前回の続き。
アメリカでは無名
グリニッジ・ヴィレッジでさえもジミがいない一年のあいだに変わっていた。ビート族の代わりに、ヒッピーや麻薬常用者、フラワーチャイルドたちが現れた。
(略)
ジミは空いた時間に初めてのロック雑誌となるクロウダディ誌の事務所によく顔を出すようになった。(略)
「音楽の話もしたけど、マリファナを吸いに来るだけのこともあった」とクロウダディ誌の編集長、ポール・ウィリアムズは言う。
(略)
ジミはクロウダディ誌の熱狂的なファンとなり、雑誌に自分の写真と短いレビューが載ると何冊も買って、近くのバーズでおこなわれたコンサートに来ていた人々に配って回った。「俺の名はジミ・ヘンドリックスだ。この雑誌を読んでくれ!(略)その群衆のなかで、すでに彼を知っていたのは数人だけだった。アメリカではまだジミが無名だったことがよくわかる。ロンドンでは、髪の毛を切ろうとするファンに追いかけられるジミも、アメリカではパンフレットを配って回っていたのだった。
(略)
[昔のバンド仲間、カーティス・ナイトと食事に行く金をエド・シャルピンに借りに行くジミ]
ジミがシャルピンと結んだ契約が、問題を起こし始めていた。(略)裁判所ではシャルピンとジミは敵同士だったが(略)
この晩のジミとナイトとの食事は友好的で、食事のあとジミにいくらか金を貸した、と言う。そして(略)
信じがたいことに、ジミは真夜中にスタジオへ入り、シャルピンのために六曲録音をした。ジミはレコーディングの際に、これをリリースするとしても自分の名前は出さないでくれ、とは言っている。「ほら、つまり……僕の名前を出してはいけないんだ。あんたに僕の名前を使う権利はないからね」。ジミの態度は友好的で、法廷闘争を感じさせるようなところはなかった。(略)
[だがシャルピンが]それをジミの名でリリースしたため、法廷闘争はさらにややこしくしくなった。(略)
ジミは八月中にもう一度シャルピンとナイトとともにセッションをおこなった。
プラスター・キャスターズ
シンシアがロックスターの性器の石膏型を作っていることは、ロスで出会った女から聞いたことがあった。(略)
実はシンシアはまだ始めたばかりで実際にスターの石膏型を取ったことはなかった。ジミは一人目になることに同意した。
(略)
それまでペニスを見たこともなかった彼女は、ジミの性器の大きさに驚きを隠せなかった。「あんなに大きなモノに対する用意はできていなかった」(略)
シンシアが石膏を混ぜるあいだに、もうひとりの女の子が口でジミを刺激し始めた。勃起すると、女たちはそれに石膏を入れた花瓶をかぶせ、その状態を保ったまま(略)一分間じっとしているように、とジミに指示した。
(略)
シンシアはノートに書いた。「彼のイチモツは見たことがないくらい大きかった!花瓶の深さ目一杯突っ込まなければならなかった」(略)
[型にくっついた]陰毛を引き抜くのに十分近くかかった。ジミは協力的ではなくなり、固まった型を使って自慰行為を始めた。(略)
ギターを弾くときと同じような動きで(略)歯科用の型が入った花瓶にむかって腰を振っていると
ジョニ・ミッチェル
三週間後、オタワの舞台裏での出会いは、プラスター・キャスターズとの出会いよりよっぽどロマンチックなものだった。オタワに到着したジミは、ヴィレッジで出会ったジョニ・ミッチェルがジミの会場の近くで演奏しているのを知った。一九六八年のツアーの初めに、ジミは日記をつけ始めていた。三月十九日のページにはこう書かれている。「オタワに着いた。豪華なホテルに、おかしな人たち。すばらしい食事。ジョニ・ミッチェルと電話で話をした。今夜、彼女の歌を僕のすばらしいテープレコーダーで録音しようと思う。(うまくいきますように)。マリファナを見つけることができない。偽物ばっかりだ。景色はいい。最初のショーはすばらしく、次のショーはまあまあだった。小さなクラブへ行って、ジョニに会った。天国の言葉を話す、美しい女性だ。みんなでパーティに行った。女の子が大勢いた。ホテルへもどって、テープを聴いて一服した」
(略)
翌日の日記の中心は、再びジョニだった。「今日、オタワを発った。ジョニにお別れのキスをして、少し車で眠って、ハイウェイのダイナーに寄った。映画に出てくるような、本物のダイナーだ。(略)
俺はメキシコ人みたいな口ひげにインディアンハットをかぶり、ミッチはおとぎ話に出てきそうなジャケットを着て、ノエルは豹柄の帯がついた帽子に眼鏡、髪の毛、それに訛り。おやすみ、みんな」
この日記のすぐあとから、同じような日々を繰り返すツアーの日常がジミの創造力を奪いだした。日記には「セイム・オールド・シット (昨日と同じつまらない一日)」を略した「S.O.S.」の記述が続く。
キング牧師暗殺
バンドのリムジンがニューヨークから町に入ると、道路で戦車を追い越し、バンドメンバーらは戦争が始まったのかといぶかった。ある意味、それは戦争だった。マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師がその前日に暗殺されたのだ。
(略)
会場に着くと、警察はジミに、最初の公演だけやって二回目はキャンセルするようにと言った。開演時間に間に合ったのは四百人だけだった。ジミは「この曲を友に捧げます」言い、悲しげで長いインストルメンタルのブルースを弾き始めた。それはキング牧師へのジミなりの追悼で、その心を打つ演奏に多くの客が涙を流した。バンドが演奏するあいだにも、会場の外では銃声が鳴り響いた。即興の演奏を一時間続けると、ジミはギターをステージ上に残して去って行った。拍手はなかった。観客もそれが追悼式であることはわかっていた。ジミの追悼はそれだけでは終わらなかった。その晩、ニューヨーク市にもどったジミはジェネレーション・クラブでバディ・ガイとセッションをした。そして翌週、ジミはなんの告知もなしに、キング牧師に敬意を表してメモリアル基金に五千ドルを送った。(略)
ジミは言った。「愛の力が力への愛を超えるとき、世界は平和を知るだろう」
その春のジミの作曲には社会意識が見え始めた。ほとんどの曲は三枚目のアルバム『エレクトリック・レディランド』に入れる予定で書かれていた。「ハウス・バーニング・ダウン」の「燃えるのではなく、学べ」という歌詞は、キング牧師に同調したものだった。
「ヴードゥー・チャイル」
レコーディングには時間がかかっていた。ジミはすべての曲を何度も取り直すことを主張し始めていた。それまでの二枚のアルバムが自分の思いどおりの出来ではないことに不満を抱いていたジミは、チャス・チャンドラーやほかのメンバーの意見を聞かなくなっていた。「ジミはすべてを取り仕切ろうとしていた」とノエル・レディングは言う。「僕はレコーディング・セッションから出て行ったこともよくあったし、ジミのことをののしる言葉を口にしていたことも認めるよ」。
(略)
レコーディングはまるでパーティの延長で(略)
ジャムセッションのようなくつろいだレコーディングのやり方が取られると、最初の二枚のアルバムのときにバンドがもっていた仕事に対する強い意欲はなくなってしまった。失望したチャンドラーは、その春、プロデューサーを降りた。
五月の初め、ノエルがレコーディングから飛び出し、その結果「ヴードゥー・チャイル」の録音には参加できなかった。(略)
[レコーディングは]シーン・クラブのジャムセッションから始まった。クラブの閉店時間になると、ジミは取り巻きを引き連れてレコード・プラネットへ移動した。(略)
朝の七時半になると、ギターにジミ、ドラムスにミッチ・ミッチェル、オルガンにトラフィックのスティーヴ・ウィンウッド、ベースにジェファーソン・エアプレインのジャック・キャサディというメンバーで、正式なレコーディングが始まった。取り直しは三回だったが、長かった。
(略)
一九六八年半ばになると、ジミの人生すべてが音楽中心にまわるようになっていた。スタジオにいなければ、ジャムをしていた。ジャムをしていなければ、コンサートをやっていた。ギターやコンサートステージがないと、どうしたらいいのかわからなかった。アメリカツアーの最終日であったマイアミ・ポップ・フェスティバルが雨で中止になると、フランク・ザッパ、アーサー・ブラウン、ジョン・リー・フッカーらと、ホテルのバーでジャムセッションをおこなった。「聴いたことがないほど、最高の音楽だった」とトリクシー・サリヴァンは言う。マイアミでは、ジミはトイレの窓から脱走しなければならなかった。このツアーで五十万ドルの収入を得たにもかかわらず、バンドは宿泊費を払う金がなかったのだ。
クリームに捧ぐ
一九六九年一月四日、エクスペリエンスはBBCの生番組『ハプニング・フォー・ルル』に出演した。二年前、バンドを世間に送り出すためにテレビ出演は不可欠だったが、一九六九年にはジミはテレビのわざとらしさに耐えられなくなっていた。予定では、エクスペリエンスが二曲演奏し、ジミと番組ホストのルルのデュエットで番組が終わることになっていた。台本どおりに進める代わりに、バンドが「ヴードゥー・チャイル」を演奏し終わってルルがしゃべっているあいだ、ジミはフィードバックを鳴らした。ルルは狼狽しながらも曲紹介を終えた。「これから、彼らをこの国での成功に導いた曲『ヘイ・ジョー』を歌って頂きます。私もこの歌を聴くのがとっても楽しみ」。「ヘイ・ジョー」を二分ほど弾いたところで、ジミは演奏を止めた。「こんなつまらない歌は止めて、これから弾く曲をクリームに捧げたいと思う。これから彼らがどんなグループで弾くことになっても。この曲をエリック・クラプトン、ジンジャー・ベイカー、ジャック・ブルースに捧げます」。ジミがそう言うとバンドは「サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ」を演奏し始めた。その少し前に解散したクリームに敬意を表して、バンドが曲の長いヴァージョンを弾き始めると、カメラに映らないところでディレクターがジミに演奏を止めるように合図を送った。ディレクターだけに見えるように送られたジミからの返事は、立てた中指だった。エクスペリエンスは演奏を続け、番組の残り時間を使い切った。ようやく演奏が終わった頃には、プロデューサーは激怒していた。「お前らを二度とBBCに出演させないからな」(略)
ジミはキャシーに、初めから計画していたのだ、と話した。「ルルとなんか歌いたくないね(略)俺がまぬけに見えるじゃないか」
エクスペリエンス最後のショー
コンサートの前、ノエル・レディングを見つけた記者は、彼がすでにグループを抜けたと聞いていたため「ここでなにをしてるんです?もうバンドを辞めたんじゃなかったんですか?」と訊ねた。ノエルには初耳だった。それは、ジミが記者の前で愚痴をこぼした結果うまれた噂だった。
ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンスの歴史のなかでどん底があったとしたら、それはデンヴァーで訪れた。そして、それがエクスペリエンス最後のショーとなった。スタジアムの外では、フェスティバルを無料にしろと要求するファンが暴動を起こしていた。ショーが始まっても、ジミは調子が悪かった。アシッドのせいかもしれないが、普段ならアシッドをやってからの演奏はジミを上機嫌にするので、その晩の機嫌の悪さはジミが摂取したなにかほかのものが原因だったのかもしれない。ジミは客を楽しませるどころか、「ヴードゥー・チャイル」の歌詞を「俺はたんまり金を稼いでこの町を買い占める/この町を買い占めて俺の靴のなかに入れてやる」と変えて、反感を買った。そしてショーのある時点で「俺たちが一緒に演奏するのはこれが最後だ」と宜言した。その発言に駆り立てられ、絶え間ない警察との衝突もやまないまま、スタジアム内の一万七千人の群衆は大混乱となり、多くのファンがステージへ上がろうとした。警官が催涙ガス弾を客にむかって投げると、ジミは冗談を飛ばした。「催涙ガスだ。第三次世界大戦が始まるぞ」。だが、ガスがステージにも流れてきてバンドを包み込むと、メンバーの三人は楽器を置いて逃げ出した。バンドのステージで最後の瞬間は、メンバーが、突進してくる群衆と雲のようなガスからものすごいスピードで逃げ出すという、まるでホラー映画の一シーンのような結末となった。
(略)
催涙ガスがスタジアム中に充満し、それから逃れようとしたファンが[ジミたちの乗った]トラックの上に登り始めた。ファンの重さで、パネルトラックの屋根の支えが音を立て始めた。トラックのなかは真っ暗だった
(略)
「観客がドアや屋根を叩いていて、車の壁がゆがみだしたのがわかった」とハービー・ワージントン(略)
しゃべっていたのはノエルだけで、もしこの瞬間を無事に乗り切ることができたら、イギリス行きの飛行機に飛び乗って、もう二度ともどって来るもんか、と言っていた。そしてそんな絶望的な恐怖のなかでも、ノエルは冗談を飛ばしていた。「おい、それは俺の脚だぜ。お互いのことそんなによく知りもしないのに」隣に座っていたワージントンに、ノエルは言った。エクスペリエンスが一緒にいた慌ただしい三年間、困難な時期も三人を結びつけていたのはノエルのユーモアのセンスだった。このときは、レンタルトラックのなかで押しつぶされてすべてが終わりだ、金を使うことも名声を楽しむこともできないのだ、と冗談交じりに言っていた。車が百メートルほど進むのに一時間かかったが、ジミとノエルとミッチはデンヴァー・ポップ・フェスティバルを生きて出ることができた。それでも、三人組として一緒に演奏することはもう二度となかった。
アフリカでの休暇
ジミはおそらく人生でもっとも楽しい九日間を北アフリカで過ごした。「ジミの人生で最高の、そしてたぶん、ただ一度きりのヴァケーションだったんじゃないかな」とハウは言う。モロッコへ到着したジミとハウは、ステラとコレットと合流(略)古いクライスラーを借り、砂漠をドライヴしたり、観光地を訪れたりした。旅行中は、絨毯や服の買い物、食事、おしゃべり、そして休息を楽しんだ。「ジミはとても楽しんでいた」とハウは言う。「黒人であるジミが、アフリカを体験するのを見るのは、おもしろかった。文化と人々をとても気に入り、今まで見たことがないくらい、たくさん笑っていた」。(略)
その年、ジミは世界でもトップのスターだったが、アフリカでは誰もジミのことを知らなかった。旅は名声からの一時的な救済になり、ジミはロックスターの仮面をはいで、人生を楽しむことができた。
(略)
八月六日、長い休暇を楽しむ友人を残し、ジミはアメリカに発った。だが(略)乗り換えのため到着したパリの空港で、ジミはブリジット・バルドーに出会った。のちにジミがハウに語ったところによると、ジミはその場で飛行機の乗り継ぎを止め、この有名な女優をベッドへ誘い込もうと決心したという。ジミは成功し、事務所が懸命に彼を探していた二日間、バルドーと秘密の情事を楽しんだ。
(略)
ようやくアメリカにもどったジミは、旅行のおかげで音楽的にもやる気を取りもどしていた。エレクトリックよりもアコースティックギターを弾きたがり、モロッコで聴いたアフリカの音楽に刺激を受けていた。ショーカンの家でおこなわれたジャムセッションでこの領域を探り、ジミとジュマ・サルタンだけでいくつもの曲をレコーディングした。「ジミのアコースティックと僕のパーカッションだけの曲だった」とサルタンは言う。「驚異的だったよ。ウェス・モンゴメリーやセゴヴィアのようなサウンドだったけど、それにモロッコ音楽の影響も反映されていた」。
次回に続く。