スライ&ザファミリーストーンの伝説

フランク・アレラーノ 

 フィリピン系の父親と白人の母親との間に生まれ、音楽好きだったフランク・アレラーノは(略)

「スライ」と新しいあだ名で呼ばれ始めていたシルヴェスター・スチュワートと出会ったときのことを記憶している。スライはダンス・パーティーで、ドゥ・ワップ・グループのバックでギターを弾くことになっていた[が遅刻]

(略)

[フランクは早熟なドゥ・ワップ歌手シャーリーン・インホフと出会いヴァレーホ高校でヴィスカウンツを結成。一方スライは]黒人グループ、ザ・ウェブスで歌とギターを担当していた。フランクは、「俺たちのハーモニーは最悪だから、こいつに頼んでハモ合わせを手伝ってくれるかどうか掛け合ってみるよ」とシャーリーンに言った。このようにしてスライは、やや気乗りがしないながらも、ヴィスカウンツの一員に加えられる。またこのグループは、そう意図したわけではなかったが色々な人種で構成されていた。

(略)

[成功の兆しが見えた時、同名グループの存在が判明し、ヴィスケインズに変更]

彼らは皆、良質で柔軟な声をしており、スライは二オクターグ半の声域の中で高い声も低い声も自在に出せたし、フランクは力強いファルセットを究めつつあった。一九六一年、[『アメリカン・バンドスタンド』のサンフランシスコ版『ディック・ステュワート・ダンス・パーティー』に挑戦](略)

コンテストを勝ち抜き、地元テレビに出たのち、番組関係者の紹介でプログクションがつくようになっていた。卒業が近づくと、彼らはいくつかの四五回転シングルを出すよう勧められた。

(略)

[プロダクションの手配でロスで録音、若手だったルー・ロウルズとイヴェントに出演]

 ヴァレーホからやってきた思春期の少年少女たちにとって、ホテルに泊まってティンセル・タウン(注:ハリウッドの華やかさを表したあだ名)でレコーディングや演奏をすることはかなりの冒険だった。「私たちは泳いだし、王侯貴族のように扱われたわ」友だちのあいだでは通称「リア」と呼ばれるマリアは回想している。(略)

音楽ビジネスの底辺でよくある悲しい現実だが、ヴィスケインズは出演料の小切手をプロダクション宛に切ることを求められ、自分たちはびた一文受け取ることがなかった。ヴィスケインズのシングル「イエロー・ムーン」は一九六一年一一月一三日週のKYAラジオのトップ六○チャートで十六位にまでなり、その後も何週間かチャート上を浮き沈みしたが、その後グループは解散した。

(略)

[フランクとスライは毎日つるんで悪さをし]

「女の子を手に入れたくて」 フランクは続ける。「ダウンタウンへスライの車でよく行ったものさ。やつは五六年型のフォード・ヴィクトリアを持っていた」お金が十分あるときは、彼らは西へと脚を伸ばし、ベイブリッジを渡りサンフランシスコに行った。プレイランド・アット・ザ・ビーチ遊園地で観覧車に一緒に乗ってくれる女の子を見つけるためだ。

(略)

 スライはほとんどの人種問題を重くは受け止めなかった。(略)

 だがごく稀な機会に、六〇年代に黒人の若者として生きることがどういうことなのか、スライのより深い部分の想いをフランクと共有したことがある。後にスライが、ファミリー・ストーンの最初のアルバム中の「アンダードッグ 」の歌詞にこめた気持ちに近い。「やつが感じていたのは(略)やつが梯子を登っていて、上にも下にも人がいる。上にいる人からは押し戻され、下にいる人には引きずり下ろされる、という感覚だ。彼が闘っていたのはそういうものに対してだ。

(略)

 異人種間での交際もやはり問題になった、とフランクは記憶している。(略)

白人の女の子のほうから追ってくるんだ。彼女たちはスライにしつこくつきまとって、電話をかけるんだ。(略)

デートの約束をするまではいいんだが、時に女の子を迎えに行くことができないんだ。(略)

[代わりを頼まれたフランクが]

「『フィリピーノの俺が迎えにくるのを喜ぶ親がいると思うか、黒人のお前が行く以上に?』と俺は言ったものさ。するやつは、『でもはニガーじゃないだろう』と言うんだ。

(略)

 フランクはスライが自分とすべて共有していると思っていたが、その友人が彼の新たなニックネームにどれだけ忠実に生きていたか気づかなかった(注:Slyと「ずる賢い、狡猾な」の意)。たとえば、ロスでのスライは、作詞・作曲のモトーラとペイジとともに別行動をとって、仲間の誰にも気づかれる事なくソロのレコーディングをしている。ヴァレーホに戻ってからは、弟のフレディと、また他の仲間ともレコーディングを始め、また時々週末に(略)クラブ・バンドで演奏して楽器の腕を磨いていた。

恩師デイヴィッド・フローリック 

[スライは高校卒業後]ヴァレーホ・ジュニア・カレッジでデイヴィッド・フローリックのもと、音楽理論を学んだ。デイヴィッドとスライとのあいだには、ある種の師弟関係が生まれ、西洋音楽やインド古典音楽の歴史、民族音楽の伝統、さらには近年のジャズやポップスを学ぶことを通じて、その後多くの豊かな作品が生まれる素地が培われたのだった。後に自分のアルバムや[インタヴュー等で](略)繰り返しスライは、彼にしては珍しいほどの敬意をもってデイヴィッドの功績を称えてきた。

(略)

[スライが]「もっと勉強して、プロになりたい」と[デイヴィッドに相談してきた](略)

デイヴィッドにとって、正統派の西洋音楽の古典は生徒たちに是非知ってもらいたい宝だった。(略)

彼は昔の作曲家たちの作品を、彼の生徒たちが理解できるようにした。「プログラムの大きな部分を聴音が占めていた。バッハのルートの動きを学ぶんだ」(略)

「理論の部分は(作曲家で学者の)ウォルター・ピストンの本によるものだが、聴音はちょっと違っていた」デイヴィッドは縮小版のクラシックのスコアを配って、生徒たちが自分の聴いている音楽の構造を見ることが出来るようにした。「スライはそんなものを見たことがなかった」とデイヴィッドは指摘する。何年も後、スライがウォルター・ピストンの分厚い音楽理論の本を抱えてスタジオを行き来するのを見たと、元エピック・レコーズのスティーヴ・ペイリーは語っている。彼のポピュラー音楽に対する独自の洗練されたアプローチに、この頃の教育が明らかな影響を及ぼしたのだった。

(略)

 学習意欲あふれるスライは、講義中には繰り返し手を挙げ、[講義後は質問をし](略)クラシック音楽だけでなく彼の教師の強みであるジャズもどん欲に吸収した。 

C'mon and Swim

C'mon and Swim

  • ボビ-・フリーマン
  • ポップ
  • ¥204
  • provided courtesy of iTunes

プロデューサー稼業

 [ヴィスケインズ録音時のプロデュース力を認められオータム社と契約した21歳のスライは、64年レーベル最大のヒット曲『カモン・アンド・スイム』(ボビー・フリーマン)を生み出した]

「彼は『カモン・アンド・スイム』のアレンジでエキサイティングなブレイクを採り入れた」とアレック・パラオは、曲のダンサブルなパーカッション部分に言及している。こうしたテクニックは、後にディスコやヒップホップでしきりに多用されることになる。「今のわれわれの耳にはありきたりのパターンに聞こえるかもしれないが、(スライは)ありきたりのレコードになったかもしれないものをとてもエキサイティングなものにしたんだ。彼はグルーヴのことを熟知していて

(略)

「カモン・アンド・スイム」が初めてもたらした大金のいくらかを使ってスライは[一家を質素なベイエリア周辺部から非白人の住人を排除した]イングルサイド地区に引っ越す費用に充てた。(略)

一九五八年になってさえなお、最初から相手にしてくれない不動産業者ではなく以前の所有者から直接この地域に家を購入した、黒人判事セシル・プール宅の芝生の上で十字架が焼かれるという事件があったばかりだった。

(略)

彼は両親の家の地下室を占拠し、自分の本拠地とした。(略)オータム社のためにシングルの制作も続け、また自分自身のレコードも何枚か作った。当時のこうしたレコードのいくつかがアレックス・パラオによって(略)『プレシャス・ストーン・イン・ザ・スタジオ・ウィズ・スライ・ストーン一九六三-一九六五」として一九九四年に出されている。 (略)

その中にはフレディやローズと競演した作品もあれば、当時あらたに知り合った友人でありキーボードの師、ビリー・プレストンとの作品もある。

PRECIOUS STONE

PRECIOUS STONE

  • アーティスト:V.A
  • 発売日: 2004/11/11
  • メディア: CD
 

「サンフランシスコ・サウンド

若い黒人青年が、プロ専門のスタジオ(略)に入ることが出来ただけでなく、さまざまな異なる種類のアーティストと働くことができたということは、六〇年代初頭ではまだ珍しく、またベイエリアが他と比べてよりそうした機会に恵まれていたということの証でもある。スライはいくつかの白人バンドを任されており、彼らは後にヒッピー世代から「サンフランシスコ・サウンド」としてもてはやされる音楽を代表するバンドたちのさきがけだった。

(略)

 白人ロッカーのあるユニット、もっとも有名なところではボー・ブラメルズは、この若い黒人プロデューサーと息が合っていた。

(略)

他のロックバンドたち、たとえばグレイト・ソサエティウォーロックス(それぞれジェファーソン・エアプレインとグレイトフル・デッドの前身)や、シャーラタンズなどとは摩擦が起こり、時には露骨に険悪な関係にもなった。

(略)

「スライからすれば彼らはアマチュアだったし、また彼らから見ればスライはさしずめ、『ミスター・プラスチック・ヘイ・ベイビー・ソウル』(注:ロックの魂より、ポップで人工的・商業的なソウルを志向する、真剣に共同作業する価値のない相手、の意)といった感じだった。だが同時に、多くのロック・グループはスライが録音ブースにいることで多くを得た。彼の熱意のおかげだよ」

(略)

 グレイト・ソサエティの場合(略)スライはグループとリードシンガーのグレイス・スリックに「サムバディ・トゥ・ラブ」を二○○テイク録音させ、かつ自分をリード・ギターの座に据えようとした。結果としてグレイスはこの曲を別のグループ、ジェファーソン・エアプレインに持ち込み、数年後にロックの伝説的な曲となった。いっぽうボー・ブラメルズはオータム・レコーズにとどまり、このレーベルの次の(そして最後の)全国的なヒット、「クライ・ジャスト・ア・リトル」と「ラフ・ラフ」を出した。

(略)

アレックの見解では、スライがオータム・レコーズで制作したものは「思っているよりも普通」である。ブラメルズの演奏によるスライの「アンダードッグ」を彼らのデビューで聴いてみると、そのことがよく分かる。それはローリング・ストーンズの「一人ぼっちの世界」を思わせ、数年後のファミリー・ストーンによる同じ曲の録音よりもずっと明るい印象だ。(略)

[スライは]自分が(あるいはブラメルズのような顧客が)気に入ればロックの白人らしい要素も好んで採り入れたし、また同様にR&Bも(ファミリー・ストーン版「アンダードッグ」でのように)すすんで用い、二つの要素を粋な、普通のR&Bのパターンとは異なるシンコペーションで混ぜ合わせた。

(略)

 スライの初期作品のいくつかからは、彼が既存のロッカーたちを注意深く聴いていて、時には模倣していたことがわかる。彼がオータムから出したシングル「バターミルク」は、「ストーンズの『2120サウス・ミシガン・アヴェニュー』の盗用だ……それに他の曲では『サティスファクション』の引用まである」とアレックは言う。

DJ稼業

ミュージシャンとしての知識を活かしてラジオ局で勤めているスター志望の人間は、彼以外にもいた。テキサス州ルボックにある、KLLL ではウェイロン・ジェニングスが、またメンフィスの WDIAではB・B・キングが、それぞれヒットの可能性のある曲を聞き分け、キャッチーなフレーズが認識でき、またポップ・ソングがどのように機能しているかが理解できる耳の持ち主であることを自ら示していた。また彼ら三人のミュージシャンはいずれも、電波の上で得たこうした経験を、リスナーが喜ぶ音楽を自分たちで作るのに役立てることができた。クリス・ボーデン・スクール・オブ・ブロードキャスティングで訓練を受け一九六四年に卒業したのち、スライはAMラジオのKSOLに職を得た。この局のコールサインが示しているとおり、ソウルや R&B に主に力を入れており、またポップスもいくらか流しながら、黒人中心のリスナー層に向けて放送している局だった。

 スライの話し声は彼の歌同様、強く官能的で、トム・ドナヒューと同じくあたかも男爵のような低い音域に落ちるのだった。彼の語り口はヒップで威厳があり、ユーモアや即興の語りがたびたび挿入された。スライのいたずらっぽいウィットが実際の放送で発揮された、シェイクスピアをもじったこんな一節はどうだろう。「全世界は舞台だ。そして皆役を演じ(プレイ)ている。でもちゃんと遊ばなきゃ、パーティーから追い出されちゃうぞ」

(略)

彼はシュープリームスの、どちらかというと凡庸なサウンドトラック用シングル「恋にご用心」をフェイドアウトさせながら「彼女たち一人ひとりを愛してるよ」と告白した。「特にダイアナ(ロス)がさ。彼女も俺のことを愛してる!最高じゃないか」と彼は続ける。そして意味深な一瞬の沈黙のあと、「映画が好きなのさ。レコードじゃなくて」と続けるのだ。

(略)

 ラジオ局の重役や賢明なリスナーたちは、スライが音楽についてとてもよく知っていることに気づかずにはいられなかった。KSOL は KYAのような、全国的な「ブレイク」につながる局ではなかったが(略)

彼の存在感は、ベイエリアの娯楽シーンでの彼の知名度を飛躍的に上げ、従来の黒人ターゲットを超えて他の人種や民族の若者からも支持されていった。「スライは特別なエネルギーをもっていた。彼はまぎれもなく、ある種のスターだった」と『ローリングストーン』誌の元編集長でロック歴史家(略)ベン・フォン・トレスは回想する。(略)

スライは「自信に満ちていながら、それでいて嫌味じゃなかった……なんだか『年上の兄貴』みたいな感じで、親しみやすいけれど別に押し付けがましくもなく

(略)

「彼が自分の楽器をラジオ局に持ち込んで、自分流のジングルをやるのが聴けた」(略)

「彼は本当に独創的で自分でコマーシャルを歌ってしまうかと思えば、ミュージシャンの仲間を呼んでは、スタジオ内でちょっとしたジャム・セッションをしてしまうんだ。

(略)

 ポップス評論家のジョエル・セルヴィンは当時(略)

「ハーマンズ・ハーミッツをかける」KFRCを避け、スライが「早口でしゃべり、ノリがよくて、俺も知っているビートルズやロード・バックリーが誰だかちゃんと知っていた」(略)

「その他の(KDIA) の連中は、昔ながらの黒人みたいにとても注意深く言葉を選んではっきり話し、必ずしも白人っぽくはないが黒人らしい話しかたではなかった。そこへくるとスライは笑ったり、奇声をあげたり、ライムしたりと、とてもエキサイティングなんだ……そしてデディケーション (注:リスナーが自分の恋人、友人などにプレゼントの意味で曲をリクエストすること)のときのスライの語り方は、誰の心にも残るものだったよ」(略)

「当時はアフリカ系アメリカ人社会の転換期だったわけだろう?(略)黒人が二級市民として扱われていたので、公の前に出る人間としては白人よりも白人らしくならなくてはならない、っていう考えがあったんだ」(略)

だがスライは「当時育っていた若い黒人たちのあいだでは昔ながらの考えがすたれて、より自立した態度をもつようになっていった」ことにちゃんと気づいていたのだと、ジョエルは信じている。電波をつうじてスライが表した自立心は、力に訴える攻撃性や政治的な非難というよりは、茶目っ気のある反骨心という側面がより目立っている。

 サックス演奏によってスライに近づいたジェリー・マルティーニは、空港のヒルトン・ホテルでの仕事に向かう途中、カーラジオでスライのショウをよく聴いていた。あるとき機会を見つけてラジオ局に友人を訪ねて行ったら、そこに壁に面して使われていないピアノがあった。「そこで(スライに)『番組全部を歌ってしまったらどうだ?』と言ってみたんだ。いい提案だったよ」とジェリーは思い出す。

次回に続く。

デヴィッド・ボウイ インタヴューズ その6

前回の続き。

デヴィッド・ボウイ インタヴューズ

デヴィッド・ボウイ インタヴューズ

  • 発売日: 2016/12/17
  • メディア: 単行本
 

【ボウイの最も影響力の高いアルバム】

ハンキー・ドリー」(EMI 1971年)

 ニューヨークからの影響が全面的に表に出ており、“アンディ・ウォーホル”や“クイーン・ビッチ”といった曲がフィーチュアされている。後者はアルバムのスリーヴに「感謝と共に白き光は戻った」と注釈がついている。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのグラム版といった感じだ。 「みんなが想像しているほど、アンディ・ウォーホルに影響を受けたと自分では思っていない。彼のどこが好きだったかって?彼のいくつかの発言。すべてが再生可能なところ。あのアイディアは素晴らしかった。ペルソナとしての彼は、自分のやっていたことの一部として取り入れたくはなかった。結局、ルーとヴェルヴェット・アンダーグラウンドに戻るんだよ。彼らを通して僕はウォーホルにつかの間の興味を抱いたんだ」

 

「ジギー・スターダスト」(EMI 1972年)

(略)

「これは、僕にとって初めて本格的な成功を収めた他家受粉だ。自分がエキサイティングだと感じた東洋の文化を換骨奪胎し、非常にカラフルなものに仕上げた。日本のグラフィックやファッションの分野で起こっていたものをね。特定のルックスとか、衣装を何度も替えるのは歌舞伎から拝借したものだ。東洋と西洋のハイブリッドが興味深いと思ったんだが、そのこととジギー・スターダストを関連づけて考える人はあまりいないように思う」

(略)

 

「ロウ」(EMI 1977年)

(略)

“ビー・マイ・ワイフ”は実はシド・バレットに負うところが大きいんだ。ピンク・フロイドそのものではなくね。わかるだろうが。(マーク・)ボランにとっても彼は重要な存在だった。ボランと僕は1960年代後半を象徴する存在として、シド・バレットのことを尊敬していた。彼がアメリカン・アクセントで歌わなかったことは本当に大事なことだった。『凄い、イギリスでもロックン・ロールは出来るんだ』という感じだったよ」

 

「ヒーローズ」(EMI 1977年)

(略)

タイトル曲はおそらく、ボウイの曲の中で最も持続力のある曲といえよう。

「あののろのろとした曲のテンポとリズムは共に“僕は待ち人”(*ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)から拝借した。コード進行は……何だったかな。僕は精神的な落ち込みを殆ど克服し、本来在るべき自分の姿に戻りつつあるように感じていた。自分の感情が癒やされていくことにある程度の手応えを感じていたし、精神面でも感情面でもある程度回復しつつあったのだろう。そういう意味では、あの曲の主人公は僕自身でもある、と言える。『ここから出られる。僕はきっと大丈夫だ、僕の場合は』とね」

『モジョ』誌 02年

 唯一、「スペイス・オディティ」を除くと(1972年頃にはこの作品もあっという間に人々の記憶から消えていた)ボウイのキャリアは長い間、ウォーミング・アップの状態にあった。「ジギー・スターダスト」で彼が大ヒットを飛ばした時点で、彼はチャートに入ることもないまま8年間もレコードを作り続けていたのだ(略)

「ああ、うまくやれるようになるまで時間がかかったよ」と彼は述懐する。「曲の書き方も知らなかったし、曲を書くのが得意でもなかった。僕は無理矢理自分をいいソングライターになるよう仕向けていき、その結果いいソングライターになれた。だが、天性の才能のようなものはまるで持っていなかった。うまくなれるようにするのは困難な作業だった。僕が学ぶ唯一の方法は、他の人たちのやり方を見ることだった。僕はマークのように子宮から出てきた人間じゃないんだ」(“コズミック・ダンサー”の“踊りながら子宮から出てきた”という歌詞を指す)。

「僕は踊りながら出てきたのではなく、つまずいて転んでいたんだ」

 ボウイがジギー・スターダストの概略を考えていた頃、彼の最も身近にいた現実世界のお手本はマーク・ボランだった。アルバムのアイディアが生まれた1971年、T・レックスはその権力の頂点にあった。ボウイの古い友人はイギリスで初めての新時代の衝撃となったのだ。ボランは自分ひとりで夢のペルソナを創り出し、強い意志の力で一夜のうちに出現したロックン・ロール・スターとなったように見えた。

「確かに! ボーリー(*ボランのこと)が大成功したんで、僕たちはみんな激しい嫉妬を覚えたよ。あれは凄かった。僕たちは半年くらい呆然としていたんだから。「彼は自分がやるよりずっとうまくやっている」(と不機嫌そうにつぶやく)という感じだった。しかも彼は、地下室でうろうろしていた僕たちのことを鼻であしらったんだ。その件は、お互い仲直りしたけどね。

 僕たちが最初に出会った時のいきさつを知っているかい?凄く笑えるんだよ。1960年代中頃、僕たちは同じマネージャー(レス・コン)のもとにいた。マークはすっかりモッズで、僕はネオ・ビート・ヒッピーという感じだった。僕はヒッピーという観念は大嫌いだったんだけどね。兄に教えてもらったビートニクの方がずっとセクシーに思えたから。マークも僕も仕事にあぶれていて、マネージャーのオフィスの壁の漆喰塗りに駆り出された時に、僕たちは出会った。(略)

彼が『その靴、どこで手に入れた?』(ボウイは、ボランの冷淡なまでに毅然とした態度と、この世ならぬ魅力にあふれた振る舞いを完璧に真似してみせた)『そのシャツ、どこで買った?』と言い出した。そこから僕たちはすぐに服やミシンの話を始めてね。『ああ、俺はシンガーになって、お前に信じられないくらい大物になるぜ』。よし!それならいつかお前のためにミュージカルを書いてやるよ、俺は最高のソングライターになるんだから。『だめだめ、俺の曲を聴いてみろよ。俺は凄くいい曲を書くんだ。それにパリにいる魔法使いとも知り合いなんだから』なんて話ばかりしていたよ。マネージャーのオフィスの壁に漆喰を塗りながらね!」

 ボランの驚異的な成功と、自らのアルバム「ハンキー・ドリー」に対する世間の無関心さの間で、その頃のボウイは悲観的になっていたのだろうか?

「いいや、そんな風に感じたことはなかったな。僕はプロセスというものの方が好きだったから。曲を書き、レコーディングをすることが好きだった。ガキにとってはすごい楽しみだったよ。確かに辛い瞬間はあるし、自分にはもう何か起こることはないのかもしれないと思う時もある。でも、すぐに立ち直るんだ」

 当然ながら、1972年のボウイも信じられないような速さで立ち直りを見せた。「ハンキー・ドリー」が店に並ぶか並ばないかという時期に、彼の金色の髪が輝きを放った。彼は全く新しい姿と、既に制作が終わっている次のアルバムからの曲をひっさげてイギリス・ツアーを行なった。ロックン・ロール・スターになった性差を超えた宇宙人、ジギー・スターダストとなって、ボウイは自己達成しつつある予言を生み出したのだ。

(略)

[ジギーという]装置を得たことで、彼は「ハンキー・ドリー」の自信のない、風変わりなイギリス人男性から逃れ、当時の彼が夢中になっていた奔放なイギー・ポップや、退廃の暗黒の王子ルー・リードのようになることが出来た。

「僕にははっきりしていた……自分は耐えがたいほどシャイだったんだ。だから、ステージの上でも、下でもジギーで居続けた方がずっと楽だ、とね。それに、欺くのは本当に楽しいことのように思えた。デヴィッド・ボウイとは何者で、ジギー・スターダストとは何者なのか?でも、その動機となっていたのは僕のシャイなところだ。僕にとってはジギーでいる方がずっと楽だったよ」

「ジギー・スターダスト」を予告するようなシングル“スターマン”が大ヒットとなる前、ボウイはその年2月の『メロディ・メイカー』紙のインタビューで自分はゲイだと宣言し、1972年の行動計画を形にし始めていた。世間は大騒ぎとなった。

 なぜ、あんなことを言ったのですか?

「マスコミという場で、それもかなり初期の段階で、ああいう風に自ら“あばく”ことで、自分が背負っている緊張の大半を下ろすことが出来る、とわかったんだ。そうすることで、どこからともなく現れた人々に(いかがわしげな声で早口に)「デヴィッド・ボウイにまつわることで、あんたの知らないことを教えてやるよ」と言われなくて済む。

(略)

ボウイは1972年の代表的アンセムを書いた。(略)モット・ザ・フープルに彼が与えた曲、“すべての若き野郎ども”だ。

「もし彼らが当時成功していたのなら」とボウイは言う。「彼らは僕と関わりを持つことは望まなかったと思う。彼らはかなりマッチョで、男っぽいバンドの先駆けのひとつだったから。でも、状況はよくなかった。僕は音楽雑誌で彼らの解散は避けられない、という記事を読んでから、あの曲を文字どおり1時間かそこらで書き上げた。(略)

この曲を自分が書き上げてバンドを解散させずに済ませることが出来るか様子を見てみよう、というようなことを考えていたんだ。今になってみれば、ひどく不遜に聞こえるだろうが、若い時というのはそういうものだ。『僕にはすべてが出来るはずだ。金曜日には!』。(略)

[関係者に曲を書いたと伝えたら]

これがうまくいったんだよ!驚いたね。その後、僕は彼らに“ドライヴ・インの土曜日”も書いたんだが、その時には既に彼らは『えー、グラム・ロックの軟弱な曲はこれ以上要らないよ』と思ったのだろうな。彼らなら素晴らしい仕上がりになったと思うんだが」

(略)

 スーパースターの世界を、ドラッグを糧とした多幸感の中で味わっていたボウイは、再びロック・ミュージカルのことを考え出す。最初の計画は『一九八四年』に基づいたものだったが、このアイディアは(作者の)オーウェルの未亡人に拒否された。「そこで僕はあっという間に曲を変えて、『ダイアモンドの犬』へと変貌させたんだ。これはジギーよりも労力を必要とした。後から考えてみると、ジギーの時はステージの上で何もやっていなかった。僕がやったのは数回の衣装替えだけだ。曲とズボンだけ。それでジギーは売れたんだ。他の部分は観客がすべて埋めたのだと思う。だが、『ダイアモンドの犬』ではもっと何かをやるつもりだった。前よりも少しは金もあったし――といっても当然ながら充分な金額ではなかったがね。実際、そのせいで僕は破産状態になったし。だが、そこから色々なことが始まったんだ。『ダイアモンドの犬』のライヴから。

(略)

突如として、洗練された、息もつけないほどの“プラスティック・ソウル”が「ヤング・アメリカン」として登場する。「あのひらめきの元は、プエルトリコ人のズート・スーツ姿(*肩にパッドが入った長いジャケットと、腰回りから膝にかけて太く、足首に向かって細くなるパンツからなるメンズ・スーツ)のストリート・ルックだと思う。より慣用的な外見の服装に戻したような感じだ。今になって見ると、かなりとんでもない格好だが、『ヤング・アメリカン』では音楽だけでなくヴィジュアル面も変えようと試みたんだ。

 カルロス・アロマーや当時の数人の女友達と一緒に、僕はアメリカの夜の生活をたくさん目にすることになった。その中にはラテン・クラブも含まれていて、あれは凄く刺激的だった。1960年代に自分が抱いていたソウルやR&Bに対する愛情に再び火がついた。実際、僕にとって最初のバンド、ザ・コンラッズを脱退した理由は、彼らがマーヴィン・ゲイの“キャン・アイ・ゲット・ア・ウィットネス” をやらなかったからだ。若い日の僕にとって、ソウルやR&Bは本当に大きな存在だった。それが、アメリカで本物を目にしたことで、猛烈な勢いで舞い戻ってきたんだ。 

 ベルリンでの新しい音楽

「これに関してはクラフトワークの存在を認めないと」と彼は言った。「僕はアメリカで『アウトバーン』の輸入盤を手に入れた。おそらくアルバムが出た年、1974年のことだ。僕はこのバンドにすっかり引き込まれた。彼らは何者なんだ?誰とつながっているんだ?

 そこから僕はタンジェリン・ドリームやカンと出会い、やがてノイ!やドイツで盛んになっていた新しいサウンド全体と出会うことになる。僕は思ったよ、ああ、僕は未来を目にしていると。そういう音だったんだ。僕もその流れの中に入りたい、と熱望した。当時の『ロウ』あたりのアルバムでトニー(・ヴィスコンティ)と僕がやっていたことを聴き返してみると興味深いよ。こちらが予想しているほど、ドイツのサウンドからの影響はないんだよね。

 非常に有機的で、ブルーズに乗ったサウンドなんだ。とてつもない雰囲気に包まれているが、それの一部はイーノのせいだし、大半はトニー・ヴィスコンティ自身のせいで、僕が古くてちょっとよれているシンセサイザーをプレイすることを選んだせいでもある。ある意味、かなりビートルズっぽい。だが、その一方で実際のリズム・セクションはメトロノームで測ったような、ドイツ人たちがやっていたエレクトロニック・サウンドではない。あれはデニス・デイヴィスとジョージ・マレー、そしてカルロス・アロマーだ(『ヤング・アメリカン』のツアー・メンバーの一部)。これもまた、きっと素晴らしいに違いない、と僕が考えたハイブリッド化の表れだ。アメリカで僕が見いだしたものをヨーロッパに持ち帰り、それをドイツの音楽の世界で起こっていることと合わせて、どうなるか見てみよう、ということだ」

『フィルター』雑誌 03年

「僕はここ、ニューヨークで曲を書いた」。立ち上がり、ジーンズのポケットに手を突っ込んだまま窓の外を眺めながら彼は言った。(略)

「ここからは、ある種のエネルギーが得られるんだ。歩道の存在を実際に感じ取れる。足が地面に触れると弦をはじくような音がする。それがどんな音なのか、僕にはわかっていた。そして、それをヴァイナル盤に入れたかった」(略)

「僕は、17歳くらいからこの街に対して感傷的な繋がりを感じてきた。ちょうどその年頃にボブ・ディランの2枚目のアルバムを買ったからだ―― あれはブリーカー・ストリートだと思うが、彼が道を歩いている姿を写したものだ。彼の恋人も一緒だった。僕は『この男は凄くクールな格好をしてる』と思ったよ。(そして私にささやくように)いつも、まずは服装だろ?(略)

それから、僕はアルバムをかけて、曲が大好きになった。あれはまさにダイナマイトだった。若い青年の中に60歳の男の声が宿っているようだったよ。『これがビートだ。アメリカに関する素晴らしいものすべてがこの一枚のアルバムの中に詰まっている』と僕は思った。その時点で僕は既に、ブリーカー・ストリートに郷愁を覚えるようになっていたんだ」 

FREEWHEELIN' BOB DYLAN

FREEWHEELIN' BOB DYLAN

  • アーティスト:DYLAN, BOB
  • 発売日: 2004/03/29
  • メディア: CD
 

『ザ・ワード』誌 03年

[記者が初めてボウイを見たのは]
1969年のことだった。ボウイはくせのある“スペイス・オディティ”がヒットを記録したものの、個人的にはまだ無名で、スティーヴ・マリオット率いるヘヴィな“スーパーグループ”ハンブル・パイがトリを務めるツアーに参加、出演者の最初に登場してくる最も下っ端の前座としてイギリスを回っていた。(略)

[前座の]中にはデイヴ・エドモンズのラヴ・スカルプチャー[などもいた](略)

私が最も思い出すのは、場慣れしていないボウイの居心地の悪そうな様子だ。ロックのモンスターたちが出てくる夜に、彼はくるくるとパーマをかけた髪をした、アンプも使わぬ恥ずかしげなフォーク・シンガーだったのだ。

 会場となったリヴァプール・エンパイアの観客は、イギリス空軍の余剰品の防寒着に身を包み、ふけだらけの髪をした柄の悪い人たちで、容赦なく攻撃してきた。ボウイは数曲失敗し、最初からやり直した後、ヒット曲をプレイして野次やわずかな拍手や沈黙の中を去っていった。私は彼に同情したが、それ以上に目に怒りを漂わせたこのフリークラウドからやってきた少年を見て――自分はこの世ならぬ天才を目撃した、と確信した。ライヴというものに慣れていなかった私は、その夜目にしたすべてが素晴らしいと思ったが、いつまでも忘れなかったのはボウイだけだった。その後、1971年に「ハンキー・ドリー」を出すまで彼は数年間姿を消し、私は再び彼と出会うこととなる。

(略)
[会場で記者の]バックステージ・パスに気がついた怖いほどうつろな眼差しの女性に[ボウイに会わせてせがまれ]

(略)

 軽い身震いと共に私は、カーナビー・ストリートにあった「NME」紙のオフィスで働いていた頃のことを思い出した。心に変調を来した人たちの来訪はよくあることだったが、その中でも最も多かったのがデヴィッド・ボウイのファンだった。彼らに出て行けというのも気の毒で、私は1時間以上も彼らのおかしな話を聞き続けたものだった。いわく、ボウイが彼らとそこで会うようアレンジした、彼らは神から地球におけるボウイの後継者になるよう頼まれた……どうでもいいような話ばかりだが。

 ボウイの音楽にはしばしば、精神的な機能不全につながる底意が存在しており、彼のペルソナが歪みを挑発しているようだった。正直に言うと、突然、私はちょっとだけ昔を懐かしいと思った。

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デヴィッド・ボウイ インタヴューズ その5

前回の続き。

デヴィッド・ボウイ インタヴューズ

デヴィッド・ボウイ インタヴューズ

  • 発売日: 2016/12/17
  • メディア: 単行本
 

ギタリスト

『ギター』誌 96年

 ――自分が一緒にやりたいと望むギタリストについて、その時その時でどう決めてきたのですか?

ボウイ:(略)初期の時代にはミック・ロンソンのプレイの持つベックっぽさに、惹きつけられた。あの時点で僕が探し求めていたのは……自分がプレイしていたロックとリズム・アンド・ブルーズの範疇でプレイしつつも、ただ音階をプレイする以外にギターに何が出来るのかに興味を抱いている人だった。ミックは、フィードバックや異質なノイズであれこれプレイするというアイディアが、それなりに気に入っていたよ。後になって僕が一緒にやることになったギタリストたちほどではなかったがね。(略)

僕がベルリン時代(「ヒーローズ」「ロウ」「ロジャー」) に移行した頃は、音の源としてのギターに興味を持っているギタリストを見つけることの方に興味があった。(略)

雰囲気を作り出すことが問われていたんだ。ただ、そこまで冒険的になるためには、彼らは楽器そのものを非常によく理解している必要がある(略)ルールを破ることが出来るようになるためには、ルールそのものをよく知らねばならない、という古いことわざがあるが、リーヴス・ガブレルスにはこのことわざがあてはまる。もちろん、エイドリアン・ブリューロバート・フリップもそうだ、と言っておく必要があるが。

(略)

最初にフリップに注意を向けたのは(略)
(イーノは)「いいかい、私はロバートと山ほど一緒に仕事をしてきている。彼はとても共作に向いた人なんだ。私たちがやっていることに、本気で興味を持ってくれそうな人だよ」と言ったんだよ。だから、ノミネートしたのはブライアンなのさ(笑)。作業を始めた時点で、フリップは大きく作品に関わった。一方、エイドリアンはもっと単純な話で、フランク・ザッパのライヴを観に行った結果だった。(略)

エイドリアンときたら、ライヴの間、[自分がプレイしていない時は]殆どずっとステージの袖で僕と話をしていたんだから。今、何をやっているのか、とか、僕のやり方は好きだから一緒に何かやれるチャンスがあればいいとかね。

(略)

 リーヴスを見つけたのは本当に興奮する出来事だった。当時、僕はしばらく創造面でスランプに陥っていて、音楽のアイディアに対してとても冷淡になっていたんだ。僕は、再びヴィジュアル・アーツの方にのめり込みつつあった。曲を書くのを止めるところまでは行っていなかったと思うが、優先事項でなくなっていたのは確かだ。実験と冒険の感覚を僕に与えてくれたリーヴスには恩があるよ。本当に、ティン・マシーンを結成することで、彼は僕を穴から外へと引っ張り出してくれたんだから。

(略)
 ――あなたが起用したギタリストの中で、その後真価を認められるようになった人の中にスティーヴィー・レイ・ヴォーンもいます。彼のことはどのようにして見つけたのですか?

ボウイ : 彼は『モントルー・ジャズ・フェスティヴァル』でプレイしていたんだ。(略)おそらく1982年のことだったんじゃないかと思う。(略)彼はダブル・トラブルと共に、どこかのメジャー・バンドの前座を務めていたに過ぎなかったんだが、本当に驚愕したよ。桁外れだった。

(略)

 ――あなたは「ダイヤモンドの犬」ですべてのギターをプレイしていますが(略)

ボウイ :  自分がかなり突拍子もないアイディアを抱えていたからだと思う。(略)

自分がやって欲しいと思っていることを他のギタリストたちに頼むなんて恥ずかしすぎるから、このアイディアは自分自身でやるしかないな、と。ちょうど同じ時期にブライアン・イーノも自分自身のアルバムで同じようなことをやっていたよ。彼も地位の確立されたミュージシャンたちにギターのチューニングをわざと狂わせてくれなんて頼むのははずかしかったんだって(笑)。

変容の過程

テレグラフ・マガジン』誌 96年

学生時代の私の友人のトニーは、デヴィッド・ボウイをアイドル視していた。1960年代後半、世界の大半がまだボウイが何者か知らなかった頃、トニーは既に1、2度ボウイに会っていた。(略)トニーは何度かボウイの家に招かれて、一緒にマリファナを吸ったり話をしたりしていた。

(略)

[「世界を売った男」]

の歌詞だ。明らかに正気と狂気の間の細い一線を行ったり来たりしているその内容は、ボウイの家系に伝わっている統合失調症の存在をほのめかし、“ここで狂気を抱いた人たちと一緒にいた方がいい/私は満たされている、彼らも私同様みな正気なのだから”という歌詞のように、ボウイ自身もそうなのではないか、と暗示していた。

 トニーは「世界を売った男」が大好きだった。(略)1970年代はじめの頃、トニーは統合失調症になり、精神科の病院に入院した。私も1、2度彼の見舞いに行った。彼の病室のドアにはアラジン・セインに扮したボウイの大きなポスターが貼られていた

(略)

[病院を抜け出したトニーがボウイ宅に侵入した頃]

ボウイはロック・モンスターとしてニューヨークのピエール・ホテルにこもっていた。彼は1週間700ドルというスイート・ルームを2部屋借りていた。一部屋は寝起きをするために、そしてもう一部屋は仮のスタジオとするために。ボウイは自らそこにひきこもり、その後に予定されていた、黙示録の悪夢のような「ダイアモンドの犬」 ツアーのステージ・セットの縮尺モデルを自ら作り上げる様子を映像に収めていた。

(略)

ボウイは言った。「(略)実は先日、その映像を見つけてね。凄く面白かったよ。当時はジョン・レノンもよく姿を見せていて、時々背景に映り込んでいるんだ。腰を下ろして、当時流行っていた曲をギターで弾きながら“いったいお前は何をやってるんだ、ボウイ? お前の曲はみんな暗いものばかりじゃないか。この『ダイヤモンドの犬』の突然変異だの何だのっていうのはみんなそうだ。ははは”と言っていたりね。

 僕はジョンが大好きだった。一度、グラム・ロックについてどう思うか尋ねてみたことがある。彼の答えは(略)“あれは口紅をつけたロックン・ロールだよ”たっだよ。

(略)
 この世のものならジギー・スターダストという彼が最初に世間に示したジェスチャーは、ある意味、彼自身の手になるロック・スターの風刺画だった。

(略)

 変容の不思議な過程の間に、ジギー・スターダストはグラム・ロックのアイコンであるアラジン・セインに取って代わられ、やがて生気を失ってシン・ホワイト・デュークとなった後、「ヤング・アメリカン」の“ホワイト・ソウル・ボーイ”となったが、その後は創造の過程で創造者が自らを見失ってしまった。ボウイは言う。「たとえば画家のように、イメージを本当にコントロール出来ている限りは構わないんだ。だが、自分自身をイメージとして使い始めると、事態はそこまで単純ではなくなる。自分自身の生活の側面が、キャラクターとして写しだそうとしているイメージに混ざり込んできて、現実と幻想のハイブリッドになってしまうからね。そうなると、事態は異なものになる。これは自分にとって真実ではない、という気づきも出てくる。ここまで来ると、人を偽っていることの居心地の悪さに、引きこもりがちになる。僕は既にドラッグのせいで引きこもりがちになっていただろ。あれは何の助けにもならなかったな」

 混乱した感覚は、1970年代中頃、どん底に達する(略)ロサンジェルスに暮らし、コカインと救世主気取りのうぬぼれという繭に包まれ、非常に孤独な存在として影のように生きていた。

(略)

 彼の読書リストのトップにオカルトが登場してくる――彼が1976年にレコーディングした「ステイション・トゥ・ステイション」は、今の彼によると一歩ずつカバラを読み解いていったものだという(略)

やがてこれが“聖杯神話”へとつながってゆき、ナチズムの勃興の中で黒魔術が果たした役割に対する不健康な興味へと結びついてゆく。(略)

「イギリスはファシストの指導者から恩恵を得られたかもしれない」と彼が言い、自分がその候補者となると宣言するような発言をしたのはこの時期だ。(略)

「ある日、カリフォルニアで鼻からコカインを吸い込んだ(略)そうしたら僕の脳の半分が吹っ飛んだんだ」

 彼はベルリンに逃げた。そこのカフェで、皿に頭を突っ込んで「どうか助けてくれ」と泣いている姿を目撃されている。(略)

「ロックの犠牲者のひとりへとつながる道を、かなりのところまで進んでいたと思うよ(略)あのまま続けていたら、1970年代を生き延びることは出来なかっただろうと自分でも確信しているんだ。

回想

『Q』誌 97年

 子供の頃から自分の誕生日がエルヴィス・プレスリーと同じだ、と知っていましたか?

「あれには本当に陶然となったね」と彼はにやっと笑った。「信じられなかった。彼は僕の大いなるヒーローだったんだ。彼と同じ誕生日だということに何か意味がある、と信じるくらい僕は馬鹿だったんだろうし」

 1971年にニューヨークで彼がプレイするのを観ていますよね。

「ああ。長い週末の休暇でやってきたんだ。(略)僕はジギーの時代のかっこうで、客席前方に近い、凄くいい席だった。場内が一斉にこっちを見たので、自分が凄い間抜けのような気がしたよ。真っ赤な髪に、大きなパッドの入った宇宙服に黒くて分厚い底のついた赤いブーツだもの。もっと大人しいかっこうをしてくればよかった、と思ったな。彼の目に留まったに決まっているから。彼は既にショーを始めていたけど」

 

 『ジギー・スターダスト・ツアー』のイギリスでの初日のことは覚えていますか?

「うーん……参ったな。本当にわからない。エイルズベリーだった?」

(略)

ジギーは本当にささやかにスタートしたんだよ。最高でも20~30人くらいしかファンがいなかったのを覚えている。彼らはみんな前の方にやってきて、残りの観客は関心がない様子だった。自分と観客が一緒になって、大きな秘密に関わっているようなふりをしていて、凄く特別な感覚があった。イギリスならではのエリート主義だが、かっこいいような気分になっていたんだ。存在が大きくなっていくと、そういう感じはすべて消えてしまったけどね」

 昔のアルバムで未だに聴いているものはどれですか?

「ジギーではないな」と彼は笑った。「実際には、トレント・レズナーが大ファンだと聞いてから、また『ロウ』を聴くようになった。あのアルバムに戻って、その理由を知ろうとしたんだ。ドラム・サウンドのブレイクなど、彼の曲作りの中にそれとわかる手がかりが聴き取れるようになってきたよ。あれはかなり有益だった。それに、なんといいアルバムだったんだろう、あれは。『ステイション・トゥ・ステイション』も素晴らしいと思う。何度か聴いたよ」

 自分が「ステイション・トゥ・ステイション」を制作したことを覚えていない、という話はどこまで本当なのですか?

「かなり本当だ。1970年代にアメリカで過ごした時間の大半は、殆ど思い出せないんだ(ため息)。(略)

だから、「ステイション・トゥ・ステイション」は、全く違う人間が作った作品のように聴いているんだ。(略)

あの作品の中に出てくる要素はカバラ(シナイ山でモーゼに与えられたと言われる謎めいた一組の指示のこと。儀式魔術と関連があるとしばしば言われている)と関係がある。僕が書いた作品の中では最も魔術に近いアルバムだ。(略)非常に暗いアルバムだよ。生きるには惨めな時期だった、と言うしかない」  

ラバー・バンド

ラバー・バンド

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You've Got a Habit of Leaving (2014 Remastered Version)

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  • ポップ
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 1960年代中頃に出した“ラバー・バンド”や“ユーヴ・ガット・ア・ハビット・オブ・リーヴィング”といった失敗に終わったシングルがもし大ヒットになっていたら、どうなっていたでしょう?

「はは! 今頃『レ・ミゼラブル』に出ていたよ。ミュージカルをやっていたんじゃないかな。かなり確信が持てるな、それは。ウエスト・エンド(*ロンドンの劇場街)のステージで売れない俳優になっていたと思う(笑)。で、“ラーフィング・ノームス” を1つだけではなく10作は書いていたんじゃないか」 

ラフィング・ノーム

ラフィング・ノーム

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 1987年に、全体の方向性を考え直した方がいい、とボウイに喚起したのはガブレルスなのだ。

 「彼自身も『レッツ・ダンス』の後、間違った方向へ進んでしまったことはわかっていたんだ」。(略)

ガブレルスがボウイの音楽に寄せていた愛情は(他の多くの人々同様)「トゥナイト」と「ネヴァー・レット・ミー・ダウン」の質の低さにより打ち砕かれた。ボウイ自身もこれらのアルバムに怒りを覚えるほどうんざりしていた。

 「僕は自分が絶対になりたくないものになってしまっていたんだ」とボウイは認める。「僕は大衆から受け入れられたアーティストになっていた。フィル・コリンズのアルバムを買うような人々にも魅力を感じさせるようになっていた。信じてほしいんだが、僕は人間としてのフィル・コリンズは好きなんだよ。でも、彼のアルバムが1日24時間僕のターンテーブルに載っているようなことはない。僕は突然自分の聴衆がわからなくなり、さらに悪いことに、彼らのことなどどうでもよくなってしまったんだ」

 増え続ける面白みのない己の曲に対する疑いと嫌悪の念で一杯になり、ボウイは「ネヴァー・レット・ミー・ダウン」のレコーディングに殆ど姿を見せなくなってしまった。

 「他の人たちにアレンジをさせて、自分はヴォーカルをやるために行っていた」と、彼は当時を振り返る。「その後はさっさとその場から消えて、女をひっかけに行っていたよ」

 個人的に彼の目に見えていたただひとつの逃げ道、それは引退だった。それが彼の目的となる。

 「何よりも僕は、できる限りの金を儲けて辞めよう、と考えていた」と彼は告白する。「他の選択肢はないと思っていた。明らかに自分は中身が空っぽの器になってしまった、と思ったんだ。他のみんなと同じように、馬鹿げてつまらないライヴをやり、倒れて血を流すまで“愛しき反抗”をやるようになるんだ、とね」

スライ・ストーン

『Q』誌 99年

[『地球に落ちて来た男』の話から]
 ――当時のあなたはどのような姿をしていたのですか?

ボウイ : 僕がシェールと一緒に歌っているビデオを観たことがあるかい? 髪をぴったりとなでつけている……芝居じみた衣装の時期はもう終わった、シアーズで売っているような服を着よう、という考えが僕の中にはあった。でも、それを僕が着ると、日本人のデザイナーに作らせたどの衣装よりも異様なものに見えた。シアーズの服は、アメリカ中部の頑迷な地方第一主義そのものだった。派手なチェックのジャケットにチェックのズボン。僕は酷い姿だった。とても具合が悪そうだった。僕は具合が悪そうで、おしゃれのかけらもないという姿に見えたんだ。

 ある夜、売人のところに行ったら、スライ・ストーンが入ってきたことがあってね。僕は全くアメリカ中部の人間のような服装なのに、髪の毛は金髪と赤で(笑)(略)[ヘアスプレーで]逆立てられていた。部屋へ入ってきた彼は僕の姿を見るとこう言ったよ。(皮肉な調子のスライ・ストーンの声で)「へえ!こいつ、絶対にたくさんドラッグをやってるな」。僕は怒った。確かに僕はたくさんドラッグをやっていたからね!「なんだと!俺はデヴィッド・ボウイだ!お前が見たこともないほど大量のドラッグをやってやる!」。あれは本当におかしかった。完全に度を超していたよ。その後、随分経ってから彼と出会って、僕たちはその件で大笑いをしたよ。でも、(当時は)凄く攻撃的に思えたんだ。彼は僕の着ている服で僕を判断している、と思った。笑えるだろ?彼にしてみれば、何だこの真面目そうなやつは?だったんだろう。それなのに僕はもの凄く腹を立てていた。僕は(息を切らしたトニー・ハンコックの声色で * ハンコックはイギリスのコメディアン)「俺がどれだけドラッグをやったか教えてやる!」と言ってやりたかったんだ。

 ――これまでどれだけドラッグをやったんですか?

ボウイ : うーんと5種類……いや6種類だ! 僕はゾウの鎮静剤から何から、ありとあらゆるものやったよ。でも、こんなのはありきたりな話だね。

ルー・リードイギー・ポップ、イーノ

『NME』紙 00年

 アンディ・ウォーホルはつきあいやすい人でしたか?

「いいや、全く不可能だった」とボウイは答えた。「彼は、全く心が動かされていないような印象を与えた。彼が、派手な色彩を好む、うまく運を掴んだ幸運な女王なのか、それとも背後に何らかの哲学があるのか、僕にはまるでわからなかった。本当にわからないままだったよ。実際のところ、半分半分だったんじゃないかな。その後僕は、1970年代に僕のために働いてくれた人々と出会った。(ウォーホルの演劇)『ポーク』の出演者たちだ。あれは不思議な時期だった」

(略)

[ルー・リードイギー・ポップ]

 「僕は2人の一番のファンだった。初めてルーと出会った頃、彼は本当に酷い時期を過ごしていて、彼が影響を与えたものから取り残されるようになっていた。僕たちは2人とも、彼の与えた影響がどういうことになるのか――ヴェルヴェット・アンダーグラウンドへの評価の向かう方向がどこなのかわかっていなかった」。彼はさらに言う。「僕には、自分が彼らを再び見いだしたような気分がある。彼らとイギーを僕が推した時、誰も僕のことを信じてはいなかったし、誰も彼らが何者なのか知らなかった。ニューヨーク・シティでは違ったかもしれないが、イギリスでは確実に知られていなかった。僕はヴェルヴェット・アンダーグラウンドの最初のアルバムのアセテート盤を持っていて、それが新たな曲作りへの鍵となったんだ。僕がルーとやろうとしたのは、彼を有名にすることだった。そこまで単純なことだったんだ(略)僕が彼のために行なったのは、よりアクセスしやすくすることだった。

 イギーはもっと様々な仕事のやり方を受け入れている。僕はイギーのためにたくさん曲を書いた。彼のためにコード進行を提供することもあれば、実際のメロディまで渡すこともある。たとえば「ジム、この曲は極東にまつわる印象を与えるんだが……」とか、ある特定の状況を僕が口にする。あるいは彼に何かアイディアを提供すると、彼が部屋の隅へ走り込んで、5分か10分後には2人が話したことを反映した歌詞を僕のところへ持ってきたりね。そういう意味ではより共作に近いね。僕が記憶している限り、ルーとは何も一緒に書かなかった。むしろ、『これがルーの作品だ、これを世に知らしめよう』という感じだった。でも、イギーとは『お前は何がやりたい?』という感じだったよ。早い段階のLPでは、ストゥージズっぽいものだけでなく、もっと彼に歌わせようとしたんだ。あれは彼が自分の声を見つける助けになったと思う」

 しかし、この仕事量をこなすツケが、やがてボウイに回ってくるようになる。伝統的かつ栄養豊富な“ミュージシャンの朝食”にしばしば憩いを求めるようになったボウイは、とてつもない音楽を創り出してはいたものの、本質的には自分を崖っぷちまで追い詰めていた。(略)

「快楽的な目的で使ってはいなかった」と彼は説明する。「殆ど遊び歩いてもいなかったしね。(略)僕はひたすら働いていたのさ。(略)楽しくもなかったし、多幸感もなかったよ。僕は狂気のふちまで自分を追い詰めていったんだ。『ダイヤモンドの犬』のあたりからその傾向が強くなっていって(略)」

 その渦からの出口は、ドイツと(略)ブライアン・イーノの自由な思考にあった。(略)

[ドイツ人ミュージシャンが]僕に与えた影響は態度にまつわるものだと思う(略)彼らの取っていたスタンスだね。『ロウ』や『ヒーローズ』『ロジャー』を聴いても、クラフトワークからの影響は非常に少ないと言っていいと思う。むしろ『そこなら存在できる新しい宇宙がある。自分がその宇宙に行ったら自分は何を見つけ出すのだろう?』と言っているような感じなんだ」(略)

[パンク、NWの時期]

ボウイは新しいドイツの宇宙に包まれ、ぼんやりと過ごしていた。

(略)

 コニー・プランク・スタジオとデュッセルドルフの人たちにすっかりはまり込んでいたので、結果的にパンクも後から振り返るようなことになった。1980年頃にアメリカに戻った時、僕はパンクが創り出した波を目にしたけれど、凄く奇妙な感じだった……僕はまさに逃したんだ。パンクをつかみ損なったのさ。本当におかしな具合だったよ。当時の僕は非常に弱っていたし、見た目もかなり孤立していた。周囲が殆ど見えていなかったんだ」

 “ものごとを楽しくする”というかなり自由な役どころを背負ったイーノの励ましによりボウイが創り出した新しい音楽は、彼のキャリアの中でも最高のものであっただけでなく、本質的に1970年代のボウイの精神と心を救った。

 「僕にとっては究極の治療のようなものだった。自分を追い込んでいたあの酷いライフスタイルから離れるために、自らを助け、自らを治療するようなものだったんだ。自制心を働かせて、健康を取り戻すタイミングだったのさ」

 次回に続く。