蛭子の論語 自由に生きるためのヒント 蛭子能収

編集部訳の論語をネタに蛭子さんが語る。

「新しさ」を理解する感覚

もちろん、一方でインパクトだけの人はすぐに消えてしまうのが芸能界という世界です。だけど、一瞬でも時代に合った人っていうのは、きっと“何かを持っている”んですよね。時代に合った、「何か」を。(略)

うまく言葉で言い表せないけれど、「新しさ」を理解する感覚を持ち合わせることって、すごく大事なんじゃないかな。
 僕は、そういう「感覚」だけは結構持ち合わせているほうだとひそかに思っているんです。多少の浮き沈みはあっても、もう30年以上、テレビに出続けています。言い方を変えれば、僕はどんな時代にもついていけるんですよね。いや、それは言い過ぎかな……。正確には、「どうにか合わせられる」ということかもしれない。
 たとえば僕は、テレビで自分らしいことを言おうとか、自分らしく振る舞おうとか、そういうことはまるで考えていません。その時代、その時代で流行っているものを取り入れながら、自分なりに適応していくだけです。僕は意外とそういうことができる人間なんです。だから、どんな時代でも、自分が何歳になっても、時流に合わせられる気がするんです。

(略)

ただ、時代についていったり合わせていったりしても、しがみつこうと思わないことはとっても重要かもしれない。しがみつく感じが垣間見えたら……それは単に惨めだから。

“蛭子の基本方針” 

【編集部訳】徳のある人のまわりには、必ず人が集まってくるものだ。

 

 この「論語」には納得しますね。(略)僕の知っているところで言うならば、ビートたけしさんがそうかもしれない。(略)

たけしさんの性格はもちろん詳しくわかりません。でも、むしろ弟子なんてとらないタイプの人だと僕は思うんですよ。たけしさんに憧れる人たちが、勝手にどんどん集まってきた。もともとは、そんな感じだったはずなんです。(略)

単純に「たけしさんのことが好きでたまらない」という一点で強く結束しているような、そんな関係性に見受けられるのです。

 だから、たけし軍団は他のグループとはちょっと違う印象を受けるのかもしれませんね。基本的に群れることが大嫌いな僕ですら、ときどき、「あの軍団に入ってみたいなあ」なんて思ってしまうような、不思議な吸引力や居心地の良さがあるんです。

 そんなたけしさんを見ていても感じますが、自然と人が寄ってきてしまうようなタイプの人は、けっして人を差別するようなことはしません。誰であろうと、平等に扱うんですよね。それに、自ら好んで人の上に立とうとしないという特性があるように思います。

 

みんなの上に立って、支配したり威張り散らしたりするような真似はせず、自分もその集団の一員であるように振る舞うことができる。

 

 単に自分の意見を押し付けるだけではなく、「あなたは、どうしたいの?」って、一人ひとりの意見を、その人たちと同じ目線できっちりと聞いてくれるんです。それはつまり、その人の意志や自由を、ちゃんと尊重してくれるということでもありますよね。

 

 言うまでもなく僕自身は、たけしさんのように器の大きい人間ではありません。それこそ、“徳”だってまったくないでしょう。だけど、不思議と小さい頃から「人に嫌われている」と思ったことはないんです。むしろ、「人から好かれるタイプだろう」って、自分では感じているくらい。なぜかというと、僕は他人の悪口を言わないし、他人を傷つけるようなこともしないから。もちろん、会話の流れのなかで冗談っぽく冷やかしたりすることはありますよ。だけど、自分がされて嫌なことは、絶対他人にもしない──それが“蛭子の基本方針”なんです。

 だから、僕のまわりになんとなく人が集まってきてしまうことって、意外とあるんですよ。ヘラヘラ笑っているから、とりあえず危害を加えなさそうで、安全な感じがするのかな?

ローカル路線バス乗り継ぎの旅」 

【編集部訳】3人で行動するときには、必ず自分にとって師となる人がいるものである。

(略)

[『路線バス』での序列は、太川、マドンナ、僕]

3人がいたら、必ず僕がいちばん下っ端になるんです。

 といっても、むしろ、自分のほうから積極的にそうしているきらいがあります。

(略)

[太川とマドンナの意見が一致するようならば、僕は何も言わずそれに従います。両者の間で意見が分かれたり、両者とも迷っていて僕に意見を求めるようだったら自分の意見を言いますが、基本的にはふたりにお任せ。

 

極力、「自己主張をしない」というのが、僕の基本方針のひとつです。

 

 そこで、もうひとつ常に気を付けていることがあります。それは、リーダーのネガティブな発言に同調しないということ。「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」であれば、旅が進むにつれてみんなの疲労度が増してきます。すると、本当にときどきですが太川さんが僕にこっそり、「蛭子さん、今回のマドンナはなかなか手が焼けるねえ」なんて、軽く愚痴ってきたりすることがあるんですよ(太川さんバラしてごめんね)。(略)

でもそういうとき、僕は黙ってその話を聞きつつも、「本当にダメですよね」とは絶対に口にしません。ヘラヘラと笑いながら、「ああ、そうですねえ。大変ですねえ」と言うぐらいに留めて、なるべくその会話がそこで終わるように仕向けるんです。というのも、そこで僕が太川さんの意見に同調したら、太川さんと僕、そしてマドンナといったように2対1の構図が生まれてしまうから。そうなると、本人たちが意識しようがしまいが、いつの間にかそのひとりをふたりで攻撃したり、排除したりする構図になってしまう恐れがあるんです。

 

 僕は、ことあるごとに「群れるべきではない」「グループに属するべきではない」と言ってきました。主張が少ない僕にしては、よほど自分で強く思っていることなんだと思います。

 グループ内では、必ず多数派と少数派が生まれて、その一方が一方を差別するような構図になりがちです。3人というのは、僕ひとりでその状況を防ぐことができるギリギリのラインなんですよ。僕を含めた2対1の構図にならないよう、常に1対1対1の関係になるように調整する。そのためには、僕、つまり残されたひとりが一歩引いた立場から全体のバランスを見ていたほうがいいと考えているんです。

 もちろん、ただ「ハイハイ」とふたりの言うことを聞いているだけではなく、ときにはふたりが対立してしまわないように冗談を言うことだってあります。そういう配慮がすごく大切だと僕は考えているんです。

協調性 

【編集部訳】 真の教養人たるもの、和合はするが、雷同はしない。

(略)

 巷では、「蛭子は人のことなどお構いなしで自由気ままな奴」みたいに誤解されているような気がするのですが、こう見えても、それなりの協調性はあるんですよ。テレビの仕事でも、「蛭子さん、これをやってください!」って言われたら、命の危険がない限り、基本的に何でもやってしまいます。そこで、「いや、それはちょっと無理だよ……」と言って断るようなことはまずありません。『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』だってそう。あれこそまさに、協調性が必要とされる仕事。本当に行き当たりばったりの収録なので、3人で助け合って旅を進めないとロケの時間内にゴールまで辿りつけないんですから。

(略)

みなさんがどんなふうに見ているかはわかりませんが、一応は20回も続いている人気シリーズを大きな問題もなくやってきたんです。さすがに協調性はあると認めてくれてもいいんじゃないかなあ、と淡い期待を抱いています。

 自分にウソをつき続けたら自滅する

 長いこと芸能界に身を置いていると、たくさんの芸能人の方に遭遇します。カメラが回っているとあんなに明るいのに、普段は物静かな芸人さん。テレビに映っているときは、コワモテなのに実際話すとものすごく腰が低くてていねいな役者さん。本当にさまざまです。ただ、これは僕の持論なのですが、あまりにも無理をしている人、無理をして自分を作っている人は、いつの間にかこの世界から消えてしまうんですね。

 それはきっと、どこか自分を偽っていたというか、自分にウソをついていたんだと思うんです。

 

自分にウソをつくことの何が怖いかって、自分につくウソは、いつの間にか真実になってしまうんですよ。

 

 そうやって内面的な葛藤によって、自分自身がやがて壊れていく。そういう人って、みなさんのまわりにもいませんか? 過剰に自分を作り過ぎた結果、その自分を受け止められなくなってしまってやがて自滅してしまう人。人間は、できるだけ自然体で、自分自身に正直なのがいちばんです。

ギャンブルがある限り

[駄菓子屋のクジ、メンコ遊び]近所のスマートボール……という具合に、僕は幼少時代に、何かを賭けて勝ち負けを競うことの楽しさを知ってしまったようなんです。その楽しさは、自分の生活環境に多少の変化があろうとも、いっさい変わらないんです。

(略)

僕は幼少時代から貧乏時代、そして今に至るまで、それを楽しみ続けています。人生におけるかなり早い段階で、自分にとって「楽しいこと」を見つけることができて、それを細く長く楽しめているのは最高に幸せなこと。

 だから、こう言えると思うんです。

 

ギャンブルがある限り、僕はけっして身を持ち崩さないだろう、と。なぜなら、好きなギャンブルをずっと楽しむために、きちんとお金を稼いで、贅沢もせず、質素な暮らしを続けていくからです。

 

 これからの人生、どんなことがあるかわかりません。だけど、たとえまた貧乏になろうとも、僕はギャンブルをやり続けることだけは断言できます。なぜならそれが、僕にとってのいちばんの楽しみなのだから。

 少しの想像力があれば生きていける

 たしかに、若い頃は凄まじい才能発揮したのに、年をとるにつれてどんどんしぼんでいく人ってどの世界にもいますよね。だけど僕は、「かつてすごかったのに今は凄くない人」よりも、「一向に芽を出す気配すらない人」の方が気になるかな。

 

 何をするにしてもどこか漫然としていて、ただ言われたことをダラダラやってるだけの人って、どこの職場にもいませんか?(略)

 そういう人って何かの才能があるとかないとか、適性があるとかないとか言う以前に、「見る目」がないんだと僕は考えているんです。「自分がこうしたら、こうなる」と常に思いを巡らせることができない。言い換えれば、“先を見通す目”がないんですよね。

(略)

 正直、向上心みたいなものは、僕には欠けているのかもしれません。だけど、自分がやったことに対して「相手はどう思うかな?」ということは、意外と現実的に考えているほうなんです。漫画についてもそうでした。たとえば漫画に対する向上心──とりわけ“絵”に関する向上心は、かなり早い段階で捨てました。「これはもう、どうやってもうまくならないな」と、自分で早々に結論を出したんです。絵のうまい人は、この世にいくらでもいます。それこそ、“才能”と言っていいでしょう。最初に『ガロ』に原稿を持っていったとき、編集者に「ちょっと絵がねえ……」と言われた時点で、そこで勝負することはあきらめたんです。

 では、どうするか。考えた結果、僕はストーリーで勝負する方向に自ら舵を切りました。画力よりも発想力ということです。絵はうまくなくてもいいから、「他の人が思いつかないようなストーリーを考えてやろう!」と決心したんです。そこで必要となってくるのが、先ほど述べた「ちょっと先を見通す想像力」なんですよね。

 この漫画を読んだら、この人は次にどんな展開を予想するだろう。それを想像しながら、敢えてそこから外れるようなストーリーを考える。やがて、僕の漫画は「シュール」と言われて、ある程度の評価を得るようになりました。絵のヘタさと物語のシュールさを組み合わせることによって、独自性を出すことに成功したんです。

 遠い未来のことなんて、いくら考えてもわかりません。だけど、ちょっと先のことだったら、自分で想像がつくじゃないですか。現状に甘んじることなく、ほんの少し先を見とおす力。孔子さんの言う「不断の努力」というのは、じつはそういう小さな想像力の積み重ねを意味しているのかもしれませんよ。

 過ぎたるは猶及ばざるが如し

【編集部訳】多いことも少ないことも、同じくよろしくない。何事にもちょうど良い「按配」というものがあるのだ。

 

 最初に絵を描き始めた頃、僕は画面いっぱいに細かく絵を描いて、自分が一生懸命努力した爪痕を残そうとしていました。だけど、それをあとから眺めてみると、ただ頑張って描いただけで、全然良くないんですよね。びっしり描いてあれば良い絵というわけではないんです。絵を描き込んでしまうと、逆に見づらくなることがあるんですよ。「この人、えらい細かく描いたな」とは思われるかもしれないけど、別にうまいとは思われない。

 それよりも、きちんとレイアウトを考えたうえで、画面の要所要所にポツンと絵を描いたほうが、よっぽどうまく見えたりする。僕の場合は、完全にそのやり方ですね。そのほうが描くのも楽だし……見栄えもいい。

 その原理で描くので、僕の漫画はスカスカです。だけど、それが当時のヘタウマ・ブームに乗って、意外と評価されるようになった。つまり何が言いたいかというと、やっぱりそれも按配というか、「何事もやり過ぎはよくないですよ」ということです。

蛭子の気遣い

 謝って済むならば、僕はいくらでも謝ることができるんです。

 

 先日、息子の嫁にひどく怒られました。孫の名前を覚えていないという話を、僕があちこちでしていたものですから、「お義父さん、それはちょっとあり得ないですよね」って咎められまして。たしかに、それは怒りますよね。なので、僕も嫁に素直に謝った。ただし、謝ったからといって、すぐに孫の名前を覚えられるわけではないんですよ。いまだにちょっと、うろ覚えなところがありますから。再婚した今の女房の娘が産んだ子どもは、すごく可愛いなと思って名前もちゃんと覚えているんですけど、息子夫婦はちょっと離れた場所に住んでいるから...…こういうことを言うから、怒られるんだろうな。

 この『論語』で思い出したのだけど、自分では失敗と思っていないことを、他人から失敗のように扱われる場合はちょっと困ってしまいますよね。

 たとえば先日、『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』の特別番組に出演したときのこと。(略)スタジオには一緒に旅をしてきた歴代マドンナたちが、大勢ゲストで来てくれていたんです。その収録が終わる間際、司会の人が「蛭子さん、もう一度旅をするなら、誰と一緒に行きたいですか?」って聞いてきたんですよ。それはさすがに僕でも気を遣いますよね。何しろ、歴代マドンナたちが、ズラリその場にいるわけですから。そこで正直に、「○○さんと行きたいです」とは、やっぱり言えないじゃないですか。そこで僕は考えました。なるべくそこにいるみんなが頭にこない返答は何だろうって。その結果、僕の口から出た言葉が、「なるべく若い人がいいです」だったんですよ。そしたら、歴代マドンナたちはもちろん、スタジオにいた全員から批難ごうごうで。もう完全に人でなしの扱いをされてしまいました。

 でも、そこにいたマドンナたちは、みんなそれなりの年齢の人ばかりだったから、僕としてはきっと笑って済ませてくれるって判断したんですよね。全員に気を配った結果の答えがそれだったんです。そのあたりの気遣いは、誰にも気づいてもらえませんでした。もちろん、そこで僕はすぐに謝罪するわけです。