スライ&ザファミリーストーンの伝説 その2

前回の続き。

 結成

[66年4月弟フレディのグループにビル・グラハムから出演依頼。同時期、スライはストーナーズを結成]

パワフルな女性トランペッター、シンシア・ロビンソンを擁していた。何年もの後、スライはファミリー・ストーンの結成を促してくれた人物として、ジェリー・マルティーニを挙げている。(略)

スライに、ラジオを離れて新しいバンドでキャリアを始めよう、と強く勧めた(略)

スライとシンシアは新しい方向を見出すべく、キーボーディスト兼ギタリストでベースも弾き始めたラリー・グラハムに目をつけた。

(略)

スライが初めてラリーの演奏を聴いたのは、彼の母親で歌手兼ピアニストのデルとの共演だった。(略)

[デュオになり]ラリーはオルガンとギターの両方を担当しなければならなかった。あるときオルガンが壊れてしまい、必要な低音をカヴァーするために、機転をきかせたラリーはセント・ジョージのエレキベースを借りてきて代用した。「俺は、いわゆるオーバー ハンドの正しいベース奏法を習う気なんかなかったよ。だって、すぐにギターに戻るつもりだったんだから」と後にラリーは『ベース・プレイヤー』誌に語っている。(略)

バスドラムを補うために親指で弦を叩きつけ、スネアのバックビートを出すために他の指で弦を弾く」ことにより、一つの弦楽器でそこにいない二種類のドラムの代わりをこなしたのだ。

(略)

「スライが俺のスタイルに興味を持ったのは、俺がどの白人よりもうまくジュニア・ウォーカーを模倣していたからだ。(他のやつらは皆)アート・ペッパーみたいな音を目指していたのさ」とジェリーは現在語る。

(略)

[66年12月グレッグ・エリコがストーン・ソウルズの練習のためにフレディの家に行くと兄のスライが出てきて]

『俺たち新しいバンドを始めるんだ。おまえもやらないか?』『ああ、俺だったらここにいるぜ』俺はただ冗談のつもりで言ったんだ。(略)

自分がドラマーとしては第二候補だったことをグレッグは後で知る。(略)

 その運命的な午後(略)地下室で行われた演奏の録音は知られているかぎりでは存在しない(略)

ラリーがバンドリーダーは誰になるのかという質問を切り出したとシンシアは語る。スライは自分が単独でバンドをリードするときっぱりと言った(二人のあいだの対立の芽はその後何年にもわたって残ることになる)。

 (略)

 スライは、ボー・ブラメルズのマネージャーとしてのリッチ・ロマネロの仕事ぶりに気づいており、ファミリー・ストーンでも同様の役割を引き受けてくれるよう働きかけた。

(略)

繰り返し来ていた客はファミリー・ストーンがソウルや R&B寄りのロックの素材から作る、独創的なカヴァーを楽しむことができた。「『ショットガン』や、『トライ・ア・リトル・テンダネス』のような曲をやっていたよ」とジェリー・マルティーニが語る。「会場内を歩き回って、踊りながらタンバリンを叩く。ショウ的な要素を採り入れていた」。ラリーのバリトンは、ソウルフルな「タバコ・ロード」や「いそしぎ」でのルー・ロウルズの声を効果的に再現。「だがすぐに、オリジナル曲を入れ始めた。一曲入れてはまた一曲、という感じでね」ジェリーが続ける。「時には台詞というか、ちょっとした演技の練習さえしたよ。ラリーが歌った(スライの筆による)『レット・ミー・ヒア・イット・フロム・ユー』という曲の中でのフレディとラリーのやり取りを思い出すよ。『俺の彼女が俺と別れたがっているらしいんだけど、その話はお前から聞きたい(ヒア・イット・フロム・ユー)よ』ていう風にやつらは言葉を交わすんだ。こういう個人的な話を入れたのがとても受けたよ」(この曲は後に、バンドのデビュー・アルバム『新しい世界』に含まれることになるが、イントロの語りの芝居は含まれていない)。

契約 

 ニューヨークのコロムビア・レコーズでは、チャック・グレゴリーの上司たちが、いまだにスリーピースのスーツとネクタイ姿で、タバコを大量に吸いながら目まぐるしく変化している音楽の流行に遅れまいと必死だった。デイヴィッド・キャプラリックは、(ロック嫌いで悪名高いミッチ・ミラーを引き継いで)コロムビアの全国プロモーション担当をしていたが、コロムビア傘下でロック中心のエピック・レコーズの A&R部に異動してきたところだった。

(略)

チャックはデイヴィッドを促した。「こっちに出かけてこいよ、すごいバンドと契約させてやるよ」まだコロムビア本社にいた時、デイヴィッドは伝説のオーケー・レーベルを復活させ(略)カーティス・メイフィールドをはじめとする才能を集めて、レーベルの R&B分野の層を厚くした。また彼は「ポップ・ゴスペル」なるジャンルの名付け親で、ピーチズ&ハーブをエピックと契約させた。チャックが伝える、人種混合のアンサンブルを率いる黒人DJの話は、当時四〇代前半だったデイヴィッドを魅了し、彼はサンフランシスコへ飛んだ。

(略)

「彼らの音を聴いて、ぶっとんだよ」とデイヴィッドは回想する。(略)

その後の数日数夜、スライの運転する車でベイエリアを乗り回して一緒に過ごす。「彼に私がどんな人間かをきちんと知らせたかったんだ」

(略)

[そしてスライはリッチ・ロマネロにデイヴィッドと契約すると告げ、稼ぎの一定割合を受取ることでリッチは契約解消を了承]

苦戦

ロサンゼルスでコロムビアのために収録した曲は、彼らが望んでいたようにすぐに評判になることはなかった。『新しい世界』は「玄人受けするアルバムだった」とジェリーが振り返って語る。「だから俺たちが演奏していたラスベガス以外では、大きなヒットにならなかったんだ。ヒットシングルもなかったし、ただカルト的なファン層がいただけだった」(略)

グレッグがつけ加える。「俺たちはスパゲッティの発明以来一番すごいものだと思っていたけど、(アルバムを)持っていたのはミュージシャンだけだった。全国どこに行ってもミュージシャンは誰でも持っていたが、それ以外の人は知りもしないんだ」

 デイヴィッドは、CBSの同僚たちやニューヨークの顧客たちで耳の肥えた人々のあいだで「新しい世界」が関心を引いていることを知って喜んだ。「あれが売れるかどうか自信はなかった」と彼は認める。「だがモーズ・アリソンやジョン・ヘンドリクスのような人たちがスライのことを話題にして(いた)。彼らのプロデューサーをしていたテオ・マセロから聞いたんだ。『彼らは玄人受けするミュージシャンだ』というのが、CBSの中での評価だった」デイヴィッドはバンドメンバーたちをニューヨークに呼び寄せ、そこでしばらく時間をかけて自分たちの名前を確立させるよう促し、バンドはその課題にすすんで取り組んだ。

(略)

[しかし売上はさっぱり]

コロムビアレコーズの当時の社長、クライグ・デイヴィス[回想](略)

「彼に言ったよ『まじめなラジオ局』――前衛的なFM局のことを私は言ったんだ――『が君たちの音楽をかけたがっても、その衣装や髪型のせいで敬遠されてしまうんではないかと心配しているよ』とね……スライは、『あのですね、それも含めて俺のやっていることなんですよ。誤解もされるかも知れないけど、それが俺って人間なんです』と言ったよ。彼の言うことは正しい。彼からは大事なことを学んだ。先駆者を相手にしているときは、ありのまま、その天才的才能を開かせてやるんだ」

(略)

 ジェリー・マルティーンはスライと共に[A&R担当者と会って](略)

「他の音楽をいろいろ聴かされたよ、たとえば(ソウルでの成功例)フィフス・ディメンションとかね。それで『こういう風にやってほしい』と言うのさ」(略)「スライはとても気分を害して出て行ったよ、やつの革新的なアイディアやドラムビート(理解をしてもらえなかった)のせいでね」

『新しい世界』が不成功に終わった後、「スライは俺たちの音楽をもっとシンプルなものにして、また聴く人に分かりやすいテーマを見つけなきゃいけないということを、とても意識していたよ。

(略)

デイヴィッド・キャプラリック[回想](略)

「そこで私は言った。『とにかくヒットシングルを出さなきゃだめだ。ばかばかしい繰り返しがいっぱいある歌詞の合間に、おまえたちのちょっと目新しいセリフを全部ぶちこむんだ』

(略)

 伝えられるところによると、スライは(略)アトランティック・レコードへ移籍する道を探っていた。だがアトランティックが、今のバンドを捨てて代わりに会社が選んだミュージシャンを使うことを求めたので、彼は二の足を踏む(どこかのレーベルにバンドの解散を迫られたのはそのときだけではなかった。『暴動』のレコーディングの際も同様のことが起こる)。スライはファミリー・ストーンを現状のまま保つことにこだわっただけでなく、彼の真ん中の妹、ローズをメンバーに入れてさらにその体制を強力なものにしようとした。(略)

「キーボードだけに縛りつけられるのは嫌だった(略)そしたら(スライは)『いや、ちゃんと歌も歌っていいんだ』って言うのよ。それで私は『じゃあオーケーよ』と言ったの。それで早速(略)仕事を辞めたら、次に彼は『オーケー、じゃあおまえはキーボードだ』ですって、とっても腹が立ったわ!」(略)

彼女の歌声は、スライのファンキーな中音域や、ラリーのを揺さぶるバス・バリトンと豊かに混じり合い、他では聞くことのできないハーモニーを聴かせた。

『ダンス・トゥ・ザ・ミュージック』

より一般受けする二枚目のアルバム『ダンス・トゥ・ザ・ミュージック』(略)

アルバムの大部分の録音を担当することになったのはドン・パリューズ。年齢はまだ若いものの、きちんとした音楽教育を受けていて(略)当時まだ新しかったエイト・トラックの技術を自在に使いこなせる人物だった(略)

「最初にやつらを励まして、ハッパをかけなければならなかった。アトランティックやCBS といった会社と仕事をしていてがっくりさせられるのは、まだ一つも音を録音していないうちからけちをつけられるってことだから」とドンは振り返る。「俺は、『なあみんな、そんなことは忘れちまえよ。ここはスタジオだぜ。レコードを作りに来たんだろ。別のビルにいる、スーツ姿のお偉方が何を心配してるのかって、俺たちが心配したってしかたない』と言ったよ。するとスライが『そうだ、あんたの言う通りだ。さあ、やろうぜ!』と答えた。それでやつらは録音を始めたんだが、なんといってもエネルギーがとてつもないんだ。テイクの回数は本当に少なかった。ちょっと録音しては、コントロールルームに来てプレイバックを聴きながら踊りだすのさ」

(略)

「スライが大声で指示を出す。(略)やつは自分の求めている内容を、ものの三〇秒くらいでうまくまとめて伝えるんだ。すると、やつらはまた演奏する。こっちでオーバータビングも少しはしたが、基本的には彼らがテイク全体を録音したんだ」(略)

[ドン・ウォズ談]

「初期のレコードでは、スライはオーケストレーションをどんどん進行させていった。ちょっとしたギターのフレーズが、次のパートのきっかけとなり、それがきっかけでさらに次のパートのフレーズが続くといった具合にね」

(略)

[当時]「『録音担当のエンジニアとは別のやつがミキシングするのはいやだ』と主張するバンドが増え始めた」とドン・パリューズは説明する。(略)

だからスライやシカゴ(の担当)になると、気が張ったね。彼らは音を聴いているすぐその場で、同じエンジニアがミキシングすることを要求したんだ」。(略)

「音を超クリーンにしようとしても意味がない。重要なのは音楽そのものだからだ。(略)『ダンス・トゥ・ザ・ミュージック』にはファンクがつまっていた。ワオ!どこからあんなサウンドが出るんだろう?

(略)

 フレディは、仲間のジェリーに言わせると、「誰よりも革新的なギターのスタイルをもっていた……現在のリズムギターの連中に誰のギターを聴いたか尋ねれば、フレディ・ストーンもしくはフレディ・ステュワートがトップに挙がるはずだよ。やつよりもファンキーな、いかしたリズムギターはいないよ」

(略)

グレッグはパワフルかつ自信たっぷりにリズムを推し進めつつも、ラリーが暴れて目立つところでは邪魔にならないようにした。ラリーが『ベース・プレイヤー』誌に「俺たちは決してぶつかることはなかった。もしやつが当時他のドラマーがしていたように一分の隙もなくずっと叩きっぱなしだったら、うまくいかなかっただろう。グレッグのドラムは正確無比なんだ。走ったり後ろに引きずったりなんてことがない」と証言している。

サンタナの元妻 

[サンタナの元妻]デボラ・サンタナの自伝、『スペース・ビトゥイーン・ザ・スターズ 』の中に、スライの異性関係に新たな光を投じる記述がある。伝説的ギタリスト、カルロス・サンタナと長く結婚していた(そして最近離婚した)デビーは、スライとのかつての関係について五、六章割いて記している。すべてはサンフランシスコの路上で始まった。一九六九年の夏(略)スライは、通りの真ん中で車を停め、彼より八歳年下で一八歳の魅力的な女の子と言葉を交わす。彼女はその数週間前に彼がテレビの『エドサリヴァン・ショウ』に出演していたのを観たばかりだった。数週間後にバンドがウッドストック・フェスティバルの準備のために東海岸に発ったころには、この十代の少女と、人気上昇中のロックスターとの激しくそして永きにわたる関係は始まっていた。そして、それは一九七二年春の終わりまで続くのだった

富と名声 

『スタンド!』とそれに続くレコードで手にした巨万の富を使って、スライは、一九六九年から一九七一年のあいだに、ゆったりとくつろげる豪華な司令本部を東西両海岸に建てることができた。(略)

スライがベイエリアの聴衆にむかってステージから罵倒を浴びせ掛けるというようなことが、六九年後半には起こっている。「おまえらはもうおしまいだ」と彼は驚いて立ちつくす群衆に言った。「自分はクールだと思っていたんだろうけど、その傲慢さがおまえたちをダメにしたのさ。サンフランシスコはおしまいだ、はっきり言ってね」。「彼は何も説明しなかった」と客席にいたジョエル・セルヴィンが言う。「彼はただむちゃくちゃ腹を立てていた」

(略)

新しく設立したストーン・フラワー・プロダクションのオフィスをハリウッドに構えた

(略)

[以前の悪友]ハンプ・“ババ”・バンクスは、しばらく服役した後、スライとの付き合いを再開した。旧友は富と名声によって人が変わってしまっていた。(略)

「ロサンゼルスに来てみると、やつはコカイン王だった(略)いまや、やつは好きなことは何でもできた」

(略)

[ステファニー・オーウェンズ談]

「彼は別に頼む必要も、買う必要もなかったの(略)いくらかは買ったドラッグもあったけれど、もらった分ほどではなかったわ。彼の生活すべてがドラッグで、それにすべてが音楽だった」

(略)

 別名エンジェル・ダストとも呼ばれる PCP (フェンサイクリジン塩酸塩)は、一九六九年の大晦日には早くもほかの薬物とならんでスライの LAの家に登場していた(略)

PCPは、「解離性麻酔薬」として扱われ、精神病性反応や回復不能な脳障害へのつながりも示唆されるなど、危険かつ予測不可能な作用のため、人間および動物への使用は中止されていた。だが、たとえば肉体や周囲の環境からの遊離感や痛みを感じなくなるなどといった効果のゆえに、嗜好性のドラッグとしてもてはやされ始めていた。

(略)

[ハンプ・“ババ”・バンクス談]

「(スライと)フレディは、一日中家の中をゾンビみたいに歩き回っていた(略)あそこですべてが狂ってしまったんだ」

(略)

[スターの]ライフスタイルの大部分は、将来の儲けを見越して払われた前金で賄われており(略)

「人気が出れば出るほど」スライは一九八五年に『スピン』誌に語っている。「より多くの取り巻きが現れて、そいつらが全部何とかしてくれる、と言うんだよ。それでみんなどんどん金をむしり取るんだ。たとえば旅の手配とかそういうところで儲けようとするのさ。(略)

いろんな契約を目の前に押し付けられたよ。小型ジェット機に乗ってどこかに向かっている途中でも、『次の場所に着く前に、ちょっと話があるんだけど?ここにサッとサインして』という感じで」(略)

[こうして]金のほとんどは短期間で消える。

(略)

[プロデューサーとして]

スライは、音楽をやっている一番下の妹ヴェットにちなんで名付けられたグループ、リトル・シスターを(アトランティック・レコードより)立ち上げるのに尽力した。このグループのキャリアは短かったが、しかし成功した。ヴェットの元に、高校の同級生(略)メアリー・マクリアリーとエルヴァ・“タイニー”・ムートンが加わる。一九七〇年に、リトル・シスターはスライの作による二曲、「サムバディズ・ウォッチング・ユー」(略)と、「ユーアー・ザ・ワン」によってポップスと R&B のチャートに入る。その他にも(略)ジョー・ヒックスと初期ファンクの6iXをプロデュースしている。これらの作品のなかで注目すべきは、スライがプロトタイプのドラムマシーンを初めて使用したことである。

(略)

一九七〇年(略)七月二七日のシカゴのグランド・パークでの無料コンサートは、直後に「暴動」として全米に報道され、その後何十年も語り継がれる事件となる。(略)

ファミリー・ストーンがコンサートでの演奏を拒んだ後、「数千人の若者が」警察と乱闘し、市内のループ地区を破壊して回った。「ジェネレーション・ギャップを乗り越えるために」と市が企画したコンサートは、その夏の初めの出演予定をスライがすっぽかしてがっかりさせたファンに対する、お詫びの意味もあった。だがバンドは、観衆が静まるまでコンサートを始めることを拒み、結局客は静かにはならなかった。『ニューヨーク・タイムズ』の記事ではシカゴ暴動をスライのせいにはしていなかったが、他のメディアや全国の大衆の噂では、彼の責任だという認識が広まった。

次回に続く。