サウンド・マン ロック名盤の誕生秘話 グリン・ジョンズ

ジミー・ペイジ、ロニー・ドネガン

 わたしは教会に侍者として残り、水曜の晩は教会のユースクラブに通うようになった。(略)

ある晩、素人コンテストが開かれた。(略)10代前半の、誰も見たことのなかった少年がステージ前方の縁に腰かけて、脚をぶらぶらさせながらアコースティック・ギターを弾いた。かなりうまくて、確か優勝もした気がする。(略)

これが、わたしとジミー・ペイジとの最初の出会いになった。

 

 1957年、15才になる頃、わたしはトラディショナル・ジャズに惹かれていた。学校に上級生らが組んだバンドがあって、わたしも入りたかったのだが、けんもほろろに追い返され、偉そうにするなと耳の辺りに平手打ちまでもらった、ミドルスクールの“粋がった”小僧としか見てもらえなかったからだ。そのバンドのクラリネット奏者はディック・モリッシーといい、彼はその後、英国史上屈指のモダン・ジャズ・サックス奏者になった。

(略)

姉がレス・ポールとメアリー・フォードの“リトル・ロック・ゲッタウェイ”のSP盤を買ってきたときのことは、よく覚えている。 何から何まで真新しいサウンドだったからだ。レス・ポールはマルチトラッキングを使った最初のアーティストだった。まず、モノの録音機でギター・パートを録り、それをプレイバックして別の録音機で録りつつ、そこにセカンド・ギターを足し、この行程を望みのアレンジができるまで続ける。(略)今で言うマルチトラック録音が出現する数年前のことだ。もちろん、他の購買者たちと同じく、わたしもそんなことはつゆも知らず、すごいサウンドだなと、ただただ感心するばかりだった。レコーディングに対する彼のこうした革新的姿勢がアンペックス社の発展につながり、同社は世界初のマルチトラック・テープ・レコーダーを開発し、2台目はすぐさまレスに提供された。

 そんなレス・ポールのレコードが不意に色褪せ、取るに足りないものに思えたのが、ロニー・ドネガンの“ロック・アイランド・ライン”をラジオで初めて耳にしたときのことだ。それは生まれてこのかた聞いたことのない類のもので、翌日にはもう、わたしは店に駆けて行き、それを買っていた。(略)ドネガンは英国に熱いスキッフル・ブームを巻き起こし(略)わたしをアメリカ民謡へと、さらにはブルースへと導いてくれたのだった。

(略)

 何軒か先に住んでいたピーター・サンドフォードという人が、わたしがギターを買ったとの話を聞きつけ、フォークとブルースに関する本とレコードの膨大なコレクションを気前よく見せてくれたおかげで、わたしの関心は一気に高まった。彼はわたしにすこぶる優しく、家でゆっくり吸収したらいいと、何でも貸してくれた。 スヌークス・イーグリン、ブラウニー・マギー、サニー・テリー、ウディ・ガスリー、バール・アイヴスを教えてくれたのも彼だった。わたしはそんなレコードや歌集を部屋に持って帰っては覚え、指をネックのどこに置くのか、ずるをして見てしまわないように、暗がりの中で何度も何度も繰り返し弾いたものだった。

IBCスタジオ採用までの経緯、ジョー・ミーク

 1959年の7月、わたしは学校を後にした。当時17才、何をしたらいいのか、さっぱりわからなかった。わかっていたのは、事務仕事はしたくない、9時から5時までの仕事は絶対に嫌だ、ということだけだった。(略)

[友人二人とバンドを組み]サットンのパブ、レッド・ライオンの奥の部屋で、隔週の金曜日にそこでやるようになった。わたしたちはすぐさま人気を博し、部屋代を抜いても一晩に30~40ポンドは稼げた。当時にしてみれば大金だった。

(略)

[試験の結果は]8科目受けて、通ったのはたったの2科目、歴史と英文学のみ。 両親にしてみれば失望以外の何ものでもなく、高等教育を受ける学力も、したがってもっと社会的に認められた職に就くために必要とされる学歴もない息子の将来をふたりが案じているのがわかって、わたしは暗澹たる気持ちになった。

 そんなある日、仕事から帰宅した姉スーから出し抜けに言われた。あんた、レコーディング・スタジオで働いてみる気はない?聞けば、スーの職場の上司には付き合っている女性がいて、受付で上司を待っていたその彼女に、スーは人生の楽しみを音楽に見出している弟のことを伝えた。すると彼女はスーに言った、私はウェールズ音楽専門の小さなレコード・レーベルを持っています、良かったら自分が使っているレコーディング・スタジオで面接を受けられるように話をしてあげましょうか――もしも、弟さんにその気があるならば、ですが。言うまでもなく、音楽業界で働くという考えなど、それまで頭の隅を過ったこともなかった。 レコーディングのことは微塵も知らなかったし、一般的なごく当たり前の職業以外で働くことを考えたこともなければ、そういう業界以外で働く知り合いもいなかった。この機会はつまり、お互いによく知りもしないふたりの女性の間で交わされた社交辞令的な会話の結果として、わたしの目の前にやって来たものだった。何という運命のいたずらなのだと、昔からたびたび考える。数日後、大いなる不安を抱えたまま、わたしは面接に臨んだ。そのスタジオはポートランド・プレイスのIBC、当時のヨーロッパで間違いなく最も優れた独立系レコーディング・スタジオだった。そこのマネージャーで、感じの良さそうなウェールズ人のアラン・スタッグは、レコーディングに関する専門的な質問をたっぷりと投げかけてきて、どれひとつとして、わたしには答えられなかった。それでも彼は一応、今のところ人手が足りているが、次に空きが出たら必ず君を候補として考えよう、と言ってくれた。

(略)

 わたしは百貨店の仕事に戻った、たぶんスタジオから連絡が来ることはないだろうと思っていた。もしもそのまま放っておかれ、こちらから何もしないでいたら、そのとおりになっていたに違いない。面接から6週間くらい過ぎた頃、母に言われた。連絡がないのなら、おまえからスタッグさんに電話をかけて、記憶を突いた方がいいんじゃないのかい?わたしは反論した、次に空きが出たら考えると言われたのだし、そんなことをしても意味がないよ。幸いなことに、母はとりあえず電話だけはしなさい、と言って譲らなかった、あんたに失うものはないのだから、と。そこでしぶしぶアラン・スタッグに電話をかけ、わたしが誰かを思い出してもらうと、何とちょうどその日、ベテラン・エンジニアのひとりが辞表を出してきたのだという。だから見習いという梯子の一番下にひとつ空きが出る、それで、君、いつから来られる?その日、もしもこの電話をかけていなかったら、IBCから連絡が来ることは絶対になかったろうし、わたしが音楽に仕事として関わることはまずなかったと思う、間違いない。 

 次の日から早速、わたしはIBCで、下っ端アシスタント・エンジニアとして働き始めた。それはつまり、各セッションの前に担当エンジニアの要求に合わせてスタジオを整え、滞りない進行に努め、うまくいかないすべてのことについて叱責を受けつつ、セッション前、中、後に先輩たちから大小さまざまな言葉の虐待を受け、さらにその合間に大量のお茶汲みと機材磨きをこなす、ということだった。

 最初にあてがわれたセッションはロニー・ドネガンのものだった。あまりのことに夢かと思ったのを覚えている。 (略)しかも、わたしの愛聴盤でみんなの羨望の的だった10インチ・アルバムのジャケットの写真がIBCのBスタジオで撮られたものであることも判明した。一介の若者にとって、それはとてつもないことだった。

 IBCは特定のレーベルと提携をしていない、私営のスタジオだった。当時、RCA、デッカ、パイ、EMIはどこも自前のスタジオを持っていたから、それ以外のところをすべて独立系レーベルが好きに使えた。結果、ありえないほど雑多なアーティスト、ミュージシャン、クライアントがIBCを訪れては去って行ったものだった。音楽もこの上なくくだらないジングルからビッグ・バンドに至るまで――ジュリアン・ブリームからアルマ・コーガンまで、米NBCテレビの人気番組『幌馬車隊』の音楽からモダン・ジャズ・クインテットに至るまでと、多種多様

(略)

 当時、レコード・プロデューサーはA&Rと呼ばれていた、“アーティスト&レパートリー”の略だ。彼らは皆、どこかのレーベルに属していて、会社からあてがわれた、あるいは自分が連れて来たアーティストと、そのアーティストが録音する音楽のレパートリーに関する全責任を負っていた。曲が書けるアーティストはごく稀な存在であり、したがって音楽出版社が売りつけてくる大量の曲群の中からA&Rが選ぶのが常だった。この仕組みは彼らに極めて強大な力を持たせるもので、うまくやれば、自らの利益になるよう状況を好きに操作することもできた。たとえば、自身の出版社を興せば、売れっ子アーティストに曲を吹き込ませる交換条件として、曲の出版権を折半したり、シングルのB面やアルバム曲の出版権をもらったりといった取引を他の出版社と交わして収益力の増大を図る、という具合だ。

 A&Rが曲を選び、担当アーティストにふさわしい方針を定め、歌うキーを決め、アレンジャーを選定し、選ばれたアレンジャーはミュージシャンを押さえる仕切り屋を使う。 仕切り屋は例外なく年かさのミュージシャンで、自らが連れて来るセッション・ミュージシャン全員の代理人および組合の代表的な役割をする。 A&Rはアレンジの細かな諸々とミュージシャンの選択に関わることもあれば、関わらないこともある。 大半のA&Rにはお気に入りのレコーディング・エンジニアがいて、ほとんどの場合、誰が働いているかを基準にしてスタジオを選ぶ、当時、フリーのエンジニアはいなかったからだ。これらすべてが予算の範囲内で行なわれる、予算はA&Rが立て、社の上司の承認を得たものであり、以降はすべてそのA&Rが管理する。 続いてA&Rはセッションを監督し、エンジニア、アレンジャー、ミュージシャン、アーティストが自分の納得のいく仕事をしてくれるよう、常に目を光らせておく。願わくは、サウンドも自らが思い描いたとおりになるよう努める。というわけで、スタジオの成功においてエンジニアが極めて重要な存在であること、そして技術力と創造性というわかりきったもの以外にも、人間性や音楽の趣味の多様性が問われることが、かなり早い段階で明らかになった。

 IBCはヨーロッパ随一の機材を誇る独立系スタジオというだけでなく、エンジニアリングの幅広い才能にも恵まれていた。その筆頭がエリック・トムリンソンで、彼はわたしが入ったときからすでに上級エンジニアで、間違いなく世界最高のひとりだった。(略)

この上なく複雑なオーケストラものであっても、ランスルー(通し演奏)をたった1回聴いただけですべて記憶し、バランスを調整し、レコーディング態勢に入れた。彼にはとても親切にしてもらい、わたしはその匠の仕事ぶりから多くを学ばせてもらった。

(略)

 偉大なる故ジョー・ミークはIBCをたまに使った。彼は自宅に自前のスタジオを持っていて、そこでかの非凡なサウンドを育んだわけだが、しばしばIBCにテープを持ち込んでは、同社の自家製イコライザーのひとつに通し、サウンドを軽く元気づけていた。(略)

彼は優れた革新的エンジニアで、寡黙で優しく、過大なエゴとは無縁の人物に思えた。

ジミー・ペイジ、ニッキー・ホプキンス

 わたしがIBCに就職してからの2年間、週末はレコーディングの予定がまったく入っていなかった。なので、日曜は自分たちのプロジェクトをスタジオで録っていいことになった。

(略)

その時間を利用すれば実験ができる、コンソール卓での経験も少しばかり積めると気づいたわたしは、僕が仕切る日曜のセッションは無料でスタジオが使えるぞと、知り合いに触れ回った。この言葉に惹かれて、やる気に満ちた若いミュージシャンが団体でやって来た。そのひとりがジミー・ペイジで、彼の噂は友人のコリン・ゴールディングからすでに耳に入っていた。ふたりともキングストン・アート・スクール(略)の学生で、エリック・クラプトンもそこに通っていた。わたしはジミーに、君にならちゃんと金をもらえるセッションの仕事を取って来られるかもしれない、と伝えた(略)

あれよあれよという間に、ビッグ・ジム・サリヴァンに代わり、ロンドン随一のセッション・ギタリストの座についた。

 シリル・デイヴィスは、ある日曜日にふらりと現われた。優れたハーモニカ奏者でヴォーカリストで、イアン・スチュアート、アレクシス・コーナー、ブライアン・ジョーンズと並び、英リズム&ブルース・ムーヴメントを起こしたひとりでもある。彼は相棒としてニッキー・ホプキンスを連れて来ていた。 わたしがマイクをピアノにセットしに行くと、そこにいたのが、穏やかな声の、極端にひょろりとした、灰色がかった青白い顔の、見るからに何サイズも大きな服を着た若者だった。その立ち居振る舞いには何から何まで、活力がまるで感じられなかった。ところがセッションが始まったとたん、そのプレイにわたしは仰天させられた、それまで聴いたことがないほど滑らかで、メロディックで、技術的に完璧だったからだ。しかもそれをすべて、最小限の動きとまったく変わらない表情のままやってのけた。その日の終わり、わたしは彼に言った。どうしてこれまで出会わなかったのか不思議でならないよ。君さえ良ければ、ぜひ今後セッションに推薦させて欲しいんだけど、どうかな?それからわたしたちは親友になった。その後長年にわたり、わたしはニッキーをザ・フーキンクス、そしてストーンズのセッションに呼び、彼はイアン・スチュアートがブルースじゃないからと言って嫌がった曲群で常に甚大なる影響力を発揮してくれた。ストーンズの最高傑作群を生んだのは、ニッキーとミック・テイラーがいた時代に他ならないとわたしは思っている。

ローレンス・オリヴィエ

 1960年、私はエンジニアとして初めてコンソール卓の前に座る機会を手にした。それはトラファルガーの海戦を題材にした[録音で](略)

ネルソン提督役のサー・ローレンス・オリヴィエヴィヴィアン・リーと離婚してジョーン・プロウライトと再婚するというニュースがその朝、大々的に報じられたばかりだった。

(略)

興奮した何人もの取り巻き軍団とBスタジオに飛び込んで来たオリヴィエは、全身の穴という穴から湯気をシュウシュウと立てている状態だった。

(略)

 オリヴィエはその日、劇中で最も重要かつ感動的な台詞を読むことになっていた。 トラファルガーの海戦で絶命する前の晩、ネルソンが愛するレディ・ハミルトン宛てに書いた手紙だ。 彼が役の中にするりと入り込み、一気に変容するさまは、まさに見物だった。そのたった一度のテイクが終わる頃、その場にいたわたしたちは全員、呆然として言葉を失っていた。午前中の遅い時間に、若い役者の一団がやって来た。(略)わたしの目にも明らかに、彼らはオリヴィエの存在に恐れをなしていた。が、わずか数分の内に、オリヴィエは皆を和ませ、緊張を解いてやった。真のプロだ。彼は個人的問題をすべていったん脇に置き、周囲の人々や目の前の仕事への意識を最優先させていた。

 IBCで働く面白さは、仕事の多様性にあった。扉を通って次に何がやって来るのかは、予想もつかなかった。午前中の粉石鹸のCMジングルに始まり、午後はトラディショナル・ジャズ・バンド、晩は流行りのポップ・スターを従えた30人編成の楽団。翌日は、60人から成る聖歌隊を伴うロンドン交響楽団をロンドンの公会堂で録る、といった具合だ。

(略)

 わたしがエンジニアとして初めて臨んだ音楽セッションは、ジョー・ブラウンのものだった。これまでに会った誰よりも優しい男だ。彼は当時大スターで、そうなって然るべき人物であり、その日は最新ヒットに続くシングルを録りに来ていた。一方、担当A&Rはパイ・レコードのトニー・ハッチといい、彼もまた巨大なエゴを抱えた不愉快な男だった。それこそ全身これ自尊心のような人間で、50年代のおぞましき英公営住宅群ほどの魅力もなかった。(略)

 ハッチはやって来るや、猛烈な剣幕で怒鳴り散らし、わたしを落ち着かせるどころか、なおさら緊張させた。

(略)

 セッションは首尾良く運んだ。 ジョーは感じが良く、結果に至極満足しているようだった。ところが翌朝(略)[社長に]トニー・ハッチから電話があり、担当エンジニア、つまりわたしの経験不足のせいで昨日は大失敗に終わった、パイ・レコードはIBCにその責任としてセッション費の全額を持たせる意向であると言われたという。(略)

[テープに問題がないことを確認したIBCはハッチに]とっとと失せろ、と伝えた。(略)大口の取引をあっさりと失いかねなかったことを考えると、それはアラン・スタッグの非常に勇気のある決断だった。

イアン・スチュアート、ストーンズ

 1962年、プレジデンツのベーシスト、コリン・ゴールディングからイアン・スチュアート、通称〝ステュ〟を紹介された。コリンによれば、近所の知り合いに面白い男がいて、そいつはジャズとブルースのレコードの膨大なコレクションを持っている。だから絶対に会ったほうがいいという。果たして、その最初の出会いに端を発して育まれた友情は、わたしの人生に莫大な影響を与えてくれた。わたしたちはその日、ブルースに対する関心を語り合った。彼はいたって謙虚で、実はピアノを弾けることを、そしてブルースをこよなく愛する同好の士たちとザ・ローリング・ストーンズなるバンドを組んでいたことをわたしが知ったのは、ずいぶんと後になってからのことだった。 もっと言えば、彼はブライアン・ジョーンズと共にバンドを始めた張本人で

(略)

[家を出ることになり]

同居人候補として考えるに値する人物がステュしかいないことは、初めからわかっていた。ただ、彼は実家で快適に暮らしていた。(略)

彼の気が変わったのは、わたしが家に女の子を連れ込める自由という特典を指摘してからのことだ。(略)

ステュは家財道具のひとつとして愛用のアップライト・ピアノを持ってきた。今でもはっきりと覚えている、朝、わたしが目を醒ますと、居間から何とも美しいブルースの音色が聞こえてきて、ステュが毎朝焼く、わざと焦がしたトーストのおなじみの匂いも一緒に漂っていた。様子を見に行くと、ステュはピアノの前に座っていた。下着のパンツ一枚の半裸姿で、スツールの脇には開いたままの手紙。手紙は昔の恋人からのものらしく、彼はその中身に激しく動揺したのだろう、やり場のない気持ちを収めるのにブルースを弾くしかないという様子だった。(略)

それから1時間かそこら、これまでに出会ったなかでも最高峰に位置するブルース・ミュージシャンが即興で奏でる感情の送りに酔いしれていた。

(略)

[三人目の同居人]ブライアンは広告代理店に定職を持っていて、わたしは昼となく夜となくスタジオで働いていたし、ステュはストーンズのギグで家にいないことが多かった。その家のすぐ先に修道院付属の女子校があり、学生たちは下校途中、ストーンズのバンがうちの車寄せに停まっているのを見つけるたび(略)こぞってそのバンに口紅で落書きをし(略)ボディに隙間がなくなると、彼女たちは窓に書くようになり(略)

オールダムは見かけがそぐわないという独断で、ステュをバンドから外すとの裁定を下し(略)

[ステュは]ロード・マネージャーの職を供された。それはきっと、メンバーたちの彼に対する忠義心に基づく申し出だったに違いなく

(略)

わたしがその決定に対する嫌悪の念を伝えると、ステュは意外にも、「大いに満足している」と言った。「俺はそもそもポップ・スターとして暮らすという考えにはこれっぽっちの魅力も感じていない、それにあいつらはものすごい成功を収める気がする、だから俺にとっては世界を見て回るのに打ってつけの機会になると思う」。

(略)

ストーンズは間違いなく真の果報者だった。優れたピアニストの奉仕を受けただけでなく(略)信頼の置ける友人がロード・マネージャーとして付いていたのだから。キース・リチャーズは昔からいつも語っている。俺は今もスチュのために働いている、俺に言わせれば、ザ・ローリング・ストーンズはあくまでスチュのバンドなんだ、と

ジェフ・ベック

あの界隈の水には何か特別なものが入っていたに違いない。ジミー・ペイジジェフ・ベックエリック・クラプトンにスチュを生んだ地域は、それこそ投網に収まるほど狭かったのだから。

(略)

 ある日、スチュが非常にかわいい、ノルウェー人の若い女性を家に連れて来た。

(略)

[スタジオから明け方に帰ると]目の前に立っていたのは、ジェフ・ベックだった。 スチュが運良くノルウェー人の友達を捕まえたという話をどこかで聞きつけ、彼が不在であることを知り、その留守につけ込むことにしたのだ。(略)

[二度とうちに来るな、と警告したが]

 それから何年も後、ARMSツアー中に、ジェフはわたしに明かした。あの晩の後もこっそり家の裏に回っては、ステュの部屋に窓から忍び込み、同じルートで見つからずに帰りおおせたという。ほぼ毎回、隣の部屋でわたしが寝ていたというのに。

(略)

 ステュはストーンズに徹頭徹尾、平等主義をもって接した。彼は常に歯に衣着せぬ物言いをした。 その振る舞いに気取りは一切なかった。誰に対しても、あけすけな、腹の皮がよじれるほど笑える意見をまっすぐにぶつけていた。メンバーたちはしばしば、そんな物言いを話半分に聞き流してはいたものの、ステュがうまいことを言ってだまくらかそうとする他の連中と違うことは彼らにもよくわかっていたし、わたしが思うに、ステュの言動の多くはバンド全体にもメンバー個々にも極めて前向きな影響を確実に与えていた。彼は毎回、ショウの出番の時間になると、「さあ行こうぜ、俺のかわいい糞野郎ども」と言って彼らを楽屋から追い立てていた。ステュが1985年に早世して以来、ストーンズにそんな口をきいた人間は、間違いなく、この地球上にひとりとしていない。

 彼らがオリジナル曲を書くようになり、進み出した新たな方向性について、ステュは完全には認めていなかった。彼はいわく「チャイニーズ」な、つまりマイナー・コードのものは、一切弾こうとしなかった。要するに、伝統的なリズム&ブルースかブギウギ形式以外のものはすべてお断りだったから、おかげでわたしたちは彼がやらないものをやるために別の人間を入れなければならなかった。

(略)

 ストーンズは長きにわたり代々、素晴しいピアノ奏者を擁してきた。最高の人材ばかりだ。個人的に天才だと思っていたニッキー・ホプキンス、チャック・リーヴェルビリー・プレストン、そして(略)イアン・マクレガン。いずれも独自のスタイルを有するその道のスペシャリストであり、それぞれまるで異なるタイプだったわけだが、ステュが弾いているときのローリング・ストーンズは躍動感が格別だった。ステュが入ると、まるで違うバンドになった。リズム・セクションはまったくの別物になった。わたしがこれまでに耳にしたなかでは、あれがベストの布陣だ。 ステュにはビル、チャーリー、キースと寸分違わず共感しているとしか思えない、並外れた感覚が備わっていた。

次回に続く。