ヒトラーランド その2

 前回の続き。

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々

 

戻ってきたヒトラー

[経済がほころびはじめ]新たな苦悩と不安が生まれるにつれ、ナチ党の活動はふたたび牽引力を取り戻していった。一九二八年末には、まるでこの先の悲劇を予感させるかのように、ナチ党の有料党員はじつに一〇万八〇〇〇人を数え、その数は一九二九年の終わりには一七万八〇〇〇人にまでふくれあがった。世間の人々がまだ、ヒトラーのことをたんなる小物政治家だと考えているうちに、彼はより大勢の、より熱心な党員の心をつかみ、ナチ党は地方選挙で着実に議席を獲得していった。

 ここ数年のあいだ、アメリカ人記者たちはこの民衆扇動家のことをほとんど気に留めていなかったが、そろそろ彼にインタビューをするべきだと考えた最初のアメリカ人記者は、やはりハースト社のウィーガンドであった。なんといっても、一九二〇年代初頭、ヒトラーという政治家をはじめて記事にしたのはウィーガンドであったし、彼はヒトラーが急速に力を増し、その後すぐに没落していった経緯をよく覚えていた。

(略)

「ドイツは少しずつゆっくりと、しかし着実に、共産主義体制へと滑り落ちようとしている」とヒトラーは語った。そして繰り返される経済の惨状(略)と、「ドイツ国民の現在の政党組織への嫌悪と官僚への不信」に言及し、「こうしたことすべてが、国家の破滅への地ならしをしている」と断言した。

(略)

われわれは革命を起こそうとは考えていない」(略)わが党は「合法的な手段以外のなにかに頼る必要などない」と説明した。

(略)

「わたしはドイツにおけるユダヤ人の権利を削減するつもりはない。しかしわれわれのようなユダヤ人でない者が、ユダヤ人よりも少ない権利しか持たないなどということも、あってはならない」。

(略)

 現指導者たちを蔑む気持ちは、あらゆる階層の人々のあいだに蔓延していた。(略)

米大使館で仕事をしたチャールズ・セイヤーは、ヴァイマール共和国を支持しなかったのはなにも、極右、大物実業家、元高級将校だけではなかったと述べている。「大半の大学教授も同様だった。大学教授といえば、ドイツでもっとも大きな影響力を持つ人々だ。ドイツにおいて学位というのは、個人の社会的地位の確立において、軍の階級に次いで有効なものだ。教授連中はつねに、名前の前に『博士』のひとつもつかないような、取るに足らないヴァイマールの社会主義者たちを、あからさまに馬鹿にしていた」。大学生もまた、政府を軽蔑する教授たちの思想を共有しており、第一次大戦後にドイツが領土を失ったのは政府の責任だと考えていた。そして本格的な不景気のせいで就職の望みが薄くなると「彼らはこぞってナチ党に押し寄せた」。

 マウラーによると、自由民主主義への信頼の欠如は、本来は自由民主主義の守護者であるべき人々にまで広がっていた。「このドイツの自由主義的共和国のもっとも驚くべき特徴は、自由主義的な共和主義者がほとんどいなかったことだ」と彼は書いている。

(略)

経済危機が深刻さを増すと、ナチ党はすぐにその利を得た。一九三〇年九月の国会選挙において、ナチスは五七七議席中一〇七議席を獲得した。二年前の一二議席からの飛躍的な増加であった。投票に足を運んだドイツ人三五〇〇万人のうち、六五〇万人近くがヒトラーの党に投票したことで、ナチ党は突如として、国会において社会民主党に次ぐ第二政党に踊り出た。一九二八年の時点では、ナチ党に票を投じたドイツ人はわずか八〇万人であった。こうして、先だってヒトラーがウィーガンドに表明した「合法的な手段」で政権を奪取できるという彼の自信は、充分に根拠のあるものだったことが証明された。

躍進、失速、分裂

 一九三三年七月三一日の総選挙で、ナチ党は二三〇議席を獲得して大勝する。この数は二年前の選挙で獲得した議席の倍以上であった。これによりナチ党は国会の第一党となり、社会民主党は一三三議席で第二党に転落した。(略)パーペンはヒトラーに副首相としての入閣を求めたが、選挙に大勝して勢い付くヒトラーには、パーペンの代わりに首相になる以外の条件を受け入れる気などさらさらなかった。交渉は失敗に終わり、一九三二年一一月六日、ふたたび総選挙が行なわれた。このときナチ党は再度第一党となったが、三四議席と二〇〇万票を失った。ナチ党の議席は一九六、社会民主党は一二一で第二党を維持し、共産党は一〇〇議席と支持を拡大した。

 ヴァイマール共和国がついに終焉を迎えるこのときになって、ナチ党への支持が落ち込んだことは、多くの人々の目に、ヒトラーの運動が勢いを失っている証拠と映った。ナチ党の暴力的な言動は一部の有権者の反感を買い、また党の上層部では新たな分裂の兆候が現われていた。一二月初旬、パーペンに代わって首相の座に就いたシュライヒャーは、その亀裂を利用し、ナチ党幹部グレーゴア・シュトラッサーを副首相として内閣に引き入れようと目論んだ。 シュトラッサーはナチ党内の比較的穏健な“社会主義派”のリーダーと目されていた人物であった(略)

[ヒトラーにライバル視され]結局入閣するどころか、党のすべての役職から退くことになった。

ナチス政権の誕生

この先なにが起ころうとしているのかを見越していた者もいれば、最後の瞬間までなにも見えずにいた者もいた。(略)

 ドイツ人政治家のなかにもまた、ある特殊なカテゴリーに属する人々がいた。それは自分たちがヒトラーよりも狡猾で、彼をうまく出しぬくことができると信じていた人たちだ。(略)

[パーペンはAP通信ルイス・ロックナーに]自分は前の首相よりもナチ党をうまく押さえつけておく方法を知っていると自信ありげに語った。パーペンの言う作戦とは、ナチ党への規制を強化するのではなく、むしろ緩めるというものであった。「ヒトラー主義者たちにせいぜい自由にやらせておき、彼らの愚かしさを世間に知らしめてやるというわけだよ」とパーペンは言った。

 やがて自分の内閣の国防相を務めていた陸軍大将クルト・フォン・シュライヒャーに首相の座を取って代わられると、パーペンは新たなアプローチを追求しはじめた。八〇歳を超え(略)[耄碌した]ヒンデンブルク大統領に、ヒトラー支配下に置くには、彼を首相に任じるのがいちばんだと進言したのだ。

 いっぽうシュライヒャー[はシュトラッサー入閣でナチ分裂を図り失敗したが](略)

ロックナーにこう語っている。「ご覧のとおり、わたしのやり方は成功したよ。ドイツがこれほど静かだったのは、もうずいぶんと前のことだ。共産主義者やナチ党員でさえおとなしくしている。この静けさが長続きするほど、現政権が国内の平和を回復できる見込みは大きくなるだろう」。

(略)

アメリカ大使サケットの場合はむしろ、第三党の共産党議席を伸ばしたことのほうを気にかけていた。サケットは、左翼は極右よりも危険だとみなしていたのだ。

(略)
[若いナチ党員の]暴力沙汰の件数は増加の一途をたどっていたというのに、裕福なユダヤ人のなかには、ナチ党のことなどさほど気にならないという顔をしている者もいた。〈シカゴ・デイリー・ニューズ紙〉のエドガー・マウラーは、一九三二年末に[ある銀行家の夕食会に参加](略)

ディナーテーブルを囲んだメンバーは、マウラー以外は全員がユダヤ人であった。

 コーヒーを飲んでいるとき、その場にいた数人が、自分たちはヒャルマー・シャハトやフリッツ・ティッセンといったユダヤ人でない連中から頼み込まれて、ナチ党に金をやったと得意そうに話しはじめた。シャハトは[ハイパーインフレーション終結させ]一九三〇年までドイツ帝国銀行総裁を務めた人物であったが、このころはナチ党の熱心な支持者となっていた。産業界の大物ティッセンも同様だった。

(略)

それは自殺したいと言っているようなものですよ」。マウラーは答えた。「しかしきみはまさか、あの男が本当に脅威になるとは思わないだろう」。アルンホルトは聞いた。

「残念ながら思います──あなたがたも、そう思うべきです」

「やつらは口先だけだよ」とアルンホルトは言い切り、ほかの男たちもそうだとばかりにうなずいた。

(略)

クリスマスの少し前、シャハトと偶然出くわしたマウラーは、休暇はどう過ごされるのですかと丁重にたずねた。「ミュンヘンに行って、アドルフ・ヒトラーと話をしてくるつもりだ」とシャハトは言った。

「民主主義者のあなたまで、なんたることですか!」。礼儀正しいそぶりをかなぐり捨てて、マウラーは叫んだ。

「ああ、きみには理解できまい。馬鹿なアメリカ人にはね」。シャハトがやり返した。

(略)

ヒトラーが政権を取るまで、ドイツに平和はやってこないよ」

 三週間後、ふたたびシャハトと顔を合わせたとき、マウラーはヒトラーとの会話はどうだったかとたずねた。「すばらしかったよ」。 シャハトは言った。「あの男は完全にわたしの手の内だ」

 マウラーの自叙伝にはこう記されている。「その瞬間、わたしは最悪の事態を覚悟した」

(略)

 しかし運命の一九三三年一月になってもあいかわらず、ヒトラーとその運動はもはや脅威ではなくなりつつあると話す人は大勢いた。

(略)

ユダヤアメリカ人の労働組合オルガナイザー、エイブラハム・プロトキンは混み合うベルリンのレストランで、ドイツ服飾労働組合の会長マーティン・プレットルと話をしていた。プレットルはプロトキンに、ヒトラーは「四人の主人のあいだで踊っていて、そのうちのだれがやつを潰してもおかしくない」と語った。その四人とは、ふたつの実業家グループ、そしてナチ党内のふたつのグループだ。だからヒトラーは、現政権内に用意される地位をみずからが引き受けるか、あるいは党内のライバルであるシュトラッサーにそうさせるかのどちらかを選ばなくてはならない。「どっちにしろヒトラーの負けだよ」とプレットルは言い切った。

 プレットルは、シュライヒャーはヒトラーを「ダシに使っている」のだと考えていた。そして「落ち目のヒトラーがあせりにまかせて共産党を潰してくれれば、シュライヒャーにはこの先の選挙での展望が開けるというわけだ」。

(略)

 しかしこのときにはすでに前首相のパーペンが、シュライヒャーの足元を切り崩しにかかっていた。(略)[パーペンはヒトラーと会合し]シュライヒャーを追い出す算段をし、バーペンはフォン・ヒンデンブルク大統領の協力を取り付ける役目を引き受けた。ふたりが会合を持ったという話が漏れ聞こえてきても、シュライヒャーはまだ「彼自身を陥れる陰謀のうわさにも、まるで動じていない」ことを公言していた。アメリカ大使館の高官たちの反応もこれと似たり寄ったりで(略)

代理大使のジョージ・ゴードンはワシントンへの報告書に、「急速にふくれあがる」ナチ党の負債は、党の運動を徐々に阻害する恐れがあると記し

(略)

[だが]こうした解釈がすべて救いようのないほど間違っていたことがあきらかになった。(略)

一月三〇日、ヒンデンブルクは公式にヒトラーに組閣を命じ、ヒトラーを首相に、パーペンを副首相に任じた。サケット米大使はこれを、ナチ党の「突然で予想外の勝利」と呼び、AP通信のルイス・ロックナーは、パーペンがこのときでもまだ、自分がヒトラー新首相を出し抜いたと思い込んでいることに注目していた。「われわれがヒトラーを雇ってやったんだ」。パーペンは親しい友人たちにそう話していた。つまりパーペンはいまだに自分が「運転席に座る」と思い込んでいるのだと、ロックナーは書いている。

 解き放たれた力

 政権発足後間もないころ、ナチ党の幹部たちは、国内の安定を印象付けるメッセージを発信するために、アメリカ人に積極的に接触してきた。「ナチ党はもう、あの扇動的な改革のようなことは決してしないだろう」[とシャハト]。(略)

[サケット大使は]ドイツ政府内では責任が分担され、ナチ党は「純粋に政治的、行政的な部門」のみを引き受け、ほかの者たちが引き続き経済、金融、その他さまざまな雑事を担当するのだと思い込んでいた。

(略)

 しかし続いて怒濤のように起こった一連のできごとが、ヒトラーに対抗する影の実力者がいるなどという幻想をすべて吹き飛ばした。二月二七日、マリヌス・ファン・デア・ルッベの放火により、国会議事堂が炎に包まれた。(略)

後年、多くの歴史家によって、ルッベはやはり単独で犯行におよんだと思われるとの結論が出されている。真実がなんであれ、ヒトラーはこの機会を逃さなかった。彼は共産主義者やその他の“陰謀家”たちを激しく非難し、ドイツを完全な独裁国家へと変貌させた。

 慌ただしく発令された「民族及び国家保護」のための緊急令にもとづき、ヒトラーは野党による出版や集会を禁じ、何千人もの共産党員、社会民主党員を、さらなる暴動を企てたとして逮捕した。突撃隊が街を破壊し、民家に押し入り、住民を通りに引きずり出して叩きのめした。三月五日にはふたたび国会選挙が予定されていたため、野党にまともな選挙戦を展開させないよう、ことはすべて急ピッチで進められた。

 ヒトラーが、すでにかなり衰弱していたヒンデンブルク大統領を説き伏せて、ヴァイマール憲法の肝である市民の自由に関する項目を無効化する緊急令に署名をさせた

(略)

 あれほど徹底的に野党を痛めつけたにも関わらず、三月五日の選挙において、ナチ党は全体の四三・九パーセントしか票を集められなかった。国会の第一党ではあったものの、過半数には至らなかったのだ。過半数を獲得するには、フーゲンベルクの国家人民党と手を組む必要があった。しかしヒトラーには、自分の計画を少しでも遅らせる道を選ぶつもりはなかった。三月二三日、ヒトラーは国会に「全権委任法」を承認させ、これにより事実上、あらゆる重要な権限を立法機関から自身に移譲した。

(略)

ヒトラーの権限を抑制するものは、これでもうなにひとつなくなった。

(略)

[ドロシー・トンプソンはウィーンからNYの夫に]手紙を書いた。「もっとも過激な新聞に書いてある通りの惨状です。(略)SAの少年たちはただのギャングと化し、街ゆく人々を襲っています。(略)そして社会主義者共産主義者ユダヤ人を『ブラウネ・エタージェン(茶色の床)』と呼ばれる場所に連れ込み、拷問にかけています。これに比べれば、イタリアのファシズムなど幼稚園のようなものでした」。トンプソンはまた、リベラル派の「(わたしには)信じられない従順さ」にも大いに落胆しており、街中をまわって《ゲティズバーグの演説》をしてやりたいくらいだったと書いている。(略)

[ロンドンの友人への手紙には]

SAが「すっかり狂って」しまい、新たな獲物を探しまわっていることを説明した。「相手を金属の棒で叩きのめし、リボルバーの台尻で殴って歯を折り、腕を折り、(略)彼らの体に小便をかけて、ひざまずかせて十字にキスをさせるのです」。(略)

「いったいどうしたらいいのかを、ずっと考え続けています。 わたしのなかにドイツへの憎しみが芽生えはじめているのを感じます。もう世界は憎しみに染まっているのです。だれかが声をあげてくれさえしたら

(略)

[帰国したプロトキンは事件の数々が、民衆のあいだから発生したものだと書きその一例として]ミュンヘンでのユダヤ系企業ボイコットを挙げている。

(略)

 ヒトラーやナチ党幹部が、支持者たちの暴力をさらに煽るのではなく、彼らをなんとか止めようとしているのだと考えていた人間は、プロトキンのほかにも大勢いた。アメリカ総領事のメッサースミスは当初、ヒトラーが支持者たちの暴力が生み出した勢いを利用しているのは、必要に迫られてのことだと信じていた。そうしなければ「本物の過激派」に政権を奪われてしまうからだ。

次回に続く。

ヒトラーランド ナチの台頭を目撃した人々

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々

 

よき勝者と悪しき勝者

[先の大戦では敵同士だったのに]ドイツ全体に親米的ムードがあったのは確かだ。(略)

 アメリカ人はどうやら、彼らにとって“よき勝者”であったようだ。

(略)

アメリカ人とドイツ人はまた、どちらにとっても“悪しき勝者”であったフランスに対するいらだちも共有していた。第一次大戦直後の混乱期、ワシントンとパリは、敗戦国ドイツの扱いについてことごとく対立した。(略)

アメリカは、フランスがドイツから、彼らの常識からすればひどく法外な賠償金を搾り取ろうとしていることにも強く反対していた。

(略)

「フランスは欧州一の軍国主義国家です。(略)彼らは先の戦争からなにひとつ学んでいません」。ケイ・スミスは、一九二〇年三月一二日付の母親への手紙にそう書いている。「ドイツは新たな戦争を引き起こしたりはしないでしょう。ドイツは英米とはとくにうまくやっていきたいと考えており、現在、自国の改造に懸命に取り組んでいます」。また別の手紙では、こうも書いている。「フランスはドイツがふたたび襲ってくることを恐れており、ドイツをできる限り痛めつけてやろうと考えているのです」ウィルソンが指摘しているように、フランスはさらなる悪手を繰り出して事態を悪化させた。一九二〇年にライン川を越えて派兵したあと、フランスはラインラントにセネガル人などからなる黒人部隊をさせたが、その直後から、現地からは強姦や暴行事件の報告が相次いだのだ。「フランスに対する燃えるような憎しみが、ドイツ国中にわき上がった」と若手外交官ヒュー・ウィルソンは書いている。

 このただならぬ事態を受け、アメリ国務省は米軍当局者に調査を依頼した。ドイツ駐在アメリカ軍の司令官であったヘンリー・T・アレン少将は、ひと通りの調査ののち、ワシントンにこう報告している。ドイツの報道は事実を故意に誇張して伝えており、人種差別問題にかこつけて、他国がフランスに反感を持つよう仕向けている。「これはとくに、黒人問題に敏感なアメリカを意識した行為である」。(略)

「ドイツの報道にあるような、フランスの黒人植民地軍による大規模な残虐行為──拉致および強姦、身体の切断、殺人、被害者の遺体の隠蔽などは虚偽であり、政治的プロパガンダを目的としたものである」。アレンはそう結論付けている。

 アレンはさらに、こうした大げさな報道の根底には、「ある層のドイツ人女性の黒人部隊に対する態度」があると指摘している。戦後の経済危機によって売春が広く行なわれるようになり、「大勢の身持ちの悪いドイツ人女性が、黒人兵に積極的に近づいた」のであり、数多くのラブレターや写真がその証拠だと、アレンは断じている。(略)

「人種差別は、フランスにもドイツにも見られない。わがアメリカと違い、彼らには白人の純血を守ろうという意識はない」。アレンは性的暴行の実例が数多く確認されていることを否定はしなかったものの、いっぽうで「問題を誘発した」のはドイツ人女性の態度だと考えていた。

 しかしドイツにいたアメリカ人の大半は、あらゆる問題の原因はフランスのドイツに対する報復政策であって、ドイツ人に非はないと確信していた。彼らの目から見たドイツ人は、地元の政治家たちが主張する通り、不当な迫害を受けている犠牲者であった。「残念ながら、第一次大戦後のドイツに赴任していた。アメリカ人の多くが、すっかり術中にはまっていた」。〈シカゴ・トリビューン紙〉の記者シグリッド・シュルツは後年、そう書いている。「世間の同情を集めたいドイツ人を、われわれは無意識のうちに手助けしていたのだ」

 大手出版社ハーストの名物記者だったカール・ヘンリー・ヴォン・ウィーガンドは(略)[同僚への手紙で]フランスに対する不満を爆発させている。「おまえが仲良くしているフランスの連中は、戦争が終わってからこっち、これまで以上に頭がおかしくなったとしか思えない」。そしてフランスが要求する賠償金に関しては、「フランス人はいったいいつになったら正気を取り戻して、ョーロッパの真の姿を見ようとするんだ」と書き、アメリカ人もヨーロッパ人も、「自分たちがどれだけ戦争で苦しめられたかを訴えるフランス人の泣き言を聞くのには、うんざりしはじめている」と結んでいる。

ヒトラーに関する報告

 のちに大使館付武官補佐トルーマン・スミス大尉は、当時ベルリンに駐在していた外交官はほぼ一様に、国家社会主義党を「取るに足らない存在であり、指導者のアドルフ・ヒトラーは教養のない狂人」だと考えていたと指摘している。(略)

[1922年11月ヒトラーと面会]
のちにトルーマンは、あのとき、ヒトラーの政治的な意見にばかりに重点を置かずに、その人となりをもっとよく観察しておくべきだったと悔やんだ。しかしトルーマンがこの日、ホテル・マリエンバートの部屋に戻ってすぐにノートに書き留めたヒトラーの印象は、非常に的を射たものであった。「とてつもない扇動政治家だ。あれほど論理的かつ狂信的な男の話は、めったに聞けるものではない。彼が民衆に与える影響は計り知れない」。ヒトラーの主張はじつに明白だった。「議会も、議会政治制度も廃止すべきだ。今日のドイツを議会が統治できるはずがない。独裁政治だけが、ドイツをふたたび立ち上がらせることができるのだ」

(略)

 ミュンヘン駐在の代理領事ロバート・マーフィの場合、ヒトラーが垣間見せる危険性に早いうちから気付いていたとはとうてい言えなかった。のちに彼は、自分は当初、アメリカ領事館で働いていたドイツ人、パウル・ドライの意見に惑わされてしまったと書いている。ドライはバイエルンに古くから続くユダヤ人名家の出身だった。マーフィとドライは、ヒトラーが活動初期のころに開いた集会に何度か足を運んでいるが、一度目の集会が終わったとき、ドライは憤然としてこう言ったという。「このオーストリアの成りあがり野郎は、どういうつもりでおれたちドイツ人に指図してやがるんだ」

 それから幾度かヒトラーの演説を聴きに行ったあとで、マーフィはドライにこうたずねた。「ヒトラーのような扇動家が、この先もっと大きな支持を得ると思うか」

 「とんでもない!」。ドライは答えた。「ドイツ人にはすぐれた知性がある。あんなごろつきにだまされやしないさ」

 ドライはガチガチの保守派であった──そして急速に勢力を拡大するナチ党に対して、いかにも保守派らしい反応をしたのであった。

(略)

[1923年に]マーフィがヒトラーに面会を申し込んだ動機は、反ユダヤ主義を標榜していることで有名だったヘンリー・フォードが、ヒトラーの運動を支援しているといううわさが本当かどうかを確かめたいというものであった。

 「ヒトラー氏は真摯に対応してくれ、わたしがいちばん聞きたかった質問に対しては、残念ながらいまのところ、フォード氏の会社からは金銭的な支援はまったく受けていないと述べた。党の資金はおもに、国外に住んでいる愛国心の強いドイツ人から寄付されたものだそうだ」とマーフィは書いている。

(略)

[マーフィは]ヒトラーの問題を徐々に深刻にとらえるようになっていった。ドライのほうはといえばあいかわらずで、ヒトラーは小物で、ナチ党は異常者の集まりだと言い張っていた──そしてその態度は、ナチスが政権を取ったあとも変化することはなかった。(略)

[1938年にミュンヘンシナゴーグが放火された際]

ほかの国で国務省関連の仕事を見つけてやるからと言って彼を説得しようとした。これに対しドライは、心遣いはありがたいが、自分は国を離れないと答えた。「こんなのは一時的におかしくなっているだけだ。誇り高いドイツ人が、あんな田舎者に我慢していられるはずがない」と彼は言うのだった。

 パウル・ドライは、ダッハウ強制収容所で命を落とすことになる。

 プッツィ・ハンフシュテングル

一九二二年一一月二二日の夜、プッツィ・ハンフシュテングルがキントル ケラーに到着すると、店内はすでに商店主、役人、若者、職人たちであふれかえっており(略)なんとか記者用のテーブルに辿り着いたプッツィは、そばにいた男にヒトラーはどれだとたずねた。将来ドイツの指導者となる男の姿を確かめたプッツィは、大いに落胆した。「がっしりとした編み上げ靴を履き、黒っぽい背広と革のベストを着て、軽く糊をきかせた白い襟とおかしなちょびひげをつけたその様子は、とても見栄えがいいとは言えず、まるで駅の食堂にいるウエイターのようだった」。(略)

 ところが大歓声を上げる聴衆に向かって(略)記者席の前を「きびきびとしたすばやい足どりで通り過ぎた」ヒトラーの姿は、「まぎれもなく、私服に身を包んだ兵士そのものだった」という。(略)

[暴動を扇動し刑務所から]数ヵ月前に出てきたばかりであったため、聴衆のなかに警察官がいることは本人もよく承知しており、言葉の選び方には慎重を期していた。それでも会場の雰囲気は「ゾクゾクするほど沸き返って」おり(略)

ヒトラーの演説をはじめて目撃したこの夜を、プッツィはこう振り返っている。「初期のころのヒトラーは、声や言いまわしとその効果を自在にあやつる術に長けており、あんな芸当ができる人間はほかにいなかった。そしてあの夜、ヒトラーは絶好調だった」

(略)

プッツィは聴衆──「とりわけご婦人方」が、ヒトラーの演説をたいそう楽しんでいることを見てとった。(略)

「まるで宗教的な恍惚感に包まれているかのように、彼女はわれを忘れて、ヒトラーが語る独裁国家ドイツの輝かしい未来への信念に、すっかり魅了されていた」。

(略)

ヒトラーからは、自力でのし上がってきた男という印象を受けた。彼なら共産主義とは違う思想で、ドイツ市民の心を動かすことができるだろう。しかし取り巻き連中の顔を見たところ、なかにはどうにも「うさんくさい」者たちもいた。たとえば党の理論家であるアルフレート・ローゼンベルクは「顔色が悪くてだらしがなく、よくない意味で半分ユダヤ人が混じっているかのように見えた」。

活気あふれる性文化

居住者であれ旅行者であれ、ドイツにいたアメリカ人にとって、この国の活気あふれる性文化はたまらなく魅力的だった。エドガー・マウラーはこう書いている。「大戦直後の時期には、世界中がセックスの喜びにあふれていたが、ドイツはまさに乱痴気騒ぎといった様相を呈していた。(略)なにしろ積極的なのは女性のほうなのだ。道徳観念、純潔、一夫一婦婚、さらには良識さえ、偏見と一蹴されてしまう始末だ」。マウラーはまた「性的倒錯」についても言及し、古い常識はまるで通用しないと驚きをあらわにしている。(略)

[マウラーの前任者]ベン・ヘクトは、そうした「性的倒錯」の例としてこんな話を書いている。ヘクトはあるとき、将校クラブで同性愛者のパイロットたちに出会った。「彼らはしゃれた服を着て、香水の香りを漂わせ、片メガネをかけ、たいていはヘロインかコカイン漬けになっていた。人目のあるところで性行為におよび、カフェのボックス席でキスを交わし、午前二時ごろになると仲間うちのだれかが持つマンションへと消えていく。グループのなかにはたいてい、女性がひとりかふたり混ざっている。口がやたらと大きな、暗い目をした身持ちの悪い女たちで、爵位付きの名前を持っていたが、体のほうには不名誉な傷がそこらじゅうに付いていた。ときには一〇か一一歳くらいの少女たちをフリードリッヒ通りから拾ってきて、パーティに仲間入りさせることもある。その子たちは真夜中過ぎ、口紅を付けて、赤ん坊が着るような丈の短いドレスにギラギラと光るブーツをはいて、通りを練り歩いているのだ」

 執筆中の自叙伝におもしろみを加えるために、ヘクトは多少、大げさに書いたのかもしれないが、それでもベルリンでゲイ文化が華々しく咲き誇っていたというのはまぎれもない事実であった。アメリカからやってきたフィリップ・ジョンソンのようなゲイの若者にとって、ベルリンとの出会いはまさしく心躍るできごとだった。(略)[バウハウス運動など]に憧れてベルリンにやってきたこの未来の名建築家は、専門分野への興味をはるかに超えて、この街の魅力のとりこになった。

ヒトラーの裁判

 失敗に終わったビアホール一揆のあと、世間ではナチ党はもはや、表舞台には出てこないだろうと考えられていた。しかし(略)[反逆罪に問われた裁判をヒトラーは]ヴァイマール共和国を打倒するというみずからの目的を公に主張する場として利用し、得意の《背後のひと突き》理論を滔々と語ってみせた。(略)

 裁判官はヒトラーに、裁判の進行ばかりか、証人に対する反対尋問まで好き勝手にやらせたため、彼は一揆の側につくと言いながら最後に裏切ったバイエルン州幹部をこきおろし、己に対する周囲の評価をぐいぐいと引き上げていった。

(略)

 ヒトラーの言いたいことは明白だった。わたしはみずからの信念──ドイツの現支配層を嫌悪しているすべての人々と同じ信念──に従って行動しているが、バイエルンの権力者たちは、政府にもこちらにもいい顔をしようとしている。

(略)

 この裁判の取材でヒトラーをはじめて見たマウラーは、たいそう感銘を受けた。「ヒトラーの話にはユーモア、皮肉、情熱がこもっていた。きびきびと動く小柄な男で、新兵を訓練するドイツ軍の軍曹のようでもあり、ウィーンの百貨店の売り場監督のようでもあった」。(略)

「その場にいる傍聴人や記者たちは、ひとり残らずヒトラー喝采を送りたい気持ちになっていた」とマウラーは書いている。

 ヒトラーには反逆罪の最低刑である禁固五年が言い渡され、ルーデンドルフは無罪放免となった。

(略)

 ヒトラーがランツベルク刑務所に収監されていたのはわずか九ヵ月足らずで、そのあいだもかなり自由な振る舞いが許されていたため、彼はその時間を使って自叙伝『わが闘争』の口述筆記を進めていた。ヒトラーはまるで賓客のように扱われ、彼にあてがわれた広くて眺めのいい快適な部屋には、大勢の面会人が押し寄せ、支持者からの贈り物が山のように届いた。そしてついに釈放されたあとも、ヒトラーが故国オーストリアに追放されることはなかった。

 とはいえヒトラーの進めていた運動のほうは、彼が不在にしているあいだに、内部抗争によって膠着状態に陥っていた。そしてヒトラーがふたたび党員の指揮を執りはじめ、さらにはナチ党への活動禁止命令も解除されたにも関わらず、国内の経済状況が好転したことで、ナチ党の吸引力はすっかり弱まっていた。一九二四年一二月の国会選挙で、ナチ党の議席はわずか一四にとどまったが、ドイツ社会民主党は一三一議席、比較的穏やかな右翼政党であるドイツ国家人民党は一〇三議席を獲得した。(略)

[1925年の大統領選挙で77歳のヒンデンブルクが当選]

この大統領選挙のもっとも興味深い点は、ナチ党が「ちょっとした話題」にさえのぼらなかったことであった。ヒトラーはすでに出所していたものの、演説は禁じられており、「わたしの記憶にある限り、ドイツ人であれアメリカ人であれ、わたしに向かってヒトラーの名前を口にした者はだれひとりいなかった」という。

 一九二八年五月の国会選挙で、ナチ党はさらに議席を減らし、一二議席となった。

経済破綻

[1925年ジェイコブ・グールド・シャーマンが駐独米大使に。28年、ヴァイマール共和国の安定は確実なものにと語ったが]
さらなる混乱が起こる可能性にまるで無頓着だったわけではない。ベルリンに赴任した最初の年から、彼はアメリカの金融機関が危険も顧みずに、こぞって高金利の融資を進めていることを憂慮していた。「ドイツの地方自治体の金庫に無駄なお金を大量に注ぎ込んでやろうという動きは、ますます病的な熱気を帯びてきた」。

(略)

マウラーらアメリカ人特派員たちもまた、ドイツ経済の現状に疑問を抱きはじめていた。あるとき、ミシガン大学でマウラーを教えた経済学者のデヴィッド・フライデーが、ドインへの資金提供に意欲的な投資会社の代表としてベルリンにやってきた。(略)

「われわれはこの国の人々のことを、手堅い商売相手と見ているよ。仕事熱心で、堅実で(略)われらの力でドイツ人はふたたび立ち上がれるだろう」

「九%の金利でですか」とマウラーがたずねると、フライデーはこう答えた。

「そりゃあ、こっちも慈善事業じゃないからね」(略)

各国からひどく簡単に手にはいるお金が大量に流れ込んだことで、じきにドイツには「熱狂的な消費」の波がやってきた。(略)

 ドイツは融資で得た資金を賠償金の支払いにまであてており、経済的な負担が重すぎてこのままでは立ち行かないと嘆くドイツ政府に対し、シャーマンは同情を隠そうとしなかった。ウォール街の暴落以前から、ドイツ経済の危うさを示す不吉な兆候はあちこちに現われていた。(略)

 やがてドーズ案に代わり、ヤング案が採択された。(略)

ドイツ財政にもっともくわしいアメリカ人として知られたファーディナンドエバースタットは(略)ヤングに向かってこう言い放った。「おい、この案はただのごまかしだ──すぐに破綻するに決まっている。政治的なつじつまあわせばかりで、経済のことはなにひとつ見ていないじゃないか」。(略)

ウォール街の暴落がすべてを変えた。(略)

国会の行き詰まりに業を煮やした首相は、九月に総選挙を行なうことを決めた。

 ミュンヘンの扇動家がカムバックする舞台は整った。

次回に続く。

ヒップの極意・その3

前回の続き。 

ヒップの極意 EMINENT HIPSTERS

ヒップの極意 EMINENT HIPSTERS

 

デュークス・オブ・セプテンバーとともに

ソロ・アルバムの《ナイトフライ》をワーナー・ブラザーズに納品すると、わたしは安物のスーツのようにバラバラになってしまった。子ども時代の不安発作がぶり返し、ただし今回は病的な考えと、大々的なパラノイアというおまけがついていた。1日を生き延びるのもやっとという感じで、曲づくりなどとんでもない。わたしは精神分析医の診察を受け、抗鬱剤をがぶ飲みしはじめた。

 1988年に早送りしよう(お願いだから!)。わたしの精神状態はかなりよくなっていた。友人のリビー・タイタスは、マンハッタン周辺のレストランで、音楽とコメディの「おぞましくもささやかな宵」(本人の弁)をシリーズでプロデュースしていた。手短にいうと、われわれはコラボを開始した──プロジェクトはニューヨーク・ロック&ソウル・レヴューに発展し、このレヴューは2年間、全国をツアーしてまわった。その後われわれは結婚した。マイク・マクドナルドとボズ・スキャッグスは、1993年のツアーのラインナップに入っていた。2010年、われわれはこのコンセプトを、デュークス・オブ・セプテンバーとして復活させた。2012年のサマー・ツアー中に、わたしは以下の日誌をつけはじめた。

(略)

  2012年6月19日(略)

 わたしはデュークス・オブ・セプテンバー・リズム・レヴューというバンドとこの街に来ている。これはマイケル・マクドナルドボズ・スキャッグスとわたしが、もっぱらお気に入りのカビくさいR&Bやソウル・ナンバーをうたうというもので、TVベイビーたちのご機嫌を取るために、自分たちのヒット曲もいくつか差しはさんでいる。

(略)

[ヒット曲目当ての客のノリの悪さにイライラし、ツアー待遇の悪さをマネージャーに愚痴ると、ヒット曲主体にしたらキャパも増やせて高待遇になりますと返される]

  7月1日

 誇大妄想狂の嫌なやつとしてのアーティストの話題にもどろう──一般市民の場合と同様、不快で無礼なやつが不快で無礼なのは、こっちにどう思われているかが怖いからなのだ。一種の防御なのである。時には連中をかくも怖がらせている要素が、同時にクリエイティヴな気質を刺激することもあるが、わたしの知る限り、最高に不愉快な手合いは、たいていアーティストとしても凡庸だ。これはおそらく、本物のアートには、あくまでも一般論だが──ある程度の共感が必要とされるからだろう。

 むろん、アーティストはコントロールを保たなければならない。これはすなわち、つねに状態を最適化することを意味し、そのなかにはやるべき仕事をやっていない連中や、実はサイコだったと判明した連中等を、冷徹に切ることもふくまれている。だが人をクビにするときですら、優しさを見せることは可能なのだ。

 チャーリー・ミンガスは自伝のなかで、トロンボーン奏者のジュアン・ティゾールといさかいを起こした彼を、デューク・エリントンがいかに優雅にお払い箱にしたかをふり返っている。

(略)すまないけれどチャールズ──ぼくは人を首にしたことはないんだけど──君にはぼくのバンドをやめてもらうよ。これ以上悶着はごめんだ。ジュアンは昔から問題だったんだ。そいつはぼくが何とかできる。しかし君の場合は何が飛び出してくるか全く見当がつかないんだ」

ウェス・アンダーソンムーンライズ・キングダム

  7月4日(略)

[ウェス・アンダーソンムーンライズ・キングダム』を観て]

知的で、念入りにつくられた映画だった。ウォルターとわたしは一度、インターネットを経由して、アンダーソンのファンたちと一風変わったやりとりを交わしたことがある。きっかけはわれわれが、ユーモラスな(とわれわれは思っていた)手紙を2通、スティーリー・ダンのウェブサイトにアップしたことだった。

 われわれがアンダーソンに魅了される理由のひとつは、彼が一種のオタクっぽい、60年代初期の思春期体験に、大きなこだわりを持っているように見えることだ。ウォルターとわたしは実際にそれを生きぬいてきたが、アンダーソンは若すぎて実体験できなかった。それなのに彼は喜劇的な誇張とファンタジーを駆使して、そのムードを完全に捉えきっている。(略)

ムーンライズ・キングダム』のボーイスカウトたちを観ているうちに、自分自身のボーイスカウト・キャンプでの経験が思い出されてきた。わたしは大半の時間をテントですごし、大型のポットでこわごわハーブティーを沸かしていた。ハーブといってもほとんどは森で摘んだウィンターグリーンだが、それをスカウトのハンドブックに載っていたレシピに沿って、ぴったりのブレンドで煎れようとしていたのだ。

日本でのエピソード

  7月14日(略)
 日本のプロモーター、無敵のミスター有働が10月にデュークスで何度かライヴをやってほしいといっている。アーヴィングが値段をつり上げることができたら、たぶん、われわれは行くことになるだろう。このサイズのバンドがアジアに遠征するとなると、経費がバカにならないからだ。

 せいぜい1週間ぐらいだろう。そうだとありがたい。日本ではけっこうキツい思いをさせられるからだ。なによりもまず、西洋人にとって、あそこは火星の遊園地のように見える場所だ。ピンボール・マシンのなかで、道を探しているような感じといってもいい。

(略)

 これもやはり島国ならではの問題だし、イギリスの文化と共通する点も多々あるが、それにしても日本は極端だ。おそろしく堅苦しい礼儀作法、とりわけ外国人と接する際のそれは、多くの誤解を生み出している。以下はわれわれのギタリストが、好んで披露する日本でのエピソードだ。

 ある夜遅く、ジョンとほかに何人かのプレイヤーがレストランに入り、まだ食事はできるかと訊いた。ウェイトレスはかすかに動揺した様子だったが、どうぞ、お入りくださいといった。テーブルは空いてる?はい、こちらにお座りください。メニューはあるかな?ウェイトレスが今にも泣き出しそうな顔でメニューを持ってきた。オーダーしてもいいですか?彼女はついに頭を垂れ、ほんとうのことを口にした──もうしわけありません、もう閉店なんです。

 そういうことだ──どうやらあの国には「ノー」という概念を表現できる言葉がないらしく、プロモーター、クラブの従業員、運転手、そしてこっちに同情的な通訳たちですら、みんなほぼどんなことについても、嘘をつくしかなくなってしまう。(略)

あらゆる種類の曖昧な表現に激しいアレルギー反応を示すわたしの妻などは、もう二度とあの国に行けないだろう。わたしは1週間ぐらいなら、あぶく銭のために我慢できそうだが。

ディーコン・ブルース

   7月28日

 アラバマにもどる。(略)

 70年代にウォルターとわたしは、アンチヒーローとしてのジャズ・ミュージシャンというありがちなイメージをもてあそんだ曲── 〈ディーコン・ブルース〉を書いた。これはその当時までのわれわれの暮らしはもちろん、ノーマン・メイラーが大昔に書いた「白い黒人」というエッセイも、ある意味でおちょくった作品だった。われわれはまちがいなく、爆笑ものだと思っていた──なにしろ疎外された郊外の白人少年が、ビバップの奏法を身に着けさえすれば、抑圧の鎖を打ち捨て、ほんものの人生を歩み、芸術とパッションという奔馬を解き放つことができるなどという考えを抱くのだ。サビがすべてを要約している──

サックスの吹き方を覚えよう

ただ感じた通りにプレイしよう

(略)

人はアラバマクリムゾン・タイドと呼ぶ

オレのことはディーコン・ブルースと呼んでくれ

 ここでのミソは、もし一大学のフットボール・チームがこんなご大層な名前を名乗っていても、主流派のアメリカに受け入れられるとしたら、オレも同じくらいご大層な称号がほしい、とこの負け犬がいっていることだ。オレはきわめつけのはぐれ者、夢の裏側さ、あんた……オレのことはディーコン・ブルースと呼んでくれ(当時はラムズに、ディーコン・ジョーンズという最高のディフェンスが在籍していた)。アイデアはいくぶんとりとめがないが、音の響きは悪くなかった。やたらと長かったにもかかわらず、この曲はヒットした。

 何十年もたってツアー活動を再開すると、われわれがアラバマ、とりわけアラバマ大学があるタスカルーサでプレイする際には、どうしてもこの曲をやらないわけにはいかなくなった。おそらく酔っぱらって〈ディーコン・ブルース〉をやれと叫ぶ客は、だれひとりこの曲の意味を知らないし、知りたいとも思っていないだろう。連中は単に「クリムゾン・タイド」という言葉を、よく知られた曲のなかで聞きたいだけなのだ。

 いずれにせよデュークスは、一度もこの曲のリハーサルをしたことがなかった。

(略)

  8月5日

 日帰りでニュージャージーのレッドバンクに向かい──よく聞いてくれ──カウント・ベイシー・シアターでプレイ。(略)

カウント・ベイシーのホームタウンでプレイできるとあって、バンドも大いに力が入っていますと口にすると、客席からは本気で耳が痛くなってきそうな沈黙が返ってきた。どうやらTVベイビーたちは、ベイシーがあまりお好みじゃないらしい。

 劇場のウェブサイトによると、音楽系の高名なアーティストが大勢、ここをお気に入りの小屋に挙げている──

トニー・ベネットはここを『お気に入りの場所』と呼んでいます。アート・ガーファンクルは、『ピアニストにとってのスタンウェイが、シンガーにとってのこのホールだ』と語り(略)」

 なるほど、たしかに見た感じは悪くない。だが音は最低だ。前にもいったように、古い劇場はたいてい見てくれは最高だが、「定常波」ほかの原因のせいで、音響カオスを起こしてしまう。サウンドチェックではジョーといっしょに最前に立ち、駐車場ビル内の壊れたバイタミックス・ブレンダーのようだったドラムをなんとか聞ける音にするだけで、30分を費やしてしまった。この手のトイレのような小屋には、いくら高価なドイツのマイクを持ちこんだところで、まったくなんの意味もない。まともな楽屋もなく、着替えとひげ剃りはバスの車内でやるしかなかった。今回も、われわれはどうにか観客をごまかし、それなりに価値のある音楽を聞いたという気分にさせることができた。われわれにとって幸運だったのは、彼らがクズのような音に慣らされていたことだ。

(略)

  8月8日(略)
[10月に出るソロに関する質問がeメールで次々に来る]

デザイン部門がジャケットにほどこした処理は気に入りましたか?ライナーノーツの原稿をチェックしてもらえますか?(略)

 なかにはこういう、本気で気色が悪いものもある──iTunes用のマスタリングは問題ありませんか?そもそも質問の意味からしてわからない。アルバムはすでにマスタリング済みだし、それはすでに悩みの種となっている。それになぜそんな真似をするのだろう?どうせみんな、腐ったような音がするコンピューターの小型スピーカーか、あのどうしようもないイヤホンで音楽を聞いているというのに?

 1964年、ヴィニール盤のLPは最高の音をさせていた。それは高忠実度の時代であり、あなたの両親ですら最高の音を鳴らすコンソールか真空管コンポ、それにA&RやKLH等々の、いかしたスピーカーをひと組揃えていても不思議はなかった。(略)

[TVの]チャンネルは10から12しかなく、すべての番組がすばらしかったわけでないが、30年代、40年代のイカした白黒映画を、日中はもちろん、夜もほぼぶっ通しでたっぷり観せてくれた。魂を鈍らせるポルノや暴力はいっさいなし。メインはまっとうなニュース番組と、スティーヴ・アレン、グラウチョ・マルクス、ジャック・パー、ジャック・ペニー、ロッド・サーリング、そしてアーニー・コヴァックスらの知的でチャーミングな有名人をフィーチャーした、カジュアルなエンターテインメントだった。

 ああ、なんならわたしのことを、クソ親父と呼んでくれてもかまわないぜ。(略)

情報テクノロジーは、人を完全に操ってしまう。TVベイビーは手のひら人種に変貌を遂げた。それはたとえば客席にいる、即席ヴィデオを友人たちに送っていないと、パフォーマンスを経験した気になれない連中のことだぼくを見て、ぼくはまちがいなく生きてる、ぼくはそれを証明できる、だからこいつを送ってるんだ。

 いってやろうか?わたしはおまえなんか見たくない。おまえは死体だ。そしてそれを言動のひとつひとつで証明している。目を覚ませ、このウスノロめ!

(略)

  8月10日

 わたしが遠くの学校に通っていた同年代の終わりごろ、父親はジャージーでやっていた仕事をレイオフされた。彼は家族を連れてオハイオに移り、弟、つまり風変わりでおかしなわたしのデイヴおじさんとファーストフードの商売をはじめた。(略)残念ながらデイヴは数あるフランチャイズのなかから、よりにもよって数年後、マクドナルドに一掃されてしまうバーガー・シェフを選んだ。

 子どものころ、デイヴがわたしといとこのジャックのために、MDMDクラブという組織をつくってくれたことがある。これは「最高に大胆なやつよりもっと大胆(モア・デアリング・ザン・モースト・デアリング)」の略だ。われわれは自分たちがやってのけた危険な冒険の話を、次々にでっちあげた。たぶんオハイオにずらかったとき、中年だったデイヴとわたしの父親(それにジャックの父親、わたしのアルおじさんも)も、それと同じようなつもりでいたのだろう。

(略)

 バーガーの悲劇からまださほどたたないころ、わたしは休日の週末に帰省していた。夜になるとデイヴは、車でわたしの妹の家から、両親の暮らす悪夢のように味気ないアパートまで送ってくれた。(略)

もう遅かったので、店は閉まっていた。こぼれたビールの水たまりでしばらく立ちつくしたあと、よくある耳当てつきの帽子をかぶっていたデイヴがいった。「なあドニー、ときどき思うんだが、口にショットガンをつっこんで、この馬鹿げたもろもろ全部に終止符を打つ、というのはどうだろう?」

 その言葉はかならずしもショックではなかった。前にもいったように、デイヴはおかしな男だったからだ。問題はデイヴの父親、ということはわたしの父親の父親でもあり、わたしにとっては祖父にあたる男が、30年前に地下室に降りて、まさにその通りの真似をしていたことだった。

(略)

  8月11日

 けっきょくロチェスターのライヴは、最初から最後まで最高だった。今回ばかりは歓びが、ATDに勝ったわけだ。客筋はいいし、サウンドも上々で、全体的にすてきなヴァイブが漂っていた。(略)

同じプレイのくり返しも、それはそれで楽しいものだ。すべてがぴったりハマってくると、音とコードとそのあいだの美しいスペースに、すっかり釘づけにされてしまう。ドラムとベースとギターにぐるりと囲まれ、その中心に立っていると、大地は足元からはがれ落ち、そこにいるのはこの前に向かう動き──1万人もの人々を人生の惨めさから解き放ち、立ち上がらせ、踊らせ、叫ばせ、ひたすらいい気分にさせることができる、この否定のしようがない、魔法のようなブツをつくりだしている、自分とそのクルーだけになる。

逮捕歴?

  8月12日

[カナダの入国管理官が]

「あなたはニューヨーク州で逮捕歴があるこのドナルド・フェイゲンと同一人物ですか?」

「えっ?いえ、逮捕されたことはありません」彼に書類を見せられた。誕生や家族に関する情報は、まちがっていないようだ。するとそのいちばん下に、わたしが1969年にドラッグを売ったかどで逮捕されたという、FBIからの注意書きが入っていた。

「まさか、こんなものを見せられるとは思いませんでした」とわたし。「大学時代に強制捜査があって、学生が大勢捕まったのは事実ですが、わたしがマリファナを売っていたというのは、まったくのでっち上げだったんです。この件は不起訴になりましたし、当時、わたしの弁護士は、この逮捕を記録から抹消させたといっていました。そんなことが可能になったのは、告訴をした“郡保安官代理”が偽証をしていたからなんですが。G・ゴードン・リディのことを聞いたことがありますか?」

「いえ、ありません」

「彼は当時、ニューヨーク州ダッチェス郡の地方検事補選に出馬していました。 バード・カレッジの強制捜査を仕組んだのは、反ヒッピー票の獲得をもくろんでのことだったんです。するとその2年後に、リディはウォーターゲートに侵入した犯人のひとりとして告発されました」

 カナダ人の警官はわたしを一瞬見つめ、書類を取り下げた。「たしかに」と彼。「あなたは何度もカナダにいらしているようです。今回、この件が持ち上がった理由は不明ですが、いずれにせよずいぶんと昔の話ですし、わたしはあなたを信じたいと思います。ですが記録の訂正は、ぜひともやらせるようにしてください。そうしないと将来的に、カナダに入れなくなる可能性がありますから」といって彼は、この件を不問にしてくれた。
 というわけで43年たった今、わたしははじめてFBIに自分のファイルがあることを知った。

ストラヴィンスキー

  8月15日(略)

ホテルでオフ。わたしはアップルにストラヴィンスキーの長いプレイリストを入れていて、毎晩、それを聞きながら眠りに就く──《ナイチンゲールの歌》、《ミューズを率いるアポロ》、《プルチネラ》、《詩篇交響曲》といった頌歌だ。《春の祭典》の途中で目を覚ますと、ほんとうにイルな気分になる──まるで、火のついたベッドで目を覚ましたような。それと今は若きイーゴリの小さな写真を、ラップトップのデスクトップに置いてある。音を外したヴァイオリニストたちを震え上がらせたという、あの目つきでカメラをにらんでいる写真だ。

 こうしてまたイーゴリマニアがぶり返してきたおかげで、アマゾンからストリームされる『シャネル&ストラヴィンスキー』という映画を観てしまった。ココ・シャネルがロシアから亡命してきたばかりのストラヴィンスキーとその家族を、パリの郊外にある彼女のハイ・スタイルな貸間に招いていた時期に、このふたりのあいだでくり広げられたとされる情事を描いた映画だ。映画はもっと早い時代、1913年からスタートする。この年、あの悪名高い《春の祭典》のプレミアに出席したココは、どうやらこのイカれたニュー・ミュージックにすっかり心を奪われてしまったらしく、暴動めいた騒ぎのあいだも、ずっと席を立たなかった。彼女が彼と再会するのはその7年後、自分の家で仕事をすれば、と彼を誘ったときのことだ。それなのに映画が終わるまで、われわれはこのやけに筋骨たくましいストラヴィンスキーが、ココのピアノで《春の祭典》をあらためて作曲する姿をながめつづけることになる。このパラドックスは決して説明されない。たぶん映画をつくった連中が、イーゴリはココをコマしたことがきっかけで、この荒々しい、隔世遺伝的な、新種の音楽を書くことになったという筋書きを捨てきれなかったのだろう。ある意味、ジョージ・クリントンの「心を自由にすれば、ケツもついてくる」というスローガンの逆を行くようなものだ。

 実際には20年代初頭の時点で、イーゴリはもうこの種の作品と手を切り、より保守的な「新古典派」時代に退行していた。むしろ、最終的にはナチのスパイになるココが、イーゴリをファックして、反動的な流れに引きこんだ公算のほうが大きい。彼は終生、そこからぬけだせなかった。ただし音楽としては悪くない。

  8月16日(略)

[ヘンリー・フォード博物館訪問]

 フォードがはじめてユダヤ人こそ世界中の諸悪の元凶だと糾弾した、「国際ユダヤ人」の初版本はないかと訊いてやるつもりでいたのだが、けっきょくは尻込みしてしまった。イーゴリもやはり、ユダヤ人をあまりよく思っていなかったが、これはおそらく彼があの鼻やなんやらのせいで、自分がそのひとりであることを恥じていたせいだろう。バスのなかで、イーゴリに感謝するファンが、彼をミスター・ファイアーバーグ[訳注:「火の鳥(ファイアーバード)」をユダヤふうにもじった名前]と呼んだことがあった、という話が出た。 

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