佐々木マキ、ガロ、村上春樹

旧作に書き下ろしを追加したもの。

ノー・シューズ

ノー・シューズ

  • 書き下ろしから。

朝日ジャーナル」連載

うんと前衛的で難解なマンガを描いてくれ、というのが「朝日ジャーナル」編集部の注文で、たまに比較的わかりやすいものを持って行くと、突っ返された。裏に何かありそうだと私は感じた。長井さんもそれを承知の上で私を推したようだ。どうも私のマンガは、小規模な社内政治の具として使われていたらしい、私は、利用されている振りをしてこちらも利用してやれ、と思っていたので何も言わなかった。
 連載は1970年2月まで続いた。担当者が「もうやめてもいいけど、どうする?」と急に熱のさめたように訊くので、私に用がなくなったことが判った。

林静一

当時「ガロ」の若い描き手の中で、いちばん華やかで人気があったのは林静一さんだろう。林さんは、なかなか本心を見せずに、冗談にしてはぐらかしたり、ぬらりくらりとかわすところがあった。長井さんに言わせると「ハヤっさんはね、十六の頃から、お袋さん抱えてひとりで働いてきたんだよ。すっとぼける術だって身に付くさ」とのことだった。

長井勝一

長井さんは、若くてワルだった頃の話をよく私にしてくれた。戦後の無秩序とどさくさの中を、生き生きと走りまわる若い長井勝一の姿が目に見えるようだった。当時の長井さんは仲間から「カミソリ勝っちゃん」と呼ばれていたそうだ。(略)
「でかい木の箱があってさ、それがゼニ箱だよ、稼いできたカネをそこに投げ込むんだけど、すぐに一杯になるんだ、紙幣ってさ、ぶわっと盛り上がるだろ、ゼニ箱からあふれそうになる、そいつをさ、おれは足で踏んづけてギュウギュウ押し込むんだよ、革の半長靴を履いた足でね、その頃のおれはね、マキさん、もう無頼漢だね、うん、無頼漢」
(略)私は、長井さんの歳をとってからも何かの拍子に垣間見える、ワルそうなところが好きだった。

村上春樹

私が村上さんに会ったのは四回ほどで、いずれもごく短い時間だった。
(略)
ふしぎに服装についてはよく覚えている。初めて会ったのは暑い時で、村上さんは胸に「アルファルファ・アスレチック・クラブ」という英字のはいった白いTシャツに、スリムのブルー・ジーンズという恰好だった。その次お目にかかったのは寒い頃で、身頃がウールで両袖が革、胸にレターの付いた、ごついアウォード・ジャケットを着ていた。次は初夏で、コバルト・ブルーのポロシャツ、背中にオレンジのトレーナーをはおっていた。それから真夏に、夫人同伴で私のところに来たことがある。私はクリスマス向けの絵本を描いている最中だったが、夫人が描きかけの絵を見て「色を塗ってて、はみ出すことってないんですか」と私に言うと、村上さんは小さい声で「そんなこと、訊くなよ」と夫人をたしなめた。「いや、いいんですよ、一枚の絵の中には、多少はみ出しても大丈夫な部分と、決してはみ出してはいけない部分があるんです」と私は答えた。
 村上さんは白いTシャツ、夫人はカーキ色したチノのミニ・キュロットだった。
 村上春樹さんから私の受けた印象はというと、まず清潔、そして寡黙、それから何だろうと考えて、わがままと言ってもいいし、逆に抑制と言ってもいい。きわめて賢い抑制を伴ったわがまま、とでも言うべきものを感じた。但し、あくまで三十年前の印象である。

イカ

二十世紀の工業製品で最も美しいものはと訊かれたら、私はライカ?fと――実物は見てないが――ルガーP08を挙げるだろう。どちらもドイツ製である。
 思い切ってライカ?fを買って、試しに近所を写してみたら、遠い昔の空気のようなものが、付属の1930年代のレンズ、エルマー五十ミリを介してよみがえってくる気がした。
(略)
私がカメラを持って街を歩き回るのには、また別の理由もあって、とても大袈裟な言い方をするなら、それが幼い頃から敵対してきた「世界」と和解する手続きのように思われるからである。私が「世界」の細部にレンズを向けてシャッターを押す時、私はその細部を無条件で肯定している自分に気が付いてちょっと驚くのである。

1989年『ぼくのスクラップ・スクリーン』から。
しりとりでタイトルがつけられている。

すま

(略)ぼくの家から須磨海岸までは歩いて三十分ほどの距離だった。ぼくはここで、泳いだり釣りをしたり、日なたぼっこをしたり友達と喋ったり、時には女の子と散歩したりした。
 海辺に水族館ができたのは1957年頃のことだ。立派な水族館だった。遊園地や屋外ステージまで付いていた。一時期、屋外ステージではよく漫才をやっていた。高校生のぼくは、魚を見るためでなく漫才目当てに、しばしば水族館へ足を運んだ。
(略)漫画トリオ(若くてキビキビしていて、何をやってもおもしろかった)、上方柳次・柳太大阪弁を下品な言葉だと思う人は彼らの漫才を聞くべきだ)、横山ホットブラザーズ(お父さんがまだ元気で、女の子がひとり混じっていた)などなど。
 水族館と国道(市電が走っていた)を隔ててラジオ神戸の建物があった。この放送局の人気番組は、日曜夕方からの「電話リクエスト」だった。局へ電話して、うまくいくとメッセージを読んでもらえて、リクエスト曲をかけてもらえる。アルフレッド・ハウゼ『真珠採りのタンゴ』、プラターズ『夕陽に赤い帆』、アマリア・ロドリゲス『暗いはしけ』、パット・ブーン『砂に書いたラブ・レター』、ビリー・ヴォーン『浪路はるかに』……聴きながら、中学生のぼくは「やれやれ、あしたから、また学校か」と思った。

キムチ

小学三年生から四年生になろうとする春休み。ぼくは仲のよい朝鮮人の友達と喋りながら小学校の塀に沿って歩いていた。学校の門の所まで来ると、友達はぼくの腕を小突いて言った。
「おい、見てみ、おれらの学校に外国人がはいってくるらしいぞ」
見ると校門に立てかけられた看板に〈外国人入学希望者のための相談会〉と書いてあった。
友達は昂奮気味に、
「外国人かあ。何人やろ。アメリカ人やろか、フランス人やろか」
と言った。
ぼくは、ぼくの無邪気な友人に、何と返事してよいか判らなかった。
(略)
[小六の冬、ひとりで野菜を売っている時]
朝鮮人の老婆が、まっ白な髪をひっつめて結い、長い円錐形の裾を持つ白いチョゴリを着て立っていると、白い大きな鳥のようだった。カヌーのような朝鮮靴を履いて、頭に荷物を載せ、胸を張って、うんと外股でゆったりと歩いている姿は船のようだった。子供がひとりで店番をしていると、そんな老婆から舐められることがよくあった。ちゃんと釣り銭を受け取っておきながら、五分ほどして戻ってきて、さっきの釣りをまだ貰っていないと言うのだった。こちらが何を言おうが一切聞きいれず、
「ニイチャン、ハヨ、五エン、チュリ、クレヤ」
を繰り返すのである。その態度が終始威厳に満ちて堂々としているので、憎めず感心してしまう。もちろん日本人の老婆もこの手をよく使ったが、残念ながら威厳なんてどこにもない、卑しくみみっちい印象だけが残った。

ちゅうがっこう

(略)教師による体罰なんて日常茶飯事だったし、生徒だって教師を殴った。毎年卒業式には校門の脇にパトカーが待機していた。
 そういう中学校があっても、当時は問題にもならなかった。「ああいう場所のああいう中学校ではそういうこともあって当然だ」というわけで、ニュース・ヴァリューがまるでなかったのだ。(略)

https://www.span-art.co.jp/exhibition/201202inoueyosuke/inouemugon01.jpg
 

ジョーク

(略)本気でマンガを描いてみたいな、描けるかな、と思ったのは高校生の時だ。そのきっかけになったのは「漫画讀本」に載った井上洋介の作品だった。それは、男が街角で金魚を買って、ビニール袋に金魚を入れて地下鉄の階段を下りて行くと、金魚はばかばかしいほど巨大に膨れ上がって、地下鉄の構内一杯になって――というもので、あ、これはおもしろいと思うと同時に、何か心に閃くものがあった。
 その絵の線とフォルム、ことに太目の線が直角に交差した陰影の辺りが、日本的風土ときっぱり絶縁した乾いた感じで、何とも魅惑的だった。
 作者にしてみれば、特に会心作でもないのだろうが、ぼくのほうで、この作品を何か啓示的に見る時機に来ていたのだと思う。
(略)
ぼくたちは、乾いたもの、狂ったもの、ファンタスティックなもの、ソフィスティケイトされたもの、すばらしくバカバカしいもの、つまり超現実的でナンセンスなものに心惹かれていた。また、その辺の感覚が解るか否かで、仲間かどうか嗅ぎ分けていた。
 悩みや怒りがあったにしても、それをナマな形で開陳したりするのは、少年的プライドにかけてこの上なく恥ずかしいことだと思っていた。
 だから総てがジョークだった。つまりぼくたちは、間もなく現れるビートルズを待ち構えていたのだ。

(略)ビートルズは強烈だった。もうずっと以前から心の中にあったものが、やっと突破口を見出したような感じだった。見えなかったものが見えたようで、荒々しく優しい気持ちになれた。

マチス

若くて生意気な頃、私はマチス莫迦にしていた。例えば、装飾的な室内に女が座っていて窓から海が見える――そんな絵のどこがいいのだと思っていた。ただのブルジョア趣味じゃないか。第一、問題意識というものが、まるでない。
 問題意識。壊しい言葉だ。
 1979年、三十三歳の私は二歳の長女を連れて、ある展覧会へ行った。
(略)
人を掻き分けて出ロヘ向う途中で、ハッとするような絵が目に飛び込んできた。マチスだった。
 マチスの回顧展を観たのは、その二年後だった。
 年代順に作品を並べてあるので、マチスの試行錯誤の跡がよく解った。1869年生まれのマチスが苦労しているのは、自分の中に根強く残るヨーロッパ絵画の伝統をいかにして断ち切るか、ということらしい。アカデミックな、光と陰と奥行きの問題――二次元の画布の上に三次元的イリュージョンを作り出すこと――から解放されて、絵画に自由な平面性を取り戻したい、ということだろう。
 私はマチスの作品群を前にして、その伸びやかなフォルムと美しい色彩のハーモニーに陶然とした。実に素直に感動している自分に驚いた。どの絵にもマチスの知性と温かさ、センスと品の良さが窺われて、私はそれに敬服した。〈問題意識〉なんてゴミのような言葉だと思った。
(略)