ブローティガン、1976年の春樹

1976年米日で原著と翻訳が同時出版されたブローティガンの小説、全編源一郎直撃なのは当然として、ここはかなり春樹に直撃じゃないって感じ二章「蜘蛛の巣」「橋」から引用。

 電話のところまで行って、ある番号を回した。
 それはあの日本女性の番号ではなかった。
 それは彼が長いことついたりはなれたりしてつき合ってきたスチュワーデスの番号だった。町に戻っているときは、彼女はよく夜更かしした。彼女は外へ出かけることはあまり好まず、そのかわり家にいて、こまごまと仕事をしたり、レコードを聴いたり、編み物をしたり、その他夜更けに独りでアパートにいてできる無数の夜なべ仕事をしてすごすのが好きだというタイプだった。
 二、三日おきに国中を飛んでまわると、夜には家にいたいと考えるようになるのかもしれない。
 彼女が敷物に坐って『コスモポリタン』誌を読んでいると、電話が鳴った。
 そんな夜更けに電話をかけてくるような人物はこの世にたった一人しかいないことは彼女にはわかっていた。彼女は雑誌を下に置いて、床を這って電話のところまで行った。テーブルに手をのばすと、電話を床に下ろす。
 「もし、もし、ふくろうさん」と彼女は快活にいうのだった。
 彼女はいつも朗らかだった。
「なにをしてるんだい?」と彼はいった。
「なんにも」と彼女は答えた。「ただ坐って、姦通というものがどれほど魅力的なものかということについて読んでるのよ。あなた、最近結婚した、なんてことはないでしょうね?」
「ないさ」と彼はいった。「なんで僕が結婚しなきゃいけないんだ?」
「そうしたらね、あなたは〈コスモガール〉になりたがっている孤独なかわいいスチュワーデスにとってもっと魅力的になるってわけ。今月は、既婚者とだけ寝るのがよろしい、ってことよ」
(略)
 「なにをしてるんだい?」と彼はふたたび同じ質問をした。
 「なんにも」と彼女は答えた。「ただ坐って、姦通というものがどれほど魅力的なものかということについて読んでるのよ。あなた、最近結婚した、なんてことはないでしょうね?」
 電話の向う側に沈黙。
 彼が混乱していることが彼女にはわかった。
「いらっしゃいよ」と彼女はいった。
「いいとも」と彼はいった。「でもさ、いまきみなんていったの?」
(略)
「二十分でそこへ行くよ」と彼はいった。
「十九分できてちょうだい」と彼女はいった。

 彼はもちろん朗らかな、知的なスチュワーデスのところへは行かなかった。彼女は彼の失恋を紛らせてくれたことだろう。それじゃ安易にすぎる。いや、そんなふうなことはしたくなかった。そんなことをしたら、なるべく混乱して、迷路のように苦しく目茶苦茶な生活を送りたいという、生活に対する彼の根本方針に背くことになってしまう。
 『コスモポリタン』の姦通に関する記事をもう読み終えるというところへ、彼からまた電話がかかった。
 「どうしたの?」と、受話器を取り上げるときに彼だとすでにわかっていた彼女はいった。「こないことにしたのね?」
 彼はびっくりした。
 「どうしてわかったんだい?」
 「あなたとは五年間のつき合いよ」と彼女はいった。「橋の下を流れて行った水の量は大変なものだわ」
(略)
 「来週、お昼でも一緒にどう?」と彼がいった。
 「いいわよ」と彼女は答えた。「いつ?」
 「水曜日かな。はっきりさせるために、月曜日に電話するよ」
 「すてきだわ」 彼は月曜日に電話をしないだろうし、水曜日に二人で食事をすることもないだろうし、おそらく長いこと彼からは一言の連絡もなくて、それからちょうど今夜のようにある晩電話してきて、訪ねてもいいかときく、そして訪ねてくるか、あるいは訪ねてこないことになるのだ、ということを承知のうえで、彼女はそう答えた。
(略)
 「あたしあそこで食べたいわ」
 「いいとも」と彼はいった。「楽しいよ、きっと。あそこで食べよう。月曜日に電話するからね」
 「すてき」と彼女はいった。「とても待ち遠しい」
 彼はとうとう電話しなかった。
 二人は昼食を食べなかった。

ノーマン・メイラー弄りのオモロな二章「メイラー」「戦車」から引用。

全市民が発狂してアメリカ合衆国軍隊に歯向うことになったその南西部の小さな町によって、世界はその心を完全に奪われてしまうことになるのである。
 十六時間後には、ノーマン・メイラーもやってきた。
 近くの町で飛行機から降り立った彼は疲労の色を浮かべているだろう。
 長くしんどい飛行だったから。
 「どういうことになっているのか?」というのが、地に降り立った彼の第一声だった。
 彼にインタヴューしようというので、報道記者が二人待っていた。彼らは若く、またメイラーをとても贔屓にしていたので、そわそわと落ち着かない。
 だがメイラーときたら、二人を胡散臭そうに見るばかりだ。町で事件の様子を書きとめることもせずに、なぜ彼にインタヴューするのかと、メイラーは訝しがった。
 「ノーマン・メイラーさんですか?」と記者の一人が、それがノーマン・メイラーと知っているくせに、おずおずと訊ねる。彼はメモ帳と鉛筆を手にして立ち、ノーマン・メイラーが自分はノーマン・メイラーだというのを待っている。そうしたら、そう書きつけることができるからだ。
「仕事があるんだよ」とノーマン・メイラーはいうと、町へ彼を連れて行くためにきていた車のほうへ歩いて行った。
「あれはノーマン・メイラーかい?」とその若い記者はもう一人の記者仲間にいうだろう。仲間の記者はそれにうんざりして、当惑した様子で目をそらす。
 「あれはノーマン・メイラーだ」と、もうノーマン・メイラーもいないし、仲間の記者も向うをむいてしまったので、彼は独り言をいう。
 「ノーマン・メイラー」と彼はメモ帳に書いた。書いたのはそれだけだ。
 ノーマン・メイラー

 暴動の様子を書こうというノーマン・メイラーの勇気に、兵士たちは驚いた。繰り返し繰り返し、彼は町民の砲火のおびただしい集中攻撃に身をさらしたのである。
(略)
 ノーマン・メイラーが乗っていた戦車も爆撃されて、なかにいた二人の男が死んだ。メイラーと残りの乗組員たちははい出してきた。からだじゅうに死んだ男たちの血を浴びている。あたり一面、小兵器の砲火が大気をいぶしている。それはきわめて危険な状況であったが、しかし奇跡的にもメイラーは死なずに切り抜けたのである。戻ってくるとすぐに、彼はテレビ記者のインタヴューを受けた。彼はもうすっかり血まみれで、彼自身も弾丸にあたったように見えたほどだった。
 「どんなでしたか?」 それがメイラーが最初に受けた質問だった。
 その夜、しばらくしてから、一億のアメリカ人は血まみれのノーマン・メイラーが「地獄だ。地獄という以外にいいようもない。地獄だ」というのを観たのである。