本当の翻訳の話をしよう 村上春樹 柴田元幸

本当の翻訳の話をしよう

本当の翻訳の話をしよう

 

帰れ、あの翻訳

村上 ジャック・ロンドンリバイバルの価値があると思います。僕、昔から好きなんですよ。(略)

『マーティン・イーデン』 、僕は英語で読んで心を打たれたし、翻訳でも読まれるといいなと思いました。

(略)

カーソン・マッカラーズ、個人的に大好きで、『心は孤独な狩人』(略)自分で訳したいくらいなんだけど、何せ長いからなあ……(略)

『結婚式のメンバー』は、今僕が訳しているところです(略)

『悲しき酒場の唄』の三冊はつねに出版リストに入ってるべきだと思うんだけどなあ。『黄金の眼に映るもの』『針のない時計』も個人的には好きだけど。 

 

結婚式のメンバー (新潮文庫)

結婚式のメンバー (新潮文庫)

 

 

二葉亭四迷との共通点

村上 小説文体というのがだんだんできてくると、その文体で書かないと小説ではないという決まりみたいなものができてしまうんです。僕がちょうど小説を書こうとした頃は、現代文学という縛りがあって、それじゃないと駄目、という雰囲気がありました。僕はそれを書くつもりがなかったし、書いても上手くいかなかったので、じゃあ英語で書いてみようと思った。そうすれば楽だろう、縛りから逃げられるだろうと思ったんです。それは[ロシア語で書いてみた]二葉亭四迷も同じだったでしょうね。江戸の文章から抜け出すには別のシステムを持ってこないと抜け出せなかったのだと思う。僕の場合、翻訳と書くことが最初からやっぱりどこかでクロスしているんですね。 

(略)

あの頃は大江健三郎中上健次村上龍というメインストリームがあり、そこから抜け出そうとするには、たとえば筒井康隆的なサブジャンルに行くしかない。僕はサブジャンルに行くつもりはなかったので、そうなると新しい文体をこしらえるしかない。もともと僕は小説を書こうというつもりはなかったから、逆にそれができたんだろうなという気がします。

(略)

文体に対する提案といえば漱石が浮かびますが、漱石は漢文の知識と英文の知識、江戸時代の語りみたいな話芸を頭の中で一緒にして、観念的なハイブリッドがなされていたと思うんです。だから漱石は翻訳をする必要がなかった。

(略)
漱石は文体に対してコンシャスだったと思うんです。だから彼を超える文体を作る人はその後現われなかった。少しずつバージョンアップしたけれど、志賀直哉川端康成も根底にあるのは漱石の文体なんです。戦後、大江さんあたりから変わってくるわけだけど……。

 柴田元幸講義 日本翻訳史 明治篇

僕を含め二十一世紀日本の外国文学翻訳者は、翻訳の精神を誰よりもまず森田思軒から受け継いでいると思います。にもかかわらず、実践している訳文自体は、精神としては思軒の正反対と言ってもよさそうな黒岩涙香の文章にはるかに近い、というねじれた事態になっています。二人とも明治二十年代から、新聞を主たる舞台として活躍し、森田思軒は翻訳王と言われていました。坪内逍遥は思軒のことをこんなふうに書いています。

(略)

英文如来を森田思軒氏とし独文如来森鴎外氏とし、魯文如来を長谷川四迷氏とす。

(略)

 では、思軒自身は翻訳についてどう考えていたのでしょうか。(略)

とにかく極力直訳で行こう、という姿勢です。

(略)

 思軒の訳文は「周密文体」と言われました。一語一句を極力原文どおり丁寧に訳した文章ということです。そんなの当たり前じゃないか、と思われるかもしれませんが、それを当たり前にしたのが森田思軒なのです。それまでの翻訳では、変えたり、削ったりが普通だったから。なかでも極端に自由に変えた翻訳は「豪傑訳」と言われました。そういう自由な翻訳を実践したなかで、いまでも名前が残っているのが黒岩涙香です。

(略)

涙香の出世作『法庭の美人』の序文です。「タイトルを変えてしまうなんて不当ですよね、我ながら僭越だと思います、でも本文はもっと変えてるんです、何せ翻訳してる間は原書を家に置いてオフィスで仕事してたんで、訳しはじめてから終わるまで一度も原文を見ませんでしたから。だからこれを翻訳って言うと実はまずいんですけど、創作だって言うと盗作だって言われるんで、あえて翻訳と呼ばせてもらいます。本文でもそうですから、タイトルが違うのも責められて当然です。でも私、翻訳者じゃないんで、そのへんはよろしく」といった感じでしょうか。

(略)

訳していた作品もかなり違っていて、森田思軒はかなりハイブラウで、代表的な訳業はジュール・ヴェルヌヴィクトル・ユゴーでした(どちらも英語からの重訳)。一方、黒岩涙香は今では忘れられたような大衆小説を次から次へと訳していました。

(略)

[思軒と涙香の訳文比較があって]

当時は格調高く思えたこの手の文章は、言文一致運動の流れの中で急激に古くさくなっていき(略)森田思軒は亡くなってしまいます。

(略)

[『法庭の美人』は実際に原文と比較してみると]案外違わないんです。約している間、一回も原書を見なかったというのが信じられないくらいです。

(略)

[涙香の]訳文はまるで原文のかたちをとどめていなくて、「直ちに」「直ぐに」「早速」といったたぐいの言葉が連発され、物語がスピーディーに進んでいきます。(略)[だが森田の]『十五少年』よりはるかにわかりやすい――つまり現代の日本語に近い――ことは認めざるをえません。

(略)

明治の翻訳を考える上でわくわくするのは、すべてどれが正解かわからない状態でやっていたということです。その後、二葉亭四迷的な翻訳が文学的とされ、ハイブラウな部分ではそっちに進み、大衆的な面では黒岩涙香的な訳が主流になったわけですが、もし言文一致の流れがあれほど大きくなければ、森田思軒のような漢文調がもっと続いたかもしれない。誰もがいろんなスタイルを使えたし、どれが主流・正解になってもおかしくないという緊迫感があった。「である」調か「ですます」調か、程度しか選択肢のない現代よりはるかにスリルを感じます。

(略)

 鴎外の翻訳は鴎外節ですらない文章になっている、翻訳者が自分の臭みを消しているばかりか作者まで消してくれているから、読者は作品そのものと向き合える、ということですね。「清潔な交渉」というのはたしかに『諸国物語』を読んだ実感にも合っている気がします。
 好きでもないかもしれない作品もガンガン訳していた鴎外と、ほとんど翻訳をしなかった漱石の対比が面白いなあと僕は思っています。漱石はとにかく翻訳ということに懐疑的でした。彼の小説の登場人物たちもそうです。

(略)

翻訳の教育的意義ということは認めていたと思うんですが、翻訳において露呈する二つの文化の違い、という点にはどうも懐疑的な発言が目につきます。漱石自身、自分の作品を誰かが翻訳したいと言ってきても、「あれは大した出来ではないから」などと言って断ってしまう。もちろん、自分が翻訳することにも燃えませんでした。いわゆる訳書も一冊もない。その理由が、翻訳が苦手だったからという話ならわかるんですけど、英文学講義録『文学評論』のなかの引用文訳を読むと、これが実に巧いんですよね。

(略)

鴎外はシベリア鉄道でドイツの新聞を取り寄せて、まるでツイートするみたいに、次から次に記事の内容を雑誌に紹介していました。

(略)

まあなかには小説の素材になりそうな面白い話もあるんですけど、誰それが何をしたというだけの短いものも多く、なぜ鴎外がこれをしなくてはいけなかったのか不思議です。しかも鴎外はこれを匿名で連載していて、連載は人気がなかったそうです。当時の日本にはまだ、西洋に追いつき追い越すためには西洋のものをどしどし取り入れなくては、という空気があったのでしょうが、鴎外のこの百年早いツイートは、そういう次元を超えている気がします。
 もちろん、つまらなくはないです。そこがまた不思議なんですけど、「(此決闘は九日に無事に済んだ)」というあたりの淡いユーモアがやっぱり効いてるんでしょうか。(略)

 短篇が上手いのは

村上 はっきり言ってチェーホフはそんなに上手いと僕は思わないんです。少なくとも今の時点から見れば。あと吉行淳之介をみんな上手いと言うけど、そんなに上手いと思わない。でもどちらもそれほど上手くないところがいいんですよね。『若い読者のための短編小説案内』でも紹介しましたが、短篇が上手いのは安岡章太郎小島信夫、それから長谷川四郎

(略)

ヘミングウェイのニック・アダムズものを読んだ人と読まない人とでは短篇小説に対する考え方が違ってくると僕は思うんです。あれは本当に素晴らしいし、短篇小説というもののすごくきっちりとした手本になっている。あと僕自身について言えば、フィッツジェラルドの「リッチ・ボーイ」を読んだのと読まなかったのでは、僕の中での短編小説の在り方が違ったなと思う。

(略)
「リッチ・ボーイ」は僕も訳したけど、どこから見ても見事に書けている。その書き込み力は、短篇の原型として、一種の黄金律として、今でも僕の中に残っています。

(略)

 昔は短篇からふくらませて長編を書くということもありましたが、最近はないですね。『女のいない男たち』のいくつかの短篇について、「続編はないんですか?」と訊かれるんですけど、もうひとつそういう気がしないんです。たぶん僕の中での短篇の位置が変わってきたんだと思います。

藤本訳ブローティガン

村上 藤本さんの翻訳で読んで興味を持って、それで原文を手に取ってみたという感じですね。まずは翻訳が最初だった。ぼくが大学生だった六〇年代の終わりから七〇年代のはじめにかけて、藤本さんの翻訳したブローティガンは、一種の、ガイディング・ライト(導きの光)のようなものでした。

(略)

それに飛田茂雄さんや浅倉久志さんの翻訳したヴォネガット。翻訳者と作家の密な関係があって、非常に幸福な時代だったと思います。僕が翻訳に興味を持ったのは、そういう人たちの影響があったのかもしれない。

(略)
柴田 藤本さんの訳文って、日本語としてすごく自然というわけではないんですよね。

村上 翻訳というものは、日本語として自然なものにしようとは思わない方がいいと、いつも思っているんです。翻訳には翻訳の文体があるわけじゃないですか。

(略)

僕が自分の小説を書くときの文体があり、そして僕が翻訳をするときの文体というものがもしあったとして、両者は当然違いますよね。会話がまず違ってくる。  

kingfish.hatenablog.com

 

総特集◎橋本治 ユリイカ 2019年5月臨時増刊号

ユリイカ 2019年5月臨時増刊号 総特集◎橋本治

ユリイカ 2019年5月臨時増刊号 総特集◎橋本治

 

“小説家”とうい在り方 

 俺は文学者になりたいという気も小説家になろうという気もなくて挿絵画家になりたいというだけだったから、絵が描けそうなものしか読んでいないんですよ。『リア家の人々』を書いたあとでふっと思い出したんですけど、スウェーデンの作家(マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー)の「マルティン・べック・シリーズ」──『笑う警官』が一番有名だけど──を二〇代のときに一〇冊全部読んだんですよ。ああ、こういう小説が好きだなとそのときに思ったのをズーッと忘れていたんですけど、もしかしたら小説を書く上でいちばん影響を受けているのはこの人たちかもしれない。非常に絵が緻密だった。その頃に作家になりたいとは思わなかったけど、感じる何かはありましたね。何かの影響を受けてはいるんだけど、そのまま書いたってものにならないとわかっていますから忘れちゃうんですね。影響を受けた作家がいたとすれば、その影響を捨てるところから始めなければいけないので、作家ってしんどいなと私は思っていますよ。久生十蘭の影響を捨てるのにもけっこう時間がかかった。 

刑事マルティン・ベック  笑う警官 (角川文庫)

刑事マルティン・ベック 笑う警官 (角川文庫)

 

 基本的にビジュアル・イメージ

 私は基本的にビジュアル・イメージです。心理分析か解析かそれとも描写かというのはあるんですけど、心理も表情と同じように見えるものだと思っているからビジュアル・イメージで書いちゃうというのに近いですね。心理を考えるんじゃなくて、イメージとして浮かんでくる心理を見て書いている。(略)

絵を描いていた人間だから、見えているものを見えているままに書くというのはありなんですよね。ありなんだけど、見えているものを文章としてどのように書けばリアルになるかは実はわからないんですよ。だから見えているものを書けているかとそればかり考えていますね。
(略)

原稿用紙を埋め始めた段階から絵が見えてくるということが私にとっては一番重要なことなんです。ただ、そういうことがわかるのはビジュアル関係者だけらしいということにあるとき気がついたんですね。たまたま一緒に仕事をしていた女性デザイナーが「橋本さんの小説を読むと絵が見えてくるんですよね」と言ってくれたので、じゃあOKなのかなと。『桃尻娘』を刊行当時に読んだというカメラマンにも「絵が見えてくるんだ、不思議だなと思った」と言ってもらえて、ああ良かったなと思いました。私は一貫してビジュアル・イメージばかり書いているんですよ。『窯変源氏物語』でも、見たこともない一〇〇〇年前の日本の風景を好き放題に書けたことが一番嬉しかったですね。光源氏が嵐の中で須磨から明石に船出するシーンなんて水の透明度まで頭の中で見えているわけですよ、俺は一体どこでこれを見たの?と自分でも自問したくらいですけど(笑)。見るということは自分の中でビジュアル・イメージを作るということでもあると思うんです。絵を描くというのはそういうことでもあるから、そうなってくると、頭の中で映画が動いているようなものなんですよね。

(略)

主人公が走り出すという話がよくありますけど、私の場合は文章が走り出すのを待っているところがあるんです。

(略)

物語というのは文章が作るものだといつの間にか思うようになってしまったので。わかっているものだと文章が動くんです。わかっていないものだと文章が動かない。『生きる歓び』の頃はまだスケッチの段階だったけど、長篇もそういうふうにスケッチするみたいに細かいタッチでやっていかなくちゃいけないのはしんどいと言えばしんどいですね。タッチの話で言うと、『蝶のゆくえ』の冒頭にある「ふらんだーすの犬」を書き始めたときに「あ、今までとは違う」と自分でも思ったんです。それまではガラスペンで細かいところをコリコリ描いていたのが、太い筆でグイッと描いているなという感じがした。そのあたりから何か変わったのかもしれない。ただ、『窯変源氏物語』なんかは最初から太い筆で書いていますけどね。平安時代のことはわかるけど、現代のことはわからないという困った人なんです(笑)。 

生きる歓び (角川文庫)

生きる歓び (角川文庫)

 

 

蝶のゆくえ (集英社文庫)

蝶のゆくえ (集英社文庫)

 

 橋本治という恵み 森川那智

(略)

 それにしてもです。三〇年払い続けたローンがようやく終わるというときです。一番多い時では月一五〇万円だか一七〇万円だか返済していたと聞きます。(略)

それを営々とペン一本でしのいできたのです。少しずつ出版業界が斜陽化してきた平成の時代にです。

(略)

そもそもの始まりはローンです。それまで賃貸で借りていた事務所でしたが、大家に、相続税が払えないので売りたい、買ってもらえるならそれに越したことはないと言われて、そんな金、銀行が貸してくれっこないとタカをくくっていたら、話がずんずん進んでしまって、バブルの一番高いところで買うことになったとか。
 はっきり言って、事務所を引っ越してもよかったはずなのに、仕事が乗りに乗っていて、物件を探すとか、引っ越しの手間暇とか面倒なことを考えたくなかったのでしょう。
 そのうえ、実家の建て替えがあって、そのローンも背負い、実家家族の生活も支え、そのために書きに書いて、誰もすべてを読んだ人はいないのではないかというくらいの豊饒さです。

(略)

 橋本さんは手術によって、左目が失明に近い状態となり、左上半分の歯を失くし(略)

四分の一なくなると言っていた顔は、顔の形状を保って、そこにちゃんとありました。

(略)

入院中に二〇〇枚の原稿を書き上げました。(略)六人部屋の病床で書いていた。一〇月二六日に退院。しかし一ヶ月後には再発が認められ、再入院することになりました。

(略)

 一六時間の手術には耐えられた身体が、放射線治療抗がん剤治療の副作用に苦しみ、全身状態が悪化、結局、肺炎で亡くなりました。

電話口の橋本治 さべあのま高野文子飯田耕一郎

さべあ みんなに振る舞うのが好きだったんだよね。
高野 お料理は得意な人だったよね,床の間に『現代日本料理全集』が並んでいた。「昨日作った炊き込みご飯があるよ。まだ腐ってないと思うけど、食べる?」と言われて、なつきちゃんとわたしそろって「うん、食べる~!」って。大根の葉っぱと油揚げの入った醤油ご飯だった。台所が広くて、子猫が食器棚の後ろで鳴いていた。当時の記憶は食べたことだけ(笑)。
飯田 どれも一九七九年の出来事なんですね。
さべあ (略)『ぱふ』の若手の人たちは橋本さんのところに教えを請うようにいっていたから。

高野 いっていた。一軒家で、二階に籐のでっかいベッドがあった。
さべあ 合宿しているみたいな感じで、みんな集まっていた。橋本さんがそういう若い人たちにいろいろ教えを授けていた。ただ、わたしはあまりそのころはかかわっていないんですよ。

 慈悲の笑顔 浦谷年良

[1980年フジ土曜ゴールデンタイムドラマ『ピーマン白書』、落ちこぼれ中学生25人が「小学校から勉強をやり直したい」と受け入れてくれる学校を求めて日本全国を旅する。橋本に1話脚本を依頼]

企画書に「学校とおとなの呪縛から子供を解放する」「一人の教師と二十五人の中学生による一大冒険叙事詩」とあったことが橋本さんの作家根性を刺激したようだ。
 この頃、橋本さんは新宿で「日本語教室」を開いており[打ち合わせ前に教室を覗き衝撃的授業に出会う](略)

橋本さんは平安時代の文学を論じながら、こう言ったのだ。「をかし」や「あはれ」って一杯出て来るよね。これ昔は一語で言っている言葉[だから](略)現代語でも一語で言えるはず。(略)

私ならこう訳します。「をかし」は「カッコいい」。「あはれ」は「ジーンときちゃう」。あゝ、これなら分かる。私は深く感動した。

(略)

 橋本さんとは、この日が初対面だったが、興奮醒めやらぬ私は打ち合わせの席に着くなりこう言った。「[こんな授業だったら私も古文が好きになってた](略)

是非あの調子で古典を現代語訳してほしい。『枕草子』をまるまる全部訳したらどうだろう。女子高校生になり切った橋本さんだったら、清少納言にもなり切れるはず。これぞ橋本さんにしか出来ない仕事だよ」。私の興奮がうつったのか橋本さんはこう言った。
 「そんな面倒くさいことやる人いないだろうがら、面白いかもしれない。うん、やる、やる」。

(略)

 約束の書『桃尻語訳 枕草子』、その上巻が世に出たのは七年後のことだった。

(略)

[橋本は第四話脚本のために]地道かつ周到な準備を始めた。それは現実の子供たちを徹底的に見ることから始まった。まずキャスティングされた子供たちニ十五人の写真を手に入れる。(略)[さらにスタジオで子供たちを観察し性格を読み取り]彼らの父と母はどういう人物であるのかを想像し、五十人分の親を描きこんだ。[第三話までの人物設定も加味し統一感ももたせ](略)

その上で橋本さんが最も力を入れたのは、子供たちの交友関係を浮き彫りにすることであった。子供は交友関係という「他人」によって性格が決定されるからである。(略)

クラスの支配機構が徹底分析され、詳細な相関図が描かれた。

(略)

性格設定を示すリポート、全二十四頁が完成した。そのメモの一部を紹介しよう。「川上杉作=二十五人のリーダー。父は会社部長。やさしい姉とすぐれた義兄がいる。自分は本当は落ちこぼれではないが、自分たちをそうさせている社会の仕組みというものは間違っているのだと信じている。そのような優等生は空洞を抱えているものでしかないということを象徴する存在である。後にグループからの離脱を計る」「小林牛太=中間項。魚屋の息子。ガサツな両親を憎んでいる繊細な息子。繊細であることを隠そうとして色々と出しゃばる為、みんなからはそう好かれていない。主流派中の星由里子を姉のように慕っている」

(略)

 私は舌を巻いた。何と本格的な取り組み方であることか。連続ドラマの一回を書くために全十三回の最終回までを想定して、一つの大きな物語世界を構築していた。少年少女たちの世界を、自分の人生で培ってきた全ての物差しを動員して作り上げようという気概に溢れていた。それは橋本版『十五少年漂流記』あるいは橋本版『繩の王』の構想でもあった。
 このような構想を背景にして『ピーマン白書』第四話「先生も生徒がいなけりゃタダの人」は書かれた。その中で子供たちは徹底的に生き生きと動き回っていた。にもかかわらず、いやそうだからこそか、この脚本は批判の嵐にさらされた。ライター三人、プロデューサー三人、ディレクター三人という制作体制が持つ独特な力学の影響だろう。ほとんど言い掛かりとしか思えないクレームが続々噴出し、その火の粉を払いつつ私はロケ準備を進めた。(略)

[ロケの朝、集合場所にやってきた橋本は]

「君は、こういう役なんだ。そのつもりで、思いっきり自由にやっていいんだよ」と子供たち一人一人に声を掛けて廻った。彼ら彼女らの眼が輝いたのは言うまでもない。ただ「この後どうなるの?」と訊いた子がいて、彼は何も答えることができなかった。「その時ほど自分が情けなかったことはない。帰りのタクシーの中で泣いていた」と、後に橋本さんは語った。

(略)

しかし演出家としての私は、まだまだ末熟だった。完成品を見ながら、脚本を読んだ時に感じた面白さを、映像でキッチリと伝えきれていない、脚本に桔抗できなかった、と感じた。口惜しい、この借りをいつか返したい、と強く思った。

 リベンジのチャンスが訪れたのは一九九四年、IBMスペシャル『パリ物語~1920's 青春のエコール・ド・パリ』(略)

[新機軸として]紀行番組をドキュメンタリーではなくドラマとして作る案だ。ある出版社の編集長が「エコール・ド・パリ」をテーマにしたムック本を出すことを思いつき、パリに編集者と女性カメラマンを派遣する。二人は画家たちが暮らした街を歩き、彼らが描き上げた絵画と対面していく。その取材過程がドラマになっていく。

(略)

最初、橋本さんは全く乗ってこなかった。一九二〇年代なんて興味ない、「エコール・ド・パリ」の画家もよく知らない。何より、忙しくて書く暇がないという。諦めきれない私は、全く別方向からの煽動を試みた。(略)

エコールには“学校”という意味もあるんだ」。あの『ピーマン白書』の敵討ち、もう一度“学校”をテーマにしようという呼び掛けである。橋本さんの中で何かが動いた。

(略)

私はパリという学校で学んだ画家たちについて熱意を込めて語った。ユトリロ、モジリアニ、

 (略)

 二人でパリを歩いた五日間は忘れがたい。そこで発揮された橋本さんの才能、本質直観能力の鋭さに私は心底驚かされることになった。橋本さんは徹夜で小説『帰って来た桃尻娘』を書き上げ、昼の生放送『笑っていいとも!』に出演し、そのまま飛行機に乗って、十六時間眠り続け、朝六時にパリに到着した。先乗りしていた私が出迎え、最初に連れて行ったのがルーブル美術館である。(略)

最初に「イタリア館内」の部屋が現れる。そこにボッティチェリフレスコ画《三美神を伴うヴィーナスから贈り物を授かる若い婦人》があった。それを指さして橋本さんが言った。「ねぇ、あれモジリアニに似て
ない?」(略)群像の中に、傾けられた面長な顔と長い首を持った女性がいた。その部分だけ見れば、まるでモジリアニである。モジリアニは北イタリアのリヴォルノで生まれ、フィレンツェヴェネツィアの絵画学校で学んでいた。フィレンツェの画家ボッティチェリにあこがれていても何の不思議もなかった。だから、同じスタイルで人物を描いた。いきなりの発見だった。モジリアニをドラマで描く際の“基軸”となるものを掴んでしまったのである。
 かくのごとき展開が続々と繰り返された。(略)

ルーブルの中世絵画の葉っぱの描き方から連想して、アンリ・ルソーの絵のルーツはタピスリー(大きな綴れ織りの壁掛け)にあると言い出した。慌てて調べてみると、ルソーの故郷の町ラバルも、少年期に移住した町アンジェも織物の町であった。アンジェには世界最大のタピスリー《ヨハネの黙示録》が残されていた。この説を目で確かめるべく急遽訪れることになったのがカルチェ・ラタンにあるクリュニー中世美術館。タピスリーの名作《貴婦人と一角獣》の草花の描き方はまるでルソーだった。

(略)

ピカソの画集をペラペラとめくりながら「《アヴィニョンの娘たち》って、ピカソの自画像なのじゃない?」という発見もあった。

(略)

[脚本が上がり]

柄本明扮する編集者と竹下景子のカメラマンが財津一郎の編集長に命じられてパリを旅する。何も知らないままパリに送られ、「見る目」だけはあるので、出会う絵に対して好き勝手な感想を言う女性カメラマン竹下景子さんは橋本さんであり、何も知らない女に説明をしつつ、その女の「見る目」に引きずられて画家たちに入り込み、自分との接点を理解していく編集者柄本明さんは私であった。二人は旅の途中で劇中劇の人物に乗り移る。柄本さんはユトリロとモジリアニを演じ、竹下さんはユトリロの母とモジリアニの妻を演じた。(略)

美術史的な説明が必要な時は「突然ですが美術史です」と、スタジオ解説するコーナーが用意された。

(略)

[ところが]広告代理店の人間が「斬新すぎて、恐ろしくてスポンサーに見せられない」と言い出した。特に問題視されたのが①パリに行くまでが長すぎる②オフィス・ラブは御法度③絵を茶化さないでほしい、の三点だった。私は徹夜して、このホンから棘や毒を感じる部分を消していく作業を行い、スポンサー用構成台本を作った。一方、橋本さんも改訂稿を書いた。人物設定を変え、格調高く分かりやすいナレーションを加えた。①②③全てに応えていた。これならOKとなったが、私は不満だった。完成度が下がり、勢いを失っていたからである。(略)

[再度手を入れイイトコ取りにした決定稿を作成]

(略)

 もう一つ、私がきっかけとなって生まれた本がある。『完本チャンバラ時代劇講座』である。(略)

東映の創立三十周年記念映画『ちゃんばらグラフィティー斬る!』の演出を頼まれた。(略)

 映画の完成後、集めた資料が散逸するのはもったいないと思った私は講談社に掛け合って、ブック版『ちゃんばらグラフィティー』を作ることになった。この本を「この映画の構成台本」「マキノ・沢島・内田吐夢、三大監督を取材し論じるブロック」「チャンバラ時代劇講座」の三部で構成しようと考えた私は「講座」執筆を橋本さんにお願いした。(略)

[締切が早く思う存分かけなかったので]

腰を入れ直した橋本さんは、八ヵ月間集中して一四〇〇枚もの原稿を書き下ろした。それが一九八六年一月に発売された『完本チャンバラ時代劇講座』である。大衆娯楽、「通俗」と呼ばれてしまうものを、これ程真剣に、鋭く、深く論じたものを他に知らない。

(略)


ピーマン白書4話1/3

 作家ではなく、芸の人 矢内裕子

(略)

 「自分はこう読んだ」「自分にとっての橋本治」ではなく、俯瞰的に橋本作品の意義を説明できる人っているんだろうか。

 モヤモヤしたまま向かった橋本事務所で、「橋本さんを“解説”できる人が思いつかなくて」と話したら、何かのスイッチが「カチッ」と入る音がした(気がした)。

 橋本さんは突然、「どうして自分が『桃尻娘』を書いたのかというと」と、滔滔と話し始めた。
 「『桃尻娘』については、なぜその位置に読点があるのかまで、全部、説明できる」
 「努力のあとを見せるのが嫌だから、そうは思われないんだけれど、実は技巧的な人間なんですよ」
 「今だったら『桃尻娘』は書かなかったと思う。滅茶苦茶な文体でまともなことを書くのは、今となってみれば当たり前な話だけれど、書いていた頃はそうではなかったから」

「リア家」の一時代 橋本治 宮沢章夫 

 [黒澤明生誕100年で黒澤作品をノベライズという話が来た時に]

ふと思ったのは『乱』の主人公が仲代達矢じゃなくて、笠智衆だったらどうなるんだろうということです。それが「リア家の人々」の根本アイデアなんです。(略)

秋刀魚の味』の笠智衆がその後、全共闘の時代に入ったらどうなるんだろうと思ったんですね。

(略)

根本は日本のリア王ってなんだろう。父親が笠智衆みたいに大人しくても女たちはやいのやいのをやるだろうなと、それをやりたかっただけなんです。もしかしたら初めに頭にあったのは日本のリア王以前に山崎豊子さんの『女系家族』だったかもしれない。ただ、「そういうものはもうあるな」と思うとどんどん自分の頭からのけていっちゃうんですよね。のけた結果、残った材料で作っていくんです。 

メディアはマッサージである マーシャル・マクルーハン

新装版 メディアはマッサージである

新装版 メディアはマッサージである

 

 『観念の冒険』 

“観念の研究で、完璧な明晰さに強く固執するのは、混乱して事実をいわば霧のように包んでいるセンチメンタルな感情から出ているにすぎないことを忘れてはならない。あくまで明晰さに固執するのは、人間の知性の働き方に関する、まったく迷信そのものである。われわれの推論は、わらでも把むようにまったくつまらないものを前提とし、中空に浮いているくもの糸をたよりに演繹を進めていくにすぎないのである”

──A・N・ホワイトヘッド『観念の冒険』

(略)

『メディアはマッサージである』というこの本は、今日われわれの周囲で何が起こっているかを見回そうとする。いわば環境間の衝突状況を映す万華鏡である。

あなたの仕事

“この回路があなたのジョッブ(仕事)を覚えてしまった時、あなたは何をするつもりですか?”

 

"ジョッブ”というのは、比較的近年にあらわれた仕事のパターンである。15世紀から 20世までは、仕事の段階を断片化する過程が、不断に進行した。それは“機械化”と“専門化”の過程であった。だが、それらの処置は、この新しい時代にあっては、われわれの生き残りや正常な精神の維持のために、役には立たないのである。

 

電気回路のもとでは、すべての断片化されたジョッブのパターンは、再び、仕事の役割や形態を巻き込むように要求する。それは教授、学習、献身的な忠誠心という古い意味における“人間的な”奉仕、といったものに、ますます似てくる。

 

失業による苦しみをやわらげるために計画された多くの善意から出た改良政策は、不幸にも、メディアの影響というものの本質に対する無知をあらわしている。

 

“わたしのパーラーへいらっしゃい”とコンピューターは専門家にいった。”

“他人”

知り合うということのショック!電気的情報の環境のなかでは、少数派グループは、もはや封じ込めたり、無視したりできない。あまりに多くの人が、互いについて、あまりに多くを知っている。われわれの新しい環境は、かかわり合いと参加を強制する。われわれはいやおうなしに、互いにかかわり合い、互いに相手に対し、て責任を持たされるようになった。

 メディアはマッサージである

すべてのメディアは、われわれのすみからすみまで変えてしまう。それらのメディアは個人的、政治的、経済的、美的、心理的、道徳的、倫理的、社会的な出来事のすべてに深く浸透しているから、メディアはわれわれのどんな部分にも触れ、影響を及ぼし、変えてしまう。メディアはマッサージである。こうした環境としてのメディアの作用に関する知識なしには、社会と文化の変動を理解することはできない。(略)

“座る人たちを座らせるための密室”

人間を罰し、矯正する一つの方法として、せまい場所に拘禁するという考えは、13世紀から14世紀の間──つまり、われわれ西欧世界に、遠近法的、絵画的空間が形成されつつあった時代──に生まれてきたようである。だが、拘束と分類の手段として人間を閉じ込めるという観念全体が、今日の電気的世界では役に立たなくなっている。人々が罪に対していだく新しい感情は、だれか私的な個人に還元できるようなものではなく、むしろ、ある神秘的な仕方で、すべての人々に共有されているものである。この感情がわれわれの間に再びよみがえってきたようである。話によると、部族的な社会では、恐ろしい事件が起こると、その事件をひき起こした個人を非難するかわりに、だれかが“こんな気持になるなんて、どんなに恐ろしかったことだろう”、という反応がよくみられる。この感情は、われわれが迎えつつある新しいマス・カルチャーの一つの局面である。それは、すべての人々が互いに深くかかわり合い、個人的な罪というものを、もはやだれも本当に想像できなくなってしまうような、全体的相互関与の世界である。

新しいメディア

“進歩”の名において、われわれの官製の文化は、新しいメディアに古い仕事をするように強制する。

新しい環境

詩人、芸術家、探偵──われわれの知覚を鋭くしてくれる者はだれでも、反社会的になる傾向がある。彼らが“よく適応する”ことはほとんどなく、現代の風潮や趨勢に従ってゆくことができない。これらの反社会的なタイプの人々には、環境の真の姿を見るカを持っているという、奇妙な共通点がある。反社会的な力をもって環境の境界に接し、それに直面したいという欲求は、“はだかの王様”というあの有名な話の中に、よく描かれている。“よく適応した”廷臣は、利害関係をもっているから、王様が美しい着物を着ているのだと見た。ところが、まだ古い環境に慣れていない“反社会的”な子どもは、王様が“なにも着ていない”ことをちゃんと見た。新しい環境が、子どもにははっきりと見えたのである。

情報戦争

真の全面戦争は情報戦争となった。それは、微妙な電気的情報メディアによって──冷戦状態の下で、しかも不断に──行なわれている戦いである。冷戦は真の戦線である。それは──包囲戦であり──あらゆる時に──あらゆる場所で──すべての人を巻き込む。今日熱い戦争が必要な時はつねに、古いテクノロジーを使って、世界の裏庭でそれが戦われる。これらの戦争はハプニング(偶発事)であり、悲劇的なゲームである。戦争をするのに最新のテクノロジーを用いることは、もはや便利でも、適当でもない。というのは、これらのテクノロジーが戦争を無意味なものとしたからである。水爆は歴史の感嘆符である。それは、長期にわたる、現実の暴力支配の時代に終止符を打ったのである。

新装版解説 門林岳史

(略)

 『メディアはマッサージである』がこれほどの大ヒットとなったひとつの要因として、世間の風評とは裏腹に、晦渋な文体で書かれたマクルーハンのこれまでの本は決して読みやすい代物ではなかった、ということがある。それに対してこの薄くて小さい本は、まったくの素人でも飽きることなくすぐに読み通せる体裁に、メディアをめぐるマクルーハンの思想のエッセンスを凝縮している。

(略)

 まず、この本が、実際には少なくとも通常の意味ではマクルーハン本人によって書かれた本ではない、ということを確認しておく必要がある。これまでに建築家バックミンスター・フラー天文学者カール・セーガンなどによる一般向けの書籍を手がけてきた編集者ジェローム・エイジェルと、すでに定評あるグラフィック・デザイナーとして活躍していたクエンティン・フィオーレの二人は、この本の準備のために、『グーテンベルクの銀河系──活字人間の形成』(1962年)と『メディアの理解──人間の拡張の諸相』(1964年)を中心とするマクルーハンのテクストから彼の主要なアイデアを抜き出し、それをさまざまな写真やグラフィックと組み合わせていった。こうして準備された草稿に対して、マクルーハン自身はたったの一語しか訂正を加えなかったという。

(略)

マクルーハンの息子であり、この当時彼の助手を務めていたエリック・マクルーハンの言葉を信じるなら、タイトルそのものも当初は『メディアはメッセージである』となるはずであった。ところが(略)ゲラを受け取ったマクルーハンがタクシーのなかで封を開けたところ、表紙に記された表題に誤植があった。「message」から「massage」というこの誤植をマクルーハンは気に入り、そのままのタイトルが採用されることになったという。

(略)

「message」/「massage」という対は、その両者に隠された「mess age(悲惨な時代)」/「mass age (大衆の時代)」という言葉遊びを浮かび上がらせることにもなった。

(略)

本書は、ブックデザイン史上にも名を残す作品となったが、それと同時にきわめて先駆的に多メディア展開された商品でもあった。まず、エイジェルは、本書と同名のレコードを企画し、ほぼ同時期にコロムビア・レコードより発売している。このレコードは、当時一線の音楽プロデューサーであったジョン・サイモンによって製作された。書籍版『メディアはマッサージである』のマクルーハンによる朗読をさまざまな素材とともにコラージュした、ミュージック・コンクレートめいた作品である。また、同じく書籍と同時期の1967年3月19日に、「これがマクルーハンだ──メディアはマッサージである」と題された TV 番組が NBC より放送された。

(略)

マクルーハン本人の映像をさまざまな映像素材とめまぐるしくカット編集でつないだ本作もまた、書籍版、レコード盤と並んで、「当時のポピュリズム的な騒々しさ」でマクルーハンの思想を彩るものであった。

(略)

 フィオーレは、『メディアはマッサージである』の成功を受けて、マクルーハンの著作以外にも二冊の本をデザインしている。ひとつは反体制的なイッピーの主導者ジェリー・ルービンによる『やってみよう!革命のシナリオ』、もうひとつは建築家バックミンスター・フラーによる『私は動詞のようだ』、いずれも1970年に刊行された。とりわけ(略)ジェローム・エイジェルとの共作でバンタムブックスより刊行された『私は動詞のようだ』は、始めから終わりまで一直線に読み進む、という伝統的な書物のイメージを解体する『メディアはマッサージである』の試みをさらに押し進めたものと評価することができる。そもそもフラー自身(略)「宇宙船地球号」などというキャッチフレーズによって、テクノロジーの未来を語る思想家として、当時マクルーハンとも並ぶ大衆的な注目を集めた人物である。

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 さて、以上のように述べると、結局のところ『メディアはマッサージである』の革新的な仕事を成し遂げたのはマクルーハン本人というよりはエイジェルとフィオーレであり、いわばマクルーハンは彼らに恰好のネタを提供したにすぎなかった、というように見えてくるかもしれない。書籍の成立の経緯としてはその通りだが、では、マクルーハン自身はあくまで保守的な書き手であったのかというと、決してそんなことはない。マクルーハンがデザインやレイアウトの面から伝統的な書物の概念に挑戦したのは、エイジェル、フィオーレとの共作の機会のみではなかったからである。とりわけ『カウンターブラスト』(1970年)は、商業的な成功こそ収めなかったものの、『メディアはマッサージである』との対比においてここで注目しておくに値する。

(略)

『メディアはマッサージである』が、写真を中心とするグラフィカルな要素の多用において際立っていたのに対し、『カウンターブラスト』では、写真は用いられず、そのかわりに過剰なタイポグラフィで文字がレイアウトされていた。

(略)

 伝統的な書物のすがたを覆そうとするマクルーハンの取り組みとしては、他にも各章が章題のアルファベット順に並べられた(その結果、「序章 Introduction」が書物の真ん中に配置されている)『クリシェから原型へ』(ウィルフレッド・ワトソンとの共著、1970年)などが挙げられる。また、そもそも各章が広告イメージの短いコメンタリーになっている処女作『機械の花嫁──産業社会のフォークロア』(1951年)や、新聞見出しめいた短文が各章の冒頭に表題として添えられた『グーテンベルクの銀河系』自体、そうした取り組みの一環として理解することもできるだろう。『カウンターブラスト』成立の経緯からも垣間見えるように、これらの取り組みの背景には、メディア論者としてもてはやされる以前に文芸批評家としてモダニズム文学の解釈に取り組んでいたマクルーハンの経歴がある。1930年代にニューヨークでジョージ・グロスやハンス・ホフマンに学び、その後シカゴでニュー・バウハウスの授業も受講しているフィオーレもまた、モダニズムの影響下で仕事をしていた。フィオーレは『メディアはマッサージである』の影響の源泉として、マリネッティウィンダム・ルイス、具体詩、カリグラム、フルクサスなどを挙げている。『メディアはマッサージである』は、そんな両者に出会いの場所を提供した歴史的事件だったのである。 

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