女パンクの逆襲 フェミニスト音楽史

スリッツ、ヴィヴィアン・アルバーティン

一九七六年、スリッツのギタリストであるヴィヴィアン・アルバーティンは私に言った。「私の周りの男たちはみんなバンドを組んでいて、彼らは見上げるべきヒーローだった。だけど私には誰もいなかった。私はジョニ・ミッチェルになりたいとも彼女みたいな見た目になりたいとも思わなかった。ファニーにすらなりたいと思わなかった。そこで突然、私にはヒーローは必要ないんだって気づいた。私がギターを手に取ってただ弾けばいい。 なぜ弾きはじめたかというより、どうしてそれまで弾いてなかったのかって話ね」

X-レイ・スペックス、ポリー・スタイリン

ポリーの父親オズマン・モハメッドは、ソマリアの家に妻がいると言っていたとはいえ、彼女の母親であるブロムリー生まれのジョーン・ノラ・エリオットとの関係は本物だった。彼らの関係がだめになったのは、どちらも相手の文化を完全に引き受ける気はなかったからだ。ジョーンは自分の子供たちがソマリアの他人たちに育てられるのは嫌だったし、もうひとつの選択肢として、彼女自身がそこに移住してイスラム教徒に改宗し、 一夫多妻制のもとで生きることも拒否した。オズマンは彼女と子供たちへの愛情があったにもかかわらず、彼の伝統的な生き方を変え(られ?) なかった。

 スタイリンの娘でよく彼女と一緒に演奏していたミュージシャンでもあるセレステ・ベルは言う。「オズマンは基本的に西洋文化は堕落していると考えていました。 (略)母も西洋文化をどちらかというと軽蔑していましたから(二四歳でハレ・クリシュナに改宗)。私の母はイングランド人の母親にイングランドで育てられたけれど、自分がイングランド人だとは決して思ったことがなく、彼女の魂は根本的にソマリア人だったと私は信じています」。もちろん、スタイリンが実際にソマリアに移住した際、現地社会からの期待のせいで彼女が故郷で直面していたのと同じ程度にたくさんの困難を経験することになったのは苦い話だ。

 スタイリンは精神科病院で過ごすことになり、後に薬物治療で抑えることになる宇宙のような幻覚を見た。 ベル曰く、「有色人種の若者の多くがそうされるように、彼女は統合失調症と誤診されました。 でも実のところ、彼女は双極性Ⅰ型障害に苦しんでいたのです。彼女の精神的苦痛の多くは、感情と情熱を抑えつける傾向のある人々に囲まれてじめじめした灰色の島国で身動きができないでいるという感覚から引き起こされたものと私は信じています」。

 したがってポリー・スタイリンはパンクにうってつけだった。 それはすなわち居心地の悪さを感じて体制に挑むことだったから。スタイリンは一九七八年から二〇〇八年まで、ロック・アゲインスト・レイシズムのライヴに出演しまくった

ブロンディ、デボラ・ハリー

パンク版マリリン・モンローたるハリーのダイアモンド型の頬骨のおかげもあって、彼女はパンクの恋人となり、まもなく国際的なヒットチャートの常連へと押し上げられた。しかし本当のところ、パンクはブロンディにとってちょっと手を出してみたいろいろなことのうちのひとつだった。彼女はもともとフォークの人で、ウィンド・イン・ザ・ウィローズという古風な名前のバンドにいた。クリス・シュテインと共に、彼女は優れた技能でさまざまなジャンルに取り組んできた。"ハート・オブ・グラス"ではディスコをうまく吸収し、“ラプチャー”で世界のダンスフロアにヒップホップを紹介した。後にハリーはジャズ歌手にもなった

(略)

 ふたりが最初に組んだのは、キャバレー/マッシュアップのグループ、ザ・スティレットズだった。(略)

 スティレットズのふざけたレトロ風味は“リップ・ハー・トゥ・シュレッズ”で作り直され(略)

 「僕らは一九五〇年代が好きだった。その頃はすべてがより生々しかったから。僕らはみんなシャングリラスロネッツみたいなガールグループに夢中だった。彼女たちにはパンクのアティテュードがあったけれど、もっとシュッとしてるんだ」と、シュテインは振り返る。「小さなガキだった頃にはそれをわかっていなかった。ああいうのは商業的だと思っていた。だけど自分がバンド活動をはじめて、すぐにあれがどれだけドラマティックで素晴らしいものだったのかわかったんだ。(“リップ・ハー・トゥ・シュレッズ”には)自己否定の要素もある。そこにはかつて自分がバカみたいだ(と思われているんじゃないか)と気に病んでいたデビー自身に向かっている部分も少しあるんだ。どこかにそれが混ざっているのさ」。

(略)

“リップ・ハー・トゥ・シュレッズ”における磨き上げられたシスターフッド否定のパスティーシュは、コンセプトとしてはレインコーツの“ノー・ワンズ・リトル・ガール”の裏面にあたる。

ザ・レインコーツ

 一九七六年にセックス・ピストルズマンチェスターでの最初のライヴを観たのはたったの二四人、「しかし全員がすごいことをはじめた」という言い伝えは(略)『24アワー・パーティ・ピープルズ』の脚本でも承認されている。(略)

ジーナ・バーチにとっては(略)スリッツが彼女たちの調子っぱずれでダブに染まった怖いもの知らずの音楽を演奏するのを観たことが、そうした啓示の瞬間だった。これこそが私がやりたいことだ、と彼女は思った。これだ。

(略)

「それまで見たことも楽しんだこともない何かを目撃したって感じだった。(略)

コンセプチュアル・アートを発見した時みたいに大興奮。

(略)

 それからまもなくするとバーチは、ポルトガル人シンガーのアナ・ダ・シルヴァがフロントを務める、クラシックの訓練を受けたヴァイオリン奏者のヴィッキー・アスピノールを含んだ新しいバンド、ザ・レインコーツのベース奏者として、ウエストボーン・パーク・ロードの外れのスクウォットに暮していた。 レインコーツは予想外のリズムチェンジと音色をおおいに楽しむポスト・パンク・バンドの先駆けとして、初期のラフ・トレードに欠かせない存在となった。(略)

ラフ・トレードには、女性の権利は暗黙の了解事項という気風があった。ポートベロ・ロードの裏の荒れ果てた通りにある、このインディペンデント・レコード店の先駆けは、レインコーツやクラッシュといった近隣の人々や地元のレゲエバンドだったアスワド、スリッツらを含む、DIYミュージシャンやファンジン作者たちが集う文化の中心地だった。創業者ジェフ・トラヴィスが高校卒業後キブツで働きながら吸収した社会主義者集団の考え方を基盤にはじまったラフ・トレードの店舗とそこから派生したレーベルは、イデオロギーにおいて快活なジェンダー平等の理想に根ざしており

メルシエ・デクルー

メルシエ・デクルーのキャリアはその時々の彼女の男によって形作られてきた。ミシェル・エステバン(一緒に録音をはじめた時には既に元彼だった)だったり、一九八四年の「ズールー・ロック」とその翌年のジャズの実験『ワン・フォー・ザ・ソウル』(略)の両方を作ったイギリスのプロデューサー、アダム・キッドロンだったり。

(略)

 メルシエ・デクルーの「コラボ恋人」たちのひとりに、彼女の決定的なイメージの多くを撮影したニューヨークのミュージシャン兼アーティスト、セス・ティレットがいた。(略)

ティレットは彼女の当時のボーイフレンド(略)リチャード・ヘルのコンサートで彼女を一目見て恋に落ちた。「リジーの目と眉毛は信じられなかった。彼女はあの巨大なシルバーの髪で、ぴちぴちの道化師の格子柄のパンツを履いていた。彼女は僕がそれまで目にしたものの中で最高に素晴らしいものだった」と、ティレットは回想する。

(略)

ヘルが見ていないあいだに、メルシエ・デクルーはパンクに飛び込んでいた。彼女の狩りのスリル(獲物は自分自身?)は、彼女が出した初の音楽のレコードであるザ・ローザ・イェメンに鳴り響いている。彼女とマイケルの弟だったディディエによるギターデュオだ。

(略)

「リジーは信じられないくらい勘が鋭くてクールだった。俺はローザ・イェメンにいちばん強い想いを持っている。これらのトラックは不快で、みだらで、セクシーだった」と、Zeレコーズの設立者でトップのマイケル・ジルカは回想する。「彼女たちは偉大なリズム、空間、力学のセンスを持っていた――誰にも教えられていなくて完全に野性的なんだ。トラックにはリズムベースがない。それが当時のZeの前提だった」

 堂々と原始的で、そのバカバカしさにおいてダダ的な彼女たちの “ローザ・ヴェルトフ”には、ジャズの革新者オーネット・コールマンによる、サウンドの等価性を掲げるハーモロディック理論が歪んで反映されている。このトラックはまるであの精神を高速洗浄する類のドラッグのひとつのように効く。あなたに一瞬だけ超越の感覚をもたらし、それから「現実」に引き戻して、当惑と歓喜を残す。まるで奇妙な情熱に取り憑かれたシャーマンのように、メルシエ・デクルーは、犯罪やジャーナリストや警官への偏執狂的言及が散りばめられた理解不能な呪文を唱える

(略)

 彼女の音楽的自己の探究の旅において、メルシエ・デクルーは自身の詩的で不安定なアイデンティティを、それぞれ別の半球で生まれた、彼女にとって最大に商業的成功を収めた音楽ふたつにうまく織り込んだ。一九八一年のコンパス・ポイント・オールスターズによるコラボーション“マンボ・ナッソー”は(略)クリス・ブラックウェルによって集められた折衷的セッションプレーヤー集団と制作された。

デルタ5、ギャング・オブ・フォー

「誰もが私たちを女性バンドと呼んだけれど、それは一種の誤解です。このグループにはいつも男性がふたりいたのだから」と、デルタ5のベース奏者ベサン・ピーターズはため息をつく。(略)

リーズは完全に大真面目でたくましい左翼学生の集団が存在する反権威思想の最前線だった。

(略)

「私たちはみんなリーズで出会いました。 ザ・ミーコンズ、ザ・ギャング・オブ・フォー、そして私たちはみんなまだリーズの大学生でした。私は一九七八年に学位を取得して、その後も居着いていたんです。 もうひとりのベース奏者、ロス・アレンはファインアート専攻でした」。現在はフランスの奥深くの村で高度技術弁護士として在宅勤務しているピーターズは回想する。「すべてがしっかりと互いに結びついていました。私たちはみんなお互いと一緒に出掛けて、巨大な友達のグループとして混ざりあっていました。ギャング・オブ・フォーはかなり早い時期にEMIと契約しました。 彼らはお金を持っていて、それは前代未聞のことでした。私たちは彼らの設備を使って自分たちのことをやり、それから私たちだけで外に出てギグをやって、バンに乗って高速道路を行ったり来たりしました」

"マインド・ユア・オウン・ビジネス"の誕生は、この時代にふさわしく共同的なものだった。

スリッツ

スリッツはガール・パンクの出発点となった始祖であり(略)

同じくパイオニアであるレインコーツにさえ影響を与えた(略)

一九七六年、私は(略)『サウンズ』に載る彼女たちについての記事を書いた。 アリ・アップは一四歳で、バンドは結成されたばかり。彼女たちがそのはちゃめちゃな輝きでニューヨークのウェブスター・ホールの観客を驚かせた時にも私はそこにいた。まもなくスリッツの一員となるネナ・チェリーがロビーの物販コーナーにいて、パンクのマーケティング・ゲリラことベター・バッジズ製のスリッツのバッジを売っていた。私たちは“スペース・イズ・ザ・プレイス”を歌うジューン・タイソンの電磁気のような声に先導され、古ぼけて既にガタが来ているこぢんまりした劇場の通路をサン・ラが悠々と歩いてくるのを畏敬の念をもって見上げた。こうしたスリッツの自由奔放なトライバリズムは、ジャーナリストと取材対象のあいだの第四の壁をやすやすと破壊して私を引っ張り出し、その結果、私はトレンディになる前の一九七〇年代のグラストンベリーからジェントリフィケーション前の一九九〇年代のブルックリンにあった知る人ぞ知る箱まで、さまざまな会場でステージに飛び乗って彼女たちと共演することになったのだった。

パンクが黙殺した同性愛

 一九七〇年代の英国におけるパンクのたまり場には、ケンジントン・ハイ・ストリートの〈ソンブレロ〉やロンドンのソーホーにあった〈クラブ・ルイーズ〉のようなゲイ・クラブも多かった。下位文化とされていたそれは既に合法化され、同性愛者の権利運動は支持を集めていた。しかし、世間の態度が法律に追いつくのが遅く、同性愛はまだ少しばかり影に身を潜めていて、暴力的なスキンヘッドの間では、パキ・バッシング(南アジア系移民を殴ることを意味する、無頓着すぎて恐ろしいスラング)同様にゲイ・バッシングがさかんだった。

 一九六七年に同性愛が合法化されていたにもかかわらず、「英国の敵意に満ちた空気の中では、パンクは特に役に立たなかった」と、ライターでパンク愛好家のジョン・サヴェージは振り返る。 「初期の参加者の多くがゲイまたはバイセクシュアルだったにもかかわらず、英国パンクは同性愛に賛同の意を示さなかった。超エキサイティングな時代だったが、四〇年を経た今、私がよく覚えているのは、パンクの沈黙の共謀です。誰も同性愛について語ろうとしていなかった。フェミニズムはあり。でも同性愛者の権利や認知にまつわる意識はなかった。ゲイ的な主題を扱ったパンクの曲は、すべて暗号化されていて、どこか周縁的なものだったのです」

 つまり、UKパンク第一波からは、ゲイのジャンルは生まれなかった。

ネナ・チェリー

 一部のレコード会社にとっての恐ろしい可能性、すなわち新しい命がマーケティングのスケジュールを狂わせるという事態は(略)ネナ・チェリーに起こった。

(略)

『ロウ・ライク・スシ』のレコーディング中、チェリーは(略)妊娠していることに気づいた。チェリーは、サーカ・レコードの社長アシュリー・ニュートン(DJ ハーレー・ヴィエラ=ニュートンの父)に妊娠を伝えた。「アシュリーは産むなとは言わなかったけど、すごく困惑した顔をしていた。私はただ『大丈夫よ』と言い、事実、もと もとそうあるべきだったかのようにうまくいった(略)それは悪いことではなく、美しいことだった」

 チェリー(と彼女の弟でミュージシャンのイーグル・アイ)が生まれた音楽の王族には、彼女の“おじさん”ことジャズの伝説オーネット・コールマン、彼女の父親でシエラレオネ出身のパーカッション奏者アーマドゥ・ジャー、そしてマルチメディア・アーティストである母親モキがおり、モキの手による衣装とステージデザインは、ネナを育てた継父でハーモロディック理論のトランペット奏者、ドン・チェリーの周辺に漂うカラフルな雰囲気に大いに貢献していた。ネナのアヴァンギャルドボヘミアン的育ちとパンクを最初に結びつけたのは、パンクの偶像破壊者のひとり、ウィットに富んで言葉巧みなイアン・デューリーだった。彼はジャズ界に足を踏み入れ、自分のバンドであるザ・ブロックヘッズとのツアーに参加するようドン・チェリーを招いたのである。当時一四歳だったネナもついていって、同じく出演者だったスリッツと出会った。竜巻のようなリードシンガーのアリ・アップとすぐに大親友になったネナは、二年にわたってこのバンドに参加した。それから彼女は激烈なポスト・パンクのリップ・リグ・アンド・パニックの一員になった。

セレクター、ポーリン・ブラック

 「私たちが登場した時には、第二次スカ革命が勃発中でした。一九六〇年代にジャマイカで作られた知られざる音楽の形態が前に出てきて、パンク、クラッシュ、スリッツ、ボブ・マーリー、アスワドやスティール・パルスのような若い人たちが作るレゲエの新しい波を大事にしている特定の若者たちの層に支持されたんです。 私たちはその一部で、ポリー・スタイリンみたいにロック・アゲインスト・レイシズムに出演して、実際に主張していました。人種差別と路上の“サス”法を打倒しよう、と」。ポーリン・ブラックが言及しているのは、「(犯罪の)意図を持ってうろついた疑い」というオーウェル的に証明不可能な理由で警察がキッズ(ほとんどが若い黒人男性だ)を逮捕できるようにする、当時の不正極まりない法制定のことだ。彼女は続ける。「ある考え方をしている黒人たちと白人たちはみんなパンクとレゲエを結びつけているのだから、そこに団結しない理由はないし、ある程度までは私たちはシステムの外側でつながりあっていると思っていました。それが私たちがしていたことです」

 デニス・ブラウンやカルチャーのようなトリオやバーニング・スピアなどが指揮を執るコンシャス・ラスタのルーツ・レゲエのクルーは、一九七〇年代後半の何年かにツアーと国際的なレコード契約が増えた後、一九八一年にボブ・マーリーが亡くなり、より押しの強いダンスホールサウンドが台頭したこともあって、もっと一般に受け入れられやすい2トーン・ムーヴメントによって自分らが脇に追いやられてしまったと感じていた。危機感を持ったジャマイカ人たちはその動きを軽視しようとしたけれど、 英国人が自分たちなりの何かをパーティに持ち込んできたことは認めざるを得なかった。それはオリジナルのルーツ・ミュージックほど重くはなかったが、ラジオでうまく機能するような歯切れのよさと弾みがあった。そのスキャンク[スカ、レゲエなどに合わせて踊るダンス]が備えた活気は、一九六〇年代前半の独立の波に続いたカリブ系移民の第一波によってその顔を変容させられつつある都市の姿を反映していた。彼らはぼろぼろの古い英国の再建を目指した戦いの後、帰郷した戦場の英雄たちが向き合えなかった仕事をするためにやってきたのだ。

 新しい多文化主義の英国は、一九七八年にマーリーが“パンキー・レゲエ・パーティ”で歌ったように、パンクとレゲエというふたつの抑圧された若者たちのサブカルチャーを結婚させようとしていた。

(略)

 ポーリン・プラックは、自らの持つ画期的な例外性を意識しないわけにはいかなかった。「私は、音楽業界で重要なはたらきをした有色人種の英国女性がほぼ不在だったという事実を打ち砕いたんです(略)ポリー・スタイリンがいて、その前にはジョーン・アーマトレーディングがいて、どちらも素晴らしかった。私は他の多くのパンク女性たち、有名人と親しくしたりクラッシュを観に行ったりするロンドンにいるタイプとは違って、おなじみの古い表現手法を採用しようとは考えませんでした。私はコヴェントリーに住んでいて、X線技師の仕事をしていました。別の“やっていきかた”なんです。また、フェミニストの権利の話となると、白人女性たちは黒人女性たちを包摂しているのか、それとも別々にあるものなのか?私の経験では、いつも決まって共にあるべきです。そして、それがいかに進んでいくのかが、私にとって興味深い部分です。私はポリー・スタイリンみたいな人の方に共通するところがあります」

 ふたりが初めて顔を合わせたのは(略)あの有名な“ロックの女性たち”グループ写真の撮影現場で、スリッツのヴィヴ・アルバーティン、スージー・スー、デビー・ハリー、クリッシー・ハインドの前の席に案内された時だった。

 ブラックとスタイリンはお互いに顔を見合わせた。「私たちはふたりとも、『自分らはここでいったい何してるんだろう?』と思っていました」と振り返るブラックの声には反抗の響きが含まれており、それは彼女が現在もなお受容のための闘いを忘れていないことを示している。どちらの女性も、当時の英国ではまだ比較的珍しかったミックスレースだ。さらに、ブラックの混乱に拍車をかけた事実として、彼女はスタイリンとは違って、自分がどこから来たのかを知らされないまま、"ブラックネス"の文化的アイデンティティの概念をまったく持たない家族に養子として迎えられていたのだった。そんなわけで、彼女がジャマイカのスカを初めて聴いたのは、学校の休み期間に白人のスキンヘッドの女友達が45回転盤をかけていた時だった。

 英国のさまざまな地方の黒人の街、ロンドンのブリクストン、ブリストルセントポールマンチェスターのモスサイド、バーミンガムのハンズワース……これらすべてセレクターの"オン・マイ・レディオ" がリリースされた二年後には反警察暴動で燃えていた。

ジェイン・コルテス

 ジェイン・コルテスが、一九五〇年代のビートニクが愛した表現形態である詩とジャズを使って複雑なアイデアを音楽的にあらわし、アマゾンの戦士が放つ矢のように鋭く直接的にリスナーに叩き込むというラディカルな使命に着手した頃、パンクという言葉はまだ同性愛者や「負け犬」を意味していた。彼女と同じように獰猛かつ自由な発想を持つ演奏家が揃ったザ・ファイアスピッターズを率いて、変革のエンジンのように唸りをあげ高速回転するリズムに乗せ、血のダイヤモンドよりも鋭い歌詞を唱える彼女は、ヴォーカリストとして文字通り「コントロールを保つ」ことができた。

 彼女が一九八六年に発表した“メインティン・コントロール"のような前にぐいぐい進む曲の数々は、後に続くスポークンワードのアーティストたちに踏襲される雛型となった。

(略)

パンクの先祖である彼女は、その明確な目的意識と創造的な自信によって、アーティスト兼アクティヴィストとして自らの人生を生きることができた。彼女はひとりの女性として、自身のバンドであり、彼女が私に説明したところによれば「一〇代のボーイフレンド」で最初の夫となったオーネット・コールマンにも同行したファイアスピッターズの複雑なポリリズムを指揮する時と同じ確信に満ちた姿勢で人生を生きた。

(略)

彼女はマントラのようなコーラスを繰り返し、大胆な精度の高さで問題をその本質的成分まで蒸留させて歌詞から新しいニュアンスを絞り出しつつ、言葉が聴く者の頭に叩き込まれるまで反復を続ける。彼女はまるで自らのハーモロディック軍の先頭に立つ将軍のように、ファイアスピッターズのリズムに乗った。しばしば「フリー・ジャズ」と呼ばれるこのサウンドは、ふたりが結婚していた時期にコールマンによって開発された。この自由な音に彼女が影響を与えたのは言わずもがなだが、彼女はふたりの芸術的な道筋を別々のものとして捉えていた。

(略)

ハーモロディックは正真正銘の解放の音だ――それはパンク以上に、規則正しいリズムが持つ優位性と境界線に則ることを拒絶している。その代わり、より伝統的なメロディとモチーフが折々に立ち上がり、音楽が羽根を広げることがある。

(略)

「わたしが育ったワッツのコミュニティでは、いつも音楽に触れていました。大編成のブルースとR&Bバンドが入る一〇代のダンスがたくさんあって、ラジオでもそれがかかっていました。両親は素晴らしいレコードコレクションを持っていました」

 コルテスは、両親の棚にあったラテンやアメリカ音楽を他の若いアーティストたちに聴かせることによって、自分たちが受け継いでいる伝統に目覚めさせた。彼女はザ ・ワッツ・ポエッツやザ・ラスト・ポエッツといったもっとよく知られている男性たちに並んで、一九六〇年代のワッツのブラック・アート・ムーヴメントの中心的存在だった。そこで彼女はコールマンや、彼のトランペット奏者で、チェロキー族の血筋らしい頬骨を持つ熱意にあふれてひょろっとした一〇代の少年ドン・チェリーと親交を深めた。アクティヴィズムこそが常に彼女の泳ぐ海だった。コルテスはまだ一〇代の頃から学生非暴力調整委員会(SNCC) の調査員としてミシシッピ州に派遣され、戻ってきて会員たちに選挙の状況について報告していた。

(略)

「あなたが真剣になって公の場に出ていく時、本当のはじまりが訪れます。あなたは自分自身を表現する方法を見つけたのです。自分が書いたものについて友達に話しているうちに、何かが起こる。 わたしの場合、ミシシッピに行って公民権運動に参加しました。その時、わたしの政治的な考えと個人的なことが合流したのです。一九六〇年代のアメリカには、それは豊かな文化がありました。政治的な集会や、いかに自分を表現するかを探れる場所の数々。わたしの個人的な詩的表現、黒人の詩的表現、声、すべてが混ざり合ったのです」(略)

「わたしが自分で自分の作品を発表するようになったのは、自分のやったことを完全に自分で管理したかったからです。力と、より多くの平等性を持つのは良いこと。もしあなたがそういう生き方をしているなら、ビジネスとクリエイティヴは同時にできるはずです。それこそがあなたの人生なのですから」

Taking the Blues Back Home

サンドラ・イザドール、フェラ・クティ

彼は傑作“アップサイド・ダウン”を、彼のアフリカ系アメリカ人ミューズであるロサンゼルス出身の歌手サンドラ・イザドールと一緒に制作した。

 複雑で魅力的なアフロビート・サウンドを生み出したナイジェリア生まれの大物クティは、独自の並外れた生き方で伝説となった。 ラゴスでコンクリートの自宅周辺を囲って形成したコミューンをカラクタ(悪党の) 共和国と名付け、擦り切れたナイロン製のパンツ一丁の姿で王様のようにインタビュアーを迎える彼は自らの世界の支配者だった。

(略)

一九七七年のロンドンでクラッシュのジョー・ストラマーが「ロンドンは退屈で燃えている」と歌っていた一方、ラゴスではクティのカラクタが軍によって燃やされ灰となった。ゆるやかな一夫多妻制のもと彼と一緒に暮らしていた三六人の女性たちは残酷に殴られ、レイプされた。時代に先駆けたアクティヴィストだったクティの母フンミラヨは、この時に負った傷がもとになって亡くなった。

(略)

もしイザドールがいなかったら、ふたりが一緒に録音した “アップサイド・ダウン“のような社会的な意識の高い燃えるような曲を彼が書くことは決してなかったかもしれない。 イザドールがクティを政治の方に向かせたのだ。ふたりは一九六九年、彼が自らのバンドであるクーラ・ロビトスと一緒にロサンゼルスに滞在していた数ヵ月のあいだに出会った。南アフリカ音楽とジャズで実験し、ラジオ・ナイジェリアのために番組を制作していた当時のクティは、社会的地位が高く尊敬を集める、植民地政策のもとですら優遇されていた教会および教育者の家庭に生まれた、かなりブルジョワ的な人物だった。彼にとってイザドールは思わず目を奪われる女性だっただけでなく、政治的および知的に人を目覚めさせる人物だった。イザドールはかつて若きブラックパンサー党員として収監されたことすらあった。彼女は彼にブラックパワーの本を与え、彼は彼女に愛だけでなく音楽で返答した。彼は地元のサパークラブバート・バカラックを歌っていた彼女をロンドンに連れて行き、自身のアルバム『ストラタヴァリウス』のために、クリームのドラマーだったジンジャー・ベイカーと共演するレコーディングを敢行した。イザドールは、英国の直接的な支配が終わってもなおナイジェリアを支配していた植民地的精神性と、クティの故郷の海岸から現地の有力者の共謀のもと船で運ばれてきた何千もの人々の子孫であるアフリカ系アメリカ人が経験してきた抑圧とを結びつけて考えるよう彼を導いた。そうしているうちに、電撃的に結びついたカップルのあいだには、ラゴスで一緒にレコーディングをする話が持ち上がった。

 一九七六年にイザドールがクティのカラクタ共和国に到着した時、彼女が数年前にロサンゼルスで知り合った男は、まったく違う生き方をしていた。彼はビッグバンドのアフロビート・サウンドに磨きをかけていた。彼のクラブ〈ザ・シュライン〉は、たくさんの支持者たちと大勢の側近で賑わっていた。彼の共同体はひとつのコンクリート建築から四方八方に広がる村のようで、その住人にはアフリカ70バンドの二〇人ほどのミュージシャンたちの一部だけでなく、コール&レスポンスのコーラスを歌う大勢の女性たちも含まれていた(そのうち二七人は、軍の攻撃を受けた後、クティが支援のしるしとして結婚した相手だ)。