ヒトラーランド その3

前回の続き。

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々

 

 アメリカ人への襲撃

[政府がユダヤ系企業ボイコット終了を正式に宣言すると]

メッサースミスは胸をなでおろし、反ユダヤ的な事件の数はまたたく間に減少したと報告している。

 暴力沙汰に巻き込まれるアメリカ人が増加しているという事実があってもまだ、いま起きていることの真相は見た目以上に複雑であり、すべてをヒトラーのせいにするのは逆効果だというメッサースミスの信念は揺るがなかった。

(略)

〈スクリブナーズ・マガジン誌〉の外部編集者であるエドワード・ダールバーグは、街の通りで袋叩きにあった。また、あるユダヤ系ドイツ人のアメリカ人の妻は、アパートに押し入ってきた突撃隊員たちが、クローゼットにスーツが四着あるとの理由で夫を殴りつける場面を目の前で見せられた。「スーツが四着だと。おれたちは一四年前から、ずっと腹を減らしてるってのに!」。ひとりの隊員が叫んだ。「いまいましいユダヤ人めが」

(略)

 アメリカ人への襲撃は続き、メッサースミスら大使館員は、なにか事件があればかならず抗議をした。しかし彼らは、ドイツ当局者に積極的に解決しようという態度が見えるたびに、あえてそこに希望の兆候を見出そうとしていた。

(略)

 一部のアメリカ人は、なにが起こっているのかを直視せず、それが自身の身に降り掛かったときでさえ、現実に目をつぶっていたかのように思える。

(略)
じきに国際連盟難民高等弁務官に就任することになるジェームズ・G・マクドナルドは(略)
人々が老いたユダヤ人をぐるりと取り囲み、嘲笑の言葉を浴びせているゾッとするような光景に出くわした。(略)

政府の役人に会ったときには、彼らがいま起こっていることになにかしらよくない点があると認めようとしない、その態度に驚かされた。かつてモスクワで、過激派の共産党員と会ったときのことが思い出された。「どちらの場合でも、相手は独善的で、まるで自説を譲ろうとはしなかった」。民族に関する持論に話がおよんだときには、とりわけその傾向は強まった。

 ベルリンを訪れる二ヵ月前、マクドナルドは、巨大銀行ゴールドマン・サックスのヘンリー・ゴールドマンに会っていた。ゴールドマンもやはり、近いうちにベルリンに行く予定だということだった。マクドナルドは彼に、ドイツ新政府の苛烈な反ユダヤ主義は、ドイツの人々がどこかおかしくなっている兆候ではないかと言った。(略)

ゴールドマンは、マクドナルドの質問を鼻であしらい、「そんなことはありません。ドイツの反ユダヤ主義など、アメリカの反ユダヤ主義と似たり寄ったりですよ」と言い切った。(略)

しかし四月八日、ベルリンのアドロン・ホテルでふたたび顔を合わせたとき、マクドナルドはゴールドマンの変わりはてた様子に目を見張った。「彼はまるで、憔悴しきった人のようだった」(略)

「ミスター・マクドナルド、一五世紀や一六世紀に起こった最悪の事態が、この二〇世紀に、しかもドイツ全土で復活しようとは、思ってもみませんでした」。マクドナルドがベルリンにはどのくらい滞在するのかと聞くと、彼は答えた。「耐えられなくなるまでです」

(略)

[ヒトラーと面会したマクドナルド]

「われわれはなにもユダヤ人ばかりを攻撃しているわけではない。むしろ主要なターゲット は社会主義者共産主義者だ」とヒトラーは言った。「アメリカはそういった人間を国外に締め出したではないか。われわれはそうはしなかった。だから、われわれがいま彼らに対する方策を講じたところで、責められる筋合いはなにもない。それにユダヤ人にしても、家を追い出されたからといって、なにをそんなに騒ぐ必要があるのだ。いまでも何百何千人というアーリア系ドイツ人が通りにあふれているというのに。だめだ。この世界には不平を言っていい正当な理由など存在しないのだ」

(略)

後日、アメリカに戻ってから、彼はヒトラーが言った言葉をさらに詳細に記録している。「ヒトラーはわたしにこう言った。『わたしはこれから、世界中の人間がやりたいと思っていることをやる。やつらはユダヤ人を排除する方法を知らない。わたしが手本を見せてやるのだ』」

 消えゆく人々

[〈フォーリン・アフェアーズ誌〉編集者]ハミルトン・フィッシュ・アームストロングが再びベルリンの地を踏んだのは[1933年4月](略)

彼が見たところ、どうやら一部の英米人記者は、いたるところで見られるナチ党の残虐行為を報道することに対しては慎重な姿勢をとりつつ、たんにナチ党の主張をそのまま引用して記事にしておけば、ドイツ新政府の残酷な性質は充分に伝わると考えているようだった。
(略)

アームストロングは旧知のドイツ人たちとふたたび連絡をとり(略)

外務省の官僚たちは、「事務所の席にしがみ付いて、ただひたすら沈黙していた」。官僚たちの言い分は、ナチ党は「一時的に成功しただけ」であり、自分たちはドイツの利益と外交政策へのダメージを最小限に抑えるために尽力しつつ、新たな政府がヒトラーに取って代わるのを待っている、というものであった。もしヒトラーがこのまま政権に残ったとしても、結局は世界の現実に直面し、より穏健な政策をとらざるを得なくなるだろう。「官僚たちが愚かだとは言わないが、わたしは本能的に、彼らが間違っていることを感じ取った」。

(略)

アームストロングがこれほど悲観的な気持ちになっていたのは、ひとつには、前回ベルリンに来た際に助言を求めた[専門家や学者たちの多くが](略)行方知れずになっていたためであった。

(略)

手はじめに彼は、ヒャルマー・シャハトに会いに行った。シャハトはこのころ、ナチ党支持への見返りとして、ヒトラーの任により帝国銀行総裁の地位に復帰していた。(略)

シャハトはアームストロングに向かって、ナチ党は資本主義の行き過ぎを正し、より安定した、信頼できる経済体制を実現するのだと説明した。

(略)

 ドイツの資本家たちを動員してヒトラーに資金を提供させた男が、資本主義の道徳化ととれるような話をすることに、アームストロングは唖然とさせられた

(略)

[NYに戻ったマクドナルドは本を出版]

 ヒトラーの統治を受け入れ、彼とその運動に完全な忠誠を誓わなかった者たちは、ただ消し去られただけではない。「そんな人間は、もともと存在していなかったことにされている。彼の名前を口にする者はなく、嘲笑の的にさえならない。だれかが彼のことをたずねれば、あいまいな返事が返ってくる。『ああ、ええと……でもあの人はまだ生きてるのかな。外国に行ったのかもしれないし、そうだ、養護施設にいるんじゃないかな』。こうした扱いを受けるのは、逃亡したり、刑務所に入れられたり、あるいは『彼ら自身の身の安全のために』鉄条網に囲まれた強制収容所に送られたユダヤ人や共産主義者ばかりではない

記者への圧力 

 これほど緊張が高まっていた時期にも、マウラーはユーモアのセンスも忘れていなかった。(略)

[ドイツ外相を招いての夕食会での挨拶]

わざとドイツ語の文法が苦手なふりをして話しはじめた。「われわれはこの国でいま、たいへん幸せです──いや、つまり、幸せでした……なかにはドイツを離れて救済を──いや、娯楽を求める人もおり……」。マウラーが言葉の間違いを自分で次々に訂正 していくので、じきに集まった各国大使たちのあいだには大きな笑い声が起こった。(略)

[激怒したシャハトは]外国のマスコミは意見ではなく事実を報道すべきであり、ドイツが世界から色眼鏡で見られているのは、その「意見」のせいであることを言外にほのめかした。マウラーはまたもや皮肉な言いまわしで、シャハトに謝意を述べた。アメリカのジャーナリズムをそれほど高く評価していただいてありがたい。アメリカのマスコミは事実を報道することで有名なのです。外交官たちからはふたたびくすくすと忍び笑いが漏れ、シャハトはさらに怒りをつのらせた。

(略)

七月、〈シカゴ・デイリー・ニューズ紙〉の発行人であるフランク・ノックス大佐がベルリンを訪れ[確信した]。(略)

恐怖の時代が迫っているというマウラーの意見は正しいということ。そしてマウラーは、もうベルリンを離れるべきだということだ。ノックスはマウラーに、彼を東京に異動させるつもりだと告げた。さもなければ、ナチスはマウラーに身体的危害を加えるに違いなかった。

(略)

[自分の見通しを]受け入れようとしないドッドの様子を見たマウラーは、ドッドを大使に任命したことは「自由への打撃」だと自著に記している。(略)

[対照的に]アメリカ総領事のメッサースミスは、アメリカ人が不当な扱いを受けたときには、つねに激しく抗議をした。(略)その結果、メッサースミスと記者団のあいだには強い絆が生まれていた。

(略)

[八月深夜]半狂乱になったポール・ゴールドマンの妻から電話がかかってきた。(略)ゴールドマンは六八歳で、病弱で、プロイセン州に住むユダヤ人であり、外国人記者協会の設立者のひとりであった。ゴールドマンの逮捕は、ウィーンでドイツ人将校が逮捕・国外追放されたことへの報復であり、それを知っている妻は、ナチスの刑務所にはいってしまえば夫の命は長くないと震え上がっているのだった。

(略)

エドガーはニッカーボッカーと話し合い、ゴールドマンを取り戻すための計画を練った。ニッカーボッカーはゲッベルスに、ゴールドマンを釈放するなら、マウラーは外国人記者協会の会長を辞任すると申し出た。ただし、エドガーはじきに東京に異動になり、本人もそれを知っていることは黙っておいた。ゴールドマンの逮捕を知ったアメリカ人記者のなかには、(略)[釈放の代わりに]自分たちが一日ずつ交代で牢屋にはいると申し出た者たちもいた。ナチ党はニッカーボッカーの提案を喜んで受け入れ、すぐにゴールドマンを釈放した。

 ただしそこにはひとつだけ落とし穴があった。ナチ当局はゴールドマンの妻が持つドイツのパスポートを没収することで、彼が国を離れたり、なにかしら「敵対的なこと」をしたりできないようにしたのだ。しかしもともとオーストリアの生まれだったゴールドマンの妻は、すぐに離婚を申請し、オーストリアの市民権を手に入れた。もちろん、オーストリアのパスポートもだ。

(略)

英米の記者たちが、マウラーがすでに東京への異動が決定していることを利用して当局を出し抜いたことを記事に書くと、ナチ党の広報も負けじと、自分たちは「不倶戴天の敵」を、外国人記者協会のトップの座から追い出すことに成功したと吹聴した。

(略)

ワシントン駐在ドイツ大使で、マウラーがかつては友人だと思っていたハンス・ディックホフが、マウラーの上司であるフランク・ノックスと米国務省に、「民衆の正当なる憤り」により、ドイツ政府はこれ以上長くマウラーの身の安全を保証できないと伝えてきた。ナチ党は、九月二日にニュルンベルクで行なわれる年に一度の党大会の前までに、なんとしてもマウラーに出て行ってもらいたがっていたのだ

(略)

[さらにアメリカ大使ドッドも国外脱出を強要してきた]

メッサースミスやニッカーボッカーまでがドッドの判断を支持した。彼らは友人の身に迫る危険はあまりに大きく、もう国を出るべきときだと考えたのだ。

(略)

[役人達]は目の上のこぶだったマウラーが間違いなく出発することを確認しに来たのだった。出発まであと少しというとき、若い役人が薄笑いを浮かべながらこう言った。「それで、ドイツにはいつお戻りですか、ヘル・マウラー」

「そりゃもちろん、二〇〇万人のわが母国の人間を連れて来られるようになったときだよ」とマウラーは答えた。

 その言葉の真意を汲み取れず、役人は一瞬考え込んだ。マウラーの心のなかには、敗北を喫したドイツの国土に、アメリカ兵が進撃してくる日の光景が広がっていた。「いやしかし、そんなことはありえない」。役人が叫ぶように言い返した。

 マウラーはこの言葉を聞き流したりはしなかった。とどめのひと言も言わないまま、ドイツを離れるのなどごめんだった。「総統ならできるさ。総統がドイツにもたらすことができないものなどなにもない……たとえなんであろうとね」

アナ・ラート事件

 三人は外へ出て人混みのなかにはいっていった。だれもが楽しげで、バンドの演奏がお祭り気分を盛り上げていた。三人の目にナチ党の旗と鉤十字が見え、そのとき音楽の出処も判明した。突撃隊の楽隊が演奏しているのだ。ふたりの背の高い兵士が、あいだにだれかを引きずりながら歩いてくる。「最初はそれが女だか男だかもわからなかった」とレイノルズは書いている。「頭は丸坊主に刈られ、その頭と顔は白い粉に覆われていた。スカートを履いてはいたが、ピエロの格好をした男かもしれないと思った」。褐色シャツ隊がその人物をまっすぐに立たせると、首にプラカードが下げられているのが見えた。「わたしはユダヤ人と一緒に暮らそうとしました」。そう書かれていた。「レッスン」が続けられているあいだに、三人は見物人から、あれはアナ・ラートという名の女性だと教えられた。ラートがこんな罰を受けているのは、異人種間の結婚は禁じられているにも関わらず[ユダヤ人との結婚が正式に禁じられるのは、この二年後の一九三五年、「ニュルンベルク法」が制定されてからのこと]、ユダヤ人の婚約者と結婚しようとしたためだという。

ヒトラーとドッド大使

ドイツ政府の役人たちは、彼の意見表明と、アメリカ人に対する暴行に関する彼のたび重なる問い合わせに対し、見るからにいらだっていた。

(略)

ドッドがアメリカ人に対する襲撃に言及したときには、ヒトラーは愛想よく対応した。ドッドは日記にこう記している。「首相はわたしに直接、この先襲撃があれば、かならず厳しい処分を行なうことにするし、外国人はヒトラー式敬礼をしなくてもよいという命令が全員に伝わるよう、告知を徹底すると約束してくれた」

 しかし、ドイツが先ごろ国際連盟を脱退すると発表したことについてたずねると、ヒトラーヴェルサイユ条約と、第一次大戦戦勝国によってドイツが直面させられた数々の屈辱について「わめきたてた」という。ドッドは、フランスの行ないは確かに不当だったと同意を示しつつ、より哲学的な面から話をしようと試みた。戦争のあとに不正が行なわれるのは世のつねであるとドッドは説き、例としてアメリカの南北戦争後、南部の州がどんな扱いを受けたかを挙げてみせた。(略)歴史学の元教授が自分の論旨を丁寧に説明するあいだ、ヒトラーはただむっつりと黙り込んでいた。

(略)

ドッドはヒトラーから、ドイツの将来的な計画に関する話を聞き出そうとした。とくに気がかりなのは、隣国との国境で衝突が起きた場合、新たな戦争に発展する可能性があるかどうかであった。「いや、それはない」とヒトラーはこれを否定した。しかしドッドが、もしルール渓谷で武力衝突があったら、ヨーロッパ諸国を集めて話し合いを開くつもりがあるかとたずねると、ヒトラーはこう答えた。「わたしにはその意向はあるが、ドイツ国民を抑えておくのは難しいかもしれない」。ドッドは日記に「ドイツ国民というのはつまり、ヒトラーが暴力をふるわせるために訓練をした、凶暴なナチ党員のことだ」と記し、こう。結論付けている。「ヒトラーについては、彼が好戦的で自信に満ちた人間だという第一印象を持った」

 それでもドッドはまだ、ヒトラードイツ国民から全面的な支持を得ているとは思っていなかったし、ヒトラー政権の安定性にも疑問を持っていた。ヒトラーに会う二日前、ドッドが映画館に行くと、ニュース映画にヒトラーが登場したが、拍手はパラパラとしか起こらなかったという。「ヒトラーは、イタリアの暴君ムッソリーニはど国民に人気があるわけではない」とドッドは考えた。

(略)

「善人ドッド、あの男はドイツ語がほとんど話せないし、なにを言っているのかまるでわからなかった」とヒトラーはプッツィに言っていた。総統の目には、ドッドの誠実さはほとんどなんの印象も残さなかった。ヒトラーは、ドッドはつまらない人間だとさっさと決めつけ、彼の国は「どうしようもなく軟弱で、どうあがこうとも(略)(自分の)計画の実現に干渉することなどできはしない」と考えていたのだ。

 ハンフシュテングルもまた、ヒトラーと同じくドッドを見下していた。「ドッドは南部出身の地味な歴史教授で、大使館をごく少ない資金で細々と切り盛りしていた。自分の給料を削ってまで金を節約しているんじゃないかと思ったほどだ」。プッツィは戦後に出版した回顧録にそう書いている。「こんなときこそ太っ腹な億万長者を連れてきて、ナチ党の派手さに対抗すべきだというのに、ドッドはこそこそとあたりをうろつきまわるばかりだった。おそらくまだ、大学のキャンパスにでもいるつもりだったのだろう」

 もっと派手で裕福な大使であればナチ党に「対抗」できただろうという見解は、控えめに言ってもひどく奇怪で、ドッドのというよりもプッツィの本性をよく表わしていた。

次回に続く。