ジミ・ヘンドリクス 鏡ばりの部屋 その4

前回の続き。

契約

 フランスに発つ前、バンドの三人はチャンドラーとジェフリーと、プロダクションの契約を結んだ。その契約書によると、バンドによるすべての収入の二〇%をチャンドラーとジェフリーが受け取り、バンドはレコード売り上げの印税から二・五%を分け合うことになっていた。(略)

その後六年に渡る期間でジミが作曲で得る利益の五〇%をチャンドラーが受け取ることになった。バンドは将来の稼ぎを見込んで、まずは週に十五ポンドの給料を受け取った。

 ジミは週に十五ポンドでも充分すぎるほど満足していた。いつもどおり、ジェフリーとチャンドラーとの契約書にも読まずに署名をし、前払いでもらえる金額のことだけを気にしていた。

(略)

常軌を逸した服装で、ジミは人生で初めてファッションの流行の最先端に立った。(略)

「彼の名が知れ渡る前から、彼は『女の子の部屋に入ってクローゼットの服を全部着たような格好をしたやつ』として知られていた」。お下がりの古着ばかり着て育った少年は、突然、ヴィンテージシックの探求を始めた人間のひとりとして、流行の仕掛け人の座につくことになった。

(略)

 パリ公演の一週間後、そしてジミがイギリスに到着した翌日から一ヵ月後、チャンドラーは「ヘイ・ジョー」を初めてのシングルとして録音するため、バンドをスタジオへ連れて行った。B面にジミは「マーシーマーシー」を提案したが、出版でも金を稼ぎたかったらオリジナル曲を書け、とチャンドラーは言った。ソングライターとしての自信はまだなかったが、チャンドラーに激励され、ジミはひと晩で「ストーン・フリー」を書きあげ、それが初めて最後まで完成させた曲となった。チャンドラーは、ジミの初期の作曲を手助けするには、自分の感情を書き出せ、と言うだけで充分だったと言う。

 ギター破壊

[投げつけた衝撃でネックが割れた]ことに腹を立てたジミは、新しい楽器には二ヵ月分の給料が必要だと知りながら、ネックを掴んで頭の上に振り上げ、怒りの力にまかせてそれをステージに叩きつけた。(略)

客は狂ったように手を打ち鳴らし、ショーが終わるとジミをステージから引きずり降ろした。客のそんな反応を見て、チャンドラーはこれからのいくつかのショーで、ジミにもっとギターを壊させようと決意した。ギターの破壊は――ほとんどの場合、同じギターを毎晩くっつけなおしていたのだが――(略)ほかの芸でも客を盛り上げられなかったときに披露されるようになった。(略)

初めてのギターを手に入れることを長いこと憧れ続けていた少年は、今はステージの上でそれを破壊していた。

 公式プロフィール

十一月になると、広報係のトニー・ガーランドがマスコミ用の公式プロフィールを書き始めた。

(略)
ジミがそれまで一緒にやってきた伝説のR&Bバンドの名を挙げると、ガーランドはそれを容易には信じられなかった。ある晩、キング・カーティスのレコードを聴いているとき、ガーランドはこのギタリストが誰だか知っているか、とジミに訊ねた。「これは俺だよ、くそったれ」ジミはにやりと笑って言った。

(略)

すり減った靴底のせいでジミは変な歩き方をするのだろうとも思われたが、ジミが靴を新調し、つま先の四角いスタイリッシュなサイズ十一のキューバンブーツに履き替えても、内股で歩く奇妙な歩き方は変わらなかった。「ジミが歩くのを見ていると、子ども時代にサイズの合わない靴を履かされていて、歩き方がおかしくなってしまったんだろうということがわかったよ」とエリック・バードンは言う。「つま先で三角形を描いているような歩き方だった」

ピート・タウンゼントエリック・クラプトン

 レコーディングスタジオを見て回っているときに、ジミはザ・フーに初めて会った。「だらしのない格好をしていて、どうってことない男にしか見えなかった」とピート・タウンゼントは言う。ドラマーのキース・ムーンは機嫌が悪く「野蛮人をここに入れたのは誰だよ?」と叫び続けていたが、ジミはそれを無視しようとした。

(略)

数日後、タウンゼントは初めてジミの演奏を見て、ようやくみんなが騒いでいるわけがわかった。「すぐに彼のファンになったよ」とタウンゼントは言う。「初期にロンドンでおこなったショーはすべて観に行った。六公演くらいあったかな」。

(略)

ジミとローリング・ストーンズブライアン・ジョーンズはニューヨークで会っていたが、いまやジョーンズはジミの一番の支援者となって、ほかのスターたちを連れて彼の演奏を観に来るようになっていた。

(略)

 ある晩のショーのあと、ジミはエリック・クラプトンのマンションに招待された。ジミはキャシーを連れて行った。クラプトンのマンションでの雰囲気は悪くなかったのだが、ジミもクラプトンもおしゃべりなほうではなかったので、会話のほとんどはお互いのガールフレンドのあいだで交わされた。ふたりのギタリストはお互いのことを尊敬していたが、あまりにも生い立ちが異なり、共通点はブルースを愛していることだけだった。「とてもぎくしゃくした雰囲気だった」とキャシー・エッチンガムは言う。

(略)

数時間後、マンションを出ると、ジミはキャシーに言った。「今のは一仕事だったな」

 レコーディング

 ジミの音楽の評判はギタリストのあいだでは高まっていったが、実際に金が稼げるかどうかはまだわからなかった。

(略)

「ヘイ・ジョー」が売れなければ、アルバムを出すチャンスは皆無だろう。[デモはデッカ他2社から却下]

(略)

「マネージャーたちは、売り上げを伸ばすため、レコードショップをまわってシングルを買い占めていたわ」とキャシーは言う。

(略)

バンドがよく使っていたスピードは安価で、高揚感は得られなかったが、ギグやレコーディングで徹夜するのには役立った。その冬、バンドはスタジオを借りる金を稼ぐため、イギリス中を回って演奏した。ロンドンから数時間北へ行った町でギグをしたあと急いでロンドンへもどり、スタジオ使用料の安い夜中にレコーディングをおこなうこともめずらしくなかった。

(略)

 「レディ・ステディ・ゴー!」のために「ヘイ・ジョー」を収録した晩は、CBSスタジオで「レッド・ハウス」「フォクシー・レディ」「サード・ストーン・フロム・ザ・サン」のレコーディングをおこなった。スタジオ・エンジニアのマイク・ロスが驚いたことに、スタッフはマーシャルのツインのスタックアンプを四セット、つまりスピーカーが八台もある機材を運び込んだ。ロスがすべてのスピーカーにマイクをつけて欲しいのかと聞くと、ジミは、マイクはひとつだけ、三・五メートルほど離れたところに設置して欲しい、と言った。バンドの演奏が始まると、鼓膜を破るような大音量で、ロスはコントロール室へ退散しなければならなかった。「スタジオであんなでかい音は聴いたことがなかったよ」と口スは言う。「耳が痛くなった」

(略)

一九六七年の一月、アルバムをとにかく早く仕上げる必要があったため、ジミは一日おきに曲を書いていた。その冬は、意識しなくても曲のほうからジミのところへ来ているような気分だった。だが、「レッド・ハウス」はジミの過去の経験に基づいて書かれていた。(略)

ジミはノエルに、この歌はハイスクール時代のガールフレンド、ベティ・ジーン・モーガンのことを書いたものだ、と言った。

(略)

 ジミの謎めいた思考、そしてどのように頭のなかを音楽が流れているかというのがもっともよく表れているのは「風の中のマリー」だ。十月十日の午後、ジミは自分の部屋でメロディ・メーカー誌のインタヴューを受けた。その夜はキャシーが手料理に挑戦し、ジミは彼女の料理に文句を言った。(略)

「私は本当に頭にきて、鍋をいくつも投げつけて飛び出したの」とキャシーは言う。その翌日にキャシーがもどると、ジミは「風の中のマリー」を書きあげていた。マリーはキャシーのミドルネームだった。

紫のけむり

 エクスペリエンスの歴史上、一九六七年一月十一日ほど生産的な一日はなかった。バンドは一日中スタジオでレコーディングをしたあと、夜にはバッグ・オ・ネールズでショーを二回おこなった。昼間のデ・レーン・リー・スタジオでのレコーディングでは、「紫のけむり」「第五十一回記念祭」を含む数曲の録音、そして「サード・ストーン・フロム・ザ・サン」の録り直しをした。その二週間前のコンサートの楽屋で、ジミは「紫のけむり」の歌詞の下書きをしていた。この曲は発表されて以来ずっと、LSDをやったあとの妄想と関連づけられることになるが、ジミはフィリップ・ホセ・ファーマーの小説「ナイト・オブ・ライト:デイ・オブ・ドリームズ」の抜粋を読み、それにそっくりな夢を見て歌にした、と言っている。歌詞の下書きの段階では、ジミはタイトルの下に“イエスの救い”とファーマーの小説の引用ではない言葉を書いていて、コーラスにしようと考えていたのかもしれない。のちにジミは、バンドの二枚目のヒットシングルとなったこの曲のヴァージョンは、短縮されていると文句を言っていた。「オリジナルのヴァージョンでは言葉がもっとたくさんあったんだ(略)とにかく頭にきたね。あんなのは『紫のけむり』じゃないんだ」

サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ 

 エクスペリエンスは、有名なサヴィル・シアターでおこなったザ・フーとの共演で一月を終えた。二回のショーにはレノン、マッカートニー、ジョージ・ハリスン、それからクリームのメンバーらが観に来た。(略)ジャック・ブルースは、ジミから刺激をうけて「サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ」のリフを書いた

ロジャー・メイヤー

アクシス・ボールド・アズ・ラヴ』と題されることになるアルバムのレコーディングも早く進んだが、バンドがフレージングやギター・エフェクト、フィードバック、それにロジャー・メイヤーが作った機材でさまざまな実験をしたため、手こずった。メイヤーは政府の音響分析者だったが、オフにはジミー・ペイジジェフ・ベックにファズ・ボックスなどのエフェクターを作っていた。バッグ・オ・ネールズでジミを観たメイヤーは、まるで自分のモンスターを見つけたフランケンシュタイン博士のようになり、それ以後はジミのためにもエフェクターを作っていた。メイヤーは“オクタヴィア”を造り、ジミはこれを「紫のけむり」で使用した。(略)

「ジミはいつも『口ジャー、僕たちはどんなことができるかな』と訊いていた」とメイヤーは言う。「僕たちは音を使って感情を生み出し、絵を描こうとしていた。当時は未熟なテクノロジーしかなかったけど、なにか足りないものがあれば、作っていた」。ジミはメイヤーに“真空管(ヴァルヴ)” というニックネームをつけ、僕らの秘密兵器、と呼んだ。メイヤーの発明品にくわえ、市販されているヴォックス社のワウやファズ・フェイスを使い、ジミはほかのギタリストにすぐにはまねされないような音を作り出すことができた。

 会場の音響システムが悪いと、ステージ上でこのテクノロジーに悩まされることにもなった。装置が壊れたりギターのチューニングがずれたりすると、ジミはかならず機嫌が悪くなり、それは演奏にも表れた。五月二十九日のスポルディングでのショーでは、四千人のファンが見守るステージ上で、ジミはかんしゃくを起こした。ジミがギターのチューニングを合わせるために何度も休憩を取り、客が野次を飛ばし始めると、ジミは大声を上げた。「黙れ。たとえひと晩かかったとしても、俺はこのギターのチューニングを合わせるんだ」。

(略)

 その晩のジミの雑然とした演奏に、観客は驚き、動揺しただろうが、前座をつとめたピンク・フロイドも同じ気持ちだった。三日後、ジミがピンク・フロイドのショーを観に行くと、自分のショーと同じくらい、スターが集まっていることに気づいた。重々しくサイケデリックサウンドを作りだし、ジミ以上に前衛的で恐れを知らないピンク・フロイドの演奏に、ジミは勇気づけられた。

サージェント・ペパーズ

 「サージェント・ペパーズ」のような曲をアルバムが出た三日後に、しかも客席にいるビートルズのメンバーを前にカバーするのは、ジミにとってもかなり勇気ある行為だった。(略)

ビートルズのメンバーは、信じられないと言う顔をしていた」とエディ・クレーマーは言う。

(略)
カバー曲だということはわかるが、ビートルズが使っていた管楽器の代わりに、自分のギターのパートを中心としてメロディーを構成する新しいアレンジを作り出していた。「ほとんど即興だった」とノエルは言う。「だけど、僕らはすべてにおいてそうだったんだ。恐いもの知らずだった」

(略)

より重要な意味をもったのは、ポール・マッカートニーの賞賛の言葉だった。「あの晩の『サージェント・ペパーズ』のカバーは、僕のキャリアのなかでも最高の名誉だった」。

 ショーのあと、エクスペリエンスのメンバーは、ブライアン・エプスタインの家で開かれたプライベート・パーティに招待された。彼らを迎え入れたのは、驚いたことに、大きなマリファナたばこをくわえたマッカートニーだった。マッカートニーはそれをジミに渡し、「ものすごくよかったぜ」と言った。

(略)

[二週間後、ニューヨークに行き、ジミは]

人種が対立するこの国では、自分はアフリカ系アメリカ人なのだということを思い知らされた。バンドはチェルシーホテルにチェックインしたが、ロビーにいた女性がジミをベルボーイと勘違いし、荷物を運べと言い張ったので、バンドはホテルを出た。ジミはタクシーを停めることもできなかった。花柄のジャケットに黄緑のスカーフという突飛な格好をしていたが、人種差別を思い出すとぞっとした。五時間のフライトだけで、ジミはビートルズの親友からベルボーイまで成り下がったのだった。

モンタレー・ポップ・フェスティバル

 エクスペリエンスはイベント初日の金曜日に到着した。主催者たちは十万本の蘭の花を用意し、モンタレーにいる人たち全員が髪に花を挿していた。(略)

無名の科学者、オーガスタス・オーズリー・スタンリー三世は舞台裏のミュージシャンにLSDを配って回っていた。オーズリーは自らの製造するLSDを紫にすることを好み(略)[人々が]LSDを“パープル・ヘイズ”と呼んでいることを知って、ジミは驚いた。

(略)

ジミはアンティックの軍服を着て、「僕は童貞です」(アイム・ア・ヴァージン)と書かれたバッジをつけていた

(略)

土曜日のハイライトはオーティス・レディングだった。(略)後ろで弾いていたスティーヴ・クロッパーと、ジミは舞台裏で[三年ぶりに]話した。(略)

モービー・グレープのジェリー・ミラーとの再会に喜んだ。(略)

その晩、何度もおこなわれた即興のジャムセッションのひとつで、ジミはミラーのギブソンL5のギターを借りて、試してみた。ジミはそれを、眠っている人々にかこまれた臨時ステージへ持って行った。(略)

エリック・バードンは言う。「ジミは哀愁漂う美しいメロディーを奏で始め、それから楽しいジャムセッションへ変わった」。ステージ上に誰がいたのか、証言によって異なるが、その晩、眠い目をこすりながらその場にいた客は、ジミが(略)

グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアらと、「ウォーキング・ザ・ドッグ」や「グッド・モーニング・リトル・スクールガール」を演奏したのを聴いただろう。「その頃は誰も有名じゃなかった」とジャック・キャサディーは言う。「モンタレーが独特だったのは、こういったミュージシャンたちがお互いに出会えたってことじゃないかな」。日曜日のグレイトフル・デッドのステージのあいだ、ジミは舞台裏でまたジャムセッションをおこない、ジャニス・ジョプリン、ママ・キャス、ロジャー・ダルトリー、エリック・バードンブライアン・ジョーンズらと「サージェント・ペパーズ」を歌った。「かなりの大音量だったよ」とバードンは言う。「ステージから降りてきたビル・グレアムに、『黙れ!ほかのショーを台無しにしてるぞ』と怒鳴られた」

(略)

以前にアメリカで失敗しているだけに、スターの地位はまだ不確かだった。(略)目立とうと、ジミはストラトサイケデリックな渦巻き模様を描くことに、日曜の午後を費やした。

(略)

モンタレーの構成はおおざっぱで、日曜の出演順は未定だった。最後はママス・アンド・パパスが締め、ラヴィ・シャンカルが幕を開けることだけが決まっていた(略)

グレイトフル・デッドは「いつでもいい」と言った。(略)

[コイン投げで]勝ったほうが先に、負けたほうがそのあとに続く。ザ・フーが勝ち、ジミはみじめにも負けた。「お前のあとに続くなら、俺は全力を尽くすぜ」ジミはタウンゼントに、脅迫するように言った。ジミはライターオイルを探すために飛び出していき

(略)

[アル・クーパーに出くわしたジミは]自分のバンドが「ライク・ア・ローリング・ストーン」を演奏するときに一緒にやらないかと誘ったが、クーパーは断った。(略)

[ジミはママス・アンド・パパスのテントで]話をした。「そこヘオーズリーがやって来て、ジミはアシッドをやった。おかしな幻覚を見せるような品質の悪いものじゃなくて、本物だった」。

(略)

 エクスペリエンスの出番がくると、ブライアン・ジョーンズがステージへ上がり、バンドを紹介した。「僕の親友、みんなと同郷の男を紹介しよう。すばらしいパフォーマーで、僕が知っている限りもっとも熱いギタリストだ。ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」。バンドは「キリン・フロア」から始め、続いて「フォクシー・レディ」を演奏した。三曲目の「ライク・ア・ローリング・ストーン」でようやく客はのり始めた。ジミのアルバムがアメリカで発売されていなかったので、客が知っている曲はこれだけだったのだ。「その頃には、客はみんな口をぽかーんと開けていた」(略)

「その場をめちゃくちゃにしてやった」とノエルは言う。「大成功だった。アメリカでのバンドの成功が、あの場で決まった」

 ジミの唯一のミスは、「風の中のマリー」でギターのチューニングがひどく狂ってしまったことだった。そのステージのためにギターを塗ったので、楽器を変えることはできなかった。チューニングがそれほど問題にならない「紫のけむり」はフィードバックを使いながら苦労して弾き終えた。それが終わると、ジミは観客にむかって言った。「俺はこれから、ここにあるとても大切なものを捧げるよ。気が変になったわけじゃないから、ばからしいと思わないでくれ。俺はこうすることしかできないんだ」。「ワイルド・シング」を弾き始めながら、シミはそれを「イギリスとアメリカ、両方の賛歌」と呼んだ。曲が始まって二分ほどすると、ジミはロンソンのライターオイルの缶を掴み、ギターに火をつけた。ギターの上にまたがってオイルをかけ、そのうちひざまずいて、ブードゥー教の祈祷師のように指を動かし始めた。この芸をやったことはあったが、映画を撮影しているカメラや、モンタレーへやって来た千二百人の記者、評論家、レポーターなどのジャーナリストたちの前でやるのは初めてだった。

(略)

アンディ・ウォーホルとニコが最初にジミを舞台裏で迎えた。ショーの前には、ふたりはジミのことなど気にとめていなかったが、今度は社交界にデビューを果たした娘を迎えるフランスのおばあさんのように抱きしめ、両方の頬にキスをした。のちにニコは、ジミのモンタレーのパフォーマンスは見たこともないほど「セクシーだった」と言っている。

(略)

「あれはジミのデビューパーティだった」とエリック・バードンは言う。「彼はレンガを持って来て、記念碑を造りだす準備を始めていた」

次回に続く。

 

kingfish.hatenablog.com 

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ジミ・ヘンドリクス 鏡ばりの部屋 その3

リンダ・キース

二十歳で、ひときわ美しいモデルのリンダ・キースは、ジミとは正反対だった。イギリス人でユダヤ教徒であり、裕福で教養があり、ロンドンの流行の最先端を行く群衆のなかでなくてはならない存在だった。(略)

リンダは一九六三年にキース・リチャーズとつきあい始め、ストーンズの結成当時を知っていたため、イギリスの音楽業界では王族のような存在だった。ストーンズが一九六六年、待望のツアーのためにアメリカを訪れる一ヵ月前だった。リンダはニューヨークのクラブシーンを楽しもうと一足先に渡米していた。音楽が、そして、ブルースが大好きなリンダは、お気に入りのシングルレコードをケースいっぱいに入れて持って来た。才色兼備で音楽にも詳しい彼女の存在は、それだけで男たちを夢中にさせた。

(略)

[五月の末、チーター・クラブの]二千人収容できる店内に、そのときは四十人もいなかった、とリンダは記憶している。(略)

「彼の手がギターのネックを動き回るのを見ているのはおもしろかった」とリンダは言う。「信じられないような手ね。彼の演奏に魅了されてしまったわ」(略)

ジミが、鑑賞力のない少人数の観客のために弾いているのを見て、リンダの正義感に火がついた。(略)

「あきらかにスター性をもっているのに、奇妙なルックスをしたスターで、奇妙な場所で弾いていて、こんなのはまちがっている、と思ったの」。セットが終わってバーでゆっくりと酒を飲んでいるジミを、リンダと彼女の友人たちはテーブルまで呼び寄せ、彼を褒めちぎった。それまでジミは、美しいモデルたちからこれほど注目された経験などなかった。リンダが、自分はキース・リチャーズの恋人で、リチャーズももうすぐニューヨークへ来るのだと言ったとき、ジミはどんな顔をしたのだろうか。 

初めてのLSD

リアリーは、LSDを体験するためには用量と同様に、“セット”と“セッティング”が重要だと言う。“セット”とは、使用者の心境、“セッティング”とは、薬物が使用されるときのまわりの環境を指す。ジミ・ヘンドリクスにとって、初めて経験するアシッド・トリップのセットもセッティングも、これ以上ないほど理想的だった。ロバート・ジョンス ンのことを知っている聡明なイギリス人モデルから褒めちぎられ、壁が赤い豹柄に塗られたおしゃれなマンションの一室でキースのブルースのレコードコレクションを聴いていて、ドラッグがなくても陶酔しそうな環境だった。言うまでもないが、トリップはうまくいった。

 のちにジミは友人に、初めてのアシッド・トリップで「鏡を覗き込んだら、自分がマリリン・モンローに見えた」と語っている。一九六六年五月以降、ジミはよくその鏡を覗くようになった。この後ジミが人生で作曲する音楽のほとんどは、リセルグ酸ジエチルアミドというレンズをとおして作られることとなった。すべての曲が、ドラッグでハイになっているあいだに作られたという意味ではないが、一度アシッドの世界に入ってしまうと、幻覚状態の思考がジミの演奏や作曲や作詞を特徴づけるようになった。ジミは親しい友人たちに、自分が弾いているのは音ではなく色だ、演奏しながら頭のなかで音楽が“見える”のだ、と言い張った。ジミの創造的プロセスの描写は、ホフマン博士が自身の初めてのアシッド・トリップのことを書いた描写に、不気味なほど似ていた。「聴覚(略)は、視覚に変換される」

 その夜ジミの人生を変えたのは、ドラッグだけではなかった。リンダ・キースは、その二週間前に発売されたばかりのボブ・ディランの『ブロンド・オン・ブロンド』のレコードを持っていた。(略)

一曲目の「雨の日の女」でディランが「誰でも一発やられるべきだ」と歌ったとき、ジミはすでにLSDにやられていただろう。

ボブ・ディラン

ブルースに夢中だということが、ふたりの共通点だった。リンダはアメリカがルーツのその音楽に詳しく、それを証明するかのように、旅行鞄からあまり知られていないようなシングルレコードをたくさん取り出して見せた。ジョニー・テイラーの「リトル・ブルーバード」や、スヌークス・イーグリンの「ユアーズ・トゥルーリー」、そのほかのめずらしいブルースのレコードの多くはキース・リチャーズ の個人的コレクションから持って来たものだった。シングルを全部聴いてしまうと、ふたりは、まるでほうっておけないとでもいうように、何度でも『ブロンド・オン・ブロンド』にもどった。ジミはリンダに、ディランは憧れの人だと言い、ふたりともこのアルバムは天才的だと同意した。ジミは一晩中、レコードにあわせてギターを弾いた。

(略)

リンダはわかりきった質問をした。「なぜカーティス・ナイトと一緒にやっているの?」これに対して、ジミは単純で率直な答えを返した。「自分のギターを持っていないんだ」。

(略)

 リンダはギターを買ってやる約束をした。そのときには、リンダはジミを信じ、彼のためになんでもしてやろうと思っていた。(略)

リンダは、なぜ歌わないのか、と訊ねた。「だって、ほら、俺は歌はうまくないんだ」

(略)

 「あなたは歌もうまいじゃないの」その晩、数時間もプライベートコンサートを聴き続けたリンダ・キースは言った。リンダがさらなる説得の材料を必要としていたとしたら、それはレコードプレイヤーの上に載っていた。ボブ・ディランだ。もうなにも説得の言葉は必要なかった。『ブロンド・オン・ブロンド』のかすんだジャケットからジミを見つめている、ふさふさの髪をして、痩せた体にロングコートを着ている男は、肌の色以外、ジミ自身であってもおかしくなかった。その男の声を、ジミは頭から追い出すことができなかった。

(略)

ジミはリンダ・キースと一晩を過ごす二年ほど前からディランには興味をもっていた。(略)

ジミがハーレムのクラブのDJブースに「風に吹かれて」を持って行ったことがあった。(略)ジミはクラブの客たちから「店から出て行け。お前のヒルビリーミュージックを忘れずに持って帰れよ!」と怒鳴られ、店から追い出された。

 『ブロンド・オン・ブロンド』を聴いてすぐ、ジミはボブ・ディランの楽譜を買った。譜面は読めなかったので、歌詞が知りたかったのだろう。ジミは常に楽譜を持ち歩き、旅行鞄にそれしか入っていないこともたびたびだった。

ジミー・ジェイムズ・アンド・ザ・ブルー・フレームス 

[楽器店で15歳の家出少年ランディ・ウルフと、のちのドゥービー・ブラザーズ、ジェフ・バクスターを拾って、ジミー・ジェイムズ・アンド・ザ・ブルー・フレームスを結成]

(略)

[セットの核となる自作曲はなく]
ハウリン・ウルフの「キリン・フロア」や、ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」のカバーに自分らしい特徴をつけた。「その頃、流行っていた歌をやった」(略)

セットの時間を稼ぐために、バンドが演奏した「サマータイム」のヴァージョンは約二十分もあった。もうひとつのハイライトは、その夏のトロッグスの大ヒット曲「ワイルド・シング」(略)を十二分の大作に作りかえ、またすべてのセットでその曲をやりながらも、毎回違った演奏を披露することもできた。チットリン・サーキットでの制限されたセットから解き放たれ、ジミはブルースのハーモニーをロックの進行にあわせることも、ブルースの古典のなかにワイルドなロックのソロを入れることもあった。

(略)

 一九六六年六月には、ジミはファグスのメンバーがジミのために作った、初期の段階のファズボックスで実験をおこなっていた。このエフェクトボックスはギターとアンプのあいだに設置され、音をゆがめ、サウンドを豊かにする。細い弦の音を重くし、重い弦の音を強烈にした。このサイケデリックサウンドが、曲げた弦やオーバードライヴにしたアンプとあわさると、ジミがスパニッシュ・キャッスルで聴いたような、北西部の“汚れた”サウンドに近づくのだった。一九六六年にはジミのテクニックも上達していて、新しいエフェクトもすぐに音楽に取り入れることができた。ジミがこれらの未完成な電気装置を自由に操るのを見に多くのギタリストが集まり、彼が新しいテクノロジーを使いこなす姿に驚嘆した。(略)

「ジミがあのギターで鳴らすキーンという音は、芸術的だった」

(略)

初めて、バンドをリードできる自由を得たジミは、今まで見てきたリトル・リチャードやソロモン・バーク、ジャッキー・ウィルスン、そしてジョニー・ジョーンズの動きをすべて取り入れ、黒人のステージを白人の観客に披露した。マイク・クアジーのリンボーダンスからスカーフとアクセサリーを借り、ジミはエキゾチックな格好をした。ショーが始まると、知っているすべての芸をやった。歯でギターを弾き、背中に回して弾き、脚の下で弾き、セクシーな脚つきでギターに腰をふり(略)

チットリン・サーキットで見てきたショーや、マイク・クアジーの“スパイダー・キング”の芸を、フィルターをかけてホアの白人客に紹介した。

マイク・ブルームフィールド 

何人かの熱心なファンができ、グリニッジ・ヴィレッジの多くのミュージシャンから注目されるようになった。ニューヨーク一のギタリストとして知られていたマイク・ブルームフィールドは、リッチー・ヘヴンスに勧められて見に行き、ショーが終わった頃にはもう二度とギターは手に取りたくない、と言っていた。「あの日、ヘンドリクスは俺が誰だかを知っていた。目の前でこてんぱんにやられてしまったよ」ブルームフィールドはインタヴュアーにそう語った。「(略)あの場所で、あのストラトキャスターでジミが出せる音、すべてを出していた。(略)彼がどうやってあんな音をだしたのか知りたいよ」。

チャス・チャンドラー

[リンダはまずストーンズのマネージャー、オールダムやサイアー・レコードのシーモア・シュタインに売り込んでみたが失敗、ストーンズにも観せたが]

ジミに注目したのは、自分のガールフレンドがこのジミという男のことばかり話していることに気づいたキース・リチャーズだけだった。(略)

[そこに現れたのがチャス・チャンドラー。66年のアニマルズ米ツアー後に]脱退するつもりで、プロデュースの機会を狙っていた。(略)

その夏、チャンドラーはティム・ローズの「ヘイ・ジョー」を聴いて、この歌をイギリスでカバーするいいアーティストが見つかれば、大ヒットまちがいなしだと確信していた。

(略)
チャンドラーが来るというのはヘンドリクスに伝えられていて、彼は最高のパフォーマンスを見せた。そして運がいいことに、ジミはティム・ローズの「ヘイ・ジョー」を学んだばかりで、ジミがその曲を演奏すると、チャンドラーはミルクシェークをこぼしてしまうほど興奮した。

(略)

[セット後に自己紹介し]

チャンドラーはジミに「ヘイ・ジョー」のことを訊き、独特のギターのパートをどうやって作ったのか訊ねた。運良く見つかったふたりの共通点――「ヘイ・ジョー」に対する愛情――が、ふたりの仕事上での関係の始まりとなった。話していくうちに、チャンドラーはジミがリトル・リチャードやアイズレー・ブラザーズのバックミュージシャンとして何年も旅をしてまわったことを聞き、ジミはスターになる素質があると確信した。(略)

「こんな男がいるのに、誰も彼と契約を結んでいないなんて、信じられなかった」。

(略)

ジミがイギリスで成功することを確信して、イギリスへ渡る気はないかと訊ねた。のちにこの話を語るとき、ジミはいつも、すぐにイエスと返事をした、と話しているが、ヴィレッジにいた多くの人たちの証言は違っている。イギリスへ行くという考えに、始めジミは不安を隠せなかった。イギリスについての知識がなにもなく、イギリスへ行っても自分のエレキギターは使えるのか、と訊ねた。それでも、ミーティングが終わる頃にはふたりの男は握手を交わした。チャンドラーはアニマルズのツアーがあと一ヵ月残っていて、それが終わったらさまざまなことを解決するためにもどって来る、とジミに約束した。(略)

ジミはアメリカで契約を結んでレコードを出すことを願ってヴィレッジで演奏し続けた。それから五週間後にチャンドラーがもどって来るまで、ジミはパスポートの申請さえしなかった。そのあいだにも、ジミはグリニッジ・ヴィレッジでのファンをひとりひとり増やしていった。

ジョン・ハモンド・ジュニア

ジョン・ハモンド・ジュニアのギグのまっさいちゅうに友人が駆け込んできて、むかいの店で演奏している男が、ハモンドが最近出したアルバムの曲をやっている、と教えた。その前の年に、ハモンドはのちにザ・バンドのメンバー[やマイク・ブルームフィールドらと](略)

「ソー・メニー・ローズ」をレコーディングしていた。ホアへ行ったハモンドは、ロビー・ロバートスンと同じリックを彼よりもうまく弾いているジミを見て驚いた。セットが終わると、ハモンドは自己紹介をした。「ジミはシアトル出身だと言った」とハモンドは言う。「彼はとても率直で、愛想がよく、才能があった。彼の演奏を聴いたり見たりしたことがある人なら誰でも、彼がスターになるとわかっただろう。それはあきらかだった」。ふたりは親しくなり、ハモンドはカフェ・ア・ゴー・ゴーでの二週間の公演に、ジミを参加させることを約束した。その週のうちに、ハモンドは彼の有名な父、ジョン・ハモンド・シニアにジミを紹介した。ハモンド・シニアは、すでにビリー・ホリデーやボブ・ディランと、そしてのちにブルース・スプリングスティーンと契約を結ぶことになるのだが、またひとり、ジミ・ヘンドリクスには興味を示さなかった業界の伝説の人物が増える結果となった。

ジュニア・ウェルズ

ジミの評判があがるにつれ、客も増えていった。

 だがその次の週、本物のブルースプレイヤーがア・ゴー・ゴーに登場すると、ジミはナッシュヴィルで負かされたときと同じような屈辱を味わうことになった。ハモンドやエレンのバンドに参加させてもらったときと同じように、ジミは伝説的ハーモニカプレイヤー、ジュニア・ウェルズにも、バンドに参加させてもらえないかと訊ねた。セットが半分終わったところでウェルズは客席にむかって言った。「客席のなかに、演奏したがっているワイルドな男がいるって聞いたんだ」。ジミがステージへ上がると、ウェルズは楽屋へもどって行ってしまった。戸惑いながらも、ウェルズがもどって来ることを期待しながら、ジミは三曲演奏した。ウェルズはもどって来ると、ジミを怒鳴りつけた。「この若僧め!二度と俺のバンドを横取りするような真似をするな!」ウェルズはジミをステージから押し出した。始め、ジミは混乱して、ウェルズが今のは冗談だと言うのを待っているような表情をしていたが、それが冗談でないとわかると、ジミの顔は青白くなった。「がっかりして、泣き出しそうだった」とビル・ドノヴァンは言う。「そのあと、二日ほど姿を現さなかった」

(略)

 八月になると、ブルー・フレームスはカフェ・ア・ゴー・ゴーに二週間出演することが決まった。(略)

ジー・リンハートから、ア・ゴー・ゴーにディランが来ることがあると聞くと、ジミは自分のアイドルの有名な顔がないかと、毎晩客席を見回した。

(略)

 リンダ・キースは相変わらずジミのショーによく行っていて、八月の終わりにはキース・リチャーズと別れた。怒ったリチャーズは、腹いせにリンダの両親に電話をして、ふたりの上品な娘はニューヨークで“黒人の麻薬中毒者”とかかわっている、と告げ口した。

マイケル・ジェフリー

[ジミを]アメリカから来た正真正銘のブルースマンとして売り出す[のには労働許可証が必要だった]

「それを成し遂げられるのはマイケル・ジェフリーだけだった」とエリック・バードンは言う。ジェフリーはどの糸を引けばいいか、どの役人を買収すればいいか、知っていて、イギリスのクラブチェーンの出演契約を担当している人間を知っていた。犯罪組織との繋がりがあるとの噂もあった。

(略)

 実際は、ジェフリーはフランク・シナトラというより、ジェイムズ・ボンドだった。いつも小声で話し、らくだの毛のコートを着ていた。ジェフリーはニューキャッスルにクラブ・ア・ゴー・ゴーを経営することから音楽業界の仕事を始めていた。「ジェフリーは人を騙すのがうまかった」とバードンは言う。店が不審火で燃えてしまうと、それで入った保険金でニューキャッスル出身のアニマルズをオープニングのショーに契約し、それがチャンドラーとの出会いとなった。

(略)

内国歳入庁の検査官を混乱させ、会計検査をごまかすために、帳簿はロシア語で書かれていた。

メンバー募集

 ジミのバンドの最初のメンバーは、[メロディー・メイカー誌の募集記事を見てオーディションにやってきた]ノエル・レディングとなった。二十歳のギタリストは(略)

「ベースは弾けるかとチャンドラーに訊かれた。弾いたことはないけど、やってみる、と答えたんだ」とノエルは言う。ノエルはその場で初めてベースを持ち、ジミとジャムセッションをした。ふたりは「ヘイ・ジョー」と「マーシーマーシー」をやった。

(略)

チャンドラーとジミの思い描くバンドのイメージはくい違ってきた。それまでキャリアのほとんどをレヴュースタイルの大きなバンドで弾いてきたジミは、R&Bの伝統どおり管楽器も揃った九人編成のバンドが必要だと確信していた。チャンドラーはギャラが安く済むのと、ジミをセンターにしたかったという理由から、少人数のバンドを望んでいた。

(略)

 おそらく、キーボードプレイヤーを望むジミを満足させるために、チャンドラーはブライアン・オーガー・トリニティという、ブルースを基本にジャズの影響を受けたロックをやっているバンドのリーダー、ブライアン・オーガーに電話をし、過激な提案をした。「アメリカからものすごいギタリストを連れて来たんだ。君のバンドのフロントマンにぴったりだと思う」。(略)

提案に気を悪くしたオーガーは、その時点ではジミのことをなにも知らなかったが、チャンドラーの話を断った。代案として、チャンドラーはその晩のトリニティのショーにジミを参加させてもらえないかと頼み、これにはオーガーも同意した。

トリニティのギタリスト、ヴィック・ブリグスがショーの前に機材をセッティングしているところへ[ジミらが登場]

(略)

ブリグスは初期のマーシャルのアンプの試作品を使っていた。十五センチのスピーカーが四つあり、のちのマーシャルのスタックよりも小さかったが、それでもものすごい迫力があった。ジミはギターをアンプにつなぐと、ブリグスが驚いたことに、アンプの音量を最大まで上げた。「僕は五より上にしたことはなかった」とブリグスは言う。恐怖におののくブリグスの表情を見て、ジミは言った。「心配するなよ、ギターの音量は下げてあるんだ」。ジミはブライアン・オーガーに四つのコードを指示し、演奏を始めた。

 出てきたのは、大音量のハウリングとゆがんだ音だった。店内にいた全員の注目を集めたが、それはジミがマーシャルのパワフルなアンプと恋に落ちた瞬間だった。ジミが難しいパートを難なく弾きこなすようすは、そこにいた人たちを呆然とさせた。「みんな、開いた口がふさがらなかったよ」とオーガーは言う。「クラプトンやジェフ・ベックアルヴィン・リーなどのイギリスのギタリストとの違いは、彼らの場合、例えばクラプトンやベックの演奏が誰の影響を受けているのかがわかった。(略)

だけど、ジミは誰の影響も受けていないんだ。まったく新しいサウンドだった」。

神を打ちのめす

[チャンドラーに頼まれ会うだけのつもりでクリームのショーにジミたちを呼んだクラプトンだが、参加させてくれないかと言われ驚愕]

ジャック・ブルースがようやく返事をした。「ああ、もちろん。僕のベースのアンプにつないだらいいよ」。ジミは予備のチャンネルにギターをつなげた。「ジミはステージに上がって、ハウリン・ウルフの『キリン・フロア』のいかしたヴァージョンを弾き始めた」と客席にいたトニー・ガーランドは言う。「(略)ジミが弾いたのはアルバート・キングの三倍も早くて、エリックがあっけにとられているのがわかったよ。次になにが起こるのか、予測もできなかったんだろう」。クラプトンはのちにイギリスの音楽雑誌、アンカット誌のインタヴューにこう答えた。「まるで、バディー・ガイがアシッドでハイになったみたいだ、と思ったよ」

(略)

その夜観客のなかにはロンドンで当時人気絶頂だったもうひとりのギタリスト、ジェフ・ベックもいて、彼もジミの演奏から警告を受け取った。(略)

ジミはロンドンに来てからたったの八日で神に会い、彼を打ちのめした。

次回に続く。

ジミ・ヘンドリクス 鏡ばりの部屋 その2

前回の続き。 

ブルースを学ぶ

 九月にビリー・コックスが除隊になると、コックスとジミはフルタイムで音楽活動を始めた。

(略)
 ジミは並はずれてハンサムで、礼儀正しく、話し方は穏やかで、あきらかに才能があり、そしてもちろん、一文無しだった。ジミは自分が貧乏だということを最大限に利用した。貧困を救済のシナリオに盛り込むと、多くの女性は彼を拒絶することができなかった。高校時代にはジミから活力を奪っていた彼の内気さは、大人の性的関心があからさまで、甘美に表現されることがないR&Bクラブでは、貴重な気質となった。ジミは優しく、優しさはセクシーだった。ジミが出会う女性はみな、ジミとつきあいたい、世話をしたい、泊まらせたい、そして大抵、食事と服をあたえたい、と思った。

(略)

 ナッシュヴィルで一番のギタリストは、インペリアルズのジョニー・ジョーンズだった。(略)

「ジミはまだ子どもだった」とジョーンズは言う。「だけど、まるで使命をもっているようだった。ステージの真ん前に座って、俺の演奏を見ていたよ」。セットの合間に、[ギターを持たせてくれと頼み、次の週は](略)

アンプをつけたままにしてくれないか、と言い出した。(略)ジミは観客のためではなくジョーンズの音色の秘密を探ろうとするかのように、静かにギターをかき鳴らした。

 ジミはナッシュヴィルヘ引っ越したあとも、インペリアルズのショーはできる限り観に行き、ジョーンズの演奏からなにかを学ぼうとした。ジミは立派な指導者を選んだ。二十六歳のジョーンズは、ジミとの年齢差はたったの六歳だったが、ロバート・ジョンスンの後継者からギターを教わっていた。「当時、俺はすでにギターを語らせることができた」とジョーンズは言う。「ギターが語れば、あとは手紙を書いているようなもので、必要なのは句読点をつけるだけだ」。ジョーンズはシカゴにいたことがあり、フレディ・キング、マディ・ウォーターズ、T・ボーン・ウォーカー、ロバート・ロックウッド・ジュニアなどから教わった経験があった。おそらくそれよりも大きかったのは、ジョーンズが田舎のデルタ地方の貧乏な環境で育ち、そのつらい人生経験を演奏に生かしていることだった。「ジミは、レコードは聴いていたが、俺みたいな汚れた人間とふれあったことがなかった」とジョーンズは言う。「ブルースを演奏したかったら、それが必要なんだ。感情を揺さぶるような演奏をして、ファンキーじゃなきゃだめだ。ジミは、ファンキーになるほど弦を語らせることができていなかった」。

(略)

その秋、ジョーンズをとおして、ジミはかつてからの憧れの人、B・B・キングアルバート・キングに会った。「B・Bが入ってきたとき、ジミの目はばっと輝いたよ」ジョーンズは言う。「それから、アルバート・キングの近くにいたときのジミといったら、まるで天国にいるみたいだった」。ジョーンズにしたのと同じように、ジミはアルバート・キングに指使いのスタイルや、どうやって弦を水平に曲げられるのか、など質問攻めにした。普通、若いギタリストは、キングに彼の演奏がどれだけすばらしいか、褒め称えるだけだ。ジミは、ずうずうしくもキングがどうやって上達したのかを訊ねるのだった。ブルースプレイヤーは男の誇りが強く、そのような質問をすることで自分が未熟であることを認めたがらないものだ。意外なことに、キングのようなすでに地位を確立しているギタリストは、ジミに脅かされることなく、喜んで自分たちの商売の秘密を教えた。このやせっぽちで不作法な少年が、自分たちに挑戦できるほど上達することがあるとは、思いもしなかったのだろう。

 けれどもジミには深い野望があり、また自分の使命を信じていた。ジミは音楽のハンターとなり、さまざまな演奏のスタイルをすばやく吸収し、ジミに指導したギタリストたちが予想だにしない素早さで技術をものにしていった。その秋、彼らがふざけて“ヘッドハンティング”と呼んだコンテストで、ジミは師匠のジョニー・ジョーンズに挑戦を挑んだ。

(略)

 対決が始まると、ジミは圧倒的な差を見せつけられた。ジミのアンプは、ジョーンズのものほどパワーがなかったし(その教訓をジミはすぐには忘れなかった)、演奏の技術も上達していたとはいえ、ジョーンズのような洗練された深い音色は出せなかった。ジミのソロはあきらかにB・B・キングを真似しようとしたもので、観客からは失笑をかった。ジミは肩を落としてステージから降り、ジョーンズはトップの座にとどまった。

チットリン・サーキット

バンクーバーで二ヵ月過ごしたあと、ジミは南へ行く列車に乗り、ミシシッピ・デルタへもどった。ジョニー・ジョーンズの言っていた汚れを求めて。

 シアトルで育ったジミは、伝統的な南部のソウルフードを食べることは滅多になかった。それでも、バンクーバーのノラの家へ行くと(略)南部の定番料理[をつくってくれた](略)

ディナーのメインはチットリン――豚の腸――だった。この自慢料理を本格的に調理するには、五時間以上もかかり、ノラがそれを火にかけていると、腹をすかせた近所の人々が集まってくるのだった。

 南部料理のチットリンに敬意を表して名付けられたチットリン・サーキットは、最南部地方に立ち並ぶアフリカ系アメリカ人クラブをさす。(略)

「基本的に黒人の客相手に演奏できる場所は、どこでもチットリン・サーキットと呼ばれていたよ」伝説のブルース奏者ボビー・ラッシュは言う。「道沿いの居酒屋もあれば、バーベキュー屋も、ビリヤード場も、バーもあった」。

 一九六三年から一九六五年にかけて、チットリン・サーキットがジミの活動の場となった。(略)

その期間、ジミは演出の能力や、観客との対話のし方、巡業するミュージシャンとして生き残る術など、貴重なレッスンを学んだ。そして、人を楽しませるエンターティナーでいることも巡業するミュージシャンの仕事の一部だということを、深く心に刻んで忘れなかった。観客を魅了させ続けなければ、音楽がどんなに本物であろうと、関係なかった。ギグがひとつ終わるたびに、ジミはデルタの伝統を学び、彼の演奏も上達していった。

(略)

T・ボーン・ウォーカーがやっていた、ギターを背中に回した演奏から初め、それからアルフォンソ・ヤングを真似してギターを歯で演奏する芸をしてみせた。ビリー・コックスに十五メートルのケーブルを買ってもらい、ジミはこれを使ってダンス・フロアや、ときには道まで出て演奏を続けることができた。

(略)

休憩時間の練習をやめて、客とふれあったほうがいい、というアルフォンソ・ヤングのアドバイスに従った。(略)

「客に混じって、どんなやつらか知って、話しをしろ、と言ったんだ。毎晩のように観に来てくれるファンは、そうやってつくるんだ」。客と交流することで、女の子と出会うチャンスも増えるということに、ジミはすぐに気づいた。

(略)

 日中のアルバイトはしなかったが、副業としての音楽の仕事は続けた。この頃、カーラ・トーマス、トミー・タッカー、スリム・ハーポ、ジェリー・バトラー、マリオン・ジェイムズ、チャック・ジャクスン、ソロモン・バークなどのバックミュージシャンとしてツアーしていた。これらのツアーはどれも長いものではなく、ほとんどが地元のチットリン・サーキットを数日でまわるものだったが、この経験はジミにとって重要なものとなった。ジミは、報酬の高い安いにかかわらず、音楽の仕事はすべて受け、ツアーのたびになにかを学んでいった。(略)

なかでも、もっとも注目すべきはソロモン・バークとのツアーだろう。すでに伝説的なソウルシンガーで、キリスト教説教師、そしてときに葬儀屋であったソロモン・バークは体重が百十三キロもあり、声もそれに見合うくらい大きかった。トップ四十に入ったヒット曲はすでに二曲あり、ジミがバックミュージシャンをつとめた本物のスターは彼が初めてだった。

(略)

ジミの演奏はものすごくよくて、泣けてくるほどだったよ」(略)

「五日間はすばらしくうまくいくんだ」とバークは言う。「そして次のショーになると、曲に含まれていないワイルドな演奏を始める。もう、やってられない、と思った」。ある晩、ツアーバスの中で、まるで野球選手をトレードするように、バークはヘンドリクスを、オーティス・レディングの管楽器プレイヤーふたりと交換した。レディングのバンドに移ってから一週間たつと、まは同じような理由で首になった。「結局、彼を道端に残して来たんだ」とバークは言う。

ハーレム・ワールド 

 ジミが初めてニューヨークに着いたのは一九六四年初めだった。(略)

知り合いがひとりもいない町で、ジミはスモールズ・パラダイスやパーム・カフェといったようなクラブをまわって、ジャズバンドの楽団員の仕事を探した。ニューヨークでの最初の一月のあいだに、水曜の夜アポロ・シアターで開催されているアマチュアコンテストに出演して、一位になって二十五ドル獲得した。残念ながら、賞を取ったことですぐに仕事がくることはなかった。ニューヨークの音楽シーンは、その規模は大きくても、入り込むことは難しかった。クラブで、ギグに参加してもいいかと訊ねると、冷たく断られることが多かった。ニューヨークでは、ナッシュヴィルより門戸が広いことを期待していたが、ハーレムのシーンは非常に狭いのだということがわかった。認められているジャンルはR&B、ジャズ、ブルースだけで、それも過去の巨匠たちのスタイルに忠実に従って演奏された。「ハーレムの黒人はロックンロールなんて聴きたがらなかった」タハーカ・アリームは言う。「ドレスコードもあって、服装とサウンドがまちがっていれば、まわりから疎外された。ニューヨーク・シティのほかの地域と比べると、ハーレムはまるで別の惑星だった。

アイズレー・ブラザーズ

[ガールフレンドの]フェインに連れられてジミはアポロ・シアターへ行き、彼女の昔の恋人のひとりであるサム・クックに会って、雇ってもらえないかと訊いた。サム・クックにはすでにギタリストはいたが、ジミは訊けただけでも勇気を得た。一九六四年二月、アイズレー・ブラザーズが新しいギタリストを探していると聞いたときから、ジミに運がまわってきた。初めて彼らに会ったのは、一九六四年二月九日、ニュー・ジャージー州の彼らの家でだった。その晩、テレビの『エドサリヴァン・ショー』にはビートルズが出演していた。ジミとアイズレー・ブラザーズは、その出演がアメリカを変え、ロックンロールがその後のヒットチャートを支配するようになるとは思いもせず、一緒にテレビを観た。

 三月、ジミはアイズレーのバンドの一員となった。初めてのレコーディングは「テスティファィ」で、そこそこに売れた。春のツアーではチットリン・サーキットを巡って東海岸のあちこちへ行き、バミューダまでも行った。バンドが夏にニューヨークへもどると、ジミもまた彼らとスタジオレコーディングに入り、いくつかのシングルの録音をおこなった。そのうちの一曲「ザ・ラスト・ガール」にはバックヴォーカルとしてディオンヌ・ワーウィックをフィーチャーしている。

ティーヴ・クロッパー

[バンドの規律にうんざりして]ジミは辞め、ゴージャス・ジョージ・オーデルの短いツアーに参加し(略)

メンフィスにいるときの休日に、ジミはレコード会社、スタックス・レコーズへ立ち寄った。愚直さと大胆さ、半分半分でジミは会社の正面玄関から入り、自分はこの地ヘツアーで来ているギタリストで、スティーヴ・クロッパーに会いたいのだ、と言った。

(略)

立ち入り禁止にしたスタジオのなかにいた。クロッパーは、追い返せ、と言った。仕事が終わったのは六時だった。クロッパーがスタジオから出ると、秘書が「あの男がまだ待っています」と伝えた。ジミは一日中待っていた。

(略)

ジミは非常に礼儀正しく、そしてクロッパーのディスコグラフィーをすべて知っていた。自分の経歴を聞かれると、謙遜して「ギターを少し、ニューヨークやほかのいろんな土地で弾いています」と言った。レコーディングの仕事をしたことがあるのか訊ねられると、シミはアイズレー・ブラザーズのレコードと、ジミが初めてレコードでフューチャーされてトップ四十に入ったドン・コヴェイの「マーシーマーシー」をあげた。クロッパーは感心した。「あれを弾いたのは君なのか? あれは俺のお気に入りの曲だよ。君に会えて光栄だ」。

 クロッパーは、あきらかに才能のある若いファンを気に入って、ジミを食事に連れて行った。「結局、スタジオに彼を連れて行ったんだ。何時間も話して、いくつかのリフを見せてやったよ」。シミはクロッパーのギターを使って「マーシーマーシー」の一節を演奏して見せた。

(略)

ヘンドリクスは、クロッパーが白人であることに驚いた。クロッパーのファンキーなギターは黒人にしか弾けない、とジミを含め多くのファンが思っていた。ある意味、ふたりとも、白人や黒人の音楽という従来の前提の枠を超えることに挑戦しようとしているアウトサイダーだった。

(略)

二十二歳になり、毎晩のようにギグをして過ごした一年でギターは上達していた。そのときの「マーシーマーシー」のイントロのギターリフは、B・B・キングのまねではなく、誰の真似でもなかった。「ファンキーだった」とクロッパーは言う。「あのリフにはなにか特別なものがあった」。

 ジミのギターが語り始めていた。

リトル・リチャード

 リトル・リチャードのアップセッターズはジミが一緒にやったバックバンドのなかでもっとも知名度が高く、非常に結束が固かった。それでも仕事はクリエイティブではなく、さらにリチャードの支配欲が非常に強く(略)

ジミにとって同じコードを毎晩のように繰り返すのは退屈だった。

(略)

[20歳のローザ・リー・ブルックスに]とてもセクシーとは言えないが真実の言葉を投げかけた。「きみは僕の母さんに似ているよ」

(略)

 一晩中、ジミはリトル・リチャードの愚痴を言っていた。リチャードから屈辱的な扱いをうけること、口説かれたこと、型にはまった音楽を毎晩弾かなければならないこと。「僕はカーティス・メイフィールドのほうが好きなんだ」ジミはローザ・リーに言った。

(略)

 ジミはその週、いくつかのローザ・リーのギグについて行き、ある晩グレン・キャンベルに出会った。ローザ・リーが驚いたことに、ジミはキャンベルのスタジオレコーディングの曲をすべて知っていて、キャンベルがビーチ・ボーイズとやった曲が好きだ、と言った。ローザ・リーの母親はレストランを経営していて、ふたりの情熱的な体の関係と同様、しばらくジミを惹きつけた。ローザ・リーによると、ふたりの関係を見たリトル・リチャードに、自分が見ているところでセックスをしてくれと頼まれたが、ジミはそれを断ったという。

(略)

三月にアップセッターズを辞めると、ジミはすぐにアイク・アンド・ティナ・ターナーのバックとして働くようになった。(略)ジミの派手なソロが「懲りすぎて、彼の立場の境界線を越えるようになった」ため、またもやジミは首になり、リトル・リチャードの元へもどった。

 三月初め、ローザ・リーは「マイ・ダイアリー」というシングル曲のレコーディングをおこない、ギタリストとしてジミを連れて行った。レコーディングには自称“初の黒人ヒッピー”、アーサー・リーも参加し、これをきっかけに、その先長く続くジミとリーの友情が始まった。(略)

B面の「ユーティー 」はアドリブだが、「マイ・ダイアリー」のジミのソロは、カーティス・メイフィールドと聴きまちがえる人がいるほどのできばえで、ジミが立派なメイフィールドの弟子であることを証明している。

エド・シャルピンとの契約 

[“バンドをもったポン引き”スクワイアーズのリーダー、カーティス・ナイトはギターを質入れしていたジミに楽器を貸している限り]

ジミを支配できることに気づいた。(略)

ナイトはジミをバンドのセンターにし、彼をスターにすると約束した。(略)

[ジミがスクワイアーズと録音した曲は、エド・シャルピンのPPXプロダクションズのために録音された]

シャルピンは、アメリカのヒット曲のカバーを次々とレコーディングしては海外で売り出すことで、レーベルのオーナーとして成功した。(略)

ジミの演奏を聴くとその才能に気づき[契約](略)

ジミが読まずに結んだ契約書によると、ジミは「三年間、制作、演奏および歌をPPXプロダノションズのためのみおこなう」ことになっていた。さらに「レコーディングは一年に三回以上おこなうこと書かれていた。報酬として、ジミは制作したレコードの売り上げの一%を受け取ることになっていた。(略)

シャル ピンは、“アーティスト”というのが、ジミを惹きつける魔法の言葉だと知っていた。自分がバックミュージシャンではなく、アーティストだと言われただけで、ジミはまるで夢遊状態だった。「自分自身の能力でアーティストと呼ばれることをとても喜んでいた」とシャルピンは言う。「なんにだって署名をしただろうよ」。

 それから八カ月のあいだに、ジミはシャルピンのためのスタジオレコーディングを二十回以上おこない、のちに裁判所が確認したところによると三十三曲の録音に参加した。

(略)

貧困や、南部をツアー中に経験した人種差別、そして寂しさで、一九六五年は母の死以来、ジミにとってもっともつらい一年だった。(略)[ブルース奏者に必要な]“汚れ”や哀愁が、ジミの身に備わった。ジミはブルースを演奏しているだけでなく、ブルースを生きるようになっていた。

「犬死はしたくないんだ」 

 当面の救済の手は、キング・カーティスから差しのべられた。(略)

[バンドにバーナード・パーディーと]コーネル・デュプリーがいたことも幸いだった。卓越したギタリストであるデュプリーと演奏することで、ジミはインタープレイを学び、また演奏に感情と魂を込めることでデュプリーのいう「脂ぎった」弾き方を学んだ。バンドの曲を学ぶのも早かった。「何年も音楽をやってきて、あんなに早く曲を覚えられるギタリストは初めて見た」とバーナード・パーディは言う。

(略)

[十六歳の家出娘で売春婦のダイアナ・カーペンターと交際開始]

ジミは「あと一年で金持ちで有名にならなかったら、気が狂いそうだ」(略)ジミは日に日に切羽詰まっていった。毎日何時間も練習し、そのために近くのクラブから借りてきたアンプを、交通費がなかったのでホテルまで四ブロック引きずって歩いた。

 ある日ジミが部屋にもどると、ダイアナが客に首を締められている場面に出くわした。(略)

これが原因となってジミはダイアナの仕事に嫌な顔をするようになった。(略)

[ダイアナが逮捕されて親元へ返されたが、再度ジミのところへ。ダイアナは妊娠し売春をやめたがジミの稼ぎでは食えず万引でしのぐ。バットを持った店主においかけられ]

ジミはたびたび激しい怒りをあらわにした。「こんなクソみたいな状況は変えなければならない。もうやってられないよ。犬死はしたくないんだ」(略)

[ダイアナと別れ白人のキャロル・シロキーと交際]

キャロルもまた売春婦だったが、街頭には立たないコールガールだった。(略)

 キャロルをつうじて、ジミはマイク・クアジーと知り合った。クアジーは西四十四丁目のアフリカン・ルームで働き “スパイダー・キング”として知られるエンターティナーだった。(略)[61年に]ライフの表紙を飾り、リンボーダンスをアメリカに広めた人物だった。一八八センチの長身で、地上から五センチの棒の下を、体を揺すりながらくぐることができた。(略)

のちにジミが世界に衝撃をあたえる行動――スカーフを巻いたり、ギターを膝の上で演奏したり、花火を使ったり――はクアジーの真似だった。

次回に続く。