サリンジャー 評伝 戦争、生い立ち、ウーナ

吹き飛んだ戦争への期待

シェーン・サレルノ サリンジャーは恵まれ、守られて育ったパークアヴェニュー出身の二十五歳で、戦争を冒険的で、魅力的で、ロマンティックなものだと考えていた。自分をジャック・ロンドンの小説の主人公と重ねて、自分が育ってきた生ぬるい温室を兵役が吹き飛ばしてくれることを望んでいた。彼はこう書いている。「僕の心のなかには黒いネクタイが並べられている。見つけてすぐに捨てても、いつだってまだ少し残っているんだ」。自分には作家になるために必要な痛みが足りないのではないかと悩んでいたのだ。戦争が人間としても、作家としても、自らを鍛え、深めてくれることを望んでいた。その次の年は、そんな彼を永遠に変えることになる。

(略)

ティーヴン・E・アンブローズ  波が上陸用舟艇を四方から揺さぶって、船べりを乗り越えて我々の顔面を鋭く叩きつけ続けた。

(略)

ラルフ・デッラ・ヴォルペ二等兵 舟艇は場所を争う虫みたいにぐるぐる旋回していた。力になるだろうと思って山ほど朝食を食べまくっていたのに、吐き出してしまったよ。

 

ティーヴン・E・アンブローズ (略)[マーヴィン・ペレット水兵]のちょうど前には従軍牧師が立っていた。(略)牧師が朝食を吐き出すと、それが風にあおられ、ペレットの顔に(そして全員の顔に)未消化の卵やコーヒーやベーコンの切れ端が飛び散った。

 

デイヴィッド・ロデリック二等軍曹 (略) 我々は障害物がむき出しになる干潮時に攻め込んでドイツ軍を驚かせたんだ。しかし、干潮時に攻撃したことで、海岸まで百メートルほど水のなかを進まなければならないうえ(略)

我々第四師団は、深さ一~二メートルの水のなかに放り出されて、二百メートルほど先の護岸まで何とかたどり着かねばならなかった。(略)

 思うに、サリンジャーが抱いた唯一の疑問――そして我々の誰もが持った唯一の疑問――は、「できるのか? 本当に海岸へたどり着けるのか?」ってことだった。

(略)

マシュー・リッジウェイ大将 (略)

いつ何時でも、見えない敵から銃弾が音もなく放たれて自分を撃ち抜く可能性があると知ったとき、人は不思議な高揚感を抱くのだということも初めて知った。

 

ジョージ・メイベリー大尉 (略)浅瀬にたどり着くまでに二分かかった。その二分がどれほど長かったことか。海岸に着いても走れなかった。軍服がびしょ濡れで重くなって、足は痙攣して感覚がなくなっていたんだ。大きな炸裂弾が海岸で爆発し始めると同時に、近くの内陸から迫撃砲も撃ち込まれ出した。私の前にいた兵士は直撃を食らって粉々に砕け散った。それが起きた瞬間、何か小さいものが腹にあたったと思ったら――その男の親指だった。

 

デイヴィッド・ロデリック二等軍曹 (略)舟艇から降りた後、水中に浮かんだままでいようと必死になっているやつがいたのを覚えている。体の大きい誰かがそいつのズボンの尻の部分を摑んで引き上げると、こう言った。「おいチビ、地に足をつけてた方がいいぞ」。そのチビが礼を言う前に、助けた男は脳天を撃ち抜かれていたよ。(略)

 

デイヴィッド・シールズ サリンジャーの作品で唯一直接的に戦争のことが書かれている短編「魔法の塹壕」は、Dデーのすぐ後に書かれたもので、明らかにこのときの経験がもとになっている。出版されることはなかった。

(略)

 

J・D・サリンジャー(「魔法の塹壕」未刊) (略)海岸には「A」中隊と「B」中隊の死体の山、それに何人かの水兵の死体以外なにもなく、眼鏡を捜して砂の上を這い回っている従軍牧師がいるだけだった。彼は動いている唯一の物体で、八十八ミリ砲が彼のいる辺りを吹き飛ばした。四つん這いになって、眼鏡を捜していた辺りを。彼は死んでしまった

(略)

 

ジョン・マクマナス 私がインタビューしたDデーの退役軍人たちいわく、初めは「人を撃ちたくてたまらない」と思っていたが、すぐに「人なんか撃ちたくない」と思うようになったそうだ。

 

デイヴィッド・ロデリック二等軍曹 (略)我々の砲撃は飛んで行くときに風を切るような音を出す。神経を尖らせ、身を潜める必要があるのは「お届け品」の方だ。特にあの戦争最高の大砲であり、ライフルのように飛んで来るドイツの八十八ミリ砲の音はすぐに覚えたはずだよ。音が聞こえてから飛んで来るまでにほとんど時間がなかった。バンッと鳴ったらもう頭上にある。ドイツとっておきの武器だった。ドイツ軍は我々が「神経症患者の叫び声」と呼んでいたロケット発射の迫撃砲も持っていて、そいつは着弾前に空高く打ち上がるタイプだった。その金切り声のような音がすると、骨の髄まで縮み上がったよ。これは炸薬が入っていないから、空中でもスピンしない。それで音がいくぶん他と違って、普通の大砲より不気味な音を出した。「神経症患者の叫び声」で、二日目に八人の仲間を亡くしたんだ。

(略)

 

アレックス・カーショウ (略)ユタとDデーについて問題なのは、その日に出た犠牲者の数よりも、続く日々で出た犠牲者の数だ。ユタは一番戦闘の激しいビーチではなかったために、あやまった安心感が第四師団に、そして確実にサリンジャーとその仲間たちにも広がっていた。次に何が来るかも知らずに。

(略)

 

ラッセル・リーダー大佐 ドイツ軍は、水をせき止めることで浸水させ、辺りの低地や牧草地を千六百メートル四方の湖に変えちまっていた。我々はその湖を渡らねばならなかった。スパイや忠誠心のあるフランス人からの情報で、ドイツ軍が浸水させる前にブルドーザーで溝を掘って、ところどころ胸の高さではなく三メートルほどの深さになるようにしていることは知っていた。イギリスを発つ前、我々は大将から、その中を渡って行かなければならなくなるかもしれないと聞かされていたんだ。膨張式ライフジャケットを支給してもらって、泳げる者と泳げない者とであらかじめペアを組んでおいた。

(略)

 

デイヴィッド・シールズ リーダー大佐の兵士たちは必死に浸水地帯を進んで行った。のちにリーダーはその時のことをこう振り返っている。「イギリスを発つ直前に、師団長が私に言ったんだ。『スパイからの情報によると、ドイツ軍は浸水地帯に可燃物を仕込んでくるらしい。兵士たちにいざという時の対処法を教えておくように』」。一九五八年のコーネリアス・ライアンへの手紙にリーダーは書いている。「未だに対処法なんてわからんよ」。

(略)

 

ガーデン・F・ジョンソン大佐 防衛線を張るに際して、ドイツ軍はやがて「生け垣の地」として知られるようになる地形を上手く活かしていた。ノルマンディーの生け垣は、地元の言い伝えによると、ローマ人が文明化の途中にある地元の民族から、自分たちの小さな領土を守るために植えたものだという。生け垣は、土堤に石と捩れた木の根を埋め込んだもので、何世紀もかけて固められ、堅固に切り立った壁となっていた。(略)

それらの生け垣は格好の防御壁だった。機関銃を持って生け垣の後ろに隠れているドイツ兵数人で、歩兵の連隊を一つ撃退することも可能だった。夏の葉が彼らの姿を上空からも隠していた。野原の隅で、突き出した木の枝々に覆われるように戦略的に配置されていた数台の戦車が、敵の歩兵隊に強力な射撃能力を与えていた。

 

クライド・ストッジヒル (略)正面攻撃が無謀なことだとは、むろん初めからわかりきっていた。兵士の数がみるみる減っていくなかで、私はドイツ兵を一人殺した。達成したのはそれだけだった。

(略)

 

アレックス・カーショウ (略)ドイツ軍はきわめて有効にその土地を利用していた。驚くべき的確さで地雷を配置していたのだ。「Sマイン」、またの名を「跳ねるベティ」という地雷が、兵士たちを、サリンジャーを、底なしの恐怖に陥れた。一人のアメリカ兵が[バウンシング・ベティの]起爆装置を踏んでしまうと、小さな爆発が起こり爆弾本体が飛び出してくる。この地雷には三百六十個の鉄の球が仕込んであり、股間ほどの高さまで上がってから爆発するように設計されている。引き起こされる被害は甚大だった。

(略)

 

デイヴィッド・シールズ Dデーの三日後、サリンジャーの部隊は敵の拠点エモンドヴィルと銃弾の降り注ぐ要塞アゼヴィルに挟み込まれていた。(略)部隊はエモンドヴィルの前で身動きがとれなくなっていた。(略)

弱まることのないマシンガンの銃弾や迫撃砲のなか(略)大急ぎで死者や負傷者を回収してから、再び前進しようと試みたが、おびただしい犠牲を払ってわずか数メートルしか進めなかった。まる二日以上にわたって、サリンジャーの部隊はドイツ軍がゆっくりと撤退するまで攻撃を繰り返した。

(略)

 

ジョン・マクマナス ニセの降伏を目の当たりにしたアメリカ兵たちは、「殺人狂」になった。私はそう呼んでいる。サリンジャーの第十二歩兵連隊は心に決めたのだ。どんなドイツ人も、降伏しようとしているやつらだろうと、生かしてはおかないと。彼らはひとり残らず殺した。目に入るすべてのドイツ人を追いつめて殺していった。ドイツ側から見て何が起こっていたのか、我々には正直言って知る術はない。誰一人いなくなってしまったから。

(略)

 

アレックス・カーショウ 防諜部隊のメンバーとして、サリンジャーは多くの自由と裁量権を持っていた。ある面では、普通の歩兵に比べ、彼にとっての戦争はより知的で、厳密さを要するものだった。たとえば、彼は防諜部隊に所属していたので、階級の高い士官にも受け答えをする必要がなかった。そればかりか、サリンジャー下士官であるにもかかわらず、少将や大佐に命令をすることさえできた。与えられた多大な自由裁量によって、敵の戦線の近くや背後を動き回り、文化や人々の様子を探り、戦争が地元民にもたらしたものを理解し、戦争によって兵士と現地の人々のあいだに軋轢が生じたか、西洋の偉大な文化や伝統と人間がいかに腐敗や破壊といった影響を受けたかを学ぶことができた。

 市民でありながら爆撃されるというのはどういうことか、内通者であるというのはどういうことか、また、食べ物を得て家族を養っていくための唯一のチャンスがドイツ人兵士と関係をもつことであるような若くて魅力的な女性であるというのはどういうことか、サリンジャーは理解しただろう。

 彼はそういうレベルで戦争の複雑さを理解したはずだ。戦闘の複雑さだけでなく、より重要なこととしては、戦闘に巻き込まれて歪められた人間関係や、戦争が汚染していくあらゆる物事の複雑さを理解しただろう。戦争は戦地から拡がりすべてを汚染する。サリンジャーは、第二次世界大戦が普通の人々に与えた影響の正確な全体像を摑んでいたのではないかと思う。

(略)

 

レイラ・ハドリー・ルース 初めの頃ジェリーは、軍は世界のために良いことをしてるんだっていう、すごく愛国的な気持ちだった。何か良いことに参加していると感じられるのは素晴らしいことだって、彼が言っていたのを覚えているわ。でも、人々が傷を負わされたり殺されたりするのを見て、死というものやばらばらに切断された体を目の当たりにして、ひどく動揺した。それから、戦争なんかに一切関わりたくないと思うようになったの。

生い立ち

デイヴィッド・シールズ サリン ジャーは温室のなかで育った。愛を注いでくれる母親を愛した。慕ってくれる姉のドリスを慕った。父親は堅苦しく厳格で、ハムの輸入を手がけるユダヤ人のビジネスマンであるにもかかわらず、信仰に篤かった。ジェローム・ディヴィッド・サリンジャーはいずれの要素も受け継ぎたくなかった。裕福な家庭で甘やかされて育った彼は、家族が依っているすべてのもの――マンハッタンのアッパーミドルクラスの価値観――に反抗していた。より厳密に言えば、彼はそれらの価値観に対して深い葛藤を抱いていた。ある意味で、悩みのなさがそもそもの悩みの種だった。

(略)

 

ドリス・サリンジャー 母からソニーのリトルインディアンの話を聞いたことはあるかしら?ある日の午後、母が買い物に出ているあいだ、私がソニーのお守りをすることになってたの。その時ソニーは三歳か、いってても四歳だった。私は十歳くらい。なにかが原因で(略)大げんかして、ものすごく怒ったソニーは荷物をスーツケースに詰めて家出の準備を始めた。ソニーはことあるごとに家出してたの。数時間後に帰ってきた母は、ロビーにいるソニーに気付いた。ソニーは細長い羽根のかぶり物なんかをつけて、頭からつま先までインディアンの格好だった。「お母さん、家出をするんだけど、さよならを言うために待ってたんだ」って。母がソニーの荷物をほどくと、中にはおもちゃの兵隊がびっしり。(略)二人にはとても強い結びつきがあった。いつもソニーと母、母とソニーだった。損な役回りをするのはいつも父だった。

 

デイヴィッド・シールズ 私たちが知る、サリンジャーと父親の数少ないエピソードのひとつは、彼の最も有名と思われる短編に反映されている。海浜で、ソルは水遊びをしているジェリーを抱き上げると、「バナナフィッシュ」を見張ってろと言うのだった。

(略)

ジーン・ミラー (略)父親が食肉のビジネスをしていることは決して私に話さなかった。いつも、父親はチーズのビジネスをやっていると言っていたの。(略)

[サリンジャーに父の跡を継ぐ気がないこと]が二人の色々な確執の原因だったんだと思う。

(略)

ジェリーが心に決めたことを何でもできたのは、母親がいたからこそよ。母親は彼のやることすべてを承認した。彼は決して私を家族に会わせようとはしなかった。若いころの父親への反抗について語ることもなかった。

(略)

 

デイヴィッド・シールズ 人生と執筆を通じて、サリンジャーと彼の分身(ホールデン、バディなど)は、ブルジョワジーの偽善を激しく批判し続けた。おそらくその発端は、J・S・ホフマン社の不正行為だった。

 

シェーン・サレルノ J・S・ホフマン社がアメリカの独占禁止法違反と価格操作で起訴されたとき、ソル・サリンジャーは同社の副社長だった。一九四〇年三月に、アメリカで生産された「外国産チーズ」の独占供給を画策したとして告発された。(略)連邦裁判所判事は「意図的かつ継続的」に、「およそ八年間にわたって[すなわち、まるまるJ・D・サリンジャーがパークアヴェニューで過ごした少年時代と重なる]、チーズ工場に支払われる価格を操作し、(略)結果、被告は業界の競争を抑えた」としてホフマン社の責任を問うた。

(略)

慣習的で良識的なあらゆる価値の支持者を自認する厳格な父親のもとに生まれた過度に敏感な息子にとって、父の不祥事は天地がひっくり返るような出来事だったに違いない。実際、私たちがインタビューしたうちの一人は、サリンジャーが父のことを「詐欺師」と呼んだことがあると証言している。

(略)

 

デイヴィッド・シールズ サリンジャーの娘マーガレットは、サリンジャーがとりわけ少年時代に、ユダヤ人の混血であることに深い葛藤を抱いていたのだと指摘している。信仰がその原因ではなく、問題は彼が社会的に難しい立場に置かれていたことにあった。一九四〇年代には、多くの人々がユダヤ人に対して公然と偏見を振りかざしていた。たとえばアイビーリーグに属する大学は、ユダヤ人の入学者数を制限していた。上流社会に受け入れられるためには、金や教育や人脈だけでなく、非ユダヤ系であることが必要とされた。サリンジャーは大人になるにつれ、金や、ハリウッドからの関心や、アイビーリーグからのお墨付きといった、自分が蔑むべきと主張していたものを頻繁に求めるようになっていった。そもそもの初めから、事情は込み入っていたのだ。

「ある少女の思い出」

シェーン・サレルノ サリンジャーは三七年から三八年にかけての八ヶ月ヨーロッパで過ごし、主にウィーンに滞在して父親の食肉とチーズのビジネスを学びながら広告コピーを書いていた。

(略)

 

J・D・サリンジャー(「週一回なら参らない」作者ノート、ストーリー誌(略)

 

十八歳から十九歳の一年をヨーロッパ、主にウィーンで過ごした。(略)私はポーランドのハムビジネスを学ぶことになっていた。(略)

[ポーランドで数ヶ月]ブタの食肉処理をして、体の大きな食肉処理名人と一緒に雪のなかを運搬した。彼は私を楽しませようと心に決めていたようで、猟銃でスズメや電球や同僚たちを撃っていた。

(略)

 

エバーハート・アルセン サリンジャーの作品のなかでも「ある少女の思い出」(一九四八年)は最も自伝的な物語のひとつだ。その物語からは、一九三七年と一九四五年、戦争直前と直後のサリンジャーのヨーロッパでの経験が透けて見える。サリンジャーと同様に、物語の語り手ジョンは大学を退学し、父親は息子を家業の見習いに出すことを決める。(略)

サリンジャーと同じく、ジョンもウィーンでユダヤ人の女性と恋に落ちる。(略)

[アーネスト・ヘミングウェイ宛の]手紙のなかでサリンジャーは、「とあるウィーン女性の足に再びスケート靴を履かせるために」ウィーンへ戻る機会を窺っていると書いている。

 

リチャード・ステイトン その若い女性のスケート靴のひもを結んであげた瞬間は、彼の人生の最も美しい瞬間のひとつだった。それから壮絶な戦争を経験して、終戦が訪れてから、彼はスケート靴を履かせたあの若い女性が強制収容所に連行され殺されていたことを知るんだ。

 

J・D・サリンジャー(「ある少女の思い出」、グッド・ハウスキーピング誌

 

(略)彼女は十六歳で、たちまち人をひきつけるような美人であったが、しかも同時にその美しさは長い間かかってゆっくりと沈みこんでくるような性質のものでもあった。すばらしい黒髪が、それまでに見たこともないほど格好のよい耳の脇に垂れていた。大きな目が無邪気にくるくると動きまわり、いまにもひっくり返りそうであった。手はひじょうに薄い小麦色で、ほっそりとした動きのすくない指をしていた。腰かけているとき、彼女はその美しい手をきわめて賢明にあつかった。つまり両膝の上にのせて、そのままじっとしていたのである。要するに、彼女こそはわたしがそれまでに見たなかで、これこそ本物だと思われる唯一の美しいものであった。

 

エバーハート・アルセン 「ある少女の思い出」の語り手と同様に、ヨーロッパから戻ったサリンジャーは再び大学に通い始めた。

初掲載「若者たち」

ジェイ・ニューグボーレン 二学期も終わりが近づいたころ、ウィット・バーネットはあの静かな生徒が関心を示していることに気がついた。彼は没頭していた。活気に満ちていた。

(略)

 

ポール・アレクサンダー サリンジャーは三つの作品を提出した。磨き上げられ、洗練されたそれらの作品はバーネットを驚かせた。学生たちからそういうレベルの作品を受け取ることはめったになかった。考えてみれば、サリンジャーはこのときまだ二十歳に過ぎなかった(略)

バーネットの励ましに支えられて、サリンジャーは家に帰ると「若者たち」を書き上げ、再びバーネットに渡した。そしてサリンジャーにとっては驚きだったが、バーネットは雑誌掲載の許可を出し、二十五ドルを支払った。それはJ・D・サリンジャーが作家をとして稼いだ初めての金となった。

 

シェーン・サレルノ (略)「若者たち」の掲載が許可されたサリンジャーは、バーネットに感謝の手紙を書いている。「両手が冷や汗でびっしょりです。(略)掲載お断りの手紙なら慣れっこで、後ろ手に縛られていても模写できるんですが。書くことは僕にとって十七の頃から重要なことであり続けています。僕がいままで踏みつけてきた多くの心優しい人々の顔を見れば、そのことがわかるでしょう」。

(略)

 

ジェイ・ニューグボーレン 当時、作家にとってストーリーに載るっていう事は、特に初めて雑誌に載るような若い作家(略)にとっては、このままやっていけばいいんだという自信につながった。ストーリーに載ることは作家として認められることだった。「あなたは作家です。作品が載ります。書き続けてください」と言ってくれていたんだ。

ウーナ・オニール

ウーナ・オニール 彼は作家になるってわかったわ。そういうニオイがしたの。

 

ジェーン・スコヴェル 彼女が部屋に入って来ると、人々は息をのんだ。サリンジャーにも長所はたくさんあった。彼はハンサムだった。話し方が洗練されていた。知的だった。作品が雑誌に載っていた。すべてを兼ね備えていた。確かに言えることがひとつあるわ。それは、二人はカップルとしてものすごく魅力的だっただろうっていうことよ。

(略)

シェーン・サレルノ ウーナ・オニールは劇作家ユージン・オニールの娘だった。五年前にユージンはノーベル文学賞を受賞していた。

(略)

 

レイラ・ハドリー・ルース 彼女はオリジナルな存在だった。他の誰とも似ていなかった。だからこそサリンジャーもあんなに入れ込んだんだと思う。クリシェや陳腐な言葉を使うという罪を決して犯さなかった。完璧にオリジナルだったのよ。

(略)

 

ジェーン・スコヴェル 十六歳から十八歳の間にかけて、ウーナはピーター・アーノ[ニューヨーカーのコミック・アーティスト]、オーソン・ウェルズ、それからJ・D・サリンジャーとデートしていた。

(略)

 

ジョン・レゲット キャロル・マーカス、グロリア・ヴァンダービルト、そしてウーナ・オニールの三人は、とても洗練された都会の女性たちだった。ティーンエイジャーだったにもかかわらず、男の扱い方をよく心得ていて、三人ともリッチで有名な人物と出会って結婚することに心を注いでいた。

 

アラム・サローヤン キャロル、グロリア、そしてウーナは、ニューヨークの社交界において彼女たちの世代で最も美しく輝きを放つ女性たちだった。それぞれ事情は異なるが、彼女たちは三人とも親がいなかった。三人は共に行動し、手を組んで生きて行こうとした。そうすることに利点があったんだ。三人は、彼女たちを大人の世界へと導いてくれる父親や後見人を求めていた。他の若い女性たちがおそらくは探していたであろう、生涯の伴侶としての同世代の男性を探す必要はなかった。それは、美しくありながら、傷つき、満ち足りない彼女たちによる熱狂の時代だったのさ――そして、派手さの裏には悲しみが潜んでいた。

(略)

ウーナは彼の崇高な愛を受け止める準備はできていなかった。(略)

彼女は誰かリッチで有名な男と結婚する方がましだと考えていたんだ。(略)

彼としては、自分が作家であるという事実にウーナは惚れ込んでいると思っていた(略)が、彼女の父親もまた作家だったわけだ。そしてその、彼女がもっとも親密に詳細まで知っている情報と照らし合わせてみれば、たいてい作家というのは、ひどい夫、ひどい父親ということになる。

 

ジェーン・スコヴェル 時々サリンジャーはウーナに少しいら立つことがあったみたいだけど、それはたぶん、サリンジャーが求めるほどにはウーナが関心を向けてくれなかったからだと思うわ。

(略)

 

シェーン・サレルノ 一九四一年の秋に書かれたエリザベス・マレーへの手紙で、サリンジャーはウーナのことを「利発でかわいらしく、それでいてわがまま」と評し、その一ヶ月後には「かわいくて仕方がない」と言っている。

(略)

 

アラム・サローヤン 彼女は美しく、サリンジャーはそんな彼女を愛し、崇めていた。同時に醜悪で浅はかだとも思っていた。浅はかさにすごく腹を立てていた。

ウーナがチャップリンと結婚

ジェーン・スコウェル サリンジャーはウーナに十四枚にもわたる手紙を書き続けた。たぶん彼はひそかに、戦争が終わったら二人は結婚するんだって考えていたはずよ。そして今、その考えは打ち砕かれた。十八歳になるやいなや、ウーナはチャップリンと結婚した。そのニュースは世界中のトップ記事になった。

(略)

 

ポール・アレクサンダー 自分がJ・D・サリンジャーだったらと想像してみてほしい。兵役中で、ヨーロッパでの大戦争が控えている。心の底からの愛を伝え続けた女性が、突然離れて行き、十八歳の誕生日に結婚する。しかも、相手は世界で最も有名な映画スターである。

(略)

 

ジョン・レゲット ジェリーは、当時五十四歳だったチャップリンは明らかに年上過ぎると思ったんだ。結婚したとき彼女はまだティーンエイジャーだった。ジェリーにはまったく間違いだらけの結婚に思えた。

(略)

 

チャーリー・チャップリン 初めは年の差を気にしていた。だがウーナは真実に出会ったとでもいうかのように固く決意していたんだよ。

(略)

 

ジェーン・スコヴェル チャップリンがモンキーグランド、今で言うバイアグラを持っているっていうことは、よく知られていた。それで、サリンジャーは[ウーナへの]手紙にひどい挿絵を描いたのよ。(略)

 

J・D・サリンジャー(「やさしい軍曹」(略)

 

バークさんはいった。「チャップリンはいいんだよ。ただおれはね、おかしな顔をした小男が身体のでっかい奴らにいつも追いかけられてばかしいるのを見たくはないのさ。女を手に入れることもできないでさ。一生涯そうと決まってるみたいにね」

 

アラム・サローヤン(略)サリンジャーチャップリンでは、比べるまでもなかったんだ。ウーナは同世代の男を捕まえてギャンブルのような生活を送ろうなんて思っていなかった。彼女は、嵐から身を守ってくれるような人を求めていて、そういう人物を捕まえるのに十分な美貌を備えていたからね。

 

ジェーン・スコヴェル (略)彼女は人生をかけて父親の代わりを求め、その役割をチャーリー・チャップリンに見いだしたのよ。チャップリンはウーナを連れ出して、別世界まで運んでくれた。言うまでもないことだけど、ユージン・オニールはウーナがチャーリー・チャップリンと結婚したことを聞いて、親子の関係を完全に断ち切った。その後一度もウーナと会うことはなく、彼の前で口をきくことも許さなかった。

(略)

 

レイラ・ハドリー・ルース (略)ウーナは、ユージン・オニールからは決して得られなかった父親としての役割をチャーリー・チャップリンに求めたの。自分の父親が放棄してきたあらゆるものの埋め合わせをしてくれる相手を探してた。

(略)

ジェーン・スコヴェル 振られたんだって考えることは、サリンジャーを死ぬほど参らせたはずよ。彼はウーナを金目当ての女呼ばわりして自分の感情を紛らわさずにはいられなかった。(略)

 

ポール・アレクサンダー 死ぬまでずっと、サリンジャーはこの成就しなかった恋愛に取り憑かれた。サリンジャーはサタデー・イヴニング・ポストに「ヴァリオーニ兄弟」が掲載されるのを楽しみに待つことでウーナを忘れようとした。この短編の発表を待ち望んでいたのは、ハリウッドがこの作品を買ってくれるかもしれない、あわよくば主演はヘンリー・フォンダになるかもしれない、と期待していたためだった。

(略)

 

アラム・サローヤン 周囲からはうまくいくはずがないと言われたウーナとチャップ リンだったが、最終的に周囲が間違っていたことを証明した。二人は幸せな共同生活を、主にヨーロッパで過ごした。四十年の結婚生活で八人の子供をもうけた。

(略)

 

ジェーン・スコヴェル 晩年ウーナはアルコール依存症になった。オニール家の呪いだって、人々は騒ぎ立てたわ。彼女の兄は自殺していた。腹違いの兄も自殺だった。

(略)

 

ディヴィッド・シールズ 彼がどう見ても決して成就することのない恋愛関係に生涯にわたって思いを馳せ続けたことは、明らかであり、またきわめて重要である。彼はこの関係を、多くの非常に若い女性たちと反復する。ウーナより後に付き合った女性たちはいわばタイムマシンだった。思春期の終わりに差し掛かった女性たちへの生涯にわたる執着は、少なくとも部分的には、「堕罪以前」のウーナを取り戻したいという試みだった。ウーナはサリンジャーを永遠に規定した。

次回に続く。