ヒトラーランド その5

前回の続き。

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々

 

新大使の幻想

 一九三五年二月、ジェイコブ・ビームは、二七歳の誕生日の直前にベルリンに到着し、アメリカ大使館の三等書記官として、ドイツの国内事情について報告する任務を開始した。

(略)

 アメリカ大使館にいた外交官のほとんどがそうだったように、ビームもやはり、一九三七年の終わりにドッド大使が大使館を去ったのを喜んでいた。ビームはドッドのことを「品がよく、思慮深く、ナチ党に対する正しい判断力を持っているが、あまりにも押しが弱い」と考えていた。また周囲のおおかたの評判と同様、ドッドは外交官らしくない発言をして「アメリカ政府に恥をかかせた」とも思っていた

(略)

 そんな経緯があったことから、ビームは一九三八年初頭、外交のベテランであるヒュー・ウィルソンがベルリン大使として着任したときには、これを大いに歓迎した。

(略)

ビームによると新たな大使は、「“成果を見せろ”というタイプのベテラン外交官で、いたずらに混乱を招いた前任者のやり方を批判して」いたという。

 ところがビームはじきに、ナチ党政権の実態に関しては、経験豊富な新大使よりもドッドのほうが正確に評価していたと考えるようになる。ウィルソンは「ベルリンで数年以上過ごしてきたスタッフによる否定的な見解を、あまり信用していないように見えた」。

(略)

ウィルソンは自分自身で判断を下そうと決意しており、ビームによると、「ヨーロッパの平和に関する外交問題に集中したい」と考えていた。ドイツの国内政策や、彼らのさらなる大望を問題視してナチ党と対立することは避けるべきだというのが、ウィルソンの考えだった。つまり彼はいかにも伝統的な外交手段によって、平和を維持しようとしていたわけだ。(略)

 ウィルソンはしかし、一九三八年の時点でもなお、ヒトラー政権に対して判断を急ぐ必要はないと思い込み、伝統的な手法で対処すればお互いに対立せずに済むだろうと考えていた。それこそがまさに、イギリスとフランスが必死にしがみ付いていた考え方であり、ミュンヘン協定を呼び込んだ元凶であった。

ヒトラー暗殺とミュンヘン協定

[ベック大将はヒトラーチェコとの戦争回避を進言して叶わず辞任]

ベックの後任であるハルダー大将をはじめ数人の高官が、大胆な抵抗運動を計画しているということだった。(略)

[その計画とはヒトラー暗殺だった]とビームは書いている。(略)

[ビームは報告書]をまずはトルーマン・スミスに見せた。スミスは報告書の内容をあまり真面目に受け取らず、統制の厳しいナチスの軍隊でそんな計画があるなどとは考えられないと言った。それでもビームは報告書をウィルソンに提出し、大使がそれをきっとハル国務長官の顧問に転送してくれるだろうと考えていた。しかしその後、ビームのところにはウィルソンからもワシントンからも、なんの反応も返ってこなかった。(略)

[英仏が]ズデーテン地方の割譲要求に応じたあとで、ビームはレスポンデクと偶然顔を合わせ、ハルダーのヒトラー暗殺計画はどうなったのかとたずねた。「レスポンデクによると、結局ヒトラーが戦争に踏み切らなかったため、計画は断念されたのだという」とビームは記している。

(略)

 ミュンヘン協定さえなければ、あるいは第二次大戦前に、将校たちによる反乱が起こされていた可能性もあったわけだが、ウィルソン大使は(略)この結末のおかげで、世界が正常な状態に一歩近づいたと考えていた。

(略)

 一九三八年一〇月に一時休暇でアメリカに帰国したビームは、ワシントンのムードが、ベルリンにいる各国の外交官のあいだにあった空気と「まるで違う」ことに気が付いた。「オーストリア併合に対してはだれもが憤っており、とくにオーストリア在住のユダヤ人が苦境に陥っていることは問題視されていた。またナチスがいかにも最初からの狙い通りといった調子で、なんの抵抗も受けずにチェコスロヴァキア服従させたことについても同様だった」とビームは書いている。

独ソ不可侵条約

 グディニアからワルシャワ行きの列車に乗る前、シャイラーはふたりのポーランド人ラジオ技術者と話をした。ふたりとも自信ありげに、ポーランドヒトラーに対抗できると胸を張った。「準備はできてますよ。戦います」と彼らは言うのだった。「わたしたちはこのあたりがドイツに支配されていたころに生まれたんです。もう一度逆戻りするくらいなら、死んだ方がましですよ」。ポーランドの首都ワルシャワに着いたシャイラーは、ベルリンからゾッとするようなプロパガンダが執拗に流れてきているというのに住民たちがやけに「穏やかでゆったりとしている」ことに、あらためて驚かされた。シャイラーのいちばんの気がかりはしかし、ポーランド人が「あまりに現実を見ておらず、あまりに自信に満ちて」おり、さらにはソ連までがポーランドを狙っていることを示す兆候を無視しているという事実だった。

(略)

[独ソ不可侵条約締結]

最大の敵スターリンが、ドイツにどうぞこちらへ来てポーランドを片付けてくださいと言っているようなものだ」

 このニュースの直前まで、延々と反ソヴィエトの記事を書き続けてきたドイツ人編集者が数人、店にはいってきてシャンパンを注文し、突如として自分たちは「ソヴィエト国民の古くからの友人」だと言い出した。(略)

シャイラーは、ふたつの全体主義国家が手を組んだということの重大さに呆然となっていた。

開戦

八月三一日、二四歳のアメリカ領事館事務員ウィリアム・ラッセルは、仕事場に向かって歩いていた。(略)

ポツダム広場では、兵士を満載した軍用トラック、オートバイ、機関砲を運ぶ車両のせいで、交通渋滞が起こっていた。ベルリンの上空には、航空機が旋回しているのも見えた。「戦争の準備を着々と進めている都市の興奮が、わたしの血管のなかで脈打っていた」とラッセルは書いている。

(略)

大使館の近くまで来たとき[男が話しかけてきた](略)

ハンス・ノイマンは、なぜ自分が今日出国しなければならないのか、その譲れない理由を口にした。「今夜戦争がはじまります。わたしには、それを知っている友人がいるのです。もし今日国境を越えなければ、逃げる最後の機会を失います。そうしたらやつらになにをされるか……」

 似たような訴えなら、それまでにも山ほど聞いたことがあったが、ラッセルはノイマンの言葉を信じ、彼を助けると約束した。ラッセルが大使館にはいると、そこは「混乱の渦のなか」で、溢れるほど大勢の人々が、出国に必要となる貴重なアメリカのビザを求めて口々に叫んでいた。

(略)

[空港の役人は]ノイマンのパスポートをチェックした。彼らはラッセルにも、ここでなにをしているのかとたずねた。ラッセルは、自分は大使館の者だと名乗り、ノイマンロッテルダム行きの飛行機に乗るのを見届けに来たこと、ノイマンアメリカのビザを持っており、オランダの港からアメリカ行きの船に乗る予定になっていることを説明した。

「なるほどヘル・ノイマンは、アメリカ行きのビザを持っているわけだ」。突撃隊員のひとりが嫌味な口調でそう言い、ノイマンがオランダのビザを持っていないことを指摘した。「これは準備のいいことだ」

 しかしそのとき、別の役人が口を挟んだ。「行かせてやれ。これでユダヤ人がひとり減る。この男の処理は、オランダ人に考えさせればいいことだ」

 税関検査官が最後にもう一度ノイマンのパスポートを見て、スタンプを押した。「はたしてドイツに戻らずに済むかどうか。もし戻ってきたら、おまえはある場所に戻されることになる」

軍服のヒトラー

 九月一日の国会演説に姿を現したヒトラーは、軍服姿であった。「わたしはふたたび、わたしにとってもっとも神聖で、もっとも大切であった服を身に着けた。勝利を確実なものとするまで、わたしはこの服を脱ぐつもりはない。もし敗北を喫するようなことがあれば、わたしは生きてはいないだろう」。ヒトラーは自分がこれまで平和のために「数えきれないほどの努力」を重ねてきたにも関わらず、ポーランド軍がドイツ領に攻撃を仕掛けたため、反撃せざるを得なくなったと釈明した。ヒトラーの話を聞くために国会に来ていたビームは、この演説はみごとだったと評価している。演説の目的はイギリスとフランスがこの戦いに関わらないよう制することであり、ビームはヒトラーの言葉が以前よりも「さほど攻撃的でなく、威圧するような調子も薄れていた」と記している。

 演説の内容をすぐに放送できるよう、ラジオのスタジオでこれを聞いていたシャイラーは、また別の感想を抱いた。シャイラーはヒトラーの声に「奇妙な緊張感」を感じ、それはまるで「ヒトラー自身が、自分で自分を追い詰めた苦境に呆然となり、どこか自暴自棄になっているように感じられた」という。ヒトラーは、もしなにか起こった場合にはゲーリングが自分のあとを継ぎ、さらにそのあとはヘスが継ぐと発表した。これを聞いたシャイラーは職場の仲間と、まるでヒトラーの遺作[スワン・ソング]だなと言い合った。

(略)

 開戦後第一夜となったあの夜、シャイラーが「奇妙」に感じたのは、レストラン、カフェ、ビアホールに、まだ人があふれかえっていたことだ。(略)「奇妙なのは、ポーランド爆撃機が今夜、一機も飛んでこなかったことだ。だがイギリスとフランスが加わっても、事態は同じだろうか」。翌日の日記にはこうある。「今夜も空襲なし。ポーランド人はどこにいるんだ」

(略)

 大使館事務員のラッセルもやはり、ヒトラーの宣戦布告のあとの拍子抜けしたような気分をつづっている。「だれもがみな、すぐになにかものすごいことが起こるのだろうと思っていた。ところがなにも起こらない」。(略)

ベルリンのアメリカ人記者たちは、ドイツがポーランドで勝利を重ねていること、それによってドイツ市民やドイツ軍のあいだには、ヒトラーの行動の賢明さに対する信頼が生まれていることを伝えた。九月六日、シャイラーは日記にこう書いている。「どうやらポーランドの完敗になりそうな気配だ」。その後数日のあいだの日記には、アメリカ大使館付武官が、ドイツ軍の前進のスピードに度肝を抜かれ、また多くの記者が気落ちしている様子が記されている。イギリスとフランスは正式に参戦を表明していたが、「(ドイツ人によると)、西部戦線ではいまだに、一発の弾丸も飛んでいないという!」。ラッセルは九月一三日の日記に不満をぶつけている。「ポーランドでは戦争が猛威を振るっている。イギリスとフランスはいったいなにを考えているんだと、われわれはみな話している。なぜいまドイツを攻撃しないのだ。そうすればドイツは、ふたつの戦線で同時に戦うことを余儀なくされるというのに」

 九月一七日にソ連が東側からポーランドに侵攻を開始すると、ベルリンのアメリカ人は、この国の命運が尽きたと感じた。記者たちがそう思ったのにはもうひとつ理由があり、それはドイツ当局が突如、彼らに前線に行く許可を出したからであった。

(略)

 翌日グディニアに着いたシャイラーは、この地域で抵抗を続けているポーランド軍最後の部隊に対し、ドイツ軍が容赦なく砲撃を浴びせるさまを目撃した。砲撃は海から、そして陸の三方から行なわれていた。

(略)

UP通信記者のジョセフ・グリッグは、ポーランドはそもそも、ドイツ軍に対して勝ち目はなかったのだと書いている。ドイツ軍は侵略をはじめたその日に、ポーランド空軍の大半を叩き潰してしまった。「ポーランドの平原を前進するドイツの機械化された軍隊の正確さと軽快さは、歴史上類を見ないものであった」

(略)

 一〇月五日、ヒトラーワルシャワに連れて来られた外国人記者たちに向かって話をした(略)顔色こそ青白かったものの、ヒトラーの態度は「勝ち誇る征服者」そのものだったと、グリッグは書いている。(略)

「紳士諸君、ワルシャワの廃墟を見ただろう。あれこそが、まだこの戦争を続けようと思っている、ロンドンとパリの政治家たちに対する警告だ」

 ベルリンの領事館事務員ラッセルによると、このころには、イギリスとフランスからの攻撃がないことで、ドイツ人の多くが「ドイツ軍は無敵」であるとの確信を強めていた。

(略)

シカゴ・トリビューン紙〉のシグリッド・シュルツによれば、ヒトラーポーランドに対する勝利──そしてナチ党の恐怖とプロパガンダ──によって、ドイツ人の大半は「わたしに盲従せよ」という指導者の命令に、進んで従うようになっていったという。「そして大衆は、本当にヒトラーを信じたのだ」。

 勝利による変貌

 ドイツがデンマークノルウェイを占領する前から、ほとんどのアメリカ人外交官は、ラッセルと同様の結論に達していた。しかし本国アメリカでは事ここに至ってもまだ、ドイツに対してはるかに甘い考えを抱いているものが多かった。とくに根強かったのは、物資不足のせいで増加する国内の不満分子が、ヒトラー政権を倒し、ドイツ軍の進撃を止めてくれるのではないかという考えだった。

(略)
ドイツ軍は四月にデンマークノルウェーに、続いて五月にはオランダ、ベルギー、フランスに侵攻し、ドイツの狙いを充分に予見していたはずのベルリンのアメリカ人記者や外交官でさえ驚くほどのペースで勝利を重ねていった。

(略)

ドイツが立て続けに勝利を収めたことで、最初はナチスに対して懐疑的だった人々までが彼らの熱狂的な信者になっていった。〈シカゴ・トリビューン紙〉のシュルツは、「猛烈な反ナチ」だったという、ある知り合いの教授の妻の話を書いている。彼女の息子が《ヒトラー青少年団》にはいったあと、ゲシュタポが彼を同性愛者として逮捕した。半狂乱になった両親がシュルツに助けを求めてきたため[色々手を尽くし](略)

少年は釈放され、件のナチス高官が言うところの収容所の「地獄」を味わわずに済んだ。父親もまた、忠誠を示すためにナチ党に入党した。

 そんな経緯があったというのに、その母親はドイツがノルウェーに侵攻すると、ひどく興奮した様子でシュルツを訪ねてきた。「おそらくわたしたちは、ナチズムを経験する運命だったんです──おかげでわたしたちは強くなれました」。あまりの変貌ぶりに驚くシュルツに、彼女はこう言った。「ナチ党はドイツにみごとな勝利をもたらしましたし、それはこれからも続くのです」。こうした経験にもとづき、シュルツはこう書いている。「そこには征服への欲望がある。このドイツ人女性の心の奥底にあるのは、まさしくそれだ」。

(略)

 ベルリンにいた数少ない女性記者であるシュルツは、ナチ党の女性や家族に関する政策にもとくに関心を寄せていた。(略)

 ナチ党は活動の初期のころから、男性の精力の強さを誇示することに力を入れていた。(略)

「大規模な集会のスビーチでは、ナチ党の男たちによる性の武勇伝が延々と語られ、それを聞いた突撃隊員たちはさっそく実践してやろうと勇んで会場を出て行くのだった。パートナーならすぐに見つかる。女性たちは集会場の外で待っているのだから」。ヒトラー出生率を上昇させることに熱心で、新聞の売店には「ヌードの男性や女性で埋め尽くされた本や雑誌」が並んでいたと、CBSの新人キャスター、フラナリーは書いている。(略)

ドイツ軍がソ連に侵攻し、兵士たちが現地でバタバタと死んでいくようになってからは、当局は出生率向上政策をさらに進化させ、女性の配偶者の有無を問わないことにした。「『非嫡出子』という言葉は、ドイツ語から抹消されるべきである」。ドイツ労働戦線の指導者ローベルト・ライはそう宣言した。

(略)

ナチスは、未婚の母親たちは「若きドイツの英雄」の子どもたちを生んでいるのだと喧伝していたが、実際のところ、子どもたちの父親はたいていは「年若い秘書や事務員、販売員たちの既婚の上司」だったと、シュルツは指摘している。こうして「ナチ党が自分たちの非嫡出子を守ってくれるという理由で、ナチズムにしがみつく」女性層ができあがっていった。

 真珠湾攻撃

ドイツ軍はモスクワ郊外にまで攻め入ったが、これを可能としたのはそもそも、ドイツがロシアに侵攻するという警告を信じようとしなかった、スターリンの重大な誤算であった。

 しかしモスクワは最終的に、ヒトラーがそれよりもさらに大きな誤算を犯したおかげで救われることになった。直接首都を攻めるべきだという陸軍司令部の主張を、ヒトラーは無視したのだ。彼はまず農作物や原料の豊富なウクライナを手に入れるべきだと主張し、進路を南へ変えてキエフを目指せと命じた。ヒトラーが軍をあらためてモスクワに向かわせるころには、ロシアの泥道は秋の豪雨で沼と化し、やがて気温も急激に低下したことで、彼らは立ち往生を余儀なくされた。

(略)

ヒトラーは、日本がアメリカを攻撃したと聞いた瞬間、これ以上のことはないと喜んだ。いまやアメリカは太平洋での戦争に主軸を置かざるを得ず、イギリスやソ連にはエネルギーや物資をあまり割くことができなくなるだろうと考えたのだ。(略)

「われわれがこの戦争に負けるはずがない。いまやわれらには、三〇〇〇年間一度も負けたことのない味方ができたのだ」

 真珠湾攻撃による情勢の変化を、もっとも歓迎した国家指導者はチャーチルであった。運命のその日、大西洋を挟んでつながれた電話でルーズヴェルトは、イギリス首相が待ち望んでいた言葉を口にした。「われわれはいまや、同じ船に乗っている」。 

ヒトラーランド その4

前回の続き。

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々

 

《長いナイフの夜》

[シュライヒャーが撃たれベルリンに戒厳令]
シュライヒャーの屋敷にSS隊員が現われて呼び鈴を鳴らし、ドアを開けた本人を撃ち殺した。彼らはその場でシュライヒャーの妻も殺害した。正午、グレーゴア・シュトラッサーがベルリンの自宅で逮捕され(略)数時間後、彼は留置所内で射殺された。シュトラッサーは、入閣してほしいというシュライヒャーの誘いを受け入れなかったし、その後は政治の世界からも完全に身を引いていたというのに、それだけではヒトラーの怒りから身を守るのに充分ではなかったのだ。

 こうしたベルリンでの殺人事件は、《長いナイフの夜》と呼ばれる血の復讐劇のほんの一部でしかなかった。拳銃の弾を撃ち込まれた死体はその日、ドイツ中の家や留置所のなかにゴロゴロと転がっていた。

(略)

 六月三〇日の主要なターゲットは、SA──政権の座に登りつめていくヒトラーを暴力で支えた突撃隊──の幹部であった。とくに大きな問題とされていたのは、正式な軍隊であるドイツ国軍と、豪胆な性格のSA最高指導者エルンスト・レームとのあいだの軋轢が高まっていることだった。SAの構成員数はナチ党が政権を取って以来、二五〇万人にふくれあがっていた。

(略)

ヒトラーの政権奪取以降に起きた暴力事件(略)の大半は、彼ら褐色シャツ隊のしわざだった。彼らが、自分たちはヒトラーの意志を実行していると考えていたことは間違いないが、ヒトラーは徐々に、SAが制御を失う恐れがあると考えるようになっていった。

(略)

 SA幹部たちの贅沢な暮らしと、彼らが派手に酒を飲んでいることや、堂々と同性愛に興じていることが広く知れ渡っていたことも、彼らの立場を悪くした。

(略)

 ヒトラーはレームの部屋に押し入り、彼を裏切り者と言い放った。別の部屋では、SAブレスラウ支部のリーダー、エトムント・ハイネスが、若い男とベッドにはいっているところを捕らえられた。集められたレームの部下たちは、バスでミュンヘン市内の刑務所に移送された。その場で射殺された者も数名いた。ヒトラーは当初、旧知の仲のレームをどう処置するのか決めかねていたようで、翌日になってようやく、レームの手に拳銃が渡され、自決するよううながされた。レームがこれを拒否したため、ふたりのSS隊員が彼を射殺した。政府からはその後、ヒトラーの政権奪取に大きな貢献をしたこの人物について、ひどくそっけない告知が出された。「元幕僚長レームには、みずからの背信行為の結果の責任を取る機会が与えられた。彼はそれを拒否し、射殺された」

(略)

バイエルン州総督で、ビアホール一揆の鎮圧を指揮し、当時はすで政界を引退していたグスタフ・フォン・カールの死体は、細かく切り刻まれた状態で発見された。犠牲者のなかにはまた、副首相のフランツ・フォン・パーペンの秘書と数名の同僚も含まれていた。(略)

パーペンは銃殺をまぬがれたが、暴行を受けたあとしばらく自宅に監禁され、のちに公使としてウィーンに派遣されることになる。

やつは狂人だ 

散歩の友好的な雰囲気が破られたのは、ピア・ハスがさらに一歩踏み込んで、もしあなたが一九二〇年に採択されたナチ党の二五ヵ条綱領をひとつ残らず実現しようとすれば、大規模な紛争を招くのではないかと言ったときだった。ナチ党の綱領には、新たな領土や植民地を含む大ドイツの実現を目指すという内容が含まれていた。ヒトラーはふいに足を止めると「一瞬のうちに、バイエルンの山歩きを楽しむハイカーから、アドルフ・ヒトラーに変貌した」。ヒトラーは勢いよくこう言い返した「わたしの計画をほんの一部でもあきらめるくらいなら、わたしはあの木のところへ行って首をくくる」。この時点ですでに、党の方針にはもとの綱領に沿わない部分も出てきていたのだが、ヒトラーは断固として「綱領は一言一句違わずに実現されなければならない。これはドイツの意志を表わしているからだ」と言い張った。この山中の散歩を終えたあと、ハスはヒトラーをこう評している。「やつは狂人だ。体の隅々まで狂っている。ふさわしい時が来れば、やつはその情熱と怒りを爆発させるだろう」

 ベルリン・オリンピック

政権を取る直前の一九三二年、ヒトラーはオリンピックを「フリーメイソンユダヤ人の陰謀」と糾弾した。(略)

政権の座に就いてからも、彼らはまだ“ユダヤ人や黒人を含めた国際的な競技会”という概念に納得がいかないようだった。(略)

[一方でナチ運動への献身のために若者にスポーツを推奨していた]

(略)

[ドイツ・オリンピック委員長テオドル・レヴァルトは]

オリンピックが生み出す収入は、採算がとれるどころかお釣りがくるほどであり、またなにより重要なのは「膨大な宣伝効果」が期待できることだと[ナチ首脳を説得]

(略)

[アメリカではユダヤ人差別がオリンピックの理想を否定するとボイコット運動が起こり]

 レヴァルトに説得されたナチ党は、ドイツは「あらゆる人種の競技者」を歓迎すると発表したが、同時にドイツチームの編成については自国の問題であると明言した。

(略)

オリンピックがいよいよ開始されると、それは支持者と反対者のどちらもが予言した通りの、ドイツの偉大さを高らかに歌い上げる一大ショーとなった。

(略)

 オリンピックに感銘を受けたのはヒトラーの支持者ばかりではなかった。「ベルリンはいまや、美しく活気に満ち、ゆったりと羽を伸ばせる街となった」。〈ニューヨーカー誌〉の記者、ジャネット・フラナーはそう書いている。「この一年はあの戦争以来、ドイツが物質的な繁栄にもっとも近づき、政治不安からもっとも遠ざかった年であった。いまのベルリンはそれを体現している」。(略)

この時期には、ヴァイマール共和国時代のさまざまな娯楽が、突如として復活したという。「すべては解放され、ダンスホールは閉じていた扉をふたたび開いた。そこではアメリカの音楽はもちろん、あらゆるものが演奏された。とにかくそのときはだれもが、『まあ結局のところヒトラーも、そう悪くはないだろう』と考えた」。しかもナチ党は、営業を禁じられていた売春婦七〇〇〇人に、ベルリンで商売を再開する許可まで出していた。

(略)

フロムは日記にこう記している。「はてしなく続く、きらびやかなオリンピック関連のレセプション。外国人はちやほやと甘やかされ、おだてられ、欺かれている」。シャイラーは、外国人が派手なショーにすっかり騙されている様子に暗澹たる気持ちを抱いていた。「残念だが、ナチ党はプロパガンダにまんまと成功したようだ」。

リンドバーグの訪独

[大使館付上級武官として戻ってきたトルーマン・スミスはリンドバーグがフランスの飛行場を訪問した記事を読み、あのリンドバーグならドイツの飛行場にも入れてもらえるのではないかと思いつく]

「それぞれタイプのまったく異なる四機の飛行機が、ひとつの業者によって造られているところなど、これまで見たことがない。しかもどれも非常にすぐれた設計だ」。その夜、ベルリンに戻ったリンドバーグトルーマンにそう語った。

 銀行家のハリー・デーヴィソンへの手紙にリンドバーグは、「アメリカには、ハインケル社やユンカース社の規模に匹敵する工場がひとつもない」と書いている。(略)

リンドバーグの二度目の訪独で得られた情報にもとづき、トルーマンはワシントンに、もし現在のままで状況が推移するなら、ドイツは「一九四一年か四二年までには、アメリカと技術的に同等の力を持つだろう」との報告書を送り、アメリカがどんな理由であれ、現在計画されている開発を遅らせた場合には、「ドイツの空での優位性は、より早い時期になるだろう」と警告している。

(略)

カクテルパーティで、社会部記者のベラ・フロムは、リンドバーグがウーデットにこう言っているのを小耳に挟んだ。「ドイツの航空能力は、ほかのどの国よりも高い。まさに無敵ですよ」。ドイツ人将校たちは満足気に、リンドバーグはきっと「宣伝係としては、これ以上ない投資先」になってくれるだろうと言い合っていた。

(略)

[ルーズヴェルト大統領顧問バーナード・バルークは45年6月]の手紙にこう書いている。「ドイツの軍備に関する彼(トルーマン・スミス)の警告は、どれだけ質が高く、どれだけ時宜を得ていたことか。そしてわれわれが、どれだけその情報を軽視していたことか!」

プッツィの凋落

とくにベルリンに来たばかりの記者たちからの評価は容赦がなかった。一九三四年九月のニュルンベルク党大会でプッツィを見かけたシャイラーは、彼のことを「巨漢で、やたらと神経質で、言うことが支離滅裂なピエロ。自分が半分アメリカ人で、ハーヴァードの卒業生だと自慢するのをいつも忘れない」と評している。

(略)

プッツィは戦後になって、自分はナチス反ユダヤ主義には反対だったと主張しはじめるのだが、彼自身の態度はその言葉と完全に矛盾していた。プッツィは過去に何度も、ジョージ・メッサースミスやエドガー・マウラーのような歯に衣着せないアメリカ人外交官や記者に対し、やつらはユダヤ人だと言ってさんざん非難を浴びせていた。

(略)

自分はアメリカとの関係をうまく処理して、ドイツに敵対させないようにする方法を知っていると語るプッツィの主張を、ヒトラーは馬鹿にしていた。一九三三年一一月、ルーズヴェルト政権がソ連との国交を樹立すると、ヒトラーはプッツィにこう言った。「ほら見ろ、ハンフシュテングル。おまえのお友だちのアメリカ人は、ボルシェヴィキと手を組んだぞ」。それより前の時期、ヒトラーはあけすけな口調でこうも言っている。「わたしがこうして座っている場所からは、おまえが思うよりずっとはっきりとアメリカのことが見えている」

(略)

ハーヴァードの同期会を終えたプッツィがドイツに戻ったのは、SA指導者をはじめ、ナチ党が狙いをつけた多くの人間が一掃された血の粛清《長いナイフの夜》の直後であった。プッツィはバルト海沿岸のリゾート地ハイリゲンダムに呼び出され、現地に到着してみると、そこではヒトラーゲッベルスらが休暇を楽しんでいた。「まるでルイス・キャロルの物語の一場面のようだった。まさにいかれ帽子屋のランチョンパーティだ」とプッツィは回想している。「世のなかに殺人、恐怖、疑念の空気が蔓延し、ドイツ中が苦悶のうめきを上げているというのに、ここでは薄手のサマードレスを着たマグダ・ゲッベルスが、テーブルについた若い女性たちをもてなしており、そのなかにはちらほらと貴族の娘の顔も見えた(略)」

 政権の座に収まったことで「ヒトラーのなかに悪魔がはいり込んだ」ことに彼が気付いたのは、まさにこのころだったとプッツィは言っている。しかし後年、すべてが終わったあとでさえ、プッツィはヒトラーをあと戻りできないところまで追い詰めたのはゲッベルスらであって、自分はまだ、ヒトラーの非道な行ないを抑制することができるという希望を捨ててはいなかったと語っている。ヒトラーたちの前でひたすら自己弁護を続けるハンフシュテングルが必死に守ろうとしていたものは、自分が掲げる方針などではなく、みずからの立場であった。プッツィは当時、それが急速に弱くなっていることを感じ取っていた。ナチ党幹部は公然とプッツィを批判し、嘲りの言葉を口にしていたし、ヒトラーはそれに対してなにもするつもりはないようだった。

(略)

「プッツィは暗に、ゲッベルスが自分の(略) ヒトラーに対する影響力に嫉妬しており、自分をヒトラーから引き離したがっているとほのめかした」

 嫉妬というのは、まず間違いなく誇張であった。ハンフシュテングルの影響力は、すでにしばらく前から衰えていた。

(略)

もう二年近くも曲から、プッツィはヒトラーが出席するイベントに一度も招待されていなかった。ヒトラーと同席した最後の昼食会の終わり近くに、ヒトラーはプッツィにピアノのところへ行って「おまえのあの曲をやれ」と命じた。プッツィがどの曲のことかとたずねると、ヒトラーは「おまえの葬送行進曲だ」と答えた。プッツィはその曲を「不吉な予感」を抱えながら弾いたという。

 一九三六年、プッツィは妻のヘレンと離婚し、またひとつヒトラーとのつながりを失ったことを実感した。アメリカ人のヘレンは、ビアホール一揆の直後、ヒトラーの自殺を思いとどまらせたと言われる女性であり、またミュンヘン時代のヒトラーが不器用な愛情を寄せた相手でもあった。

疎まれたドッド大使

《長いナイフの夜》のあと、ドッドは日記に、自分はヒトラーと顔を合わせるのをできるだけ避けることにすると書いている。「ここ数日のあいだに大勢の人間を殺した男になど、会いたくないに決まっている」。

(略)

 米国務省にいるドッドの上司たちもまた、大いに不満を抱えていた。「自分が派遣された国の政府と話すのを拒否する大使を雇っておいて、いったいなんの役に立つというのだ」。(略)

事態をさらに悪化させたのは、元大学教授であるドッドが、協力して仕事を進めなければならない国務省の官僚や外交官たちを、あきらかに見下していたことであった。ドッドが指摘しているように、彼らが自分たちだけがはいれる高級クラブのおぼっちゃまのように振る舞っていたのはたしかで、その原因は彼らの持つ特権意識と、アイヴィーリーグ出身者としてのプライドであった。(略)

ドッドは、異常なまでに経費の削減を推し進めることで、さらに彼らの不興を買った。経費削減の対象は電報にまでおよんだ。(略)

事態はドッド自身が「電報不足」と呼ぶほどの状況になってしまった。

(略)

 ドッドはまた、大使館付武官たちからも評判が悪かった。トルーマン・スミスはドッドのことを「有名な歴史家で平和主義者」と評している。(略)「軍事関連のことをひどく嫌って」おり、大使館付武官の仕事にも、ドイツの陸軍と空軍が急速に軍備を増強していることにも、まるで興味を持とうとしなかった。「よりによってこの時代のドイツにおける大使というポストに、ドッド博士が適任なのかどうかという疑問がどうしてもわいてくる」。後年、トルーマン・スミスの伝記を書いた口バート・ヘッセンはそう記している。

フーヴァー元大統領の訪欧

 一九三八年三月の強制的なオーストリア併合に向けて、ヒトラーは徐々に脅威と圧力を増していき、ウィーンに居を移したシャイラーは、ことのなりゆきを悲しみと落胆の気持ちで見守った。

(略)

 シャイラーはオーストリアに幻想を抱くほど素人ではなかったが──彼はすでに、オーストリア反ユダヤ主義が「ナチスとひどく相性がいい」ことに気づいていた──それでも、オーストリアの人々が新たな指導者をまたたく間に受け入れたのみならず、大喜びで歓迎したことに衝撃を受けた。

(略)

ヒトラーはまだ征服に向けた行進をはじめたばかりだ──そして世界はいますぐに目を覚まし、その危険に気付かなければならない。

(略)

本国アメリカの人々は、シャイラーとは恐ろしいほど異なる見解を持っていた。元大統領のハーバート・フーヴァーは一九三八年二月、ヨーロッパ歴訪の旅に出発した。

(略)

 ベルリンに着いたフーヴァーは、ヒュー・ウィルソン大使から、ヒトラーが会いたがっていることを告げられた[が断ろうとした](略)

元大統領はウィルソンにこう言っていたという。自分にはどうも「ヒトラーはただの表看板であって、裏には実際にナチ党の運営や各種の政策を実行しているブレーン集団がいる」ように思えてならない。(略)

[説得され会うことにしたが]

いくつかのキーワードに対してヒトラーは敏感に反応し、「突然、サッと立ち上がると、なにかをわめくように話し続け──つまりはかんしゃくだ──、みずからが狂人であることを露呈した」という。そのキーワードとは、「ユダヤ人」、「共産主後者」、「民主主義」であった。

 話の途中で一度、フーヴァーはヒトラーをさえぎってこう言った。「もうたくさんだ。あなたの見解を聞きたいとは思っていない」。(略)

フーヴァーはこの面会後、ドイツのリーダーに対する見解をあらためた。彼はもう、ヒトラーがたんなる操り人形だとは思っていなかった。ヒトラーがみずからの力で権力を手にしたことはあきらかだった。

(略)

フーヴァーはさらに欧州歴訪の旅を続け、ポーランド、ラトヴィア、エストニアフィンランドスウェーデンをまわった。最後の訪問地であるイギリスでは、記者会見を開いた。フーヴァーは「平和を脅かす要素はいくつもあった」ことを認めつつも、「近い将来に大規模な戦争が起こるとは思えない」と語った。

(略)

[ヒトラー]の長広舌やかんしゃくを目撃してなお、彼の確信は揺るがなかった。新生ドイツに対してアメリカが取るべき唯一の理性的な対応とは、事実上、肩をすくめてやりすごすだけだと彼は考えていたのだ。

次回に続く。

ヒトラーランド その3

前回の続き。

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々

 

 アメリカ人への襲撃

[政府がユダヤ系企業ボイコット終了を正式に宣言すると]

メッサースミスは胸をなでおろし、反ユダヤ的な事件の数はまたたく間に減少したと報告している。

 暴力沙汰に巻き込まれるアメリカ人が増加しているという事実があってもまだ、いま起きていることの真相は見た目以上に複雑であり、すべてをヒトラーのせいにするのは逆効果だというメッサースミスの信念は揺るがなかった。

(略)

〈スクリブナーズ・マガジン誌〉の外部編集者であるエドワード・ダールバーグは、街の通りで袋叩きにあった。また、あるユダヤ系ドイツ人のアメリカ人の妻は、アパートに押し入ってきた突撃隊員たちが、クローゼットにスーツが四着あるとの理由で夫を殴りつける場面を目の前で見せられた。「スーツが四着だと。おれたちは一四年前から、ずっと腹を減らしてるってのに!」。ひとりの隊員が叫んだ。「いまいましいユダヤ人めが」

(略)

 アメリカ人への襲撃は続き、メッサースミスら大使館員は、なにか事件があればかならず抗議をした。しかし彼らは、ドイツ当局者に積極的に解決しようという態度が見えるたびに、あえてそこに希望の兆候を見出そうとしていた。

(略)

 一部のアメリカ人は、なにが起こっているのかを直視せず、それが自身の身に降り掛かったときでさえ、現実に目をつぶっていたかのように思える。

(略)
じきに国際連盟難民高等弁務官に就任することになるジェームズ・G・マクドナルドは(略)
人々が老いたユダヤ人をぐるりと取り囲み、嘲笑の言葉を浴びせているゾッとするような光景に出くわした。(略)

政府の役人に会ったときには、彼らがいま起こっていることになにかしらよくない点があると認めようとしない、その態度に驚かされた。かつてモスクワで、過激派の共産党員と会ったときのことが思い出された。「どちらの場合でも、相手は独善的で、まるで自説を譲ろうとはしなかった」。民族に関する持論に話がおよんだときには、とりわけその傾向は強まった。

 ベルリンを訪れる二ヵ月前、マクドナルドは、巨大銀行ゴールドマン・サックスのヘンリー・ゴールドマンに会っていた。ゴールドマンもやはり、近いうちにベルリンに行く予定だということだった。マクドナルドは彼に、ドイツ新政府の苛烈な反ユダヤ主義は、ドイツの人々がどこかおかしくなっている兆候ではないかと言った。(略)

ゴールドマンは、マクドナルドの質問を鼻であしらい、「そんなことはありません。ドイツの反ユダヤ主義など、アメリカの反ユダヤ主義と似たり寄ったりですよ」と言い切った。(略)

しかし四月八日、ベルリンのアドロン・ホテルでふたたび顔を合わせたとき、マクドナルドはゴールドマンの変わりはてた様子に目を見張った。「彼はまるで、憔悴しきった人のようだった」(略)

「ミスター・マクドナルド、一五世紀や一六世紀に起こった最悪の事態が、この二〇世紀に、しかもドイツ全土で復活しようとは、思ってもみませんでした」。マクドナルドがベルリンにはどのくらい滞在するのかと聞くと、彼は答えた。「耐えられなくなるまでです」

(略)

[ヒトラーと面会したマクドナルド]

「われわれはなにもユダヤ人ばかりを攻撃しているわけではない。むしろ主要なターゲット は社会主義者共産主義者だ」とヒトラーは言った。「アメリカはそういった人間を国外に締め出したではないか。われわれはそうはしなかった。だから、われわれがいま彼らに対する方策を講じたところで、責められる筋合いはなにもない。それにユダヤ人にしても、家を追い出されたからといって、なにをそんなに騒ぐ必要があるのだ。いまでも何百何千人というアーリア系ドイツ人が通りにあふれているというのに。だめだ。この世界には不平を言っていい正当な理由など存在しないのだ」

(略)

後日、アメリカに戻ってから、彼はヒトラーが言った言葉をさらに詳細に記録している。「ヒトラーはわたしにこう言った。『わたしはこれから、世界中の人間がやりたいと思っていることをやる。やつらはユダヤ人を排除する方法を知らない。わたしが手本を見せてやるのだ』」

 消えゆく人々

[〈フォーリン・アフェアーズ誌〉編集者]ハミルトン・フィッシュ・アームストロングが再びベルリンの地を踏んだのは[1933年4月](略)

彼が見たところ、どうやら一部の英米人記者は、いたるところで見られるナチ党の残虐行為を報道することに対しては慎重な姿勢をとりつつ、たんにナチ党の主張をそのまま引用して記事にしておけば、ドイツ新政府の残酷な性質は充分に伝わると考えているようだった。
(略)

アームストロングは旧知のドイツ人たちとふたたび連絡をとり(略)

外務省の官僚たちは、「事務所の席にしがみ付いて、ただひたすら沈黙していた」。官僚たちの言い分は、ナチ党は「一時的に成功しただけ」であり、自分たちはドイツの利益と外交政策へのダメージを最小限に抑えるために尽力しつつ、新たな政府がヒトラーに取って代わるのを待っている、というものであった。もしヒトラーがこのまま政権に残ったとしても、結局は世界の現実に直面し、より穏健な政策をとらざるを得なくなるだろう。「官僚たちが愚かだとは言わないが、わたしは本能的に、彼らが間違っていることを感じ取った」。

(略)

アームストロングがこれほど悲観的な気持ちになっていたのは、ひとつには、前回ベルリンに来た際に助言を求めた[専門家や学者たちの多くが](略)行方知れずになっていたためであった。

(略)

手はじめに彼は、ヒャルマー・シャハトに会いに行った。シャハトはこのころ、ナチ党支持への見返りとして、ヒトラーの任により帝国銀行総裁の地位に復帰していた。(略)

シャハトはアームストロングに向かって、ナチ党は資本主義の行き過ぎを正し、より安定した、信頼できる経済体制を実現するのだと説明した。

(略)

 ドイツの資本家たちを動員してヒトラーに資金を提供させた男が、資本主義の道徳化ととれるような話をすることに、アームストロングは唖然とさせられた

(略)

[NYに戻ったマクドナルドは本を出版]

 ヒトラーの統治を受け入れ、彼とその運動に完全な忠誠を誓わなかった者たちは、ただ消し去られただけではない。「そんな人間は、もともと存在していなかったことにされている。彼の名前を口にする者はなく、嘲笑の的にさえならない。だれかが彼のことをたずねれば、あいまいな返事が返ってくる。『ああ、ええと……でもあの人はまだ生きてるのかな。外国に行ったのかもしれないし、そうだ、養護施設にいるんじゃないかな』。こうした扱いを受けるのは、逃亡したり、刑務所に入れられたり、あるいは『彼ら自身の身の安全のために』鉄条網に囲まれた強制収容所に送られたユダヤ人や共産主義者ばかりではない

記者への圧力 

 これほど緊張が高まっていた時期にも、マウラーはユーモアのセンスも忘れていなかった。(略)

[ドイツ外相を招いての夕食会での挨拶]

わざとドイツ語の文法が苦手なふりをして話しはじめた。「われわれはこの国でいま、たいへん幸せです──いや、つまり、幸せでした……なかにはドイツを離れて救済を──いや、娯楽を求める人もおり……」。マウラーが言葉の間違いを自分で次々に訂正 していくので、じきに集まった各国大使たちのあいだには大きな笑い声が起こった。(略)

[激怒したシャハトは]外国のマスコミは意見ではなく事実を報道すべきであり、ドイツが世界から色眼鏡で見られているのは、その「意見」のせいであることを言外にほのめかした。マウラーはまたもや皮肉な言いまわしで、シャハトに謝意を述べた。アメリカのジャーナリズムをそれほど高く評価していただいてありがたい。アメリカのマスコミは事実を報道することで有名なのです。外交官たちからはふたたびくすくすと忍び笑いが漏れ、シャハトはさらに怒りをつのらせた。

(略)

七月、〈シカゴ・デイリー・ニューズ紙〉の発行人であるフランク・ノックス大佐がベルリンを訪れ[確信した]。(略)

恐怖の時代が迫っているというマウラーの意見は正しいということ。そしてマウラーは、もうベルリンを離れるべきだということだ。ノックスはマウラーに、彼を東京に異動させるつもりだと告げた。さもなければ、ナチスはマウラーに身体的危害を加えるに違いなかった。

(略)

[自分の見通しを]受け入れようとしないドッドの様子を見たマウラーは、ドッドを大使に任命したことは「自由への打撃」だと自著に記している。(略)

[対照的に]アメリカ総領事のメッサースミスは、アメリカ人が不当な扱いを受けたときには、つねに激しく抗議をした。(略)その結果、メッサースミスと記者団のあいだには強い絆が生まれていた。

(略)

[八月深夜]半狂乱になったポール・ゴールドマンの妻から電話がかかってきた。(略)ゴールドマンは六八歳で、病弱で、プロイセン州に住むユダヤ人であり、外国人記者協会の設立者のひとりであった。ゴールドマンの逮捕は、ウィーンでドイツ人将校が逮捕・国外追放されたことへの報復であり、それを知っている妻は、ナチスの刑務所にはいってしまえば夫の命は長くないと震え上がっているのだった。

(略)

エドガーはニッカーボッカーと話し合い、ゴールドマンを取り戻すための計画を練った。ニッカーボッカーはゲッベルスに、ゴールドマンを釈放するなら、マウラーは外国人記者協会の会長を辞任すると申し出た。ただし、エドガーはじきに東京に異動になり、本人もそれを知っていることは黙っておいた。ゴールドマンの逮捕を知ったアメリカ人記者のなかには、(略)[釈放の代わりに]自分たちが一日ずつ交代で牢屋にはいると申し出た者たちもいた。ナチ党はニッカーボッカーの提案を喜んで受け入れ、すぐにゴールドマンを釈放した。

 ただしそこにはひとつだけ落とし穴があった。ナチ当局はゴールドマンの妻が持つドイツのパスポートを没収することで、彼が国を離れたり、なにかしら「敵対的なこと」をしたりできないようにしたのだ。しかしもともとオーストリアの生まれだったゴールドマンの妻は、すぐに離婚を申請し、オーストリアの市民権を手に入れた。もちろん、オーストリアのパスポートもだ。

(略)

英米の記者たちが、マウラーがすでに東京への異動が決定していることを利用して当局を出し抜いたことを記事に書くと、ナチ党の広報も負けじと、自分たちは「不倶戴天の敵」を、外国人記者協会のトップの座から追い出すことに成功したと吹聴した。

(略)

ワシントン駐在ドイツ大使で、マウラーがかつては友人だと思っていたハンス・ディックホフが、マウラーの上司であるフランク・ノックスと米国務省に、「民衆の正当なる憤り」により、ドイツ政府はこれ以上長くマウラーの身の安全を保証できないと伝えてきた。ナチ党は、九月二日にニュルンベルクで行なわれる年に一度の党大会の前までに、なんとしてもマウラーに出て行ってもらいたがっていたのだ

(略)

[さらにアメリカ大使ドッドも国外脱出を強要してきた]

メッサースミスやニッカーボッカーまでがドッドの判断を支持した。彼らは友人の身に迫る危険はあまりに大きく、もう国を出るべきときだと考えたのだ。

(略)

[役人達]は目の上のこぶだったマウラーが間違いなく出発することを確認しに来たのだった。出発まであと少しというとき、若い役人が薄笑いを浮かべながらこう言った。「それで、ドイツにはいつお戻りですか、ヘル・マウラー」

「そりゃもちろん、二〇〇万人のわが母国の人間を連れて来られるようになったときだよ」とマウラーは答えた。

 その言葉の真意を汲み取れず、役人は一瞬考え込んだ。マウラーの心のなかには、敗北を喫したドイツの国土に、アメリカ兵が進撃してくる日の光景が広がっていた。「いやしかし、そんなことはありえない」。役人が叫ぶように言い返した。

 マウラーはこの言葉を聞き流したりはしなかった。とどめのひと言も言わないまま、ドイツを離れるのなどごめんだった。「総統ならできるさ。総統がドイツにもたらすことができないものなどなにもない……たとえなんであろうとね」

アナ・ラート事件

 三人は外へ出て人混みのなかにはいっていった。だれもが楽しげで、バンドの演奏がお祭り気分を盛り上げていた。三人の目にナチ党の旗と鉤十字が見え、そのとき音楽の出処も判明した。突撃隊の楽隊が演奏しているのだ。ふたりの背の高い兵士が、あいだにだれかを引きずりながら歩いてくる。「最初はそれが女だか男だかもわからなかった」とレイノルズは書いている。「頭は丸坊主に刈られ、その頭と顔は白い粉に覆われていた。スカートを履いてはいたが、ピエロの格好をした男かもしれないと思った」。褐色シャツ隊がその人物をまっすぐに立たせると、首にプラカードが下げられているのが見えた。「わたしはユダヤ人と一緒に暮らそうとしました」。そう書かれていた。「レッスン」が続けられているあいだに、三人は見物人から、あれはアナ・ラートという名の女性だと教えられた。ラートがこんな罰を受けているのは、異人種間の結婚は禁じられているにも関わらず[ユダヤ人との結婚が正式に禁じられるのは、この二年後の一九三五年、「ニュルンベルク法」が制定されてからのこと]、ユダヤ人の婚約者と結婚しようとしたためだという。

ヒトラーとドッド大使

ドイツ政府の役人たちは、彼の意見表明と、アメリカ人に対する暴行に関する彼のたび重なる問い合わせに対し、見るからにいらだっていた。

(略)

ドッドがアメリカ人に対する襲撃に言及したときには、ヒトラーは愛想よく対応した。ドッドは日記にこう記している。「首相はわたしに直接、この先襲撃があれば、かならず厳しい処分を行なうことにするし、外国人はヒトラー式敬礼をしなくてもよいという命令が全員に伝わるよう、告知を徹底すると約束してくれた」

 しかし、ドイツが先ごろ国際連盟を脱退すると発表したことについてたずねると、ヒトラーヴェルサイユ条約と、第一次大戦戦勝国によってドイツが直面させられた数々の屈辱について「わめきたてた」という。ドッドは、フランスの行ないは確かに不当だったと同意を示しつつ、より哲学的な面から話をしようと試みた。戦争のあとに不正が行なわれるのは世のつねであるとドッドは説き、例としてアメリカの南北戦争後、南部の州がどんな扱いを受けたかを挙げてみせた。(略)歴史学の元教授が自分の論旨を丁寧に説明するあいだ、ヒトラーはただむっつりと黙り込んでいた。

(略)

ドッドはヒトラーから、ドイツの将来的な計画に関する話を聞き出そうとした。とくに気がかりなのは、隣国との国境で衝突が起きた場合、新たな戦争に発展する可能性があるかどうかであった。「いや、それはない」とヒトラーはこれを否定した。しかしドッドが、もしルール渓谷で武力衝突があったら、ヨーロッパ諸国を集めて話し合いを開くつもりがあるかとたずねると、ヒトラーはこう答えた。「わたしにはその意向はあるが、ドイツ国民を抑えておくのは難しいかもしれない」。ドッドは日記に「ドイツ国民というのはつまり、ヒトラーが暴力をふるわせるために訓練をした、凶暴なナチ党員のことだ」と記し、こう。結論付けている。「ヒトラーについては、彼が好戦的で自信に満ちた人間だという第一印象を持った」

 それでもドッドはまだ、ヒトラードイツ国民から全面的な支持を得ているとは思っていなかったし、ヒトラー政権の安定性にも疑問を持っていた。ヒトラーに会う二日前、ドッドが映画館に行くと、ニュース映画にヒトラーが登場したが、拍手はパラパラとしか起こらなかったという。「ヒトラーは、イタリアの暴君ムッソリーニはど国民に人気があるわけではない」とドッドは考えた。

(略)

「善人ドッド、あの男はドイツ語がほとんど話せないし、なにを言っているのかまるでわからなかった」とヒトラーはプッツィに言っていた。総統の目には、ドッドの誠実さはほとんどなんの印象も残さなかった。ヒトラーは、ドッドはつまらない人間だとさっさと決めつけ、彼の国は「どうしようもなく軟弱で、どうあがこうとも(略)(自分の)計画の実現に干渉することなどできはしない」と考えていたのだ。

 ハンフシュテングルもまた、ヒトラーと同じくドッドを見下していた。「ドッドは南部出身の地味な歴史教授で、大使館をごく少ない資金で細々と切り盛りしていた。自分の給料を削ってまで金を節約しているんじゃないかと思ったほどだ」。プッツィは戦後に出版した回顧録にそう書いている。「こんなときこそ太っ腹な億万長者を連れてきて、ナチ党の派手さに対抗すべきだというのに、ドッドはこそこそとあたりをうろつきまわるばかりだった。おそらくまだ、大学のキャンパスにでもいるつもりだったのだろう」

 もっと派手で裕福な大使であればナチ党に「対抗」できただろうという見解は、控えめに言ってもひどく奇怪で、ドッドのというよりもプッツィの本性をよく表わしていた。

次回に続く。