風街とデラシネ 作詞家・松本隆の50年 その2

前回の続き。

松田聖子

 松田聖子に対しては、松本隆もそれまでの歌謡曲の歌い手にはない要素を感じ取っていた。彼はデビュー曲「裸足の季節」を聴いた時のことを、僕が担当しているラジオ番組でこう言った。

「何か、コニー・フランシスみたいな感じがしたの。ポップで声がベタッとしてない。すごく立体的に聞こえたのね。しかもグルーヴがちょっと跳ねる。それはアイドルにしてはちょっとは珍しかった。アイドルってもっとベタッと歌うんですよ。裸足で全部踏んでしまう、みたいな歌い方ですね。彼女が歌うと音符がつま先でぴょんぴょん跳ねているような感じだった。僕が書くべきだ、僕の詞じゃないと生かせないと思った。でも他の人が書いてるからと諦めてたら、ふっと何かの拍子でディレクターが頼んできて。それ以降は何かピタッとはまっちゃったんで、快進撃が始まるのね(笑)」

(略)

松本隆が書いた最初のシングル「白いパラソル」(略)

 若松宗雄は「事務所の人が、こんな地味な曲は売れないって本人に言ったんです。地味かもしれないけど素敵な歌じゃないかって彼女には言いましたけど。あれ、大ヒットですからね」と言った。

 そうした曲調の変化について松本隆は、前述の番組でこんな話をした。

「一番大きかったのは、僕が担当した時、喉の調子が悪かったの。『青い珊瑚礁』のような高音が辛くなってた。喉に負担がかかりすぎるんですね。どうしても中音で勝負するしかなくなっていた。だったら少しテンポを緩くしてミディアム・アップみたいなバラードが歌えたらいいな、と思ってその後の曲を作っていくんです。

(略)

次のシングル「風立ちぬ」である。若松宗雄が「シングルは自分のイメージでお願いした」という数少ない曲の一つだ。堀辰雄の『風立ちぬ』は彼の愛読書だった。

「(略)松本さんには、『大好きだったんで「風立ちぬ」で作ってください、堀辰雄さんの世界をやってください』とお願いしましたね。でも、そこまでです。そこから先はお任せでした」

「ちょっと先に石を投げる」

 松本隆は、松田聖子との関わりの中で意図していたことについて、改めてこんな話をした。

「思うに、それまでのアイドルの歌というのは基本が子供向けだったんですね。そうすると歌い手の年齢が上がってくると歌と合わなくなってギャップが生まれるということを繰り返していた。聴き手が卒業して去ってしまうんですね。(略)

僕が考えていたのは、シンガーが年をとったらファンも同じように一つ年をとるわけだから、常に自分と同じ年の層に向けて作っていけば、ほぼ永久期間アイドルなんじゃないかと。(略)

彼女のちょっと先に石を投げる。後ろには絶対に投げない。やったことのないこと、歌ったことのないことをなるべく入れていく。曲もちょっとずつ難しい人に頼んでゆくようにしましたね」

(略)

「たとえば、太田裕美が歌うとしたら、男がいて女がいるみたいな、ある種抑圧された女性像になるんだけど、聖子は男をからかったりするわけで抑圧されてないんだよね。でも、男と女は同じ生き物だし、僕は割と男女同権が好き。それをできるだけリアルにやろうとした。(略)

知りあって半年経っても恋愛感情が芽生えないカップルとか、手も握れない男の子もいっぱいいたと思うし。それを拾っただけかな」

森進一「冬のリヴィエラ

[大瀧詠一の]85年のエッセイにはこんなエピソードが書かれている。(略)

川崎徹から話が来た時に、彼は「森進一でルイ・アームストロングをやる」というアイデアで、じゃあ先に曲を作ろうと取り掛かったものの、ジャズは「メロディに必然性があるようでない。どうにでもなっちゃう。決め手がない」ためになかなかできなかった。「ラチがあかない、と。じゃ、まず誰かにジャズっぽい詞を書いてもらって。それから曲をつけよう。というわけで、松本に詞を頼んだんだけどねえ」と書いて、こう続けている。

 

 これが運のツキ。あがってきた詞の通りに曲をつけてったら、なんのことはない、ただの歌謡曲になってしまった。サッチモになるはずが歌謡曲。ガッカリしたなあ。いくらヒットしたとはいえ、あれはガッカリ。

 ところが。松本はといえば――

「うーん、久々に実感がある曲ができた……」。

 やっぱり、あいつの実感のほうが当たるのだ。『ロンバケ』のヒットも松本なくしては語れないんだよ、きっと。うん。

 

 もちろん、雑誌のエッセイなのだから多少の誇張も入っているはずだ。話をユーモラスにしつつ松本隆を立てるという気遣いも見える。とはいえ、二人の資質の違いを感じさせるエピソードであることは間違いないだろう。70年代に大瀧詠一が自身の「ナイアガラ・レーベル」で制作した作品が「作詞家・松本隆」の否定から始まっていたという話もすでに触れた。

「1969年のドラッグレース

 松本隆は「1969年のドラッグレース」について「風街図鑑」の全曲解説で、はっぴいえんどのファーストアルバムのレコーディング前に、細野晴臣大瀧詠一と3人で東北から群馬、長野と長距離ドライブをした時のことだと書いている。

 彼が運転して助手席が細野晴臣でバックシートにギターと大瀧詠一。宿も決めずに車の中で寝泊まりもする行き当たりばったりの旅。歌詞の中の“レース”はみんなの生き方で、“道”は時間、“ガソリン”は才能、“イーチ”の頃はそれも限界に近づいていた。この曲は“別れの手紙”だったと解説し、「ぼくの詞にはこういう暗号がたくさんあるよ」と結んでいる。

 アルバム発売時に、そんなふうに聴いた人がどのくらいいただろう。ましてや、このアルバムが大瀧詠一の最後のオリジナルアルバムになると誰が思っただろうか。

 彼は、前述の番組の中でこう言った。

「『A LONG VACATION』の前に、ディレクターの白川さんに、今回は助けますけど、アルバム3枚ぐらいしか持たないと思います、今回は売れそうなものを必死に作りますけど3枚で終わりだからって、最初に宣言しておいたの。『EACH TIME』の時はもう無理だなと。これで会うこともないだろうなと思って手紙を書いた。でも、もう1回くらいは何かできたんじゃないかな。まさかこんなに早く彼がいなくなってしまうというのは計算外でしたね」

(略)

“話すことは山ほどあるはずなのに今は 話題も途切れたまま”(「木の葉のスケッチ」)、“君がぼくのこと誤解したように ぼくも君のこと誤解していたのさ”(「ガラス壜の中の船」)。さりげない言葉の中にも「空気のように必要不可欠」な二人だからこそ通い合う何かがあったに違いない。そうやって何度も曲順を変えて発売したのは、大瀧自身がその都度、それぞれの曲に違う意味を感じ取っていたからではないだろうか。

薬師丸ひろ子探偵物語

[『探偵物語』のサントラは]薬師丸ひろ子が歌う2曲を除いて、全曲加藤和彦の曲が収められている。

 それでいて主題歌を松本隆が担当するようになったのは、映画のプロデューサーが角川春樹だったからだ。彼が、73年に出た南佳孝のアルバム「摩天楼のヒロイン」が好きだった、ということはすでに触れた。「スローなブギにしてくれ」の実績もある。秘蔵っ子ともいえる薬師丸ひろ子の移籍第1弾に松本隆を起用したのは、自然なことだったに違いない。

 さらに注目したいのは、松本隆に詞を依頼した東芝EMIのディレクターが、すでに何度か名前が出てきた鈴木孝夫だったことがある。彼は「摩天楼のヒロイン」を発売した新興のレコード会社、トリオ・レコードのディレクターだった。はっぴいえんどの所属事務所だった風都市がトリオと組んで発足したのが、南佳孝吉田美奈子を世に送りだした SHOWBOAT レーベルだった。彼はその後CBSソニーに移り、岡林信康などを手掛け、80年代に入って東芝EMIに移っていた。慶應義塾大学の1級先輩。つけ加えれば、松本隆が作詞家になりたいと相談した3人の中の一人だ。

 彼は、その時のことを、本書のための取材でこう言った。

「僕はその前に渡辺音楽出版にいたんです。松本さんが、作詞家をやりたい、という話だったんで、渡辺音楽出版に連れて行きました。でも、行きますか、と言ったら行きます、と言ったんでちょっと不思議な感じはしましたね。その時に廊下で紹介したのがアグネス・チャンをやっていた木崎賢治ですね。当時のあの人たちから見れば、渡辺は諸悪の根源でしょうし(笑)。そういう意味では、僕は“あっち側”も“こっち側”も知ってる。むしろ“あっち側”にいるのに“あっち側”に受け入れられてない人、みたいに思われていたかもしれませんね(笑)。『探偵物語』を大瀧さんに依頼したのは、二人で話して決めました」

 「探偵物語」の主題歌は当初、別の曲になる予定だった。その時の候補曲だったのが、「探偵物語」と両A面シングルとして発売された「すこしだけ やさしく」で、レコーディングされた時はそれが「探偵物語」だった。でも、その曲調が彼女の意に添わず、次に作られた「海のスケッチ」が「探偵物語」になり、もともとの曲が「すこしだけ やさしく」に改題された、と大瀧詠一が「Song Book II」の解説で書いている。

 鈴木孝夫は、その時のことをこう言った。

「僕は『すこしだけ やさしく』が好きだったんですけど、大瀧さんは、薬師丸さんは『海のスケッチ』の方が好きだよ、とずっと言ってましたね。監督の根岸吉太郎さんもそうでした。松本さんは『どっちでもいい』だったと思います。大瀧さんは、薬師丸さんの歌を15テイクは録ったんじゃないかな。どんどん歌がよくなってゆく。終わってから食事した時に、大瀧さんが興奮してたのを覚えてます。今思えば、現在の『探偵物語』の方がレコーディングも一生懸命だった気がしますね」

(略)

「すこしだけ やさしく」には、松本隆がバイクの事故で入院中に書いたというエピソードがある。鈴木孝夫は、「あの曲には足を折って包帯をしている入院中の松本さんの印象しかない」と笑った。

 松本隆は、その時のことを改めてこう言った。「(略)ギプスしたまま書いていた。『探偵物語』と『すこしだけ やさしく』には、少し怪我が入ってるよね。僕の詞には日記的なところもあるから、そのまま出ちゃうのが面白いよね」

探偵物語」の中の“身動きも出来ない” や“昨日からはみ出した私がいる”、「すこしだけ やさしく」の中の“もしも心に怪我をしたなら 淋しさって繃帯で縛ってあげる”という一節はまさにそんな反映だったことになる。

(略)

 “日記”という意味では(略)「あなたを・もっと・もっと知りたくて」の「もしもし 私 誰だかわかる?」という台詞は、薬師丸ひろ子松本隆に電話してきた時に実際に口にした言葉だったというエピソードもそんな例だろう。

水橋春夫早川義夫

横浜銀蠅の打ち合せの時に水橋さんに、僕、ジャックスだった、と言われてビックリしたのね。帰ってからジャケット見直して、こいつかと思ったもん(略)

67年に第1回の全日本ライトミュージック・コンテストがあって(略)バーンズは関東甲信越大会で落ちちゃうんだけど、その時に勝ったのがジャックス。彼らに負けて2位になったのが、後に脚本家になって僕の映画『微熱少年』を書いた筒井ともみ。(略)余談だけど、細野さんのバンドはテープ審査で落ちてる (笑)(略)

関東甲信越大会の説明会(略)の時、僕の前に長髪の人がいて、ずっと女だと思ってて。ふっと振り向いたらサングラスをしていて男だった。それが早川さんだった。肩より10センチくらい長くて見たことがないくらい。(略)俺の方が長いという選民意識はあったから、あのショックは大きいよ(笑)(略)

早川さんはすごい。抜きんでてたよね。日本語でフォークをやるとどうなるかな、というのはジャックスを見て思ったことではあるけど、このバリエーションはあまり長くはいかないと思ったらすぐに解散してしまったでしょ。

(略)

遠藤賢司の『猫が眠ってる』『夜汽車のブルース』を見た衝撃はすごかった。これにドラムとベースをつければ日本語のロックになるなとは思った。はっぴいえんどの前だよね(略)

『ゆでめん』 が出た時かな、早川義夫と詞の話をしたことがある。早川さんが言うには、松本君の詞の良さが分からない。じゃあ、僕の詞はつまらないわけ、と聞いたら「そう」だって。僕は『早川さんの詞には面白いのがあるよ』って言ったんだけど。全然分からない、って。ずいぶんはっきり言う人だなと。これが分からないのはディレクターとしてはどうなんだろうと思った。言わなかったけどね。ただ、水橋さんは、早川さんとは合わなかったみたい。彼はもっと明るい音楽をやりたかった、ああいう世界観はすきじゃない。あれはやりたいことじゃなかったと言ってたからね」(略)

松本隆が「アイドル愛がうすくなってきて枯渇してる」という時期の2枚のアルバムは、むしろそうだからこそ“アイドル”という枠にとらわれずに“作詞家・松本隆”が前面にでているといえないだろうか。

 ただ、結果は対照的だった。中山美穂の「EXOTIQUE」は、アルバムチャート6位。それまでのアルバムの中で最高位。[山瀬まみ]「RIBBON」で結果が出せなかった水橋春夫は制作担当を外れ、会社を辞めることになった。彼が新天地となったポリスターで手掛けたのがWinkだった。

川原伸司平井夏美、「瑠璃色の地球

 川原伸司は70年代の後半から大瀧詠一と音楽談義や麻雀をする関係だった。ビクターでピンク・レディー松本伊代などの制作に関わる傍らアン・ルイス杉真理に曲も書いていた。でもビクターは会社の規定でディレクターの作曲が禁じられていたために名前は公にされなかった。松田聖子の「Romance」は“平井夏美”としての最初の作品だった。(略)

「(略)大瀧さんはアメリカ、僕はイギリスが好きで(略)[トニー・ハッチ]の曲をこういうサウンドティーンエイジャー向けにやったらいい、みたいなことを話してたら、1週間後くらいに、『あの話、松田聖子でやらないか』って大瀧さんから電話がかかってきた。明日の朝、マネージャーが取りに行くから今夜中に書いてほしいって。朝9時に渡したら夕方には松本さんの詞が上がって夜にはレコーディング。そこからですね」

 その後に、ビクターの川原伸司として手掛けたのが松本隆大瀧詠一コンビの森進一の「冬のリヴィエラ」である。(略)[「紐育物語」「モロッコ」「イエロー・サブマリン」]も彼だ。はっぴいえんどのメンバーと気心の知れた数少ないA&Rである。

(略)

「(略)『瑠璃色の地球』というタイトルは先にありました。最初はテーマが大きすぎると思った。スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』のラストシーンが浮かんだりして、壮大な歌を作らなきゃいけないだろうなと。1週間くらいかかってこんなのはどう、と松本さんにデモテープを聴かせたら『素晴らしい』とは言ってくれたんですけど、松田聖子だったら展開をこうしてほしいと。もう少し分かりやすいメロディーだったんです。サビのメロディーにもっと変化をつけてほしい。もっと複雑なものにしてくれということだった。この人は作詞家だけど『商品』よりも『作品』に重きを置く人なんだ、と思いましたね。派手さよりも長く残る名曲にしないといけない。神経使いました。僕の中で、シングルにならずに生き続けている名曲はビートルズの『イエスタデイ』だったので、あの曲は意識して作りました」

休憩期間、中森明菜二人静

「89年の Wink から94年の明菜までが僕の休憩期間だった(略)

聖子の『Citron』の後だよね。休みたいなあと思った。それまで、はっぴいえんどの時からずっと最先端、最先端って時代の切り込み隊長みたいに役割を抱え込んで切り込んでる感じがしてて。最先端は飽きたな、というか、もういいか、と思ったのね

(略)

[公には]あんまり言わなかったな。(筒美)京平さんには言ったんだけど、彼は、私たちは芸能界の歯車だから勝手に抜けられないのよ、って。でも、僕は誰に雇われているわけでも給料をもらっているわけでもない自由人だから勝手に休んじゃうよって。その辺が京平さんと僕の大きな差だよね。僕は借りがないんだよね。京平さんも阿久さんも放送局系列の出版会社という陣地があったけど、僕はなかったからね。というより作らなかった。逃げたい時に逃げられるし。陣地なしでやってきた。城がない。野武士なんだね(笑)

(略)

「あの人[阿久悠]はちゃんと公にしたけど、僕はしないままで上手にフェイドアウトした。阿久さんは対事務所という観点で必要だったんだろうけど僕は必要なかった。律儀だなあと思ってた

(略)

自分に何が足りないか考えだした時に、足りないものがあるとしたら『古典』だなと思った。全然知らなかったからね。(略)洋の東西を問わずだよね。だって、歌舞伎の見方も能の見方も分からない。とりあえずその辺からやってみようかなと思った。ちょうどバブルの頃だったから、世界中の有名なアーティストが東京に集まってきてたのね。全部チケットを買ってたらスケジュール帳が真っ黒になった。サントリーホールと上野の東京文化会館オーチャードホール歌舞伎座国立劇場能楽堂と集中して見ていた。ちゃんと解説のパンフレットも読んで。すごいアーティストが来てたんだ。バーンスタインとか、クライバーンとかの巨匠、歌舞伎の役者さんも上手な人が現役だった。

(略)

[「勉強」ではなく]娯楽として楽しんでた。知識欲だよね。それは昔からある方。好奇心も人より旺盛なのね。好奇心に関しては細野さんと僕に共通してる。そういう意味では大瀧さんが一番保守的かな。ただ、細野さんは前衛だから自分との比較で知識を限定するんだけど、僕はわりと全方位だから無防備ではあるけど、だんだん篩にかけられてつまらないものは削られていって美意識が磨かれるわけ。だから貴重な時間だった。今の自分の栄養になってる。

(略)

 90年代のトップ10入りした酒井法子の「幸福なんてほしくないわ」と中森明菜の「二人静 -『天河伝説殺人事件』より」は、そういう日々の中で書かれた曲ということになる。「幸福なんてほしくないわ」の作曲は入江剣、吉田拓郎ペンネームである。

「今だから言えるけど、『幸福なんてほしくないわ』は、その前に聖子用に書いたもの。プロデューサーの若松(宗雄)さんから『結婚なんてしたくない』という歌を書いてくれって言われて、聖子の結婚会見の何日か前に録音したんだ。以前、山口百恵が結婚する時に酒井(政利)さんからやっぱりそういう依頼があって『愛染橋』を書いたんだけど、同じようなことしてると思った。プロの作詞家だから作ったけど、歌う方は嫌だよね、俺だって歌いたくない(笑)。結局発売されなかった。事務所がこのままにしておくのも悪いと思って、作曲者の名前も変えて酒井法子で出したんじゃないかな」

[「二人静」は]角川映画天河伝説殺人事件」の主題歌。(略)

中森明菜はそれまでにも話があったんだけど、ずっと断っていたのね。両方やらない方がいい。松田聖子のためにもライバルは残しておいた方がいいと思ったし。(略)

聖子をフェイドアウトしたことで、そういう気を遣う必要もないし、もうやってもいいかな、みたいな空気にはなってた。マッチとトラブルになって落ち込んでるというのは知ってたから、これを助けられるのは僕しかいないかも、みたいに思ったこともあるんじゃないかな。(略)

映画が殺人事件だったから“殺めたい”とか使ってもいいわけ。刃傷沙汰のものをぶつければマイナスとマイナスでプラスになる。で、『二人静』を書いた。そこには古典も反映されてる。『二人静』というのは“能”にもあるしね」」

90年代、変わっていく“シーン”

「ゴムひもをギリギリまで伸ばして手を放すとビュッと戻るじゃない。あっというまに元に戻る。ただ、それは当たり前というか。もともと芸能界自体がそんなに知的なところでもないし、上品である必要もないけど、瞬間的にあっちに行く。秋元康の後にTKが来て奪い合う形になる。それはある種のフィールドが持っている利権が闘っているわけで、もともと俺たちは、そことは関係なかったからね。むしろあっちが本当で、はっぴいえんどから始まったムーブメントの方が異質だった。こういう世界でトップにいられるのは3年だろうし。なるほどねって。嘆いたりはしなかったな」。

筒美京平

74年の太田裕美のデビューに作詞家になったばかりの松本隆を起用したのは筒美京平だった。

「作詞家になった瞬間、目の前に筒美京平は立っていて、先輩と後輩であり、兄と弟であり、ピッチャーとキャッチャーであり、そして別れなければならない日が来ると、右半身と左半身に裂かれるようだ」「ぼくが京平さんからもらったものはありったけの愛。彼ほどぼくの言葉を愛してくれた人はいない」

(略)

「一番教えられたことは、ヒットが大事、ということかな。彼にはシングルヒット信仰みたいなものがあって。極端にいえば僕は逆じゃないですか。アルバムがメインで、アルバムのためにシングルも売れた方がいいと思ってたし。もちろんやる以上はシングルも1位が取れたほうがいいけど、なかなか取れなかった。自分に方法論がなかったから下手な鉄砲でも撃てばいいと量をこなしていた時期もあったし。そういう時に出会いましたからね」

(略)

僕がはっぴいえんど的なやり方を、彼が旧来の歌謡曲のしきたりみたいなものを持ち込んで、ぶつかり合って切磋琢磨して実を結んだのが太田裕美だと思う。太田裕美は、まだ過小評価されてるよね。彼女のアルバムの中にはもっと評価されていい詞や曲がたくさんあるよ」

「歴史的にみると、同時期にユーミンが同じようなことを同じようなコード進行でやったりして、それがいわゆる J-POP のはしりなんだと思う。最初のムーブメント、基礎を作ったのが筒美京平だよね。それが彼を普通の流行作家じゃない存在にした。そこから時代が変わった。もちろん彼は歌謡界の人ですから、立ち位置は阿久悠の側なんですが、音楽的にはこっち側に持ってきちゃったというか。だから僕がやったことは触媒ですね。(略)それは僕がいなかったら多分できなかっただろうし、彼にはそういう考えもなかったと思う。たまたまそこに行っちゃって、そこにお城を作ったら皆が集まってきて、それが J-POP になった」

「彼が僕に言ったのは、自分たちは歌謡界の歯車だから自分の意思で勝手に動くなって。自分が表に出るのも僕が小説を書くのも、映画監督をするのも嫌がってた。そういう気質の人。作曲家気質みたいな古いものに縛られてたけど音楽はとっても新しくて、僕はそれが好きだったんで自由に遊べたんだけど。彼は120%曲先の人だから他の作詞家はすべて曲先でやってたと思う。話を聞くと詞先は僕だけなんだよね。わがままを許してくれた。可愛がられたということだろうけどね」

「恋人っていうのは、付き合って2、3年でしょう。結婚して飽きちゃったりするし(笑)。それが50年ですよ。切った張った、切磋琢磨して毎日会って、飲んだりご飯食べたりいろんな話して、説教もされたりっていう関係はそんなにないよ。夫婦より濃い。そういう関係なんだと思う(略)

そういう関係は他に二人しかいない。一人は死んでしまって、一人は生きてるけどどっちが先に行くか」(略)

“二人”というのが大瀧詠一細野晴臣であることはいうまでもない。

(略)

はっぴいえんどの功績のひとつが、解散の時に各自バンドをプロデュースするというノルマがあったことだよね。大瀧さんは伊藤銀次のごまのはえと達郎のシュガー・ベイブ。細野さんはのちにティン・パン・アレーになるキャラメル・ママ吉田美奈子、僕は南佳孝とオリジナル・ムーンライダーズ。どれもいま流行りのシティポップスの源流ですよ。YMOの解散とかは“木”にはなってない。はっぴいえんどの解散はそこからジャンルが始まった。種を蒔いたよね。でも、大瀧さんは自分のことに関しては秘密主義だったんで手の内をさらさないわけ。

山下達郎

山下達郎は「氷のマニキュア」についてこう言っている。

 

「僕のメロディって、結局、どこまでいっても、英語のメロディなんです。だから、この歳になっても英語で歌った方が歌いやすいし、メロディもスムースなんです。いままでの15年、何度となく、職業作家として(日本語の歌詞を)トライしてるんです。でも、職業作家が異口同音に言うのは、“書いてみると、こんな難しいメロディはない”。事実、僕のメロディくらい日本語のつきにくいものはない。隙間が多すぎて

(略)

だから、1曲目の『氷のマニキュア』なんかは、いつもなら諦めてたんですよ。いいメロディが出来ても、“これ、日本語乗らないかなぁ”って、諦めちゃうことがあるんです。でも、松本さんなら、やってくれるだろうって。あのぐらいの詞的なレベルの高さで、しかもこのメロディで、というのは、松本さんだからなんですよ。でも、それを歌として、こちらに引き寄せるのが、また大変だけど

(略)

今回4曲松本さんの詞が入ってますけどね。人によってはどうして自分で書かないんだって言うんですが、でも自分の曲に自分では詞が付けられないものがでてきてしまうわけです。作曲家としての自分に作詞家としての自分が付いていけないから、自分で100%書こうとすると、やれない曲が出てくる。そういう曲をやりたいときにどうするんだということになる。『氷のマニキュア』は正にそういう端的な例ですよ。あの字数であの曲調で自分に詞を書けというのはまったく無理で、僕にはできないことなんです」

(略)

 松本隆は、「氷のマニキュア」について、こう言った。

「大瀧さんも朗々としてるから詞をつけにくいとは全然思わなかった。はっぴいえんどにはもっとつけにくい曲があるし、細野さんのメロディーほどつけにくいものはないよ。本人以外は無理だよね(笑)。メロディーというのは音符の数だから、それに合わせるとああなる。大瀧詠一とは昔、話したのかな、彼はそのへんはわかってたんだけど、4文字って日本語の快感法則にないのね。日本語の基本は奇数だから3・5・7の組み合わせ。3と4で7になるとかね。2・4みたいな偶数は困るっていう話はしてた。4・4は難しいよ。最高難度。