サリンジャー 評伝 戦争、生い立ち、ウーナ

吹き飛んだ戦争への期待

シェーン・サレルノ サリンジャーは恵まれ、守られて育ったパークアヴェニュー出身の二十五歳で、戦争を冒険的で、魅力的で、ロマンティックなものだと考えていた。自分をジャック・ロンドンの小説の主人公と重ねて、自分が育ってきた生ぬるい温室を兵役が吹き飛ばしてくれることを望んでいた。彼はこう書いている。「僕の心のなかには黒いネクタイが並べられている。見つけてすぐに捨てても、いつだってまだ少し残っているんだ」。自分には作家になるために必要な痛みが足りないのではないかと悩んでいたのだ。戦争が人間としても、作家としても、自らを鍛え、深めてくれることを望んでいた。その次の年は、そんな彼を永遠に変えることになる。

(略)

ティーヴン・E・アンブローズ  波が上陸用舟艇を四方から揺さぶって、船べりを乗り越えて我々の顔面を鋭く叩きつけ続けた。

(略)

ラルフ・デッラ・ヴォルペ二等兵 舟艇は場所を争う虫みたいにぐるぐる旋回していた。力になるだろうと思って山ほど朝食を食べまくっていたのに、吐き出してしまったよ。

 

ティーヴン・E・アンブローズ (略)[マーヴィン・ペレット水兵]のちょうど前には従軍牧師が立っていた。(略)牧師が朝食を吐き出すと、それが風にあおられ、ペレットの顔に(そして全員の顔に)未消化の卵やコーヒーやベーコンの切れ端が飛び散った。

 

デイヴィッド・ロデリック二等軍曹 (略) 我々は障害物がむき出しになる干潮時に攻め込んでドイツ軍を驚かせたんだ。しかし、干潮時に攻撃したことで、海岸まで百メートルほど水のなかを進まなければならないうえ(略)

我々第四師団は、深さ一~二メートルの水のなかに放り出されて、二百メートルほど先の護岸まで何とかたどり着かねばならなかった。(略)

 思うに、サリンジャーが抱いた唯一の疑問――そして我々の誰もが持った唯一の疑問――は、「できるのか? 本当に海岸へたどり着けるのか?」ってことだった。

(略)

マシュー・リッジウェイ大将 (略)

いつ何時でも、見えない敵から銃弾が音もなく放たれて自分を撃ち抜く可能性があると知ったとき、人は不思議な高揚感を抱くのだということも初めて知った。

 

ジョージ・メイベリー大尉 (略)浅瀬にたどり着くまでに二分かかった。その二分がどれほど長かったことか。海岸に着いても走れなかった。軍服がびしょ濡れで重くなって、足は痙攣して感覚がなくなっていたんだ。大きな炸裂弾が海岸で爆発し始めると同時に、近くの内陸から迫撃砲も撃ち込まれ出した。私の前にいた兵士は直撃を食らって粉々に砕け散った。それが起きた瞬間、何か小さいものが腹にあたったと思ったら――その男の親指だった。

 

デイヴィッド・ロデリック二等軍曹 (略)舟艇から降りた後、水中に浮かんだままでいようと必死になっているやつがいたのを覚えている。体の大きい誰かがそいつのズボンの尻の部分を摑んで引き上げると、こう言った。「おいチビ、地に足をつけてた方がいいぞ」。そのチビが礼を言う前に、助けた男は脳天を撃ち抜かれていたよ。(略)

 

デイヴィッド・シールズ サリンジャーの作品で唯一直接的に戦争のことが書かれている短編「魔法の塹壕」は、Dデーのすぐ後に書かれたもので、明らかにこのときの経験がもとになっている。出版されることはなかった。

(略)

 

J・D・サリンジャー(「魔法の塹壕」未刊) (略)海岸には「A」中隊と「B」中隊の死体の山、それに何人かの水兵の死体以外なにもなく、眼鏡を捜して砂の上を這い回っている従軍牧師がいるだけだった。彼は動いている唯一の物体で、八十八ミリ砲が彼のいる辺りを吹き飛ばした。四つん這いになって、眼鏡を捜していた辺りを。彼は死んでしまった

(略)

 

ジョン・マクマナス 私がインタビューしたDデーの退役軍人たちいわく、初めは「人を撃ちたくてたまらない」と思っていたが、すぐに「人なんか撃ちたくない」と思うようになったそうだ。

 

デイヴィッド・ロデリック二等軍曹 (略)我々の砲撃は飛んで行くときに風を切るような音を出す。神経を尖らせ、身を潜める必要があるのは「お届け品」の方だ。特にあの戦争最高の大砲であり、ライフルのように飛んで来るドイツの八十八ミリ砲の音はすぐに覚えたはずだよ。音が聞こえてから飛んで来るまでにほとんど時間がなかった。バンッと鳴ったらもう頭上にある。ドイツとっておきの武器だった。ドイツ軍は我々が「神経症患者の叫び声」と呼んでいたロケット発射の迫撃砲も持っていて、そいつは着弾前に空高く打ち上がるタイプだった。その金切り声のような音がすると、骨の髄まで縮み上がったよ。これは炸薬が入っていないから、空中でもスピンしない。それで音がいくぶん他と違って、普通の大砲より不気味な音を出した。「神経症患者の叫び声」で、二日目に八人の仲間を亡くしたんだ。

(略)

 

アレックス・カーショウ (略)ユタとDデーについて問題なのは、その日に出た犠牲者の数よりも、続く日々で出た犠牲者の数だ。ユタは一番戦闘の激しいビーチではなかったために、あやまった安心感が第四師団に、そして確実にサリンジャーとその仲間たちにも広がっていた。次に何が来るかも知らずに。

(略)

 

ラッセル・リーダー大佐 ドイツ軍は、水をせき止めることで浸水させ、辺りの低地や牧草地を千六百メートル四方の湖に変えちまっていた。我々はその湖を渡らねばならなかった。スパイや忠誠心のあるフランス人からの情報で、ドイツ軍が浸水させる前にブルドーザーで溝を掘って、ところどころ胸の高さではなく三メートルほどの深さになるようにしていることは知っていた。イギリスを発つ前、我々は大将から、その中を渡って行かなければならなくなるかもしれないと聞かされていたんだ。膨張式ライフジャケットを支給してもらって、泳げる者と泳げない者とであらかじめペアを組んでおいた。

(略)

 

デイヴィッド・シールズ リーダー大佐の兵士たちは必死に浸水地帯を進んで行った。のちにリーダーはその時のことをこう振り返っている。「イギリスを発つ直前に、師団長が私に言ったんだ。『スパイからの情報によると、ドイツ軍は浸水地帯に可燃物を仕込んでくるらしい。兵士たちにいざという時の対処法を教えておくように』」。一九五八年のコーネリアス・ライアンへの手紙にリーダーは書いている。「未だに対処法なんてわからんよ」。

(略)

 

ガーデン・F・ジョンソン大佐 防衛線を張るに際して、ドイツ軍はやがて「生け垣の地」として知られるようになる地形を上手く活かしていた。ノルマンディーの生け垣は、地元の言い伝えによると、ローマ人が文明化の途中にある地元の民族から、自分たちの小さな領土を守るために植えたものだという。生け垣は、土堤に石と捩れた木の根を埋め込んだもので、何世紀もかけて固められ、堅固に切り立った壁となっていた。(略)

それらの生け垣は格好の防御壁だった。機関銃を持って生け垣の後ろに隠れているドイツ兵数人で、歩兵の連隊を一つ撃退することも可能だった。夏の葉が彼らの姿を上空からも隠していた。野原の隅で、突き出した木の枝々に覆われるように戦略的に配置されていた数台の戦車が、敵の歩兵隊に強力な射撃能力を与えていた。

 

クライド・ストッジヒル (略)正面攻撃が無謀なことだとは、むろん初めからわかりきっていた。兵士の数がみるみる減っていくなかで、私はドイツ兵を一人殺した。達成したのはそれだけだった。

(略)

 

アレックス・カーショウ (略)ドイツ軍はきわめて有効にその土地を利用していた。驚くべき的確さで地雷を配置していたのだ。「Sマイン」、またの名を「跳ねるベティ」という地雷が、兵士たちを、サリンジャーを、底なしの恐怖に陥れた。一人のアメリカ兵が[バウンシング・ベティの]起爆装置を踏んでしまうと、小さな爆発が起こり爆弾本体が飛び出してくる。この地雷には三百六十個の鉄の球が仕込んであり、股間ほどの高さまで上がってから爆発するように設計されている。引き起こされる被害は甚大だった。

(略)

 

デイヴィッド・シールズ Dデーの三日後、サリンジャーの部隊は敵の拠点エモンドヴィルと銃弾の降り注ぐ要塞アゼヴィルに挟み込まれていた。(略)部隊はエモンドヴィルの前で身動きがとれなくなっていた。(略)

弱まることのないマシンガンの銃弾や迫撃砲のなか(略)大急ぎで死者や負傷者を回収してから、再び前進しようと試みたが、おびただしい犠牲を払ってわずか数メートルしか進めなかった。まる二日以上にわたって、サリンジャーの部隊はドイツ軍がゆっくりと撤退するまで攻撃を繰り返した。

(略)

 

ジョン・マクマナス ニセの降伏を目の当たりにしたアメリカ兵たちは、「殺人狂」になった。私はそう呼んでいる。サリンジャーの第十二歩兵連隊は心に決めたのだ。どんなドイツ人も、降伏しようとしているやつらだろうと、生かしてはおかないと。彼らはひとり残らず殺した。目に入るすべてのドイツ人を追いつめて殺していった。ドイツ側から見て何が起こっていたのか、我々には正直言って知る術はない。誰一人いなくなってしまったから。

(略)

 

アレックス・カーショウ 防諜部隊のメンバーとして、サリンジャーは多くの自由と裁量権を持っていた。ある面では、普通の歩兵に比べ、彼にとっての戦争はより知的で、厳密さを要するものだった。たとえば、彼は防諜部隊に所属していたので、階級の高い士官にも受け答えをする必要がなかった。そればかりか、サリンジャー下士官であるにもかかわらず、少将や大佐に命令をすることさえできた。与えられた多大な自由裁量によって、敵の戦線の近くや背後を動き回り、文化や人々の様子を探り、戦争が地元民にもたらしたものを理解し、戦争によって兵士と現地の人々のあいだに軋轢が生じたか、西洋の偉大な文化や伝統と人間がいかに腐敗や破壊といった影響を受けたかを学ぶことができた。

 市民でありながら爆撃されるというのはどういうことか、内通者であるというのはどういうことか、また、食べ物を得て家族を養っていくための唯一のチャンスがドイツ人兵士と関係をもつことであるような若くて魅力的な女性であるというのはどういうことか、サリンジャーは理解しただろう。

 彼はそういうレベルで戦争の複雑さを理解したはずだ。戦闘の複雑さだけでなく、より重要なこととしては、戦闘に巻き込まれて歪められた人間関係や、戦争が汚染していくあらゆる物事の複雑さを理解しただろう。戦争は戦地から拡がりすべてを汚染する。サリンジャーは、第二次世界大戦が普通の人々に与えた影響の正確な全体像を摑んでいたのではないかと思う。

(略)

 

レイラ・ハドリー・ルース 初めの頃ジェリーは、軍は世界のために良いことをしてるんだっていう、すごく愛国的な気持ちだった。何か良いことに参加していると感じられるのは素晴らしいことだって、彼が言っていたのを覚えているわ。でも、人々が傷を負わされたり殺されたりするのを見て、死というものやばらばらに切断された体を目の当たりにして、ひどく動揺した。それから、戦争なんかに一切関わりたくないと思うようになったの。

生い立ち

デイヴィッド・シールズ サリン ジャーは温室のなかで育った。愛を注いでくれる母親を愛した。慕ってくれる姉のドリスを慕った。父親は堅苦しく厳格で、ハムの輸入を手がけるユダヤ人のビジネスマンであるにもかかわらず、信仰に篤かった。ジェローム・ディヴィッド・サリンジャーはいずれの要素も受け継ぎたくなかった。裕福な家庭で甘やかされて育った彼は、家族が依っているすべてのもの――マンハッタンのアッパーミドルクラスの価値観――に反抗していた。より厳密に言えば、彼はそれらの価値観に対して深い葛藤を抱いていた。ある意味で、悩みのなさがそもそもの悩みの種だった。

(略)

 

ドリス・サリンジャー 母からソニーのリトルインディアンの話を聞いたことはあるかしら?ある日の午後、母が買い物に出ているあいだ、私がソニーのお守りをすることになってたの。その時ソニーは三歳か、いってても四歳だった。私は十歳くらい。なにかが原因で(略)大げんかして、ものすごく怒ったソニーは荷物をスーツケースに詰めて家出の準備を始めた。ソニーはことあるごとに家出してたの。数時間後に帰ってきた母は、ロビーにいるソニーに気付いた。ソニーは細長い羽根のかぶり物なんかをつけて、頭からつま先までインディアンの格好だった。「お母さん、家出をするんだけど、さよならを言うために待ってたんだ」って。母がソニーの荷物をほどくと、中にはおもちゃの兵隊がびっしり。(略)二人にはとても強い結びつきがあった。いつもソニーと母、母とソニーだった。損な役回りをするのはいつも父だった。

 

デイヴィッド・シールズ 私たちが知る、サリンジャーと父親の数少ないエピソードのひとつは、彼の最も有名と思われる短編に反映されている。海浜で、ソルは水遊びをしているジェリーを抱き上げると、「バナナフィッシュ」を見張ってろと言うのだった。

(略)

ジーン・ミラー (略)父親が食肉のビジネスをしていることは決して私に話さなかった。いつも、父親はチーズのビジネスをやっていると言っていたの。(略)

[サリンジャーに父の跡を継ぐ気がないこと]が二人の色々な確執の原因だったんだと思う。

(略)

ジェリーが心に決めたことを何でもできたのは、母親がいたからこそよ。母親は彼のやることすべてを承認した。彼は決して私を家族に会わせようとはしなかった。若いころの父親への反抗について語ることもなかった。

(略)

 

デイヴィッド・シールズ 人生と執筆を通じて、サリンジャーと彼の分身(ホールデン、バディなど)は、ブルジョワジーの偽善を激しく批判し続けた。おそらくその発端は、J・S・ホフマン社の不正行為だった。

 

シェーン・サレルノ J・S・ホフマン社がアメリカの独占禁止法違反と価格操作で起訴されたとき、ソル・サリンジャーは同社の副社長だった。一九四〇年三月に、アメリカで生産された「外国産チーズ」の独占供給を画策したとして告発された。(略)連邦裁判所判事は「意図的かつ継続的」に、「およそ八年間にわたって[すなわち、まるまるJ・D・サリンジャーがパークアヴェニューで過ごした少年時代と重なる]、チーズ工場に支払われる価格を操作し、(略)結果、被告は業界の競争を抑えた」としてホフマン社の責任を問うた。

(略)

慣習的で良識的なあらゆる価値の支持者を自認する厳格な父親のもとに生まれた過度に敏感な息子にとって、父の不祥事は天地がひっくり返るような出来事だったに違いない。実際、私たちがインタビューしたうちの一人は、サリンジャーが父のことを「詐欺師」と呼んだことがあると証言している。

(略)

 

デイヴィッド・シールズ サリンジャーの娘マーガレットは、サリンジャーがとりわけ少年時代に、ユダヤ人の混血であることに深い葛藤を抱いていたのだと指摘している。信仰がその原因ではなく、問題は彼が社会的に難しい立場に置かれていたことにあった。一九四〇年代には、多くの人々がユダヤ人に対して公然と偏見を振りかざしていた。たとえばアイビーリーグに属する大学は、ユダヤ人の入学者数を制限していた。上流社会に受け入れられるためには、金や教育や人脈だけでなく、非ユダヤ系であることが必要とされた。サリンジャーは大人になるにつれ、金や、ハリウッドからの関心や、アイビーリーグからのお墨付きといった、自分が蔑むべきと主張していたものを頻繁に求めるようになっていった。そもそもの初めから、事情は込み入っていたのだ。

「ある少女の思い出」

シェーン・サレルノ サリンジャーは三七年から三八年にかけての八ヶ月ヨーロッパで過ごし、主にウィーンに滞在して父親の食肉とチーズのビジネスを学びながら広告コピーを書いていた。

(略)

 

J・D・サリンジャー(「週一回なら参らない」作者ノート、ストーリー誌(略)

 

十八歳から十九歳の一年をヨーロッパ、主にウィーンで過ごした。(略)私はポーランドのハムビジネスを学ぶことになっていた。(略)

[ポーランドで数ヶ月]ブタの食肉処理をして、体の大きな食肉処理名人と一緒に雪のなかを運搬した。彼は私を楽しませようと心に決めていたようで、猟銃でスズメや電球や同僚たちを撃っていた。

(略)

 

エバーハート・アルセン サリンジャーの作品のなかでも「ある少女の思い出」(一九四八年)は最も自伝的な物語のひとつだ。その物語からは、一九三七年と一九四五年、戦争直前と直後のサリンジャーのヨーロッパでの経験が透けて見える。サリンジャーと同様に、物語の語り手ジョンは大学を退学し、父親は息子を家業の見習いに出すことを決める。(略)

サリンジャーと同じく、ジョンもウィーンでユダヤ人の女性と恋に落ちる。(略)

[アーネスト・ヘミングウェイ宛の]手紙のなかでサリンジャーは、「とあるウィーン女性の足に再びスケート靴を履かせるために」ウィーンへ戻る機会を窺っていると書いている。

 

リチャード・ステイトン その若い女性のスケート靴のひもを結んであげた瞬間は、彼の人生の最も美しい瞬間のひとつだった。それから壮絶な戦争を経験して、終戦が訪れてから、彼はスケート靴を履かせたあの若い女性が強制収容所に連行され殺されていたことを知るんだ。

 

J・D・サリンジャー(「ある少女の思い出」、グッド・ハウスキーピング誌

 

(略)彼女は十六歳で、たちまち人をひきつけるような美人であったが、しかも同時にその美しさは長い間かかってゆっくりと沈みこんでくるような性質のものでもあった。すばらしい黒髪が、それまでに見たこともないほど格好のよい耳の脇に垂れていた。大きな目が無邪気にくるくると動きまわり、いまにもひっくり返りそうであった。手はひじょうに薄い小麦色で、ほっそりとした動きのすくない指をしていた。腰かけているとき、彼女はその美しい手をきわめて賢明にあつかった。つまり両膝の上にのせて、そのままじっとしていたのである。要するに、彼女こそはわたしがそれまでに見たなかで、これこそ本物だと思われる唯一の美しいものであった。

 

エバーハート・アルセン 「ある少女の思い出」の語り手と同様に、ヨーロッパから戻ったサリンジャーは再び大学に通い始めた。

初掲載「若者たち」

ジェイ・ニューグボーレン 二学期も終わりが近づいたころ、ウィット・バーネットはあの静かな生徒が関心を示していることに気がついた。彼は没頭していた。活気に満ちていた。

(略)

 

ポール・アレクサンダー サリンジャーは三つの作品を提出した。磨き上げられ、洗練されたそれらの作品はバーネットを驚かせた。学生たちからそういうレベルの作品を受け取ることはめったになかった。考えてみれば、サリンジャーはこのときまだ二十歳に過ぎなかった(略)

バーネットの励ましに支えられて、サリンジャーは家に帰ると「若者たち」を書き上げ、再びバーネットに渡した。そしてサリンジャーにとっては驚きだったが、バーネットは雑誌掲載の許可を出し、二十五ドルを支払った。それはJ・D・サリンジャーが作家をとして稼いだ初めての金となった。

 

シェーン・サレルノ (略)「若者たち」の掲載が許可されたサリンジャーは、バーネットに感謝の手紙を書いている。「両手が冷や汗でびっしょりです。(略)掲載お断りの手紙なら慣れっこで、後ろ手に縛られていても模写できるんですが。書くことは僕にとって十七の頃から重要なことであり続けています。僕がいままで踏みつけてきた多くの心優しい人々の顔を見れば、そのことがわかるでしょう」。

(略)

 

ジェイ・ニューグボーレン 当時、作家にとってストーリーに載るっていう事は、特に初めて雑誌に載るような若い作家(略)にとっては、このままやっていけばいいんだという自信につながった。ストーリーに載ることは作家として認められることだった。「あなたは作家です。作品が載ります。書き続けてください」と言ってくれていたんだ。

ウーナ・オニール

ウーナ・オニール 彼は作家になるってわかったわ。そういうニオイがしたの。

 

ジェーン・スコヴェル 彼女が部屋に入って来ると、人々は息をのんだ。サリンジャーにも長所はたくさんあった。彼はハンサムだった。話し方が洗練されていた。知的だった。作品が雑誌に載っていた。すべてを兼ね備えていた。確かに言えることがひとつあるわ。それは、二人はカップルとしてものすごく魅力的だっただろうっていうことよ。

(略)

シェーン・サレルノ ウーナ・オニールは劇作家ユージン・オニールの娘だった。五年前にユージンはノーベル文学賞を受賞していた。

(略)

 

レイラ・ハドリー・ルース 彼女はオリジナルな存在だった。他の誰とも似ていなかった。だからこそサリンジャーもあんなに入れ込んだんだと思う。クリシェや陳腐な言葉を使うという罪を決して犯さなかった。完璧にオリジナルだったのよ。

(略)

 

ジェーン・スコヴェル 十六歳から十八歳の間にかけて、ウーナはピーター・アーノ[ニューヨーカーのコミック・アーティスト]、オーソン・ウェルズ、それからJ・D・サリンジャーとデートしていた。

(略)

 

ジョン・レゲット キャロル・マーカス、グロリア・ヴァンダービルト、そしてウーナ・オニールの三人は、とても洗練された都会の女性たちだった。ティーンエイジャーだったにもかかわらず、男の扱い方をよく心得ていて、三人ともリッチで有名な人物と出会って結婚することに心を注いでいた。

 

アラム・サローヤン キャロル、グロリア、そしてウーナは、ニューヨークの社交界において彼女たちの世代で最も美しく輝きを放つ女性たちだった。それぞれ事情は異なるが、彼女たちは三人とも親がいなかった。三人は共に行動し、手を組んで生きて行こうとした。そうすることに利点があったんだ。三人は、彼女たちを大人の世界へと導いてくれる父親や後見人を求めていた。他の若い女性たちがおそらくは探していたであろう、生涯の伴侶としての同世代の男性を探す必要はなかった。それは、美しくありながら、傷つき、満ち足りない彼女たちによる熱狂の時代だったのさ――そして、派手さの裏には悲しみが潜んでいた。

(略)

ウーナは彼の崇高な愛を受け止める準備はできていなかった。(略)

彼女は誰かリッチで有名な男と結婚する方がましだと考えていたんだ。(略)

彼としては、自分が作家であるという事実にウーナは惚れ込んでいると思っていた(略)が、彼女の父親もまた作家だったわけだ。そしてその、彼女がもっとも親密に詳細まで知っている情報と照らし合わせてみれば、たいてい作家というのは、ひどい夫、ひどい父親ということになる。

 

ジェーン・スコヴェル 時々サリンジャーはウーナに少しいら立つことがあったみたいだけど、それはたぶん、サリンジャーが求めるほどにはウーナが関心を向けてくれなかったからだと思うわ。

(略)

 

シェーン・サレルノ 一九四一年の秋に書かれたエリザベス・マレーへの手紙で、サリンジャーはウーナのことを「利発でかわいらしく、それでいてわがまま」と評し、その一ヶ月後には「かわいくて仕方がない」と言っている。

(略)

 

アラム・サローヤン 彼女は美しく、サリンジャーはそんな彼女を愛し、崇めていた。同時に醜悪で浅はかだとも思っていた。浅はかさにすごく腹を立てていた。

ウーナがチャップリンと結婚

ジェーン・スコウェル サリンジャーはウーナに十四枚にもわたる手紙を書き続けた。たぶん彼はひそかに、戦争が終わったら二人は結婚するんだって考えていたはずよ。そして今、その考えは打ち砕かれた。十八歳になるやいなや、ウーナはチャップリンと結婚した。そのニュースは世界中のトップ記事になった。

(略)

 

ポール・アレクサンダー 自分がJ・D・サリンジャーだったらと想像してみてほしい。兵役中で、ヨーロッパでの大戦争が控えている。心の底からの愛を伝え続けた女性が、突然離れて行き、十八歳の誕生日に結婚する。しかも、相手は世界で最も有名な映画スターである。

(略)

 

ジョン・レゲット ジェリーは、当時五十四歳だったチャップリンは明らかに年上過ぎると思ったんだ。結婚したとき彼女はまだティーンエイジャーだった。ジェリーにはまったく間違いだらけの結婚に思えた。

(略)

 

チャーリー・チャップリン 初めは年の差を気にしていた。だがウーナは真実に出会ったとでもいうかのように固く決意していたんだよ。

(略)

 

ジェーン・スコヴェル チャップリンがモンキーグランド、今で言うバイアグラを持っているっていうことは、よく知られていた。それで、サリンジャーは[ウーナへの]手紙にひどい挿絵を描いたのよ。(略)

 

J・D・サリンジャー(「やさしい軍曹」(略)

 

バークさんはいった。「チャップリンはいいんだよ。ただおれはね、おかしな顔をした小男が身体のでっかい奴らにいつも追いかけられてばかしいるのを見たくはないのさ。女を手に入れることもできないでさ。一生涯そうと決まってるみたいにね」

 

アラム・サローヤン(略)サリンジャーチャップリンでは、比べるまでもなかったんだ。ウーナは同世代の男を捕まえてギャンブルのような生活を送ろうなんて思っていなかった。彼女は、嵐から身を守ってくれるような人を求めていて、そういう人物を捕まえるのに十分な美貌を備えていたからね。

 

ジェーン・スコヴェル (略)彼女は人生をかけて父親の代わりを求め、その役割をチャーリー・チャップリンに見いだしたのよ。チャップリンはウーナを連れ出して、別世界まで運んでくれた。言うまでもないことだけど、ユージン・オニールはウーナがチャーリー・チャップリンと結婚したことを聞いて、親子の関係を完全に断ち切った。その後一度もウーナと会うことはなく、彼の前で口をきくことも許さなかった。

(略)

 

レイラ・ハドリー・ルース (略)ウーナは、ユージン・オニールからは決して得られなかった父親としての役割をチャーリー・チャップリンに求めたの。自分の父親が放棄してきたあらゆるものの埋め合わせをしてくれる相手を探してた。

(略)

ジェーン・スコヴェル 振られたんだって考えることは、サリンジャーを死ぬほど参らせたはずよ。彼はウーナを金目当ての女呼ばわりして自分の感情を紛らわさずにはいられなかった。(略)

 

ポール・アレクサンダー 死ぬまでずっと、サリンジャーはこの成就しなかった恋愛に取り憑かれた。サリンジャーはサタデー・イヴニング・ポストに「ヴァリオーニ兄弟」が掲載されるのを楽しみに待つことでウーナを忘れようとした。この短編の発表を待ち望んでいたのは、ハリウッドがこの作品を買ってくれるかもしれない、あわよくば主演はヘンリー・フォンダになるかもしれない、と期待していたためだった。

(略)

 

アラム・サローヤン 周囲からはうまくいくはずがないと言われたウーナとチャップ リンだったが、最終的に周囲が間違っていたことを証明した。二人は幸せな共同生活を、主にヨーロッパで過ごした。四十年の結婚生活で八人の子供をもうけた。

(略)

 

ジェーン・スコヴェル 晩年ウーナはアルコール依存症になった。オニール家の呪いだって、人々は騒ぎ立てたわ。彼女の兄は自殺していた。腹違いの兄も自殺だった。

(略)

 

ディヴィッド・シールズ 彼がどう見ても決して成就することのない恋愛関係に生涯にわたって思いを馳せ続けたことは、明らかであり、またきわめて重要である。彼はこの関係を、多くの非常に若い女性たちと反復する。ウーナより後に付き合った女性たちはいわばタイムマシンだった。思春期の終わりに差し掛かった女性たちへの生涯にわたる執着は、少なくとも部分的には、「堕罪以前」のウーナを取り戻したいという試みだった。ウーナはサリンジャーを永遠に規定した。

次回に続く。

風街とデラシネ 作詞家・松本隆の50年 その2

前回の続き。

松田聖子

 松田聖子に対しては、松本隆もそれまでの歌謡曲の歌い手にはない要素を感じ取っていた。彼はデビュー曲「裸足の季節」を聴いた時のことを、僕が担当しているラジオ番組でこう言った。

「何か、コニー・フランシスみたいな感じがしたの。ポップで声がベタッとしてない。すごく立体的に聞こえたのね。しかもグルーヴがちょっと跳ねる。それはアイドルにしてはちょっとは珍しかった。アイドルってもっとベタッと歌うんですよ。裸足で全部踏んでしまう、みたいな歌い方ですね。彼女が歌うと音符がつま先でぴょんぴょん跳ねているような感じだった。僕が書くべきだ、僕の詞じゃないと生かせないと思った。でも他の人が書いてるからと諦めてたら、ふっと何かの拍子でディレクターが頼んできて。それ以降は何かピタッとはまっちゃったんで、快進撃が始まるのね(笑)」

(略)

松本隆が書いた最初のシングル「白いパラソル」(略)

 若松宗雄は「事務所の人が、こんな地味な曲は売れないって本人に言ったんです。地味かもしれないけど素敵な歌じゃないかって彼女には言いましたけど。あれ、大ヒットですからね」と言った。

 そうした曲調の変化について松本隆は、前述の番組でこんな話をした。

「一番大きかったのは、僕が担当した時、喉の調子が悪かったの。『青い珊瑚礁』のような高音が辛くなってた。喉に負担がかかりすぎるんですね。どうしても中音で勝負するしかなくなっていた。だったら少しテンポを緩くしてミディアム・アップみたいなバラードが歌えたらいいな、と思ってその後の曲を作っていくんです。

(略)

次のシングル「風立ちぬ」である。若松宗雄が「シングルは自分のイメージでお願いした」という数少ない曲の一つだ。堀辰雄の『風立ちぬ』は彼の愛読書だった。

「(略)松本さんには、『大好きだったんで「風立ちぬ」で作ってください、堀辰雄さんの世界をやってください』とお願いしましたね。でも、そこまでです。そこから先はお任せでした」

「ちょっと先に石を投げる」

 松本隆は、松田聖子との関わりの中で意図していたことについて、改めてこんな話をした。

「思うに、それまでのアイドルの歌というのは基本が子供向けだったんですね。そうすると歌い手の年齢が上がってくると歌と合わなくなってギャップが生まれるということを繰り返していた。聴き手が卒業して去ってしまうんですね。(略)

僕が考えていたのは、シンガーが年をとったらファンも同じように一つ年をとるわけだから、常に自分と同じ年の層に向けて作っていけば、ほぼ永久期間アイドルなんじゃないかと。(略)

彼女のちょっと先に石を投げる。後ろには絶対に投げない。やったことのないこと、歌ったことのないことをなるべく入れていく。曲もちょっとずつ難しい人に頼んでゆくようにしましたね」

(略)

「たとえば、太田裕美が歌うとしたら、男がいて女がいるみたいな、ある種抑圧された女性像になるんだけど、聖子は男をからかったりするわけで抑圧されてないんだよね。でも、男と女は同じ生き物だし、僕は割と男女同権が好き。それをできるだけリアルにやろうとした。(略)

知りあって半年経っても恋愛感情が芽生えないカップルとか、手も握れない男の子もいっぱいいたと思うし。それを拾っただけかな」

森進一「冬のリヴィエラ

[大瀧詠一の]85年のエッセイにはこんなエピソードが書かれている。(略)

川崎徹から話が来た時に、彼は「森進一でルイ・アームストロングをやる」というアイデアで、じゃあ先に曲を作ろうと取り掛かったものの、ジャズは「メロディに必然性があるようでない。どうにでもなっちゃう。決め手がない」ためになかなかできなかった。「ラチがあかない、と。じゃ、まず誰かにジャズっぽい詞を書いてもらって。それから曲をつけよう。というわけで、松本に詞を頼んだんだけどねえ」と書いて、こう続けている。

 

 これが運のツキ。あがってきた詞の通りに曲をつけてったら、なんのことはない、ただの歌謡曲になってしまった。サッチモになるはずが歌謡曲。ガッカリしたなあ。いくらヒットしたとはいえ、あれはガッカリ。

 ところが。松本はといえば――

「うーん、久々に実感がある曲ができた……」。

 やっぱり、あいつの実感のほうが当たるのだ。『ロンバケ』のヒットも松本なくしては語れないんだよ、きっと。うん。

 

 もちろん、雑誌のエッセイなのだから多少の誇張も入っているはずだ。話をユーモラスにしつつ松本隆を立てるという気遣いも見える。とはいえ、二人の資質の違いを感じさせるエピソードであることは間違いないだろう。70年代に大瀧詠一が自身の「ナイアガラ・レーベル」で制作した作品が「作詞家・松本隆」の否定から始まっていたという話もすでに触れた。

「1969年のドラッグレース

 松本隆は「1969年のドラッグレース」について「風街図鑑」の全曲解説で、はっぴいえんどのファーストアルバムのレコーディング前に、細野晴臣大瀧詠一と3人で東北から群馬、長野と長距離ドライブをした時のことだと書いている。

 彼が運転して助手席が細野晴臣でバックシートにギターと大瀧詠一。宿も決めずに車の中で寝泊まりもする行き当たりばったりの旅。歌詞の中の“レース”はみんなの生き方で、“道”は時間、“ガソリン”は才能、“イーチ”の頃はそれも限界に近づいていた。この曲は“別れの手紙”だったと解説し、「ぼくの詞にはこういう暗号がたくさんあるよ」と結んでいる。

 アルバム発売時に、そんなふうに聴いた人がどのくらいいただろう。ましてや、このアルバムが大瀧詠一の最後のオリジナルアルバムになると誰が思っただろうか。

 彼は、前述の番組の中でこう言った。

「『A LONG VACATION』の前に、ディレクターの白川さんに、今回は助けますけど、アルバム3枚ぐらいしか持たないと思います、今回は売れそうなものを必死に作りますけど3枚で終わりだからって、最初に宣言しておいたの。『EACH TIME』の時はもう無理だなと。これで会うこともないだろうなと思って手紙を書いた。でも、もう1回くらいは何かできたんじゃないかな。まさかこんなに早く彼がいなくなってしまうというのは計算外でしたね」

(略)

“話すことは山ほどあるはずなのに今は 話題も途切れたまま”(「木の葉のスケッチ」)、“君がぼくのこと誤解したように ぼくも君のこと誤解していたのさ”(「ガラス壜の中の船」)。さりげない言葉の中にも「空気のように必要不可欠」な二人だからこそ通い合う何かがあったに違いない。そうやって何度も曲順を変えて発売したのは、大瀧自身がその都度、それぞれの曲に違う意味を感じ取っていたからではないだろうか。

薬師丸ひろ子探偵物語

[『探偵物語』のサントラは]薬師丸ひろ子が歌う2曲を除いて、全曲加藤和彦の曲が収められている。

 それでいて主題歌を松本隆が担当するようになったのは、映画のプロデューサーが角川春樹だったからだ。彼が、73年に出た南佳孝のアルバム「摩天楼のヒロイン」が好きだった、ということはすでに触れた。「スローなブギにしてくれ」の実績もある。秘蔵っ子ともいえる薬師丸ひろ子の移籍第1弾に松本隆を起用したのは、自然なことだったに違いない。

 さらに注目したいのは、松本隆に詞を依頼した東芝EMIのディレクターが、すでに何度か名前が出てきた鈴木孝夫だったことがある。彼は「摩天楼のヒロイン」を発売した新興のレコード会社、トリオ・レコードのディレクターだった。はっぴいえんどの所属事務所だった風都市がトリオと組んで発足したのが、南佳孝吉田美奈子を世に送りだした SHOWBOAT レーベルだった。彼はその後CBSソニーに移り、岡林信康などを手掛け、80年代に入って東芝EMIに移っていた。慶應義塾大学の1級先輩。つけ加えれば、松本隆が作詞家になりたいと相談した3人の中の一人だ。

 彼は、その時のことを、本書のための取材でこう言った。

「僕はその前に渡辺音楽出版にいたんです。松本さんが、作詞家をやりたい、という話だったんで、渡辺音楽出版に連れて行きました。でも、行きますか、と言ったら行きます、と言ったんでちょっと不思議な感じはしましたね。その時に廊下で紹介したのがアグネス・チャンをやっていた木崎賢治ですね。当時のあの人たちから見れば、渡辺は諸悪の根源でしょうし(笑)。そういう意味では、僕は“あっち側”も“こっち側”も知ってる。むしろ“あっち側”にいるのに“あっち側”に受け入れられてない人、みたいに思われていたかもしれませんね(笑)。『探偵物語』を大瀧さんに依頼したのは、二人で話して決めました」

 「探偵物語」の主題歌は当初、別の曲になる予定だった。その時の候補曲だったのが、「探偵物語」と両A面シングルとして発売された「すこしだけ やさしく」で、レコーディングされた時はそれが「探偵物語」だった。でも、その曲調が彼女の意に添わず、次に作られた「海のスケッチ」が「探偵物語」になり、もともとの曲が「すこしだけ やさしく」に改題された、と大瀧詠一が「Song Book II」の解説で書いている。

 鈴木孝夫は、その時のことをこう言った。

「僕は『すこしだけ やさしく』が好きだったんですけど、大瀧さんは、薬師丸さんは『海のスケッチ』の方が好きだよ、とずっと言ってましたね。監督の根岸吉太郎さんもそうでした。松本さんは『どっちでもいい』だったと思います。大瀧さんは、薬師丸さんの歌を15テイクは録ったんじゃないかな。どんどん歌がよくなってゆく。終わってから食事した時に、大瀧さんが興奮してたのを覚えてます。今思えば、現在の『探偵物語』の方がレコーディングも一生懸命だった気がしますね」

(略)

「すこしだけ やさしく」には、松本隆がバイクの事故で入院中に書いたというエピソードがある。鈴木孝夫は、「あの曲には足を折って包帯をしている入院中の松本さんの印象しかない」と笑った。

 松本隆は、その時のことを改めてこう言った。「(略)ギプスしたまま書いていた。『探偵物語』と『すこしだけ やさしく』には、少し怪我が入ってるよね。僕の詞には日記的なところもあるから、そのまま出ちゃうのが面白いよね」

探偵物語」の中の“身動きも出来ない” や“昨日からはみ出した私がいる”、「すこしだけ やさしく」の中の“もしも心に怪我をしたなら 淋しさって繃帯で縛ってあげる”という一節はまさにそんな反映だったことになる。

(略)

 “日記”という意味では(略)「あなたを・もっと・もっと知りたくて」の「もしもし 私 誰だかわかる?」という台詞は、薬師丸ひろ子松本隆に電話してきた時に実際に口にした言葉だったというエピソードもそんな例だろう。

水橋春夫早川義夫

横浜銀蠅の打ち合せの時に水橋さんに、僕、ジャックスだった、と言われてビックリしたのね。帰ってからジャケット見直して、こいつかと思ったもん(略)

67年に第1回の全日本ライトミュージック・コンテストがあって(略)バーンズは関東甲信越大会で落ちちゃうんだけど、その時に勝ったのがジャックス。彼らに負けて2位になったのが、後に脚本家になって僕の映画『微熱少年』を書いた筒井ともみ。(略)余談だけど、細野さんのバンドはテープ審査で落ちてる (笑)(略)

関東甲信越大会の説明会(略)の時、僕の前に長髪の人がいて、ずっと女だと思ってて。ふっと振り向いたらサングラスをしていて男だった。それが早川さんだった。肩より10センチくらい長くて見たことがないくらい。(略)俺の方が長いという選民意識はあったから、あのショックは大きいよ(笑)(略)

早川さんはすごい。抜きんでてたよね。日本語でフォークをやるとどうなるかな、というのはジャックスを見て思ったことではあるけど、このバリエーションはあまり長くはいかないと思ったらすぐに解散してしまったでしょ。

(略)

遠藤賢司の『猫が眠ってる』『夜汽車のブルース』を見た衝撃はすごかった。これにドラムとベースをつければ日本語のロックになるなとは思った。はっぴいえんどの前だよね(略)

『ゆでめん』 が出た時かな、早川義夫と詞の話をしたことがある。早川さんが言うには、松本君の詞の良さが分からない。じゃあ、僕の詞はつまらないわけ、と聞いたら「そう」だって。僕は『早川さんの詞には面白いのがあるよ』って言ったんだけど。全然分からない、って。ずいぶんはっきり言う人だなと。これが分からないのはディレクターとしてはどうなんだろうと思った。言わなかったけどね。ただ、水橋さんは、早川さんとは合わなかったみたい。彼はもっと明るい音楽をやりたかった、ああいう世界観はすきじゃない。あれはやりたいことじゃなかったと言ってたからね」(略)

松本隆が「アイドル愛がうすくなってきて枯渇してる」という時期の2枚のアルバムは、むしろそうだからこそ“アイドル”という枠にとらわれずに“作詞家・松本隆”が前面にでているといえないだろうか。

 ただ、結果は対照的だった。中山美穂の「EXOTIQUE」は、アルバムチャート6位。それまでのアルバムの中で最高位。[山瀬まみ]「RIBBON」で結果が出せなかった水橋春夫は制作担当を外れ、会社を辞めることになった。彼が新天地となったポリスターで手掛けたのがWinkだった。

川原伸司平井夏美、「瑠璃色の地球

 川原伸司は70年代の後半から大瀧詠一と音楽談義や麻雀をする関係だった。ビクターでピンク・レディー松本伊代などの制作に関わる傍らアン・ルイス杉真理に曲も書いていた。でもビクターは会社の規定でディレクターの作曲が禁じられていたために名前は公にされなかった。松田聖子の「Romance」は“平井夏美”としての最初の作品だった。(略)

「(略)大瀧さんはアメリカ、僕はイギリスが好きで(略)[トニー・ハッチ]の曲をこういうサウンドティーンエイジャー向けにやったらいい、みたいなことを話してたら、1週間後くらいに、『あの話、松田聖子でやらないか』って大瀧さんから電話がかかってきた。明日の朝、マネージャーが取りに行くから今夜中に書いてほしいって。朝9時に渡したら夕方には松本さんの詞が上がって夜にはレコーディング。そこからですね」

 その後に、ビクターの川原伸司として手掛けたのが松本隆大瀧詠一コンビの森進一の「冬のリヴィエラ」である。(略)[「紐育物語」「モロッコ」「イエロー・サブマリン」]も彼だ。はっぴいえんどのメンバーと気心の知れた数少ないA&Rである。

(略)

「(略)『瑠璃色の地球』というタイトルは先にありました。最初はテーマが大きすぎると思った。スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』のラストシーンが浮かんだりして、壮大な歌を作らなきゃいけないだろうなと。1週間くらいかかってこんなのはどう、と松本さんにデモテープを聴かせたら『素晴らしい』とは言ってくれたんですけど、松田聖子だったら展開をこうしてほしいと。もう少し分かりやすいメロディーだったんです。サビのメロディーにもっと変化をつけてほしい。もっと複雑なものにしてくれということだった。この人は作詞家だけど『商品』よりも『作品』に重きを置く人なんだ、と思いましたね。派手さよりも長く残る名曲にしないといけない。神経使いました。僕の中で、シングルにならずに生き続けている名曲はビートルズの『イエスタデイ』だったので、あの曲は意識して作りました」

休憩期間、中森明菜二人静

「89年の Wink から94年の明菜までが僕の休憩期間だった(略)

聖子の『Citron』の後だよね。休みたいなあと思った。それまで、はっぴいえんどの時からずっと最先端、最先端って時代の切り込み隊長みたいに役割を抱え込んで切り込んでる感じがしてて。最先端は飽きたな、というか、もういいか、と思ったのね

(略)

[公には]あんまり言わなかったな。(筒美)京平さんには言ったんだけど、彼は、私たちは芸能界の歯車だから勝手に抜けられないのよ、って。でも、僕は誰に雇われているわけでも給料をもらっているわけでもない自由人だから勝手に休んじゃうよって。その辺が京平さんと僕の大きな差だよね。僕は借りがないんだよね。京平さんも阿久さんも放送局系列の出版会社という陣地があったけど、僕はなかったからね。というより作らなかった。逃げたい時に逃げられるし。陣地なしでやってきた。城がない。野武士なんだね(笑)

(略)

「あの人[阿久悠]はちゃんと公にしたけど、僕はしないままで上手にフェイドアウトした。阿久さんは対事務所という観点で必要だったんだろうけど僕は必要なかった。律儀だなあと思ってた

(略)

自分に何が足りないか考えだした時に、足りないものがあるとしたら『古典』だなと思った。全然知らなかったからね。(略)洋の東西を問わずだよね。だって、歌舞伎の見方も能の見方も分からない。とりあえずその辺からやってみようかなと思った。ちょうどバブルの頃だったから、世界中の有名なアーティストが東京に集まってきてたのね。全部チケットを買ってたらスケジュール帳が真っ黒になった。サントリーホールと上野の東京文化会館オーチャードホール歌舞伎座国立劇場能楽堂と集中して見ていた。ちゃんと解説のパンフレットも読んで。すごいアーティストが来てたんだ。バーンスタインとか、クライバーンとかの巨匠、歌舞伎の役者さんも上手な人が現役だった。

(略)

[「勉強」ではなく]娯楽として楽しんでた。知識欲だよね。それは昔からある方。好奇心も人より旺盛なのね。好奇心に関しては細野さんと僕に共通してる。そういう意味では大瀧さんが一番保守的かな。ただ、細野さんは前衛だから自分との比較で知識を限定するんだけど、僕はわりと全方位だから無防備ではあるけど、だんだん篩にかけられてつまらないものは削られていって美意識が磨かれるわけ。だから貴重な時間だった。今の自分の栄養になってる。

(略)

 90年代のトップ10入りした酒井法子の「幸福なんてほしくないわ」と中森明菜の「二人静 -『天河伝説殺人事件』より」は、そういう日々の中で書かれた曲ということになる。「幸福なんてほしくないわ」の作曲は入江剣、吉田拓郎ペンネームである。

「今だから言えるけど、『幸福なんてほしくないわ』は、その前に聖子用に書いたもの。プロデューサーの若松(宗雄)さんから『結婚なんてしたくない』という歌を書いてくれって言われて、聖子の結婚会見の何日か前に録音したんだ。以前、山口百恵が結婚する時に酒井(政利)さんからやっぱりそういう依頼があって『愛染橋』を書いたんだけど、同じようなことしてると思った。プロの作詞家だから作ったけど、歌う方は嫌だよね、俺だって歌いたくない(笑)。結局発売されなかった。事務所がこのままにしておくのも悪いと思って、作曲者の名前も変えて酒井法子で出したんじゃないかな」

[「二人静」は]角川映画天河伝説殺人事件」の主題歌。(略)

中森明菜はそれまでにも話があったんだけど、ずっと断っていたのね。両方やらない方がいい。松田聖子のためにもライバルは残しておいた方がいいと思ったし。(略)

聖子をフェイドアウトしたことで、そういう気を遣う必要もないし、もうやってもいいかな、みたいな空気にはなってた。マッチとトラブルになって落ち込んでるというのは知ってたから、これを助けられるのは僕しかいないかも、みたいに思ったこともあるんじゃないかな。(略)

映画が殺人事件だったから“殺めたい”とか使ってもいいわけ。刃傷沙汰のものをぶつければマイナスとマイナスでプラスになる。で、『二人静』を書いた。そこには古典も反映されてる。『二人静』というのは“能”にもあるしね」」

90年代、変わっていく“シーン”

「ゴムひもをギリギリまで伸ばして手を放すとビュッと戻るじゃない。あっというまに元に戻る。ただ、それは当たり前というか。もともと芸能界自体がそんなに知的なところでもないし、上品である必要もないけど、瞬間的にあっちに行く。秋元康の後にTKが来て奪い合う形になる。それはある種のフィールドが持っている利権が闘っているわけで、もともと俺たちは、そことは関係なかったからね。むしろあっちが本当で、はっぴいえんどから始まったムーブメントの方が異質だった。こういう世界でトップにいられるのは3年だろうし。なるほどねって。嘆いたりはしなかったな」。

筒美京平

74年の太田裕美のデビューに作詞家になったばかりの松本隆を起用したのは筒美京平だった。

「作詞家になった瞬間、目の前に筒美京平は立っていて、先輩と後輩であり、兄と弟であり、ピッチャーとキャッチャーであり、そして別れなければならない日が来ると、右半身と左半身に裂かれるようだ」「ぼくが京平さんからもらったものはありったけの愛。彼ほどぼくの言葉を愛してくれた人はいない」

(略)

「一番教えられたことは、ヒットが大事、ということかな。彼にはシングルヒット信仰みたいなものがあって。極端にいえば僕は逆じゃないですか。アルバムがメインで、アルバムのためにシングルも売れた方がいいと思ってたし。もちろんやる以上はシングルも1位が取れたほうがいいけど、なかなか取れなかった。自分に方法論がなかったから下手な鉄砲でも撃てばいいと量をこなしていた時期もあったし。そういう時に出会いましたからね」

(略)

僕がはっぴいえんど的なやり方を、彼が旧来の歌謡曲のしきたりみたいなものを持ち込んで、ぶつかり合って切磋琢磨して実を結んだのが太田裕美だと思う。太田裕美は、まだ過小評価されてるよね。彼女のアルバムの中にはもっと評価されていい詞や曲がたくさんあるよ」

「歴史的にみると、同時期にユーミンが同じようなことを同じようなコード進行でやったりして、それがいわゆる J-POP のはしりなんだと思う。最初のムーブメント、基礎を作ったのが筒美京平だよね。それが彼を普通の流行作家じゃない存在にした。そこから時代が変わった。もちろん彼は歌謡界の人ですから、立ち位置は阿久悠の側なんですが、音楽的にはこっち側に持ってきちゃったというか。だから僕がやったことは触媒ですね。(略)それは僕がいなかったら多分できなかっただろうし、彼にはそういう考えもなかったと思う。たまたまそこに行っちゃって、そこにお城を作ったら皆が集まってきて、それが J-POP になった」

「彼が僕に言ったのは、自分たちは歌謡界の歯車だから自分の意思で勝手に動くなって。自分が表に出るのも僕が小説を書くのも、映画監督をするのも嫌がってた。そういう気質の人。作曲家気質みたいな古いものに縛られてたけど音楽はとっても新しくて、僕はそれが好きだったんで自由に遊べたんだけど。彼は120%曲先の人だから他の作詞家はすべて曲先でやってたと思う。話を聞くと詞先は僕だけなんだよね。わがままを許してくれた。可愛がられたということだろうけどね」

「恋人っていうのは、付き合って2、3年でしょう。結婚して飽きちゃったりするし(笑)。それが50年ですよ。切った張った、切磋琢磨して毎日会って、飲んだりご飯食べたりいろんな話して、説教もされたりっていう関係はそんなにないよ。夫婦より濃い。そういう関係なんだと思う(略)

そういう関係は他に二人しかいない。一人は死んでしまって、一人は生きてるけどどっちが先に行くか」(略)

“二人”というのが大瀧詠一細野晴臣であることはいうまでもない。

(略)

はっぴいえんどの功績のひとつが、解散の時に各自バンドをプロデュースするというノルマがあったことだよね。大瀧さんは伊藤銀次のごまのはえと達郎のシュガー・ベイブ。細野さんはのちにティン・パン・アレーになるキャラメル・ママ吉田美奈子、僕は南佳孝とオリジナル・ムーンライダーズ。どれもいま流行りのシティポップスの源流ですよ。YMOの解散とかは“木”にはなってない。はっぴいえんどの解散はそこからジャンルが始まった。種を蒔いたよね。でも、大瀧さんは自分のことに関しては秘密主義だったんで手の内をさらさないわけ。

山下達郎

山下達郎は「氷のマニキュア」についてこう言っている。

 

「僕のメロディって、結局、どこまでいっても、英語のメロディなんです。だから、この歳になっても英語で歌った方が歌いやすいし、メロディもスムースなんです。いままでの15年、何度となく、職業作家として(日本語の歌詞を)トライしてるんです。でも、職業作家が異口同音に言うのは、“書いてみると、こんな難しいメロディはない”。事実、僕のメロディくらい日本語のつきにくいものはない。隙間が多すぎて

(略)

だから、1曲目の『氷のマニキュア』なんかは、いつもなら諦めてたんですよ。いいメロディが出来ても、“これ、日本語乗らないかなぁ”って、諦めちゃうことがあるんです。でも、松本さんなら、やってくれるだろうって。あのぐらいの詞的なレベルの高さで、しかもこのメロディで、というのは、松本さんだからなんですよ。でも、それを歌として、こちらに引き寄せるのが、また大変だけど

(略)

今回4曲松本さんの詞が入ってますけどね。人によってはどうして自分で書かないんだって言うんですが、でも自分の曲に自分では詞が付けられないものがでてきてしまうわけです。作曲家としての自分に作詞家としての自分が付いていけないから、自分で100%書こうとすると、やれない曲が出てくる。そういう曲をやりたいときにどうするんだということになる。『氷のマニキュア』は正にそういう端的な例ですよ。あの字数であの曲調で自分に詞を書けというのはまったく無理で、僕にはできないことなんです」

(略)

 松本隆は、「氷のマニキュア」について、こう言った。

「大瀧さんも朗々としてるから詞をつけにくいとは全然思わなかった。はっぴいえんどにはもっとつけにくい曲があるし、細野さんのメロディーほどつけにくいものはないよ。本人以外は無理だよね(笑)。メロディーというのは音符の数だから、それに合わせるとああなる。大瀧詠一とは昔、話したのかな、彼はそのへんはわかってたんだけど、4文字って日本語の快感法則にないのね。日本語の基本は奇数だから3・5・7の組み合わせ。3と4で7になるとかね。2・4みたいな偶数は困るっていう話はしてた。4・4は難しいよ。最高難度。

 

風街とデラシネ 作詞家・松本隆の50年

エイプリル・フール結成

[小坂忠によるエイプリル・フール結成結成経緯]

 1968年も終わりに近づいた頃、新しいメンバー探しが始まった。そんな年末のある日、柳田ヒロの兄である柳田優がニューイヤー・パーティーに誘ってくれた。(略)目白にあった野上眞宏の家だった。(略)

 パーティーの途中、松本が大学ノートをもって僕のところにやって来た。ノートには自作の詩がいっぱい書かれていて、その中の「暗い日曜日」という詩を僕に歌ってほしいという。メロディーは細野君がサラッと歌ってくれた。それを聴いて初めてセッションで歌うと、松本はえらく感動してくれた。そこで別の機会に細野君と松本を新しいバンドに誘うことにした。

(略)

 その本の中で小坂忠と対談している細野晴臣のその時の記憶はこうだ。

 

細野 松本は僕から誘ったんだと思う。 それで松本は大学を(略)

中退しちゃったの。それでお母さんに呼び出されてね。「困りますよ」って(笑)。その後、茂のお母さんからも僕は呼び出されたしね。「悪の道に誘わないでくれ」と(笑)。

「春よ来い」「12月の雨の日」、日本語のロック

 松本隆は、2018年の FM COCOLO の番組インタビューでこう言った。

「これから日本語のロックをやってどういう形で世間に発表していくかという時に“お正月”と“炬燵”“ミカンとお雑煮”。全然かっこよくない(笑)。わざとそういう言葉を使ってる。発売は8月、真夏なのにですよ。僕、そういうみんなが望んでいるようなものと正反対を提示するんです。それが松本式の世間に対するメッセージみたいになってるんですね」

――家を飛び出してるわけですもんね。

「書いている僕は全然飛び出てない。はっぴいえんどの時はまだ家族で暮らしてました。でも、僕の父は言ってみれば高級官僚なんで、バンドをやるということにはものすごく反対してましたし、殴られたこともありますから。そういうのを秤にかけながらはっぴいえんどをやってたん んです。もし、どっちを選択するかと言われたら何度でも、100回でもはっぴいえんどの方を選ぶだろうと。サラリーマンになることは魅力的ではなかった」

(略)

 「春よ来い」は、同じくアルバム「はっぴいえんど」に入っている「12月の雨の日」とともに彼が大瀧詠一に書いた最初の曲だった。

(略)

「『12月の雨の日』の方が先だったと思うんだけど、非常にリアルタイムで時系列。私小説に近いですね。当時、僕の家は西麻布で大瀧さんは経堂あたりに住んでたの。その下宿に行く途中の景色ですね。雨上がりの街だったし風が吹いていたし。風景をそのまんま詞にしています。大瀧さんのところに行ったら永島慎二の漫画があって、炬燵があった。彼と僕とは出身も違います。彼は岩手の人で宮沢賢治と同じところから出てきて僕は青山で生まれて麻布で育った。都会しか知らないんで会話の糸口がないんです。音楽の話は通じるけど音楽以外の部分では何を話せばいいんだろうと悩んでいて。その部屋にはガロ系の漫画雑誌があって、僕も読んでいたから、そこで初めて接点があったんですね」

(略)

大瀧 松本くんが、たまたまぼくが読んで転がしておいた永島慎二のマンガを読みながらスススッと歌詞を書いて、「この詞で歌ってみてよ」と言って去って行った。それが「十二月の雨の日」の前、仮タイトル「雨あがり」。

(略)

帰ったとき、もう1曲、詞だけ書いて置いていったんですよ。それが「春よ来い」。これも永島慎二のマンガを見てサッと書いたもので。難しかったね、この詞に曲を付けるのは。詞を見ると曲ができない。だから、詞を適当な英語の音韻に変えてインチキな歌詞をこしらえて、そっちを見ながら作った。そんなふうに作り始めたは良かったけど、後が大変。大サビを作るのがものすごく大変で、細野さんにも手助けしてもらいました。ただ、大サビの最後はぼくが強引に締めた。

(略)

大滝 おれから見ると細野・松本の両君は大人だったよ。よく考えてたし。日本語についてもよく考えてたしね。だって、おれは日本語に反対してたじゃん。

松本 あの頃、茂が「これじゃ会議バンドだ、練習しよう」って(笑)。

大滝 おれは「日本語なんかロックに乗るわけがない」って反対してたんだけど、その後(略)裕也さんに同じことをおれが言われることになるとは夢にも思わなかったね(笑)。最初に自分が言ってたこととまったく逆の弁明の矢面に立たされてるっていう、あの構図はおかしかったな。

サブカルとは「好きなことに真実がある」

「僕らの2年くらい上の世代が全共闘なんですね。その人たちが闘っているのを横で見てた(笑)。新宿騒乱事件という暴動なんかも石浦信三と二人で見に行ってたんです。催涙ガスで目、痛いなあとか言いながらね。でも、こういうことでは世の中は変わらないかもしれないなあと。見る、ということが自分たちに課せられたというか、残されたのはそれしかないかなという感じかな。岡林(信康)も一生懸命、歌でやってましたけど、意外に何にも残らなくて一過性で終わってしまう。そういうことも自分の中に記録しておいた方がいいなと。見る、ということが重要、そこに重心を置いていた気がしますね」

 石浦信三の名前は、アルバムの手書きの歌詞カードにも登場する。松本隆の小学校時代からの友人でありはっぴいえんど初代マネージャー。(略)71年発売の2枚目のアルバム「風街ろまん」は彼なくしては語れないアルバムでもある。

(略)

「僕はサブカル出身ですから」

では、サブカルとは何でしょう。

答えはこうだった。

「好きなことに真実があると言うことです」

「風都市」

 石浦とは文学の話ばかりしていたね。ぼくが感覚的に説明することを彼は論理的に説明してくれる。そういう補完のし合いだった。その意味では彼はマネジャーというより親友だったね。ぼくは普通の学生からはロックをやっている奇人変人と見られ、ロックをやってる連中からは文学好きな奇人変人と見られていたんだ。

(略)

[石浦は]渋谷のライブハウス、B.Y.Gのブッキングを手掛けたりもする事務所「風都市」を立ち上げている。

 それは松本隆はっぴいえんどの2枚目のアルバムタイトルに考えていた名前だったという。(略)

「ある晩、風都市って書いたポスターがあったの。何これって聞いたら『今度、こういうコンサートを開こうと思ってる。事務所の名前にもした』って。これはアルバムのタイトルとして考えたんだ、マネージャーなのに盗作するのかって激怒したよ。彼はタイトルに著作権はないって。名言だと思ったよ。だから違うタイトルを考えなきゃと一晩くらい徹夜して造語したのね。代案です。今から思うと『風街ろまん』の方がいいタイトルだから、怪我の功名ですね(笑)」

『HAPPY END』

「『風街ろまん』の後に、やりつくした感がすごく強くて、失語症状態になってしまうんです。これはもう越えられないと思った。同じようにそれぞれの想いがあって解散に向かってゆく。本当は2枚でやめといた方が良かった。そうしたらみんな海外旅行につられちゃって(笑)。僕は反対したんだけど、他の3人が行きたいっていうからしょうがない、付き合うよ、その代わりに詞は各自書いてねと。でも、茂が詞は書けないっていうんで茂の分だけ書くことにした。そうしたらアメリカに着いた時に、大瀧さんが実は、詞が出来てないとか言って(笑)。急遽、日本から使っていない詞を電話送りしてもらって、それに即興で曲をつけて。細野さんはしっかり作詞作曲して来てて。これはほとんど細野ソロだな、はっぴいえんどの意味はあんまりないなと思った。録音は楽しかったけど、結構危ない橋を渡ったのね」

(略)

氷雨月のスケッチ」には、“ねえ もうやめようよ こんな淋しい話”という一節もある。「花いちもんめ」の例にならえば、この時のバンドの状態に対しての彼の気持ち、というようにも取れる。「はっぴいえんどBOX」の中でも「このレコーディングはモチベーションがゼロだったんだよね(笑)。まず、『解散するって決めたのに、なぜ海外で録音する必要があるの?』という疑問があって。(略)まともな詞って『外はいrい天気』だけだよ(笑)」と話している。

今、橋を渡ろうとしている

1975年に出た『エッセイ集 微熱少年』の中に「今ぼくたちをとりまく歌の“平凡”さ 世紀末を飾る歌謡曲を創りたい」と題されたこんな文章がある。

 

 正直言って歌謡曲なんて、殆んど聞いたこともないし、いわゆるテレビの歌謡ショーなんてまともに見たこともないぼくだ。だから歌謡曲の正体なんぞおよそ想像もつかない現状だ。そんなぼくが今、橋を渡ろうとしている。もちろん対岸はあのきらびやかな世界。大衆という、これも正体不明の煙のような人々の眼という眼、耳という耳によって逆投影される不思議な幻影、巨大なSHOWだ。

 

 僕の記憶では73年の暮れに雑誌『ニューミュージック・マガジン』に掲載されたものだと思う。つまり、チューリップの「夏色のおもいで」がヒットしたばかりの時期だ。当時、彼がどこに行こうとしているのかと思いつつ興味深く読んだことを覚えている。

アグネス・チャン「ポケットいっぱいの秘密」

エッセイ集『風のくわるてつと』の文庫版での鈴木慶一との対談でこう話している。

 

松本 はっぴいえんど解散後、プロデューサーとしてやっていこうと思ったら、今と違ってお金があまり派生しなくて、とても生活できないことが判った。そこで作詞家として生きていこうと思って、はっぴいえんどのエンジニアだった吉野金次さんに「CMソングを書きたいんだけど」って言ったら、吉野さんが「CM」を「商業的な」と勘違いして、アグネスの仕事の話を持ってきたんだ。

(略)

オケがキャラメル・ママだったのも、偶然だった。仕掛けたのは吉野さんだと思うけど。

(略)

[アグネスは芸能界の牙城]“ナベプロ”の正真正銘のアイドルだった。“転向”“寝返り”“裏切り者”。彼は1999年に出た「風街図鑑」の全曲解説でこう書いている。

 

 この詞のせいで、ぼくには昔の友だちがほとんどいなくなったんだ。「あいつはロックから歌謡界に魂を売った」ってことで(笑)。(略)そのときに、NHKの教育テレビのドキュメンタリーの番組を観たんだ。それは養護学校の身障者の子供たちが野山をピクニックしながら、「ポケットいっぱいの秘密」をみんなで歌っていた。ぼくはそれを見て感動して泣いた。自分は間違ってないと。歌って趣味趣向や理屈よりもっと深いものであるべきだと。

 

 

筒美京平

[筒美京平との対談]

松本 初めてお邪魔した時(略)[できたばかりの南佳孝『摩天楼のヒロイン』を]

聴いてもらったら……なんて言ったか覚えてる?

筒美 いや(笑い)。

松本 「こういう好きなことやって、食べられたらいいよね」って。(略)

けっこうガーンときてさ。

(略)

筒美 あの頃の松本くんは何か「書生さん」みたいな感じだったよね。学生っぽかった。当時、作詞の仕事をしている人でそういうタイプはいなかったから珍しかった。(略)

松本 ところで、京平さんは「夏色のおもいで」の何が気に入ったの?

筒美 ヒット曲になってたんだよ、最初から。(略)

そういうの(ヒット曲になっているか/いないか)はわかるよ。自分がヒット曲を出してるということは、その時代のカラーをよく知ってるということだから、その曲がそのカラーかどうかはわかる。

 

太田裕美木綿のハンカチーフ

 松本隆は前述の『太田裕美白書』の中でこう話している。

「『雨だれ』『たんぽぽ』『夕焼け』ってシングル 3枚が出るうちに、だんだん売り上げが落ちてしまって。

 それで『夕焼け』が出たあたりでディレクターの白川隆三さんを呼び出してね。(略)

「それまでは、結構、いい子に作詞家をやろうと思っていたんだけど、こんな仕事をしていたらつまらないなと思って。いい子に作詞家をしようとしている姿勢自体が悪いんだな、間違っているんだなと(略)

『一回好きなように書かせてくれ』って言ったんです。『次のアルバムは、詞に対して口を出さないでくれ』って。嫌だったら、もうぼくを切っていいからって。白川さんは、『シングルは口を出させてもらうけど、アルバムは好きに作っていいよ』って言ってくれた。だから『心が風邪をひいた日』というのは、本当に好きに作った」(略)その中に入っていたのが「木綿のハンカチーフ」だった。

 

 

HIRO +1

HIRO +1

  • アーティスト:柳田ヒロ
  • グリーンウッド・レコーズ
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柳田ヒロ

 サンズ・オブ・サンは、元エイプリル・フールのキーボーディスト、柳田ヒロが組んでいたバンドである。

(略)

[松本談]

「ヒロはフード・ブレインで脚光も浴びてメジャーからレコードも出してたし出世も早かった。彼は“英語派”だったような気がするし、細野さんや僕とはちょっと別世界だった」

(略)

[『海賊キッドの冒険』]の全曲のうち松本隆・柳田ヒロというコンビの曲は7曲。インスツルメンタルが1曲あり、他の2曲はその頃の柳田ヒロの友人がペンネームで詞を書いていて、作曲はなんと、今や中島みゆきのプロデューサーとして名をはせる瀬尾一三だった。

 瀬尾一三にあのアルバムの記憶はあるのだろうか。彼はメールでの問い合わせにこう答えてくれた。

「上京直後、毎日が新鮮で刺激的な出逢いが目まぐるしく、寝る時間も惜しむ程喋ったり飲んだり遊び回ってた頃の中心人物が柳田ヒロでした。一緒にロンドンにも行った事があります。その頃のノリで『MAOのアルバムを作るから曲書いて』と言われて書いたと思います。彼はその当時の“若きフィクサー”でした。70年代初頭の混乱怒濤の刺激的な日々を過ごしていた思い出です」

 柳田ヒロが当時どういう存在だったのかを物語っていないだろうか。

 同じ72年の11月には彼の3枚目のソロアルバム「HIRO」も出ている。(略)発売はURC。クレジットには録音は72年7月から10月と記されている。はっぴいえんどが3枚目のアルバムのレコーディングのためにロサンジェルスに向かったのが72年10月だ。つまり、バンド在籍中だった。そして72年11月には、松本隆が4曲を書いた大滝詠一の初のソロアルバム「大瀧詠一」も発売されている。

 サンズ・オブ・サンの「海賊キッドの冒険」、柳田ヒロの「HIRO」、そして大滝詠一の「大瀧詠一」。72年に発売された3枚のアルバムは、どういう関係にあったのだろうか。何しろ柳田ヒロの「HIRO」と大滝詠一の「大瀧詠一」には、両方に「乱れ髪」が入っている。

(略)

「もうほとんど覚えてないんだけど、ウチの奥さんにヒロの事務所の人が来たら渡してくれって、まとめて詞を渡したんだと思う。はっぴいえんどで使わなかったものとか、大瀧さんのソロで使わなかったものとか、誰が歌うかも考えずに好きで書いていたものとかね。その中に大瀧さんにも渡してしまった『乱れ髪』が入っていたんだけど。僕がちゃんと分けてなかったからいけないんで二人には電話で謝った。昔の友達に頼まれて断れなかった、ということなんだと思う。そこから先は覚えてない。ヒロのアルバムが2枚あったということも忘れていた。推理するしかないよ(笑)」

(略)

柳田ヒロの記憶はこうだ。

「僕が覚えているのは、電話で松本と言葉の文字数のやりとりをしたことで、それがどっちのアルバムだったか覚えてないんだ。サンズ・オブ・サンも真剣にバンドをやろうというものじゃなくてセッションという感じでしたから、レコーディングも早かったと思いますよ。何でそうなったかも分からないんだけど、とりあえず日本語にしましょう、という感じだったんじゃないかな。自分の中では“英語派”というより“メロディー派”だと思ってましたから、はっぴいえんどへの対抗心なんて全くない。曲調も鈴木茂からもはっぴいえんどっぽいと言われたことがあるけど、松本の詞を歌うとはっぴいえんどになっちゃうんです(笑)。『乱れ髪』は、私の方が早かったんです。松本が後になって気がついて、大瀧にも渡したんだけど、って申し訳なさそうに言うから、別にいいんじゃないって。(略)」

(略)

「HIRO」の「作詞・松本隆」の曲は「風が焦げる匂いがするだろう」「きみの町を通ったよ」「乱れ髪」「ねえ静かだね」「おそろしいほどあをいそら」「神がまどろむとき」「何がそんなに愉快なの」の7曲である。その中の「風が焦げる匂いがするだろう」というタイトルが気になった。

(略)

 太陽が照りつける夏の情景というだけに留まらない意味を持った表現に思えるのは僕だけだろうか。

 “焦げる”という言葉が連想させる“焦燥感”や“危機感”、あるいは差し迫った何かが始まろうとしている“切迫感”。72年の夏。名盤「風街ろまん」が出た翌年である。松本隆が「アルバムの後に失語症状態になった」という話やバンドが「解散状態になった」という話を当てはめてみるとどうなるだろう。そんな1行に、「作詞家になる」と公言する前の彼の心情やバンドの状況を見ることは出来ないだろうか。

原田真二「てぃーんず ぶるーす」

『てぃーんず ぶるーす』の歌詞が松本隆さんに変えられたことは、僕の中ではショックでした。『てぃーんず ぶるーす』は元々、その時代の同じ世代の暴走族批判的な「君の世代へ」という学生時代につくった僕の詩でした。(略)その歌詞は、あまりにメッセージ色が強く、シングルには向いていないということになり、松本隆さんがそれを読み、キーワードとなるフレーズをピックアップして、言葉を置き換えてくれました。たとえば、「若者の反骨精神」みたいなものを「ジェームスディーン」に置き換えたり、そういう風につくりかえてくれたのです。今は本当に僕にとっても大変勉強になったと思うのですが、はじめに松本隆さんの歌詞を読んだときは、なんて軟弱なものだと思ったのです。その時の僕にはまだ深い意味が理解できなかったので「僕のズックはびしょ濡れ」とか、「ズック」ってなんだ!ズックなんてはいてねえぞって。ロックぽくなくて、なんだか軟弱に聞こえるフレーズが嫌だったのです。当時の僕は、よほど突っ張っていたんですね(笑)。

近藤真彦「スニーカーぶる~す」

「その頃は、歌番組は自分の曲が多くって通信簿見てるみたいで嫌だったから見ないようにしてたんだけど、偶然、茶の間で夕飯を食べる時、娘がテレビを見ていて「金八先生」が流れてたの。こいつカッコいいなー、と思ってたら注文が来たんです」「後になって知るんだけど、ジャニーさんが『てぃーんず ぶるーす』を好きで、『なんとかブルース』にしてくれって言ってたらしい。僕はそんなこと知らないけど、あの歌の世界をやろうと思った。「てぃーんず」の時は、“ズック”という死語を使った。僕らが小学校の頃はそう呼んでましたからね。その後に雑誌の『POPEYE』とか出てきてスニーカーファッションが定着したんで、その世代のブルースのつもりですね」

「ジャニーズは今みたいに帝国といわれるようになってなくて、まだ枯れた時期だった。それを救ったのが“たのきん”ですね。近藤真彦はジャニーズの救世主だった。明るく騒ぐような陽気路線をトシちゃんがやってたんで、僕は翳りのある青春をやりたかった。ジャニーズからの依頼は、その後もずっと『翳り路線』。その延長線に KinKi Kids がいますね」

 彼は自分の作品について、しばしば「通底」という言葉を使う。作品の底に流れているもの。青春観や人生観、流行に左右されない生き方の美学。ジャニー喜多川は、75年の小坂忠の「しらけちまうぜ」を好きだったのだという。

次回に続く。