前回の続き。
ウッドストック
ジミとバンドが空港へ着いたときは、雨のためにヘリコプターは飛べない状態だった。(略)
[一緒に足止めをくらったCSN&Yらと強奪したトラックで会場へ]
のちにニール・ヤングはNME誌に、コンサートよりも空港での光景のほうが記憶に残っている、と語った。「ヘンドリクスと一緒にトラックを盗んだのは、僕の人生のなかでも思い出深い一件だよ」とヤングは言った。
バンドが会場に着くと、ショーは三時間遅れていると伝えられたが、実際、進行は九時間遅れていた。主催者側は、観客のノリがいい真夜中に演奏することを提案したが、ジェフリーはジミがフェスティバルの最後を飾ることにこだわった。ジミとバンドメンバーは、ステージから数百メートル離れた小屋でその夜のほとんどを、出番を待ちながらマリファナを吸ったりアコースティックの楽器を弾いたりして過ごした。ヘンドリクスの前の出演者はシャナナで、理想的とはいえなかった。出番の前から、ジミはフェスティバルの主催者と言い争っていた。ジミは二曲アコースティックで弾きたかったが、主催者はそれを許可しなかった。
「みなさん、ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンスです」とジミが紹介された頃には、月曜の朝八時半になっていた。観客のほとんどは夜のうちに帰ってしまい、ジミのショーに残っていたのは四万人ほどだったが、客がまばらなことはそれほど問題ではなかった。
(略)
映画『ウッドストック』では、朝日がジミのショーにいい効果をあたえている。
(略)
白いストラトを持って登場したジミは、バンド紹介に納得がいかず、訂正するのに数分を費やした。「ああ、えーっと、よく聞いてほしいんだ。訂正したいことがある。俺たちはエクスペリエンスでいることに疲れて、ときどき精神的に参っちまうこともあった。だから、すべてを変えて『ジプシー・サン・アンド・レインボーズ』という名にしたんだ」。それからジミは五人編成のバンドを紹介した。ジミがしゃべっているあいだに、ひとりの客が叫んだ。「ジミ、ハイになってるか?」
ジミはそれを無視して続けた。「オーケー、チューニングするから一分半くらい待ってくれよ。リハーサルを二回くらいしかしていないから、リズムが基本の曲しかやらないけど、どうせ朝日を浴びてるんだから、大地から始めようじゃないか。それってリズムだろ?わかる?そこに女をたすと、それがメロディになるんだ、そうだろ?俺はもってるぜ」そこでカウントを始め、ジミは「メッセージ・トゥー・ラヴ」を弾き始めた。その後、十五曲が続き、ジミのキャリアでもっとも長い二時間のショーとなった。
ウッドストックでのジミの演奏は、流動的で奔放で、リハーサルが足りていないことが表れていた。ステージに上がる前に、八曲の演奏曲のリストを作ったが、実際に演奏したのはその半分だった。
(略)
「どの曲も本当にいい演奏にはならなかった」と、のちにミッチは自叙伝に書いた。「僕たちの演奏は、ただの長いジャムセッションだった」。ジャムだったとはいえ、ジミの繊細なギターソロにあわせてラリー・リーが歌ったカーティス・メイフィールドのカバー「ジプシー・ウーマン」など、そのうちの何曲かはすばらしかった。客の多くはジミが歌わなかったことに落胆し、ラリー・リーが作曲した「マスターマインド 」など、誰も知らない曲も多かった。ジミと、それ以上にラリー・リーがチューニングで苦戦したことも、バンドの演奏にいい影響はあたえなかった。ある時点でジミは冗談で言った。「チューニングがずれたまま、ものすごく静かな音でやるしかないな」
ショーが進むにつれ、観客が減っていくことに対して、ジミはなにか言わずにはいられなかった。「帰りたけりゃ、帰ってもいいよ。俺たちはジャムしてるだけだから。オーケー?帰らないなら、手拍子でもしてくれるかな」。そう言い終わると、ジミは「星条旗よ永遠なれ」の前奏を弾き始めた。この曲は一年前からジミのレパートリーに入っていて、三十回近く演奏したこともあったが、フェスティバルに残った四万人ほどの観客、そして、のちに映画を観た人々にとって、フェスティバルを象徴するものとなった。「そのとき私は、ドラッグで具合が悪くなった人を看病するテントで、看護師として働いていたの」とローズ・ペインは言う。「すべてが止まったようだった。もし、それ以前に誰かが『星条旗よ永遠なれ』を弾いていたら、みんなブーイングしたと思うわ。でも、それ以降、それは“私たちの歌”になった」。ニューヨーク・ポスト紙のポップ評論家、アル・アロノウィッツはさらに熱狂的だった。「それは、ウッドストックでもっとも感動的な、そしておそらく六十年代で最高の瞬間だっただろう。人々はようやくその曲の意味を理解し、政府を憎みながらも国を愛することができるのだと悟った」
(略)
[三週間後の記者会見では]
「僕たちはみな、アメリカ人だ。(略)行け、アメリカ!って応援するようなものさ。(略)僕たちの演奏は、アメリカの今の雰囲気そのままなんだ。今、アメリカは少し雑音が混ざっている感じだろう?」(略)
だが結局、ジミの陸軍を支持する姿勢や、彼自身の政治的信念は、ほとんど問題にされなかった。ジミの弾いた曲が六〇年代の時代精神の一部となり、反体制のスローガンとして永遠に映像のなかにとらえられることとなった。
ディランとの邂逅
ジミの記憶が正しければ、ディーリング・ハウの話とは矛盾している。その秋のある日、ハウとジミがニューヨーク市の八丁目を歩いていると、道のむかいにいるある人物に気がついた。「おい、ディランだよ」 ジミは興奮気味に言った。「会ったことがないんだ。話しに行こうよ」。ジミは「おーい、ボブ」と呼びかけながら、道へ飛び出した。ジミの熱意に気後れしながらも、ハウはジミのあとに続いた。「ディランも、誰かが彼の名を叫びながら道を走って渡って来るのを見て、すこし不安になったんじゃないかと思うよ」とハウは言う。ディランはジミに気づくと、気を緩めた。ジミの自己紹介はおかしなほど謙虚だった。「ボブ、そのー、僕も歌手なんだ。えーっと、ジミ・ヘンドリクスっていうんだけど……」ディランは、ジミのことを知っているし、「見張り塔からずっと」や「ライク・ア・ローリング・ストーン」のカバーも大好きだ、と言った。「俺の曲を、あれほどうまく歌ってくれる人はほかにいないよ」とディランは言った。ディランは浮かれ顔のジミをその場に残し、足早に立ち去った。「ジミは有頂天だった」とハウは言う。「ボブ・ディランが自分のことを知っていた、というだけで。僕が見たところ、ふたりが初対面だったのはあきらかだった」この道端での偶然の出会いが、唯一確認されているふたりの直接の出会いだが、それぞれの私生活でお互いに賞賛の気持ちを抱き続けていた。その両方の広報を担当していたマイケル・ゴールドスタインのところに、ディランのマネージャー、アルバート・グロスマンから電話があり、ふたりの会合を希望してきた。グロスマンは、ジミがカバーしたい曲はないか、とディランの未発表曲が収められたオープンリールのテープを渡した。「ボブは、ジミに自分の曲を歌ってもらうことが本当に気に入っているんだ。ここに新しい曲がたくさん入ってる」とグロスマンは言った。ジミは結局そのなかから選んだ三曲をレコーディングしたが、それは、印税が入らないカバー曲をジミが歌うことを嫌うマイケル・ジェフリーを激怒させた。
ジミはディランに畏敬の念を抱き続けたが、ミック・ジャガーはその反対の影響をもたらした。ディーリング・ハウはジャガーとも親しく、彼のペントハウスのマンションはジミとミックを中心とした夜中のジャムセッションの会場となった。ディヴォン・ウィルスンは、グルーピーとして獲得したスターのリストにジャガーを加えることに成功していて、それがいくつかの気まずい場面の原因となった。(略)
「ディヴォンは、ジミの目の前でミックと腕を組むことを楽しんでいた。ディヴォンをめぐる対立があって、彼女はそれをこじらせることに喜びを感じていたんだ」。ディヴォンがジャガーを誘惑するのを見たあと、ジミは「ドリー・ダガー」を書いた。「女はギザギザの刃で切った血を飲む」という歌詞は、ジャガーが指を怪我したときに、ディヴォンがバンドエイドを渡さずに血を吸い取ったときのことを歌っている。ディヴォンを勝ち取ったのがジャガーだったとしても、ハウのマンションでの音楽での対決に勝ったのはジミだった。「ふたりはプライベートで、僕のマンションでジャムをした」とハウは言う。「ジミがアコースティックでブルースを弾くと、それ以上のものはなかったよ」。ジャガーも言葉を失った。その年の十一月二十七日に二十七歳になったジミは、誕生日をマディスン・スクエア・ガーデンでストーンズを観ながら過ごした。ショーが始まる前、ジミは舞台裏でキース・リチャーズと話をし、リンダ・キースから連絡はあるかと訊ねた。ふたりは、かつて激しく彼女を取り合ったことを笑った。ジミはギターを借りて弾き始めた。(略)
[場をさらわれるのを嫌い、ミックはジミをステージに上げなかった]
マイルス・デイヴィス
ジミが伝説的ジャズ・ミュージシャン、マイルス・デイヴィスに出会ったのは美容院だった。ジミの髪をやっていたのはジェイムズ・フィニーで、ジミは彼の最初のモデルとなっていた。「フィニーは、ジミで“ブロウアウト”という髪型を世間に紹介したんだ」とタハーカ・アリームは言う。「それ以前はアフロ、そのもっと前はコンクだった」。マイルスはジミの髪型を気に入り、フィニーの美容院へ通い始めた。ふたりのミュージシャンは、ガールフレンドを連れてダブルデートをするようになった。ある晩、二組のカップルはアップタウンのスモールズ・パラダイスへ出かけた。マイルスを引き連れたジミは、ようやくその店でいつも願っていたとおりの扱いをうけることができた。「店の隅のテーブルに案内された」とカーメンは言う。「そして、マリファナが吸えるように、テーブルをカーテンで囲ってくれたわ。ワインをサービスしてくれたし、BGMにはジミの曲が流れていた」カーメンは、マイルスとジミの関係を、父と息子のようだったと言ったが、お互いの仕事を高く評価していたのもあきらかだった。アリーム兄弟は、マイルスにジミの音楽でなにを聴くのか、と訊ねたことがあった。「あのすばらしい『マシン・ガン』だよ」(略)
タハーカは、同じようなスタイルをマイルスの音楽にも聴くことができる、と言った。「耳に入ってくる音じゃないんだ」とマイルスは言った。「主観から客観へもってくるものが大事なんだ。音だけじゃない」。マイルスとの友情に刺激され、ジミはジャズのレコードも買い始めたが、ジミは幅広い音楽を好み、一度にひとつのジャンルに絞ることはなかった。よく、夜遅くにコロニー・レコーズへ行き、ロックやジャズ、クラシックのレコードを棚ごと、大量に買い占めた。
僕はもうすぐ死ぬんだ
ツアーが始まって一週間もすると、ジミはすでにその単調さに飽きてきて、ウィスコンシン州マディスンのコンサートでは、酔っぱらってステージに上がった。ろれつが回らない口調で、ジミはヴェトナム戦争はアメリカの終わりだ、と言った。「気がついたら、年寄りの言うことを聞いたせいで俺たちは全員やられちまうよ」。それは、話す相手によって変わったジミの政治的意見というよりも、しだいに頻繁になっていた妄想症の表れだった。ステージ上で、マリファナタバコが欲しいと冗談交じりに言い「ルーム・フル・オブ・ミラーズ」は「ハイになりすぎて、見えるものは自分だけ、あっちにもこっちにも自分の姿だけが見える」ときのことを歌った曲だと説明した。二曲のイントロで、キリストの名を口にした。一九六九年にウッドストックで一緒に演奏したジュマ・サルタンは、ジミがよく聖書を読むようになっていた、と言う。「家にはいつもページが開いたままの状態で置いてあり、おそらく人生で初めて、注意深く読んでいた」。どんどん制御が効かなくなる自分の人生の基盤を求めて、ジミがすがれる数少ないものが、ドラッグと宗教と女性だった。マディスンでは酒に加えて、なにかを過剰に摂取し、ステージ上でのおしゃべりは自暴自棄になっていた。「イージー・ライダー」を演奏する前には、この曲は映画に影響されて書いたものだと言ったが、だらだらとまとまりのない話は、モロッコでタロット占いをしてもらって以来、よく話題にするようになった、死の運命についても触れた。「自分たちをどうにかしようとしていたんだけど、最後にはおじゃんになったんだ、俺の言っていること、わかる?それは人生のたったの1/3だったのに、そこで終わりにされて、どこかもっといい場所へ行くんだろ?そのとおりだ。そう思えないなら、今死んだ方がましだ。ああ、神よ、僕はもうすぐ死ぬんだ」
バークレイのショーを観たカルロス・サンタナは、それはジョン・コルトレーンの芸術的偉業にも値するほどだったと評価した。「早く深く弾けるプレイヤーは少ない」とサンタナは言う。「ほとんどは、早く弾けば浅くなる。だが、コルトレーンは早く深く弾くことができたし、チャーリー・パーカーも、そしてジミもそうだった」。
リンダ・キースとの再会
四年後リンダは婚約指輪をはめて、フィアンセを連れていた。ジミは謎の金髪の女性[モニカ・ダンネマン]と一緒にいた。偶然の出会いのように見えたが、実はジミはリンダのことを探していたのだった。(略)
[ずっと連絡は途絶えていたが]
その頃、ジミはよくリンダのことを考えていた。ワイト島のコンサートでは「レッド・ハウス」の歌詞を「僕のリンダはもうここに住んではいないから」に変えて歌っていた。二ヵ月前には「センド・マイ・ラヴ・トゥ・リンダ」という、リンダに捧げる歌をレコーディングしていた。スピークイージーで、ジミはリンダにギターケースを手渡し「これ、きみに」と言った。ケースのなかには真新しいストラトキャスターが入っていた。ジミがジミー・ジェイムスという名のバックミュージシャンで自分のギターすら持っていなかった頃に、リンダに買ってもらった楽器のお返しだった。ジミは、リンダが自分のキャリアに果たした役割――三人のプロデューサーにジミを見せてくれたこと――について、はっきりと礼を言ったことはなかったが、このギターは彼らの過去に対するささやかな懺悔だった。「あなたは私に借りなんてないのよ」リンダはそう言って、ギターを返そうとした。そして、フィアンセの車は小さなスポーツ・カーで、ギターを持ち帰ることはできない、とも言った。それでもジミは譲らなかった。「これをきみに返さなければならないんだ」。ジミはリンダにギターケースを渡すと、金髪の連れの手をつかみ、行ってしまった。リンダは、ギターを恋人の車の屋根にくくりつけて持ち帰った。その後ギターケースを開けると、ギターのほかに一九六六年の夏に彼女がジミに宛てて書いた手紙の束が入っていた。ジミは四年間、その手紙を保管していたようだったが、永遠にふられた恋人が、彼女にあの頃の恋愛感情の芽生えを思い出させるかのように、彼女に手紙を返したのだった。
死
[モニカが眠り、ひとり起きていた]ジミは[モニカが処方されていた]ヴェスパラックスを見つけた。クスリは五十錠残っていた。ジミは九錠飲んだ。おそらくジミは、それがアメリカの薬よりも弱いと考え、どうしても休息を必要としていた彼は、ひと掴みを飲み下したのだ。もし自殺を図ろうとしていたのなら、簡単にほとんど即死状態になるのに充分すぎるほどの四十錠を残したのは奇妙だ。
ところが実際は、ジミが摂取した九錠は、ジミの体格と体重の男性の推奨用量の約二十倍で、あっという間にジミの意識を奪うほどの量だった。早朝のうちに、ヴェスパラックスとジミの体内に残っていた酒、それから前の晩に摂取したドラッグが原因で、ジミは胃の中身を吐き出した。嘔吐物――ほとんどがワインと消化されていない食べ物――はジミの肺に入り、彼の呼吸を止めた。酔っていなければ咽頭反射で、物体を咳で吐き出しただろうが、ジミの状態は酔っぱらっているどころではなかった。もし、モニカが起きていて、ジミのあえぎ声を聞いていたら、彼の呼吸を確保することができたかもしれない。
(略)
だが、一九七〇年九月十八日朝の曇った空から、救いの天使は降りて来なかった。(略)
ジミは永遠の眠りについた。二週間前のデンマークでのインタヴューでみずから予言したとおり、二十八歳の誕生日を迎えることはなかった。(略)あと五日もすれば、ロンドンに初めてやって来てから丸四年を迎えていた。
バードンの自殺説
モニカはジミの友人とは親しくなかったが、彼が話すのを聞いたことがある名前に、絶望的な思いで電話をかけた。何本か電話をかけたあと、ようやくエリック・バードンをつかまえることができた。ジミが死んでいることは伝えずに、モニカは「具合が悪くて起きられない」とエリックに説明した。のちにバードンは、モニカに救急車を呼ぶように急かしたと言うが、それからモニカが救急車を呼ぶまでにどれくらいの時間があいたのかはわからない。記録によると、救急に電話があったのは午前十一時十八分となっている。十一時二十七分に救急車が到着する前にやって来たバードンは、ジミがすでに死んでいるのを発見すると、部屋に残されているドラッグのことを心配した。一九七〇年のロンドンのドラッグ・ヒステリーは決して甘くは見てはいけないものだった。
(略)
部屋に残されていたドラッグや、ドラッグ使用のための道具を片づけていたバードンは、前の晩にジミが書いた「命の物語」を見つけた。その歌詞を読んで、バードンはジミがみずからの命を絶ったと考えた。確かにその歌はイエスや生と死について語っていたが、それはそれまでジミが書いた多くの歌にも見られるテーマだった。(略)そこには「僕らが死ぬとき、神が側にいることだけは確かなんだ」と書かれていた。その後のバードンの行動の多くは、ジミが自殺したというまちがった前提のもとにとられ、このまちがいがジミの死をより謎めいたものにした。「初めは虚偽の陳述をしていた」とバードンも認めている。「状況が飲み込めなかったんだ。歌詞を誤って理解した。そのときは遺書なのだと確信して、それを隠さなければならないと思った。ジミはよく僕に自殺や死のことを話していたし、借金があったことも知っていた。みなに別れを告げる手紙だと思ったんだ」。バードンは、ジミとモニカの関係についても誤解していた。「この、自称ガールフレンドが、ストーカーのような存在だったとは知らなかった」。とバードンは言う。ジミが自殺したと考えたバードンは、呼び出したスタッフとともに部屋に残っていたドラッグを片づけ、みなで部屋を出て行った。救急車が到着し、救急隊員が部屋へ行くと、そこにはジミしかいなかった。モニカもほかの誰も部屋に残っていなかった。ジミの顔は嘔吐物で覆われていた。
(略)
月曜日、エリック・バードンはBBCの番組に出演し「ジミの死は意図的なものだった。望んで死んでいったんだ。幸せに死ぬために、ドラッグを使って人生から徐々にほかの場所へ移動していったんだ」と言った。このインタヴューのあと、バードンは殺害の脅迫を受け、この一回の出演があまりに衝撃的であったため、イギリスでのキャリアを永遠に滅ぼす原因になった、と感じた。ワーナー・ブラザーズ・レコーズ はジミが事故によって死亡したときのために、百万ドルの生命保険をかけていたため、ジミの事務所とレコード会社は自殺の可能性を認めなかった。検死の結果、正式な死因は「バルビツレート中毒による、嘔吐物の吸入」だった。ジミの血中からは、アルコールのほかにヴェスパラックス、アンフェタミン、セロナールが検出された。腕に針の跡はなかった。死の前、二週間のうちに摂取された麻薬は、注射されたものではなかった。驚いたことに、ジミが死亡する前日にかなりの量のマリファナとハシシを吸っていた証拠があるにもかかわらず、検死官はジミの体内から大麻を見つけることはできなかった。ジミの遺体は、安置所から葬儀場へと送られた。嘔吐物とワインで汚れた服は破棄され、葬儀屋はジミに木こりのフランネルのシャツを着せて、シアトルへ送り出した。成人してからは、ファッションの達人であったジミにとって、おそらくこれは最大の侮辱だっただろう。
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