのかもしれません。

 この研究の端緒は、くり返し述べたように、同じアナローグ・マスターから制作した LPレコードと CD との音質が、その音楽の作曲者兼指揮者 山城祥二には互いに違って聴こえる、しかも LP の音の方が CD のそれに較べてより美しく快く感動的に聴こえて作曲意図を実現しているのに対して CD の再生音はそう聴こえてこない、という個人の主観に属する体験です。

(略)

 しかしこの「事件」は、近現代の事実上明晰判明知に限られてしまった明示知のプラットフォーム上にあるレコード産業界に発生したもので、その知識構造からすると、ハイパーソニック・エフェクトという現象は「理屈からいってありえないこと」であり、ゆえに「あってはならないこと」だったのです。さらにこのことは、CD という新しいメディアのテイクオフが至上命令になっていた業界の事情を背景に「言ってはならないこと」のカテゴリーに類別され、もしこのことを公にするならば公益に反する不健全な発言として裁かれる宿命を逃れることができません(このことは実際に起こってもいます)。

(略)

 このような窮地に立たされた山城を救出する行動に出たのが、同じ人体・人格を共有する科学者 大橋 力でした。音楽家 山城祥二と科学者 大橋 力とが同じ一人の人間だったという偶然が、この研究が現実に実行され成功を収めた最大の背景かもしれません。

 ここで大橋の採った戦略は、[生命現象全体のなかのいずこにかかわりをもつか皆目わからず客観化もたやすくできないであろう暗黙知の世界に直観的認識を残留させた状態]を確保しながら、いい換えれば、バリ島の村びとたちの脳機能体系にあるニスカラに近い立脚点、実際には、「理屈はどうであれ超高周波を含む音楽の方が美しく感動的だ」という山城の主観を一方ではそのまま保ちながら、他方では[言語性脳機能モジュールが働く記号分節性の明晰判明の知識構造を基準とした自然科学の世界へと問題を転位]させていきます。そしてこの世界のもつ精密・厳正な手続きにも並行して題材を入力する、さらに、こちらの過程では、デカルト的明晰判明のアプローチに徹する、というものです。