エルヴィス・コステロ・バイオグラフィー

 僕にとって、重要な問題は二つしかない。曲をかく原動力になるのは「復讐」と「罪悪感」だけだ。理解できる、感じることのできる感情はそれしかない。愛だって?なんのことだか分からないな、マジで。僕の歌のなかには存在しないね。

 一九七七年八月号《NME》誌

パブ・ロック

 パブ・ロックの先陣を切ったのは、皮肉なことにアメリカン・バンドのエッグス・オーヴァー・イージーだった。七一年晩春[チャス・チャンドラーとレコードをつくるためNYからロンドンに来たが](略)契約上のゴタゴタが続き、スタジオに縛られた仕事に嫌気がさすようになったメンバーは、自由な音楽表現の場を求め、自宅近くのケンティッシュタウンにあるパブ〈タリー・ホー〉で毎週月曜日に出演する約束をとりつけた。(略)

オースティン・デローネは〈モジョ〉誌に語っている。「カントリー系のルーズなロック・ユニットと呼んでもいい」。(略)

[〈マーキー〉に出演した際に]ブリンズリー・シュウォーツのマネージャーだったデイヴ・ロビンスンというアイルランド男と知り合った。ブリンズリー・シュウォーツは、鳴り物入りの宣伝活動が大失態に終わるという痛い経験をしていた。(略)

 「ライブ・ジュークボックス」ともいえるエッグス・オーヴァー・イージーのアプローチに刺激され(略)ニック・ロウはラフでノリのいい曲を書くようになった。

(略)

「最初はちょっとノリのいい連中ってだけだった」と、ロウは〈モジョ〉で振り返っている。「どっちかっていうと、ホガース風でね。突っ張った若い連中がドアのあたりにタムロして、アラブ系のバスの運転手が毎度のように一人で踊り狂ってた。でも、二、三週間するとイカした連中が目をつけるようになった。ヒップな連中がね」

 噂のアメリカン・バンドの演奏を聴こうと、〈タリー・ホー〉には大勢の客が殺到した。聴衆が大声で叫ぶリクエストに応えて、エッグス・オーヴァー・イージーは演奏した。ブリンズリー・シュウォーツも同じ手法でパブに進出。(略)「人気の兆しが少しみえるようになった」

(略)

エッグス・オーヴァー・イージーアメリカに戻ると、新たなグループが台頭するようになった。ギャラが貰えるうえに、無料でビールを飲んで一晩過ごせることに魅せられたパートタイム・ミュージシャンによる(略)バンドには、ビーズ・メイク・ハニーやダックス、デラックス、キルバーン・アンド・ザ・ハイ・ロード、ルーギャレーター、ヘルプ・ユア・セルフ、クランシー、チリ・ウィリ・アンド・ザ・レッド・ホット・ペッパーズ、エース、ザ・ウィンキーズがいた。

 こうした新しいバンドの出現で[演奏できるパブも増えたが]

(略)

どんなブームでも、最低ラインの数カ月をこえて生きのびるためには、全体を一つの潮流にまとめる接着剤のような存在が必要だ。ここでは、BBCラジオの〈チャーリー・ギレットのホンキートンク〉がその役割を果たした。毎週日曜日の朝に放送された番組のライブ情報は、パブ・ロックファンに対する「召集命令」のような影響力を発揮。七三年半ばには、これまでのパブだけではとても需要に追いつけなくなった。パブ・ロックの人気とともに、ファン層も広がった。一般の音楽愛好家は、当時のロックバンドの過剰な音楽とステージパフォーマンスにうんざりしていた。グラム・ロックはナヨナヨしすぎ、クラウト・ロックはあまりにアバンギャルドで、アメリカン・ロックは心地よすぎた。パブ・ロック(そして、その純血種として誕生したパンク・ロック)を聴き、彼らはボーカルやギタリストをなめるように見つめ、汗の匂いを嗅ぎ、吸い殻を踏みつけ、ジャケットにこぼれたビールをぬぐい、音楽との危険な一体感を感じた。「ヒッピーのアングラ文化に足を突っ込み、性に合わないと気づいた元モッズの中産階級の連中の再結成」。ニック・ロウは、当時のシーンをそう。表現した。

 言わずもがなの話だが、ブームは長く続かなかった。(ドクター・フィールグッドやエース、ココモ、エディー&ザ・ホット・ロッズといった)一部のバンドを除いて、レコード会社は興味を示さず、これらのバンドの商業的成功も短命に終わった。残りのバンドも何年かは活動を続けたが、ダックス・デラックスやウィンキーズ、キルバーン・アンド・ザ・ハイ・ロード、そしてブリンズリー・シュウォーツの解散とともに、時代は終焉を迎えた。だが、恩恵を残さなかったわけではない。パブ・ロックのまいた種は数世代にわたり、(特に)イギリスのミュージシャンに絶えず影響を及ぼすことになった。

(略)

 多くのミュージシャンが姿を消していくなか、ライブやセッションを続けながらチャーリー・ギレットのラジオ番組の〈デモ・セクション〉コーナーに参加していた三組のアーティストが、パブ・ロックの残骸から飛び出そうとしていた。グレアム・パーカーとダイアー・ストレイツ、そしてデクラン・コステロ率いるフリップシティだ。

デクラン・パトリック・マクナマス

 モッズに走るには若すぎたし、スキンヘッドを目指すには個人主義すぎた。かといって、滑稽じみたグラム・ロックに飛びつく気にもならなかったため、デクランはジェームズ・テイラーなどのアメリカン・シンガーソングライターを聴いていた。だが、最後には自己告白に終始するその歌に嫌気がさすようになった。ロンドンでは〈タムラ/モータウン〉やレゲエ、眼力の鋭いティーンエイジャーのお気に入りである〈スタ・プレスト〉が幅をきかせていたが、リバプールではアメリカ西海岸出身のグループの落ち着いたサウンドや、(略)プログレッシヴ・ロックが好まれていた。

 そのどちらも迎合することができず、コステロはふたたびソウルに戻っていったが、同世代のプレッシャーに負けてグレイトフル・デッドに手を出したこともあった。

(略)

群れることを嫌い、コステロはラジオで〈タムラ/モータウン〉やスカを聴いていた。トレードマークのメガネ姿も板につきつつあった。 

School Days

School Days

  • Sta Prest
  • ロック
  • ¥153
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リック・ダンコがヒーロー 

 七二年、リバプールのパブ〈ザ・グレイプス〉にブリンズリー・シュウォーツが出演。コステロにちょっとした転機が訪れた。アメリカ西海岸のおとなしいサウンドとはまったく違う「白人のR&B/ソウル」を聴き、コステロは開眼した。ブリンズリー・シュウォーツには、大好きなバンドの一つ、ザ・バンドを彷佛とさせるところがあった。「ザ・バンドこそ僕が求めるものだった(略)彼らは最高だった。あのヒゲがよかった……すっごく不細工なところがまたよかった。そこいらの若造じゃない、大人の男だ。昔を懐かしむような曲ばかりでも、カウボーイみたいな格好をしたりしない……インチキ臭くなかった」

 ライブ前にパブでくつろいでいたニック・ロウを見て、デクランは近づいた。

(略)

この頃には、コステロの歌声と歌唱スタイルは単なるモノマネを脱却し、極めて個性的なものに進化しつつあった。(略)

偉大な黒人ソウルシンガーの歌唱法をサル真似するだけのイギリスの白人「ソウル」シンガーに疑問を感じたコステロは、敬愛するヴァン・モリスンやダグ・サーム、そしてなによりもザ・バンドのリック・ダンコの手法を投影させながら独自のスタイルを完成させた。

「(リックは)絶対的なヒーローだった(略)鼻にかかったようなユニークなスタイルで、いま思うとちょっとカントリーっぽいところもあって……あんなに魅力的でリラックスしたファルセットは聴いたことがなかった」

ブラックリスト

コステロは、CBSレコードが国際年次総会を開催していたロンドンのヒルトン・ホテルの外でゲリラライブを敢行した。

(略)

この大胆な戦略が決定的となり、年末を待たずしてCBSコロムビアコステロとの契約にサインすることになった。

(略)

 ディングウェルでのライブは、アルバム『マイ・エイム・イズ・トゥルー』の発売に合わせて行われた。コステロの人生にとって、鬱屈としながら待ち続けた甲斐があったと思えるイベントだったに違いない。

(略)

そう、あの有名な「ブラックリスト」――どうやら、コステロは他人に拒絶されることに過敏で、デモテープを聴いたレコード会社のA&R担当者が自分の電話に返事をしたかどうかに不健全なまでの執着心を感じていたらしく

(略)

〈NME〉には、当時のコステロの報復行為の激しさを暴露する記事が掲載されている。「(彼は) 八ページもある招待者リストを手にすると、容赦なくそこにあった名前の半分をばっさばっさと切り落とした。なかには、彼のデモテープを個人的に却下したアイランド・レコードのディレクター、リチャード・ウィリアムズもいた。エルヴィスは招待者リストをくまなく点検して、最後に招待したときに顔をみせなかった人物の名前が載っていると、永遠にリストから追放するように手配した」

 明らかに、この男は簡単に引き下がるタマではなかった。誰もの目からみても、それは疑う余地のないことだった……。

ラストアクトをめぐる争い

 スティッフの五組のアーティスト(略)は、レビュー形式のイギリスツアーに参加することになった。

(略)

ラストアクトをめぐる争奪戦が激化するにつれ、内部の緊張とエゴのぶつかり合いが「スリル」を生んだ。

(略)

ある日、ジェイク・リヴィエラとデイブ・ロビンスンが大げんかをして(略)

ロビンスンがスティッフに残り、リヴィエラコステロとロウを従え、新レーベル〈レイダー〉に移籍することになった。

(略)

 日替わりの交代制はすぐに頓挫した。ラリー・ウィリスとレックレス・エリックには、客を最後まで引き止めておくだけのレパートリーがなく、ニック・ロウはパブのラストオーダーに是が非でも駆け込みたいために、早い順番に演奏したがったためだ。ラストアクトをめぐる争いは、コステロイアン・デューリーの一騎討ちになった。

(略)

デューリーは(略)最終的には、観客による人気投票で最優秀バンドの栄誉に輝き、アルバム『ニュー・ブーツ・アンド・パンティーズ』は二年間近くチャートにとどまった。「退屈しのぎに、いつ寝首をかかれるか分からないって感じだった」と、コステロはツアーを総評した。「でも、ウォッカアンフェタミンですっかりイカれてる人間が何を考えてたかなんて、聞くだけムダだよ」

(略)

「僕が思うかぎり、スティッフ・ツアーは失敗だった(略)毎晩、アンコールはデューリーの〈セックス・アンド・ドラッグ・アンド・ロックンロール〉なんだ。すぐにあの曲がツアーそのもののテーマソングみたいな奇妙な雰囲気になってきた。あんまりひどいことになってきたんで〈パンプ・イット・アップ〉をかいたんだ。どれだけの女と寝て、ヤクをやれば、神経が完全にマヒしてなにも感じなくなるんだって……」

戦略、敵意 

コステロには自分が成功するためにリヴィエラのそうした態度を容認していたようだ。(略)

とはいえ、アメリカに関しては、リヴィエラはやり方を間違えた。なにより彼の采配が必要とされたときにインタビューをシャットアウトし、ツアー中には音楽ライター数名に「暴力」までふるった。さらに、普通の会場よりも高校のキャンパスでライブをしたほうがいいというリヴィエラの戦略に(略)CBSは強い疑念をもっていた。

(略)

 ニューヨークでの最終公演の翌日、コステロセックス・ピストルズの代役として急きょ〈サタデー・ナイト・ライブ〉に出演した。おとなしく〈ウォッチング・ザ・ディテクティヴス〉と〈レス・ザン・ゼロ〉を歌ったが、二曲目の途中で突然ストップ(「申し訳ないが、みなさん、この歌をやんなきゃんらない理由はないんで」)、歌わないでくれと特に頼まれていたはずの〈レディオ、レディオ〉にスイッチした。「あんなにラジオ局があるのに、一つとしてマトモなとこがないなんて胸クソが悪くなる」と、コステロは不満を漏らしたと〈クリーム〉は伝えた。BBCラジオがリリース時に〈レス・ザン・ゼロ〉をオンエアしなかったことや、一番ラジオ向きだった〈アリスン〉をときにコステロ自身がコンサートで演奏することを拒んだ事実はまだ記憶に新しかった。アメリカでのマスコミとの対立は(略)黙殺されるのだけはご免だと思うあまり、計算された自信と荒けずりな主張の不完全なバランスが崩れ去ってしまったのだ。

「たとえネガティブなものであっても、立場はより鮮明にさせたほうがいい(略)ある時点までは、それでうまくいく。そこでちょっとヤリすぎてしまうんだ。キチガイみたいに怒鳴ったり、叫んだりするようになる

(略)

 コステロがくり返し見せる敵意の根底には、音楽業界に対する根強い嫌悪感があった。あっという間に大出世を果たしたとはいえ、コステロはレコード契約を結ぼうと努力していた時代に鼻先であしらわれたことを、忘れてもいなければ、許してもいなかった。

(略)

コステロは〈NME〉に「連中のことは許してない」と語った。「この先も、許してやるつもりはない。だから、〈トップ・オブ・ザ・ポップス〉のプロデューサーと一緒に昼飯は食わない。このクソったれた業界の連中はね、僕がアイツらのちんまりした仲良しクラブに入るのは真っ平だって思ってることが全然分かってないんだ。〈ロキシー〉にお出かけして、リンダ・ロンシュタットとつるむなんて、勘弁してくれよ!(彼女は七九年に〈アリスン〉をカバー。イギリスではまずまずのヒットを飛ばしたが、予想どおりコステロはこのバージョンが気にくわなかった)。僕は音楽ビジネス全般とその愚かさすべてにうんざりしてるし、どんなに成功を手にしても最初に味わったひどい体験を打ち消すことはできない」

 この言葉が裏づけられたのは、しばらくしてヴァージン・レコードが魅惑的な契約条件を提示してきたときのことだ。自分の作品を足蹴にしたことがあるという理由で、コステロは同社に「ノー」を突きつけた。「最新アルバムの収録曲を二つ挙げてみろって言ったら、リチャード・ブランスンは口ごもりやがったんだ。だから、とっとと失せろって言ってやった」

リヴ・タイラー母とスキャンダル

[それにしても、スティーヴン・タイラートッド・ラングレンコステロって凄くないですか]

有名になるにつれ、そして赤ん坊だった息子マシューが成長するにつれ、マクナマス夫妻の関係が崩壊していったことに疑問の余地はほとんどない。(略)

コステロはほとんどツアーに出ているか、それ以外はスタジオにいるか、曲づくりをしていた。彼はムダに費やされた時間を必死で取り戻そうとしていたのだ。なにかを犠牲にする必要があった。

 確かに犠牲はでた。(略)

コステロが、元プレイボーイ誌のグラビアガールで有名モデルのベベ・ビュエルとゴシップ記事を賑わすようになったのだ。

 こともあろうに、ビュエルはスター連中の高級アクセサリーのような存在だった。ロック界を渡り歩き、その交友関係はミック・ジャガーキース・リチャーズロン・ウッドジミー・ペイジイギー・ポップトッド・ラングレンロッド・スチュワートにまで及んだ。情夫の一人、スティーヴン・タイラーとのあいだには一歳になる娘のリヴがいた。

(略)

二人が最初に出会ったのは七八年夏のロサンゼルスだが、皮肉なことに、その二年ほど前にビュエルはコステロを見かけている。モデルの仕事でロンドンで撮影をしていたとき、オーバーオールを着たガリガリでメガネ姿のエリザベス・アーデンの従業員がスタジオに入ってきて、小包を置いて出ていった。ビュエルはその男の素性を尋ねた。「デクランだよ。さえないパブ・バンドで演奏してる妻子持ちの男だ」。そう聞かされても、彼女の記憶のなかにあるコステロの姿が消えることはなかった。

 歳月は流れ、今や実績を認められ、全米の音楽通のお気に入りバンドになったエルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズは、ロサンゼルスでニューウェイヴ・コンサートに出演することになっていた。ミンク・デヴィルとニック・ロウをサポートに従えたコステロは、ビュエルの目には青いスーツ姿の抗いがたい魅力をそなえた男に映った。彼女はバックステージ・パスを手に入れ、見事な手際ですんなりとコステロを紹介してもらった。その数時間後には、二人はサンセット大通りに姿を消した。

[飲み過ぎで貞節を守ったコステロはLAに飛び、詩のような手紙などを波のように送りつけた]

(略)

電話と手紙、ポストカードなどが波のように押し寄せた。あまりに雄弁で詩的なその言葉に、ビュエルはコステロはこうしたロマンティックなコミュニケーションを経験するのが初めてなのではないかと思ったほどだ。

(略)

一緒にロンドンに来いって。リヴはまだ一歳だったし、知らない土地にあの子を連れて行きたくなかった。だから、メイン州の実家に連れていったのよ。ロンドンで山ほど仕事をして、稼いで帰ってこようって思ってた。長居するつもりはなかったの。だって、彼とはまだ一度も寝てなかったんだもの。お見合い結婚みたいなものよ」

 こうして、八月中旬にビュエルはロンドンにやってきた。(略)

[音楽誌もタブロイド誌も]意外性のあるこのカップルを格好の標的にした。

(略)

これまでで最も格調高い会場で開催されるロンドン公演の日程が発表された。ドミニオン劇場でロックバンドが演奏するのは初めてのことだった。一二月一八~二四日の七夜連続公演。(略)チケットはすべてソールドアウトだった。息子の晴れ舞台を見にやってきた父親ロスは、ライブには感動したものの、会場の雰囲気に不安を覚えた。「観客はお前が死ぬのを見たがってるぞ」と、彼は平静そのもののエルヴィスに言った。ステージから発散される攻撃的なエネルギーを、熱くなった観客がそのまま反射していることにロスはおそらく気づかなかったのだ。

 首都ロンドンの大劇場での七夜連続ライブがソールドアウトになったことで(おまけに上映中の「スターウォーズ」まで追い出した)、「成功神話」は不動のものになった。コステロはすべてを手に入れた。ずっと望んでいた批評家たちの評価、必要ないと思っていたマスコミの注目、不穏な世間のイメージ、ケンジントンの新しいアパートメント、モデルの愛人、新しいアルバムのリリース、そしてウィットンにいる妻子ともすぐに別れることになっていた。

 そう、目の前にはハッピーな日々が待ち受けていた――。

次回に続く。

ジミ・ヘンドリクス 鏡ばりの部屋 その6

前回の続き。

ウッドストック

ジミとバンドが空港へ着いたときは、雨のためにヘリコプターは飛べない状態だった。(略)

[一緒に足止めをくらったCSN&Yらと強奪したトラックで会場へ]

のちにニール・ヤングはNME誌に、コンサートよりも空港での光景のほうが記憶に残っている、と語った。「ヘンドリクスと一緒にトラックを盗んだのは、僕の人生のなかでも思い出深い一件だよ」とヤングは言った。

 バンドが会場に着くと、ショーは三時間遅れていると伝えられたが、実際、進行は九時間遅れていた。主催者側は、観客のノリがいい真夜中に演奏することを提案したが、ジェフリーはジミがフェスティバルの最後を飾ることにこだわった。ジミとバンドメンバーは、ステージから数百メートル離れた小屋でその夜のほとんどを、出番を待ちながらマリファナを吸ったりアコースティックの楽器を弾いたりして過ごした。ヘンドリクスの前の出演者はシャナナで、理想的とはいえなかった。出番の前から、ジミはフェスティバルの主催者と言い争っていた。ジミは二曲アコースティックで弾きたかったが、主催者はそれを許可しなかった。

 「みなさん、ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンスです」とジミが紹介された頃には、月曜の朝八時半になっていた。観客のほとんどは夜のうちに帰ってしまい、ジミのショーに残っていたのは四万人ほどだったが、客がまばらなことはそれほど問題ではなかった。

(略)

映画『ウッドストック』では、朝日がジミのショーにいい効果をあたえている。

(略)

白いストラトを持って登場したジミは、バンド紹介に納得がいかず、訂正するのに数分を費やした。「ああ、えーっと、よく聞いてほしいんだ。訂正したいことがある。俺たちはエクスペリエンスでいることに疲れて、ときどき精神的に参っちまうこともあった。だから、すべてを変えて『ジプシー・サン・アンド・レインボーズ』という名にしたんだ」。それからジミは五人編成のバンドを紹介した。ジミがしゃべっているあいだに、ひとりの客が叫んだ。「ジミ、ハイになってるか?」

 ジミはそれを無視して続けた。「オーケー、チューニングするから一分半くらい待ってくれよ。リハーサルを二回くらいしかしていないから、リズムが基本の曲しかやらないけど、どうせ朝日を浴びてるんだから、大地から始めようじゃないか。それってリズムだろ?わかる?そこに女をたすと、それがメロディになるんだ、そうだろ?俺はもってるぜ」そこでカウントを始め、ジミは「メッセージ・トゥー・ラヴ」を弾き始めた。その後、十五曲が続き、ジミのキャリアでもっとも長い二時間のショーとなった。

 ウッドストックでのジミの演奏は、流動的で奔放で、リハーサルが足りていないことが表れていた。ステージに上がる前に、八曲の演奏曲のリストを作ったが、実際に演奏したのはその半分だった。

(略)

「どの曲も本当にいい演奏にはならなかった」と、のちにミッチは自叙伝に書いた。「僕たちの演奏は、ただの長いジャムセッションだった」。ジャムだったとはいえ、ジミの繊細なギターソロにあわせてラリー・リーが歌ったカーティス・メイフィールドのカバー「ジプシー・ウーマン」など、そのうちの何曲かはすばらしかった。客の多くはジミが歌わなかったことに落胆し、ラリー・リーが作曲した「マスターマインド 」など、誰も知らない曲も多かった。ジミと、それ以上にラリー・リーがチューニングで苦戦したことも、バンドの演奏にいい影響はあたえなかった。ある時点でジミは冗談で言った。「チューニングがずれたまま、ものすごく静かな音でやるしかないな」

 ショーが進むにつれ、観客が減っていくことに対して、ジミはなにか言わずにはいられなかった。「帰りたけりゃ、帰ってもいいよ。俺たちはジャムしてるだけだから。オーケー?帰らないなら、手拍子でもしてくれるかな」。そう言い終わると、ジミは「星条旗よ永遠なれ」の前奏を弾き始めた。この曲は一年前からジミのレパートリーに入っていて、三十回近く演奏したこともあったが、フェスティバルに残った四万人ほどの観客、そして、のちに映画を観た人々にとって、フェスティバルを象徴するものとなった。「そのとき私は、ドラッグで具合が悪くなった人を看病するテントで、看護師として働いていたの」とローズ・ペインは言う。「すべてが止まったようだった。もし、それ以前に誰かが『星条旗よ永遠なれ』を弾いていたら、みんなブーイングしたと思うわ。でも、それ以降、それは“私たちの歌”になった」。ニューヨーク・ポスト紙のポップ評論家、アル・アロノウィッツはさらに熱狂的だった。「それは、ウッドストックでもっとも感動的な、そしておそらく六十年代で最高の瞬間だっただろう。人々はようやくその曲の意味を理解し、政府を憎みながらも国を愛することができるのだと悟った」

(略)

[三週間後の記者会見では]

「僕たちはみな、アメリカ人だ。(略)行け、アメリカ!って応援するようなものさ。(略)僕たちの演奏は、アメリカの今の雰囲気そのままなんだ。今、アメリカは少し雑音が混ざっている感じだろう?」(略)

だが結局、ジミの陸軍を支持する姿勢や、彼自身の政治的信念は、ほとんど問題にされなかった。ジミの弾いた曲が六〇年代の時代精神の一部となり、反体制のスローガンとして永遠に映像のなかにとらえられることとなった。

 ディランとの邂逅 

 ジミの記憶が正しければ、ディーリング・ハウの話とは矛盾している。その秋のある日、ハウとジミがニューヨーク市の八丁目を歩いていると、道のむかいにいるある人物に気がついた。「おい、ディランだよ」 ジミは興奮気味に言った。「会ったことがないんだ。話しに行こうよ」。ジミは「おーい、ボブ」と呼びかけながら、道へ飛び出した。ジミの熱意に気後れしながらも、ハウはジミのあとに続いた。「ディランも、誰かが彼の名を叫びながら道を走って渡って来るのを見て、すこし不安になったんじゃないかと思うよ」とハウは言う。ディランはジミに気づくと、気を緩めた。ジミの自己紹介はおかしなほど謙虚だった。「ボブ、そのー、僕も歌手なんだ。えーっと、ジミ・ヘンドリクスっていうんだけど……」ディランは、ジミのことを知っているし、「見張り塔からずっと」や「ライク・ア・ローリング・ストーン」のカバーも大好きだ、と言った。「俺の曲を、あれほどうまく歌ってくれる人はほかにいないよ」とディランは言った。ディランは浮かれ顔のジミをその場に残し、足早に立ち去った。「ジミは有頂天だった」とハウは言う。「ボブ・ディランが自分のことを知っていた、というだけで。僕が見たところ、ふたりが初対面だったのはあきらかだった」この道端での偶然の出会いが、唯一確認されているふたりの直接の出会いだが、それぞれの私生活でお互いに賞賛の気持ちを抱き続けていた。その両方の広報を担当していたマイケル・ゴールドスタインのところに、ディランのマネージャー、アルバートグロスマンから電話があり、ふたりの会合を希望してきた。グロスマンは、ジミがカバーしたい曲はないか、とディランの未発表曲が収められたオープンリールのテープを渡した。「ボブは、ジミに自分の曲を歌ってもらうことが本当に気に入っているんだ。ここに新しい曲がたくさん入ってる」とグロスマンは言った。ジミは結局そのなかから選んだ三曲をレコーディングしたが、それは、印税が入らないカバー曲をジミが歌うことを嫌うマイケル・ジェフリーを激怒させた。

 ジミはディランに畏敬の念を抱き続けたが、ミック・ジャガーはその反対の影響をもたらした。ディーリング・ハウはジャガーとも親しく、彼のペントハウスのマンションはジミとミックを中心とした夜中のジャムセッションの会場となった。ディヴォン・ウィルスンは、グルーピーとして獲得したスターのリストにジャガーを加えることに成功していて、それがいくつかの気まずい場面の原因となった。(略)

「ディヴォンは、ジミの目の前でミックと腕を組むことを楽しんでいた。ディヴォンをめぐる対立があって、彼女はそれをこじらせることに喜びを感じていたんだ」。ディヴォンがジャガーを誘惑するのを見たあと、ジミは「ドリー・ダガー」を書いた。「女はギザギザの刃で切った血を飲む」という歌詞は、ジャガーが指を怪我したときに、ディヴォンがバンドエイドを渡さずに血を吸い取ったときのことを歌っている。ディヴォンを勝ち取ったのがジャガーだったとしても、ハウのマンションでの音楽での対決に勝ったのはジミだった。「ふたりはプライベートで、僕のマンションでジャムをした」とハウは言う。「ジミがアコースティックでブルースを弾くと、それ以上のものはなかったよ」。ジャガーも言葉を失った。その年の十一月二十七日に二十七歳になったジミは、誕生日をマディスン・スクエア・ガーデンでストーンズを観ながら過ごした。ショーが始まる前、ジミは舞台裏でキース・リチャーズと話をし、リンダ・キースから連絡はあるかと訊ねた。ふたりは、かつて激しく彼女を取り合ったことを笑った。ジミはギターを借りて弾き始めた。(略)

[場をさらわれるのを嫌い、ミックはジミをステージに上げなかった]

マイルス・デイヴィス

 ジミが伝説的ジャズ・ミュージシャン、マイルス・デイヴィスに出会ったのは美容院だった。ジミの髪をやっていたのはジェイムズ・フィニーで、ジミは彼の最初のモデルとなっていた。「フィニーは、ジミで“ブロウアウト”という髪型を世間に紹介したんだ」とタハーカ・アリームは言う。「それ以前はアフロ、そのもっと前はコンクだった」。マイルスはジミの髪型を気に入り、フィニーの美容院へ通い始めた。ふたりのミュージシャンは、ガールフレンドを連れてダブルデートをするようになった。ある晩、二組のカップルはアップタウンのスモールズ・パラダイスへ出かけた。マイルスを引き連れたジミは、ようやくその店でいつも願っていたとおりの扱いをうけることができた。「店の隅のテーブルに案内された」とカーメンは言う。「そして、マリファナが吸えるように、テーブルをカーテンで囲ってくれたわ。ワインをサービスしてくれたし、BGMにはジミの曲が流れていた」カーメンは、マイルスとジミの関係を、父と息子のようだったと言ったが、お互いの仕事を高く評価していたのもあきらかだった。アリーム兄弟は、マイルスにジミの音楽でなにを聴くのか、と訊ねたことがあった。「あのすばらしい『マシン・ガン』だよ」(略)

タハーカは、同じようなスタイルをマイルスの音楽にも聴くことができる、と言った。「耳に入ってくる音じゃないんだ」とマイルスは言った。「主観から客観へもってくるものが大事なんだ。音だけじゃない」。マイルスとの友情に刺激され、ジミはジャズのレコードも買い始めたが、ジミは幅広い音楽を好み、一度にひとつのジャンルに絞ることはなかった。よく、夜遅くにコロニー・レコーズへ行き、ロックやジャズ、クラシックのレコードを棚ごと、大量に買い占めた。

僕はもうすぐ死ぬんだ 

 ツアーが始まって一週間もすると、ジミはすでにその単調さに飽きてきて、ウィスコンシン州マディスンのコンサートでは、酔っぱらってステージに上がった。ろれつが回らない口調で、ジミはヴェトナム戦争アメリカの終わりだ、と言った。「気がついたら、年寄りの言うことを聞いたせいで俺たちは全員やられちまうよ」。それは、話す相手によって変わったジミの政治的意見というよりも、しだいに頻繁になっていた妄想症の表れだった。ステージ上で、マリファナタバコが欲しいと冗談交じりに言い「ルーム・フル・オブ・ミラーズ」は「ハイになりすぎて、見えるものは自分だけ、あっちにもこっちにも自分の姿だけが見える」ときのことを歌った曲だと説明した。二曲のイントロで、キリストの名を口にした。一九六九年にウッドストックで一緒に演奏したジュマ・サルタンは、ジミがよく聖書を読むようになっていた、と言う。「家にはいつもページが開いたままの状態で置いてあり、おそらく人生で初めて、注意深く読んでいた」。どんどん制御が効かなくなる自分の人生の基盤を求めて、ジミがすがれる数少ないものが、ドラッグと宗教と女性だった。マディスンでは酒に加えて、なにかを過剰に摂取し、ステージ上でのおしゃべりは自暴自棄になっていた。「イージー・ライダー」を演奏する前には、この曲は映画に影響されて書いたものだと言ったが、だらだらとまとまりのない話は、モロッコでタロット占いをしてもらって以来、よく話題にするようになった、死の運命についても触れた。「自分たちをどうにかしようとしていたんだけど、最後にはおじゃんになったんだ、俺の言っていること、わかる?それは人生のたったの1/3だったのに、そこで終わりにされて、どこかもっといい場所へ行くんだろ?そのとおりだ。そう思えないなら、今死んだ方がましだ。ああ、神よ、僕はもうすぐ死ぬんだ」

 カルロス・サンタナ

 バークレイのショーを観たカルロス・サンタナは、それはジョン・コルトレーンの芸術的偉業にも値するほどだったと評価した。「早く深く弾けるプレイヤーは少ない」とサンタナは言う。「ほとんどは、早く弾けば浅くなる。だが、コルトレーンは早く深く弾くことができたし、チャーリー・パーカーも、そしてジミもそうだった」。

リンダ・キースとの再会

四年後リンダは婚約指輪をはめて、フィアンセを連れていた。ジミは謎の金髪の女性[モニカ・ダンネマン]と一緒にいた。偶然の出会いのように見えたが、実はジミはリンダのことを探していたのだった。(略)

[ずっと連絡は途絶えていたが]

その頃、ジミはよくリンダのことを考えていた。ワイト島のコンサートでは「レッド・ハウス」の歌詞を「僕のリンダはもうここに住んではいないから」に変えて歌っていた。二ヵ月前には「センド・マイ・ラヴ・トゥ・リンダ」という、リンダに捧げる歌をレコーディングしていた。スピークイージーで、ジミはリンダにギターケースを手渡し「これ、きみに」と言った。ケースのなかには真新しいストラトキャスターが入っていた。ジミがジミー・ジェイムスという名のバックミュージシャンで自分のギターすら持っていなかった頃に、リンダに買ってもらった楽器のお返しだった。ジミは、リンダが自分のキャリアに果たした役割――三人のプロデューサーにジミを見せてくれたこと――について、はっきりと礼を言ったことはなかったが、このギターは彼らの過去に対するささやかな懺悔だった。「あなたは私に借りなんてないのよ」リンダはそう言って、ギターを返そうとした。そして、フィアンセの車は小さなスポーツ・カーで、ギターを持ち帰ることはできない、とも言った。それでもジミは譲らなかった。「これをきみに返さなければならないんだ」。ジミはリンダにギターケースを渡すと、金髪の連れの手をつかみ、行ってしまった。リンダは、ギターを恋人の車の屋根にくくりつけて持ち帰った。その後ギターケースを開けると、ギターのほかに一九六六年の夏に彼女がジミに宛てて書いた手紙の束が入っていた。ジミは四年間、その手紙を保管していたようだったが、永遠にふられた恋人が、彼女にあの頃の恋愛感情の芽生えを思い出させるかのように、彼女に手紙を返したのだった。

死 

[モニカが眠り、ひとり起きていた]ジミは[モニカが処方されていた]ヴェスパラックスを見つけた。クスリは五十錠残っていた。ジミは九錠飲んだ。おそらくジミは、それがアメリカの薬よりも弱いと考え、どうしても休息を必要としていた彼は、ひと掴みを飲み下したのだ。もし自殺を図ろうとしていたのなら、簡単にほとんど即死状態になるのに充分すぎるほどの四十錠を残したのは奇妙だ。

 ところが実際は、ジミが摂取した九錠は、ジミの体格と体重の男性の推奨用量の約二十倍で、あっという間にジミの意識を奪うほどの量だった。早朝のうちに、ヴェスパラックスとジミの体内に残っていた酒、それから前の晩に摂取したドラッグが原因で、ジミは胃の中身を吐き出した。嘔吐物――ほとんどがワインと消化されていない食べ物――はジミの肺に入り、彼の呼吸を止めた。酔っていなければ咽頭反射で、物体を咳で吐き出しただろうが、ジミの状態は酔っぱらっているどころではなかった。もし、モニカが起きていて、ジミのあえぎ声を聞いていたら、彼の呼吸を確保することができたかもしれない。

(略)

 だが、一九七〇年九月十八日朝の曇った空から、救いの天使は降りて来なかった。(略)

ジミは永遠の眠りについた。二週間前のデンマークでのインタヴューでみずから予言したとおり、二十八歳の誕生日を迎えることはなかった。(略)あと五日もすれば、ロンドンに初めてやって来てから丸四年を迎えていた。

バードンの自殺説

モニカはジミの友人とは親しくなかったが、彼が話すのを聞いたことがある名前に、絶望的な思いで電話をかけた。何本か電話をかけたあと、ようやくエリック・バードンをつかまえることができた。ジミが死んでいることは伝えずに、モニカは「具合が悪くて起きられない」とエリックに説明した。のちにバードンは、モニカに救急車を呼ぶように急かしたと言うが、それからモニカが救急車を呼ぶまでにどれくらいの時間があいたのかはわからない。記録によると、救急に電話があったのは午前十一時十八分となっている。十一時二十七分に救急車が到着する前にやって来たバードンは、ジミがすでに死んでいるのを発見すると、部屋に残されているドラッグのことを心配した。一九七〇年のロンドンのドラッグ・ヒステリーは決して甘くは見てはいけないものだった。

(略)

 部屋に残されていたドラッグや、ドラッグ使用のための道具を片づけていたバードンは、前の晩にジミが書いた「命の物語」を見つけた。その歌詞を読んで、バードンはジミがみずからの命を絶ったと考えた。確かにその歌はイエスや生と死について語っていたが、それはそれまでジミが書いた多くの歌にも見られるテーマだった。(略)そこには「僕らが死ぬとき、神が側にいることだけは確かなんだ」と書かれていた。その後のバードンの行動の多くは、ジミが自殺したというまちがった前提のもとにとられ、このまちがいがジミの死をより謎めいたものにした。「初めは虚偽の陳述をしていた」とバードンも認めている。「状況が飲み込めなかったんだ。歌詞を誤って理解した。そのときは遺書なのだと確信して、それを隠さなければならないと思った。ジミはよく僕に自殺や死のことを話していたし、借金があったことも知っていた。みなに別れを告げる手紙だと思ったんだ」。バードンは、ジミとモニカの関係についても誤解していた。「この、自称ガールフレンドが、ストーカーのような存在だったとは知らなかった」。とバードンは言う。ジミが自殺したと考えたバードンは、呼び出したスタッフとともに部屋に残っていたドラッグを片づけ、みなで部屋を出て行った。救急車が到着し、救急隊員が部屋へ行くと、そこにはジミしかいなかった。モニカもほかの誰も部屋に残っていなかった。ジミの顔は嘔吐物で覆われていた。

(略)

月曜日、エリック・バードンBBCの番組に出演し「ジミの死は意図的なものだった。望んで死んでいったんだ。幸せに死ぬために、ドラッグを使って人生から徐々にほかの場所へ移動していったんだ」と言った。このインタヴューのあと、バードンは殺害の脅迫を受け、この一回の出演があまりに衝撃的であったため、イギリスでのキャリアを永遠に滅ぼす原因になった、と感じた。ワーナー・ブラザーズ・レコーズ はジミが事故によって死亡したときのために、百万ドルの生命保険をかけていたため、ジミの事務所とレコード会社は自殺の可能性を認めなかった。検死の結果、正式な死因は「バルビツレート中毒による、嘔吐物の吸入」だった。ジミの血中からは、アルコールのほかにヴェスパラックス、アンフェタミン、セロナールが検出された。腕に針の跡はなかった。死の前、二週間のうちに摂取された麻薬は、注射されたものではなかった。驚いたことに、ジミが死亡する前日にかなりの量のマリファナとハシシを吸っていた証拠があるにもかかわらず、検死官はジミの体内から大麻を見つけることはできなかった。ジミの遺体は、安置所から葬儀場へと送られた。嘔吐物とワインで汚れた服は破棄され、葬儀屋はジミに木こりのフランネルのシャツを着せて、シアトルへ送り出した。成人してからは、ファッションの達人であったジミにとって、おそらくこれは最大の侮辱だっただろう。

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ジミ・ヘンドリクス 鏡ばりの部屋 その5

前回の続き。

アメリカでは無名 

 グリニッジ・ヴィレッジでさえもジミがいない一年のあいだに変わっていた。ビート族の代わりに、ヒッピーや麻薬常用者、フラワーチャイルドたちが現れた。

(略)

ジミは空いた時間に初めてのロック雑誌となるクロウダディ誌の事務所によく顔を出すようになった。(略)

「音楽の話もしたけど、マリファナを吸いに来るだけのこともあった」とクロウダディ誌の編集長、ポール・ウィリアムズは言う。

(略)

ジミはクロウダディ誌の熱狂的なファンとなり、雑誌に自分の写真と短いレビューが載ると何冊も買って、近くのバーズでおこなわれたコンサートに来ていた人々に配って回った。「俺の名はジミ・ヘンドリックスだ。この雑誌を読んでくれ!(略)その群衆のなかで、すでに彼を知っていたのは数人だけだった。アメリカではまだジミが無名だったことがよくわかる。ロンドンでは、髪の毛を切ろうとするファンに追いかけられるジミも、アメリカではパンフレットを配って回っていたのだった。

(略)

[昔のバンド仲間、カーティス・ナイトと食事に行く金をエド・シャルピンに借りに行くジミ]

ジミがシャルピンと結んだ契約が、問題を起こし始めていた。(略)裁判所ではシャルピンとジミは敵同士だったが(略)

この晩のジミとナイトとの食事は友好的で、食事のあとジミにいくらか金を貸した、と言う。そして(略)

信じがたいことに、ジミは真夜中にスタジオへ入り、シャルピンのために六曲録音をした。ジミはレコーディングの際に、これをリリースするとしても自分の名前は出さないでくれ、とは言っている。「ほら、つまり……僕の名前を出してはいけないんだ。あんたに僕の名前を使う権利はないからね」。ジミの態度は友好的で、法廷闘争を感じさせるようなところはなかった。(略)

[だがシャルピンが]それをジミの名でリリースしたため、法廷闘争はさらにややこしくしくなった。(略)

ジミは八月中にもう一度シャルピンとナイトとともにセッションをおこなった。

プラスター・キャスターズ

シンシアがロックスターの性器の石膏型を作っていることは、ロスで出会った女から聞いたことがあった。(略)

実はシンシアはまだ始めたばかりで実際にスターの石膏型を取ったことはなかった。ジミは一人目になることに同意した。

(略)

それまでペニスを見たこともなかった彼女は、ジミの性器の大きさに驚きを隠せなかった。「あんなに大きなモノに対する用意はできていなかった」(略)

シンシアが石膏を混ぜるあいだに、もうひとりの女の子が口でジミを刺激し始めた。勃起すると、女たちはそれに石膏を入れた花瓶をかぶせ、その状態を保ったまま(略)一分間じっとしているように、とジミに指示した。

(略)

シンシアはノートに書いた。「彼のイチモツは見たことがないくらい大きかった!花瓶の深さ目一杯突っ込まなければならなかった」(略)

[型にくっついた]陰毛を引き抜くのに十分近くかかった。ジミは協力的ではなくなり、固まった型を使って自慰行為を始めた。(略)

ギターを弾くときと同じような動きで(略)歯科用の型が入った花瓶にむかって腰を振っていると

 ジョニ・ミッチェル

三週間後、オタワの舞台裏での出会いは、プラスター・キャスターズとの出会いよりよっぽどロマンチックなものだった。オタワに到着したジミは、ヴィレッジで出会ったジョニ・ミッチェルがジミの会場の近くで演奏しているのを知った。一九六八年のツアーの初めに、ジミは日記をつけ始めていた。三月十九日のページにはこう書かれている。「オタワに着いた。豪華なホテルに、おかしな人たち。すばらしい食事。ジョニ・ミッチェルと電話で話をした。今夜、彼女の歌を僕のすばらしいテープレコーダーで録音しようと思う。(うまくいきますように)。マリファナを見つけることができない。偽物ばっかりだ。景色はいい。最初のショーはすばらしく、次のショーはまあまあだった。小さなクラブへ行って、ジョニに会った。天国の言葉を話す、美しい女性だ。みんなでパーティに行った。女の子が大勢いた。ホテルへもどって、テープを聴いて一服した」

(略)

 翌日の日記の中心は、再びジョニだった。「今日、オタワを発った。ジョニにお別れのキスをして、少し車で眠って、ハイウェイのダイナーに寄った。映画に出てくるような、本物のダイナーだ。(略)

俺はメキシコ人みたいな口ひげにインディアンハットをかぶり、ミッチはおとぎ話に出てきそうなジャケットを着て、ノエルは豹柄の帯がついた帽子に眼鏡、髪の毛、それに訛り。おやすみ、みんな」

 この日記のすぐあとから、同じような日々を繰り返すツアーの日常がジミの創造力を奪いだした。日記には「セイム・オールド・シット (昨日と同じつまらない一日)」を略した「S.O.S.」の記述が続く。

 キング牧師暗殺 

バンドのリムジンがニューヨークから町に入ると、道路で戦車を追い越し、バンドメンバーらは戦争が始まったのかといぶかった。ある意味、それは戦争だった。マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師がその前日に暗殺されたのだ。

(略)

 会場に着くと、警察はジミに、最初の公演だけやって二回目はキャンセルするようにと言った。開演時間に間に合ったのは四百人だけだった。ジミは「この曲を友に捧げます」言い、悲しげで長いインストルメンタルのブルースを弾き始めた。それはキング牧師へのジミなりの追悼で、その心を打つ演奏に多くの客が涙を流した。バンドが演奏するあいだにも、会場の外では銃声が鳴り響いた。即興の演奏を一時間続けると、ジミはギターをステージ上に残して去って行った。拍手はなかった。観客もそれが追悼式であることはわかっていた。ジミの追悼はそれだけでは終わらなかった。その晩、ニューヨーク市にもどったジミはジェネレーション・クラブでバディ・ガイとセッションをした。そして翌週、ジミはなんの告知もなしに、キング牧師に敬意を表してメモリアル基金に五千ドルを送った。(略)

ジミは言った。「愛の力が力への愛を超えるとき、世界は平和を知るだろう」

 その春のジミの作曲には社会意識が見え始めた。ほとんどの曲は三枚目のアルバム『エレクトリック・レディランド』に入れる予定で書かれていた。「ハウス・バーニング・ダウン」の「燃えるのではなく、学べ」という歌詞は、キング牧師に同調したものだった。

ヴードゥー・チャイル」 

レコーディングには時間がかかっていた。ジミはすべての曲を何度も取り直すことを主張し始めていた。それまでの二枚のアルバムが自分の思いどおりの出来ではないことに不満を抱いていたジミは、チャス・チャンドラーやほかのメンバーの意見を聞かなくなっていた。「ジミはすべてを取り仕切ろうとしていた」とノエル・レディングは言う。「僕はレコーディング・セッションから出て行ったこともよくあったし、ジミのことをののしる言葉を口にしていたことも認めるよ」。

(略)

レコーディングはまるでパーティの延長で(略)

ジャムセッションのようなくつろいだレコーディングのやり方が取られると、最初の二枚のアルバムのときにバンドがもっていた仕事に対する強い意欲はなくなってしまった。失望したチャンドラーは、その春、プロデューサーを降りた。

 五月の初め、ノエルがレコーディングから飛び出し、その結果「ヴードゥー・チャイル」の録音には参加できなかった。(略)

[レコーディングは]シーン・クラブのジャムセッションから始まった。クラブの閉店時間になると、ジミは取り巻きを引き連れてレコード・プラネットへ移動した。(略)

朝の七時半になると、ギターにジミ、ドラムスにミッチ・ミッチェル、オルガンにトラフィックスティーヴ・ウィンウッド、ベースにジェファーソン・エアプレインのジャック・キャサディというメンバーで、正式なレコーディングが始まった。取り直しは三回だったが、長かった。

(略)

 一九六八年半ばになると、ジミの人生すべてが音楽中心にまわるようになっていた。スタジオにいなければ、ジャムをしていた。ジャムをしていなければ、コンサートをやっていた。ギターやコンサートステージがないと、どうしたらいいのかわからなかった。アメリカツアーの最終日であったマイアミ・ポップ・フェスティバルが雨で中止になると、フランク・ザッパ、アーサー・ブラウン、ジョン・リー・フッカーらと、ホテルのバーでジャムセッションをおこなった。「聴いたことがないほど、最高の音楽だった」とトリクシー・サリヴァンは言う。マイアミでは、ジミはトイレの窓から脱走しなければならなかった。このツアーで五十万ドルの収入を得たにもかかわらず、バンドは宿泊費を払う金がなかったのだ。

クリームに捧ぐ

 一九六九年一月四日、エクスペリエンスはBBCの生番組『ハプニング・フォー・ルル』に出演した。二年前、バンドを世間に送り出すためにテレビ出演は不可欠だったが、一九六九年にはジミはテレビのわざとらしさに耐えられなくなっていた。予定では、エクスペリエンスが二曲演奏し、ジミと番組ホストのルルのデュエットで番組が終わることになっていた。台本どおりに進める代わりに、バンドが「ヴードゥー・チャイル」を演奏し終わってルルがしゃべっているあいだ、ジミはフィードバックを鳴らした。ルルは狼狽しながらも曲紹介を終えた。「これから、彼らをこの国での成功に導いた曲『ヘイ・ジョー』を歌って頂きます。私もこの歌を聴くのがとっても楽しみ」。「ヘイ・ジョー」を二分ほど弾いたところで、ジミは演奏を止めた。「こんなつまらない歌は止めて、これから弾く曲をクリームに捧げたいと思う。これから彼らがどんなグループで弾くことになっても。この曲をエリック・クラプトンジンジャー・ベイカージャック・ブルースに捧げます」。ジミがそう言うとバンドは「サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ」を演奏し始めた。その少し前に解散したクリームに敬意を表して、バンドが曲の長いヴァージョンを弾き始めると、カメラに映らないところでディレクターがジミに演奏を止めるように合図を送った。ディレクターだけに見えるように送られたジミからの返事は、立てた中指だった。エクスペリエンスは演奏を続け、番組の残り時間を使い切った。ようやく演奏が終わった頃には、プロデューサーは激怒していた。「お前らを二度とBBCに出演させないからな」(略)

ジミはキャシーに、初めから計画していたのだ、と話した。「ルルとなんか歌いたくないね(略)俺がまぬけに見えるじゃないか」

エクスペリエンス最後のショー

コンサートの前、ノエル・レディングを見つけた記者は、彼がすでにグループを抜けたと聞いていたため「ここでなにをしてるんです?もうバンドを辞めたんじゃなかったんですか?」と訊ねた。ノエルには初耳だった。それは、ジミが記者の前で愚痴をこぼした結果うまれた噂だった。

 ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンスの歴史のなかでどん底があったとしたら、それはデンヴァーで訪れた。そして、それがエクスペリエンス最後のショーとなった。スタジアムの外では、フェスティバルを無料にしろと要求するファンが暴動を起こしていた。ショーが始まっても、ジミは調子が悪かった。アシッドのせいかもしれないが、普段ならアシッドをやってからの演奏はジミを上機嫌にするので、その晩の機嫌の悪さはジミが摂取したなにかほかのものが原因だったのかもしれない。ジミは客を楽しませるどころか、「ヴードゥー・チャイル」の歌詞を「俺はたんまり金を稼いでこの町を買い占める/この町を買い占めて俺の靴のなかに入れてやる」と変えて、反感を買った。そしてショーのある時点で「俺たちが一緒に演奏するのはこれが最後だ」と宜言した。その発言に駆り立てられ、絶え間ない警察との衝突もやまないまま、スタジアム内の一万七千人の群衆は大混乱となり、多くのファンがステージへ上がろうとした。警官が催涙ガス弾を客にむかって投げると、ジミは冗談を飛ばした。「催涙ガスだ。第三次世界大戦が始まるぞ」。だが、ガスがステージにも流れてきてバンドを包み込むと、メンバーの三人は楽器を置いて逃げ出した。バンドのステージで最後の瞬間は、メンバーが、突進してくる群衆と雲のようなガスからものすごいスピードで逃げ出すという、まるでホラー映画の一シーンのような結末となった。

(略)

催涙ガスがスタジアム中に充満し、それから逃れようとしたファンが[ジミたちの乗った]トラックの上に登り始めた。ファンの重さで、パネルトラックの屋根の支えが音を立て始めた。トラックのなかは真っ暗だった

(略)

「観客がドアや屋根を叩いていて、車の壁がゆがみだしたのがわかった」とハービー・ワージントン(略)

しゃべっていたのはノエルだけで、もしこの瞬間を無事に乗り切ることができたら、イギリス行きの飛行機に飛び乗って、もう二度ともどって来るもんか、と言っていた。そしてそんな絶望的な恐怖のなかでも、ノエルは冗談を飛ばしていた。「おい、それは俺の脚だぜ。お互いのことそんなによく知りもしないのに」隣に座っていたワージントンに、ノエルは言った。エクスペリエンスが一緒にいた慌ただしい三年間、困難な時期も三人を結びつけていたのはノエルのユーモアのセンスだった。このときは、レンタルトラックのなかで押しつぶされてすべてが終わりだ、金を使うことも名声を楽しむこともできないのだ、と冗談交じりに言っていた。車が百メートルほど進むのに一時間かかったが、ジミとノエルとミッチはデンヴァー・ポップ・フェスティバルを生きて出ることができた。それでも、三人組として一緒に演奏することはもう二度となかった。

アフリカでの休暇 

 ジミはおそらく人生でもっとも楽しい九日間を北アフリカで過ごした。「ジミの人生で最高の、そしてたぶん、ただ一度きりのヴァケーションだったんじゃないかな」とハウは言う。モロッコへ到着したジミとハウは、ステラとコレットと合流(略)古いクライスラーを借り、砂漠をドライヴしたり、観光地を訪れたりした。旅行中は、絨毯や服の買い物、食事、おしゃべり、そして休息を楽しんだ。「ジミはとても楽しんでいた」とハウは言う。「黒人であるジミが、アフリカを体験するのを見るのは、おもしろかった。文化と人々をとても気に入り、今まで見たことがないくらい、たくさん笑っていた」。(略)

その年、ジミは世界でもトップのスターだったが、アフリカでは誰もジミのことを知らなかった。旅は名声からの一時的な救済になり、ジミはロックスターの仮面をはいで、人生を楽しむことができた。

(略)

八月六日、長い休暇を楽しむ友人を残し、ジミはアメリカに発った。だが(略)乗り換えのため到着したパリの空港で、ジミはブリジット・バルドーに出会った。のちにジミがハウに語ったところによると、ジミはその場で飛行機の乗り継ぎを止め、この有名な女優をベッドへ誘い込もうと決心したという。ジミは成功し、事務所が懸命に彼を探していた二日間、バルドーと秘密の情事を楽しんだ。

(略)

ようやくアメリカにもどったジミは、旅行のおかげで音楽的にもやる気を取りもどしていた。エレクトリックよりもアコースティックギターを弾きたがり、モロッコで聴いたアフリカの音楽に刺激を受けていた。ショーカンの家でおこなわれたジャムセッションでこの領域を探り、ジミとジュマ・サルタンだけでいくつもの曲をレコーディングした。「ジミのアコースティックと僕のパーカッションだけの曲だった」とサルタンは言う。「驚異的だったよ。ウェス・モンゴメリーやセゴヴィアのようなサウンドだったけど、それにモロッコ音楽の影響も反映されていた」。

次回に続く。