Cut93年9月号 ボウイ、ジミ・ヘン インタビュー

部屋掃除の合間に古雑誌を最後に一度読み返すシリーズ。
なにがビックリって、高田延彦が4ページのアルマーニ広告モデル。すげえな、U幻想。

ヒッピー、サイケ、時代が夢見みていたもの
Cut 1993年9月 Vol.23

PETER FONDA ピーター・フォンダ
シーンから姿を消した反逆の貴公子。'73年当時のインタビュー。
DENNIS HOPPER デニス・ホッパー
ニュー・メキシコでアングラ記者に取り囲まれ大放談。
TIMOTHY LEARY ティモシー・リアリー
幻覚を追い求めて40年。狂気の科学者が語る、時代を超えた世界観。
JANIS JOPLIN ジャニス・ジョプリン
ブルースに生き、ブルースに葬られた女の、死に至までのドキュメンタリー。
JIMI HENDRIX ジミ・ヘンドリックス
ロック・ギターに革命を巻き起こした不出世のギタリスト。そのあまりにも早すぎた死
PETE TOWNSHEND ピート・タウンゼント
生き残ったロック界随一の論客、『トミー』再上演で'60年代精神の普遍性を語る。
DAVID BOWIE デヴィッド・ボウイ
あれから20年。ジギーゆかりの地、巡礼の旅に出たボウイ自らの軌跡を振り返る。

ジギー・スターダスト<2012リマスター>

ジギー・スターダスト<2012リマスター>

The Wild Boys: A Book of the Dead (Burroughs, William S.)

The Wild Boys: A Book of the Dead (Burroughs, William S.)

46歳のボウイが、ゆかりの地を再訪。

[トライデント・スタジオから、ハイプが練習したトマス・ア・ベケットへ、そこからロンドン中心部に戻り、ヘドン・ストリートへ。]
ちょっと不安げに車から出ると、路地の方に歩き出しながら呟く。「ちょっと調べなきゃならないみたいだな……何もかもなくなっちゃってるらしいや。この辺にブライアン・ウォードっていうカメラマンがいてね、確かこのビルだったと思う、で、このビルの外には電話ボックスがあったんだ……」。確かに電話ボックスはあったが、ずんぐりした、現代的なブルーのものだ。そのときはっと閃いた。ここが『ジギー・スターダスト』のカバー用写真を撮ったところじゃないか。でももちろん、すっかり様子は変わってしまっている。たとえば裏ジャケット用の撮影で使った、あの大きな赤い電話ボックス。あれはもう過去の産物だ。
 通りを歩いてきた女性がボウイに向かって優しく微笑んだ。「あなたの電話ボックス、片付けられちゃったのよ。ひどいと思わない?」と彼女が言う。(略)彼女の話によると、そのカメラマンはよそへ移ったそうだ。K・ウェスト――21年前ボウイはごみ箱に足を乗せてその看板の下に立っていた――あの会社も既にない。驚いたことに、ドアの上の古いライトは今でも残っている。だがあの有名な看板はロックンロール史に残る貴重品としてオークションにかけられ売却された。(略)
「あの看板がなくなっちゃったのはほんと残念だ」とボウイ。「みんなあれにすごくいろいろなものを読み取ってたのに。K・ウェストは“quest(探究)”を意味する暗号みたいなものに違いないって思ってたのさ。そういう神秘的な意味合いすべてが、あの中にはあったんだ」
「雨の日に外で写真を撮った」とボウイは続ける。「それから二階のスタジオヘ行って、『時計じかけのオレンジ』そっhttps://fくりのことをやった。それがインナー・スリーブになったんだ。片目にマスカラつけたマルコム・マクダウェルもどきと虫けら、その中間のどこかの感じをうまく出そうっていう考えだったんだ。ウィリアム・バロウズの『ワイルド・ボーイズ』の時代でね。あれはほんとヘビーな本だよ、70年頃に出たんだ。あれと『時計じかけのオレンジ』を折衷したものから、ジギーとスパイダースの姿かたちが組み立てられてきたんだ。
(略)
ウォードー・ストリートに出ると、彼は角に立つ高いビルを指す。そのビルの最上階に、昔ピート・タウンゼンドが住んでいた。「いつも彼が羨ましくてね。ロンドンのまん真ん中に住んでいるんだから」とボウイ。
「僕はせいぜいチェルシーのオークリー・ストリートどまりだった。シェイン・ウォークを曲がってすぐの所でね、ミック・ジャガーが住んでた。ミックと知り合ったのもまさにそのときだったんだよ」
(略)
[かつてマーキー・クラブがあった場所へ。73年末ここでアメリカのテレビ番組を収録した]
ゲストとしてトロッグスが「ワイルド・シング」をプレイし、マリアンヌ・フェイスフルはボウイとのデュエットで「アイ・ゴット・ユー・ベイブ」を歌った。ボウイは死の天使、マリアンヌはデカダントな尼僧の扮装をしていた。
「彼女は尼さんの服を着てたけど、背中は剥き出しで、黒いストッキングを履いてた」とボウイはくすくす笑いながら言う。「ビデオが家にあるよ、あれはすばらしいぜ。でもアメリカでは絶対流してくれなかった。正気の沙汰じゃないって思われたんだ。マドンナは悲しむべきだよ!」
「『ジギー』のあとは、とにかく仕事、仕事、仕事だった」とボウイ。「それで初めて気づいたのさ、自分が何を安売りしようとしてるのか。もう私生活なんてどんな形でも手に入らなくなる
(略)
クロムウェル・ロードを通ってハマースミス・オデオンへ。ボウイがスパイダース・フロム・マースとの最後のギグを行った場所だ。[73年ここで重大発表をした](略)
「このステージは最も長く僕たちの記憶に残るものになるだろう。これがツアーの最後となるだけじゃなく、僕たちはこれでもうステージをやらないから」
 ステージの前に立ち、ボウイは誰もいない観客席に向かってその言葉を繰り返す。彼の足音が床に大きく響く。そして冷えきった、人けのない空気の中で、その言葉は幽霊のような響きを帯びる。木の椅子を引き出し、彼は人生におけるあの奇妙な時期に思いを馳せた。現実と空想の境がどんどん霞んでいったあの時期。
「今になってもほんとにわからないんだ。僕がジギーを演じてたのか、それともジギーは僕のパーソナリティの肥大化した姿だったのか」とボウイは言う。「あのキャラクターによって心理的な重荷がかなりとれたのは間違いない。僕は自分に能力が足りないと思ってたし、自分をもてあましてて、自分に対して不安だったから、ほかの誰かになってしまう方が楽だったんだ。ほかの誰かになれば安心できたし救われた。それにどんなグループにも属してないっていうあの感じ。僕はいつでも何かの一部じゃなくて、その周辺にいるような気がしてた。いつでも自分が人生における壁の花みたいに感じてた。だからほんとに、ちょっとしたコンプレックスになっちゃったんだよ。いったんああいうちょっとしたパターンを自分にあてはめてしまうと、来た道を戻って、自分がどこまでそのパターンに浸かってしまったのか判断することが、ほとんどできなくなってしまう。そこヘドラッグが出てくると、ますますごちゃごちゃになってしまって、もう自分で自分にひどい心理的ダメージを与えるしかなくなってたんだ」
「ドラッグを始めたのは73年の末だった。74年にはますます弾みがついててね」とボウイは続ける。「アメリカに着いたとたんに、どかん!って感じでさ。あの頃はそりゃもう自由に手に入ったからね。コークがそこらじゅうにあった。逃れようがなかった。僕はすごく中毒になりやすい質だから、いいカモだったんだ。とにかく僕の人生はそれに支配されてしまった。ほんと完全に。ようやく76年の末から77年ベルリンに行って――皮肉なことにヨーロッパじゃベルリンはスマックの中心地だよ――クリーンになったんだ」
 ボウイのかつての妻アンジーは、著書“Backstage Passes”の中で、この時期の彼を次のように描いている。「友だちを罵るし、言ってることは意味がまるで通らないし、人から金をしぼりとるし、まったく吸血鬼そのものだった。コーク中毒者はみんなそうだけど、完全にまっすぐ立っているときでさえ、彼の頭はいつでも酔ったようにくるくる回ってた。日の光をほとんど完全に避けて暮らそうとして、パラノイアのような世界観を抱くようになって……」
 アンジーのことに触れると、[昨年モデルのイマンと結婚した]ボウイはまるで興味がないような感じだった。「僕たちが結婚したのは、彼女がイギリスで仕事をする許可を得るためだった」とボウイ。「実際そういうのって、いい結婚の基盤とは言えないよね。それにあの結婚はすごく短い間に終わったってこと、忘れないでくれ。つまり、74年にはもう僕たちほとんど顔も合わせなかったんだ。
(略)
「僕は自分を愛してなかった。まるっきりね」とボウイは続ける。「ジギーはすごく華やかで、劇的で、巧みに作り上げられたキャラクターだった。僕は彼が申し分なく見えるようにしたかった。だから何度も鏡を見てた。でも僕が見てるのは僕じゃなかったんだ。そこに映っていたのはジギーだった。

ずっと中身はヘテロセクシュアルだった


 僕はずっと、中身はヘテロセクシュアルだったんだと思う。自分がほんとにバイセクシュアルだと感じたことは一度もなかった。ただあらゆることに手を出してたって感じでね。実際に何人かの奴と試してみるところまでいった。でも僕にしてみれば、ああいうゲイ・シーンそのものの方にもっと惹かれてたんだよ。ああいうシーンはアンダーグラウンドのものだったから。いいかい、70年代初期には、まだタブー同然だったんだ。フリー・ラブはあったかもしれない、でもあれはヘテロセクシュアルだろう。僕はああいう、生まれてきたばかりの世界が好きなんだ。ああいうクラブやああいう人々、誰にもまるで知られていないようなものすべてが好きなんだ。だからゲイ・シーンにものすごく惹きつけられた。まるで別世界みたいだった。ほんと金使ってでも仲間になりたくてね、それで入り込もうと努力したわけさ。でもああいう状態は74年くらいまでしか続かなかった。ほとんどジギーと一緒に死んでしまったんだよ。実際には、僕はバイセクシュアルという状況を借りてるだけだったんだ。現実はもっとずっと薄っぺらだったのさ。
 僕はジギーに本物の肉と血を与えたかった。それにはジギーを見つけて彼になりきるしかなかったんだ。皮肉なのは、僕がゲイじゃなかったことさ。実際やってはみたよ、でも正直言って楽しくはなかった。あれはほとんど自分を試してるようなもんでね。まるっきり僕がなじめるものじゃなかった。でもやらなきゃならないことだったんだ」(略)

ジミ・ヘンドリックス死亡直後の

70年10月15日号のローリング・ストーン誌の特集記事から

(略)エリック・バードン(exアニマルズ)によれば“遺書”を彼女宛に残していたそうだ。それは数ページにわたる詩であり、現在バードンの手元にある。
 ジミが一緒にプレイした最後の人間となったバードンは次のように言う。「詩に書いてあるのは、ジミがいつも言っていたことだけだ。その言葉に誰も耳を傾けていなかった。あれはさよならでもあり、こんにちはでもある。僕はジミがありきたりの自殺ってやつをしたとは思わない。彼はただ、出ていきたいときに出ていこうとしただけなんだ」
(略)
[ジミは水曜の晩にロニー・スコッツ・クラブでバードン・アンド・ウォーと一緒にジャムった]
「一年くらい調子悪かったんだよ」とバードン。「でも火曜日は落ちついた感じだった。クラブに来て、明日の晩一緒にやってもいいかって言うんだ。それで16日にやった。最初のうち彼のプレイはアマチュアみたいで、ほんとひどかったよ。ステージ・パフォーマンスで隠そうとしてたけどね。でもソロに入ったらよくなってきて、オーディエンスも本気で耳を傾け始めた。それからいったんステージをおりて戻ってくると、バックで『タバコ・ロード』をやった。あの曲が最後になった」(略)
 バードンによれば、ジミは死ぬ一週間前、マネージメントを変えるつもりだと語ったと言う。
「何度も何度もマネージャーのことで不満洩らしてたね。言っとくけどそれは事実だ」と、バンド・オブ・ジプシーズでジミとプレイしていたバディ・マイルズは言う。
(略)
チャンドラーはひと目でジミに夢中になった。だがジミの方は自分の音楽的才能にも自信がなかったし、スターになれるとチャンドラーから言われてもそのまま受け取る気にはなれなかった。(略)
[チャンドラーは]ヘンドリックスを説得し、イギリスヘ行くことを承知させる。これが66年9月のことだった。
 数日後、ジェームズ・ヘンドリックス・シニアのところへ、朝の4時頃に電話がかかってきた。
「俺だよ、ジミだ。今イギリスにいるんだよ」。電話の向こうの声が言った。「ある人たちに会ったら、俺を大スターにしてやるって言うんだ。名前はジミに変えた」
 父親は驚き、どうして名前を変えたのかと尋ねた。するとジミは、“とにかく違った感じ”がするからだ、と言う。ヘンドリックス・シニアは、そのときジミに言ったのを覚えている。ほんとにロンドンからかけているのなら、電話代がすごく高くつくじゃないか、と。そしてどちらも泣き始めた。「ふたりともすごく興奮してたんで、私は再婚したことを言うのさえ忘れてしまった」とジミの父は言う。
(略)
 ニューヨークを離れてから一ヵ月半、トリオを結成して4日後に、ジミはパリのオランピア劇場に出演。(略)
 「(略)あそこはヨーロッパで一番でかいところだ。反応はすごくよかった。やったのは4曲。頑張ったんだ。やれることは何でもやった。あのときの曲はドイツで一回やったきりだったんだけど。『ミッドナイト・アワー』『ダンス天国』『エブリワン・ニーズ・サムワン・トゥ・ラブ』、それに『リスペクト』」
(略)
 68年初めにシアトルヘ凱旋したとき、ジミは名誉市民となり、ガーフィールド・ハイスクールから名誉終了証書を与えられた。父親は紫のベルベット・ケープに極彩色のシャツというジミの姿を見て呆然とした。ジミがこれほどのビッグ・スターになっていたかを知らなかっただけでなく、父親にとっては、おとなしい服装の、静かで内気な息子しか記憶になかったのである。(略)
[ステージではロックスター]だがオフステージでの彼は、昔と同じように静かで、少年らしさの消えない、傷つきやすいジミ・ヘンドリックスだったのである。
 その二面性がますますはっきりしてきたのは69年、彼にとっては最も収穫がなかった年だ。ヘンドリックスはどんどん無口になって引きこもりがちになり、そしてエクスペリエンスは解散した。
(略)
ジミは、69年の夏ほとんど世間に姿を見せなかった。軍隊での古い友人ビリー・コックスがジミの新しいベース・プレイヤーになることが発表され、ミッチェルはそのまま残留。ジミはこの夏をほとんどミュージシャンの集まりである「エレクトリック・ファミリー」――昔ながらのブルースマンから、アヴァンギャルドなクラシックの作曲家まで――と共にニューヨークの郊外で過ごした。(略)彼によれば、この新しい「ファミリー」がこれからやっていくものは「スカイ・チャーチ・ミュージック」(これよりうまく言い表す言葉がないそうだ)だという。そしてこのグループではジミ以外のシンガーやソングライターを使うことになるだろうとも彼は言っていた。
 「もう道化役はやりたくない」と、ジミはあるインタビュアーに語っている。「俺はロックンロール・スターになんかなりたくないんだ」
 だがこの音楽で結ばれた家族はうまくいかなかった。ジミは大晦日フィルモア・イーストで再びオーディエンスの前に姿を見せる。コックスがベース、それに昔なじみのバディ・マイルズがドラム。これがバンド・オブ・ジプシーズだった。
(略)
気楽にギターを弾いていた。例の派手なステージ・プレイは少しも見られなかった。
 だがほんの数週間後、彼はマディソン・スクエア・ガーデンでのコンサートで二曲目の途中ギターを置き、「あんまりうまくいかない」と言うなりステージをおりてしまった。彼はこの新しいグループに落胆していた。とにかく音楽が違うのだ。そしてほどなくもとのエクスペリエンスが復活する。
 当時行われたインタビューで、ジミはジプシーズでのいきさつを語っている。「気分を変えて、ギターをもっと大事にしようって思い始めたのかもしれないね。まあ第一段階が終わったようなものかな。マディソン・スクエア・ガーデンは、長くて盛大なおとぎ話の終わりだったんだろう。すてきなおとぎ話だった。かなうかぎりの、最高の結末だと思うよ。
 バンド・オブ・ジプシーズは、俺にしてみればすばらしいものだったんだ。ただ……“題目”が変わってきたっていうのか、そんな感じだ、ちゃんと言えないけどさ――よくわかんねえ。俺すごく疲れちゃったんだよ。な、これはどうだとか、あれはどうだとか、頭の中でいろいろ考えてると、すごく変なときにがつんとやられることってあるじゃないか。それがたまたま平和集会のときだったりするわけさ、な? そういうときに、俺は今まで経験したこともないようなでかい戦争をやってるんだよ。俺の人生で。俺の中でだよ。戦争するにはいい場所とは言えないだろうぜ」(略)
[だが再結成したエクスペリエンスの関係は修復できなかった](略)
[死の直前のインタビューで]
アメリカで俺の存在が薄れかけてたとき、もうイギリスじゃ俺なんか完全に消えてるんだろうって思ってた。(略)」
[だが]自分が間違っていたのがはっきりして、ジミは嬉しかった。ヨーロッパでもまだみんなは彼を好きなのだ。そしてこのインタビューは彼の強い言葉で終わっている。「俺は幸せだ、きっとすべてうまくいくよ」
 ジミは言っていた。「……未来を考えてる。今この時代の音楽――ビートルズがはなばなしく始めた音楽――それはもう終わりに来てるんだと思うんだ。何か新しいものが出てくるはずだ、そしてそこにはジミ・ヘンドリックスがいるはずなんだ。
 俺はビッグなバンドが欲しい。ハープ3台にバイオリン14台とかいうんじゃねえ。才能のあるミュージシャンばかりのビッグ・バンドってことだ。俺はそいつらを率いて、そいつらのために曲を書く。そしてその音楽で、俺たちは地球や宇宙を描き出すんだ。聴いたみんなをどこかへ連れていけるように。
 人の心の中に新しい感覚を開くような音楽を作るのさ。みんなもう待ち構えているんだよ。みんな俺みたいに儲けて家に戻っていき、そして次の旅に備えるのさ。
 音楽っていうのはすごく大切なものなんだよ。俺はもうポップや政治的なクズを掘り返すことはしない。あれはもう古いんだ。あれは誰かの個人的な意見だったのさ。政治ってのは時代遅れだ。誰だって赤んぼ抱いて母親にキスしながら、あれはいかしてたって言うことはできる。でもそれを音楽でやることはできないだろ。音楽は嘘をつかない。誤解されることがあるのは認めるけど、音楽そのものは嘘つかないんだ。
 世界に大きな変化があれば、たいていそれはアートか音楽が起こした変化なんだよ。音楽は世界を変えるんだ。
 しばらく我慢して、この30年の間に身につけた音楽的なものをかき集める。そしてそういうアイディアをすべて混ぜ合わせると、新しい形のクラシック・ミュージックができるんだ。すべてを理解するには少しかかるだろうけど、いずれはわかってくるのさ。
 俺、ストラウスとワーグナーが気に入っててね――あれはいいよ、ああいうのが俺の音楽のバックグラウンドになってくると思う。その上にふわふわ浮かんでるのがブルース――今でもブルースはよくやってる――それから西部の音楽と、気持ちいいアヘン・ミュージック(自分のアヘンは自分で持ってくること)、そしてそういうものが混ざり合ってひとつになるんだ。
 ドラッグ・シーンはもう最後の段階に来てるんだよ。ドラッグはみんなの心の中にいろんな新しいものを生み出した。そしてみんなにとても扱えないようなものを与えてしまったんだ。音楽にはその代わりができるのさ。だからドラッグなんて何にもいらないんだよ。
 “しびれる”って言葉は今だって生きてるよ。みんな人をしびれさせたいと思ってる。でも酔わせるようなものをやるだろう、するとみんながぼうっとしてる間に、抜けてるものを埋める何かが出てくるんだ。それが音楽の完璧な形になるはずだよ」(略)

山下達郎コラム

[超忙しいという話から始まり]
(略)『ビッグ・ウエイブ』というアルバムの時などは、レコーディング・スケジュールが超タイトで、朝の7時から歌を録音したなんて事もあった。(略)
朝の7時でも歌入れがやれてしまうノドのおかげで、今迄一度も仕事を「トバ」さないで済んでいる。その結果、私のスタッフは「アイツなら徹夜でも歌入れが出来るからダイジョーブ」などと、長年の実績(?)にドイツもコイツも妙な安心感を持つようになってしまい、こちらがどんなにヒ一ヒー苦しんでいても、ちっとも真剣に受け取ってもらえない。
 考えてみれば若い頃からノドだけは因果と丈夫で、22-3の頃は、レコーディングやライブで声が「嗄れる」などという事は、考えた事もなかった。
 今までで一番強力だったのは、22才の時に大瀧詠一氏のアルバム『ナイアガラ・ムーン』のレコーディングに付き合った際の「3テツ」。しかも2日目にはライブで歌い、3日目には車を運転して富士山麓にある「白糸の滝」に滝のSEを録りに行くという豪傑ぶり。その時に録音した滝の音は、アルバムの冒頭と最後の部分でゴーゴーととどろいている。
 さすがに3日も徹夜という状況では、意識はモ〜ロ〜。ハッと我に返ると、数分の間立ったまま眠っていたという世界。それでも歌う声には何の影響も出なかったのだから、我ながらどうなってるんだと感じたものだった。
 さすがに最近は年齢の事もあり、それ程極端な無理はきかなくなってしまったが、レコーディングに関しては、7〜8時間ぶっ続けのコーラス・ダビングなどは今でも日常茶飯事。さて、いつまでこれが続けられるか。
(略)
 加えて最近は、タバコをやめたおかげか、この前の91-92年のツアーでは、「体が声について行けない」ほど調子がよく、「これならこの先60でも70になってもツアーがやれる」などと、またまたスタッフを喜ばせる(?)結果となってしまった。さて、これもいつまで続けられるか。(略)