ヒトラーランド その5

前回の続き。

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々

 

新大使の幻想

 一九三五年二月、ジェイコブ・ビームは、二七歳の誕生日の直前にベルリンに到着し、アメリカ大使館の三等書記官として、ドイツの国内事情について報告する任務を開始した。

(略)

 アメリカ大使館にいた外交官のほとんどがそうだったように、ビームもやはり、一九三七年の終わりにドッド大使が大使館を去ったのを喜んでいた。ビームはドッドのことを「品がよく、思慮深く、ナチ党に対する正しい判断力を持っているが、あまりにも押しが弱い」と考えていた。また周囲のおおかたの評判と同様、ドッドは外交官らしくない発言をして「アメリカ政府に恥をかかせた」とも思っていた

(略)

 そんな経緯があったことから、ビームは一九三八年初頭、外交のベテランであるヒュー・ウィルソンがベルリン大使として着任したときには、これを大いに歓迎した。

(略)

ビームによると新たな大使は、「“成果を見せろ”というタイプのベテラン外交官で、いたずらに混乱を招いた前任者のやり方を批判して」いたという。

 ところがビームはじきに、ナチ党政権の実態に関しては、経験豊富な新大使よりもドッドのほうが正確に評価していたと考えるようになる。ウィルソンは「ベルリンで数年以上過ごしてきたスタッフによる否定的な見解を、あまり信用していないように見えた」。

(略)

ウィルソンは自分自身で判断を下そうと決意しており、ビームによると、「ヨーロッパの平和に関する外交問題に集中したい」と考えていた。ドイツの国内政策や、彼らのさらなる大望を問題視してナチ党と対立することは避けるべきだというのが、ウィルソンの考えだった。つまり彼はいかにも伝統的な外交手段によって、平和を維持しようとしていたわけだ。(略)

 ウィルソンはしかし、一九三八年の時点でもなお、ヒトラー政権に対して判断を急ぐ必要はないと思い込み、伝統的な手法で対処すればお互いに対立せずに済むだろうと考えていた。それこそがまさに、イギリスとフランスが必死にしがみ付いていた考え方であり、ミュンヘン協定を呼び込んだ元凶であった。

ヒトラー暗殺とミュンヘン協定

[ベック大将はヒトラーチェコとの戦争回避を進言して叶わず辞任]

ベックの後任であるハルダー大将をはじめ数人の高官が、大胆な抵抗運動を計画しているということだった。(略)

[その計画とはヒトラー暗殺だった]とビームは書いている。(略)

[ビームは報告書]をまずはトルーマン・スミスに見せた。スミスは報告書の内容をあまり真面目に受け取らず、統制の厳しいナチスの軍隊でそんな計画があるなどとは考えられないと言った。それでもビームは報告書をウィルソンに提出し、大使がそれをきっとハル国務長官の顧問に転送してくれるだろうと考えていた。しかしその後、ビームのところにはウィルソンからもワシントンからも、なんの反応も返ってこなかった。(略)

[英仏が]ズデーテン地方の割譲要求に応じたあとで、ビームはレスポンデクと偶然顔を合わせ、ハルダーのヒトラー暗殺計画はどうなったのかとたずねた。「レスポンデクによると、結局ヒトラーが戦争に踏み切らなかったため、計画は断念されたのだという」とビームは記している。

(略)

 ミュンヘン協定さえなければ、あるいは第二次大戦前に、将校たちによる反乱が起こされていた可能性もあったわけだが、ウィルソン大使は(略)この結末のおかげで、世界が正常な状態に一歩近づいたと考えていた。

(略)

 一九三八年一〇月に一時休暇でアメリカに帰国したビームは、ワシントンのムードが、ベルリンにいる各国の外交官のあいだにあった空気と「まるで違う」ことに気が付いた。「オーストリア併合に対してはだれもが憤っており、とくにオーストリア在住のユダヤ人が苦境に陥っていることは問題視されていた。またナチスがいかにも最初からの狙い通りといった調子で、なんの抵抗も受けずにチェコスロヴァキア服従させたことについても同様だった」とビームは書いている。

独ソ不可侵条約

 グディニアからワルシャワ行きの列車に乗る前、シャイラーはふたりのポーランド人ラジオ技術者と話をした。ふたりとも自信ありげに、ポーランドヒトラーに対抗できると胸を張った。「準備はできてますよ。戦います」と彼らは言うのだった。「わたしたちはこのあたりがドイツに支配されていたころに生まれたんです。もう一度逆戻りするくらいなら、死んだ方がましですよ」。ポーランドの首都ワルシャワに着いたシャイラーは、ベルリンからゾッとするようなプロパガンダが執拗に流れてきているというのに住民たちがやけに「穏やかでゆったりとしている」ことに、あらためて驚かされた。シャイラーのいちばんの気がかりはしかし、ポーランド人が「あまりに現実を見ておらず、あまりに自信に満ちて」おり、さらにはソ連までがポーランドを狙っていることを示す兆候を無視しているという事実だった。

(略)

[独ソ不可侵条約締結]

最大の敵スターリンが、ドイツにどうぞこちらへ来てポーランドを片付けてくださいと言っているようなものだ」

 このニュースの直前まで、延々と反ソヴィエトの記事を書き続けてきたドイツ人編集者が数人、店にはいってきてシャンパンを注文し、突如として自分たちは「ソヴィエト国民の古くからの友人」だと言い出した。(略)

シャイラーは、ふたつの全体主義国家が手を組んだということの重大さに呆然となっていた。

開戦

八月三一日、二四歳のアメリカ領事館事務員ウィリアム・ラッセルは、仕事場に向かって歩いていた。(略)

ポツダム広場では、兵士を満載した軍用トラック、オートバイ、機関砲を運ぶ車両のせいで、交通渋滞が起こっていた。ベルリンの上空には、航空機が旋回しているのも見えた。「戦争の準備を着々と進めている都市の興奮が、わたしの血管のなかで脈打っていた」とラッセルは書いている。

(略)

大使館の近くまで来たとき[男が話しかけてきた](略)

ハンス・ノイマンは、なぜ自分が今日出国しなければならないのか、その譲れない理由を口にした。「今夜戦争がはじまります。わたしには、それを知っている友人がいるのです。もし今日国境を越えなければ、逃げる最後の機会を失います。そうしたらやつらになにをされるか……」

 似たような訴えなら、それまでにも山ほど聞いたことがあったが、ラッセルはノイマンの言葉を信じ、彼を助けると約束した。ラッセルが大使館にはいると、そこは「混乱の渦のなか」で、溢れるほど大勢の人々が、出国に必要となる貴重なアメリカのビザを求めて口々に叫んでいた。

(略)

[空港の役人は]ノイマンのパスポートをチェックした。彼らはラッセルにも、ここでなにをしているのかとたずねた。ラッセルは、自分は大使館の者だと名乗り、ノイマンロッテルダム行きの飛行機に乗るのを見届けに来たこと、ノイマンアメリカのビザを持っており、オランダの港からアメリカ行きの船に乗る予定になっていることを説明した。

「なるほどヘル・ノイマンは、アメリカ行きのビザを持っているわけだ」。突撃隊員のひとりが嫌味な口調でそう言い、ノイマンがオランダのビザを持っていないことを指摘した。「これは準備のいいことだ」

 しかしそのとき、別の役人が口を挟んだ。「行かせてやれ。これでユダヤ人がひとり減る。この男の処理は、オランダ人に考えさせればいいことだ」

 税関検査官が最後にもう一度ノイマンのパスポートを見て、スタンプを押した。「はたしてドイツに戻らずに済むかどうか。もし戻ってきたら、おまえはある場所に戻されることになる」

軍服のヒトラー

 九月一日の国会演説に姿を現したヒトラーは、軍服姿であった。「わたしはふたたび、わたしにとってもっとも神聖で、もっとも大切であった服を身に着けた。勝利を確実なものとするまで、わたしはこの服を脱ぐつもりはない。もし敗北を喫するようなことがあれば、わたしは生きてはいないだろう」。ヒトラーは自分がこれまで平和のために「数えきれないほどの努力」を重ねてきたにも関わらず、ポーランド軍がドイツ領に攻撃を仕掛けたため、反撃せざるを得なくなったと釈明した。ヒトラーの話を聞くために国会に来ていたビームは、この演説はみごとだったと評価している。演説の目的はイギリスとフランスがこの戦いに関わらないよう制することであり、ビームはヒトラーの言葉が以前よりも「さほど攻撃的でなく、威圧するような調子も薄れていた」と記している。

 演説の内容をすぐに放送できるよう、ラジオのスタジオでこれを聞いていたシャイラーは、また別の感想を抱いた。シャイラーはヒトラーの声に「奇妙な緊張感」を感じ、それはまるで「ヒトラー自身が、自分で自分を追い詰めた苦境に呆然となり、どこか自暴自棄になっているように感じられた」という。ヒトラーは、もしなにか起こった場合にはゲーリングが自分のあとを継ぎ、さらにそのあとはヘスが継ぐと発表した。これを聞いたシャイラーは職場の仲間と、まるでヒトラーの遺作[スワン・ソング]だなと言い合った。

(略)

 開戦後第一夜となったあの夜、シャイラーが「奇妙」に感じたのは、レストラン、カフェ、ビアホールに、まだ人があふれかえっていたことだ。(略)「奇妙なのは、ポーランド爆撃機が今夜、一機も飛んでこなかったことだ。だがイギリスとフランスが加わっても、事態は同じだろうか」。翌日の日記にはこうある。「今夜も空襲なし。ポーランド人はどこにいるんだ」

(略)

 大使館事務員のラッセルもやはり、ヒトラーの宣戦布告のあとの拍子抜けしたような気分をつづっている。「だれもがみな、すぐになにかものすごいことが起こるのだろうと思っていた。ところがなにも起こらない」。(略)

ベルリンのアメリカ人記者たちは、ドイツがポーランドで勝利を重ねていること、それによってドイツ市民やドイツ軍のあいだには、ヒトラーの行動の賢明さに対する信頼が生まれていることを伝えた。九月六日、シャイラーは日記にこう書いている。「どうやらポーランドの完敗になりそうな気配だ」。その後数日のあいだの日記には、アメリカ大使館付武官が、ドイツ軍の前進のスピードに度肝を抜かれ、また多くの記者が気落ちしている様子が記されている。イギリスとフランスは正式に参戦を表明していたが、「(ドイツ人によると)、西部戦線ではいまだに、一発の弾丸も飛んでいないという!」。ラッセルは九月一三日の日記に不満をぶつけている。「ポーランドでは戦争が猛威を振るっている。イギリスとフランスはいったいなにを考えているんだと、われわれはみな話している。なぜいまドイツを攻撃しないのだ。そうすればドイツは、ふたつの戦線で同時に戦うことを余儀なくされるというのに」

 九月一七日にソ連が東側からポーランドに侵攻を開始すると、ベルリンのアメリカ人は、この国の命運が尽きたと感じた。記者たちがそう思ったのにはもうひとつ理由があり、それはドイツ当局が突如、彼らに前線に行く許可を出したからであった。

(略)

 翌日グディニアに着いたシャイラーは、この地域で抵抗を続けているポーランド軍最後の部隊に対し、ドイツ軍が容赦なく砲撃を浴びせるさまを目撃した。砲撃は海から、そして陸の三方から行なわれていた。

(略)

UP通信記者のジョセフ・グリッグは、ポーランドはそもそも、ドイツ軍に対して勝ち目はなかったのだと書いている。ドイツ軍は侵略をはじめたその日に、ポーランド空軍の大半を叩き潰してしまった。「ポーランドの平原を前進するドイツの機械化された軍隊の正確さと軽快さは、歴史上類を見ないものであった」

(略)

 一〇月五日、ヒトラーワルシャワに連れて来られた外国人記者たちに向かって話をした(略)顔色こそ青白かったものの、ヒトラーの態度は「勝ち誇る征服者」そのものだったと、グリッグは書いている。(略)

「紳士諸君、ワルシャワの廃墟を見ただろう。あれこそが、まだこの戦争を続けようと思っている、ロンドンとパリの政治家たちに対する警告だ」

 ベルリンの領事館事務員ラッセルによると、このころには、イギリスとフランスからの攻撃がないことで、ドイツ人の多くが「ドイツ軍は無敵」であるとの確信を強めていた。

(略)

シカゴ・トリビューン紙〉のシグリッド・シュルツによれば、ヒトラーポーランドに対する勝利──そしてナチ党の恐怖とプロパガンダ──によって、ドイツ人の大半は「わたしに盲従せよ」という指導者の命令に、進んで従うようになっていったという。「そして大衆は、本当にヒトラーを信じたのだ」。

 勝利による変貌

 ドイツがデンマークノルウェイを占領する前から、ほとんどのアメリカ人外交官は、ラッセルと同様の結論に達していた。しかし本国アメリカでは事ここに至ってもまだ、ドイツに対してはるかに甘い考えを抱いているものが多かった。とくに根強かったのは、物資不足のせいで増加する国内の不満分子が、ヒトラー政権を倒し、ドイツ軍の進撃を止めてくれるのではないかという考えだった。

(略)
ドイツ軍は四月にデンマークノルウェーに、続いて五月にはオランダ、ベルギー、フランスに侵攻し、ドイツの狙いを充分に予見していたはずのベルリンのアメリカ人記者や外交官でさえ驚くほどのペースで勝利を重ねていった。

(略)

ドイツが立て続けに勝利を収めたことで、最初はナチスに対して懐疑的だった人々までが彼らの熱狂的な信者になっていった。〈シカゴ・トリビューン紙〉のシュルツは、「猛烈な反ナチ」だったという、ある知り合いの教授の妻の話を書いている。彼女の息子が《ヒトラー青少年団》にはいったあと、ゲシュタポが彼を同性愛者として逮捕した。半狂乱になった両親がシュルツに助けを求めてきたため[色々手を尽くし](略)

少年は釈放され、件のナチス高官が言うところの収容所の「地獄」を味わわずに済んだ。父親もまた、忠誠を示すためにナチ党に入党した。

 そんな経緯があったというのに、その母親はドイツがノルウェーに侵攻すると、ひどく興奮した様子でシュルツを訪ねてきた。「おそらくわたしたちは、ナチズムを経験する運命だったんです──おかげでわたしたちは強くなれました」。あまりの変貌ぶりに驚くシュルツに、彼女はこう言った。「ナチ党はドイツにみごとな勝利をもたらしましたし、それはこれからも続くのです」。こうした経験にもとづき、シュルツはこう書いている。「そこには征服への欲望がある。このドイツ人女性の心の奥底にあるのは、まさしくそれだ」。

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 ベルリンにいた数少ない女性記者であるシュルツは、ナチ党の女性や家族に関する政策にもとくに関心を寄せていた。(略)

 ナチ党は活動の初期のころから、男性の精力の強さを誇示することに力を入れていた。(略)

「大規模な集会のスビーチでは、ナチ党の男たちによる性の武勇伝が延々と語られ、それを聞いた突撃隊員たちはさっそく実践してやろうと勇んで会場を出て行くのだった。パートナーならすぐに見つかる。女性たちは集会場の外で待っているのだから」。ヒトラー出生率を上昇させることに熱心で、新聞の売店には「ヌードの男性や女性で埋め尽くされた本や雑誌」が並んでいたと、CBSの新人キャスター、フラナリーは書いている。(略)

ドイツ軍がソ連に侵攻し、兵士たちが現地でバタバタと死んでいくようになってからは、当局は出生率向上政策をさらに進化させ、女性の配偶者の有無を問わないことにした。「『非嫡出子』という言葉は、ドイツ語から抹消されるべきである」。ドイツ労働戦線の指導者ローベルト・ライはそう宣言した。

(略)

ナチスは、未婚の母親たちは「若きドイツの英雄」の子どもたちを生んでいるのだと喧伝していたが、実際のところ、子どもたちの父親はたいていは「年若い秘書や事務員、販売員たちの既婚の上司」だったと、シュルツは指摘している。こうして「ナチ党が自分たちの非嫡出子を守ってくれるという理由で、ナチズムにしがみつく」女性層ができあがっていった。

 真珠湾攻撃

ドイツ軍はモスクワ郊外にまで攻め入ったが、これを可能としたのはそもそも、ドイツがロシアに侵攻するという警告を信じようとしなかった、スターリンの重大な誤算であった。

 しかしモスクワは最終的に、ヒトラーがそれよりもさらに大きな誤算を犯したおかげで救われることになった。直接首都を攻めるべきだという陸軍司令部の主張を、ヒトラーは無視したのだ。彼はまず農作物や原料の豊富なウクライナを手に入れるべきだと主張し、進路を南へ変えてキエフを目指せと命じた。ヒトラーが軍をあらためてモスクワに向かわせるころには、ロシアの泥道は秋の豪雨で沼と化し、やがて気温も急激に低下したことで、彼らは立ち往生を余儀なくされた。

(略)

ヒトラーは、日本がアメリカを攻撃したと聞いた瞬間、これ以上のことはないと喜んだ。いまやアメリカは太平洋での戦争に主軸を置かざるを得ず、イギリスやソ連にはエネルギーや物資をあまり割くことができなくなるだろうと考えたのだ。(略)

「われわれがこの戦争に負けるはずがない。いまやわれらには、三〇〇〇年間一度も負けたことのない味方ができたのだ」

 真珠湾攻撃による情勢の変化を、もっとも歓迎した国家指導者はチャーチルであった。運命のその日、大西洋を挟んでつながれた電話でルーズヴェルトは、イギリス首相が待ち望んでいた言葉を口にした。「われわれはいまや、同じ船に乗っている」。