ヒトラーランド その4

前回の続き。

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々

 

《長いナイフの夜》

[シュライヒャーが撃たれベルリンに戒厳令]
シュライヒャーの屋敷にSS隊員が現われて呼び鈴を鳴らし、ドアを開けた本人を撃ち殺した。彼らはその場でシュライヒャーの妻も殺害した。正午、グレーゴア・シュトラッサーがベルリンの自宅で逮捕され(略)数時間後、彼は留置所内で射殺された。シュトラッサーは、入閣してほしいというシュライヒャーの誘いを受け入れなかったし、その後は政治の世界からも完全に身を引いていたというのに、それだけではヒトラーの怒りから身を守るのに充分ではなかったのだ。

 こうしたベルリンでの殺人事件は、《長いナイフの夜》と呼ばれる血の復讐劇のほんの一部でしかなかった。拳銃の弾を撃ち込まれた死体はその日、ドイツ中の家や留置所のなかにゴロゴロと転がっていた。

(略)

 六月三〇日の主要なターゲットは、SA──政権の座に登りつめていくヒトラーを暴力で支えた突撃隊──の幹部であった。とくに大きな問題とされていたのは、正式な軍隊であるドイツ国軍と、豪胆な性格のSA最高指導者エルンスト・レームとのあいだの軋轢が高まっていることだった。SAの構成員数はナチ党が政権を取って以来、二五〇万人にふくれあがっていた。

(略)

ヒトラーの政権奪取以降に起きた暴力事件(略)の大半は、彼ら褐色シャツ隊のしわざだった。彼らが、自分たちはヒトラーの意志を実行していると考えていたことは間違いないが、ヒトラーは徐々に、SAが制御を失う恐れがあると考えるようになっていった。

(略)

 SA幹部たちの贅沢な暮らしと、彼らが派手に酒を飲んでいることや、堂々と同性愛に興じていることが広く知れ渡っていたことも、彼らの立場を悪くした。

(略)

 ヒトラーはレームの部屋に押し入り、彼を裏切り者と言い放った。別の部屋では、SAブレスラウ支部のリーダー、エトムント・ハイネスが、若い男とベッドにはいっているところを捕らえられた。集められたレームの部下たちは、バスでミュンヘン市内の刑務所に移送された。その場で射殺された者も数名いた。ヒトラーは当初、旧知の仲のレームをどう処置するのか決めかねていたようで、翌日になってようやく、レームの手に拳銃が渡され、自決するよううながされた。レームがこれを拒否したため、ふたりのSS隊員が彼を射殺した。政府からはその後、ヒトラーの政権奪取に大きな貢献をしたこの人物について、ひどくそっけない告知が出された。「元幕僚長レームには、みずからの背信行為の結果の責任を取る機会が与えられた。彼はそれを拒否し、射殺された」

(略)

バイエルン州総督で、ビアホール一揆の鎮圧を指揮し、当時はすで政界を引退していたグスタフ・フォン・カールの死体は、細かく切り刻まれた状態で発見された。犠牲者のなかにはまた、副首相のフランツ・フォン・パーペンの秘書と数名の同僚も含まれていた。(略)

パーペンは銃殺をまぬがれたが、暴行を受けたあとしばらく自宅に監禁され、のちに公使としてウィーンに派遣されることになる。

やつは狂人だ 

散歩の友好的な雰囲気が破られたのは、ピア・ハスがさらに一歩踏み込んで、もしあなたが一九二〇年に採択されたナチ党の二五ヵ条綱領をひとつ残らず実現しようとすれば、大規模な紛争を招くのではないかと言ったときだった。ナチ党の綱領には、新たな領土や植民地を含む大ドイツの実現を目指すという内容が含まれていた。ヒトラーはふいに足を止めると「一瞬のうちに、バイエルンの山歩きを楽しむハイカーから、アドルフ・ヒトラーに変貌した」。ヒトラーは勢いよくこう言い返した「わたしの計画をほんの一部でもあきらめるくらいなら、わたしはあの木のところへ行って首をくくる」。この時点ですでに、党の方針にはもとの綱領に沿わない部分も出てきていたのだが、ヒトラーは断固として「綱領は一言一句違わずに実現されなければならない。これはドイツの意志を表わしているからだ」と言い張った。この山中の散歩を終えたあと、ハスはヒトラーをこう評している。「やつは狂人だ。体の隅々まで狂っている。ふさわしい時が来れば、やつはその情熱と怒りを爆発させるだろう」

 ベルリン・オリンピック

政権を取る直前の一九三二年、ヒトラーはオリンピックを「フリーメイソンユダヤ人の陰謀」と糾弾した。(略)

政権の座に就いてからも、彼らはまだ“ユダヤ人や黒人を含めた国際的な競技会”という概念に納得がいかないようだった。(略)

[一方でナチ運動への献身のために若者にスポーツを推奨していた]

(略)

[ドイツ・オリンピック委員長テオドル・レヴァルトは]

オリンピックが生み出す収入は、採算がとれるどころかお釣りがくるほどであり、またなにより重要なのは「膨大な宣伝効果」が期待できることだと[ナチ首脳を説得]

(略)

[アメリカではユダヤ人差別がオリンピックの理想を否定するとボイコット運動が起こり]

 レヴァルトに説得されたナチ党は、ドイツは「あらゆる人種の競技者」を歓迎すると発表したが、同時にドイツチームの編成については自国の問題であると明言した。

(略)

オリンピックがいよいよ開始されると、それは支持者と反対者のどちらもが予言した通りの、ドイツの偉大さを高らかに歌い上げる一大ショーとなった。

(略)

 オリンピックに感銘を受けたのはヒトラーの支持者ばかりではなかった。「ベルリンはいまや、美しく活気に満ち、ゆったりと羽を伸ばせる街となった」。〈ニューヨーカー誌〉の記者、ジャネット・フラナーはそう書いている。「この一年はあの戦争以来、ドイツが物質的な繁栄にもっとも近づき、政治不安からもっとも遠ざかった年であった。いまのベルリンはそれを体現している」。(略)

この時期には、ヴァイマール共和国時代のさまざまな娯楽が、突如として復活したという。「すべては解放され、ダンスホールは閉じていた扉をふたたび開いた。そこではアメリカの音楽はもちろん、あらゆるものが演奏された。とにかくそのときはだれもが、『まあ結局のところヒトラーも、そう悪くはないだろう』と考えた」。しかもナチ党は、営業を禁じられていた売春婦七〇〇〇人に、ベルリンで商売を再開する許可まで出していた。

(略)

フロムは日記にこう記している。「はてしなく続く、きらびやかなオリンピック関連のレセプション。外国人はちやほやと甘やかされ、おだてられ、欺かれている」。シャイラーは、外国人が派手なショーにすっかり騙されている様子に暗澹たる気持ちを抱いていた。「残念だが、ナチ党はプロパガンダにまんまと成功したようだ」。

リンドバーグの訪独

[大使館付上級武官として戻ってきたトルーマン・スミスはリンドバーグがフランスの飛行場を訪問した記事を読み、あのリンドバーグならドイツの飛行場にも入れてもらえるのではないかと思いつく]

「それぞれタイプのまったく異なる四機の飛行機が、ひとつの業者によって造られているところなど、これまで見たことがない。しかもどれも非常にすぐれた設計だ」。その夜、ベルリンに戻ったリンドバーグトルーマンにそう語った。

 銀行家のハリー・デーヴィソンへの手紙にリンドバーグは、「アメリカには、ハインケル社やユンカース社の規模に匹敵する工場がひとつもない」と書いている。(略)

リンドバーグの二度目の訪独で得られた情報にもとづき、トルーマンはワシントンに、もし現在のままで状況が推移するなら、ドイツは「一九四一年か四二年までには、アメリカと技術的に同等の力を持つだろう」との報告書を送り、アメリカがどんな理由であれ、現在計画されている開発を遅らせた場合には、「ドイツの空での優位性は、より早い時期になるだろう」と警告している。

(略)

カクテルパーティで、社会部記者のベラ・フロムは、リンドバーグがウーデットにこう言っているのを小耳に挟んだ。「ドイツの航空能力は、ほかのどの国よりも高い。まさに無敵ですよ」。ドイツ人将校たちは満足気に、リンドバーグはきっと「宣伝係としては、これ以上ない投資先」になってくれるだろうと言い合っていた。

(略)

[ルーズヴェルト大統領顧問バーナード・バルークは45年6月]の手紙にこう書いている。「ドイツの軍備に関する彼(トルーマン・スミス)の警告は、どれだけ質が高く、どれだけ時宜を得ていたことか。そしてわれわれが、どれだけその情報を軽視していたことか!」

プッツィの凋落

とくにベルリンに来たばかりの記者たちからの評価は容赦がなかった。一九三四年九月のニュルンベルク党大会でプッツィを見かけたシャイラーは、彼のことを「巨漢で、やたらと神経質で、言うことが支離滅裂なピエロ。自分が半分アメリカ人で、ハーヴァードの卒業生だと自慢するのをいつも忘れない」と評している。

(略)

プッツィは戦後になって、自分はナチス反ユダヤ主義には反対だったと主張しはじめるのだが、彼自身の態度はその言葉と完全に矛盾していた。プッツィは過去に何度も、ジョージ・メッサースミスやエドガー・マウラーのような歯に衣着せないアメリカ人外交官や記者に対し、やつらはユダヤ人だと言ってさんざん非難を浴びせていた。

(略)

自分はアメリカとの関係をうまく処理して、ドイツに敵対させないようにする方法を知っていると語るプッツィの主張を、ヒトラーは馬鹿にしていた。一九三三年一一月、ルーズヴェルト政権がソ連との国交を樹立すると、ヒトラーはプッツィにこう言った。「ほら見ろ、ハンフシュテングル。おまえのお友だちのアメリカ人は、ボルシェヴィキと手を組んだぞ」。それより前の時期、ヒトラーはあけすけな口調でこうも言っている。「わたしがこうして座っている場所からは、おまえが思うよりずっとはっきりとアメリカのことが見えている」

(略)

ハーヴァードの同期会を終えたプッツィがドイツに戻ったのは、SA指導者をはじめ、ナチ党が狙いをつけた多くの人間が一掃された血の粛清《長いナイフの夜》の直後であった。プッツィはバルト海沿岸のリゾート地ハイリゲンダムに呼び出され、現地に到着してみると、そこではヒトラーゲッベルスらが休暇を楽しんでいた。「まるでルイス・キャロルの物語の一場面のようだった。まさにいかれ帽子屋のランチョンパーティだ」とプッツィは回想している。「世のなかに殺人、恐怖、疑念の空気が蔓延し、ドイツ中が苦悶のうめきを上げているというのに、ここでは薄手のサマードレスを着たマグダ・ゲッベルスが、テーブルについた若い女性たちをもてなしており、そのなかにはちらほらと貴族の娘の顔も見えた(略)」

 政権の座に収まったことで「ヒトラーのなかに悪魔がはいり込んだ」ことに彼が気付いたのは、まさにこのころだったとプッツィは言っている。しかし後年、すべてが終わったあとでさえ、プッツィはヒトラーをあと戻りできないところまで追い詰めたのはゲッベルスらであって、自分はまだ、ヒトラーの非道な行ないを抑制することができるという希望を捨ててはいなかったと語っている。ヒトラーたちの前でひたすら自己弁護を続けるハンフシュテングルが必死に守ろうとしていたものは、自分が掲げる方針などではなく、みずからの立場であった。プッツィは当時、それが急速に弱くなっていることを感じ取っていた。ナチ党幹部は公然とプッツィを批判し、嘲りの言葉を口にしていたし、ヒトラーはそれに対してなにもするつもりはないようだった。

(略)

「プッツィは暗に、ゲッベルスが自分の(略) ヒトラーに対する影響力に嫉妬しており、自分をヒトラーから引き離したがっているとほのめかした」

 嫉妬というのは、まず間違いなく誇張であった。ハンフシュテングルの影響力は、すでにしばらく前から衰えていた。

(略)

もう二年近くも曲から、プッツィはヒトラーが出席するイベントに一度も招待されていなかった。ヒトラーと同席した最後の昼食会の終わり近くに、ヒトラーはプッツィにピアノのところへ行って「おまえのあの曲をやれ」と命じた。プッツィがどの曲のことかとたずねると、ヒトラーは「おまえの葬送行進曲だ」と答えた。プッツィはその曲を「不吉な予感」を抱えながら弾いたという。

 一九三六年、プッツィは妻のヘレンと離婚し、またひとつヒトラーとのつながりを失ったことを実感した。アメリカ人のヘレンは、ビアホール一揆の直後、ヒトラーの自殺を思いとどまらせたと言われる女性であり、またミュンヘン時代のヒトラーが不器用な愛情を寄せた相手でもあった。

疎まれたドッド大使

《長いナイフの夜》のあと、ドッドは日記に、自分はヒトラーと顔を合わせるのをできるだけ避けることにすると書いている。「ここ数日のあいだに大勢の人間を殺した男になど、会いたくないに決まっている」。

(略)

 米国務省にいるドッドの上司たちもまた、大いに不満を抱えていた。「自分が派遣された国の政府と話すのを拒否する大使を雇っておいて、いったいなんの役に立つというのだ」。(略)

事態をさらに悪化させたのは、元大学教授であるドッドが、協力して仕事を進めなければならない国務省の官僚や外交官たちを、あきらかに見下していたことであった。ドッドが指摘しているように、彼らが自分たちだけがはいれる高級クラブのおぼっちゃまのように振る舞っていたのはたしかで、その原因は彼らの持つ特権意識と、アイヴィーリーグ出身者としてのプライドであった。(略)

ドッドは、異常なまでに経費の削減を推し進めることで、さらに彼らの不興を買った。経費削減の対象は電報にまでおよんだ。(略)

事態はドッド自身が「電報不足」と呼ぶほどの状況になってしまった。

(略)

 ドッドはまた、大使館付武官たちからも評判が悪かった。トルーマン・スミスはドッドのことを「有名な歴史家で平和主義者」と評している。(略)「軍事関連のことをひどく嫌って」おり、大使館付武官の仕事にも、ドイツの陸軍と空軍が急速に軍備を増強していることにも、まるで興味を持とうとしなかった。「よりによってこの時代のドイツにおける大使というポストに、ドッド博士が適任なのかどうかという疑問がどうしてもわいてくる」。後年、トルーマン・スミスの伝記を書いた口バート・ヘッセンはそう記している。

フーヴァー元大統領の訪欧

 一九三八年三月の強制的なオーストリア併合に向けて、ヒトラーは徐々に脅威と圧力を増していき、ウィーンに居を移したシャイラーは、ことのなりゆきを悲しみと落胆の気持ちで見守った。

(略)

 シャイラーはオーストリアに幻想を抱くほど素人ではなかったが──彼はすでに、オーストリア反ユダヤ主義が「ナチスとひどく相性がいい」ことに気づいていた──それでも、オーストリアの人々が新たな指導者をまたたく間に受け入れたのみならず、大喜びで歓迎したことに衝撃を受けた。

(略)

ヒトラーはまだ征服に向けた行進をはじめたばかりだ──そして世界はいますぐに目を覚まし、その危険に気付かなければならない。

(略)

本国アメリカの人々は、シャイラーとは恐ろしいほど異なる見解を持っていた。元大統領のハーバート・フーヴァーは一九三八年二月、ヨーロッパ歴訪の旅に出発した。

(略)

 ベルリンに着いたフーヴァーは、ヒュー・ウィルソン大使から、ヒトラーが会いたがっていることを告げられた[が断ろうとした](略)

元大統領はウィルソンにこう言っていたという。自分にはどうも「ヒトラーはただの表看板であって、裏には実際にナチ党の運営や各種の政策を実行しているブレーン集団がいる」ように思えてならない。(略)

[説得され会うことにしたが]

いくつかのキーワードに対してヒトラーは敏感に反応し、「突然、サッと立ち上がると、なにかをわめくように話し続け──つまりはかんしゃくだ──、みずからが狂人であることを露呈した」という。そのキーワードとは、「ユダヤ人」、「共産主後者」、「民主主義」であった。

 話の途中で一度、フーヴァーはヒトラーをさえぎってこう言った。「もうたくさんだ。あなたの見解を聞きたいとは思っていない」。(略)

フーヴァーはこの面会後、ドイツのリーダーに対する見解をあらためた。彼はもう、ヒトラーがたんなる操り人形だとは思っていなかった。ヒトラーがみずからの力で権力を手にしたことはあきらかだった。

(略)

フーヴァーはさらに欧州歴訪の旅を続け、ポーランド、ラトヴィア、エストニアフィンランドスウェーデンをまわった。最後の訪問地であるイギリスでは、記者会見を開いた。フーヴァーは「平和を脅かす要素はいくつもあった」ことを認めつつも、「近い将来に大規模な戦争が起こるとは思えない」と語った。

(略)

[ヒトラー]の長広舌やかんしゃくを目撃してなお、彼の確信は揺るがなかった。新生ドイツに対してアメリカが取るべき唯一の理性的な対応とは、事実上、肩をすくめてやりすごすだけだと彼は考えていたのだ。

次回に続く。