ベルリン音楽異聞 明石政紀

辺境ベルリン、ディー・テートリッヒェ・ドーリス

 ベルリンは東西陣営の辺境と化しただけではない。(略)自国の辺境ともなってしまった。たしかに街の東半分は、東ドイツの首都として、この田舎っぽく垢抜けないソ連衛星国の中心の体裁は一応保っていたが、西ドイツに属したもうひとつの街の片割れ、西ベルリンは、本土よりずっと東に位置していたため、周囲を敵対する東側の領土に囲まれた飛び地「陸の孤島」と化し、一歩街の外に出るとそこは外国、それも敵の巣という文字通りの辺境となってしまったのである。こうして二百万もの人間が毎日寝起きする西ベルリンは、全ドイツ最大の都市でありながら、地理的にも政治的にも社会的にも巨大な辺境と化したのである。

 西ベルリンが辺境と化したことで、かつてこの中心の地に集積していた権力も金もつぎつぎに西ドイツ本土に移っていった。中央政府ライン河畔の穏健な大学町ボンに移り、大空港と大銀行の本拠はマイン河畔の見本市の街フランクフルトとなり、各種大企業もベルリンからおさらばしていった。この機に乗じて、かねがね北独プロイセンの都ベルリンを目の上のたんこぶのように嫌っていた南独バイエルンの都ミュンヘンは、自ら西ドイツの「影の首都」を名乗るようになった。

 権力も金もないところには、人は集まらない。とくに働き盛りの人間は集まらない。だが権力も金もないところだからこそ、西ドイツ各地から集まってきた人間たちがいた。若者たちである。その最大の理由は、西独本土で施行されていた徴兵制が、連合国の軍政下に置かれていた特別行政区の西べルリンには適用されなかったということだ。(略)軍事を嫌う徴兵適齢期の若者たちが、たくさんこの辺境のメトロポールに移り住むようになったのである。

(略)

 権力も金もないところは物価も家賃も安い。これも実入りの少ない若者たちには有利だった。こうして西ベルリンは(略)ドイツきっての貧乏人が大量居住する大都会となったのである。たしかに豪勢な目抜き通りクアフュルステンダムは、資本主義の豊かさを貧しい東側に見せつけるための「ショーウィンドー」の役割を果たしてはいたが、西ベルリン自体も、けっきょくのところ「奇跡の経済復興」を果たした西ドイツ本土からカンフル注射される補助金で生き長らえていたハリボテの金欠都市だったのだ。

(略)

第二次大戦が終わるまで、ベルリン西地区はドイツきってのジャズ・タウンだったが、戦後西独ジャズの中心となったのは「フランクフルト・サウンド」で有名な中部のフランクフルト・アム・マインのほうだったし、六〇年代末から七〇年代にかけてのロック・ミュージック最盛期には、西ベルリンでもタンジェリン・ドリームやアシュラ・テンペルのようなサイケ・グループ(略)などが生まれはしたが、発想の特異さや後代への国際的影響という点では、クラフトワークやカンといった西部ライン地方のバンドの存在のほうがはるかに大きかった。かつてベルリンを拠点としていたドイツの大音楽産業も、とっくのとうにハンブルクやケルンといった西ドイツ本土の街に移転していた。

(略)

ではこの西べルリンの辺境的側面をもっとも反映していた音楽はいったいなんだったか?

(略)

パンクやニューウェイヴの追い風を受けて出現したアンチ・プロ反抗アンダーグラウンドサウンドだったとわたしは思う。

(略)

 たしかに西ドイツ各地でもこうした音が生まれた。メディアはこれら新手の音楽を十把一からげに「ノイエ・ドイチェ・ヴェレ(ドイツの新しい波)」などと呼んだが、その内実はてんでばらばらで、典型的な怒号パンク三和音のみならず、素直に歪んだ電子童謡 (デュッセルドルフのデア・プランやハンブルクアンドレーアス・ドーラウ)、疑似バウハウスモダニズムアナクロ表現主義サンプラー・ゴシック(ハンブルクのホルガー・ヒラー)、踊り踊らせる脱臼肉感ビート(デュッセルドルフDAF)、政治思想を背景にした純粋ノイズ・コンポジション (フランクフルトのP16. D4) と千差万別だった。共通点といえば、せいぜい歌詞が以前のドイツ産ロックのように借り物の英語ではなく、地元言語のドイツ語で歌われるようになったことくらいである。それと並行してバンド名も、英語ではなくドイツ語で命名されるようになり、ヴィルトシャフツヴンダー(奇跡の経済復興)、フライヴィリゲ・ゼルプストコントロレ (自主規制)、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン (倒壊する新築) などと、いかにも戦後西ドイツらしい名前を掲げたバンドも生まれた。こうした烏合の西ドイツ新音楽のなかで、個々の差はあるとはいうものの、西ベルリンのバンドは、総じてパンクの基本発想に即したデッドエンド、デッドテック、ディレッタントの3D効果に抜きん出ていたと言えるだろう。

(略)

この辺境の大都会では、ディー・テートリッヒェ・ドーリス、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン、マラーリア、シュプルング・アウス・デン・ヴォルケンといった閉塞感たっぷりの各種デッドテック・バンドが生まれることになる。

(略)

楽器が弾けなくとも機材がなくとも、さっそく音を出してしまうという思いっきりのよさが身上だった。楽器がなければそこらに落ちているものを拾ってきて楽器をつくればいい。ベルリンのバンド、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンはほんとうに廃品置き場で拾ってきた鉄くずでパーカッションをつくったし、スタジオ機材がなければ、スーパーマーケットで買ってきた卓上カセット・レコーダーでさっさと録音すればいい。

 そこではコード進行があってなくてもいいし、無調だろうがノイズだろうがなんでもいいし、音がどんなに調子っぱずれでも、歌がどんなにヘタックソであろうと、機材がどんなにチープであろうといいのだ。

(略)

 さて、デッドエンド西ベルリン・デッドテック・バンドの一部が一堂に会した象徴的イベントが、一九八一年九月四日の金曜日、壁の間近のポツダム広場に張られたサーカス・テント、テンポドロームを会場に催された《大没落ショー~天才的ディレッタント祭》だった。

(略)

発起人ヴォルフガング・ミュラーがやっていたグループ「ディー・テートリッヒェ・ドーリス」(略)

ノイジーでチープなサウンド、ヘタウマ頓狂ヴォーカル、真面目なのか冗談なのかわからない人を食ったユーモアを湛え、同じベルリンのバンド、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンのように「音楽プロ化」することもなく、技法的にこれといって進歩することもなく、進化しようともしなかった。その音盤も、最初のうちこそ「ふつうの」レコードだったが、そのうち専用プレーヤー付きのカラフル極小音盤セット、ライヴでテープを流して自分たちは口パクをやり、各コンサートの会場音を重ねていった「ライヴ再生」盤、べつべつにリリースした二枚のレ コードを同時にかけると第三の音楽が生まれる企画と、脳細胞を活性化させる意表を突く発想に満ちたものになった。

(略)

グループ名、ディーは定冠詞、テートリッヒ(ェ)は「死にいたらしめる」を意味する形容詞、ドーリスは女の子の名前で、「必殺ドーリス」といった感じだが、同時にドイツ語で「致死量」を意味するディー・テートリッヒェ・ドージスにひっかけた洒落でもある。というわけで日本では「致死量ドーリス」、「致死量子ちゃん」と呼ばれることもある。

(略)

ドーリスの名のもと、音楽のみならず、オブジェから8ミリ映画、エッセイからラジオ・ドラマまで、さまざまな天才ディレッタント的産物が発表された。

 ドーリスの最後の音盤企画は、二枚のレコードを同時に再生すると第三の音楽が生まれるというものだ。そのうち一枚は西ドイツのレーベル、もう一枚は東ドイツの国営レコード会社に発売の話が持ち込まれ(略)二枚を同時にかけると新しい音楽が生まれるという音盤上のドイツ統一を狙った企画だったが、東独側が発売を拒否。けっきょくは西ドイツのレーベルが二枚とも出すことになったが、奇しくもそれからまもなくして、ドイツはほんとうに西独主導のかたちで統一することになる。

ドイツ国歌の怪――替え歌から国歌へ

 ドイツ国歌のメロディはよく知られている。あのハイドンの簡素で美しい旋律だ。でもハイドンはドイツ人じゃなくてオーストリア人じゃなかったっけ?

 そんなことはどうもいい。ハイドンが生きていたころはドイツとオーストリアの区別はなかったし、べつに作者が外国人だってかまわない。

(略)

 ハイドンが生きていたころは、今のような「国歌」の概念は存在しなかったし、この大作曲家もあの旋律をドイツ国歌として作曲したわけではない。(略)神聖ローマ帝国の最後の皇帝でもあったフランツ二世への君主讃歌として書いたのである。

(略)

 さて、ハイドンの君主讃歌の歌詞はどんなものだったのだろう。

(略)

 神よ、皇帝フランツを護りたまえ

 われらのよき皇帝フランツを(略)

 

 この歌詞、よく読んでみると英国国歌《ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン》(略)によく似ている。歌詞だけでなく、ゆったりとした讃美歌風の曲調も似ている。じつはこのハイドンの君主讃歌、英国の国王讃歌を範にとったものだったのだ。

 ハイドンがこの曲を書いたころは、オーストリアがナポレオンの革命軍に脅かされていたときだった。 ナポレオンの軍勢が歌っていたのはフランス革命の闘争歌《ラ・マルセイエーズ》。というわけでハイドンの讃歌は、革命軍から君主政を護ろうとする反動チューンだったのである。

(略)

 いったいどうしてこんな曲がドイツ国歌になってしまったのか?

 答えは簡単。替え歌されたのである。

(略)

ホフマンがこの《ドイツ人の歌》をつくったのは、ハイドンの原曲が誕生してから半世紀近くを経た一八四一年のこと。(略)

歌詞は三番まである(略)

まずは一番。

 

ドイツ、至上のドイツ

この世界の至上のドイツ

マースからメーメルまで

エッチュからベルトまで

いかなるときも

友愛をもって結束すれば

(略)

熱烈な統一主義者だったホフマンは、プロイセンバイエルンザクセンといった領邦分裂世界を超えた「至上の統一ドイツ」という意味をそこに込めていたからだ。それが一八七一年のドイツ統一の実現後、しだいに帝国主義的、国粋主義的に解釈されるようになり、ドイツの世界覇権を標榜したヒトラー第三帝国では、ほんとうに「世界に冠たるドイツ」の意で歌われるようになってしまったのである。

 この第一番のもうひとつの特徴は、ドイツはどこかという地理的限定がなされていることだ。

(略)

ホフマンが理想として頭に描いていたドイツとは、ドイツ語圏全域を統一した国であることがわかってくる。

 これはドイツという国が存在しなかった時点の夢としてはいいのだが、後年の第三帝国時代にはヒトラーの領土拡張政策と危なく重なってしまう。

(略)

ホフマンの詞が想定していたドイツにほぼ近いかたちが、ヒトラーの魔の手によって一時的に完成したことは皮肉な事実である。とにかくよそ様の土地を自分のもののように扱うこの歌詞第一番、かなり問題がある。というわけで、今ではこの一番は歌われない。

 それでは第二番。

 

ドイツの女性、ドイツの忠節

ドイツの酒、ドイツの歌

これぞ世界に保たれるべき宝

(略)

 うってかわって飲み会で杯を交わしているノリで、いかにもこの替え歌がつくられたロマン派時代にふさわしい心情・美徳ものである。じっさい(略)統一の夢を謳うと同時に、酒を酌み交わしながら声を合わせる宴会ソングとしても構想されたものだ。

 この第二番の詞の意は(略)

宴会で酔っ払った迷惑サラリーマンが、

「女はやっぱり日本人にかぎるよ。女房もけなげなもんで、なんやかんや言いながら、おれに尽くしてくれるしなぁ。日本の女は最高だぁ、最高。酒もやっぱり日本酒じゃなくちゃいけねぇ。(略)」などとクダを巻いている図を想像してみればいい

(略)

国粋ロマンチシズムに酔いしれた旧時代の酒宴向きである。

 というわけで(略)この歌詞も今では歌われない。

 

 それでは第三番。

 

統一と正義と自由を

ドイツの祖国に(略)

友愛をもって身も心も邁進せん(略)

ドイツの祖国に栄えあれ

 

 今度は、統一と正義と自由の理想社会像である。これが自由主義者として官憲のブラック・リストに載っていたホフマンが夢に描いた統一ドイツの理想社会像である。(略)原曲の君主讃歌を逆手にとった歌であることがはっきりしてくる。

 そして、この第三番が今でも歌われる歌詞だ。

 

 ハイドン/ハシュカの原曲とホフマンの替え歌の決定的な違いは、原曲では君主が主人公、替え歌では民族国家が主人公ということである。この相違に(略)十八世紀の専制君主制から、十九世紀のブルジョワ主導型民族国家形成への移行の意志が反映されているとも言える。(略)

[反体制ソングのホフマンの替え歌は]おおっぴらに歌うことはご法度だった 。(略)

おおっぴらに歌われていたのは(略)《ラインの守り》と言う。(略)

 

(略)

この大河の番人にならんとする者はだれなのか?

愛しき祖国よ、安心されん

忠実な守りが決然と立っている

ラインの守り!

 

(略)ライン河を越えてくる敵は、いったいだれなのか?(略)

西の隣国フランスだ。

(略)

《ラインの守り》がどんな曲か聞いてみたい方は(略)《カサブランカ》を観てみるといい。(略)

シュトラッサー少佐の音頭によりドイツ将校たちが歌っているのが《ラインの守り》だ。

(略)

ホフマンの替え歌が生まれてから三十年後の一八七一年、 ドイツは帝国として統一された。(略)

統一ドイツには正式な国歌はなかったし、国歌扱いで歌われていたのは、プロイセンの国王讃歌をもとにしたドイツ皇帝讃歌である。ドイツ統一プロイセン首相ビスマルクの主導で実現し、プロイセン国王が統一ドイツ帝国玉座に就いたからだ。反体制活動家ホフマンが夢見たドイツ統一はたしかに実現したが、「国の歌」として歌われていたのは、皮肉なことに反動的な君主讃歌だったのである。

 歌詞は次のとおり。

 

勝利の栄冠の汝に万歳

祖国の支配者よ

汝、皇帝に万歳!

(略)

 これもじつは替え歌である。

 旋律は英国の国王讃歌《ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン》をそのまま流用したものだからだ。というわけで当時は、英国とドイツは同じメロディで君主を称え、それを国歌ないしは準国歌としていたのである。

 かたや当時、反体制派の社会主義者たちはフランス革命の歌《ラ・マルセイエーズ》を替え歌し、自分たちの闘争歌にしていた。

(略)

君主賛美の英国国歌《ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン》と(略)革命行進歌のフランス国歌《ラ・マルセイエーズ》は、その後各国で生まれていく国歌の二大プロトタイプとなったものだ。

(略)

[ホフマンの《ドイツ人の歌》の浸透に]拍車をかけたのが第一次大戦だ。

 第一大戦では英国が敵国となったため、視界の悪い戦場でイギリス国歌と同じ旋律のドイツ皇帝讃歌を口ずさむと敵と間違われてしまうという危険があったし、友軍に誤射されていた部隊が《ドイツ人の歌》を歌ったら、銃撃がとまったという逸話も報告された。万歳愛国主義が猛威をふるったこの時代、若き志願兵たちがホフマンの《ドイツ人の歌》 を歌いながら敵に向かって進撃し、お国のために命を捧げたというランゲマルク英雄伝説も生まれ、これが大々的に流布された。そして帝国主義列強の覇権争いのなか、かつてホフマンが統一の夢を込めて謳った「至上のドイツ」に、世界に冠たるドイツとの解釈が付着するようになり、英語でも冒頭のくだり が「ドイツ、世界第一の国ドイツ」などと訳され、僭越国家ドイツのイメージが広まってく。

 けっきょく第一次大戦は一九一八年、僭越な後進列強ドイツの敗北で終わり(略)皇帝讃歌もお払い箱となった。すでにドイツの「音の標識」と化していたホフマンの《ドイツ人の歌》が、共和国大統領フリードリヒ・エーベルトにより公式に国歌として制定されるのは終戦から四年後の一九二二年のこと。つまりそれまで「正式な国歌」はなかったのだ。この制定は、国際試合などでお宅の国歌はなんですかと開催国からきかれ、外交上の必要に迫られてくだされた決定でもあった。社会民主党員のエーベルトは、理想社会を訴えた歌詞の三番を歌うのが望ましいとしたが、「われらはドイツをなによりも愛している」との理由で第一番の歌唱も認めた。そしてじっさいに歌われていたのは、覇権主義的な匂いがまとわりつくようになっていた一番だった。

 こうしてホフマンの替え歌は、とうとうドイツの国歌として公式認定されたわけだが、もうひとつ同じハイドンの旋律を歌っていた国がある。それがこの曲の原産地オーストリアだ。

 

 オーストリアではハイドン/ハシュカの皇帝讃歌が、陛下が交代するごとにそれに応じて歌詞を少々変えられ、ハープスブルク帝政が崩壊するまでずっと歌われつづけてきた。

 第一次大戦の敗戦でハープスブルク体制が崩壊し、大国から小国に縮んでしまったオーストリアは、お隣のドイツがハイドン/ホフマンの《ドイツ人の歌》を国歌として公式認定するのと前後して、首相カール・レナーじきじきの作詞、ヴィルヘルム・キーンツェルの作曲による新曲を国歌として採用する。(略)

[しかし]国民のあいだで浸透せず、帝国崩壊から十年ほど経た一九二九年には昔馴染みのハイドンの旋律が国歌として復活。それが「かぎりなく祝福あれ、いとしき故郷の土!/緑のモミの枝と金色の穂が地を朗らかに飾る…」というオトカー・ケルンシュトックの詞で歌われるようになった。こうしてお隣さんどうしのオーストリアとドイツは、歌詞はちがえど、同じ旋律で自国を称えるようになったのである。

 さらにそれから十年ほど経た一九三八年、オーストリア人のドイツ国家元首アードルフ・ヒトラーは、オーストリアをドイツに併合(略)オーストリア人民はドイツ国民となり、ハイドンの旋律をそのままに今度はホフマンの《ドイツ人の歌》を斉唱するようになる。

 

 《ドイツ人の歌》にこびりつくようになっていた覇権主義の匂いが、強烈な悪臭となって世界を覆うようになるのはこのヒトラー時代のことだ。(略)

「世界に冠たるドイツ」が(略)侵略戦争に乗り出すことになるわけだが、この時代、「第二の国歌」として歌われていた曲がある。

 それがナチ党歌《ホルスト・ヴェッセルの歌》だ。

 

旗を高く掲げよ!

隊列は固く組まれた!

突撃隊は行進する(略)

同志よ、赤色戦線と反動を撃ち殺し(略)

ともに行進せん……

 

 露骨な歌である。こういうのをみんなで一緒に歌っていたのだ….。とはいってもこのナチ党歌、「血塗られた軍旗は掲げられた……」と革命の血なまぐささを露骨に漂わせるフランス国歌《ラ・マルセイエーズ》の伝統に連なる闘争行進歌である。

 この曲は、共産党員に殺害されてナチ聖人に祭り上げられた突撃隊員の学生ホルスト・ヴェッセルの作とされるが、旋律の出所ははっきりとしない。

(略)

問題なのは、旋律が同じ、あるいは同じようなものでも、つけられる歌詞、曲に託される機能、歌われる状況、歌い方、楽器の使い方などによって、オペラの一節にも、戯れ歌にも、ナチ行進歌にも、左翼闘争歌にもなりうるということだ。たとえば「赤色戦線と反動を撃ち殺し」という下りを「ファシストと反動を撃ち殺し」とちょっと変えただけで、すぐさま左翼赤色戦線の闘争歌に早変わりする。

(略)

地獄に堕ちた勇者ども》を観てみるといい。風光明媚なヴィース湖畔で繰り広げられるナチ突撃隊の乱痴気騒ぎシーンで、ご乱交に興じていた隊員たちが突然起立して真顔で歌うのがこの《ホルスト・ヴェッセルの歌》だ。

(略)

 第三帝国が阿鼻叫喚と瓦礫のなかで消滅したあと、ふたたび独立国となったオーストリアは、自分たちが歌っていたハイドンの旋律を復活させようとしなかった。(略)

オーストリア共和国の国歌となったのは、もうひとりのヴィーン古典派の代表格モーツァルトの作とされていたフリーメイソンカンタータの一節の替え歌《山々の国、大河の国》

(略)

[西ドイツ]は、世界中から白い目でみられるようになっていたハイドン/ホフマンの《ドイツの歌》を国歌として復活させるどうかでもめ、新国歌創出の試みもいくつかあったが、けっきょく一九五二年、お馴染みの《ドイツ人の歌》の三番だけを歌うことで決着がついた。この決着がつくまで、国際スポーツ大会などで西ドイツの「臨時国歌」の役割を果たしていたのは 、ベートーヴェン/シラーの《歓喜の歌》だ。一九六四年の東京オリンピックで、東西ドイツが合同チームを送り込んできたときに使われたのもこの曲だったし、《歓喜の歌》は今やヨーロッパ連合EUのシンボル・チューンである。

(略)

いっぽう[東ドイツ](略)は、西ドイツに先んじて新しい国歌を制定する。東ドイツは、上っ面だけではやたらと反ファシズムを標榜していので、もともとヒトラー時代の国歌の旋律を使うつもりはなかったようだ

(略)

東ドイツの歌詞は、西ドイツ国歌のハイドンの旋律で途中まで歌える。ほんとうに最後の三行をのぞいて歌えるのだ。ということは、作者ベッヒャーも詞を書くとき、ハイドンの旋律を念頭に置いていたということだろう。

踊り場ベルリン、デルフィ・パラスト

 さてベルリンが本格的に一大ダンス・シティと化すのは、第一次大戦後の 一九二〇年代、ヴァイマル共和国の開放と混乱の空気のなか、ベルリンがヨーロッパ最大の文化都市に躍り出たときだ。このころには午後のティーダンスや夜のダンス歓楽が人々の日常文化の一部と化し、ヴァイマル時代末期の一九三一年には、ベルリン各地に九百近くもの踊りのできる娯楽飲食施設があったといわれる。ひとりでやってくるご婦人の踊りのお相手をするアインテンツァーという職業も生まれ、当時ベルリンに住んでいた後年の映画監督ビリー・ワイルダーもこの仕事をしたことがあるらしい。こうした踊り場のなかで圧倒的な威容を誇っていたのが、タンツパラスト(ダンス宮殿)と呼ばれる巨大ダンスホールで、これらの多くは経済が安定していた一九二〇年代の後半に建てられたものだ。

(略)

 これらの踊り場でダンスのために供されていた音楽は、流行歌や古典名曲のダンス・アレンジ、あるいはワルツ、タンゴと各種さまざまだったが、そのなかで圧倒的人気を誇っていたのは、アメリカ合衆国から渡来した新音楽種「ジャズ」だった。ベルリンでは第一次大戦後の開放的雰囲気のなか、アメリカのダンス音楽がつぎつぎに流行、ラグタイムだろうがフォックストロットだろうがチャールストンだろうが、なんでも「ジャズ」と総称され(略)

当時のジャズはモダン・ジャズ以降の傾聴型音楽とは違い、なによりも踊り場のための実用ミュージックだったのである。

(略)

十九世紀の世界の覇者たるヨーロッパ産のダンス音楽だったワルツやポルカは古くなってしまい、今度は二十世紀の新覇者アメリカのジャズが若々しく活力のある新鮮な音楽として世界を席巻するようになったのである。

(略)

クルシェネク、クルト・ヴァイル、 ヒンデミットといった刷新の心意気に溢れた若い作曲家たちは、ジャズの語法を、肥大化しどん詰まりになっていたヨーロッパ音楽言語を活性化させるカンフル剤として、あるいは世相を反映する舞台装置として自作に積極的に導入した。

(略)

 ヴァイマル共和制がヒトラー独裁制に変わっても、ベルリンのジャズ・ダンス・フィーヴァーは収まらなかった。いくら偏狭なナチ教条派がジャズ旋風をドイツ民族を蝕む疫病とみなし、ジャズ踊りを破廉恥な行為と攻撃しても、当のドイツ人民はジャズ、あるいはジャズもどきの音楽で踊っていた。局地的にジャズ禁止令が出されることもあるにはあったが、ジャズはドイツの流行曲のなかにも奥深く浸透して混交、もはやどこまでがジャズでどこまでがジャズでないかという区別も曖昧になってしまい、禁止令の効果も薄かった。それどころか、ジャズ熱に浮かされたベルリンの大ダンスホールが全盛期を迎えるのは、よりによってナチ時代の一九三〇年代から四〇年代初期にかけてのことだったのである。

 このナチ時代、ことに若者たちを熱狂させたのは、一九三〇年代半ばから流行しはじめたスウィング・ジャズだ。よりによってベニー・グッドマンやアーティ・ショーといったユダヤ系ミュージシャンを筆頭スターとするスウィング・ミュージックが、反ユダヤ・ナチ体制下の若者たちのお気に入りのチューンとなってしまったのだ。

(略)

ヒトラー時代、「スウィングの殿堂」との異名をとっていたベルリンの巨大ダンスホールがある。それがデルフィ・パラストだ。

(略)

座席数六五〇、ダンスフロア、レストラン、バー、カフェを擁する大娯楽宮殿で、六メートルはあると思われる天井には夜の星空世界が演出され、周囲に置かれた疑似ギリシア風の彫刻が壮大な神託的雰囲気を醸し出すという、うっとうしくなるほど豪華な雰囲気に包まれていた。

 かたや外の世界では、世界大恐慌がドイツを直撃して経済は混乱の極みに陥り、急速に台頭した極右ナチス極左共産党が街頭で乱闘を繰り返していた。夢と幻想を演出するデルフィのような仮想楽園は、まさに日常からの逃避場だった

(略)

 ヒトラー政権が成立すると、ナチ突撃隊のユダヤ系市民に対する嫌がらせや暴行が横行するようになり、デルフィのユダヤ系オーナー、ケーニヒもナチ突撃隊員だった従業員のひとりにピストルで脅かされて国外に脱出した。それでもデルフィの営業は滞りなくつづけられていった。 ケーニヒはペーパー・カンパニーをつくって自分の伴侶だった非ユダヤ系女性エルフリーデ・シャイベルに経営権を譲渡、こうして表面上デルフィ・パラストは、ナチ政府の望むような「非ユダヤ系」 企業に早変わりした。だからナチ時代になっても間断なく営業がつづけられたのである。

 ドイツがスウィング全盛期を迎え、デルフィ・パラストが「スウィングの殿堂」と化すのは、よりによってこのおぞましいナチ時代で、その頂点が一九三六年のベルリン・オリンピックの夏である。このときには、諸外国からやって来る観光客におもねったナチ政府が、各所に掲げられていた「ユダヤ人お断り」の看板を取り外し、ヒトラーも口先では世界平和を訴えて幻想を振りまき、ナチ・ベルリンが「開かれた国際都市」を気取った。それどころか観光客がヒトラー・ドイツに好印象を抱いていただくよう、ゲッベルスの音楽界監視機関 「全国音楽院」も、ベルリンのバンドに英米の国際ヒット・チューンの楽譜を取り揃えるよう指示したほどである。

(略)

まだ敵国ではなかったアメリカン・カルチャーは音響面でも映像面でもベルリンを席巻、とりわけ一九三六年二月末に公開されたエリノア・パウエル主演の音楽映画《踊るブロードウェイ》は、ベルリンで四ヶ月にわたる大ロングランを記録。このハリウッド・ミュージカルは、第三帝国時代をつうじて最長上映記録を誇る映画のひとつとなったし、その主題歌《ユー・アー・マイ・ラッキースター》も大ヒット、二十種以上のカヴァー・ヴァージョンのレコードが発売された。景気のよいスウィングとタップダンスに彩られた軽快なアメリカ文化は、ヒトラーの国粋民族共同体のむさ苦しさを逃れようとする若人を水面下で感化、それがアメリカナイズされた戦後カルチャーにつながっていくことになる。

 開戦後アメリカ映画が輸入されなくなると、今度はゲッベルスのドイツ映画界がその需要を「穴埋め」するためにハリウッドの向こうを張ったような豪勢なミュージカルを製作するようになる。(略)

暗い戦時に「国民を良い気分に保っておく」ため、景気のいいポピュラー音楽の重要性を唱えた文化界の主ゲッベルスも、この手のミュージカルを奨励する傾向にあったし、ごりごりのナチであるはずの親衛隊員が純血イデオロギーに反した雑種音楽ジャズにどっぷり染まっていたことさえあったのだ。ナチ時代の音楽文化は、一般に想像されるよりはるかに複雑怪奇かつ複層的なものだったのである。

(略)

[42年以降]締めつけも強くなった。(略)当局は私服取締官を踊り場にもぐりこませ、敵性音楽が演奏されていないか目を光らせるようになったが、アメリカの生きのいい曲は客に受けたし、ミュージシャンのほうもそういう音楽をやりたがったので、禁断のチューンに即席ドイツ語名をつけ、あたかも問題のない自国産の音楽であるかのように見せかける偽装工作もおこなわれた。取締官のほうもこの手の音楽に疎い者が多かったので、それに騙されることが多かったらしい。

(略)

ドイツ軍がスターリングラードで決定的敗戦を喫した翌一九四三年、スウィングの殿堂として知られたデルフィは、とうとうその門を閉じ、国防軍の物資貯蔵所として徴用され、それとともにこの建物の踊り場としての歴史も終わりを告げる。

(略)

[戦後]戦争で損傷を受けたこの建物は、かつての豪勢な装飾を再現されることもなく、簡略化された外装と内装で映画館となった。今では地下一階に入っているライブ・ハウス「カジモド」が、デルフィの踊り場としての歴史を間接的に偲ばせているにすぎない。