カール・シュミット その2

前回の続き。

ロマン主義者批判

 従来人間を支え、人間の内実に大きな影響を及ぼしてきた「神」や「共同体」、「国家」から解放されたばかりか、十八世紀に支配的だった「道徳」や「価値理念」からも解放された孤独なロマン主義者の「自我」は、絶えずみずからの責任において態度決定を下さざるをえない。「神」や「国家」、「道徳」などに支えられた個人は偽りの個人であり、それらを捨象した純粋な「自我」にこそ依拠しなければならない。こうなれば自我意識は否応なしに高揚する。ロマン主義において、かけがえのない個性をもつ「自我」が重視された理由はここにある。

 因果連関にも価値理念にも拘束されない高揚した自我は、実在の世界、現実の世界に対し、おのれの個性的な経験や着想、あるいは芸術作品が生まれる「きっかけ」となる限りにおいて関心をもつ。ロマン主義的主体にとって、おのれの活動や着想の「きっかけ」になるということが重要なのであり、「世界」それ自体は客観的に実在するものとしての重みをもたない。革命であれ、戦争であれ、大地震であれ、それ自体としてはロマン主義者の関心をひかないし、そもそも「それ自体」というような発想がロマン主義には無縁だった。

 こうしてロマン主義者は事実上現実世界を回避しようとするわけだが、宗教意識の場合のように世界の「外部」へ出たり、あるいは世界を「超越」したりすることはなく、あくまでも実在の内部世界にとどまる。実在の世界は時に人びとに衝撃を与え、人びとを揺さぶり動かす力をもち、時には邪魔をし、否定することさえあるが、ロマン主義にとって現実世界はそうした強烈な力をもたない、棘を抜き去られた世界だったから、安全で無害な世界と安心して交渉できた。

 『政治的ロマン主義』の緒論でも述べられている通り、シュミットのロマン主義批判はプロテスタンティズムの批判をも含意している。カトリックの立場からなされたドイツ市民層のプロテスタンティズム批判であると言ってもよい。プロテスタンティズムが論理的に展開した先に生まれてくるのがロマン主義であり、ロマン主義の空虚な自我は、十九世紀以降の経済の時代に太刀打ちすることはできない。シュミット以前にも、プロテスタンティズムロマン主義の親縁関係に気づいていた者はいた。歴史家ゲオルク・フォン・ベロウやヘーゲル左派のアルノルト・ルーゲがそうであったし、シュミットの同時代であれば文学史家のヨーゼフ・ナードラーがそうであろう。シュミットによれば、ルーゲはすべてのロマン主義の根底に「不安定な反抗的心情」を読み取っているが、プロテスタンティズムが超越的な神を失い「自由な自己の原理」に立脚するようになった以上、それは不可避的な結果だった。ロマン主義者のうちフリードリヒ・シュレーゲルやアダム・ミュラーなど、少なからぬ人物がカトリックに改宗していることにシュミットは注目している。

 (略)

決定することを、すなわち、可能性の世界から現実の世界に出ていくことを、巧妙に回避しようとするのが、ロマン主義の根本的動機だった。シュミットにとって、それは政治的世界を回避することにほかならない。

(略)

ロマン主義者はできるだけ自己限定を避け、華やかで多彩な「可能性の世界」にとどまろうとする。ロマン主義は「永遠の生成」と決して完成することのない「可能性の状態」を「具体的現実」よりも高く評価した。

例外状況という破れ 

作家ロベルトムージルの研究者ハンス=ゲオルク・ポットも言うように(「文化と暴力」)、シュミットの「個人」のイメージは狭く硬直しており、「モデルネ」への不安、恐怖に怯えているのではないかとさえ感じられる。その意味でシュミットはロマン主義の問題意識と触れあわないだけでなく、同時代のモダニズム芸術とも基本的には無縁な思想家である、とさしあたりは言えるように思われる。

(略)

近代的個人主義に対置されるシュミット的「個人」は確固たる個人のようでありながら、そこには特有の〈破れ〉というべきものがある。それが「例外状況」の問題である。ロマン主義的個人を徹底的に批判したシュミットだが、意外なことに例外状況という破れにおいてロマン主義や同時代のモダニズムと接点をもつようになる。

(略)

カール・レーヴィットも言うように、そもそもシュミットの「決断」の概念は、ロマン主義者の「誘因」とまったく同様に、「規範へのあらゆる拘束」を否定するものだからである。

(略)

シュミットの政治理論においては、「決定」の内容、つまり、何のための決定かに関わりなく、「決定」という形式それ自体が絶対化されている。

「能動的ニヒリズム

 レーヴィットはこのようなシュミットの精神構造を、フリードリヒ・ニーチェに由来する「能動的ニヒリズム」と名づけ、エルンスト・ユンガーも含めた、ワイマール期からナチ期のドイツ精神に特有のものである、と述べている。

(略)

[ユンガーの]『冒険好きの心』を分析したレーヴィットは、その鍵概念を意欲と信念における「果断さ」に求めている。(略)
「果断さ」を求める心にとって、いままさに「教義」や「秩序」のためと称して舞台上で演じられている「闘い」は、所詮具体的生活から遊離した制度的な演技であり、戦ってはいても「擬戦」にすぎなかった。レーヴィットはこの文脈において、必要なのは「旗印でなくして戦士であり、秩序ではなく叛乱であり、体系ではなくして人間である」というユンガーの言葉を引用している。ユンガーにもみられる、何ものにも縛られない、無制約な「決定のニヒリスティックな根底」は、元来ユンガーよりは秩序好みと言ってよいシュミットの「政治的なもの」の概念において、いっそう明白になる。

 このように政治的には問題の多い「能動的ニヒリズム」だったが、シュミットのこうした発想は、『政治的ロマン主義』を執筆していた時期においてみれば、意外なことに、表現主義ダダイズムなど、「モダニズム」の芸術上の方法と対応している。シュミットはロマン主義批判にことよせて同時代のモダニズムを批判したが、シュミットの方法自体がモダニズムの方法と重なっているのである。

(略)

 ダダとシュミットを結びつけるのが「例外状況」の概念である。ダダ運動の創始者の一人とされるフーゴ・バルは、運動から離れた後カトリックに転じ、もともとカトリックだったシュミットと交流が生まれた。

独裁の正統性 

 独裁の正統性を保証するのは、自分は正しいという熱烈な、あるいは絶対的な確信である。シュミットにとって、独裁には本質的に決断が必要とされるので、独裁を正統化する思想は典型的な政治思想である。独裁の思想は、議会主義の媒介や調停の立場、つまり均衡の立場を、決断を欠いた偽りのものであり、根本的解決にはならないと否定し、それと正反対の立場に立つ。すなわち、媒介を、中間にあるものを排除した「直接性」の立場、複数の議論を尊重し互いに討論するのではなく、問答無用の一義的な「断定性」の立場を支持する。そのような立場は直接的なものだけに確実性の感覚は増大するものの、その立場を貫徹すると、「流血の決闘」にいたるしかなく、最終的には敵対者を断固として排除する独裁体制に行きつく。

 シュミットは議会主義と独裁の関係を以上のように理解し、独裁を議会主義に代わりうる体制として検討し、独裁は議会主義とは対立するものの、民主主義とは対立しないという重要な結論を下す。前章でも触れたように、民主主義が支配者と被支配者の同一性であるということであれば、自由主義的な議会政治と独裁政治を比べて、どちらかが原理的に優れているということは言えない。この点、議会主義と独裁は等価的である。それどころか、議会(媒介)を通さない、人民の歓呼(直接性)を基礎になされる独裁政治の方が、適切に同一性を実現していることも十分ありうるだけでなく、議会よりも重要な政治問題について迅速な決定を下すことができる。このような論拠に立ってシュミットは独裁政治を肯定し、議会主義の批判という観点から同時代の独裁思想に注目する。 

ホッブズの奇跡論

 ホッブズの社会契約論の特徴は、国家を人民(臣民)の契約によって自然状態という無から生じたものととらえる際に、一方で契約をすぐれて個人主義的に理解しながら、他方で契約の結果生まれた国家が人民(臣民)に絶対的な権力をふるう、と理解した点にある。

(略)

中世的共同体の場合には、違法な支配者に対する抵抗権が認められていたのに対し、ホッブズ的な近代国家は万物をその法律に服従させる「抵抗できないリヴァイアサン」であり、それに対抗する立場は原理的にありえない。国際法の場合も同様で、中世には存在した宗教戦争や内戦は消滅し、ホッブズ以降には国家間の戦争になる。国際法においては諸国家が「自然状態において」対峙していることを、最初に的確に論じたのはホッブズである。この状態において、リヴァイアサン像はすさまじい神話的迫力をもった。

 その際、国家間の戦争を真理や正義を基準にして判断することはできない。国家の命令の正統性が保証されるのは、宗教的もしくは形而上学的に基礎づけられたその真理内容によってではなく、それが権威をもった国家によって決定されたためである。法律論のなかに他の真理観や正義観をもちこむと、新たに闘争や不安定さを生み出す。戦争を終結させるために必要なのは正義や真理を唱えることではなく、国家の決断だった。

 ホッブズ以降、十八世紀にヨーロッパ大陸は絶対主義の時代になる。この時代に性格の異なる二つの過程が同時に進行する。一方では絶対主義的な国家権力が封建的等族や教会の抵抗を排除していくが、他方では「内と外」あるいは「公私」の区別と対立が進行していく。ホッブズの思想にはこの両面が含まれており、とくに前者はよく知られているが、シュミットは後者の面に注目する。

 かれはホッブズの奇跡論を例にこの側面を解明する。(略)

ホッブズ の時代に、奇跡の問題は神学的問題というより、現実的な問題だった。当時、触手による病の治療は君主の仕事と考えられており、チャールズ二世の触手を受けた人はたった四年数ヵ月の間に二万三○○○名に及んだと言われている。奇跡信仰についてホッブズ自身は(略)

真理ではなく権威を信奉するという信念に基づき、「奇跡とは国家主権が奇跡として信ぜよと命じるものであり、逆に国家がそれを禁じれば奇跡は奇跡でなくなる」とみなしていた。国家は奇跡と信仰までも支配する圧倒的な権力をもっていたのである。

 しかし、主権の力がそこまで高まったまさにその時点で、ホッブズが「脇道」にそれてしまうことに、シュミットは着目する。ホッブズは牢固とした個人主義者であり、奇跡を論じるに際して、いかにも個人主義的な「留保」をつけた。鍵となるのがホッブズによる「内的信仰」と「外的礼拝」の区別である。かれは、奇跡とは「私的」理性ではなく「公的」理性の問題であるとしつつも、思想の自由を根拠に、みずからの「私的」理性により「内面においてみずからの信、不信を決定することができる」と主張した。シュミットはこのホッブズの見方をかれの政治論の「破錠」とみているが、ホッブズの導入した内面的信仰と信仰の外的な表現との間の区別は十八世紀に広く受容された。何が真理かはわからないので、その判断は諸個人の内面に委ね、国家権力は外面的問題にのみ関わるべきである、とされた。こうした理解が十九世紀以降の中立的で非干渉的な、自由主義的国家論の源泉になった。国家権力の強制は「内的信仰」にまでは及ばないというホッブズ個人主義的留保が、やがて強力なリヴァイアサンを内側から解体していく端緒になる。

 その際大きな役割を果たしたのがスピノザである、とシュミットは指摘する。(略)

『神学・政治学論』において、国家権力は宗教を規制できるが、その際規制できるのは「外的礼拝」のみであるという、一見ホッブズと同じような議論を展開する。しかしシュミット によれば、スピノザホッブズがうちたてた内と外の、あるいは公私の区別を「逆転」させてしまった。ホッブズ は「留保」によって信仰の内部にとどまろうとしたのに対し、「ユダヤ人哲学者」スピノザは宗教の外部から「留保」をもちこんだ。ホッブズにとって大事だったのは平和と主権であり、個人の思想の自由は背後の「最終的留保」にすぎなかった。しかし、逆にスピノザは個人の原理をかれの思想体系の構成原理にすえ、平和と主権を単なる留保に変えてしまったのである。

(略)

ヨハン・ゲオルクハーマンは(略)ホッブズの「リヴァイアサン」は外的には全能だが内的には無力な権力になっている、と論じた(『ゴルゴタとシェプリミニ』)。シュミットはこれに続けて次のような印象深い言葉をつらねている

公権力がいよいよ公的となり、国家が内的信仰を私的領域に押しやるとき、一民族の心は内面への「秘めたる道」を辿りはじめ、沈黙と静寂の力が成長しはじめる。内外の区別の承認の時は、内面が外面を凌駕する時であり、そこですでに私の公への優位は決定的となったのである。公権力は依然強調され、忠実に尊重されるが、それはもはや単なる公的な、外的な力であり、内面の魂は抜けている。

リヴァイアサンを壊滅させたスピノザ

 こうして国家の主権的人格としてのリヴァイアサンは、十八世紀以降に内側から崩壊していく。しかし、リヴァイアサンの創造した国家はリヴァイアサンより長生きをした。生きのびた国家は、実質的には、専門的に訓練され円滑に機能する、官僚制的に組織された、軍隊・警察、司法・行政機構を意味し、機械という比喩にいっそうふさわしいものとなり、絶対主義の権力国家もいまや法的拘束を受ける「実定法の体系」になった。こうして、十八世紀におけるヨーロッパ大陸の絶対主義的君主国は、十九世紀のブルジョア法治国家によって解体された。

(略)

 シュミットによれば、封建的等族や教会などの古い「間接権力」はいったん絶対主義国家によって圧伏されたが、十九世紀になると「間接権力」は政党や労働組合などの近代的な「社会的勢力」という形態をとって再び登場し、議会を通じて立法国家を占拠して、リヴァイアサン = 国家の崩壊を促進した。自由主義的な憲法体系がこれを正統化し、多元的で「自由な私的領域」を国家の及びえない領域として国家から切り離した。

(略)

 こうして奇妙な事態が生まれてきたのが現代である。元来は自由主義的だった、例えば、議会のような制度や概念が「きわめて反自由主義的な諸勢力」の「武器と拠点」に変わってしまうという事態である。言い換えれば、多党制が「国家の神話的象徴たるリヴァイアサン」を壊滅させたのである。シュミットはその思想的淵源が、「国家と個人的自由」を区別したスピノザにあることをあらためて強調し、次のような意味深長な言葉を記している

 個人的自由を組織した諸組織がメスとなり、そのメスをもって反個人主義的勢力がリヴァイアサンを切り刻み、その肉を分配した。かくて可死の神は再び死んだ。

(略)

「反個人主義的勢力」とは何をさすのであろうか。反自由主義的なところのあるカトリック政党や社会民主党(略)のような社会的勢力をさしているともみなせるが、ナチをさしているともとれる微妙な表現になっている。

シュミットの弁明

シュミットによれば、ドイツの国外に出るのは一つの選択だろうが、国外において生活の基盤を確保するのは容易でないし、幸い亡命して国外で「精神の自由」を得られたにしても、かれらのドイツ国内への影響力は低下してしまう。不自由な体制のもとでもいくばくかの隙間があって、多少とも精神の自由を確保できる道を探せるのではないか、それにナチス体制が長期に及ぶとは限らず、むしろ短命に終わると思っていたひとが多かったわけだから、いま少しの辛抱だと考えて国内にとどまるという選択をしたとしても、批難されるいわれはない。

 シュミットも精神の自由を求めた一人だったかのような語り口である。かれはドイツにとどまり、積極的にナチ支配の旗振り役を務めていたが、その際にも「精神の自由」を保持していたというのだろうか。シュミットがとくに言いたかったことは、一〇〇パーセントの全体的な支配が成立しているかにみえるナチの「全体主義的一党体制」だからといって、そこに「精神の無条件屈服」しかありえないとみるのは、「表面に表れたもの」だけにとらわれた安易な見方であるという点である。

 こと「学問」の場合、人為的に組織された「表面」だけの考察では不十分である、とシュミットが主張するとき、「表面」と区別された「内面性の領域」という、あやしげな魔術的言語が登場してくる。「表面」なり「外面」の徹底的な管理や支配が行われていても、内面と外面を含めた全体的な支配までが実現したわけではない。そもそも一〇〇パーセントの全体的支配など可能なのか、とシュミットは反問する。「精神の自由」を守るためには、ナチス・ドイツから亡命するという道しか残されていないわけではない。亡命した知識人に反発し、その批判から身を守ろうとしたシュミットは、ナチス・ドイツにおいてさえ、「ヨーロッパ精神」は「常に地下の隠れ家」を、「新しい形式」の、「新しい方法」による「隠れ家」を見出すことができたのだ、と主張する。これは教養市民層に根強く存在する見方で、エルンスト・ユンガーもこの「究極の隠れ家」に言及している。

 権力との関係で言えば、ドイツの教養市民層は一八四八年の市民革命における挫折以来、次第に弱体化し、その人文主義的理想主義はすでに大幅に後退して、ワイマール期を経てナチ期にもなると、瓦解してしまっていた。しかしシュミットによれば、ナチス支配の十二年間においても、「内面性」に基礎をおいたドイツ人の「個人主義」は根絶されずに存続していた。ドイツ人は組織される能力に優れ、画一化しやすいように言われているが、それはあくまで「前景」でのことである。その陰で「私的内面に隠遁しつつ、その時々の政府の命令は正確に順守するという隠秘な古き伝統」は失われてしまったわけではない。

(略)

こうして、教養階層の「外面的画一化」が円滑に進めば進むほど、その「内面の全面的把握」はますます困難になる。かつて「個人主義」を目の敵にしていたシュミットが、いつのまにか個人主義に拠り所を求めて、ナチ時代の自己を正当化している。

 

 戦後いちはやくシュミットのこの発言に注目した丸山眞男は、はたしてそれは精神の光栄なのか悲惨なのか、と疑問を呈している(『現代政治の思想と行動』)。研究者や芸術家たちも政治体制を自由に選べるわけでなく、他の人びとと同じように、さしあたってはその体制を受け容れるのが普通である。危険な印象はあっても、さしあたり「合法的に成立した」に従うのは不思議でない、とシュミットは弁明する。またもや「合法性」という魔術的な言語の登場である。

 しかし現実のナチがそうであったように、「異常事態」や「内部のテロ」に威嚇される事態が発生するようになると、体制への忠誠の限度を決めなければならない状況に追い込まれる。場合によっては「内乱」に立ちあがり、「サボタージュ」を行い、「殉教者」になるという選択肢を選ぶこともありえよう。だがそうした行動に出るのも、おのずと「限界」があるのだ、とシュミットの弁明は続く。

(略)

どうすべきであったのかは亡命者や外国人が決めるべきことではなく、「状況の犠牲者」に委ねるべきである。シュミット は亡命者を「犠牲者」から除外する一方で、「安全地帯」にいた亡命者に判断基準を求めてはならないと述べて、自分も「犠牲者」のなかに加えている。一時期は積極的にナチのイデオローグたろうとし、ナチス体制の内部においてであるにせよ「安全地帯」にいたシュミットに反乱者や「殉教者」にもなりえたかのような主張をする権利があるのか疑問ではあるが、一方「精神の光栄」のためというのであれば、丸山の場合、シュミットの望ましい選択としてどのような行動を想定していたのであろうか。

 こうした主張はいずれもナチス体制崩壊後にシュミットが行った自己正当化の試みである。

 「内面性」と「合法性」

 シュミットの議論展開の重要な箇所にしばしば登場する言葉が、「内面性」と「合法性」である。本書ではこれらの言葉を魔術的言語と呼んできた。「合法性」は法学の基礎概念ではあるが、「内面性」や「合法性」がみずからのナチへのコミットを正当化する文脈で登場するだけに、見逃しえない論点である。全体主義的支配体制のもとでも、ナチの思想や価値観に一元化されていたわけでなく、私的内面性の世界では自由で多彩な考えが抱かれ展開されていた、という主張である。はたしてそうであろうか。

 シュミット自身も示唆しているように、歴史的にみてドイツの教養市民層はしばしば肝心なときに私的内面性の世界に退却し、そこで限定された自由を享受した、とされている。政治領域を貴族によって掌握され、長らく政治から排除されてきた埋め合わせを内面性の世界に求めたのである。(略)

ユダヤ人が次から次へと身のまわりから消えてしまうナチス体制下の日常において「内面性」が蒙る傷に関し、セバスティアン・ハフナーが『ナチスとのわが闘争――あるドイツ人の回想一九一四-一九三三』で鋭い考察を残しているのに比べて、獄中におけるシュミットの「内面性」に関する考察は真実を語っておらず、貧困であると言わざるをえない。

 「合法性」という言葉もまた、ナチス体制との関わりで使われる。イデオローグとして体制の「合法性」を主張するのは当たり前としても、戦後の『獄中記』においてさえ「合法的に成立した」政権(ナチ政権)に従うのは当然だ、と述べている。ナチ党が選挙によって第一党になったこと、全権を掌握する根拠とされた授権法を国会の議決により採択したことは確かである。だが授権法の成立に向けては、共産党を非合法化し、諸政党を解体に追い込み、中央党や社会民主党にも露骨な威嚇を加えたなかでなされた採決までを「合法的」であると言うのは難しい。それ以前のワイマール時代末期には、憲法に基づく合法性を無視してまで、ナチス政権の阻止が可能な論拠を苦心して模索していたシュミットが、今度は安直に「合法性」を切り札にナチス体制を正統化する議論には違和感を覚える。

 このようにシュミットは「合法性」の擁護者を自任しつつ、「合法性」には限界があることを身をもって示すことになった。「合法性」を超えた例外状況において、共和国の危機を大統領内閣により克服しようとしたシュミットが、その直後に成立したヒトラー政権を「合法性」の観点からも支持するにいたった。カリスマも果断さもない卑小な権力者などより、カリスマ的指導者の人物と手法に魅了されたのであろうか。シュミットが法学者として合法性を重視していただけに、きわめて疑問の残る選択である。

「例外状況」と「場所確定」 

 シュミット はヴェルサイユ体制や正戦論を批判する際に、しばしばその普遍主義を攻撃している。普遍主義はその抽象性のゆえに具体的な場所を喪失し、空虚な議論になっているという批判である。これに対しシュミットが対置するのは、個別具体的なもの、具体的な場所(空間)、具体的な場所との密接な関係、などである。とくに後期には「場所確定」の重要性が指摘される。それは西欧に対するドイツの自己主張の意味で用いられる場合もあるが、それを超えた意味をもつ主張でもある。だがシュミットの立場は一貫しているのだろうか。シュミットの理論の鋭さと迫力は、その多くを例外状況の方法に負っている。「主権者とは例外状況において決断をする者である」とシュミットが言う場合、極限状態と決断する状況は同じようにみえるかもしれないが、実は大きく異なっている。極限状況がどんな状況であるかは原理的に学問的に規定できる現実の状況である。決断する状況はあくまで極限的な現実の状況であるという意味では、両者の間に違いはない。しかし決断する状況において重要なのは、決断する主体にとっての状況であり、「例外」においては、科学的な状況認識や倫理的価値判断といった、およそ決断の根拠とされるようなものがすべて無力化し消え去ってしまう瞬間、つまり、あらゆる制約から解放された瞬間において決断がなされる。

 しかし現実世界において生きるということは、制約されて生きるということであり、人間としての能力や人間関係など、諸々の制約のもとでしかわれわれは生きられない。決断が下される例外状況においては、決断する主体にとって現実は制約とならず、現実としては消去されている。一方において西欧的な普遍主義であれ、世界革命の共産主義であれ、あれほど普遍主義的思考様式を嫌悪し、個別的なもの、具体的な場所に定着すること、すなわち、「場所確定」を重視したシュミットではあるが、他方では例外の方法を重視することによって、つねに最終的場面では「現実」が消去され、確定された場所も消去されることになってしまうという根本的な矛盾を、おのれの思想体系のなかに抱え込んでいた。「例外状況」も魔術的言語にみえてくる。 

カール・シュミット――ナチスと例外状況の政治学

 出自による疎外感

シュミットが生まれた頃のドイツにおいて、カトリックプロテスタントと比べて少数派だっただけでなく、エスタブリッシュメントからは排除されがちだった。ドイツの大学教授にはプロテスタントの裕福な市民階級の出身者が多く、比較的貧しい中産階級出身でカトリックでもあるかれが、後に大学教授の職に就き、最終的にはベルリン大学教授の地位にまで昇りつめたのは大きな「出世」であった。才能と野心に溢れる若きシュミットは、プロイセンプロテスタント中心のエスタブリッシュメント、とくに教養市民層から疎外された少数者意識を、むしろ活力の源として活動を開始しただけでなく、生涯にわたってもち続けていた。時にかれの著作のなかにやや唐突にエスタブリッシュメント への反発が露出してくるのはそのためである。かれには学者世界の「マージナルマン (周辺人)」という性格がつきまとっていた。シュミットやハイデガーといった二十世紀ドイツを代表する思想家を理解する上で、カトリックの下層中産階級という出自が重要な意味をもっている。カール・レーヴィットは年若い師でもあったハイデガーについて、「メスキルヒ村の極貧層の出で、ひどく切りつめた暮らしのなかで大学の学業をやりとげていた」と述べている。ハイデガーが「ゆとりのない境遇の出身だということは、あとになっても見まがえようがなかった」(略)

ハイデガーが教養市民層のエリートたちの間で疎外されていたのは明白である(『ナチズムと私の生活』)。ハイデガーほど貧しくなかったにせよ、シュミットもハイデガーの疎外感を共有していた。

(略)

学位論文は『責任とその種類』と題され、新カント派的な二元論の立場から当時有力だった一元論的な法実証主義的立場を批判している。当時シュトラースブルク大学は新カント派の牙城のひとつだった。法実証主義においては国家によって制定された実定法の権威が強調され、実定法の上位にある倫理や規範は認められなかったのに対し、新カント派は実定法を超える高次の規範があると考えたわけで、学位論文執筆時のシュミットもこの立場に与していた。かれがこうした立場に立った背景に、かれのカトリック的な価値観があったのは言うまでもない。シュミットは、皇帝を頂点にいただき官僚と軍隊によって支えられた、帝政ドイツの権威主義的国家体制のもたらす秩序と安定感を、歓迎していた。

政治学の神学的基礎

 「例外状態」に対応する事態は、神学において以前から取り上げられてきた。「近代国家論の重要な概念はすべて世俗化された神学的概念である」というよく知られたシュミットの言葉は、神学における神が世俗化され主権者となったのに対応して、神学における奇跡は世俗化されて例外状況となったことを示している。例外という方法概念の基礎にはこのような政治神学があった。

(略)

十七世紀から十八世紀の神概念において、神は世界を超越した存在とされており、それに対応してトーマス・ホッブズの国家哲学にも、国家に対する主権者の超越性という思想が含まれていた。ところが十九世紀になると、もはや神も主権者も超越性を失う。主権者は世界へと内部化され、すべてが内在的観念に支配されるようになる。この傾向を代表するのがヘーゲル哲学だった。壮大に体系化されたかれの哲学は徹底した内在哲学であり、そこで神の存在は認められていても、世界のなかに引き入れられており、世界を超越するものではない。教養人は「超越性」という観念を失うと、内在論者になるか、「形而上学的なもの」に対し無関心になるかのいずれかであり、極端な場合には無神論者になった。いずれの道を行くにせよ、例外に関する感覚は衰退する。

「中心領域」の変遷 

 マルクスは経済に注目し、経済的下部構造が法・政治や文化的上部構造を根本的に規定していることを明らかにした。(略)

ウェーバーは宗教とそこから自立(自律)しようとする諸領域の緊張関係に注目した。

(略)

 これらの考えとの対比で言えば、シュミット は政治という一種の下部構造に注目し、諸領域の相互関係において政治がどのようにみられていたかを問題にした。転換期としてかれがとくに重視したのが、宗教・神学から諸領域が、とりわけ政治領域が解放された時期、すなわち、ホッブズ やジャン・ボダンの時代である。この時代はアナーキーな宗教的内乱の時代でもあり、生命の安全、宗教信仰、秩序の樹立が優先的課題だった時代でもある。その課題に応えられるのは主権国家しかありえない、というのがホッブズの同時代的経験だった。近代国家が確立して以降は、生命の危機や社会のアナーキー化を生み出すもととなる「政治的なもの」をできるだけ排除、もしくは最小化することが、実践的にも認識論的にも主要な課題とされた。

 その課題を担ったのが市民階級であり、かれらのイデオロギーである自由主義ロマン主義は、いずれも「政治的なもの」を排除しようとする脱政治的な思想である、とシュミットはとらえていた。

(略)

かれにとって「政治的なもの」を徹底して排除することは元来不可能であり、そうした試みは所詮成功しない。政治において中立はありえないのである。「政治的なもの」に代わって市民階級は、十八世紀には人間や道徳を、十九世紀には経済をもちだし、「人間・道徳」と「経済」を「中立的領域」として「中心領域」に格上げをした。

(略)

 シュミットはヨーロッパの教養人の精神史を「中心領域」の変遷として描き、十六世紀は「神学」の世紀、十七世紀は「形而上学」の、十八世紀は「人間・道徳」の、そして十九世紀を「経済」の世紀、ととらえた。(略)

確実で明証的な領域であり、それゆえそこにおいてならば、相互理解や和解も可能であり、普遍的な平和も実現できると期待された領域が「中立領域」とされた。次に、「中心領域」とは意味の中心領域でもあった。十八世紀の場合、「進歩」という言葉に意味を与えるのは中心領域としての「人間・道徳」の領域であり、進歩とはすぐれて人間的・道徳的完成を意味した。そして中心領域の第三の意味は、諸領域の相互関係における「中心領域」の優位という点にあった。十九世紀の場合、経済が中心領域なので、それ以外の領域の問題は経済領域から解かれるべき「副次的問題」であるとされた。経済はそれ自身の外部をもたない内在性の世界であり、「中心領域」は超越性を失ったのである。

 それでは中心領域はなぜ、どのようにして変化していくのか。シュミットはヨーロッパ精神史を貫く「中立領域の追求」、言い換えれば、非政治的領域の追求という教養人(知的エリート)の根本動機によってその変遷を次のように説明する。当初、相互の和解が可能だと期待された中心領域も、長期的には安定的に自足することはない。やがてそこにも「新たな利害対立」が発生し、中心領域も中立領域としては衰退し、相互の了解と和解の場として機能しえなくなる。中立領域でもあった中心領域はいまや利害対立の「戦場」へと変貌する。以前の中心領域は中立領域としての資格を失って「捨象」され、別のところに中立的な領域が求められ、やがて新たに「中立的」とみなされた別の「中心領域」が生まれてくる。(略)

[これが繰り返され中心領域は]

「神学」から「形而上学」、普遍的「道徳」、そして「経済」へと、歴史的に変遷していく。そして二十世紀に入ったいま、「技術」が「中心領域」になりつつある。

 このような中心領域の変遷史に関してシュミットは二つの論点を指摘する。第一に、中心領域を移すと、そこに絶えず「新たな戦場」がつくりだされるという、この種の発展に固有の「弁証法」である。

(略)

従来中立領域であった中心領域が、争いの場と化すことによって中立領域でなくなり、中心領域としては排除されると、中立領域でないという理由で排除されたその同じ領域が中立化される、という弁証法的展開がみられることを、シュミットは指摘している。

(略)

神は現世的秩序の外部にいる絶対的な他者であったが、十八世紀以降神は現世内に移されるだけでなく、十九世紀にもなると現実生活の対立抗争に干渉しない「中立的存在」とされ、神としては無力化される。ここで無力化されるというのは、神や信仰の問題が「興味深い私事」となって新たな中心領域を規定する力をもたなくなることであり、新しい「中心領域」からみれば、神学の領域は「中立化」されたことになる。

(略)

第二の論点は、二十世紀において「技術」のうちに「究極絶対の中立的基盤」を見出したという「技術信仰」が一般化したことである。(略)

技術の利点は誰にでも明らかで、しかもそれは万人に奉仕する。そして神学や形而上学、道徳においてはもちろん、経済においてさえ対立する議論の解決は容易でなく、永遠に議論が尽きなかったのに対し、技術の領域の問題においては一義的に明快な解決が可能であるように思える。

(略)

二十世紀はあらゆる領域が技術の支配に服し、技術化される時代である。

(略)

二十世紀になったいま、「政治的なもの」が抹消されるだけでなく、およそ文化全般が捨象される「精神的無」の時代が到来する。「中立領域」を追求してきた結果到達したのが、「精神的無」、「文化的死」の状態であるというのはゆゆしき事態である。

(略)

こうした状況の到来に不安感をもっていたのが、シュミットより年長の、ウェーバーやエルンスト・トレルチ、ヴァルター・ラーテナウといった、一八六〇年代生まれの思想家世代だった。

(略)

[しかし]シュミットはかれらの時代の診断から距離をとっている。かれらの文化批判は、時代から傷を負っていない「冷静な認識」に由来しているだけでなく、「技術的なもの」に「無精神」あるいは「精神喪失」しかみない、上からの高踏的な見方に思えたためであろう。

 シュミットによれば、「技術的なもの」はウェーバー世代の考えるような「精神的な無」なのではなく、ひとつの「精神」である。それは「自然に対し人間が無限の支配力をもっていることへの信仰」であり、人間的自然を含めた自然は人間にとっての限界を意味するのではなく、そうした自然の制約を無限に後退させることが可能であるという信仰、言い換えれば、自然に制約された現実の人間存在が技術によって絶えず変革され、人びとに「幸福」をもたらすことへの信仰でもある。(略)

二十世紀的現代とは人間的な自然を含めた自然一般を、技術によって限りなく支配しようとする「技術的精神」の時代である、とされる。「精神の闘争相手は無精神ではない。精神は精神と、生は生と闘うのである」。 

 「決断主義」「政治の世界」

シュミットにとって、決定は規範とは無関係に独自の意義をもっている。言い換えれば、決定は誰によってなされるか、あるいは何のためになされるかに関わりなく、決定されることそれ自体が重要である。法が存在し、有効に機能している場合も、法規範のおかげなのではなく、主権者の決定が法を支えている。

 しばしばナチ期にいたるシュミットの思想的歩みは、帝政期の「規範主義」からワイマール期の「決断主義」を経て、ナチ期における「具体的秩序の思想」への転換として説明されている。政治的秩序を保証しているのは、道徳的規範でも法でも経済的なものでもなく、主権者の決定なのであるという決断主義的認識は、とりわけワイマール期の著作で強調されており、なかでも『政治的なものの概念』や『政治神学』はその代表的な文献である。

 しかし後にシュミットがナチス体制に加担し、「決断主義」に代わって「具体的秩序」の意義を重視するようになると、次第にかれの政治思想にも変化が生まれてくる

(略)

シュミットは、中立化し「脱政治化」した現代の幸福主義を否定し、「政治の世界」を対置した。かれの言う「政治の世界」は必ずしも「良き秩序」「良き世界」である必要はないし、それを目指すべきだというわけでもない。(略)

「政治の世界」とは、真剣な世界であり、ひとが娯楽に興じることなく真剣に生きることを保証するものだった。(略)

おのれの属する集団が政治的に結束し、他の集団と敵味方関係になる可能性に発する緊張感であり、それが「真剣さ」の根底にあった。

 シュミットは「政治のない世界」を描くことによって「政治の世界」の特徴を逆照射する。「政治のない世界」とは友と敵を区別することのない世界である。

(略)

それは素晴らしい世の中だと感じるひともいるだろうが、シュミットにとって、それは個人主義的世界の極致であると同時に、「真剣さ」を要求されることのない世界だった。

ヒトラーベンヤミンの議会観 

ヒトラーの叙述によれば、当初かれは議会を「憎悪」してはいたものの、議会を通した政治以外の形態があるとは思えず、議会制度それ自体を否定しようなどとは考えてもみなかった。(略)

だがみずからオーストリア議会の実態を何度も目の当たりにするに及んで、次第に議会主義そのものに疑念を抱くようになっていった。

 傍聴席の眼下に展開されている議会の「あわれむべき光景」を見るや否や、ヒトラーは憤慨した。議会での演説や議案の知的水準の低さに唖然としただけでなく、無内容で大げさな身振り、あるいはまた議員自身やる気がなく退屈しきっており、あくびをしている様を目にして、「笑わずにはいられなかった」。議員たちは、無責任であるどころか、そもそも責任をとるだけの能力が欠けているように思われた。こうした光景を何度も見させられ、やがて議会そのものを認められなくなっていった、と回想している。このようなウィーンでの経験はワイマール期のヒトラーにも生き続けた。

 ヴァルター・ベンヤミンは論文「暴力批判論」において議会を「みじめな見世物」と批判している。ヒトラーの議会観が実際の見聞による印象論的慨嘆を基調とするのに対し、ベンヤミンの議会観は暴力と法の関係をめぐる理論的考察に立脚している。かれによれば、「ある法的制度のなかに暴力が潜在している」という認識が失われると、その制度は没落していく。現在では議会制度がその一例である。議会は暴力を用いずに問題を解決する制度であると言われているが、その起源をたどっていけば、もともと革命的暴力によって成立した。成立当初は始源の暴力に対する感受性がまだ生き生きと保持されていたが、やがて制度が日常化すると、その起源において脈打っていた「革命的暴力への感覚」も失われていく。議会を生み出した力そのものが暴力であるし、その結果制度化された議会が発布する法もまた法に服さない人民に暴力を行使できるという意味で、議会のような法的制度は二重の暴力行使に立脚している。議会において暴力の危険性は形式的に合理化されているにすぎない。

 自由主義と民主主義の異なる原理

政治的支配の根拠を人民の同意によって基礎づけるロック的な主張は、社会に定着していくと同時に、直ちに問題的性格を露呈する。形式的意味での「人民の意思」の正統性が普遍的に承認されたその瞬間に、「人民の意思」の内容的自明性が崩壊し、問題視されるようになった。

(略)

 そこで自由主義がとった、「形式的自由」を普遍的には認めないという政策は、シュミットにとって典型的に民主主義的な対応である。

(略)

その条件が特定の政治的共同体に所属するということであり、その共同体によって実現される特定の生活様式に忠誠を誓うことでもあった。

(略)

このように十九世紀段階になると自由主義のいう「人民」とは、人びと一般、人類ではなく、特定の政治的共同体への忠誠を誓ったひとを意味するようになる。

(略)

このように形式的自由を制限した自由主義は、もはや古典的自由主義からは逸脱し、自由民主主義に変貌している。シュミットは『議会主義論』において、自由主義と民主主義が結びついたことを問題視した。自由主義と民主主義は異なる原理に立脚していたからである。自由主義は非政治的な主張であるのに対し、民主主義は政治的な主張である(『憲法論』)。例えば、両思想とも「平等」をキーワードとしているが、その実質的意味はちがっている。「人間はすべて平等である」という自由主義の平等論は政治的主張ではない。政治的内容をもつ主張には、人間を政治的に区別する論理が必要だが、自由主義の人間平等の理念には、政治的基準のみならず、法的基準も経済的基準も含まれていない。人間は生まれながらに平等であるという自由主義的主張には、不平等という相関概念が欠落しており、政治的概念にはなりえない。 シュミットにとって、この自由主義的な平等の理念は概念上も実際上も、空虚な、「どうでもよい」(『憲法論』)平等であった。

(略)

民主主義は人間を「無差別」に扱うのではなく、「区別」することができる。例えば、近代において一般化した「国民」であるか否かの区別に基づいて、国民の範囲内で平等を考えるのが民主主義である。

 シュミットによれば、民主主義とは一連の「同一性」である。支配者と被支配者が、統治者と被治者が、あるいは命令者と服従者が同一だという、きわめて形式的に理解された民主主義論である。民主主義の本質的前提は実質的な平等にあった。民主主義に立脚した国家は支配と被支配の区別が何らかの質的な差異を表したり、生ぜしめたりすることを認めない。民主主義による政治は何らかの実質的差異に基づくものであってはならないのである。

 この点で民主主義は、支配者の権威を「人民のもっていない何か高次の特性」によって基礎づける「君主主義」と根本的に対立している。民主主義的統治は統治者が被治者よりも何か質的に優越しているということに基づいてはならない。「統治者は実質的に民主主義的平等および同質性の枠内にとどまって」いる必要がある。民主主義における政治的支配は支配され統治される者の、つまり「人民」の「意思、委任および信任」だけに基づいており、その意味で「被治者は自分で自分を統治している」のである。民主主義とは人民の自己統治、自己支配であるというシュミットの定義はこのような意味であろう。

 こうして民主主義にとっては内部しか存在せず、外部はありえない。民主主義的思想は、「必然的に内在観念において動く」のである。神であれ、何らかの形而上学であれ、内在性の世界から脱出して獲得される外部なるものは、人民の内部に高低、上下といった質的差異をもたらすので、民主主義の根本原則である同一性とは相容れない。こうして民主主義体制において、国家の正統性根拠は王朝から人民(国民)へと転換した。

シュミットとロマン主義

 だが、もともとシュミットにはロマン主義に対し心情的には共感を寄せていたふしがある。一九一〇年代のシュミットは同時代のロマン主義的な詩人、テオドーア・ドイブラーに関心を寄せていた。同時期の著作『国家の価値と個人の意味』にはドイブラーの詩句をエピグラフに掲げているし、一九一六年には小冊子ながら(略)文学史的には無名に近いドイブラーの代表作と言われる長大な叙事詩「北極光」を分析した。

 そこでシュミットは、「北極光」において「ロマン主義的な解釈意欲」が支配している、と述べているが、そのドイブラーの意欲に対しシュミットのロマン主義的感性が反応している。かれは世俗化した時代について右の小冊子でこう書いている。

正義は権力になってしまった。誠実は計算可能性に、真理は一般に承認された正しさに、美は良き趣味に、キリスト教は平和主義的組織になってしまった。……善悪の区別に代わって、細かく細分化された有用性と有害性が現われたのである。

 シュミットが『政治的ロマン主義』を発表して以降、ドイブラーとの関係は疎遠になったが、それでも第二次大戦後の小著『獄中記』には数ページにわたるドイブラーに関する記述があり、シュミットがロマン主義的心性と本当に訣別しえたのかどうかは疑問である。

 とはいうものの、シュミットの『政治的ロマン主義』の論旨は一見明快である。ロマン主義は芸術運動たるべきであり、政治運動化した場合、政治に固有の決断する能力が欠けており、無責任な態度に陥らざるをえない。

(略)

 シュミットの「ロマン主義論」は近代個人主義の批判として読むことができる。とくにかれは個人主義の根本的志向性を批判した。個人主義にとって重要なのは個人の生命と自由であり、個人の固有性である。個人主義がおのれの志向性を貫く限り、個人は孤立性を深めるだけで、そこから共同体は生まれてこない。個人主義には政治的共同体への積極的志向性が欠けている。

(略)

政治とは生々しい利害対立の場であるはずだが、自由主義的個人の依拠する理性的な討論が成り立つには、市民的個人であると同時に理性的個人であるという同質性が必要とされる。しかもかれらは政治という利害対立の場で理性的解決を探る際に、政治問題を巧妙に回避し経済と倫理の問題に解消しようとしている、というのがシュミットの自由主義批判の核心だった。

 経済的利害対立は理性的討論や倫理によって解決できるという自由主義的個人の想定を批判したのがロマン主義的個人である。ロマン主義にとって、自由主義的個人が想定していた同質性は成り立たず(あるいは崩壊し)、もはや頼りになるのはおのれにのみ固有なもの、つまり個性だった。ところが伝統なり常識なりおのれに固有でないものを捨象し純粋化していけばいくほど、かえって個人の内実は空虚にならざるをえず、個人の自己同一性さえ危ういものになる。

 このようなロマン主義的個人につきまとう矛盾を鋭く批判したのが、シュミットの『政治的ロマン主義』だった。

次回に続く。

民主主義の非西洋起源について デヴィッド・グレーバー

巻末の「【付録】惜しみなく与えよ――新しいモース派の台頭」だけ読んだ。

モースの生い立ち

マルセル・モースは一八七二年に、ヴォージュの正統ユダヤ教徒の家庭に生れた。叔父のエミール・デュルケームは、近代社会学の創設者とみなされている。デュルケームは若い信奉者たちに取り巻かれていたが、モースもそのひとりとして、宗教研究に従事した。けれどもこの信奉者たちのサークルは、第一次世界大戦によって崩壊してしまう。多くは塹壕で命を落とした。デュルケームの息子もそうだ。そしてデュルケーム自身、その後まもなく悲嘆のうちに世を去る。彼が遺したものを受け継ぐのは、モースの務めとなった。けれどもモースはどうやら、デュルケームの推定相続人の役割を果たすにふさわしい存在として、周囲からまったく真面目に受け止められることはなかったらしい。並外れた学識を備えていたものの(略)彼には偉大な教師に期待される重々しさが欠けていた。元アマチュアボクシング選手のモースは大柄な男で、陽気な、いささかふざけすぎの気味もある雰囲気を湛え、壮大な哲学体系の構築を目指すよりも、手持ちのキラキラした発想のあれこれを用いて曲芸をすることを本分としていた。彼は生涯に、主題を異にする少なくとも五つの著作に取り組んだけれど(祈りについて、ナショナリズムについて、金銭の起源について、等々)、完成したものはひとつもない。それでも、彼は新世代の社会学者を育成することができたし、ほぼ独力でフランス人類学を創始することもできた。

社会主義者、贈与経済

 モースはまた、革命的社会主義者でもあった。(略)自らパリに消費者協同組合を設立し、その運営に長年力を尽くし(略)

けれども、モースはマルクス主義者ではなかった。彼の社会主義は、マルクスよりもロバート・オーウェンやピエール=ジョゼフ・プルードンの伝統に基づくものだった。モースの考えでは、共産主義者社会民主主義者も、社会の変革を主として政府の行動を通して可能になるものと信じる点で等しく間違っていた。社会主義とはボトムアップ式に形成されるべきもので、政府の役割は、オルタナティヴな諸制度を創出することにより、そうした社会主義にしかるべき法的枠組みを提供することにあると彼は感じていた。

 だからロシア革命は、モースに深く曖昧な感情を抱かせた。本物の社会主義的実験の見通しに心弾ませつつも、彼はボルシェヴィキによるテロルの体系的な活用に、民主主義的諸制度の解体に、そして何より、「目的が手段を正当化するというシニカルな教説」に憤慨した。そんな教説はモースに言わせれば、まったく単純に非道徳的なものでしかなく、市場の合理的算術がわずかばかり調子を変えたものにすぎないと思われた。

 「贈与」をめぐるモースの論考は、何にもまして、ロシアの出来事に対する彼の応答として書かれた。特に念頭にあったのは、一九二一年のレーニンの〈新経済政策〉である。この政策により、商業の廃止という当初の企ては放棄された。もしもロシア――たぶんヨーロッパで貨幣化の度合いが最も低い国――においてさえ、単純に法律によって市場を廃止してしまえるものではないのであれば、革命家たちは明らかに、この「市場」なるものは一体何なのか、それはどこからやって来たのか、そしてそれに対する実行可能なオルタナティヴはじっさいどのようなものでありうるのか、もっと真剣に考え始める必要がある。モースはそのように考えた。そのためには今こそ、歴史学民族学の研究成果を活用しなければならない。

 モースがそこから引き出した結論は驚くべきものだ。まずは、「科学」を称する経済学が経済史についてこれまで語ってきた事柄のほとんどすべてが、事実に反するものだったとされる。昔も今も、自由市場に熱狂する人びとが揃いも揃って想定しているのは、人間存在を突き動かしているのは本質的に言って、自らの快楽、安定、物質的所有(つまり自らにとっての「効用」)を最大化しようとする欲望であり、だから意味のある人間的相互作用はみな、市場の観点から分析することができる、ということだ。

(略)

 モースがただちに指摘しているように、こうした物語の問題は、物々交換に基づく社会がこれまでに実在したということを信じられるだけの理由はどこにもない、ということだった。それどころか、人類学者たちは当時、物々交換とはまったく別の諸原理に基づいて経済活動を営む諸社会を発見しつつあった。それらの社会では、ほとんどの事物が贈り物として行き来し、私たちが「経済」行動と呼ぶようなものはほとんどすべて、純粋な気前の良さを誇示し、何かを誰かに与えたのは誰なのかを厳密に計算に入れるようなことはしないという原則に基づいていた。こうした「贈与経済」は、時として高度に競争的なものとなりうる。けれどもその場合、私たちの経済とは正確に反対のやり方でそうなるのだ。誰が最も蓄積することができたかを競うのではなく、勝利者は、最も多くを与え、手放した者だった。そのため、惜しみない与えっぷりの劇的な競い合いが生じることもあった。

(略)

 こうしたことはみな、まったくエキゾチックに見えるだろう。けれどもモースは、それはほんとうに私たちと無関係なことだろうかと問いかけたのだ。そもそも物を贈るという考え方自体が、私たちの社会のなかであっても、奇妙なものではないだろうか?友人から何かを贈られた時(略)、どうにかしてお返しをしなければと感じてしまうのはなぜなのか?贈り物をもらってお返しできない場合、自分をつまらない存在のように感じてしまいがちなのはどうしてか?

(略)

こうした異なった種類の衝動や道徳基準が存在しているという事実こそは、私たちが生きているような資本主義システムにおいてさえも、オルタナティヴなヴィジョンや社会主義的政策への欲求が生じることの現実的な根拠となっているのではないか?(略)

 多くの点で、モースの分析は疎外と物象化についてのマルクス主義的諸理論――同じ時期にジェルジ・ルカーチのような人びとが発展させていた――と際立った類似を示している。モースによれば、贈与経済のなかでは、交換は資本主義的市場におけるような非人格的性質を持たない。事実、高い価値を持つ何かが持ち主を換える場合でさえも、真に問われるのは人と人のあいだの関係だ。交換とは、友好関係を構築することであり、対立を清算し恩義に報いることであって、価値ある財の移転は偶発的な意味しか持っていない。結果として、すべては人格的性質を帯びることになる。所有物でさえもそうだ。贈与経済においては、最も定評のある富の対象――家宝の首飾り、武器、羽毛のマント――は、つねに自ら人格を備えた存在になってきたように思われる。

 市場経済では、事情はまったく異なる。取引とは単に、有用な物を入手する手段とみなされる。理念上、売り手と買い手がどのような人格の持ち主であるかはまったく関係がないものとされる。結果としてすべてが、人間でさえも、単なる事物であるかのように扱われるに至る(略)。しかしモースの見方がマルクス主義と違うのは主として、当時のマルクス主義者たちがまだ経済的下部構造による決定論固執していたのに対し、モースは市場なき過去の諸社会においては――そしてまた、真に人間的な未来社会においては――、経済は、富の創造と分配にのみ関わり非人格的論理に従い自ずから動いていく自律的な行為領域という意味では、そもそも存在さえしないと考えていたという点だ。

 モースは、自らの実践的結論がどのようなものなのかについて、決して完全な確信に達することがなかった。ロシアの経験から彼が理解したのは、近代社会において――少なくとも「予見可能な未来においては」――売り買いをきれいさっぱり廃止してしまうことはできないということ、しかし市場倫理の廃絶ならできる、ということだ。労働を協同のかたちで行い、実効的な社会保障を確立し、そうして徐々に、新しい倫理を生み出していくことができるだろう。新しい倫理とはすなわち、富の蓄積は、ただそれをそっくり他の人びとに分かち与えることができる場合にのみ、弁明可能になるというものだ。結果として生まれる社会で最高の価値となるのは、「公の場で物を与える楽しみであり、美的なものへ気前よく出費する喜びであり、客人を歓待し、私的・公的な祭宴を催す喜び」である。

 こうした主張のなかには、今日の観点からは恐ろしく素朴に見えるものもあるかもしれない。けれどもモースの洞察の核をなす部分は、七十五年前よりも今日――経済学が「科学」を自称しつつ、事実上、現代社会の啓示宗教となってしまった今日――においてこそ、いっそう有効なものになっている。ともかく、MAUSSの創設者たちにはそのように思われたのだった。

 MAUSSのアイディアは一九八〇年に生まれた。フランスの社会学者アラン・カイエとスイスの人類学者ジェラルド・ベルトゥーの昼食時の会話から、計画は始まったのだという。二人は贈与を主題とする数日間の分野横断的な学術会議に参加したところだったが、報告された諸論文を検討した結果、衝撃的な事実に到達することになった。学者たちの誰ひとりとして、贈与を促す重要な動機とは気前の良さ、つまり他人の幸福を願う純粋な配慮であるのかもしれないという発想に、まるで思い至らなかったように見えるのだ。実のところ、どの学者も一様に、「贈与」など実際には存在しないのだとみなしていた。人間のどんな行為であれ、十分に深く探究して見るなら、つねに利己的で計算づくの戦略が見いだされずにはいない、というわけだ。いっそう奇妙なことだが、彼らはみな、こうした利己的戦略はつねに必然的に、贈与という行為の真実そのものであると、つまりそれこそは、付随的に関わりうる他のどんな動機にもまして本質的な動機なのだとみなしていた。あたかも、科学的であること、「客観的」であることとは、完全にシニカルであることを意味するのだ、とでも言うかのようだ。どうしてそんなことになってしまうのか?

 カイエは最終的に、キリスト教の責任だと考えた。古代ローマにおいてはまだ、貴族階級の物惜しみのなさという古い理想が多少とも保たれていた。(略)

当時大いに好まれた習慣のひとつは、群衆の前に金貨や宝石をばらまいて、人びとが泥の中を取っ組み合いをしながら拾い上げようとするのを眺める、というものだった。初期のキリスト教徒たちはこうした不愉快な習わしに反対して、彼ら自身の慈善の観念を発展させていったのだが、それも当然だろう。真の慈善は優越性を確立しようという欲望にも、恩を売ろうという気持ちや他のいかなる自分本位の動機にも拠るものではなく、贈与する者がこの行為から何かを得られるのであれば、それは真の贈与ではない、というわけだ。

 けれども、このことが今度は、果てしもなく問題を生じさせていくことになった。というのも、贈与者の利益にまったくならないような贈与を考えるのは実に難しいからだ。まったく私心のない行為でさえ、神からの覚えを良くするものとなりうる。こうして、あらゆる行為は何か秘められた利己心を覆う仮面であるに違いないとみなし、その隠蔽の程度を探り当てるという習慣が始まった。こうして暴かれる利己心こそが、真に重要なものだ、というのである。(略)

経済学者とキリスト教神学者は、誰かが気前の良さを示すことで喜びを得るのであれば、その行為はそれほど気前の良いものではないのだ、と考える点で一致している。両者は単に、そのことの道徳的含意をめぐり対立しているにすぎない。まったくもって倒錯的なこうした論理に対抗するために、モースは贈与の「喜び」と「楽しみ」を強調したのだった。

(略)

伝統的な贈与の核心とは、自分と他人を同時に豊かにすることなのだ。

(略)

 モース的左派をどのような存在とみなすべきか、正確に見定めるのは難しい。モースが今日、一部の界隈で、マルクスへのオルタナティヴとして推奨されているだけになおさらだ。モース的左派を単に過剰な社会民主主義者とみなし、社会のラディカルな変革には関心を持たない輩として片付けるのは容易い。例えばカイエの「三十箇条」は、モースに同意しながら、ある種の市場を避けがたいものとして容認している。とはいえ、そこではやはりモースと同様、資本主義(略)の廃止が展望されているのだ。それに何と言っても、別の水準では、市場の論理に対するモース派の攻撃は、今日の知的地平に見いだされるいかなるものにもまして深く、ラディカルなものとなっている。だからこそ米国の知識人たち、特に自分こそは最も獰猛なラディカルだと信じ、貪欲と利己心を除くほとんどすべての概念を脱構築しようと望む人びとは、モース派をどう扱えばよいのか単にわからないのだろう、それにまた実際のところ、だからこそモース派の仕事はほとんど完全に無視されてきたのだろう