総特集◎橋本治 ユリイカ 2019年5月臨時増刊号

 

ユリイカ 2019年5月臨時増刊号 総特集◎橋本治

ユリイカ 2019年5月臨時増刊号 総特集◎橋本治

 

“小説家”とうい在り方 

 俺は文学者になりたいという気も小説家になろうという気もなくて挿絵画家になりたいというだけだったから、絵が描けそうなものしか読んでいないんですよ。『リア家の人々』を書いたあとでふっと思い出したんですけど、スウェーデンの作家(マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー)の「マルティン・べック・シリーズ」──『笑う警官』が一番有名だけど──を二〇代のときに一〇冊全部読んだんですよ。ああ、こういう小説が好きだなとそのときに思ったのをズーッと忘れていたんですけど、もしかしたら小説を書く上でいちばん影響を受けているのはこの人たちかもしれない。非常に絵が緻密だった。その頃に作家になりたいとは思わなかったけど、感じる何かはありましたね。何かの影響を受けてはいるんだけど、そのまま書いたってものにならないとわかっていますから忘れちゃうんですね。影響を受けた作家がいたとすれば、その影響を捨てるところから始めなければいけないので、作家ってしんどいなと私は思っていますよ。久生十蘭の影響を捨てるのにもけっこう時間がかかった。 

刑事マルティン・ベック  笑う警官 (角川文庫)

刑事マルティン・ベック 笑う警官 (角川文庫)

 

 基本的にビジュアル・イメージ

 私は基本的にビジュアル・イメージです。心理分析か解析かそれとも描写かというのはあるんですけど、心理も表情と同じように見えるものだと思っているからビジュアル・イメージで書いちゃうというのに近いですね。心理を考えるんじゃなくて、イメージとして浮かんでくる心理を見て書いている。(略)

絵を描いていた人間だから、見えているものを見えているままに書くというのはありなんですよね。ありなんだけど、見えているものを文章としてどのように書けばリアルになるかは実はわからないんですよ。だから見えているものを書けているかとそればかり考えていますね。
(略)

原稿用紙を埋め始めた段階から絵が見えてくるということが私にとっては一番重要なことなんです。ただ、そういうことがわかるのはビジュアル関係者だけらしいということにあるとき気がついたんですね。たまたま一緒に仕事をしていた女性デザイナーが「橋本さんの小説を読むと絵が見えてくるんですよね」と言ってくれたので、じゃあOKなのかなと。『桃尻娘』を刊行当時に読んだというカメラマンにも「絵が見えてくるんだ、不思議だなと思った」と言ってもらえて、ああ良かったなと思いました。私は一貫してビジュアル・イメージばかり書いているんですよ。『窯変源氏物語』でも、見たこともない一〇〇〇年前の日本の風景を好き放題に書けたことが一番嬉しかったですね。光源氏が嵐の中で須磨から明石に船出するシーンなんて水の透明度まで頭の中で見えているわけですよ、俺は一体どこでこれを見たの?と自分でも自問したくらいですけど(笑)。見るということは自分の中でビジュアル・イメージを作るということでもあると思うんです。絵を描くというのはそういうことでもあるから、そうなってくると、頭の中で映画が動いているようなものなんですよね。

(略)

主人公が走り出すという話がよくありますけど、私の場合は文章が走り出すのを待っているところがあるんです。

(略)

物語というのは文章が作るものだといつの間にか思うようになってしまったので。わかっているものだと文章が動くんです。わかっていないものだと文章が動かない。『生きる歓び』の頃はまだスケッチの段階だったけど、長篇もそういうふうにスケッチするみたいに細かいタッチでやっていかなくちゃいけないのはしんどいと言えばしんどいですね。タッチの話で言うと、『蝶のゆくえ』の冒頭にある「ふらんだーすの犬」を書き始めたときに「あ、今までとは違う」と自分でも思ったんです。それまではガラスペンで細かいところをコリコリ描いていたのが、太い筆でグイッと描いているなという感じがした。そのあたりから何か変わったのかもしれない。ただ、『窯変源氏物語』なんかは最初から太い筆で書いていますけどね。平安時代のことはわかるけど、現代のことはわからないという困った人なんです(笑)。 

生きる歓び (角川文庫)

生きる歓び (角川文庫)

 

 

蝶のゆくえ (集英社文庫)

蝶のゆくえ (集英社文庫)

 

 橋本治という恵み 森川那智

(略)

 それにしてもです。三〇年払い続けたローンがようやく終わるというときです。一番多い時では月一五〇万円だか一七〇万円だか返済していたと聞きます。(略)

それを営々とペン一本でしのいできたのです。少しずつ出版業界が斜陽化してきた平成の時代にです。

(略)

そもそもの始まりはローンです。それまで賃貸で借りていた事務所でしたが、大家に、相続税が払えないので売りたい、買ってもらえるならそれに越したことはないと言われて、そんな金、銀行が貸してくれっこないとタカをくくっていたら、話がずんずん進んでしまって、バブルの一番高いところで買うことになったとか。
 はっきり言って、事務所を引っ越してもよかったはずなのに、仕事が乗りに乗っていて、物件を探すとか、引っ越しの手間暇とか面倒なことを考えたくなかったのでしょう。
 そのうえ、実家の建て替えがあって、そのローンも背負い、実家家族の生活も支え、そのために書きに書いて、誰もすべてを読んだ人はいないのではないかというくらいの豊饒さです。

(略)

 橋本さんは手術によって、左目が失明に近い状態となり、左上半分の歯を失くし(略)

四分の一なくなると言っていた顔は、顔の形状を保って、そこにちゃんとありました。

(略)

入院中に二〇〇枚の原稿を書き上げました。(略)六人部屋の病床で書いていた。一〇月二六日に退院。しかし一ヶ月後には再発が認められ、再入院することになりました。

(略)

 一六時間の手術には耐えられた身体が、放射線治療抗がん剤治療の副作用に苦しみ、全身状態が悪化、結局、肺炎で亡くなりました。

電話口の橋本治 さべあのま高野文子飯田耕一郎

さべあ みんなに振る舞うのが好きだったんだよね。
高野 お料理は得意な人だったよね,床の間に『現代日本料理全集』が並んでいた。「昨日作った炊き込みご飯があるよ。まだ腐ってないと思うけど、食べる?」と言われて、なつきちゃんとわたしそろって「うん、食べる~!」って。大根の葉っぱと油揚げの入った醤油ご飯だった。台所が広くて、子猫が食器棚の後ろで鳴いていた。当時の記憶は食べたことだけ(笑)。
飯田 どれも一九七九年の出来事なんですね。
さべあ (略)『ぱふ』の若手の人たちは橋本さんのところに教えを請うようにいっていたから。

高野 いっていた。一軒家で、二階に籐のでっかいベッドがあった。
さべあ 合宿しているみたいな感じで、みんな集まっていた。橋本さんがそういう若い人たちにいろいろ教えを授けていた。ただ、わたしはあまりそのころはかかわっていないんですよ。

 慈悲の笑顔 浦谷年良

[1980年フジ土曜ゴールデンタイムドラマ『ピーマン白書』、落ちこぼれ中学生25人が「小学校から勉強をやり直したい」と受け入れてくれる学校を求めて日本全国を旅する。橋本に1話脚本を依頼]

企画書に「学校とおとなの呪縛から子供を解放する」「一人の教師と二十五人の中学生による一大冒険叙事詩」とあったことが橋本さんの作家根性を刺激したようだ。
 この頃、橋本さんは新宿で「日本語教室」を開いており[打ち合わせ前に教室を覗き衝撃的授業に出会う](略)

橋本さんは平安時代の文学を論じながら、こう言ったのだ。「をかし」や「あはれ」って一杯出て来るよね。これ昔は一語で言っている言葉[だから](略)現代語でも一語で言えるはず。(略)

私ならこう訳します。「をかし」は「カッコいい」。「あはれ」は「ジーンときちゃう」。あゝ、これなら分かる。私は深く感動した。

(略)

 橋本さんとは、この日が初対面だったが、興奮醒めやらぬ私は打ち合わせの席に着くなりこう言った。「[こんな授業だったら私も古文が好きになってた](略)

是非あの調子で古典を現代語訳してほしい。『枕草子』をまるまる全部訳したらどうだろう。女子高校生になり切った橋本さんだったら、清少納言にもなり切れるはず。これぞ橋本さんにしか出来ない仕事だよ」。私の興奮がうつったのか橋本さんはこう言った。
 「そんな面倒くさいことやる人いないだろうがら、面白いかもしれない。うん、やる、やる」。

(略)

 約束の書『桃尻語訳 枕草子』、その上巻が世に出たのは七年後のことだった。

(略)

[橋本は第四話脚本のために]地道かつ周到な準備を始めた。それは現実の子供たちを徹底的に見ることから始まった。まずキャスティングされた子供たちニ十五人の写真を手に入れる。(略)[さらにスタジオで子供たちを観察し性格を読み取り]彼らの父と母はどういう人物であるのかを想像し、五十人分の親を描きこんだ。[第三話までの人物設定も加味し統一感ももたせ](略)

その上で橋本さんが最も力を入れたのは、子供たちの交友関係を浮き彫りにすることであった。子供は交友関係という「他人」によって性格が決定されるからである。(略)

クラスの支配機構が徹底分析され、詳細な相関図が描かれた。

(略)

性格設定を示すリポート、全二十四頁が完成した。そのメモの一部を紹介しよう。「川上杉作=二十五人のリーダー。父は会社部長。やさしい姉とすぐれた義兄がいる。自分は本当は落ちこぼれではないが、自分たちをそうさせている社会の仕組みというものは間違っているのだと信じている。そのような優等生は空洞を抱えているものでしかないということを象徴する存在である。後にグループからの離脱を計る」「小林牛太=中間項。魚屋の息子。ガサツな両親を憎んでいる繊細な息子。繊細であることを隠そうとして色々と出しゃばる為、みんなからはそう好かれていない。主流派中の星由里子を姉のように慕っている」

(略)

 私は舌を巻いた。何と本格的な取り組み方であることか。連続ドラマの一回を書くために全十三回の最終回までを想定して、一つの大きな物語世界を構築していた。少年少女たちの世界を、自分の人生で培ってきた全ての物差しを動員して作り上げようという気概に溢れていた。それは橋本版『十五少年漂流記』あるいは橋本版『繩の王』の構想でもあった。
 このような構想を背景にして『ピーマン白書』第四話「先生も生徒がいなけりゃタダの人」は書かれた。その中で子供たちは徹底的に生き生きと動き回っていた。にもかかわらず、いやそうだからこそか、この脚本は批判の嵐にさらされた。ライター三人、プロデューサー三人、ディレクター三人という制作体制が持つ独特な力学の影響だろう。ほとんど言い掛かりとしか思えないクレームが続々噴出し、その火の粉を払いつつ私はロケ準備を進めた。(略)

[ロケの朝、集合場所にやってきた橋本は]

「君は、こういう役なんだ。そのつもりで、思いっきり自由にやっていいんだよ」と子供たち一人一人に声を掛けて廻った。彼ら彼女らの眼が輝いたのは言うまでもない。ただ「この後どうなるの?」と訊いた子がいて、彼は何も答えることができなかった。「その時ほど自分が情けなかったことはない。帰りのタクシーの中で泣いていた」と、後に橋本さんは語った。

(略)

しかし演出家としての私は、まだまだ末熟だった。完成品を見ながら、脚本を読んだ時に感じた面白さを、映像でキッチリと伝えきれていない、脚本に桔抗できなかった、と感じた。口惜しい、この借りをいつか返したい、と強く思った。

 リベンジのチャンスが訪れたのは一九九四年、IBMスペシャル『パリ物語~1920's 青春のエコール・ド・パリ』(略)

[新機軸として]紀行番組をドキュメンタリーではなくドラマとして作る案だ。ある出版社の編集長が「エコール・ド・パリ」をテーマにしたムック本を出すことを思いつき、パリに編集者と女性カメラマンを派遣する。二人は画家たちが暮らした街を歩き、彼らが描き上げた絵画と対面していく。その取材過程がドラマになっていく。

(略)

最初、橋本さんは全く乗ってこなかった。一九二〇年代なんて興味ない、「エコール・ド・パリ」の画家もよく知らない。何より、忙しくて書く暇がないという。諦めきれない私は、全く別方向からの煽動を試みた。(略)

エコールには“学校”という意味もあるんだ」。あの『ピーマン白書』の敵討ち、もう一度“学校”をテーマにしようという呼び掛けである。橋本さんの中で何かが動いた。

(略)

私はパリという学校で学んだ画家たちについて熱意を込めて語った。ユトリロ、モジリアニ、

 (略)

 二人でパリを歩いた五日間は忘れがたい。そこで発揮された橋本さんの才能、本質直観能力の鋭さに私は心底驚かされることになった。橋本さんは徹夜で小説『帰って来た桃尻娘』を書き上げ、昼の生放送『笑っていいとも!』に出演し、そのまま飛行機に乗って、十六時間眠り続け、朝六時にパリに到着した。先乗りしていた私が出迎え、最初に連れて行ったのがルーブル美術館である。(略)

最初に「イタリア館内」の部屋が現れる。そこにボッティチェリフレスコ画《三美神を伴うヴィーナスから贈り物を授かる若い婦人》があった。それを指さして橋本さんが言った。「ねぇ、あれモジリアニに似て
ない?」(略)群像の中に、傾けられた面長な顔と長い首を持った女性がいた。その部分だけ見れば、まるでモジリアニである。モジリアニは北イタリアのリヴォルノで生まれ、フィレンツェヴェネツィアの絵画学校で学んでいた。フィレンツェの画家ボッティチェリにあこがれていても何の不思議もなかった。だから、同じスタイルで人物を描いた。いきなりの発見だった。モジリアニをドラマで描く際の“基軸”となるものを掴んでしまったのである。
 かくのごとき展開が続々と繰り返された。(略)

ルーブルの中世絵画の葉っぱの描き方から連想して、アンリ・ルソーの絵のルーツはタピスリー(大きな綴れ織りの壁掛け)にあると言い出した。慌てて調べてみると、ルソーの故郷の町ラバルも、少年期に移住した町アンジェも織物の町であった。アンジェには世界最大のタピスリー《ヨハネの黙示録》が残されていた。この説を目で確かめるべく急遽訪れることになったのがカルチェ・ラタンにあるクリュニー中世美術館。タピスリーの名作《貴婦人と一角獣》の草花の描き方はまるでルソーだった。

(略)

ピカソの画集をペラペラとめくりながら「《アヴィニョンの娘たち》って、ピカソの自画像なのじゃない?」という発見もあった。

(略)

[脚本が上がり]

柄本明扮する編集者と竹下景子のカメラマンが財津一郎の編集長に命じられてパリを旅する。何も知らないままパリに送られ、「見る目」だけはあるので、出会う絵に対して好き勝手な感想を言う女性カメラマン竹下景子さんは橋本さんであり、何も知らない女に説明をしつつ、その女の「見る目」に引きずられて画家たちに入り込み、自分との接点を理解していく編集者柄本明さんは私であった。二人は旅の途中で劇中劇の人物に乗り移る。柄本さんはユトリロとモジリアニを演じ、竹下さんはユトリロの母とモジリアニの妻を演じた。(略)

美術史的な説明が必要な時は「突然ですが美術史です」と、スタジオ解説するコーナーが用意された。

(略)

[ところが]広告代理店の人間が「斬新すぎて、恐ろしくてスポンサーに見せられない」と言い出した。特に問題視されたのが①パリに行くまでが長すぎる②オフィス・ラブは御法度③絵を茶化さないでほしい、の三点だった。私は徹夜して、このホンから棘や毒を感じる部分を消していく作業を行い、スポンサー用構成台本を作った。一方、橋本さんも改訂稿を書いた。人物設定を変え、格調高く分かりやすいナレーションを加えた。①②③全てに応えていた。これならOKとなったが、私は不満だった。完成度が下がり、勢いを失っていたからである。(略)

[再度手を入れイイトコ取りにした決定稿を作成]

(略)

 もう一つ、私がきっかけとなって生まれた本がある。『完本チャンバラ時代劇講座』である。(略)

東映の創立三十周年記念映画『ちゃんばらグラフィティー斬る!』の演出を頼まれた。(略)

 映画の完成後、集めた資料が散逸するのはもったいないと思った私は講談社に掛け合って、ブック版『ちゃんばらグラフィティー』を作ることになった。この本を「この映画の構成台本」「マキノ・沢島・内田吐夢、三大監督を取材し論じるブロック」「チャンバラ時代劇講座」の三部で構成しようと考えた私は「講座」執筆を橋本さんにお願いした。(略)

[締切が早く思う存分かけなかったので]

腰を入れ直した橋本さんは、八ヵ月間集中して一四〇〇枚もの原稿を書き下ろした。それが一九八六年一月に発売された『完本チャンバラ時代劇講座』である。大衆娯楽、「通俗」と呼ばれてしまうものを、これ程真剣に、鋭く、深く論じたものを他に知らない。

(略)


ピーマン白書4話1/3

 作家ではなく、芸の人 矢内裕子

(略)

 「自分はこう読んだ」「自分にとっての橋本治」ではなく、俯瞰的に橋本作品の意義を説明できる人っているんだろうか。

 モヤモヤしたまま向かった橋本事務所で、「橋本さんを“解説”できる人が思いつかなくて」と話したら、何かのスイッチが「カチッ」と入る音がした(気がした)。

 橋本さんは突然、「どうして自分が『桃尻娘』を書いたのかというと」と、滔滔と話し始めた。
 「『桃尻娘』については、なぜその位置に読点があるのかまで、全部、説明できる」
 「努力のあとを見せるのが嫌だから、そうは思われないんだけれど、実は技巧的な人間なんですよ」
 「今だったら『桃尻娘』は書かなかったと思う。滅茶苦茶な文体でまともなことを書くのは、今となってみれば当たり前な話だけれど、書いていた頃はそうではなかったから」

「リア家」の一時代 橋本治 宮沢章夫 

 [黒澤明生誕100年で黒澤作品をノベライズという話が来た時に]

ふと思ったのは『乱』の主人公が仲代達矢じゃなくて、笠智衆だったらどうなるんだろうということです。それが「リア家の人々」の根本アイデアなんです。(略)

秋刀魚の味』の笠智衆がその後、全共闘の時代に入ったらどうなるんだろうと思ったんですね。

(略)

根本は日本のリア王ってなんだろう。父親が笠智衆みたいに大人しくても女たちはやいのやいのをやるだろうなと、それをやりたかっただけなんです。もしかしたら初めに頭にあったのは日本のリア王以前に山崎豊子さんの『女系家族』だったかもしれない。ただ、「そういうものはもうあるな」と思うとどんどん自分の頭からのけていっちゃうんですよね。のけた結果、残った材料で作っていくんです。