ファンクはつらいよ その3

前回の続き。

《Motor Booty Affair》

俺にとって《Motor Booty Affair》は、ビートルズの絶頂期のようなものだった。最も野心的かつ多彩で、今でも再発見されるに相応しいアルバムの最右翼だ。

(略)

野心的なサウンドや多彩なスタイルだけでなく、プロジェクト全体に広がるユーモア、コミカルな自己認識も似ていたと思う。そうなると、ビートルズに例えれば、このアルバムは俺たちにとっての《Sgt. Pepper's》ではなく、《Yellow Submarine》なのかもしれない。俺が思うに、映画『イエロー・サブマリン』は、ビートルズのレコード同様、文化的な常識を覆した。大人のテーマと所感を子ども向けに料理し、ナンセンスを極めた記念碑的作品だった。映画の中に登場する怪物は、海にいる魚を吸い込むと、次は海底全体を吸い込み、さらには自分自身まで吸い込んでしまう。《Motor Booty Affair》に生息しているのも、この手の生き物で、そこには滑稽な闇がある。このアルバムで、俺たちは皆、俺たちなりのイエロー・サブマリンに住んでいたのだった。

LSDの再来

一九七九年の暮れ、リムジン運転手の女性とコカインをやっていると、彼女が俺の方を振り向き、「これ、試してみて」と言った。その手に握られていたのは、フリーベース(クラック)のパイプだ。俺はパイプを受け取り、試してみた。パイプを吸った瞬間、LSDの再来だと思った。あまりに心地良く強力で、まるで射精したかのような気分になった。最初の恍惚が終わると、一刻も早くまた吸いたいと思った。しかし、最初に感じた恍惚を再び味わうために、どれほどの時間をかけることになるか、そしてそのために、どれほどの代償を払うことになるか、当時の俺には知る由もなかった――わかるはずもなかったのだ。

音楽ジャンル〈ファンク〉の確立

《Uncle Jam Wants You》の本質は、生き延びるために必死で闘っている音楽のリスナーを募集するポスターだった。俺たちは、ディスコに完全屈服することなしに、ダンス・ミュージックを生かし続けようとしていた。

(略)

 俺たちは戦時体制に突入していた。(略)〈(Not Just)Knee Deep〉が大ヒット・シングルになると思っていたものの[ワーナーには宣伝する気がなかった]

(略)

俺たちがファンク・バンドを出せば出すほど、他のレーベルやプロデューサーも、俺たちのサウンドに似たファンク・バンドを作った。それはそれで良かった――模倣は最大の賛辞なのだから――しかし、俺たちは大きな目標を見据えていた。陳列棚のスペースについて考えていたのだ。俺たちは当時、ソウルやR&Bとは別に、ファンクのスペースをレコード店に設けたいと話していた。俺たちの構想は、ひとつの音楽ジャンルとしてファンクを独立させ、そのジャンルを埋め尽くす、というものだった。(略)[だが]ワーナーは主に、俺たちの影響力を制限することにしか興味がなかったようだ。彼らは、モータウンのようなレーベルの誕生を危惧しており、Pファンクは、この種の問題を引き起こす最有力候補だった。こうした考えには先例がある。七十年代前半、メジャー・レーベルは、自社の利益の大部分をブラック・ミュージックが稼いでいることに気づいた。コロムビア・レコード・グループは、モータウンのような企業にこうした利益が流れる理由を解明しようと、ハーヴァード・ビジネス・スクールに研究を依頼した。この研究結果は、長い間出回っていた。そしてこれは、ブラック・ミュージック企業の動きを止めるための作戦帳となった。

(略)

 一方が上がると、他方が下がる。時折、パーラメントファンカデリックの関係はシーソーのように感じられた。パーラメントが《Mothership Connection》から《Motor Booty Affair》まで好調を維持した一方、ファンカデリックは《Motor Booty Affair》と同時期にリリースされた《One Nation Under a Groove》で、一気に飛躍した。当時、俺はパーラメントのアルバム一枚につき、六十万ドルから七十万ドルの前払金を手にしていた。大半のソウル・アルバムよりも多額で、ポップ・アルバムに匹敵する額だ。それでも、ニュー・アルバムの制作に着手すると、波が引いていくような気がしてきた。これが音楽業界のシステムだ。計画的に流行を発生させ、衰退させる。レコード・ビジネスは、そうやって運営されている。これは、他のビジネスでも同じことだ。

スライ・ストーンデヴィッド・ラフィン

 一九七九年のクリスマス頃(略)俺は農場を買った。(略)その冬、俺はスライ・ストーンと親交を深めた。(略)

これまで、スライと俺が顔を合わせたのは、通りがかりやツアー中の楽屋だけだった。一緒にツアーをしていた時ですら、友人として一対一で膝を突き合わせて話したことはなかった。しかし、ニューヨークではきちんと話をする時間があり、即座に意気投合した。俺たちは、同様の関心を持ちながらも、異なった世界観を持ち、同様の技能を持ちながらも、異なった歴史を持っていた。音楽から政治、ドラッグ、さらにはスターダムという奇妙かつ歪んだ心理状態に至るまで、あらゆることを語り合った。俺が駆け出しの頃、スラィは世界の頂点を極めていた――彼はアイドルであり、アイコンだった。そして、ポップ・ミュージック界にとどまらず、世界に燦然と輝く光のひとつだった――しかし、七十年代はPファンクとその他のアーティストの時代となり、スラィは若干衰えを見せた。とはいっても、彼自身の凄さは相変わらずだったため、むしろ音楽市場が彼から遠ざかったのだろう。いずれにせよ、彼は勢いを失い、その状況からカムバックする自信を欠いていた。彼は、世間に鼻っ柱をへし折られたと自覚しており、そのことばかり与えていた。パーティの最中、スラィは俺に問いかけた。「なあ、お前の仲間うちで、俺がもう大スターじゃないって、俺をからかえるヤツは誰だ?」。

「そう考えてるヤツはあまりいないなあ」と俺は答えた。

(略)

そして、スライが農場にやってきた。彼は常に、何らかの苦境に陥っていた。この時は、コネチカットの売人から逃げていたはずだ。一時、誘拐されていたなんて話すら耳にしたこともある。俺は彼に、好きなだけ泊まっていいぞと言った。結局、彼は一年滞在した。朝は一緒に魚を釣り、それからハイになり、昼食を取り、さらにパーティを続ける、という暮らしをしていたものだ。少なくとも、一緒にいた時間の半分はハイになっていたが、レコーディングもしていた。この時にレコーディングした音源は、途轍もないものだった。スラィは何もせず座っている時でも、いきなり目を開けて、誰も考えついたことのないような才気溢れる歌詞を口に出し、こちらを驚かせることがあった。スライとレコードを作るのは初めてだったが、俺は感銘を受けると同時に、謙虚な気持ちになった。あんなにも多彩な個性が奇妙に入り混じった人物に、俺は出会ったことがない。彼は底抜けに面白く、無頓着でワイルドだと思えば、細かいところにまでこだわりを見せた。そしてアレンジとプロデュースにかけては天下一品の腕を持っていた。

(略)

ある日の午後、家にいるには天気があまりに良かったので、スライと俺はドライヴに出かけた。五分ほどして、スライがこう提案した。「デヴィッドを誘おう」。デヴィッドとは、テンプテーションズのリード・シンガーだったデヴィッド・ラフィンのことだ。(略)

俺たちはドラッグ・ディーラーの家へと向かった。到着直前、俺は現金を持っているのかとスライに尋ねた。彼に持ちあわせはなかった。スライがデヴィッドの方を見ると、デヴィッドも肩をすくめた。現金を持たずにドラッグ・ディーラーの家を訪ねるというのはよくあることで、だからこそ、信用を築くことが大切だった。家の前に車を停めると、俺たちはスライを交渉役として中に送り込んだ。彼は如才なく、最高に口が達者だ。(略)「ツケでいいぞ」と売人は言った。「都合してやるよ。 今忙しいから、ちょっと待っててくれ」。俺たちは、外のポーチに座り、良い天気の中くつろいでいた。(略)

「待ってんのが問題なんだよ。イライラしねえか?」とデヴィッドは言った。(略)「なんでこんな扱い、許してるんだよ?」。

(略)

「何が望みなんだよ?テンプテーションズ並みに速く動けってワケか?」と俺は言った。

(略)

 何百回となくドラッグを買ってきた俺だが、あの時のことをよく考える。 あの日、最終的にデヴィッドを救ったのは――そしておそらく、あの時期の俺たち全員を救ったのは――金欠という状況だった。皮肉なことだが、真実だ。クラックは、とにかく金がかかる。だからこそ、人はクラックに支配される。そしてクラックは、人をジャングルへと陥れる。

(略)

 それから間もなくして(略)ホール&オーツは、デヴィッドとエディ・ケンドリックスを迎えて《Live at the Apollo》をレコーディングし、大ヒットを記録した。(略)

しかし、これがデヴィッドを破滅させた。再び金を手にした彼は、捕食者の標的となったのだ。(略)死因は薬物の過剰摂取と伝えられている。

スライの狂気、「スターになってもいいか?」

 スライのようになりたいと思う者は大勢いた。例えばリック・ジェイムズ。彼がやったことの半分以上は、スライの間接的な模倣だ。しかし、あの種のクールさを醸し出せるのは、マイルス・ディヴィスとスライのふたりしか存在しない。

(略)

「クレイジー」は偉大さの必須条件だ。しかし、本当にクレイジーである必要はない。俺はクレイジーに振る舞うが、実際のところはかなり正気に近い。しかし、スライは演技などしていなかった。彼は自身の才能を信じていただけでなく、自身の偉大さも信じていた。そして、彼は大半の場合、極めて好人物だったが、金とドラッグが絡むと平気で人を利用した。もちろん、彼はあまりに頭が切れたため、人を騙そうとはしなかった。単刀直入に利用してもいいかと相手に尋ねるのだ。ドラッグを買いたい時――おそらくドラッグ・ディーラーや女性の前で格好つけたかったのだろう――彼なりの尋ね方があった。彼は「スターになってもいいか?」と言うのだった。

 彼に金を貸したら、返ってこないかもしれない。それを覚悟しなければならなかった。スライに金を貸すということは、金をあげるということで、こちらも、彼と同じことを彼にやり返さなければならなかった。俺は「わかったよ。でも来週は俺がスターだからな」と言っては彼を笑わせたものだ。

(略)

[車椅子に乗った女性から「いい加減、しっかりしないとね」と言われたスライ]

 しかし、その女性は間違ってはいなかった。スライはいい加減、しっかりしなければならなかったのだ。特にライヴに関してはそうだった。スライのパフォーマンスで、観客が盛り上がらないことも多く、彼はステージに出るのを拒むことすらあった。実のところ、彼は何かやるよう指示されるだけで、必ず正反対のことをやった。気の乗らない彼をステージに上げるためには、殺すぐらいしか方法はなかった。

 俺はスライとほとんど真逆だった。マディソン・スクエア・ガーデンで『Motor Booty Tour』の初演が中止の危機に晒された時、俺はスカスカになったクルーを率い、最小限のメンバーでショウを敢行した。スライは、あまりに実直な俺をよくからかった。「ジョージには、リトル・ワンがたくさんいるんだ」といつも言っていた。

(略)

俺は、不満を間違えた方向にぶちまけることはなかった。興行主が理不尽でも、観客に八つ当たりはしなかった。スライは俺のそんなところに感心していた。彼も冷静でいたいとは思っていたが、それができなかった。しかし、マイルス同様、特別域にいて、誰よりも高いレヴェルにいた。ふたりの才能はあまりに圧倒的で、欠点も見逃された。彼らは何をやっても許されたのだ。

 スライと俺は、ドラッグの使い方も違っていた。俺はドラッグで有名だったが(略)その使い方は常に地味だった。これは子どもの頃から同じだ。他の少年たちは本物の不良だった。しかし俺は、皆で店を強盗するとなっても、警察が現れる前に必ず現場を離れた。そんなことで捕まったら、父親にお仕置きされるからだ。そして考えてみると、俺は実際に強盗を働く必要などないことに気づいた。強盗をやろうとしているヤツらと一緒にいるところを見られればいいだけだ。ドラッグも同じだった。俺はハイになったが、決して中毒にならないよう心していた。俺は翌日も働けるよう、妥当な時間に眠りにつきたかった。それに、ドラッグに骨の髄までしゃぶられながらも、さらにドラッグを求めるなんて、我慢できなかった。

キャピトル・レコードと契約

 俺はドラッグに耽溺し、身を落とした。(略)レコード会社はPファンクを牽制すべく力の限りを尽くし、俺はドラッグに溺れていたせいで、それを阻止することもできなかった。当時、最高のアドバイスを必要としている時に俺が頼ったのは、ネニ・モンテスだった。彼と縁を切ることはできなかった。(略)気がつくと、仕事が全くなくなっていた。

(略)

 どん底の状態にあった時、テッド・カリアーという男が、ネニに仕事の話を持ってきた。テッドはキャピトル・レコードのブラック・ミュージック部門を率いており、俺とブーツィーにプロデュースしてほしいバンドがいるという話だった。バンドの名前はイグゼイヴィア。(略)彼らは、俺たちが任務を遂行できるか確信を持てなかったため、俺たちを綿密に監視するという条件を出したのだ。俺たちは直球のファンク・レコード〈Work That Sucker to Death〉を書き、同曲はキャピトルにとって大きなヒットとなった(略)

 しかし、イグゼイヴィアのシングルとは名ばかりだ。曲の真っ只中で、俺がブーツィーに呼びかけている声が聞こえるはずだ。PファンクのパーカッションにPファンクのギター、PファンクのチャントにPファンクのエネルギー。これは、生粋のPファンクだ。

(略)

〈Work That Sucker to Death〉のヒットのおかげで、数カ月のうちにキャピトルとのソロ契約が決まった。

(略)

誰かがマイルス・デイヴィスの名前を出すと、テッドは「そいつは誰だ?」と尋ねた。俺たちは笑ったが、彼がふざけているわけではないとわかると、笑いも途絶えた。キャピトル・レコードのブラック・ミュージック部門でトップを務める男が、マイルス・デイヴィスを知らないとは。車を降りた後、スライは俺の方を振り返ると、こう言った。「おい、あの野郎、ナメきってやがるな」。

 確かにそうかもしれなかったが、それでも俺は契約を結ぶ必要があった。こうして俺は、キャピトルとアルバム四枚契約を交わした。いつものごとく、曲は準備できている。俺はふたつのプロダクション・グループを使ってレコーディングを行っていた。ひとつのグループは、ジュニー・モリソンが率いていた。(略)俺がジュニーと作った楽曲は、《One Nation Under a Groove》と《Electric Spanking of War Babies》用にレコーディングした楽曲の延長線上にあったが、装飾やサウンド・エフェクトをさらに凝らしていた―――八十年代は、鮮やかな色彩と派手なニューウェイヴの全盛期だったのだ。

(略)

ジュニーと仕事をしをていない時、俺はゲイリー・シャイダーとデヴィッド・スプラッドリーとレコーディングしていた。(略)

おかしな話だが、スタジオにやってきた俺が、ふたりの働く姿を見て、取り残された気分になることもあった。(略)

あまりにも酩酊していたところに、ドラッグも切れかけていたため、ふたりが俺なしでプロジェクトを進めているのではないかという被害妄想に陥った。(略)クラックをやると、こんなザマになるのだ。(略)監督は俺だと言わんばかりの態度を取り、「俺はここにヴォーカルをいれるからな」と事務的な口調を装った。(略)

[パーカッションだけのトラックにフリースタイルの語り口調で自由連想駄洒落のオンパレード]

 そう、これは有名な犬の話

 自分の尻尾を追いかける犬は、そのうち目を回す

レッド・ホット・チリ・ペッパーズ

 トミー・ボーイ・レコードの創始者、トミー・シルヴァーマンは、ニュー・ミュージック・セミナーというミュージック・カンファレンスをスタートし、一九八四年に俺をスピーカーとして招待した。(略)

セミナーの後、ある若者が俺のところにやってきて、自己紹介した。

(略)

[ZEP]がブルースを取り入れたように、イギリスのグループがファンクを地球のポップ・ミュージックへと変化させるだろう(略)この若者は、俺の見解に反論した。彼の見解は、俺が彼のバンドのアルバムをプロデュースすれば、そうした状況は避けられる、というものだった。彼は、アンソニーと名乗った。そして彼のグループは、レッド・ホット・チリ・ペッパーズといった。俺は彼と握手を交わし、準備ができたら俺の農場に来るよう言った。それから約二カ月後、バンドが俺の農場を訪れた。

(略)

息子のトレイシーがロサンゼルスにいて、成長著しいファンク・シーンや、フィッシュボーンのようなバンドについての噂を聞いていたのだ。ペッパーズも同じサークルにいた。ファンもついており、ミュージシャンシップもカリスマも備えていた。

 俺は次第に、アンソニーの持論が正しいのではないかと思うようになった。アメリカ出身のペッパーズが、ファンクを大衆に届けるグループになりえると思いはじめたのだ。レコード会社は、ファンクを真のメインストリームへと持ち込めるよう、白人グループと契約したがっているようだった。

(略)

 ペッパーズは白人の若者だったため、政治的な意見を率直に述べることもできた。年長のソウルやファンクのバンドなら、それは許されなかっただろう。この頃、俺はラジオ・アーティストとして自らのイメージ・チェンジを図っていたため、アンソニーが言っているようなことを自分でも言えるとは思えなかった。ファンカデリックがデビューした当時の若い俺ならば、そういった発言ができたかもしれない。しかし時代は変わった。 年を重ね、チャートにも入っていた俺には、バンドメイトやファンに対する責任も負っていた。俺が率直な政治的発言ができる時代は、終わりを告げた。

(略)

俺はペッパーズが大好きだった。彼らとは最高に楽しんだ。まるで、ファンカデリックに新加入した若手メンバーからエネルギーをもらっていた七十年代前半のようだった。俺は間違いなく、メンター、教師、父親代わりといった存在だった。俺は自分の経験を洗いざらい語り、彼らが自分なりの結論を出せるよう計らった。そして、ニュージャージーのバーバーショップで語っていたのと同じジョークを彼らにも語った。

 その後、彼らは行いを改めたが、ヘロインに嵌っていたのと全く同じように、まっとうな生き方に嵌った。彼らは、度を越えた健康志向になったのだ。九十年代半ば、俺たちはドイツでペッパーズと再会したが、彼らはジュースやら豆腐やら生乳やら、健康食品に凝りまくっていた。ビースティ・ボーイズも同じだ。俺たちとツアーをしていた頃の彼らは、この上なくワイルドだったが、後年は仏教徒の僧侶をツアーに同行させていた。

ヒップホップ

 《R&B Skeletons in the Closet》は、俺がヒップホップと真っ向から向き合った最初の作品だった。《Uncle Jam Wants You》をリリースした直後から、俺はヒップホップを意識していた。特にニューヨーク・エリアでは、子どもたちがラジカセを持ち寄り、バックグラウンド・ミュージックに合わせてラップしはじめていた。ヒップホップはジャマイカのトースティングと若干の繋がりがあり、ダズンズとも結びついていた。ダズンズとは、俺が物心ついた頃から子どもたちが遊び場でやっていた、コミカルな悪口合戦だ。俺はラッパーたちのエネルギーが好きだった。また、彼らが単純な音楽と複雑な言葉遊びを組み合わせるところも好きだった。さらに、ターンテーブルは楽器だという考え方も気に入っていた。

(略)

そして、ヒップホップはファンクの生命線でもあった。音楽は年々変化していた。変化を受け入れなければ、変化に背を向けられてしまうものだ。ラップがヒップホップへと成長すると、既存の曲の基盤を使い、ソウルやファンクをサンプリングすることで、新しい曲を作るという、さらなる要素が加わった。ヒップホップは、俺たちに復活のチャンスを与えてくれた。ヒップホップのサンプリング以外に、どこで自分の曲が聴けるってんだ?ケイテルの懐メロ・コンピレーションぐらいしかないだろう?初期のラップはPファンクから派生したが、それは好都合だった。

(略)

 その後、ラップから多額の金銭が発生したが、それでも俺が注視していたのは、ラップの独創的な側面だ。(略)

時折、ヒップホップというジャンルは、天才を輩出し、俺は耳をそばだたせた。はっきりと覚えている最初の出来事は一九八七年、誰かにエリック・B&ラキムの〈Follow the Leader〉を聴かされた時だ。その時点までに、俺は多くのラッパーを聴いていたが、あのレコードを聴いて、全く身動きが取れなくなった。まさに、「何じゃこりゃ?」な瞬間だった。クールなフロウに乗せたあのレコードのリリックは、俺がニューヨークで何年も前に聞いたファイヴ・パーセント・ネイションの説教のようだった。ファイヴ・パーセンターがチャントする時、彼らは知識を加える。ラキムはあの声の抑揚を完璧にマスターしていた。そして彼の言葉には、多彩な意味が幾重にも込められていた。彼の言葉はストリートかつ詩的で、機知と思慮に富んでいた。俺はあのレコードを聴いて、自分は音楽業界で何も成し遂げてはいなかったと感じ、「俺も一からやり直さなきゃ」と思った。しかし、最高の気分だった。まるで、引退していたボクサーが復帰するかのような気分だ。指先から興奮が溢れ出さんばかりだった。

 最初から俺の心を掴んだもうひとつのヒップホップ・グループは、パブリック・エナミーだ。サウンドは、上向きに融合すれば音楽になり、下向きに分解されれば混沌になる。そして音楽と混沌は、同じ線上にある。〈Bring the Noise〉を聴いた時、彼らがそれを理解していることがわかった。自分が作っているものが騒音だと認めているということは、すでに音楽の作り方を完全に理解する過程にいるということだ。彼らには、ヴォーカルと音響があった。彼らは冒頭から「ベース、どれだけ低く出せる?」と言っている。Pファンクで俺たちは、いつもギターを低くチューニングし、できる限り深いヴァイブレーションが出せるようバーニーのシンセサイザーを設定していた。また、彼らにはコンセプトがあった。「俺は銃など持ったことがないって、ヤツらに言ってもいいか?」という台詞は、犯罪者はいかに作り上げられ、社会は自らを守るために、いかに敵を特定するかを語る、トップレヴェルの思考だ。さらに彼らの感性は、Pファンクを成功に導いた感性と共通点を持っていた。パブリック・エナミーはコンセプト・アルバムを作り、傘下にアーティストを擁していた。そして最重要なのは、自分たちの商品が深刻になりすぎることなく、それでも真面目に受け入れられるよう、その取り扱い方法を心得ていたことだ。

プリンス

 八十年代半ば、本物のファンクをやっていたスターは数少なかったが、その中で最高に格好良かったのはプリンスだ。

 彼はPファンクを熟知しており、俺たちと同じ手法もいくつか試していた。二バンド形式のバランスを信じており、それを自分なりの解釈で行うと、レヴォリューションとザ・タイムを対抗させた。また、ザ・ファミリー、シーラ・E、ジル・ジョーンズといったアーティストのソングライティングとプロデュースも行っていた。さらに、声のピッチを上げたプリンスの分身的なキャラクター、カミールは、スター・チャイルドを若干彷彿とさせた。

(略)

[デビューを控えたプリンスに]ワーナー幹部が《Ahh… The Name Is Bootsy, Baby》をかけると、プリンスは身を凍らせたそうだ。このままではリリースできないと、彼は自分のアルバムを持ち帰り、さらに八カ月をかけてアルバムを完成させたという。

 ワーナー・ブラザーズのモー・オースティンによれば、プリンスは俺を称賛し、エルヴィス、ジェイムズ・ブラウンと肩を並べるアーティストだと言っていたそうだ。

 八十年代前半、俺もプリンスに感服していた。《Dirty Mind》や《1999》の後に、その思いはますます強まった。(略)俺たちがファンカデリックでやっていたことを、ロックやニューウェーヴでアップデートしていることがわかったのだ。特に《1999》は、ピッチを上下させたヴォーカルや、大衆向けのシングルと斬新な実験曲の混合、さらにはジャケットに至るまで、俺たちと共通点があった。

(略)

 俺が《Cinderella Theory》制作のためにミネアポリスを訪れた時、プリン スは挨拶をしにスタジオに立ち寄ったが、レコーディングにはあまり顔を見せなかった。俺がきちんと仕事を終えられるよう、最適な状況を与えようと努めてくれたのだ。プリンスと一対一で接触するのは、大半が深夜だった。俺がひとりホテルでハイになっていると、プリンスから電話を受け、自宅に招待されるのだった。こうして、彼の家で一緒に話をしたものだ。

 俺は昔から陰謀に興味を持っていた。(略)当時、陰謀論者が惚れ込んでいた本がある。ミルトン・ウィリアム・クーパーの『Behold a Pale Horse』だ。俺は、あの本を大声でプリンスに読み聞かせた。ただし、大真面目にではなく、半分ふざけながら読んでいた。俺は陰謀を信じていたが、陰謀を信じてしまうと、何も信じられないという状況を引き起こす――だから、俺は「陰謀」というよりも、「陰謀論」を信じていた、といった方が正しいだろう。

(略)

 プリンスは俺の朗読を聞きながら、質問することもあれば、冗談を言うこともあった。彼があの本についてどう思っていたのか、はっきりとはわからない。俺はプリンスの前ではドラッグをやらなかった。彼に敬意を払いたかったからだ。クラックを吸いたくなったら、俺はパイプを持ってトイレに行き、そこでクラックをやった。プリンスはドラッグをやらないと常に言っていた。確かに俺も、彼がドラッグをやる姿を見たことはない。だが、少なくともコーヒーぐらいはキメていたはずだ。俺が知る限り、午前五時半に寝て、午前八時に元気溌刺で起きられるヤツなど、プリンス以外いない。

サンプリング使用料

[デ・ラ・ソウルのデビュー・アルバムが大ヒット]トミー・ボーイは(略)十万ドルを支払った。当時の俺たちは、この支払いが原盤使用に対するものなのか、音楽出版権に関するものなのか、よくわかっていなかった。まだ何のルールも定まっておらず、サンプルに関する勘定方法もきちんと理解されていなかったのだ。

 他のラップ・アクトも、俺たちに金を支払ってきた。

(略)

 俺たちは、新しいシステムの活用方法を模索しているところだったが、アーメンはすでに一歩先んじていた。(略)彼の戦略とは、もっと訴訟を起こすことだった。彼はパブリック・エナミーを訴えた。(略)三百万ドルというとんでもない額が請求された。アーメンの秘書だったジェーン・ペトラーは MTVに出演し、俺の代理としての訴訟だと説明していたが、それは事実無根だ。俺はチャック・Dフレイヴァー・フレイヴとともにMTVに出演し、サンプル使用に異存はないと話した。これにより、訴訟は取り下げられた。

(略)

アーティストが俺たちの楽曲をサンプリングし、そのレコードが大して売れなければ、アーティストも俺たちに大金を支払う必要はない。しかし、そのレコードが五十万枚から百万枚の売上を記録した場合、使用料は五万ドルとなり、百万枚以上の売上の場合は、十万ドルとなる。俺はそんなことを大雑把に考えていた。もちろん、もっと細かい計算方法もあっただろう。それならそれで、俺は受け入れたと思う。俺が受け入れられなかったのは、全てを裁判に訴え、お役所や悪意と結びつけることだった。

(略)

[MCハマーのサンプル使用料を回収]する過程で、俺たちはワーナーが俺たちのカタログの所有権を主張していたことがわかった。また、アーメンが《Mothership Connection》収録の楽曲だけでなく、パーラメントファンカデリック、さらには俺の名前が登場する全楽曲の音楽出版権を主張していることもわかった。俺たちがさらに書類を調べると、ワーナー側に緊張が走った。彼らは、その場での回答を控え、後で折り返すと言った。その後、ワーナーはアーチーに電話をかけてきたが、彼らは喧嘩腰だったうえ、木で鼻を括るような態度をとった。しかし、過去の記録をしらみ潰しに探していくと、どうやらワーナー・ミュージックは、チャペル・パブリッシングを買い取ることで、俺たちのカタログを取得したようだった。そして、チャペル・パブリッシングの楽曲には、ポリグラムとリックズ・ミュージックの楽曲も含まれていた(略)しかし、契約書の様々な条項を調ベても、ポリグラムは俺たちのカタログを売却する権限など持っていなかった。俺たちは、カタログがどのように売却されたのかをポリグラムに問い合わせた。するとポリグラムは、俺の委任状を取得して著作権をレーベルに譲渡し、それをワーナー・ブラザーズに売却したと答えた。奇妙な行為がまかり通る、奇妙な時代だった。

 サンプリングの法的問題にまつわる金銭水準を大幅に引き上げたアルバムは、ドクター・ドレーの《The Chronic》だ。

(略)

[アーメン]は手当たり次第に訴えを起こしただけでなく、和解内容を誠実に公表しなかったため、アーティストを萎縮させた。ネニはアーメンに異議を唱えたが、ネニ自身も自分が所有しているカタログについて、正直に話そうとはしなかった。そしてふたりは、裁判所でカタログの管理を巡り、争いを始めるのだった。

 一方で俺は、自分が知る唯一の方法で事態を収拾しようとした。(略)一九九三年、俺は《Sample Some of Disc, Sample Some of DAT》と題した三枚組ディスクをリリースした。同作は、Pファンクのレコードから抽出したキーボードの旋律やホーン のパート、ギターのリフやドラムのブレイクなどを数百ほど収録している。これは、楽曲使用料を回避したサンプリング・キットだった。アーティストがこの中のサンプルを使用する場合は、俺たちが作った料金表に基づき、代金を請求するという手筈になっていた。自分の収入源が脅かされるため、アーメンはこの作品に激怒し(略)無許可のサンプルを集めた作品だと主張したのだ。

(略)

 ヒップホップがPファンクに与えた影響について、俺は複雑な感情を抱いている。ヒップホップのおかげで、Pファンクの音楽が再び耳目を集めた。それは間違いない。しかしそのせいで、全てに再び値札がついてしまった。つまり、俺から金を巻き上げることに強い関心を持っていた人々が、再び大挙して押し寄せたというわけだ。(略)

俺が弁護士を雇って調査を依頼するたび、その弁護士は寝返り、反対側から俺に手を振るのだった。ドラッグさえやっていなければ、道を踏み外さずに済んだだろうか?それはわからない。

(略)

 今日に至るまで、俺はレコード会社からきちんとした支払いを受けていない。しかし、問題はラッパーにあるわけではない。

(略)

 ラッパーは皆、俺が個人的に彼らを訴えたことがなく、今後もそれは起こりえないということを知っている。

マスター・テープ

 プライマル・スクリームとの仕事中、俺はいつものように音楽業界誌を読んでいた。すると、ファンカデリックのアルバムの広告が出ていた。《Hardcore Jollies》、《One Nation Under aGroove》、《Uncle Jam Wants You》、《Electric Spanking of War Babies》の四枚だ。四枚ともワーナー・ブラザーズのアルバムで(略)どういうわけか、今度はプライオリティ・レコードから再リリースされることになっていた。なぜワーナーがきちんと保管していない?俺はネニに電話をかけたが、彼は俺が驚いていることに驚いていた。ネニは、自身が主宰するテルセール・ムンドのもと、俺に代わって四枚の原盤を管理していると言った。しかし、彼が原盤の譲渡について話せば話すほど、俺には覚えのないことに思えてきた。ネニは嘘をついている。俺もアーメンもそう思った。そしてネニとアーメンは、原盤の所有権について闘いはじめた。

 振り返って考えると、この事件にきちんと注意を払い、綿密な調査をすべきだったと思う。俺のエネルギーは、《Hey Man… Smell My Finger》の興奮と、ワーナー・ブラザーズの宣伝不足による苛立ちに費やされていた。また、クラックでもエネルギーを浪費していた。次のクラックをいつ手にできるのか、もしクラックが入手できない場合には、どんな困難が襲いかかるのかをるのかを心配しながら、俺はジャンキーにありがちな行動を取っていた。しかし、じっくり腰を落ち着けてプライオリティから再リリースされたアルバムの状況を考えることができた時でも、事態は曖昧で不透明だった。確かに、マスター・テープは俺が持っていた。

(略)

[どうやら]プライオリティが使ったのはマスター・テープではなく、ワーナー・ブラザーズの元社員の妻が同社からレコードを盗んで作ったデジタル・テープだった。アナログ盤からデジタル・テープを作ったアルバムもあったようだ。プライオリティから再リリースされた作品を聴いてみるといい。右トラックの音量が異様に大きいのがわかるはずだ。

《Dope Dogs》

俺はニュー・アルバム《Dope Dogs》の制作に着手した。俺はこの頃までに、ヒップホップを大量に聴いており、いくつかのスタイルには、特に強く感化された。俺はボム・スクワッドがパブリック・エナミーで作っていた音楽が大好きだったため、昔のPファン ク・レコードをサンプルして、彼らと同じことを自分でもやりはじめた。ただし、有名なサンプルは使用しないよう努めた――すでに他のアーティストが使い尽くしていたからだ。こうして俺は、アウトテイクやレア・トラック、ライヴ・トラックからサンプリングを行った。俺は最も手のかかる方法で、アルバムを自らプロデュースした。三、四秒のループを曲の最初から最後まで流した後、ループの中で使用しないパートをミュートしたのだ。もっと洗練された方法でソース楽曲を扱うこともできただろう――ボム・スクワッドは外科的に曲を切り刻むと、最大のインパクトを与えたい箇所にそのサンプルを乗せ、その過程で、オリジナル楽曲を変化させることもあった――しかし、俺にはそれをやるスキルもなければ、興味もなかった。俺はむしろ、ピクサーがやっていることなど理解できない、昔気質のディズニーのアニメーターに近かった。手作業しなければ気がすまなかったのだ。

(略)

 俺はループを作ると、ブラックバード・マックナイトを呼び、ループの上からギターを弾かせ、そこにバーニーのオルガンを乗せた。(略)他のミュージシャンもスタジオにやってくると、同じことをやった。こうして、現代から過去に敬意を示したというわけだ。