ポップスの作り方 田島貴男(オリジナル・ラブ)

ポップスの作り方 田島貴男(オリジナル・ラブ) (ギター・マガジン)

ポップスの作り方 田島貴男(オリジナル・ラブ) (ギター・マガジン)

  • 作者:田島 貴男
  • 発売日: 2016/10/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

「接吻」には阿久悠の影響

 10代はずっとパンク/ニューウェイブだったから、ひたすらカッコいいもの、アグレッシブなものに惹かれていた。

(略)

 20歳を過ぎた頃、ものすごくソウル・ミュージックが好きになった。そのことが僕の中では大きな転換点になった。それまでは意識して“セクシーな曲”を書いたことがなかったんだ。つまり、ラブ・ソングだよね。ソウル・ミュージックが好きになって、自分もセクシーなラブ・ソングを書いてみたいと初めて思った。だけど、最初はどうやって書いたらいいかも全然わからなかった。ようやく何とかラブ・ソングが書けるようになるまで、7、8年はかかったかな。「接吻」を書いたのは27歳か28歳だから、まさにその時期。あの曲が書けたのは、自分にとってのタイミングもすごくよかったんだと思う。

 「接吻」の頃は、どうやって日本語でラブ・ソングを書いたらいいのかをすごく研究していた時期だった。昔の人はどうやっていたのかなぁとか、古い歌謡曲の歌詞を読んで研究してみたり。そういうことをやって2年ぐらい経った頃に、ドラマの主題歌として「接吻」を書くことになった。アマチュア時代は、日本語の歌詞をちゃんと読んだこともなかった。でも、デビュー後しばらくして阿久悠さんの詩集を読むようになったり。だから今になって思うと、「接吻」にはどこかに阿久悠さんの影響があるような気がする。

ポスト・パンクとポップス

90年代になってあえてメジャーからやってみたいと思った。そもそも自分の気分としては、20歳になった頃にはパンク/ニューウェイブがすでに過去のものになりつつあった。僕、それまではジョン・ライドンの信奉者だったんだけど、PILが「ディズ・イズ・ノット・ア・ラブソング」を出したあたりからヒップホップの方向に行っちゃうし、クラッシュも、ミック・ジョーンズがビッグ・オーディオ・ダイナマイトやったりとか、パンクとヒップホップは違うものだろと思っていたのに、そういう中心人物までそっち方面に流れていっちゃってさ。

 だけど僕はそんなにヒップホップって興味なかったから、自分の音楽的な指針っていうのを更新しなきゃいけない時期だったんだよね。そんなこともあって、特にソングライティングの面ではスタンダード的なものへの興味が高まっていたから、ポップスを含めた、もっともっと大きなフィールドにある音楽に近づきたい気持ちが強くなっていた。で、だったらインディペンデントではなくメジャー・レーベルだろ、と。演歌とかアイドル・ソングとかポップスが溢れている世界に飛び込んで、実際にリアルにヒットするような曲を自分で作らないとポップスを目指す意味がないだろうと。あくまでやりたいのはポップスだったんだけど、心情としてはパンキッシュというかね。

(略)

 ポスト・パンクの中でも、リップ・リグ・アンド・パニックとかギャング・オブ・フォーとかみたいに、70年代まで続いていた音楽の素直な継承の仕方を一回断ち切って、そこから自分たちの音楽の作り方を見つけてゆく……という作業をしている人たちが出てきていたわけだけど、それが僕の場合は、メジャー・レーベルの中で自分の思うようなポップスを作っていくことだった。

XTC

 メロディに対する意識は、パンク/ニューウェイブの頃から変わってない。自分の軸になっているのは、いつもメロディだった。XTCが大好きだったのもメロディがド真ん中にあったからで

(略)

だから、XTCはせっかくあんなにいい曲書くのにポップを二重三重にひねくれさせちゃって、ヘンな人だなぁと思ってたしね。そのひねくれがいい、という人のほうが多いのに、僕はメロディ主義だから、もったいないと思っていた派。コリン・モールディングは素直にいい曲を書いているけど、アンディ・パートリッジはどうして屈折しちゃうのかなと。とはいえ、その中からも彼の音楽に対する考え方やエッセンスは伝わってきたし、好きだったけどね。

スタンダード・ミュージック

最近になって思ったことだけど、ひょっとしたらビートルズよりずっと前、デューク・エリントンの時点でかなりのことがすでに完成しちゃっていたのかもしれないね。曲の作り方、和音の作り方も、今になってみるとデューク・エリントンが全部やっちゃっている。そこから始まった歴史の中に、R&Bの時代もある。もともとあったブルースを電気楽器を使って洗練させて、ダンスミュージックにして、そこにジャズの要素も入っている。という、あれは微妙な時期の非常においしい音楽だったんだな。60年代の、いろんな音楽が融合し始めた一番幸せな時期の音楽というか。

 そうやって古今の名曲のメロディについて貪欲になりつつある時期に、ちょうどピチカート・ファイヴに参加することになった。それはタイミング的にもとてもラッキーだった。彼らはアメリカン・ミュージックを専門に学んでいるポップス博士のような人たちだったから。ブレーンとして長門芳郎さんみたいな人もいたし。ピチカート時代には本当にたくさんのことを学べた。ポップスのメロディの一番いい形っていうか、70年代までのスタンダード・ミュージックのメロディの美しさとかね。やっぱり、20世紀のポップ・ミュージックの最高の形ってアメリカン・ミュージックだと思うんだ。そのオリジナルの人たちの素晴らしさを知れば知るほど、いつか自分もそういうスタンダードを作ってみたいという気持ちがどんどん大きくなっていった。

 スターリンの前座

[郡山駅ビル]の1階にヤンレイというレコード屋さんができて。(略)

僕はそこでキュアーとかエコー&ザ・バニーメンとか買ったり、店主の板垣さんにいろいろな音楽を教わっていたんだ。実は板垣さんは、スターリン遠藤ミチロウさんと大学時代の友達だった。当時のスターリンと言えば、すでにもう、ものすごい存在だった。(略)

板垣さんが言うには、あまりに過激すぎて東京のライブハウスがスターリンには貸せないと追い出されそうになっていると。そんなわけで福島でライブをやることになったんだけど、田島くんたち前座をやらないか?と声をかけてくれた。そりゃ、やりますよ。と、二つ返事でOKした。でも、やると言ったはいいものの、スターリンのライブってウワサを聞けば聞くほど恐ろしいんだよ。とにかく、おっかないというイメージしかなかった。それで、どんな怖い人たちが来るのか、やばいな……とドキドキしながら会場に着いたら、ミチロウさんがいた。すっごくいい人で、僕たちに「どうも、よろしく」って声かけてくれた。バンドの人たちもみんな優しい人たちで。ああ、いい人たちでよかったなーと思いきや、開場してみたら、もう、客がおっかない人ばっか。(略)

カッターで胸とかギザギザに切ってる人もいるし。いわゆる典型的なハードコア・パンクの人たちだよね。もう、福島の高校生はビックリですよ。(略)

みんな東京からわざわざ観に来ていたんだよね。すごい熱気だった。もう、僕たちなんか出て行ったたらボコボコにされるんじゃないかと思いながらも、ステージに出てガーーーッとやった。心配しなくてよかった。客はね、微動だにしなかった。で、何ごともなく、あっという間に終わった。ホッとしたような、残念なような。ははは。でも、スターリンはすごかったよ。ミチロウさんが出てきたとたん、客全員がステージにツバを吐きまくるの。たちまち舞台上はツバまみれですよ。その中をミチロウさんが上半身裸でゴロゴロ転げ回る。客席はあちこちでケンカとか小競り合い。思えば、一番スターリン幻想が盛りあがっている時代だったからね。その後もスターリンはしょっちゅう郡山でライブやるようになったんで、必ず観に行ってた。ミチロウさんともちょっとした顔見知りになれてさ。あの時期のスターリンを観られたのは幸運だったと思う。ミチロウさん、ふだんはやさしいのに本番直前はものすごいテンションなんだよね。あの集中力、すごかったな。

タイアップ地獄

 90年代前半はCMやドラマのタイアップ全盛期。スタッフからもタイアップ関係は絶対にやるべきだと言われていたし、僕自身もチャンスを逃す手はないと思っていた。ただ、タイアップの曲って、いつもびっくりするくらい締め切りが早い。(略)

“すぐ書ける?できないなら他のアーティストに振るよ”って言われたら“やる!やりますよ!”って答えちゃうよね。でも、引き受けてからが大変。スタッフもふだんよりピリピリしていて、現場のムードも緊迫する。そういう中で曲を作らなくちゃいけないのは、やっぱり、音楽を作る環境としては悪すぎたな。なんか、オリンピックに出る選手みたいな心境だったね。絶対に金メダルとらないといけない、みたいな。あの時代、みんなそうだったと思うけど。あれは相当マインドが強くないとついていけない世界だな。締め切りが迫ってきて周囲を見回すと、いろんな人がキレてるしさ。スタッフも重圧を感じているから、その重圧は僕にものしかかってくる。ふだんのレコーディング環境とはまったく違う空気が漂っている。そんな中で安心していい曲なんか作れるはずないよという思いもあったけど、こんな環境でも絶対いい曲を書いてやるという気持ちのほうが強かったからできたんだろうね。いやぁ、若かったね。タフだった。けっこう容赦ないダメ出しもされるし、メンタル面でも鍛えられた。

(略)

90年代のタイアップ・ブームはタイアップさえつけば何でもヒットするかのように批判されたりもしたけれど、そんな安易なものではなかったよ。 

ソングライティングの原点 

[高校時代は]コードの名前もよく知らなかったけど、「アンディ・パートリッジが弾いてるこのコードは何だ?こんな音かな」と探りながら、サーティーンスやフラット・サーティーンスの音を入れてみるということをやっていた。(略)

変わった響きに聴こえることがカッコいいと思っていた。現在に至るまで、僕の曲の特徴としてテンション・コードを多めに入れるという傾向があるけど、それはもとを通ればニューウェイブ系ギタリストからの影響なんだと言う。

(略)

デヴィッド・シルヴィアンドビュッシーを聴いているらしいぞ」ということで、僕も貸レコード屋で借りてみたり、さらにそこから聴こえてくるコードをギターで弾いてみたりもしていた。

 そういえば当時、郡山のジャズ喫茶によく通っていた。そこではフリー・ジャズをメインにジャズ全般を流していて、マスターはおもしろい人だったし、高校生の僕をいい感じに放っておいてくれた。(略)

その店でよく流れていたアルバート・アイラーマイルス・デイヴィスが好きになって、それをきっかけにジャズを少しずつ聴くようになった。そこでときどき流れていたラウンジ・リザーズは今でも好きだな。ジャズをよく聴くようになったことは、曲を作るうえで間接的なヒントになっていると思う。

 そうやってギターで曲作りをしながら、高校1年の頃にはリズム・ボックスを使い始めた。最初の一台はアムデックという自作キットのリズム・ボックスで、それはイマイチだったけど、次に大学生の先輩が持っていたローランドのTR-606を使うようになり、作曲やデモテープ制作に活用した。

(略)

 その頃、なぜ日本にはロンドンにいるようなカッコいいバンドがいないんだろうという思いがあって、日本で一番カッコいい最新の曲を作ってやる、僕の頭の中にはそれがある!という気持ちだった。今振り返ればフリクションプラスチックスP-MODEL がすでにやっていたようなことだけど、当時の僕は日本のバンドの日本的叙情感から距離を置いたところで自分の音楽をやりたくて、もっとソリッドな世界、ジョイ・ディヴィジョンみたいなダークなブリティッシュ・ロックをやりたいと考えていた。

 当時、いわゆるギタリストらしいギタリストは大好きだったロリー・ギャラガー以外はほとんど聴かず、ハードロックはあまり興味がなかったな。

(略)

ニューウェイブらしい一風変わったギターを弾こうとしていた。

 ただ、それと同時にポップな曲を作らなければダメだとも考えていた。その一因は(略)

[ラジオで渋谷陽一が]「自分の趣味性を飛び越えていくポップな要素が曲にないとダメだ」というようなことを言っていて、当時の僕は、確かにそのとおりだと思ったんだよな。

ポール・ウェラー 

 僕はデビュー当時よくポール・ウェラーに影響されているのではと質問されたが、XTCには影響された自覚があるが ポール・ウェラーにはそんなに影響されていないと思う。当時の僕の先輩達はポール・ウェラーから半端なく影響されていたので、それに比べて自分はそんなでもないかなと思っていたんだ。

 ポール・ウェラーを見ると、しゃらくさい感じがした。かっこ良すぎて嫉妬していたんだ。でもやっばり当時イギリスのパンク/ニューウェイブ・シーンのなかで一番スタイリッシュだったのがジョン・ライドンで、二番目にスタイリッシュだったのが、ポール・ウェラースペシャルズBow Wow Wowだったように思う。

 ポール・ウェラーは、ロックがブラック・ミュージックをシンプルにして爆発的にラウドにした音楽だということを、音楽的な態度で示していてかっこ良かった。でも僕は結局モッズにはならなかった。モッズには嫉妬のような憧れのような微妙な感情をずっと持ち続けたままだった。

 その6、7年後、とある音楽フェスでポール・ウェラーと同じステージに立ったとき、彼は、爆音で鳴らしているギター・アンプの上に、大きなヒマワリの花を生けていた。歌っている曲は、イギリスの選挙制度についての歌だった。イメージ通り、おしゃれな人だった。

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アフター・リベラル その2

前回の続き。 

「負の個人主義」 

 西欧の六八年革命に批判的だった歴史家ジャットは、「『社会』を、私的個人同士の相互活動で出来上がる薄い膜のようなものへと縮小することは、今日、リバタリアンや自由市場主義者の野望になっている」と指摘していた。

(略)

 労働社会学者のロベール・カステルは、個人主義と賃労働が(一八世紀のように)結びついてしまった状況では「負の個人主義」が広がっていくと述べ、その分岐点をやはり一九六八年に求めている。すなわち、戦後の平等社会のなかで、個人の権利や安全は財の多寡に関係なく、雇用によって保障されるようになったため、良い雇用は個人主義と自立を可能にするが、反対に劣悪な雇用は個人を自立できない境遇に置くことになる。だから、「社会が個人主義化すればするほどに国家が必要になる」。

(略)

 こうした状況が雇用環境の劣化によるニューライト台頭や、民族・宗教的共同体からとを問わず承認を求めるテロの温床となる。

(略)

[この論点は]なぜワーキング・プアや没落する白人労働者(カステルの言葉では「この世に用のない者」)が、権威主義的な政治に傾斜しているのかを説明する。カステルが期待したのは、個人を生活リスクから守ることのできる「社会国家」の成立だったが、九○年代の社民政治が変質してそれを可能にしなかったことで、代わって台頭したのは個人をグローバル市場やテロから守ると一方的に約束する、権威主義的なニューライトの政治だったのだ。 

新自由主義とナチズム 

 新自由主義とナチズムは性格を大きく異にするもののようにみえる。前者は市場と個人への信頼から自由を尊ぶ思考である一方、後者は国家や民族を市場や個人よりも優先させるとみなされるからだ。

 もっとも、社会学者ル・ゴフは、個人を丸裸にして不安感で覆い、不安定な地位に追いやることで防衛的・受動的な存在に押しとどめ、他人や社会に対して振るわれる「悪」に対する警戒心を解除し、結果として悪に寛容な社会を作り出すメカニズムを内包している点で、ファシズム新自由主義は同質だとする。

 他人との共通性や紐帯が断ち切られ、個人が自分のみ(あるいは自分の問題のみ)に関心を集中させてしまえば、他人の問題や不幸は、自分との共通性を持たないかぎり、政治の対象とならない。他人との共同性(社会と言い換えてもよい)があれば、人は社会を良くすることが自分のみならず、他人の境遇を改善することも期待値として行動することになる。しかし、社会が喪失されてしまえば、自分にとって良いことは他人にとって良いこと、あるいはその逆を可能にする論理は失われてしまう。

 ナチスが教会やギルド、労働組合、地域社会といった中世からの伝統を持つ中間団体を解体して個人を孤立させ、そのもとでナチズムに依存せざるを得ない全体主義社会を完成させたことで、統治を貫徹させたことはよく知られている。

(略)

 結果として生まれるのは、人間間の直接の暴力的関係である。問題が個人的なものに還元されてしまえば、他人は関係ないと否定したり、攻撃したりするヘイトが可能となる環境が作られるからだ。

アイデンティティリベラリズム」 

 イギリス保守主義の大御所マイケル・オークショットは、個人にとっての自由は、「即自存在」ではなく「対自存在」であることから導かれるとする。(略)

個人は自らのアイデンティティをそのまま体現することで自由になるのではなく、自らのアイデンティティがどのように成り立っているのかを主体的に理解することでもって、はじめて自由になるのだ。

 オークショットと思想背景を異にする法学者サンスティーンも、自由とは好き嫌い以前に、好き嫌いやその根拠となる信念を形成することのできる自由として捉え直すべきという。自分の「好み」ではなく、「信念」を自分の手で作ることこそが自由だと定義されるべきだ、と。ここでいう信念とは、個人的なものではなく、社会的なものであることが条件となる。だから、そこにはじめて個人を超えた自由や正義がみえてくる。

 例えば、自分が性的な、あるいは民族的なマイノリティだとして、ではそのマイノリティとしてのあり方はいかにしてもたらされたのか、その社会でマイノリティであることは何を意味しているのか、マイノリティはマジョリティの目にどのようにみえるのか――こうしたことを知り、理解することは、自らがマイノリティであることを一度相対化し、マイノリティであるという属性から自由になったうえで、何を選択するのかという主体性を取り戻すことになる。それは「個人が王座につく」のではなく、「個人と主体」との差異を、自らの手で埋めることを意味する。

 アイデンティティに基づく社会的承認を求める時、そのアイデンティティが承認されるに値することを証明するため、それはあえて美化されたり称賛されたりする。マーク・リラはそうした考え方を「アイデンティティリベラリズム」と呼ぶ。

 しかし他のアイデンティティとの差異や優位(あるいは劣位)を強調することで、それが他のアイデンティティと衝突することもあれば、個人がそのアイデンティティに囚われてしまう可能性も出てくる。これは第二章と第三章でみた、他人を否定することで自らを背定する「捕食性アイデンティティ」の供給源となる。『歴史の終わり』で有名になったフランシス・フクヤマは、アイデンティティを前面に押し出す政治によって、社会的・経済的不平等の問題が後景に追いやられ、理性的な対話を阻むばかりか、これによってアメリカのトランプ右派によるアイデンティ政治の逆襲を招いたと指摘している。 

 五つのリベラリズム

思想史が専門のイギリスのマイケル・フリーデンによる整理を借りよう。(略)

リベラリズムは大きく言って歴史的に五つの層(レイヤー)に分けられる。歴史的に最も古いリベラリズムのレイヤーは、ロックの社会契約論に代表される、王権に対する個人の抵抗権や所有権を守ろうとする潮流から始まる。イギリスでは一七世紀の権利憲章、フランスでは一八世紀の人権宣言に結実するが、この潮流はその後の権力分立や多数派支配の警戒など、日本でいえば立憲主義的な考えを重視するリベラリズムの源泉となっていく。ここでは、この流れを第一章で定義した「政治リベラリズム」と呼ぼう。

 ここから派生する二つ目のレイヤーには、商業や取引、貿易の自由を唱えるリベラリズムがある。ブルジョワイデオロギーと同一視されることもあるが、イギリスの帝国主義を先導したのは、こうした「リベラルな帝国主義」でもあった。市場を中心とした自由、という考えは新自由主義のような、経済活動や所有権を重視するリベラリズムと親和的である。このレイヤーのことを、第一章と第二章でみた「経済リベラリズム」としておく。

 第三のレイヤーには、個人の能力を信じ、それは開花されなければならないという、個人主義を擁護するリベラリズムの系譜がある。第一のリベラリズムが公的権力に対して私的領域を守ることに関心を寄せたのに対して、J・S・ミルに代表されるこのリベラリズムは、個人の能力はその個人によって自由に行使されなければならないとする、外向きのリベラリズムといえるだろう。これを、第五章でみたような「個人主義リベラリズム」とする。

 以上のリベラリズムは、二〇世紀に入って社会主義コミュニズムファシズムとの対立のなかで存在感を高めていった。それらはいずれも個人の私的領域を認めず、私的所有権や商業の自由を否定するものだったからだ。もっとも、戦後になってこうした対立から、リベラリズムは進歩的な概念としての立場を強めていく。

 戦後の新たなリベラリズムが作った第四のレイヤーは、社会は人為と人智でもってより良くすることができるという信念へと結実する。これは社会保障や教育の重視、市場の規制などの政策を生む一方、人権が守られる社会を志向する考えにつながっていく。アメリカの文脈でいう「大きな政府」をめざすリベラルの立場に近いが、ここでは「社会リベラリズム」としておく。

 最後の第五のリベラリズムのレイヤーは、一九六〇年代に生まれたもので、これが特に民族や宗教、ジェンダー的なマイノリティの権利を擁護し、寛容の精神を説く流れだ。個人のアイデンティティ(それ自体にはいろいろなものがあり得る)を核として、それが尊重されなければならないとするこのリベラリズムは、現代日本で想像される「リベラル」に最も近いかもしれない。第四章と第五章でみたこのリベラリズムを、「寛容リベラリズム」と呼称しておく。

 

 では、共同体・権力・争点の三位一体の崩壊は、この五つのリベラリズムとどう関係するのか。(略)

リベラル・デモクラシーは、自由を志向する政治リベラリズムと平等を志向する社会リベラリズムとの均衡を意味していた。しかし、非リベラルな民主主義と権威主義の台頭は、経済リベラリズムが過度に強化されたことで生じ、これは社会リベラリズムが後景に退いたことに対する反動として、政治リベラリズムが攻撃されたことを意味している。

 政治の対立軸変化についてはどうか。戦後の階級政治の基盤を提供していた社会リベラリズムが揺らいだために、政党の対立軸は個人主義リベラリズムと経済リベラリズムをベースとするかたちで展開していった。すなわち、それまで経済リベラリズムの統御と社会リベラリズムの防御を歴史的使命としていた社民政党は六〇~七〇年代の社会変容と冷戦崩壊を経て経済リベラリズムの極に接近する一方、個人主義リベラリズムと寛容リベラリズムへと軸足を移したためこれに敵対的な、権威主義的な「ニューライト」が生まれることになった。

 歴史認識問題は、寛容リベラリズムの失敗に起因する。寛容リベラリズムは、本来はその社会のマイノリティにマジョリティと同等の権利や、それを行使する自由の付与を目標にしていた。しかし、これが社会リベラリズムや政治リベラリズムと共闘せず、個人主義リベラリズムと結託して、特定の集団や民族の属性のみを寛容の基準としたため、マジョリティによる不寛容を生み、敵対性を強めていく。

 この個人主義リベラリズムと寛容リベラリズムとの不整合は、ポスト世俗化とヘイトクライムへと帰結する。社会リベラリズムのように、個人を社会に包摂できる原理が貫徹されていれば、個人主義リベラリズムがもたらす文化的分断や孤立は回避されただろう。しかしその欠落は、個人による寛容リベラリズムへの敵対心を呼び起こす。個人の社会的な属性の空白を埋め合わせるためにラディカリズムが呼び寄せられるからだ。例えば、個人主義リベラリズムのもとに、宗教はいとも簡単に操作されてしまう。

 一九六〇~七〇年代の社会運動は、個人主義リベラリズムと経済リベラリズムが結びつくきっかけを作った。個人主義リベラリズムは、集団的な抑圧からの解放によって個人を基礎とした社会への再編成を志すものだったが、そのまま寛容リベラリズムへと転化することなく、代わりに同時並行して進んだ経済リベラリズムと癒着してしまったために、むしろ結社なき原子化社会を許してしまった。

(略)

 フリーデンは、リベラリズムを「複数の大きな部屋を備えた家」に喩えている。しかし、その組み合わせによって副作用が生まれ、それぞれのリベラリズムがめざしていたところのものとむしろ正反対のものを招き寄せてしまった歴史的皮肉は、重く受け止めなければならない。

リベラリズムの「弁証法」 

哲学者ホルクハイマーとアドルノは、終戦直後に『啓蒙の弁証法』という難解な本を著し、啓蒙された近代がなぜ新たな野蛮に陥ったのか、という問いに挑んだ。

(略)

野蛮が生まれたのは啓蒙の弁証法によって目的と手段が入れ替わってしまったからだとする。

(略)

結局何のために自己があるのかという問いを忘れてしまえば、自己そのものは空虚なものになってしまう。それが、社会の過度の規律や機能だけに繋ぎ留められる人間存在、つまりファシズムという野蛮を生み出してしまったと指摘したのだった。

(略)

啓蒙主義と同じように、リベラリズムもまた、人間という個性、進歩という観念への信頼があってはじめて成り立つ考え方だ。

 他方で、リベラリズムは、抵抗と闘争の思想を出自としてきた。先にみたリベラリズムの第一と第二のレイヤー(政治リベラリズムと経済リベラリズム)は、王権や教会という絶対的な権力に対する自由の主張であった。第三のレイヤーである個人主義リベラリズムは旧い慣習、さらに時間や空間といった人間活動を制約する要因を取り除こうとするものであったし、第四の社会リベラリズムと第五の寛容リベラリズムは、不平等や差別、貧困と戦うために存在してきた。

 リベラル・デモクラシーも、マルクス主義社会主義陣営と対峙するなかで、自己を鍛えてきた。しかし、一九八九年に冷戦が終わり、政治リベラリズムが支配的原理となって、それまで囲 いこまれていた経済リベラリズムによって不平等が生み出されるようになると、リベラリズムは空転するようになる。さらにそれまで政治リベラリズムと協働するかたちで蓄積されてきた個人を核心に置く個人主義リベラリズムは、アイデンティティ政治やステイタスの政治を呼び込んだ。個人主義リベラリズムを抑制的なものにするはずの社会リベラリズムの不徹底は、テロを呼び込み、国家の次元に留まるものであったはずの寛容リベラリズムは、歴史認識問題を争点化することによって絶え間ない分断と対立を社会にもたらすようになった。こうした相互的な均衡関係にあった五つのリベラリズムの不整合が、共同体・権力・争点の三位一体を解体せしめたのだった。 

アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治

 ファシズムを退けるには資本主義が抑制的になること

一九二〇年代に三五ヵ国ほどあったリベラル・デモクラシーの国々は、一九四〇年代には一〇ヵ国程度にまで減少していった。

 同時代のファシズム台頭を説得的に説明しているのは、日本でも有名な経営学ドラッカーだ。彼は処女作『経済人の終わり』(一九三九年)で、一九二九年の大恐慌を受けて、ブルジョワ主導の資本主義が完全に破綻(資本主義が社会を豊かにするという約束の不履行)、さらに社会主義陣営もこれに代わる体制を生み出せなかった結果、経済や経済的な営みの基礎となっていた人びとの合理性そのものが信頼を失った、と診断した。少なくとも、経済リベラリズムマルクス主義は、現状認識は異なれども、人びとの間の関係が強まれば差異は消し去られ、世界はより一体的なものになるとみなしていた点では共通していた。しかしそのいずれの楽観主義も雲散霧消したのだ、と考えた。当時の合理性や理性のヘゲモニーの崩壊は、現代の「ポスト真実」の時代へとつながる。

 リベラリズムの担い手だったブルジョワ階級は、資本主義の発展を通じて新旧の中間層を統合できていた。しかし、一九三〇年代初頭のドイツ・ワイマール共和国のように、第一次世界大戦の賠償とも相まったハイパーインフレと大不況によって四人に一人が失業者となった時、経済リベラリズムファシズムによって不信任を突きつけられることになった。「そのような社会では、自由と平等は実現されないことが明らかになった」(ドラッカー)のだ。

 重要なのは、ドラッカーが、今後は資本主義が抑制的になること、すなわちブルジョワ支配に自制を求めることがファシズムを退けるために必要となる、としたことだ。このことは、必然的に資本主義を中核とした近代の経済リベラリズムにも反省を求めることを意味した。こうして、リベラリズムは資本主義の発展のなかで付与された経済的な意味合いを剥ぎ取られ、政治的な意味合いに純化されることになった。簡単に言えば、それまでのリベラリズムは経済的次元において破綻したため、戦後に政治リベラリズムとして再スタートを切ることになったのである。

 したがって、戦後日本はとりわけ民主主義と同義としてのリベラリズムを歓迎したが、リベラリズムとデモクラシーとの相克をそれまでに経験していたヨーロッパでは、これをつなぎ合わせるところからスタートしなければならなかった。社会学者の山之内靖の表現を借りれば、戦後日本が啓蒙を歓迎する一方で、戦後ヨーロッパは合理性と理性からなる啓蒙に対する反省から出発することになったのだ。

 リベラリズムと民主主義の共存

 確認すべきは、体制としてのリベラル・デモクラシーが西欧で安定と確立をみたのは、第二次世界大戦後に過ぎないという歴史的事実だ。リベラル・デモクラシーという言葉そのものが使われはじめたのは一九三〇年代のことであり、それが広く政治的に認められるようになったのは一九四〇年から五〇年代にかけてのことだ。すべての人間に不可侵の権利を与えるリベラリズムの原理が「世界人権宣言」で世界的に認められる(ソ連・東欧諸国の一部は棄権)のは一九四八年だった。

 ここで、それまで国境を超えた資本主義、すなわち経済リベラリズムから成り立っていたブルジョワ共同体とその権力、これに対抗するファシズム社会主義という、体制をめぐる争点は西側諸国では終焉を迎え、国民国家という共同体、政党政治という権力、再分配という争点の三位一体が完成することになった。

 政治史家ミュラーは、戦後に民主主義が回復されたという見方そのものがまちがっていることを指摘している。戦後のリベラル・デモクラシーは、二〇世紀前半までの野放図な経済的なリベラリズムと、場合によってはファシズム社会主義に結びつく民主主義を否定することを一義的な使命としていたからだ。

 リベラリズムと民主主義の共存は、リベラリズムの経済的側面の抑制と民主主義の革命志向を抑制することで成し遂げられた。具体的には、基幹産業の国有化や福祉国家の確立と通じて不平等を容認する資本主義をリベラリズムから切り離し、他方では法の支配や立憲主義を徹底することで、ファシズム社会主義に代表されるデモクラシーを抑制しようとしたのである。それは二〇世紀まで資本主義によって経済を牽引してきたリベラリズムを政治的次元に囲い込み、人民主権を掲げて政治を牽引してきた社会主義を経済的次元に囲い込むという逆転の発想でもあった。

 政治リベラリズムと同様、経済リベラリズムも、拡大と収縮をくりかえしてきた。一五世紀から一八世紀半ばまでは重商主義の時代が続き、その後一九世紀半ばから大英帝国が牽引するかたちで自由貿易が拡大していった。しかし一九世紀末の不況は、保護主義のきっかけを作り、二〇世紀前半にはブロック経済が完成した。その延長線上に、戦後の経済リベラリズムと政治リベラリズムの両立が成り立った。言い換えれば、リベラル・デモクラシーは双方のポジティブな面を合わせて組み合わせ可能になったのではなく、双方のネガティブな面――リベラリズムの資本主義との結びつき、デモクラシーの人民主義的側面を抑制することで成り立った。そして、この取引が可能になったからこそ、不自然な組み合わせとしてのリベラル・デモクラシーが戦後にはじめて安定したのだ。

「資本主義と民主主義の強制結婚」

二〇世紀前半まで不可能と思われていたリベラリズムとデモクラシーが戦後に両立できたのは二つの条件が奇跡的に出揃ったからだといえる。

 まず、第二次世界大戦に帰結した戦前の経済リベラリズムの原理を抑制的なものにすることを、国家による資本主義市場への介入を通じて実現したからだ。戦後の先進国政治が安定し、リベラル・デモクラシーの黄金期となったのは、放っておけば衝突を余儀なくされる資本主義と民主主義を、社民的な国家が媒介したからだった。政治経済学者シュトレークはこれを「資本主義と民主主義の強制結婚」と表現する。同様に、西欧各国の高度成長を分析したアトキンソンは、それは戦後の高度成長によって所得に占める賃金の割合が増えたからだけでなく、資本所得・賃金所得の分配の是正といった社会政策がこれに加わったことで、平等が実現したことをデータでもって証明している。

 次に、冷戦構造がこうした戦後コンセンサスを背後から支えた。ファシズムの挑戦を退けた後、リベラル・デモクラシーが直面したのは、経済リベラリズムに別のかたちで挑戦する社会主義体制だった。国内の共産主義社会主義勢力を封じ込めておくこと、そして労働者層の忠誠心を体制につなぎとめておくため、民主主義を前に経済リベラリズムは自已抑制的になる必要があった。それゆえ、各国は社民的な政策(集産主義、財政支出、組合の交渉権、労働権保障)を前提とした。そしてこれこそが政治リベラリズムの創出を可能にしたのだった。

 この戦後コンセンサスは、リベラル・デモクラシーこそが正当性を持つという事後的なイデオロギーによっても強化された。それは、戦前・戦中のファシズムとの戦い、そして戦後はソ連をはじめとする共産圏との対決によって自己を正当化する必要があったからだ。第三章でみるように、それゆえ対ファシズムの記憶が薄れ、冷戦も終結すると、歴史認識問題が各国で噴出することになる。

ネオ・リベラリズムの真の正体 

 ピケティが理論的に挑戦したのは、経済成長によって不平等が一旦は拡大するものの、その後、全体が底上げされて格差が解消されていくとした「クズネッツ曲線」の前提だった。(略)

七〇年代以降に高度成長が一服すると、逆に格差が拡大していくことをピケティは示した。

 そこで抑制的にされていた経済リベラリズムは、先祖返りして一九世紀的な野放図な経済リベラリズムへと変容していくことになる。ここで政党をはじめとする安定していた権力体は、ふたたび経済リベラリズムへと傾斜していくが、それは進化を遂げた政治リベラリズムとともにあった。いわば、政経に分離させられたリベラリズムは、ふたたび一体化したことで、それまでに獲得した自己抑制を喪失したのだ。これこそが、いわゆるネオ・リベラリズムの真の正体でもある。しかし、それは特定権力の作用というよりも、共同体・権力・争点の三位一体が空中分解したことで生まれた転換だった。

保守主義

 「保守主義(conservatism)」という言葉を最初に広めたのは一九世紀前半のフランスの文人シャトーブリアンだとされるが、体系的な保守思想が誕生したのは、フランス革命を経てからのことだ。革命に続く共和国が、ルソーやヴォルテールらによる啓蒙思想にインスパイアされた後、ナポレオン戦争後の王政復古の時代に「保守主義」という政治潮流が本格的に誕生する。

 一九世紀、保守主義の敵はリベラリズムではなかった。王権を基礎とした伝統的な秩序がフランス革命のような世俗革命で破壊されてから保守主義は創造された。「保守主義」の原義は「保存」であり、それは伝統や秩序から解放された人間の横暴を警戒するものでもあった。保守主義の祖として名高いバークはその『フランス革命省察』(一七九○年)で、フランス革命は「人間の権利なる名のもとでの民主的な専制であって、断じて自由などではない」と断罪し、民主主義を警戒した。

 そのバークはしかし、自国のイギリスで王権を制約した「名誉革命」のことは高く評価していた。つまり、少なくともイギリスの保守主義は、王政ではなく、これと対立する議会を基盤とする個人と商業の自由に重きを置くリベラリズムと親和性が高かったのだ(これは「ホイッグ史観」と呼ばれる)。そのフランス革命批判から、バークは日本で「保守主義の祖」として知られているが、彼は当時勃興した商工階級に期待をかけていたから、イギリスの王朝が代表する保守主義ではなく、その後ブルジョワジーの支配的な思考体系となるリベラリズムの理論的支柱でもあった(略)。実際に、議会のホイッグ党はその後、ブルジョワジーを主とする自由党へと発展を遂げていった。

 反対に、フランスやスペインでいうところの保守主義は、カトリック教会が支える王権や個人独裁(ボナパルティズム)とほぼ同義として用いられ、ゆえに「保守主義」ではなく「右派」と認識されるのが一般的だ。

ヨーロッパのリベラルはアメリカでは保守主義 

 アメリカの政治的対立軸は保守とリベラルだ。王権も、これを支える封建制度もなかったアメリカでは、リベラリズムが所与のものとして存在していたから、保守とリベラルの対立は、むしろ政府の大小や介入の是非をめぐるものとなる。保守は個人の自由を最大限に尊重し、政府の役割を極限まで小さくすることを求め、リベラルは政府の介入を是認して個人間の平等を推し進めようとする。それゆえ、アメリカでいうリベラルはヨーロッパでは保守になり、ヨーロッパのリベラルはアメリカでは保守主義という逆転現象が起きることになる。

 それぞれには支流もある。例えば、アメリカ的リベラリズムの最右翼には個人の自由を至上価値に置く「リバータリアニズム」があり(略)、反対に「コミュニタリアニズム」という共同体を重視する立場もある。またバークと同じように多数派の専制を警戒して、建国初期には民主主義よりも共和主義的精神(徳を備えたエリートの統治と言い換えられる)を重んじる共和主義の潮流も認められる。

 権威主義政治の台頭

これら政党の主義主張は多様だが、「法と秩序」を重視しているとまとめられるように、文化や社会的価値観に関わる脱物質主義的価値感を争点としていることに特徴がある(法と秩序はトランプの決まり文句でもある)。こうした、二〇〇〇年代からの一貫してみられる脱物質主義を掲げるニューライトの台頭を、イタリアの政治学者イニャーツィや先のイングルハート=ノリスは、行き過ぎた脱物質主義的な左派リバタリアン政治に対する反動たる「静かなる反革命」だと規定している。

 これらの勢力は、戦後右翼の代名詞だったネオ・ナチやネオ・ファシスト的な政治姿勢とイデオロギーを異にし、理念的な権威主義政治を是とする。戦後の右翼といえば、ファシズムのような戦前の体制や、反共主義を掲げるのが普通であり、そこからは議会制民主主義や立憲主義を否定する傾向があった。もっとも、戦後世代が多数となり、階級政治の基盤が崩れて反共主義も冷戦崩壊で説得力を失うと、こうした「戦前的価値」に依拠する政治的主張は、説得力を持たなくなる。そして、政治では「資源の再分配」ではなく「価値の再分配」が比重を増していくようになるのだ。

 第五章で詳しくみるように、先進国社会は戦後生まれの台頭をみて、リベラルな価値がそれまでと比べて大きな正当性を得るようになった。女性やさまざまな文化的・民族的マイノリティ、障がい者、児童といった、それまで周縁的(マージナル)だった存在の権利が拡充され、また自己決定権を含め、個人の自由の領域も拡張されていくことになった。

 九〇年代以降、こうしたリベラルな勢力に対する反対の意識を担ったのが各国の「ニューライト」だった。彼らは、社会の個人主義化はアイデンティティを喪失させた「寂しい人びと」を生み出すだけで、自由と権利の履き違えを止めるためにも、社会の秩序と権威を取り戻さねばならず、社会の安定を保障する同質性を危機に晒す、行き過ぎたグローバル化や過度の移民受け入れは制限しなければならないという主張を展開していく。

 

 リベラル・デモクラシーは、戦後の民主化によってリベラルな価値を普遍的なものとし、経済的平等の実現によってその価値を維持させたが、ニューライトは、これを反転させて戦後に完成した福祉国家や社会的平等を、ナショナリズムを通じて達成すべきと訴える点に特徴がある。これが移民排斥・受け入れ規制の言説へとつながる。

(略)

それゆえにボピュリズム勢力を含むこのニューライト的訴えは、労働者層の支持を集める。配分を通じて平等を達成するのではなく、文化・価値的な平等によって人びとのアイデンティティを囲い込んだうえで、経済的な平等を調達しようとするためだ。その意味では、階級がなくなったというよりは、階級を構成するものが変わったといえよう。

(略)

 付け加えるべきは、こうした脱物質主義的なニューライトの台頭は、政治リベラリズムと経済リベラリズムの結託でもあった八〇年代の新自由主義的価値観への反動からも生まれたことだ。

(略)

つまり、権威主義政治は左派、政治的リベラル、さらに新自由主義と、それぞれに対立する潮流の新たなオルタナティブとして現れたのでもある。これは戦前のコミュニズム、議会エリート、資本家階級をファシズムが攻撃した構図と類似している。 

服従 (河出文庫 ウ 6-3)

服従 (河出文庫 ウ 6-3)

 

ウエルベック服従

女性にもてないことをこじらせた中年男性を主題にした彼の代表作『素粒子』に典型だが、ウエルベックは人間を解放することはすなわち、その人間は自らの能力だけしか頼るものがなくなることを意味するから、結果として夥しい不平等を生むことにつながると、あるインタビューで答えている。

(略)

だから、『服従』が告発するのはイスラム原理主義ではなく、人間精神を救済できない現代社会であり、それに宗教が利用されるという「ポスト世俗化」のロジックを描くものなのだ。

(略)

主人公は過去にカトリックとして育てられた記憶もあって、カトリック修道院に救いを求めて修行するのだが、結局、自分の役に立たない宗教には意味がないということをその過程で悟る局面がある。自分の人生にとって使えるか、使えないかが、信仰心を持つか持たないかの基準なのだ。だから主人公フランソワは、自らの出世と性的願望(一夫多妻制!)のため、なんとなくムスリムになることを、あっさりと決めてしまう。

 現代社会では、宗教こそが個人の欲望に服従することになる。個人の自己決定権が当たり前となった政治リベラリズム優位の社会で、宗教への「服従」はあくまでも主体的に、自主的になされるという逆説が、小説のタイトル『服従』の意味なのだ。

次回に続く。