文学王 高橋源一郎

文学王 (角川文庫)

文学王 (角川文庫)

 

小説の中の子供たち

(略)

『小鳥の園芸師』に出てくる、架空の村の子供たちは、昔話の多くがじつはそうであるように、ひどく残酷です。だが、同時にひどく懐かしい気もするのです。それは、この作品に流れる非情な感覚が、近代が成立する前のそれに底で通じあっているからなのかもしれません。

「 そこで、さくらんぼの実るころ、さわやかな金色の陽光がぼくらの体をやさしく撫ではじめると、冬の間の憂さ思う存分晴らそうと、ぼくらは木に登り、手当たり次第小鳥を摘み取っては、生きたままむしゃむしゃ食べたものである。子供のころ、ぼくはそれが大好きで、羽毛を吐き出すこともほとんどしなかった。果実を腹一杯食って丸くなり羽毛に覆われぴくぴく動くやつら、それをぼくはゆっくり時間をかけて噛みくだいたものだが、彼らの小さな嘴は、ぼくの唇の間にあってもなお、ぴいぴいと囀っているのだった」 

「いい野球小説を書くのはどうして難しいんだろう」

 SABRといったってなんのことかわからないでしょうが、これは“The Society for American Baseball Research”の略称なのであります。(略)

名前の通り、全身全霊をかけてアメリカ野球を研究する団体なわけです。(略)機関誌を発刊していて、そこで野球に関するあらゆる文献の批評を行うのです。

[『優雅で感傷的な日本野球』をクーパーズタウンにある「野球図書館」に寄贈しに行ってこの団体のことを知り]

(略)

ぼくはそこで売っていた“The SABR Review of Books"を何冊か買い、日本に帰ってから読んでいたのです

(略)

 そんな記事の中に、「いい野球小説を書くのはどうして難しいんだろう」というタイトルのエッセイがあったんです。むむ。野球小説を書いたばかりのぼくは思わず興奮してしまった。いったい、なにが書いてあるんだろうか。著者の名前はルーク・サリスベリー。プロフィルもなんにもわからない。わかっているのは、SABRの会員であるということ。あ、もう一つ。欄外の註に、著書『ベースボール教義問答――どうでもいいような疑問大全』がタイムス・ブックから近々出版予定、と書いてある。

(略)

すごい野球小説なんてあるんだろうか。SABRの会員なら、だいたい、マラマッドの『ナチュラル』を思いうかべるだろうけど、あれは本当に「野球小説」なんだろうかねえ。ぼくの考えじゃあ、「野球小説」を書く方法は三通りある。まず、その一は、リアルな設定の上に、虚構の物語をつくること。『ナチュラル』がいい例だね。その二は、虚構の設定の上に、虚構の物語をつくり出すこと。これはファンタジーを語るやり方でもあるんだけど、なかなか難しい。ぼくが「不思議の国のアリス」式と呼んでいるこの書き方の代表は、キンセラの『シューレス・ジョー』だが、こいつはセンチメンタルすぎて駄目だ。もちろん、野球に対してセンチメンタルなのはかまわない。だいたい、ぼくも含めて野球ファンという人種は、野球に向かうとすぐセンチメンタルになっちゃうもんだ。でも、キンセラは野球に対してはもちろん、文学に対してもセンチメンタルなんだ。お子様ランチだよ。このタイプでは、クーヴァーの『ユニヴァーサル野球協会』も忘れられないな。確かに、ちょっとシュールなところもあってわかりにくいけど、ゲームのエッセンスには必ずシュールなところが含まれてるからね。いい線いってると思うよ。ああ、ロスの『素晴らしいアメリカ野球』のことを忘れてた。あれはひどい。できそこないだな。リアルなところとファンタジーが混乱しちゃってるだろ。ぼくは呆れて、読むのを途中で止めたね。そして、第三のタイプ。じつをいうと、ぼくは「野球小説」に関しては、このやり方が いちばん脈があると思ってる。どういうのかっていうとだね、リアルな設定の上に、虚構の人物を配置する。ただし、コンラッドがやったみたいに、そいつはナレーターであって主人公にはしない。ほら、フィッツジェラルドが『偉大なるギャツビー』で使った手さ。あの小説のナレーターがもしギャツビーだったらどうする?想像もできないだろ。さて、この書き方を採用した小説は、っていうとエリック・グリーンバーグの『司祭』とハリー・スタインの『馬鹿騒ぎ』だ。さて、……。

 

ええ、この後、サリスベリーさんは本邦未訳のこの二作の説明と、優れた「野球小説」の書き方を講義してくれるんだけど、もうこれ以上書くスペースがない! 残念。 

優雅で感傷的な日本野球 (河出文庫)

優雅で感傷的な日本野球 (河出文庫)

 

 

跳躍へのレッスン

[訃報に接して]ぼくは本棚から鮎川氏の本や詩集を引っ張りだして読み返してみました。(略)

鮎川氏の書いたものをぜんぜん忘れていなかったことでした。

(略)

だいたいにおいてぼくは物覚えのいい方ではありません。(略)それなのに、もう長い間ご無沙汰していた鮎川氏のものは、昨日読んだばかりみたいに鮮明に思い出すことができたのです。そればかりか、中学三年の時、出版されたばかりの『鮎川信夫全詩集』を函から取り出す瞬間感じたときめきや、どこかの喫茶店にたむろしながら友人が朗読してくれた「小さいマリの歌」のことや、そのほかいろいろな、書くべきではない(この文章全部が本当はそうなのですが)ことをはっきりと思い出したのでした。

(略)

 鮎川氏が亡くなった直後、編集部から文章を求められておことわりしたのは、最初に書いたように、どうしても感想が湧いてこないような気がしたからだったのですが、少し時間がたち、現代詩読本の鮎川氏追悼号をめくっていると、ぼくは自分が哀しいようなあるいはうらやましいような視線でそれを読んでいることに気づきました。

 

「ぼくはうすらいだ自分の家の立場を思いうかべたと書き、そして以上のようないうまでもないと思えることを書きそえていくところで、戦後詩を書くことのない自分までが戦後詩の人となってそこにしっかりとゆわえられていくような妙な気分におちいっている。しかしそれは戦後詩が『上』を書いたことへの共感によるものではないのだ。逆に『上』を書いていたはずの人が、詩の生理として同時に『横』にもまみれてもいた。そこに目を開き、耳を傾けたいのである。詩を見えないものとするために。鮎川信夫の死によって、ぼくはゆっくりと戦後詩の人になっていく。誰に教わるでもなく、どこをめざすでもなく、人はそのようにあるき出すこともあるだろう」

 

 これは荒川洋治氏が鮎川氏への追悼として書かれた「ホームズの車」という文章の一節です。ぼくはこの、いつもの荒川氏のそれとは違った高い調子の、追悼文を読んだ時「ああ正しいいい方だ、そしてなんてうらやましいんだろう」と思いました。

(略)

ぼくにとって(略)現代詩とはじつは戦後詩の別称であり、戦後詩は鮎川信夫によってはじめられたものにほかなりません。同じ言語芸術の一分野でありながら「戦後文学」と「戦後詩」はまったく異なった方角を向いています。「戦後文学」は「戦後」という言説体系を規範として成立しているのに、「戦後詩」は逆にその言説と衝突しなければならなかったからです。いや、「戦後」は「戦後詩」の中にしか存在しなかったのかもしれない。

 衝突すべき「戦後」は見事に消滅しました。ぼくがその一員である「戦後文学」にははじめから衝突すべき「戦後」など存在しません。ぼくはいまでもそのことにとまどってしまうのです。どうして言葉が通じないんだろう。奇妙なことですが、そこにいると、自分だけが場違いな「戦後詩の家の人」のような気がしてくるのでした。

 おそらく鮎川信夫氏は我々皆を「戦後詩の家の人」にしたのです。「見えない」詩とはたぶん「戦後」というような余計な形容詞のつかない詩のことでしょう。しかし、限定されないものへ辿りつくために人はまず限られたところから出発しなければなりません。

 ここから先、向こうになにがあるのかぼくにはわかりません。だが、とにかくぼくはここまでやって来ました。それがどんな道筋であり、どれほど鮎川氏たちの恩恵をこうむっていたかを、書きつくすことはできません。たぶん、ぼくは鮎川氏のことをこころおきなく忘れることができるでしょうが、振り返って見た時、遙か遠く、出発地は彼だったことをどうして忘れることができるでしょう。

ほかになにもすることがなかったので

恋に落ちる話でも読んでみることにした

 スティーヴ・バーセルミの処女短篇集『そういうわけで彼は一部始終をその子馬に話してやった』の中におさめられた「ほかになにもすることがなかったので」はこういうふうにはじまっている。

 

「ほかになにもすることがなかったので、彼は恋に落ちる話でも読んでみることにした。

『この話を聞きたいかい?』彼はいった。

『いま、なんていったの?』

『だから、この話を聞きたいかいっていったのさ』

『そうね、聞きたいかもしれないわね』女は首肯くと、腕にはめたセイコーの時計を一瞥し、それからテーブルクロスの上のゴミをなんとなく指でつぶした。

『長い話?』

彼はテーブル越しに女を見た。テーブルの上にはダブル・チョコ・アイスクリームが二つとチョコ・クッキーとエクレアが一つあった。

女は喫茶店の大きな窓ガラスから外を見つめていた。

そして、彼はしゃべりはじめた」

 

 というわけで、ここから彼の話がはじまるのだが、これを読んでいるとだれでも続きを読みたくなってしまうだろう。この続きのことを書く前に、少しスティーヴ・バーセルミのことを書いてみよう。名前を見て、ははんと気づかれた読者も多いことだろうが、スティーヴ・バーセルミは去年亡くなったポスト・モダン派(略)の巨匠ドナルド・バーセルミの弟である。ドナルドには、『セカンド・マリッジ』(略)などでミニマリスト派の代表作家になりつつあるフレデリックバーセルミという弟もいたが、なんと三男までデビューしてしまった。

(略)

きわめて実験的なドナルド、ミニマルな味わいの濃いフレデリックと比べてみると、外見的には最新流行のミニマリズム(略)の作家のようにも見えるのだが、これがどうしてなんともいえないキュートな哄笑がここかしこに見つかるところなど前衛でもミニマリズムでもない「三男坊」的(?)な独自のスタイルのように思えるのだ。

(略)

典型的なミニマリストたちの作品の登場人物たちの会話が結局のところ(どんなに研ぎ澄まされたものであっても)日常感覚とでもいうべきものへ行き着いて終わるのだとしたら、スティーヴ・バーセルミの登場人物たちの会話はもう少し違った場所を目指しているといえるだろう。それはミニマリストたちの世界と対極をなしているポストモダニストたちの作品のそれとも通じているところがあるような気がするのだが、そこのところでも兄貴のドナルドの作品を思い出してしまうのはしようがないところだ。この奇妙な味を持った短篇作家がこれからどう化けるかぼくはいまとても興味を持っているのである。(略) 

スライ&ザファミリーストーンの伝説 その3

前回の続き。

『暴動』  

『暴動』が作られたのは(略)最先端の録音スタジオ、レコード・プラントと(略)三〇年代の銀幕のアイドル、ジャネット・マクドナルドの自宅(略)[で、直前の住人がママス&パパスのフィリップス夫妻だった『大邸宅』]

(略)

ジョン・フィリップスが設置したホームスタジオと、ドラッグの小さなビュッフェがあり、そして全体的に散らかっていた。スライがひと月一万二○○○ドルとも言われる家賃でこの家を借りた相手は、テリー・メルチャーという男だった。彼はドリス・ディの息子で、パーティー好きで顔が広く、ジョンやミシェル、ビーチボーイズのデニス・ウィルソン、それに女優のキャンディス・バーゲンと(略)親交があった。テリーは母親のテレビ番組や、彼女がコロムビアから出したレコードのプロデューサーとして成功し、ハリウッドの若手の派手な金遣いと気ままな遊蕩を地で行くような人物だった。テリーはデニス・ウィルソンから、元服役囚で後に大量虐殺を行うチャールズ・マンソンも紹介されている。

(略)

結果として生まれた音楽は、それ以前のアルバムの大きな魅力だった、バンドがリアルタイムで一緒に演奏しているライヴ感を欠いていた。『暴動』に入ることになる曲は、ぎゅっと圧縮され、閉じこもった空間の濃密さとの相性が良かった。こういうサウンドになったのは、テープ表面の磁性酸化物のコーティングが擦り切れそうになるくらい繰り返し行われたオーバーダビングのせいでもある。

(略)

ジョン・フィリップスのスタジオでは、邸宅の近くに駐車してあるトレーラーの中でほとんどの録音が行われた。

(略)

ラリー、グレッグ、それにフレディは、より多くの時間を北カリフォルニアですごすようになっていたので、スライは自分でベースやギターのパートを録音し、またドラムマシン使って彼がリズムを補った。

(略)

「彼はドラムマシンを導入して、それを楽器としてちゃんと活用出来た最初の一人だ」と、生身の肉体を備えたドラマーのグレッグは認める。「(略)当時のドラムマシンはラウンジ用の楽器で、ホテルのバーで使うような代物だった。だがスライはスイッチを入れると出る、チクタクっていう安っぽい音をひっくり返して、そしてだれも聞いたことのない音を作ったんだ。やつはドラムマシンのサウンドの質感を使って、とても面白い音を作り出した」(略)

スライは『暴動』のずいぶん前から、合成したパーカッションの音に惹かれていたと彼は指摘する。

(略)

スライの元にはアイク・ターナーやボビー・ウォマック(略)マイルス・デイヴィス(略)旧友のビリー・プレストンが訪れた。(略)

ボビーは『ヴァニティ・フェア』誌に語った。「みんなピストルを持っていた。スライは話をしているときも心はここにあらず、という感じだった。やつは頭が完全にやられちまって、やつのヴォーカルの番になってもピアノの上で寝転がったままなんだ。マイクをやつの頭の横に置いてやらなければいけないんだよ」マイルスはその自伝で「二、三回 (レコーディング・セッションに)行ったが、そこらじゅう女の子やコカインでいっぱいで、銃を持ったボディガードが睨みを利かせているんだ。嫌な感じだったよ。おまえとは一緒にできない、と本人にも言ったし、コロムビアにも、やつにこれ以上速く仕事させるなんて無理だ、と断ったよ。やったことといったら、ちょっとコカインを一緒に吸ったぐらいだ」

ティーヴィ・ワンダー 

[『暴動』]アルバム中の「ラヴン・ヘイト」や「ブレイヴ&ストロング」のような、思索にとんだファンク曲に対してスティーヴィ・ワンダーが彼の後年の作品、特に一九七三年の『インナーヴィジョンズ』や、一九七六年の『キー・オブ・ライフ』でどれだけの敬意を払っているかを見ても、このアルバム全体の影響力が見て取れる。特に「ポエット」のスライによるキーボードは、明らかに「汚れた街 」に影響を与えている。後者の社会批評はスライのそれよりももっと直接的だが、両者とも同じように憂鬱な雰囲気をかもし出している。スティーヴィの歌詞には、 一貫してスライの空想力あふれる英語の言葉遊びの影響がみられ、これほどの詩的な力量は ロックに限らず、他のどんな歌の分野でもめったにお目にかかれない。

『フレッシュ』 

[レコード・プラントを設立したばかりのトム・フライ談]

「スライは『フレッシュ』(の大部分)を録音し終えていたが満足していなかった。そこでトム・ドナヒューがやつに『プラントに行ってフライに会うべきだ』と助言したんだ」(略)

西海岸に移る前、彼は短期間だがニューヨークでスライと仕事をしたことがあった。「『ウッドストック』のアルバムの、彼のパートのミックスを担当した。(略)

『フレッシュ』の録音に際して、「元々あったパート全部をテープに録音し直して、その上にどんどん重ね録りしたよ。パートごとにバラバラに、一度に一つの楽器しか録音できなかったので、タイムを揃えるためにやつはリズムキングっていうドラムマシンを使ったんだ。やつはそれを『ファンク・ボックス』って呼んでいたっけ。それぞれ違うグルーヴの出るリズムが入っていたからさ。まあいってみればちょっと立派なドンカマってところかな。テンポを調節できるし、拍子を選んで、それを微妙に変化させることもできるんだ」既存のリズムエースの進化形とも言えるマエストロ・リズムキングが作り出すトーンは無機質で、本物のドラムセットの生音の質感を欠いてはいたが、独特のしなやかなグルーヴを生み出した。

「スライのレコーディングのプロセスはとても斬新だった」とトムは続ける。「彼はドンカマを使ってパートごとに録音した最初の人間だ。やつはよく全部のパートを自分で演奏したからさ」そのためにドンカマに合わせて演奏する必要があった。「もし誰か他にやつより上手にできるのならそれでも良いけど、大抵やつのほうが誰よりもうまく演奏できたんだ。やつよりうまいのは弟のフレディ以外いなかったよね」

(略)

 スライの要求に応えるため、時に困難な、だが興味深い機転も利かせなければならなかった。スタジオでの従来のやり方を破り、スライはレコーディング・ブースではなく(略)コントロール・ルームで楽器を演奏することを好んだ。「(略)これにはちょっと頭を抱えたね(略)スピーカーからの『返り』があるんだよ」スライがファミリー・ストーンと吹き込んだそれ以前のレコーディングは、標準的な方法に近いやり方だった。(略)

だがスライ単独でやり始めると、「やつはパートごとのトラックを一つひとつ吹き込んだ。やつがすごいのは、頭の中で全部のパートを合体させていることなんだ。やつは最終的な完成形がどう聞こえるか、ちゃんと想像できているんだ。だから個々のパートが何をすべきかも理解しているのさ」

 傷心のデイヴィッド・キャプラリックに代わり(略)マネージャーに就任したケン・ロバーツは、伝えられるところによると不要な経費を削減するために、プレーヤーたちを手放すようリーダーのスライに薦めたという。スライ自身はこの助言を今でも快く思っていないが、一方トムは、スライがバンドと切り離されたことの隠れた意義も見出している。スライはどんな雇われミュージシャンよりも「すべてのパートを上手に演奏できた。それに自分はどういう音にしたいか分かっているから、それを誰かに説明する必要がなかったんだ」と彼は信じている。

(略)

[「ベイビーズ・メイキン・ベイビーズ」]

「一緒に仕事しているときに、必ず曲中の一個所でやつが『こいつはすごいファンキーだ!この四小節は本当にファンキーだ!』って言うんだ。実際そうだったよ。そこでやつが『トラック全体がこんなだったら良いのに』と言うのさ。(略)

『どうにかして全部そういう風にできないか?』とやつが言うので、俺は『分からないけどやってみるよ』と答えたよ。当時二インチのテープを使っていたので、その晩は『居残り』をしてその四小節のコピーを二百ばかり作ったんだ。その後カミソリを使ってそいつらを全部切ってくっつけたよ。翌日やってきたやつは、大満足だった」

「俺が知る限りでは、あれは今で言うマルチトラック・ループが作られた最初のレコーディングの一つじゃないかな。(略)

とにかくこれは(スライが)発明したと言ってもいいものの一つだよ。

ラリー・グラハム脱退

[72年アポロ・シアターでのスライ復活ライヴ]

「フレディはアポロで失神したんだ」とパパ・バンクス(略)「俺が思うに、誰が一番ハイになれて、ぶっ飛べるのかっていうことだったらしい。フレディは常にスライの関心を惹こうとしていた。みんな他の人よりももっとハイになろうとしていたんだ」

 競い合うといえば、ラリー・グラハムは、スライと張り合って自分をより男らしく見せようしていた。バンドが結成されたその日から、ラリーはスライのリーダーとしての資質に対して疑いを突きつけており、実際、ハンサムで、ステージでの気取った立ち居振る舞い、よく響くヴォーカルと他の追随を許さないベースのテクニックを持つラリーが、観客の注目をスライから奪ったとしても驚くに値しない。裏ではローズや、フレディの妻シャロンとの情事の噂も立っていた。最終的にラリーは、荒っぽくてタチの悪そうな取り巻き連中を、自分のまわりに集めて従えるようになった。『暴動』制作時、ラリーのベース・パートは、スライが求めまた時には捨てた、数え切れないオーバーダビング用トラックの一パートでしかなかった。「スマイリン」ではスライ自身がベースを弾いている。「他のバンドメンバーたちと一緒には何も演奏しなかったよ」とラリーは『モージョ』誌にこぼしている。そして『暴動』での彼のスラップ・ベースは、明らかに以前より存在感が薄くなっていた。

 一九七二年の末、スライとラリーそれぞれの「ボディガード」同士が、ロスのキャヴァリエ・ホテルで衝突した。パパ・バンクスとその相棒のラリー・チンは、PCPでハイになっていた上に(略)『時計仕掛けのオレンジ』に触発されて、ラリーの子分、ヴァーノン・“ムース”・コンスタンとロバート・ジョイスに拳や足、それに杖を使って襲いかかったのだ。スライの部下たちはまた、ラリーを捕まえてこいと命令されていた。彼が造反しているとスライが思っていたうえに、スライの命を狙っているという噂があったのだった。こうした事態に危険を察したパット・リッゾは、ラリーと恋人のパトリスを捜し出し、キャヴァリエ・ホテルの彼らの部屋からこっそり連れ出して難を逃れさせた。後日サンフランシスコでケン・ロバーツがラリーを説得しようと試みるが、ショックを受けたラリーは命の危険に恐怖をぬぐえず、バンドに戻ることには応じなかった。

(略)

 スライは代理のベーシストとして、ラスティ・アレンを起用した。ラスティは他ならぬラリー本人によって指名されたのだった。(略)

ラスティは『フレッシュ』ですぐバンドに溶け込み、特に「一緒にいたいなら」では耳に残るベースラインをつむぎ出している。(略)

ラリーの打楽器的に弾くベースよりも、モータウンの大御所ジェイムズ・ジェマーソンのメロディックな奏法に影響を受けた新人のラスティは、二つのスタイルを巧みに融合した。(略)

「俺のは言ってみれば軽めのスラップで、親指を弦に対して垂直にして、親指の横の部分だけで、また時にはちょっとだけ爪を使って弦を叩くんだ」この効果は、サイケデリックなファンクからスタジオ仕立てのソウルへと、スライの音が変化するのに少なからず影響している。

 もう一人、本物の生のドラマーを探していたスライは、パット・リッゾの勧めで(略)アンディ・ニューマークを起用した(略)

ドラッグでぶっ飛んでベッドにうつぶせになっている(略)スライは何とか「あんたファンキーかい?」とだけ訊くことができた。アンディはそうだと答えてから、そばにあったドラムセットに座って一分弱ほど叩いた。スライがフレディに頼んだグレッグの一時しのぎの代理、ジェリー・ギブソンを外すよう決めるには、それだけで十分だった。ファミリー・ストーンの新メンバー変更の中で一番の掘り出し物だった、と多くの人がみなすアンディだが、その後デイヴィッド・ボウイやジョージ・ベンソンルーサー・ヴァンドロスと共演し、ジョン・レノンの最後のアルバム『ダブル・ファンタジー』にも出ている。

トム・フライ 

 スライは、彼が「スーパーフライ」とあだ名したトム・フライに対して、他の多くのスタジオ・スタッフよりもはっきりと尊敬と信頼を示していた。(略)

[悪い噂があったスライだが]俺のことは王様のように扱ってくれた。とにかくうまが合ったんだ。思うに俺がやつを手助けしたくて、ただ報酬のためだけにいるんじゃないんだ、ということが分かったんじゃないかな。それに、結果が気に入ったんだと思うよ。出来上がった音がね」(略)

またトムは、スライの母アルファが、子供の誰かに連れられないで家に入ることを許した最初の白人だと、スライは明かす

(略)

 そのお返しに、トムは顧客の気まぐれな要求に忠実に従いつづけた。「(略)やつがギターのパートを録っていて半分ぐらいできたところだった。そこでやつは、『あのさ、本当は新しいギターを使いたかったんだよ。問題はそれがロスにあるんだよね。ロスに行こう』」って言うんだ(略)曲を用意して、俺が『じゃあアタマからやるかい?』と訊くと、やつは『いや、前に止めたところから入れてくれ』と言うから、俺は『でも別のギターじゃないか、スライ、違った音がするよ』と言うと、やつは『いいんだ、とにかく録ろう』と言うんだ。そこで録音してみると、曲に独特の変化が起きたのさ。最初の(ギター)はとてもクリーンなサウンドで、ジャズギターみたいなんだけど、ロスのギターのほうはよりロックっぽくてもっと歪んでいるんだ。怪我の功名ってやつだな」(ギタリストとしてのスライはよく、シャリシャリ鳴るフ ェンダー・テレキャスターを使っていることで知られていたが、『暴動』の時期とそれ以降、より太い音のするギブソンレス・ポールをスタジオ、ステージともに使うようになった。

『スティック・アンド・リック』 

[アンディ・ニューマークに代わったビル・ローダン。パラマウント・スタジオでボビー・ウォーマックを待っているところにスライ一行到着、ちょっと叩いてみせて言われ]

(最初の)曲を終えたとき、 コントロール・ルームが大騒ぎになっているのが分かった。(略)スライが俺の方を向いて、『お前はファミリー・ストーンの仲間入りだ』って言った。(略)スライは当時、レギュラーでフルタイムのドラマーがいなかったんだ。やつは、スタジオとライヴ演奏の両方ができる人間を求めていたんだよ」

 スライのおかげで、彼のキャリアも前進し、テクニックも上達したとビルは言う。「やつのずばぬけたリズムのセンスをどう解釈したら良いか、教わったんだ」と。「やつはいつも俺のことを『ロード』と呼んでいた。それでこう言うんだ、『ロード、だらしなくタイトに、そしてぐじゃぐじゃでクリーンに叩いてくれ』ってね。そしてスライはドラムの後ろに座って、どういう意味なのかやって見せてくれた。それは何というか、バラバラでルーズなんだけど、ビートを置く位置はピシッとタイトなんだよ。『普通の』ドラマーがするのとは違うやり方でバスドラムとスネアのビートを配置するんだけど、聴いてみるととっても納得できるんだ。やつの音楽的センスはすごいよ。

(略)

『スティック・アンド・リック』と俺たちが名づけることになるビートを俺が考え出したときに、スライはものすごく興味を示した。(略)

そのグルーヴは、ジェイムズ・ブラウン全盛期のドラマー、ジャボ・スタークスを聴いてヒントを得たんだよ」

(略)

 エンジニアのトム・フライも、スライは音楽の革命児でありつづけ、レコード制作でよく使われる小細工を極力避けていたということをあらためて認める。「やつは本当にタイトな音を求めていた。やつは(レコーディングで)鳴った楽器の音がすっと消えてなくなるのを好み、音がいつまでもフワッと残っているの嫌った。やつはリヴァーブを過多に用いるのを嫌がったんだ。(略)

[大きな空間や洞窟の中のような残響は求めていなかった」

ジョージ・クリントン

「俺にとってやつは崇拝の対象だよ。『ダチ』だ何だっていうのとは次元が違うんだ」とジョージ・クリントン(略)「『スタンド!』を聴いたとたん、理屈抜きに打ちのめされたよ! あのバンドは完璧だった。そしてスライは、ビートルズモータウンのすべてを一つに合体させたみたいだった」

2006年秋 

 ヴァレーホの西端、国道八〇号線と平行に走る大通りの、日当たりの良い角のところに、チャーチ・オブ・ゴッド・イン・クライストに属するエヴァンジェリスト・テンプルはある。(略)

フレディ・ストーンとして知られていたフレデリック・J・ステュワートはこの教会の牧師となって二一世紀を迎え、一番下の妹(略)ヴァエッタ、別名ヴェット・ストーンはこの教会の正規の信徒だ。

(略)

[フレディは]今や教会の長老の一人としての風格を備え(略)礼拝の式服の上に肩からエレキギターを掛け

(略)

礼拝堂の前の方ではまるでライヴ直前のように、フレディのギターの音や、ドラムの若い男がパラディドル をする音が漏れ聞こえてくる。そんなフレディをキーボードで支えるべく、カーツウェルには[娘の]ジョイが、そして長兄のスライが好んで使ったハモンドB-3オルガンのところにはヴェットがスタンバイしている。

 予定どおり正午きっかりに始まった礼拝の冒頭で、「主に向かって喜びの声をあげましょう! 主よ、私たちが必要とするものが何であれ、あなたに感謝します。私たちに不必要なものが何であれ、それを取り去ってくださることに感謝します」とフレディが宣言した。

(略)

フレディも少しばかりソウルフルなギターソロのブレイクを折々に演奏し、まだその腕が健在であることを示すいっぽう、彼の妻がタンバリンを叩いてドラムを補っている。

(略)

 ロサンゼルス近郊の殺人的な暑さの丘の家から、ナパ郡の牧歌的な、そよ風の吹く高原にやってきたスライは、彼の弟と妹の一人と近しくなっただけでなく、彼の子どもたち(略)との距離も近くなった。また、もし彼がその気になりさえすれば会えるくらいの距離に、他のファミリー・ストーンのメンバー三人も住んでいた。

(略)

[マリオ・エリコ談]

スライはほとんどの日々は、何時に活動を始めるにしろ、もっぱら「音楽づけなのさ。店に乗り付けて雑貨やら服やらを買って、そうしたらもう後は家に戻る。やつはコルグ(のキーボード)を買った。一万五〇〇〇ドルぐらいしたんだぜ。もう楽器の前から離れないでさ、とにかく楽しんでいるよ。

2007年1月13日 

 一一曲目の「エヴリバディ・イズ・ア・スター」の後で、スカイラーが「なあみんな、今夜は歴史的な夜なんだ!」と観客に思い出させた。そしてついに、スターその人がステージに歩み出た。そして、恍惚としている群衆にたいしてもっともな反応をしてこう言った。「この中に果たして、俺と同じくらい年を取っている人がいるかな?」彼は、前回グラミーの式典で着けていたブロンドのモヒカンを再び着けていた。ミリタリージャケットの上にマントを羽織り、赤いスカーフをあしらっていた。サングラスが彼のぎらぎら輝く大きな目を隠している。

 続く二曲は、彼の二人の娘たちが一風変わったスタイルで熱演しスライをサポートした。

(略)

スライがステージを歩き回り、前方に出てくると、彼を愛してやまない観衆からの歓声とカメラのフラッシュに迎えられた。目に見えて嬉しそうなスライは、それに応えてタイムリーな選曲で「サンキュー」を始めようとする。彼は間違ったキーで曲の出だしを歌ったが、誰もとがめる様子はなかった。はにかんだような笑いを浮かべながら、マリオに導かれてステージを降りると、スライを待ち受けていたニールと恋人のジェニーンが祝福した。さっきまで辛抱強かった観客は「スライが観たい!」と大声で繰り返し叫んでいた。

(略)

[ヴェットが]アップテンボのゴスペル・サウンドを演奏した。するとスライがまたステージに戻り、三七年前にウッドストックで何十万もの群衆を引っぱったように、「アイ・ウォント・トゥ・テイク・ユー・ハイアー」のサビの部分で会場中の観客をリードした。その後、彼はまたステージを去った。 

 

スライ&ザファミリーストーンの伝説 その2

前回の続き。

 結成

[66年4月弟フレディのグループにビル・グラハムから出演依頼。同時期、スライはストーナーズを結成]

パワフルな女性トランペッター、シンシア・ロビンソンを擁していた。何年もの後、スライはファミリー・ストーンの結成を促してくれた人物として、ジェリー・マルティーニを挙げている。(略)

スライに、ラジオを離れて新しいバンドでキャリアを始めよう、と強く勧めた(略)

スライとシンシアは新しい方向を見出すべく、キーボーディスト兼ギタリストでベースも弾き始めたラリー・グラハムに目をつけた。

(略)

スライが初めてラリーの演奏を聴いたのは、彼の母親で歌手兼ピアニストのデルとの共演だった。(略)

[デュオになり]ラリーはオルガンとギターの両方を担当しなければならなかった。あるときオルガンが壊れてしまい、必要な低音をカヴァーするために、機転をきかせたラリーはセント・ジョージのエレキベースを借りてきて代用した。「俺は、いわゆるオーバー ハンドの正しいベース奏法を習う気なんかなかったよ。だって、すぐにギターに戻るつもりだったんだから」と後にラリーは『ベース・プレイヤー』誌に語っている。(略)

バスドラムを補うために親指で弦を叩きつけ、スネアのバックビートを出すために他の指で弦を弾く」ことにより、一つの弦楽器でそこにいない二種類のドラムの代わりをこなしたのだ。

(略)

「スライが俺のスタイルに興味を持ったのは、俺がどの白人よりもうまくジュニア・ウォーカーを模倣していたからだ。(他のやつらは皆)アート・ペッパーみたいな音を目指していたのさ」とジェリーは現在語る。

(略)

[66年12月グレッグ・エリコがストーン・ソウルズの練習のためにフレディの家に行くと兄のスライが出てきて]

『俺たち新しいバンドを始めるんだ。おまえもやらないか?』『ああ、俺だったらここにいるぜ』俺はただ冗談のつもりで言ったんだ。(略)

自分がドラマーとしては第二候補だったことをグレッグは後で知る。(略)

 その運命的な午後(略)地下室で行われた演奏の録音は知られているかぎりでは存在しない(略)

ラリーがバンドリーダーは誰になるのかという質問を切り出したとシンシアは語る。スライは自分が単独でバンドをリードするときっぱりと言った(二人のあいだの対立の芽はその後何年にもわたって残ることになる)。

 (略)

 スライは、ボー・ブラメルズのマネージャーとしてのリッチ・ロマネロの仕事ぶりに気づいており、ファミリー・ストーンでも同様の役割を引き受けてくれるよう働きかけた。

(略)

繰り返し来ていた客はファミリー・ストーンがソウルや R&B寄りのロックの素材から作る、独創的なカヴァーを楽しむことができた。「『ショットガン』や、『トライ・ア・リトル・テンダネス』のような曲をやっていたよ」とジェリー・マルティーニが語る。「会場内を歩き回って、踊りながらタンバリンを叩く。ショウ的な要素を採り入れていた」。ラリーのバリトンは、ソウルフルな「タバコ・ロード」や「いそしぎ」でのルー・ロウルズの声を効果的に再現。「だがすぐに、オリジナル曲を入れ始めた。一曲入れてはまた一曲、という感じでね」ジェリーが続ける。「時には台詞というか、ちょっとした演技の練習さえしたよ。ラリーが歌った(スライの筆による)『レット・ミー・ヒア・イット・フロム・ユー』という曲の中でのフレディとラリーのやり取りを思い出すよ。『俺の彼女が俺と別れたがっているらしいんだけど、その話はお前から聞きたい(ヒア・イット・フロム・ユー)よ』ていう風にやつらは言葉を交わすんだ。こういう個人的な話を入れたのがとても受けたよ」(この曲は後に、バンドのデビュー・アルバム『新しい世界』に含まれることになるが、イントロの語りの芝居は含まれていない)。

契約 

 ニューヨークのコロムビア・レコーズでは、チャック・グレゴリーの上司たちが、いまだにスリーピースのスーツとネクタイ姿で、タバコを大量に吸いながら目まぐるしく変化している音楽の流行に遅れまいと必死だった。デイヴィッド・キャプラリックは、(ロック嫌いで悪名高いミッチ・ミラーを引き継いで)コロムビアの全国プロモーション担当をしていたが、コロムビア傘下でロック中心のエピック・レコーズの A&R部に異動してきたところだった。

(略)

チャックはデイヴィッドを促した。「こっちに出かけてこいよ、すごいバンドと契約させてやるよ」まだコロムビア本社にいた時、デイヴィッドは伝説のオーケー・レーベルを復活させ(略)カーティス・メイフィールドをはじめとする才能を集めて、レーベルの R&B分野の層を厚くした。また彼は「ポップ・ゴスペル」なるジャンルの名付け親で、ピーチズ&ハーブをエピックと契約させた。チャックが伝える、人種混合のアンサンブルを率いる黒人DJの話は、当時四〇代前半だったデイヴィッドを魅了し、彼はサンフランシスコへ飛んだ。

(略)

「彼らの音を聴いて、ぶっとんだよ」とデイヴィッドは回想する。(略)

その後の数日数夜、スライの運転する車でベイエリアを乗り回して一緒に過ごす。「彼に私がどんな人間かをきちんと知らせたかったんだ」

(略)

[そしてスライはリッチ・ロマネロにデイヴィッドと契約すると告げ、稼ぎの一定割合を受取ることでリッチは契約解消を了承]

苦戦

ロサンゼルスでコロムビアのために収録した曲は、彼らが望んでいたようにすぐに評判になることはなかった。『新しい世界』は「玄人受けするアルバムだった」とジェリーが振り返って語る。「だから俺たちが演奏していたラスベガス以外では、大きなヒットにならなかったんだ。ヒットシングルもなかったし、ただカルト的なファン層がいただけだった」(略)

グレッグがつけ加える。「俺たちはスパゲッティの発明以来一番すごいものだと思っていたけど、(アルバムを)持っていたのはミュージシャンだけだった。全国どこに行ってもミュージシャンは誰でも持っていたが、それ以外の人は知りもしないんだ」

 デイヴィッドは、CBSの同僚たちやニューヨークの顧客たちで耳の肥えた人々のあいだで「新しい世界」が関心を引いていることを知って喜んだ。「あれが売れるかどうか自信はなかった」と彼は認める。「だがモーズ・アリソンやジョン・ヘンドリクスのような人たちがスライのことを話題にして(いた)。彼らのプロデューサーをしていたテオ・マセロから聞いたんだ。『彼らは玄人受けするミュージシャンだ』というのが、CBSの中での評価だった」デイヴィッドはバンドメンバーたちをニューヨークに呼び寄せ、そこでしばらく時間をかけて自分たちの名前を確立させるよう促し、バンドはその課題にすすんで取り組んだ。

(略)

[しかし売上はさっぱり]

コロムビアレコーズの当時の社長、クライグ・デイヴィス[回想](略)

「彼に言ったよ『まじめなラジオ局』――前衛的なFM局のことを私は言ったんだ――『が君たちの音楽をかけたがっても、その衣装や髪型のせいで敬遠されてしまうんではないかと心配しているよ』とね……スライは、『あのですね、それも含めて俺のやっていることなんですよ。誤解もされるかも知れないけど、それが俺って人間なんです』と言ったよ。彼の言うことは正しい。彼からは大事なことを学んだ。先駆者を相手にしているときは、ありのまま、その天才的才能を開かせてやるんだ」

(略)

 ジェリー・マルティーンはスライと共に[A&R担当者と会って](略)

「他の音楽をいろいろ聴かされたよ、たとえば(ソウルでの成功例)フィフス・ディメンションとかね。それで『こういう風にやってほしい』と言うのさ」(略)「スライはとても気分を害して出て行ったよ、やつの革新的なアイディアやドラムビート(理解をしてもらえなかった)のせいでね」

『新しい世界』が不成功に終わった後、「スライは俺たちの音楽をもっとシンプルなものにして、また聴く人に分かりやすいテーマを見つけなきゃいけないということを、とても意識していたよ。

(略)

デイヴィッド・キャプラリック[回想](略)

「そこで私は言った。『とにかくヒットシングルを出さなきゃだめだ。ばかばかしい繰り返しがいっぱいある歌詞の合間に、おまえたちのちょっと目新しいセリフを全部ぶちこむんだ』

(略)

 伝えられるところによると、スライは(略)アトランティック・レコードへ移籍する道を探っていた。だがアトランティックが、今のバンドを捨てて代わりに会社が選んだミュージシャンを使うことを求めたので、彼は二の足を踏む(どこかのレーベルにバンドの解散を迫られたのはそのときだけではなかった。『暴動』のレコーディングの際も同様のことが起こる)。スライはファミリー・ストーンを現状のまま保つことにこだわっただけでなく、彼の真ん中の妹、ローズをメンバーに入れてさらにその体制を強力なものにしようとした。(略)

「キーボードだけに縛りつけられるのは嫌だった(略)そしたら(スライは)『いや、ちゃんと歌も歌っていいんだ』って言うのよ。それで私は『じゃあオーケーよ』と言ったの。それで早速(略)仕事を辞めたら、次に彼は『オーケー、じゃあおまえはキーボードだ』ですって、とっても腹が立ったわ!」(略)

彼女の歌声は、スライのファンキーな中音域や、ラリーのを揺さぶるバス・バリトンと豊かに混じり合い、他では聞くことのできないハーモニーを聴かせた。

『ダンス・トゥ・ザ・ミュージック』

より一般受けする二枚目のアルバム『ダンス・トゥ・ザ・ミュージック』(略)

アルバムの大部分の録音を担当することになったのはドン・パリューズ。年齢はまだ若いものの、きちんとした音楽教育を受けていて(略)当時まだ新しかったエイト・トラックの技術を自在に使いこなせる人物だった(略)

「最初にやつらを励まして、ハッパをかけなければならなかった。アトランティックやCBS といった会社と仕事をしていてがっくりさせられるのは、まだ一つも音を録音していないうちからけちをつけられるってことだから」とドンは振り返る。「俺は、『なあみんな、そんなことは忘れちまえよ。ここはスタジオだぜ。レコードを作りに来たんだろ。別のビルにいる、スーツ姿のお偉方が何を心配してるのかって、俺たちが心配したってしかたない』と言ったよ。するとスライが『そうだ、あんたの言う通りだ。さあ、やろうぜ!』と答えた。それでやつらは録音を始めたんだが、なんといってもエネルギーがとてつもないんだ。テイクの回数は本当に少なかった。ちょっと録音しては、コントロールルームに来てプレイバックを聴きながら踊りだすのさ」

(略)

「スライが大声で指示を出す。(略)やつは自分の求めている内容を、ものの三〇秒くらいでうまくまとめて伝えるんだ。すると、やつらはまた演奏する。こっちでオーバータビングも少しはしたが、基本的には彼らがテイク全体を録音したんだ」(略)

[ドン・ウォズ談]

「初期のレコードでは、スライはオーケストレーションをどんどん進行させていった。ちょっとしたギターのフレーズが、次のパートのきっかけとなり、それがきっかけでさらに次のパートのフレーズが続くといった具合にね」

(略)

[当時]「『録音担当のエンジニアとは別のやつがミキシングするのはいやだ』と主張するバンドが増え始めた」とドン・パリューズは説明する。(略)

だからスライやシカゴ(の担当)になると、気が張ったね。彼らは音を聴いているすぐその場で、同じエンジニアがミキシングすることを要求したんだ」。(略)

「音を超クリーンにしようとしても意味がない。重要なのは音楽そのものだからだ。(略)『ダンス・トゥ・ザ・ミュージック』にはファンクがつまっていた。ワオ!どこからあんなサウンドが出るんだろう?

(略)

 フレディは、仲間のジェリーに言わせると、「誰よりも革新的なギターのスタイルをもっていた……現在のリズムギターの連中に誰のギターを聴いたか尋ねれば、フレディ・ストーンもしくはフレディ・ステュワートがトップに挙がるはずだよ。やつよりもファンキーな、いかしたリズムギターはいないよ」

(略)

グレッグはパワフルかつ自信たっぷりにリズムを推し進めつつも、ラリーが暴れて目立つところでは邪魔にならないようにした。ラリーが『ベース・プレイヤー』誌に「俺たちは決してぶつかることはなかった。もしやつが当時他のドラマーがしていたように一分の隙もなくずっと叩きっぱなしだったら、うまくいかなかっただろう。グレッグのドラムは正確無比なんだ。走ったり後ろに引きずったりなんてことがない」と証言している。

サンタナの元妻 

[サンタナの元妻]デボラ・サンタナの自伝、『スペース・ビトゥイーン・ザ・スターズ 』の中に、スライの異性関係に新たな光を投じる記述がある。伝説的ギタリスト、カルロス・サンタナと長く結婚していた(そして最近離婚した)デビーは、スライとのかつての関係について五、六章割いて記している。すべてはサンフランシスコの路上で始まった。一九六九年の夏(略)スライは、通りの真ん中で車を停め、彼より八歳年下で一八歳の魅力的な女の子と言葉を交わす。彼女はその数週間前に彼がテレビの『エドサリヴァン・ショウ』に出演していたのを観たばかりだった。数週間後にバンドがウッドストック・フェスティバルの準備のために東海岸に発ったころには、この十代の少女と、人気上昇中のロックスターとの激しくそして永きにわたる関係は始まっていた。そして、それは一九七二年春の終わりまで続くのだった

富と名声 

『スタンド!』とそれに続くレコードで手にした巨万の富を使って、スライは、一九六九年から一九七一年のあいだに、ゆったりとくつろげる豪華な司令本部を東西両海岸に建てることができた。(略)

スライがベイエリアの聴衆にむかってステージから罵倒を浴びせ掛けるというようなことが、六九年後半には起こっている。「おまえらはもうおしまいだ」と彼は驚いて立ちつくす群衆に言った。「自分はクールだと思っていたんだろうけど、その傲慢さがおまえたちをダメにしたのさ。サンフランシスコはおしまいだ、はっきり言ってね」。「彼は何も説明しなかった」と客席にいたジョエル・セルヴィンが言う。「彼はただむちゃくちゃ腹を立てていた」

(略)

新しく設立したストーン・フラワー・プロダクションのオフィスをハリウッドに構えた

(略)

[以前の悪友]ハンプ・“ババ”・バンクスは、しばらく服役した後、スライとの付き合いを再開した。旧友は富と名声によって人が変わってしまっていた。(略)

「ロサンゼルスに来てみると、やつはコカイン王だった(略)いまや、やつは好きなことは何でもできた」

(略)

[ステファニー・オーウェンズ談]

「彼は別に頼む必要も、買う必要もなかったの(略)いくらかは買ったドラッグもあったけれど、もらった分ほどではなかったわ。彼の生活すべてがドラッグで、それにすべてが音楽だった」

(略)

 別名エンジェル・ダストとも呼ばれる PCP (フェンサイクリジン塩酸塩)は、一九六九年の大晦日には早くもほかの薬物とならんでスライの LAの家に登場していた(略)

PCPは、「解離性麻酔薬」として扱われ、精神病性反応や回復不能な脳障害へのつながりも示唆されるなど、危険かつ予測不可能な作用のため、人間および動物への使用は中止されていた。だが、たとえば肉体や周囲の環境からの遊離感や痛みを感じなくなるなどといった効果のゆえに、嗜好性のドラッグとしてもてはやされ始めていた。

(略)

[ハンプ・“ババ”・バンクス談]

「(スライと)フレディは、一日中家の中をゾンビみたいに歩き回っていた(略)あそこですべてが狂ってしまったんだ」

(略)

[スターの]ライフスタイルの大部分は、将来の儲けを見越して払われた前金で賄われており(略)

「人気が出れば出るほど」スライは一九八五年に『スピン』誌に語っている。「より多くの取り巻きが現れて、そいつらが全部何とかしてくれる、と言うんだよ。それでみんなどんどん金をむしり取るんだ。たとえば旅の手配とかそういうところで儲けようとするのさ。(略)

いろんな契約を目の前に押し付けられたよ。小型ジェット機に乗ってどこかに向かっている途中でも、『次の場所に着く前に、ちょっと話があるんだけど?ここにサッとサインして』という感じで」(略)

[こうして]金のほとんどは短期間で消える。

(略)

[プロデューサーとして]

スライは、音楽をやっている一番下の妹ヴェットにちなんで名付けられたグループ、リトル・シスターを(アトランティック・レコードより)立ち上げるのに尽力した。このグループのキャリアは短かったが、しかし成功した。ヴェットの元に、高校の同級生(略)メアリー・マクリアリーとエルヴァ・“タイニー”・ムートンが加わる。一九七〇年に、リトル・シスターはスライの作による二曲、「サムバディズ・ウォッチング・ユー」(略)と、「ユーアー・ザ・ワン」によってポップスと R&B のチャートに入る。その他にも(略)ジョー・ヒックスと初期ファンクの6iXをプロデュースしている。これらの作品のなかで注目すべきは、スライがプロトタイプのドラムマシーンを初めて使用したことである。

(略)

一九七〇年(略)七月二七日のシカゴのグランド・パークでの無料コンサートは、直後に「暴動」として全米に報道され、その後何十年も語り継がれる事件となる。(略)

ファミリー・ストーンがコンサートでの演奏を拒んだ後、「数千人の若者が」警察と乱闘し、市内のループ地区を破壊して回った。「ジェネレーション・ギャップを乗り越えるために」と市が企画したコンサートは、その夏の初めの出演予定をスライがすっぽかしてがっかりさせたファンに対する、お詫びの意味もあった。だがバンドは、観衆が静まるまでコンサートを始めることを拒み、結局客は静かにはならなかった。『ニューヨーク・タイムズ』の記事ではシカゴ暴動をスライのせいにはしていなかったが、他のメディアや全国の大衆の噂では、彼の責任だという認識が広まった。

次回に続く。