モンガイカンの美術館 南伸坊

1983年の本。

デュシャン

(略)やはり芸術は、美術館内(ただし館内のトイレは除く)でのみ、可能であるにすぎないのだろうか?
 私たちは外を歩けばあらゆるところに「現代芸術」をモクゲキすることができる。舗装道路に白ペンキで意味ありげに、あるいはなさげに書かれた小さな記号、あるいはゴロリと「物」として放り出された土管、なぜか高速道路に放置された矩形の芝生の一片、しかし、これらを取りあげた美術ジャーナリズを、寡聞にして私は知らない。
 ところが、迂闊な美術ジャーナリズムを尻目に、さらに奥深い芸術探究をするグループを私は知っているのだ。団体の名称は「超芸術研究協会」。(略)
見ればわかるとおり、これは元通用門をふさいだ単なる壁なのだが、彼らによると、
 「芸術とも芸術家とも離れて外延の生活空間に、無意識無作為につくられた夢の結晶のようなナニカ」
 なのだということになる。
 現代では、芸術をつくるということ自体、すでに歪んだ生き方なのだ。生活こそが大切なのに、と語ったデュシャンは、この研究家たちをはたしてどう見るのだろうか。

パロディはもうダメ

 パンフレットのタイトルには「パロディ魔・エロ展」とあって、どうやらエロというのは人の名前なのであった。
(略)
パロディなんて言葉にはちょうど10年前がよく似合うので[とホッタラかして](略)
私は「史上最ワル」という惹句の映画『ゾンビ』をやっている映画館へ(略)
 映画は、ハッキリいって面白かった。(略)病人のような顔色の悪い、動作のはかばかしくない連中をやたらに撃ちまくる映画で(略)
 どうも、この映画の主人公はこの半病人ではなくて、殺戮者たちのようで(略)
気に入らない連中が近づけば片っ端から殺すというような、欲望のキワミをしているのであった。
 「ずいぶん、派手に過激な映画だな」
 と私は嘆息してしまった。嘆息ついでに、「現代は野放しの欲望の時代だからな、まァ、出るべくして出た映画といえる」
 なんて、映画評論まがいの発言までしてしまったのであった。
 いまの世の中、鶴田浩二さんでなくたって、右も左も真っ暗闇のケダモノゴッコのまかりとおる世の中なのである。よって立つところの信心もないのだから、この世でエライのは、一等いい気持をしている人なのである。そうゆーことはお金さえあれば解決のつくことだから、つまりお金をたくさんもっている人が一等エライのであった。
 こういう時代のエライ芸術は、気持のイくなる芸術であって、つまり欲望に奉仕する芸術が力強い現代の芸術なのである。
 パロディがもうダメだというのは、もう欲望を刺激しないからである。さしたる信心もない者が無信心の者に道を説いてみせたところで、ちっとも相手のココロにひびかないのだ。だから風刺とかパロディとか思想のようなことをいいたい場合は、よっぽど信心のある人でなくてはいけないのである。せっかく思想にイイことをいっても、いったことにならないのだから、無駄骨ということで、省エネルギー時代にはマッチしないやりカタなのである。
(略)
画家も、鑑賞者も、ドーセ畜生道に堕ちているのだから、いまさらチャンチャラおかしいのである。このまんまの世の中で無信心の者同士にウケようと思ったら、ひたすら欲望のゴンゲとしてヤミクモに過激になるほか道はないのだ。そうすればモーカルと私は思っているのである。でも、人間ってそれほど過激になれないのよね。信心しなさい、ダマサレタと思って。

岡本太郎

(略)近頃の芸術家は、自分のキチガイをうまくなおしてしまって、自分もフツーの人になりおおせて、イイ子をしているのである。そうしておいて、芸術家とか天才とかよばれて差別される片方で得るはずの「メーヨ」もチャッカリいただこうとしているのである。
 その点、岡本太郎さんは、誰もよろこびそうもない「情念がドロドロ」しているような、気持の悪い内臓のような、キチガイの夢のような絵もさかんに描いて、芸術は心地よくあってはならない、上手であってはならない、美しくあってはならない、というずいぶんとシンプルなようなリクツまでいっているのである。
 差別はいけないかもしれないが、私はあえていう。
 「岡本太郎は天才である」
 しかし、私は岡本太郎の絵は好きではない。
(略)
 岡本太郎さんのサービスは、いくぶんリクツでするほうに傾いているようで、やってしまったものより、いってることのほうが面白い。
 いいたりなかった分をキャンバスにぶちまけている絵は、私にはみんな一様に見える。「重工業」と題する絵に、なぜか元気そうな「おネギ」が登場していたのは面白かったのだが、あとはおおむね退屈なのだった。

イタリア・ルネッサンス美術展

 「さすがにルネッサンスはエライもんだ」
 と私は感心して、早速ベンチに座って休憩してしまうのであった。スタミナが足んないのだった。
(略)
まあ、なんというか、ビッチリとスタミナたっぷりに描かれたおそるべき代物ばっかりなのであった。私はタメ息をつきながら小声で絶叫してしまったのだった。
 「なんだってこんなにガンバレルのよ!」
 なんだって、こんな具合に、どこもかしこも手を抜かずにコッテリ、しつこく絵が描けるのであろうか? と、私はその場に立って考えてしまった。
(略)
 ルネッサンスの頃の人々は、この世界は神が創造したものだと思っていたのである。とりあえずそのように決めなくては困ったからだろう。この勘違いの基盤に立って、新たなる勘違い、自らも宇宙の創造者たらんとする野望が生じてきたのだった。我は神なり、神に近づく者なり、と。神の創造物は完璧でなければならなかった。一枚の板に世界を創造する時、手を抜いたところがあったりしちゃあいけなかったのである。
(略)
 そういうわけで、ルネッサンスの人々というのは、野望の人々なのだった。布は布、裸は裸、目は目のように描けば、それはつまり、人間が創造者たる神に近づくのであった。
(略)
レオナルド・ダ・ヴィンチさんのような天才は、衣のしわを毎日、毎日あきずに眺めて、毎日毎日、あきずに描いたり、水の流れを毎日毎日あきずに眺めて、毎日毎日考えたりしていくうちに、単に絵を隅々まで描ききることが、宇宙をつかむことにはならないのだと気がついてしまうのだ。彫刻家ミケランジェロさんも、いたずらに作品を完成することのみを望まなくなるのだった。完璧をつきつめていくと、おそるべき摂理が見えてきたのだろうか?

横尾忠則

(略)横尾忠則さんは、私の高校の頃からの尊敬の人だったわけで、いつもその時代を読むことの俊敏さ、洞察力というものに敬服をしているのであった。
 その横尾忠則さんが、イラストレーター、デザイナーの肩書を捨てて、芸術家、画家に転業をしたのである。これがつまり、時代を洞察しているなア、と私が思う根拠なのである。
(略)
 横尾忠則さんの、今度の個展の絵というのは、非常にヘタクソである。しかも、ヘタクソで味がある、というのでもない。気持いい絵でもないし、正直になんだか、コマッチャウ絵なのだった。
 ところが、パンフレットのデザインはおそらく横尾忠則さんのデザインだと思うが実にうまいし、パンフレットにのってる作品写真は、実物よりずっとキレイにカッコよく見えるのである。
 しかし、そんな風に通りのいい、うまさとかカッコよさなんて、もう横尾忠則さんはどうでもいいし、すべてわかっちゃっている。そういうテクニックを、全部捨て去るためにはデザイナーから画家に肩書を変える必要があったのだト、そして習い覚えたテクニックを極力排除するために、ワザトらしいくらいにヘタクソに描く必要があったのだった、と私は思うのだ。
 それは、芸術家のようにかくための、芸術家のようにかきたくなった横尾忠則さんの方法なのだった。(略)

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