エルヴィス・コステロ・バイオグラフィー

 僕にとって、重要な問題は二つしかない。曲をかく原動力になるのは「復讐」と「罪悪感」だけだ。理解できる、感じることのできる感情はそれしかない。愛だって?なんのことだか分からないな、マジで。僕の歌のなかには存在しないね。

 一九七七年八月号《NME》誌

パブ・ロック

 パブ・ロックの先陣を切ったのは、皮肉なことにアメリカン・バンドのエッグス・オーヴァー・イージーだった。七一年晩春[チャス・チャンドラーとレコードをつくるためNYからロンドンに来たが](略)契約上のゴタゴタが続き、スタジオに縛られた仕事に嫌気がさすようになったメンバーは、自由な音楽表現の場を求め、自宅近くのケンティッシュタウンにあるパブ〈タリー・ホー〉で毎週月曜日に出演する約束をとりつけた。(略)

オースティン・デローネは〈モジョ〉誌に語っている。「カントリー系のルーズなロック・ユニットと呼んでもいい」。(略)

[〈マーキー〉に出演した際に]ブリンズリー・シュウォーツのマネージャーだったデイヴ・ロビンスンというアイルランド男と知り合った。ブリンズリー・シュウォーツは、鳴り物入りの宣伝活動が大失態に終わるという痛い経験をしていた。(略)

 「ライブ・ジュークボックス」ともいえるエッグス・オーヴァー・イージーのアプローチに刺激され(略)ニック・ロウはラフでノリのいい曲を書くようになった。

(略)

「最初はちょっとノリのいい連中ってだけだった」と、ロウは〈モジョ〉で振り返っている。「どっちかっていうと、ホガース風でね。突っ張った若い連中がドアのあたりにタムロして、アラブ系のバスの運転手が毎度のように一人で踊り狂ってた。でも、二、三週間するとイカした連中が目をつけるようになった。ヒップな連中がね」

 噂のアメリカン・バンドの演奏を聴こうと、〈タリー・ホー〉には大勢の客が殺到した。聴衆が大声で叫ぶリクエストに応えて、エッグス・オーヴァー・イージーは演奏した。ブリンズリー・シュウォーツも同じ手法でパブに進出。(略)「人気の兆しが少しみえるようになった」

(略)

エッグス・オーヴァー・イージーアメリカに戻ると、新たなグループが台頭するようになった。ギャラが貰えるうえに、無料でビールを飲んで一晩過ごせることに魅せられたパートタイム・ミュージシャンによる(略)バンドには、ビーズ・メイク・ハニーやダックス、デラックス、キルバーン・アンド・ザ・ハイ・ロード、ルーギャレーター、ヘルプ・ユア・セルフ、クランシー、チリ・ウィリ・アンド・ザ・レッド・ホット・ペッパーズ、エース、ザ・ウィンキーズがいた。

 こうした新しいバンドの出現で[演奏できるパブも増えたが]

(略)

どんなブームでも、最低ラインの数カ月をこえて生きのびるためには、全体を一つの潮流にまとめる接着剤のような存在が必要だ。ここでは、BBCラジオの〈チャーリー・ギレットのホンキートンク〉がその役割を果たした。毎週日曜日の朝に放送された番組のライブ情報は、パブ・ロックファンに対する「召集命令」のような影響力を発揮。七三年半ばには、これまでのパブだけではとても需要に追いつけなくなった。パブ・ロックの人気とともに、ファン層も広がった。一般の音楽愛好家は、当時のロックバンドの過剰な音楽とステージパフォーマンスにうんざりしていた。グラム・ロックはナヨナヨしすぎ、クラウト・ロックはあまりにアバンギャルドで、アメリカン・ロックは心地よすぎた。パブ・ロック(そして、その純血種として誕生したパンク・ロック)を聴き、彼らはボーカルやギタリストをなめるように見つめ、汗の匂いを嗅ぎ、吸い殻を踏みつけ、ジャケットにこぼれたビールをぬぐい、音楽との危険な一体感を感じた。「ヒッピーのアングラ文化に足を突っ込み、性に合わないと気づいた元モッズの中産階級の連中の再結成」。ニック・ロウは、当時のシーンをそう。表現した。

 言わずもがなの話だが、ブームは長く続かなかった。(ドクター・フィールグッドやエース、ココモ、エディー&ザ・ホット・ロッズといった)一部のバンドを除いて、レコード会社は興味を示さず、これらのバンドの商業的成功も短命に終わった。残りのバンドも何年かは活動を続けたが、ダックス・デラックスやウィンキーズ、キルバーン・アンド・ザ・ハイ・ロード、そしてブリンズリー・シュウォーツの解散とともに、時代は終焉を迎えた。だが、恩恵を残さなかったわけではない。パブ・ロックのまいた種は数世代にわたり、(特に)イギリスのミュージシャンに絶えず影響を及ぼすことになった。

(略)

 多くのミュージシャンが姿を消していくなか、ライブやセッションを続けながらチャーリー・ギレットのラジオ番組の〈デモ・セクション〉コーナーに参加していた三組のアーティストが、パブ・ロックの残骸から飛び出そうとしていた。グレアム・パーカーとダイアー・ストレイツ、そしてデクラン・コステロ率いるフリップシティだ。

デクラン・パトリック・マクナマス

 モッズに走るには若すぎたし、スキンヘッドを目指すには個人主義すぎた。かといって、滑稽じみたグラム・ロックに飛びつく気にもならなかったため、デクランはジェームズ・テイラーなどのアメリカン・シンガーソングライターを聴いていた。だが、最後には自己告白に終始するその歌に嫌気がさすようになった。ロンドンでは〈タムラ/モータウン〉やレゲエ、眼力の鋭いティーンエイジャーのお気に入りである〈スタ・プレスト〉が幅をきかせていたが、リバプールではアメリカ西海岸出身のグループの落ち着いたサウンドや、(略)プログレッシヴ・ロックが好まれていた。

 そのどちらも迎合することができず、コステロはふたたびソウルに戻っていったが、同世代のプレッシャーに負けてグレイトフル・デッドに手を出したこともあった。

(略)

群れることを嫌い、コステロはラジオで〈タムラ/モータウン〉やスカを聴いていた。トレードマークのメガネ姿も板につきつつあった。 

School Days

School Days

  • Sta Prest
  • ロック
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

リック・ダンコがヒーロー 

 七二年、リバプールのパブ〈ザ・グレイプス〉にブリンズリー・シュウォーツが出演。コステロにちょっとした転機が訪れた。アメリカ西海岸のおとなしいサウンドとはまったく違う「白人のR&B/ソウル」を聴き、コステロは開眼した。ブリンズリー・シュウォーツには、大好きなバンドの一つ、ザ・バンドを彷佛とさせるところがあった。「ザ・バンドこそ僕が求めるものだった(略)彼らは最高だった。あのヒゲがよかった……すっごく不細工なところがまたよかった。そこいらの若造じゃない、大人の男だ。昔を懐かしむような曲ばかりでも、カウボーイみたいな格好をしたりしない……インチキ臭くなかった」

 ライブ前にパブでくつろいでいたニック・ロウを見て、デクランは近づいた。

(略)

この頃には、コステロの歌声と歌唱スタイルは単なるモノマネを脱却し、極めて個性的なものに進化しつつあった。(略)

偉大な黒人ソウルシンガーの歌唱法をサル真似するだけのイギリスの白人「ソウル」シンガーに疑問を感じたコステロは、敬愛するヴァン・モリスンやダグ・サーム、そしてなによりもザ・バンドのリック・ダンコの手法を投影させながら独自のスタイルを完成させた。

「(リックは)絶対的なヒーローだった(略)鼻にかかったようなユニークなスタイルで、いま思うとちょっとカントリーっぽいところもあって……あんなに魅力的でリラックスしたファルセットは聴いたことがなかった」

ブラックリスト

コステロは、CBSレコードが国際年次総会を開催していたロンドンのヒルトン・ホテルの外でゲリラライブを敢行した。

(略)

この大胆な戦略が決定的となり、年末を待たずしてCBSコロムビアコステロとの契約にサインすることになった。

(略)

 ディングウェルでのライブは、アルバム『マイ・エイム・イズ・トゥルー』の発売に合わせて行われた。コステロの人生にとって、鬱屈としながら待ち続けた甲斐があったと思えるイベントだったに違いない。

(略)

そう、あの有名な「ブラックリスト」――どうやら、コステロは他人に拒絶されることに過敏で、デモテープを聴いたレコード会社のA&R担当者が自分の電話に返事をしたかどうかに不健全なまでの執着心を感じていたらしく

(略)

〈NME〉には、当時のコステロの報復行為の激しさを暴露する記事が掲載されている。「(彼は) 八ページもある招待者リストを手にすると、容赦なくそこにあった名前の半分をばっさばっさと切り落とした。なかには、彼のデモテープを個人的に却下したアイランド・レコードのディレクター、リチャード・ウィリアムズもいた。エルヴィスは招待者リストをくまなく点検して、最後に招待したときに顔をみせなかった人物の名前が載っていると、永遠にリストから追放するように手配した」

 明らかに、この男は簡単に引き下がるタマではなかった。誰もの目からみても、それは疑う余地のないことだった……。

ラストアクトをめぐる争い

 スティッフの五組のアーティスト(略)は、レビュー形式のイギリスツアーに参加することになった。

(略)

ラストアクトをめぐる争奪戦が激化するにつれ、内部の緊張とエゴのぶつかり合いが「スリル」を生んだ。

(略)

ある日、ジェイク・リヴィエラとデイブ・ロビンスンが大げんかをして(略)

ロビンスンがスティッフに残り、リヴィエラコステロとロウを従え、新レーベル〈レイダー〉に移籍することになった。

(略)

 日替わりの交代制はすぐに頓挫した。ラリー・ウィリスとレックレス・エリックには、客を最後まで引き止めておくだけのレパートリーがなく、ニック・ロウはパブのラストオーダーに是が非でも駆け込みたいために、早い順番に演奏したがったためだ。ラストアクトをめぐる争いは、コステロイアン・デューリーの一騎討ちになった。

(略)

デューリーは(略)最終的には、観客による人気投票で最優秀バンドの栄誉に輝き、アルバム『ニュー・ブーツ・アンド・パンティーズ』は二年間近くチャートにとどまった。「退屈しのぎに、いつ寝首をかかれるか分からないって感じだった」と、コステロはツアーを総評した。「でも、ウォッカアンフェタミンですっかりイカれてる人間が何を考えてたかなんて、聞くだけムダだよ」

(略)

「僕が思うかぎり、スティッフ・ツアーは失敗だった(略)毎晩、アンコールはデューリーの〈セックス・アンド・ドラッグ・アンド・ロックンロール〉なんだ。すぐにあの曲がツアーそのもののテーマソングみたいな奇妙な雰囲気になってきた。あんまりひどいことになってきたんで〈パンプ・イット・アップ〉をかいたんだ。どれだけの女と寝て、ヤクをやれば、神経が完全にマヒしてなにも感じなくなるんだって……」

戦略、敵意 

コステロには自分が成功するためにリヴィエラのそうした態度を容認していたようだ。(略)

とはいえ、アメリカに関しては、リヴィエラはやり方を間違えた。なにより彼の采配が必要とされたときにインタビューをシャットアウトし、ツアー中には音楽ライター数名に「暴力」までふるった。さらに、普通の会場よりも高校のキャンパスでライブをしたほうがいいというリヴィエラの戦略に(略)CBSは強い疑念をもっていた。

(略)

 ニューヨークでの最終公演の翌日、コステロセックス・ピストルズの代役として急きょ〈サタデー・ナイト・ライブ〉に出演した。おとなしく〈ウォッチング・ザ・ディテクティヴス〉と〈レス・ザン・ゼロ〉を歌ったが、二曲目の途中で突然ストップ(「申し訳ないが、みなさん、この歌をやんなきゃんらない理由はないんで」)、歌わないでくれと特に頼まれていたはずの〈レディオ、レディオ〉にスイッチした。「あんなにラジオ局があるのに、一つとしてマトモなとこがないなんて胸クソが悪くなる」と、コステロは不満を漏らしたと〈クリーム〉は伝えた。BBCラジオがリリース時に〈レス・ザン・ゼロ〉をオンエアしなかったことや、一番ラジオ向きだった〈アリスン〉をときにコステロ自身がコンサートで演奏することを拒んだ事実はまだ記憶に新しかった。アメリカでのマスコミとの対立は(略)黙殺されるのだけはご免だと思うあまり、計算された自信と荒けずりな主張の不完全なバランスが崩れ去ってしまったのだ。

「たとえネガティブなものであっても、立場はより鮮明にさせたほうがいい(略)ある時点までは、それでうまくいく。そこでちょっとヤリすぎてしまうんだ。キチガイみたいに怒鳴ったり、叫んだりするようになる

(略)

 コステロがくり返し見せる敵意の根底には、音楽業界に対する根強い嫌悪感があった。あっという間に大出世を果たしたとはいえ、コステロはレコード契約を結ぼうと努力していた時代に鼻先であしらわれたことを、忘れてもいなければ、許してもいなかった。

(略)

コステロは〈NME〉に「連中のことは許してない」と語った。「この先も、許してやるつもりはない。だから、〈トップ・オブ・ザ・ポップス〉のプロデューサーと一緒に昼飯は食わない。このクソったれた業界の連中はね、僕がアイツらのちんまりした仲良しクラブに入るのは真っ平だって思ってることが全然分かってないんだ。〈ロキシー〉にお出かけして、リンダ・ロンシュタットとつるむなんて、勘弁してくれよ!(彼女は七九年に〈アリスン〉をカバー。イギリスではまずまずのヒットを飛ばしたが、予想どおりコステロはこのバージョンが気にくわなかった)。僕は音楽ビジネス全般とその愚かさすべてにうんざりしてるし、どんなに成功を手にしても最初に味わったひどい体験を打ち消すことはできない」

 この言葉が裏づけられたのは、しばらくしてヴァージン・レコードが魅惑的な契約条件を提示してきたときのことだ。自分の作品を足蹴にしたことがあるという理由で、コステロは同社に「ノー」を突きつけた。「最新アルバムの収録曲を二つ挙げてみろって言ったら、リチャード・ブランスンは口ごもりやがったんだ。だから、とっとと失せろって言ってやった」

リヴ・タイラー母とスキャンダル

[それにしても、スティーヴン・タイラートッド・ラングレンコステロって凄くないですか]

有名になるにつれ、そして赤ん坊だった息子マシューが成長するにつれ、マクナマス夫妻の関係が崩壊していったことに疑問の余地はほとんどない。(略)

コステロはほとんどツアーに出ているか、それ以外はスタジオにいるか、曲づくりをしていた。彼はムダに費やされた時間を必死で取り戻そうとしていたのだ。なにかを犠牲にする必要があった。

 確かに犠牲はでた。(略)

コステロが、元プレイボーイ誌のグラビアガールで有名モデルのベベ・ビュエルとゴシップ記事を賑わすようになったのだ。

 こともあろうに、ビュエルはスター連中の高級アクセサリーのような存在だった。ロック界を渡り歩き、その交友関係はミック・ジャガーキース・リチャーズロン・ウッドジミー・ペイジイギー・ポップトッド・ラングレンロッド・スチュワートにまで及んだ。情夫の一人、スティーヴン・タイラーとのあいだには一歳になる娘のリヴがいた。

(略)

二人が最初に出会ったのは七八年夏のロサンゼルスだが、皮肉なことに、その二年ほど前にビュエルはコステロを見かけている。モデルの仕事でロンドンで撮影をしていたとき、オーバーオールを着たガリガリでメガネ姿のエリザベス・アーデンの従業員がスタジオに入ってきて、小包を置いて出ていった。ビュエルはその男の素性を尋ねた。「デクランだよ。さえないパブ・バンドで演奏してる妻子持ちの男だ」。そう聞かされても、彼女の記憶のなかにあるコステロの姿が消えることはなかった。

 歳月は流れ、今や実績を認められ、全米の音楽通のお気に入りバンドになったエルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズは、ロサンゼルスでニューウェイヴ・コンサートに出演することになっていた。ミンク・デヴィルとニック・ロウをサポートに従えたコステロは、ビュエルの目には青いスーツ姿の抗いがたい魅力をそなえた男に映った。彼女はバックステージ・パスを手に入れ、見事な手際ですんなりとコステロを紹介してもらった。その数時間後には、二人はサンセット大通りに姿を消した。

[飲み過ぎで貞節を守ったコステロはLAに飛び、詩のような手紙などを波のように送りつけた]

(略)

電話と手紙、ポストカードなどが波のように押し寄せた。あまりに雄弁で詩的なその言葉に、ビュエルはコステロはこうしたロマンティックなコミュニケーションを経験するのが初めてなのではないかと思ったほどだ。

(略)

一緒にロンドンに来いって。リヴはまだ一歳だったし、知らない土地にあの子を連れて行きたくなかった。だから、メイン州の実家に連れていったのよ。ロンドンで山ほど仕事をして、稼いで帰ってこようって思ってた。長居するつもりはなかったの。だって、彼とはまだ一度も寝てなかったんだもの。お見合い結婚みたいなものよ」

 こうして、八月中旬にビュエルはロンドンにやってきた。(略)

[音楽誌もタブロイド誌も]意外性のあるこのカップルを格好の標的にした。

(略)

これまでで最も格調高い会場で開催されるロンドン公演の日程が発表された。ドミニオン劇場でロックバンドが演奏するのは初めてのことだった。一二月一八~二四日の七夜連続公演。(略)チケットはすべてソールドアウトだった。息子の晴れ舞台を見にやってきた父親ロスは、ライブには感動したものの、会場の雰囲気に不安を覚えた。「観客はお前が死ぬのを見たがってるぞ」と、彼は平静そのもののエルヴィスに言った。ステージから発散される攻撃的なエネルギーを、熱くなった観客がそのまま反射していることにロスはおそらく気づかなかったのだ。

 首都ロンドンの大劇場での七夜連続ライブがソールドアウトになったことで(おまけに上映中の「スターウォーズ」まで追い出した)、「成功神話」は不動のものになった。コステロはすべてを手に入れた。ずっと望んでいた批評家たちの評価、必要ないと思っていたマスコミの注目、不穏な世間のイメージ、ケンジントンの新しいアパートメント、モデルの愛人、新しいアルバムのリリース、そしてウィットンにいる妻子ともすぐに別れることになっていた。

 そう、目の前にはハッピーな日々が待ち受けていた――。

次回に続く。