ファンクはつらいよ その2

前回の続き。

ジミ・ヘンドリックススライ・ストーン

 俺たちのインスピレーションの大半は、ロックン・ロール、とりわけロックに革命を起こしていた黒人アーティストを深く吸収することによってもたらされた。最大のインスピレーションとなったのは、もちろんジミ・ヘンドリックスだ。

(略)

[ジミの1stは]壮大で革新的だった。四十七年後の今でさえ、完全理解が困難なほどの先見的な特質を持っており、それはまるで、宇宙からメッセージが発せられているかのようだった。ジミと共演する機会はなかったが(略)

[チェンバース・ブラザーズのパーティで遭遇]

俺たちは圧倒された。彼は内気でソウルフル、控えめながらも実に魅力的だった。

 ジミが最初の雷鳴だとすれば、二番目の雷鳴はスライ・ストーンだ。(略)

彼は、クラブで何年もギグをしてきたアーティストのように、洗練されたR&Bを作ることもできれば、最高にハードなロック・バンドのように、サイケデリックな演奏もできた。ジミ・ヘンドリックスはロンドンで新たなサウンドを見出したが、スライはサンフランシスコで同じ事をやっていた。

(略)

スライには全てを吸収する能力があった。スライは、ビートルズと同じことができた唯一のアーティストだ。ビートルズには四人いたが、彼はひとりでそれをやってのけていた。初期のスライは、俺に多大な影響を与えた。彼は何年も俺に影響を与え続けていたが、後に俺のコラボレーターとなり、音楽的パートナーとなった。

ファンカデリック

ソウル・サーキットだけでなく、未知の領域だったロックン・ロールの会場でも公演を行った。黒人アーティストの中で、俺たちのような音楽をやっている者はいなかった。〈Time Has Come Today〉を一九六八年の秋に大ヒットさせたチェンバース・ブラザーズのようなバンドは、チャートを賑わしていたが、その音楽は極めてポップだった。(略)

ウォーは、素晴らしいサウンドを作っていたが、その中にはラテン音楽やジャズまで入っており、ストレートなロックではなかった。天才のスライですら、主にポップの領域で活動しており、大抵の場合はチャート・ヒットを狙っていた。

 俺たちはロックへと一直線に突き進み、大きく開花した。最初から、俺たちのステージはクレイジーだった。ファンカデリックがスタイルを確立する前、俺たちはウェスト・ヴィレッジ流に着飾りはじめていた。(略)

〈Music for My Mother〉がヒットした後のツアーでは、バカげていればいるほど良いとばかりに、とことん奇抜な格好をした。俺たちは、小道具を売る店に足を運び、アヒルの足や、鶏の頭を買った。つばの大きなアーミッシュ調の帽子もあった。そして俺は、ステージ上でおむつを履きはじめ、ある時はホテルのタオル、またある時はアメリカの国旗を使っておむつを作っていた。しかし、ステージ衣装で最も過激だったのは、バンドの全員が奇抜な格好をしていたわけではないという点だ。数人はそうだったが、カルヴィンのようなメンバーは、未だにスーツを着ていた。観客側から俺たちを見ると、あらゆる要素が衝突していた。想像できる限りのあらゆるスタイル、さらには予想外のスタイルまでが、一度にぶつかりあっていたのだ。

(略)

バンドには、ヘンドリックス並みの爆音で演奏できるギタリストが二、三人おり、バーニーは、キング・クリムゾンさながらにクラシック調の彩りを添えていた。

(略)

あまりに広いジャンルで公演をブッキングしていたため、俺たちは次第に、観客の層に合わせて演奏することを覚えた。観客が最新のダンスに興味を持つティーンエイジャーの場合は、アップテンポで曲を演奏する。新しい考え方にまだ馴染むことができない黒人が大半を占める観客を前に、ジャッキー・ウィルソンやチャック・ジャクソンの前座として演奏する時には、ラジオ向けの長さで曲を演奏し、〈Testify〉に遡った他、〈Gypsy Woman〉や〈Knock on Wood〉のカバーをやる。また、フィルモアのような会場の場合は、観客にミュージシャンが多いこともあるため、エディやバーニーにソロの腕前を披露させるといった調子。最も寛大だったのは、グレイトフル・デッドのようなバンドのファンで(略)俺たちが情熱を傾けて演奏さえすれば、白いTシャツでステージに上がっていてもかまわなかった。

インヴィクタスと契約

こうした背景の中、ファンカデリックは変貌する文化の寵児となった。デトロイトでは、俺たちはスライよりも人気があった。デトロイトでの俺たちは、ビートルズさながらで、誰もが前途有望だと認めるヒップなバンドだった。俺たちがトゥエンティ・グランドで公演をすると、観客の中にはジーンズとミンクのコートに身を包んだモータウンの人々が大勢いた。俺は下着もつけずにシーツ一枚の姿で、ステージから彼らのテーブル に歩み寄ると、ドリンクを頭からかぶって、彼らをからかったものだ。当時の俺は、坊主刈りにした頭に、ペニスと星の絵を描いていた。王様が道化師を面白がるように、モータウンの人々も楽しんでいた。俺が公演中、ベリー・ゴーディダイアナ・ロスに小便をひっかけたという噂もあったが、それは坊主頭にかけたワインが流れて、シーツにこぼれ落ちていただけだ。

 俺たちはヒッピーで、ヒップだった。その理由のひとつは、ビジネスの経済的側面の変化を理解していたことにある。サム・クックの時代、R&Bシンガーにとって最大の野望は、コパカバーナ公演や、ラスヴェガスの大クラブでの公演で、それが想像しうる最高地点だった。しかし、ロック・バンドは皆、マディソン・スクエア・ガーデンを満員にしている。なぜ俺たちはローリング・ストーンズになれない?なぜ俺たちはクリームになれない?肌の色の違いだけならば、それは俺たちにとって問題にはならなかった。俺たちは、最高に格好良い曲と、最高に騒々しいギターにと、最高のシンガーを擁していたのだから。

(略)

 反体制という地位を確立し、それが利益を生みはじめると、体制側の人間が、新たな投資を狙って近づいてくる。(略)

[ホーランド=ドジャー=ホーランドがホット・ワックスとインヴィクタスを立ち上げるためにモータウンを去ると、ジェフリー・ボーエンも一緒に退職]

ファンカデリックのシングルがヒットしはじめ、デトロイトとその周辺でナンバー・ワンを獲得すると、ジェフリーはすぐさま俺に連絡してきた。「ザ・パーラメンツを再始動して、ポップ・アルバムを作ろう」と。

(略)

俺はインヴィクタスよりもホット・ワックスと契約したかった。というのも、ホット・ワックスは、業界でも屈指の独創性を持つニール・ボガートが運営していたからだ。彼と運命をともにすれば、俺たちは成功する。俺はそう確信していた。しかし、インヴィクタスはキャピトルが配給しており、キャピトルは白人ロック・アクトを多数擁し、ブラック・ポップ・バンドの獲得にも熱心だったため、俺たちはインヴィクタスに配置された。ほとんど間髪を入れずに、俺たちはザ・パーラメンツからパーラメントへと改名した。

(略)

 インヴィクタスでのアルバム制作は、まるでコメディのようだった。モータウンでは、ベリー・ゴーディ(略)が出社すると、「会長がお見えになりました」とアナウンスが流れた。モータウンの出世頭だったホーランド = ドジャー= ホーランドは、新レーベルを設立すると、自らを手の届かない存在に祭り上げ、エディ・ホーランドがベリー・ゴーディの役を担った。エディは、同室している者にも直接話しかけず、ジェフリーを通して意思を伝えた。彼は権威的に振る舞い、傲慢な印象を与えたが、俺はあまり気にしていなかった。どちらにせよ、俺たちは反逆者だ。彼の偉そうな言動は、俺たちのサイケデリックな言動と同様、生きるための戦略であると、俺は悟っていた。(略)

実のところ、俺は表向きのイメージよりも遥かに控えめで、冷静で、慎重な人物だ。だからこそ、クレイジーなスタイルを貫徹することができた。

アシッドで痔、商業化されたドラッグ

 《Osmium》の(略)ジャケット写真の撮影は、最も鮮烈な思い出のひとつだ。撮影はトロントで行われた。俺はシーツだけを身にまとい、各メンバーはヒッピー風に着飾った。最も思い出深いのは、俺たちが当時、とてつもない量のアシッドをやっていたことだ。(略)肉を食べてアシッドをやると、肉にも幻覚が見えるようになる。まるで生きているかのように、肉が脈動しているように見えるのだ。あれは恐ろしかった。しかし、さらに酷かったのが、俺たちの胃の荒れっぷりだ。アシッド (酸)とは言いえて妙で、LSDは酸性だった。LSDは、消化器官を刺激し、尻も破裂させる。俺たちは当時、常人の想像を超える時間をトイレで過ごした。誰もが痔主だった。

(略)

酷く暑い日で、塩気のある汗が、皆の尻の穴に入った。阿呆どもは、赤ん坊のように泣いていた。さらに、花園には蜂がいた。あの撮影がスチール写真ではなく映画だったら、皆が恐れおののきながら、蜂に尻込みしたり、蜂を叩いたりしている姿が見られただろう。

(略)

六十年代の理想主義(略)は、ほぼ完璧な形で成熟した後、発酵しはじめた。ウッドストックが終焉だった。ウッドストックがドラッグにどんな影響を与えたかを見ればわかる。ドラッグが社会に循環する方法が変わったのだ。長年の間、ドラッグはコミューンで行われていた。ドラッグは、友達と共有するものだった。誰かがテーブルの真ん中に金を置くと、二人、三人と金を出し、四人目がその金を全て拾い上げて、皆のためにマリファナを買いに行った。誰も販売については語らなかった。販売について語られなかったため、誰もドラッグを商品と見なしてはいなかった。そのため、粗悪品や劣悪なサービスといった問題もなかった。しかしそれから、突如としてドラッグは産業となり、全てが百八十度変わってしまった。品質が大きな問題となった。

(略)

ドラッグが商業目的となると、ドラッグの良さが即座に失われた。しばらくすると、少しでも利益を増やそうと奮闘する小事業主が何千人も誕生し、彼らは利益のためなら人々に毒を盛ることすら厭わなかった。こうして、LSDの中にストリキニーネが混入されはじめた。また、娯楽用ドラッグにPCP (フェンサイクリジン)が混入された。(略)

 同じことがセックスでも起こった。フリー・ラヴが素晴らしい時期もあった。人々は無邪気に恋に落ち、セックスすることについても何ら問題はなかった。この状況は永遠に続くものではなく、ゆくゆくは誰もが仕事に戻り、結婚をして家庭を持つと、皆がわかっていた。フリー・ラヴは、素晴らしい思想だったが、それも音を立てて崩れ去った。七十年代初頭から、より恐ろしく致命的な性病が、忍び寄りはじめたのだ。

 これら全ては、社会的な運動があくまで表面的なものに留まり、権力構造には何ら変化を与えないようにするための方策だった。ピース・アンド・ラヴのメッセージは、心の底から誠実に発せられない限り、陳腐極まりない。そして一時的に、このメッセージは心の底から誠実に発せられていた。戦争は終わろうとしていた。若者文化は、耳を傾けられようとしていた。女性は尊重されようとしていた。しかし、車輪が回りはじめたことに気づいたお偉方は、その車輪を止めようと、介入したのだった。俺は今日に至っても、国務省が文化戦争終結の動きに一枚噛んでいたはずだと思っている。

《Free Your Mind》《Maggot Brain》

[ファンカデリック2ndを制作]

一方、俺はプロテスト・ソングとは別の方向に進んだ。俺には、社会的・心理的な事柄、特にその中でも生、死、社会統制といった最もシリアスな考えには、可笑しさがあるように思えた。そして、そこに留まり、喜劇と悲劇、現実と非現実の間のスペースに漂うと、一種の知恵のようなものが生まれてきたのだ。

 誰よりもこれに長けていたのは、もちろんビートルズボブ・ディランだ。だからこそ、彼らはこの時代を生き延びただけでなく、その後に起こったあらゆることの基調を定めた。しかし、代弁者としての重圧がのしかかりはじめ、ファンや記者が深遠な思想を探しはじめると、彼らはこうした重圧や期待をかわせるだけの鋭い直感を持っていたため、わざと突飛なことを言った。

 彼らは、ナンセンスから芸術を創り出した。ジョン・レノンが、ビートルズはキリストよりも有名だと言って騒ぎを起こした時も、彼は社会問題の代弁者に祭り上げられないよう、皮肉を込めて横柄にナンセンスな発言をしたのだった。彼は人々に捕まらないよう、掴みどころのない発言をした。それは彼の作品にも入り込み、〈I Am the Walrus〉のような曲にもはっきりと見て取れた。この曲が深遠なのは、誰もが浅薄であることを歌っていたからだろうか?あるいは、深遠であるという考えを物笑いの種にしていたのだろうか?それとも、人々の心をより大きく開こうとしていただけなのだろうか?ボブ・ディランも同じだった。しかし、俺が彼の流儀を理解するまでには少々時間がかかった。最初は、彼がことのほか正直に思えた。ギターを手に、鼻にかかった声で、愛と政治について歌う、ひとりの男。しかし、彼のインタヴューを見はじめると、とりわけ彼が吟遊詩人モードから抜け出した時に、彼の本質をより明確に理解できた。

(略)

また俺は、精力的に読書をした。ブラック・パンサーの本、小説、三文小説、アンダーグラウンド・コミックの他、ヒッピー時代の名作と現在考えられているベストセラーは全て読んだ。当時、特に大きな影響力を誇った本の中に、エーリッヒ・フォン・デニケンの『未来の記憶 (Chariots of the Gods)』がある。誰もがこの本を持っていた。デニケンは、ピラミッドからミステリー・サークルに至るまで、人類の歴史で最大の功績は、宇宙人が成し遂げたものであるという理論を掲げていた。

(略)

こうしたシリアスな知恵、歴史的陰謀すれすれの興味深い理論の全てが、俺の頭の中で融合した。もしくは、これらがアシッドの中で溶解したといった方が正しいだろう。《Free Your Mind..and Your Ass Will Follow》の大半は、LSDを使って制作された。ギターのサウンドやプロダクションを聴き、歌詞や曲のタイトルを見れば、それがわかるはずだ。

 またここから、本当の意味でブラック・ミュージックの新段階が始まった。

(略)

一九七〇年の夏、マーヴィン・ゲイはスタジオに入り、《What's Going On》の制作を開始した。さらに同年、スライ&ザ・ファミリー・ストーンが、《What's Going On》のアンサー・アルバムともいえる《There's a Riot Goin' On》のレコーディングを開始した。《Free Your Mind》は、この新トレンドに先んじてリリースされた。

 俺もマーヴィンやスライと同様の責任を感じてはいたが、彼らとは対処の仕方が異なった。俺は皆とアシッドでハイになっていたから、テープを回し、バンドが演奏を始めると、歌詞やモノローグ、スローガンを即興で作りはじめた。

(略)

 《Free Your Mind》がリリースされたちょうどその頃、ジミ・ヘンドリックスが死んだ。これで明らかに一時代が終わった。一九六九年五月、彼はトロントにやってきて、逮捕されていた。荷物検査の際、荷物からドラッグが見つかったそうだ。しかし俺は、こっそりドラッグを仕掛けられたのだろうと思った。すぐ見つかる場所にドラッグを持つバカなどいないだろう?だから彼の訃報を聞いた時にも、俺は彼が殺されたのだと考えた。俺が思うに、彼が作っていた音楽は体制側にとってあまりにも大きな脅威となっていたのだろう。

(略)

スタジオで可能なこと、レーベルがリリースできる音楽には限界があった。しかし、《Free Your Mind》のようなレコードでは、スタジオ技術が俺の頭の中で流れるサウンドに追いつき、俺はとうとう、重く歪んだ奇妙なレコードを制作できるようになった。

(略)

俺は、スタジオをクリエイティヴな実験室として使い、サイケデリック時代のエネルギー全てを保存しようと試みた。ヒッピー文化の衰退、インナー・シティの腐敗、合法および違法な意識拡張といった外部的な現象と、内部的な状況が一体となったのが、一九七〇年終盤だ。この頃、俺たちはデトロイトのユナイテッド・サウンドに戻り、ファンカデリックのサード・アルバム《Maggot Brain》をレコーディングした。

(略)

これが不朽の名曲となったのは、曲が続く十分間の大半で聞かれるエディ・ヘイゼル のギター・ソロのおかげだ。もちろん、このソロをレコーディングした時のことは覚えている。決して忘れることはないだろう。

 エディと俺はスタジオで、恐ろしいほどハイになっていたが、自分たちの感情に意識を集中させていた。バンドはジャム・セッションをしていた。彼好みのスロウなグルーヴで、俺たちは彼のソロを始めようとしていた。彼が演奏を始める前に、俺はこう言った。母親が亡くなったかのように演奏してみろ。その日を想像し、どんな気持ちになるか、どのようにその悲しみを消化し、ギターを通じて心情の全てを表現するか?

(略)

エディは、バンドの演奏する昔ながらのスロウなジャムに乗り、ソロを弾いた。俺はトラックから他の楽器を全て取り除き、エコープレックスを四、五回かけた。こうして、演奏の面でもサウンド・エフェクトの面でも、曲全体に不気味な雰囲気が加わった。曲の冒頭にカサカサという雑音が入っているが、これは蛆虫が頭で湧いている音なのか、と尋ねられることがある。しかし、そうだとは答えられない。俺はただ、何か奇抜で新しいことをやろうとしていただけだ。画期的なエフェクトは、こうして誕生することが多かった。この数年前に、スライ&ザ・ファミリー・ストーン は〈Sex Machine〉という曲をレコーディングしていたが、スライのヴォーカルは、電子的処理を施されたかのように聞こえた。しかし実際のところ、彼は紙で覆ったトイレットペーパーの芯に向かって歌い、その声をワウワウ・ペダルに通していただけだ。また、モータウンでは、コーラの箱を踏みつけて、パーカッションの音を出していた。一方で俺は、ミキシング・ボードでエフェクトをかけながら、そのエフェクトでどんな雰囲気が出るかをモニターし続けた。

《Cosmic Slop》

 《Cosmic Slop》は、風変わりなソングライティングで政治的な曲を書くことができるという一例だ。

(略)

 俺たちが進化する中で、ブラック・ミュージックのアイコンたちは過渡期にあった。ジェイムズ・ブラウンにとっては、納得のいかない時代だった。彼は以前と同じように活動していたが、シングルに力を入れていた。ところが、シングルの市場は衰退していた。この時期の彼の作品で、アルバム全篇を通じて素晴らしかったのは、一九七二年にリリースされたアポロでのライヴ盤だけだ。ステージ上の彼は、四十代になっても相変わらず圧倒的だった。そして俺は、数多くのバンドが、彼と同じエネルギーを取り入れようと試み、全キャリアを賭ける姿を目にした。他のバンドは、バッファローのダイク&ザ・ブレイザーズ、ワシントンDCのチャック・ブラウン、ニューオーリンズミーターズと、局地的なスターだった。

 俺はこうしたバンド全ての活動を追っていたが、より広い客層にアピールすることに関心があったため、レッド・ツェッペリンザ・フージミ・ヘンドリックスといったロック・アーティストのことも念頭に置いていた。《Cosmic Slop》のレコーデ ィング中、俺は絶えずジミのことを考えていた。彼の音楽がどこからスタートし、どれほど遠くまで進んだかについて思いを巡らせていたのだ。実際、彼は《Electric Ladyland》で宇宙へと行ってしまったため、《Band of Gypsies》では地球に戻ってこなければならなかった。後者は傑作だったが、より保守的で、コンテンポラリーなR&Bを彼なりに解釈した作品だ。ジミだけではなかった。エリック・クラプトンも、クリームから戻ってくると、伝統的なロックン・ロールを作りはじめ、これがルーツ・ミュージックへと変化した。スライも宇宙にいたが、長居はできなかった。

〈Let's Take It to the Stage〉ステージで勝負だ

当時は常にバンド間で対抗意識があり、俺たちが売れはじめると、競争はますます熾烈になった。グループは、お互いに嫉妬しはじめた。アース・ウィンド&ファイアーとジョイント・コンサートをしたことがあったが、彼らは俺たちの演奏を阻んだほどだった。〈Let's Take It to the Stage〉とは、「俺たちは口論も喧嘩もしない――ステージで勝負しよう」という意味だ。借りを返すために、俺たちは他のバンドにバカげた名前をつけた。ジェイムズ・ブラウンは、ゴッドファーザーではなくゴッドマザー。ルーファスには、スルーファス。そして、アース・ホット・エア&ノー・ファイアーなんて名前もつけた。ファンカデリックは、頻繁にこれをやるようになった。他のポップ・カルチャーについて語り、競争相手を陽気に口撃する。十五年後に、ヒップホップ界で人気となることをやっていたのだ。

 ある日、俺たちはロサンゼルスのハリウッド・サウンドで、ロック・ギターを前面に出した〈Get Off Your Ass and Jam〉をレコーディングしていた。エディ・ヘイゼルは不在で、この曲でギタリストを務めたマイケル・ハンプトンは、リズム・ギターのために組み合わせたピグノーズのスタック・アンプを試していた。俺たちがテイクをひとつ終えて休憩していると、ヘロイン中毒のホワイト・キッドがスタジオに迷い込んできた。(略)演奏するから現金を融通してくれないかと尋ねてきた。「ソロができる曲はないか?二十五ドルくれれば弾くよ」(略)

準備をし、トラックをスタートすると、彼はまるで憑かれたかのようにギターを弾きはじめた。曲の全篇で、これまでのロックン・ロールを網羅したかのような演奏をし、曲が終わっても、演奏を止めなかった。俺たちは皆、驚いて目を丸くしながら、「すげえな」と声を上げた。二十五ドルの約束だったが、俺は五十ドルを渡した。それほど気に入ったのだ。彼は金をポケットに入れて立ち去った。それだけのことだった。トラックを聴きかえすと、俺はさらに感銘を受けた。〈Get Off Your Ass and Jam〉は、最高に格好の良い曲だった。(略)他の曲でも起用したいと思い、俺はこの男を探したが、彼は姿を消し、再び姿を現すことはなかった。連絡も来なかった。この曲で彼がクレジットされていないのは、彼が一体誰だったのか、俺たちにも全くわからないからだ。

エアロスミス

 Pファンクのステージ設備は、エアロスミスが一九七六年に使い終えたもののお下がりだった。俺たちとエアロスミスには、間接的な関わりがあった。バーニーは、チャビー&ザ・ターンパイクスでジョーイ・クレイマーと一緒に演奏していたし、俺たちとエアロスミスは一時期、マネージャーが一緒だったこともある。奇妙な話だが、俺は彼らをファンク・バンドと見なしていいた。〈Rag Doll〉のような後年の曲からもわかるように、彼らはリズムに合わせて、緩やかに演奏していた。彼らの他にこれができたロック・バンドは、レッド・ツェッペリンだけだ。しかし、レッド・ツェッペリンがそういった演奏をしたのはステージの上だけで、スタジオではエフェクトを駆使し、複雑な音楽を作っていた。

 そして宇宙船――これは、俺の期待以上の出来だった。五十年代後半から六十年代前半のアメ車に、児童公園にある遊具と巨大な昆虫を混ぜたような外観で、見事だった。宇宙船の底部から手品師のキャビネットのようなブラック・ボックスに入ると、エレベーターが上昇する。スモークが激しく焚かれて照明が眩く光る中、俺は階段の頂上から登場するのだ。宇宙船は壮観だった。ソウル・ミュージックでは、お目にかかれない代物だった――さらにいうなら、ロックン・ロール でも前代未聞だった。それはまるで、趣向を凝らしたブロードウェイのミュージカルのよう、もしくは、数十年後のラスヴェガスのショウのようだった。

興行主とラジオDJ

 俺たちは、他にも革新を起こした。従来のシステムは、興行主とラジオDJが金銭的な責任と利益を分かち合っていた。ラジオDJは、コンサートを主催してはいけないことになっていたが、俺たちは、そのシステムを出し抜く方法を彼らに教えた。彼らの妻に興行主の免許を取らせたのだ。(略)

これによりラジオDJは力を与えられ、俺たちと喜んで仕事をするようになった。

(略)

 それでも問題は生じるもので、ちょっとした論争が起こった。俺たちがマザーシップとツアーを始め、そのライヴの観客動員数が多いことが明らかになると、公平性が欠如していると嘆きはじめる人々が現れた。彼らの考える公平性の欠如とは、主に人種の話だった。アトランタのある集団は、俺たちが黒人興行主を使っていないという理由で、俺たちのショウで抗議行動をしようと、公民権運動家のホセア・ウィリアムズを雇った。(略)

[調査にやってきたホセアに]彼が知らなかったことを話した。俺たちは大きなアリーナやスタジアムで公演をするようになると、チケット一枚につき二十五セントをユナイテッド・ニグロ・カレッジ・ファンド (黒人大学連合基金)に寄付するようになり、それを何年も続けていたのだ。また、コンサートには何万人もの観客が動員されるため、金額も大きくなっていた。ホセア・ウィリアムズはその事実を知ると、ブリーフケースを閉じて立ち去った。「ここには何もない」。彼はそう言った。

 それでも、粗探しは終わらなかった。白人の興行主は逆の面で憤慨していた。俺たちが抗議隊のプレッシャーに屈し、黒人の興行主しか雇わなくなるのではないかと心配していたのだ。全員をなだめ、それと同時に自分たちのやりたいことをそのまま続けるために、俺たちはダリル・ブルックスとキャロル・カーケンドールを雇い入れた。ワシントンDCでタイガー・フラワーという会社を経営していた黒人男性と白人女性だ。

(略)

[キャピタル・センターの]周りで抗議行動をしていた男性と話をつけた。Pファンクに抗議したところで何の得にもならないことがわかると、彼は今後、抗議者が出た時の対応を手伝うと申し出てくれた。政治同盟のほとんど全てが、結局はこんなふうになる。敵対する人物はいるかもしれないが、なだめて仲間に引き入れることもできるのだ。誰もがパンを持ち、好みの面にバターを塗りたがる。全ては、これに気づくかどうかの問題なのだ。

 その後、九十年代に、マイケル・ジャクソンの父であるジョー・ジャクソンの家で首脳会談が行われた。ジャネット・ジャクソンは白人の興行主ばかり使っていると怒りを買い、ボイコットの話まで出ていた。俺たちはミーティングに到着して話を少し聞くと、アーチー・アイヴィーが登壇し、意見を述べた。「俺たちもこれに賛同したい。俺たちはもちろん、ブラック・ビジネスの味方だからな。しかし、この部屋を見回してみても、お前らのうちの半数が、俺たちにきちんと金を払ってないじゃないか。これじゃあ、ジャネットに反対したり、彼女の選択の自由を否定したりする気にはなれないな」。

ファンク、カサブランカ、ドラッグ天国

突如として、ファンクはメインストリームのポップ・ミュージックな会話にも登場するようになった。限られた規模ではあるが、以前もこれと同じことが起こった。スライがクロスオーヴァーし、ポップ界のスターとなった時だ。しかし、スライは先駆者であると同時に天才で、彼自身が独自のジャンルだった。実際のところ、七十年代には誰もファンクにはなりたくなかった。少なくとも、ファンクとは呼ばれたがらず、誰もがポップやクロスオーヴァーになりたかった。その理由は、ジャンルによって予算が決まったからだ。イギリスのロック・グループはアメリカに進出すると、予算を増やした。しかし、黒人アーティストの場合、予算は比較的少なかった。《Mothership Connection》と《The Clones of Dr. Funkenstein》では妥当な前払金を手にしたが、ロック・バンドには遠く及ばなかった。俺たちは黒人アーティスト向けの予算を“ジュニア・バジェット”と呼んでいた。

 《The Clones of Dr. Funkenstein》の後、金回りは良くなった。俺たちは、チャートの常連であることが証明されたのだ。パーラメントの次作で、ファンク人気はさらに高まるだろう、と誰もが考えていた。 しかし、この新たな環境を活かすことのできないバンドも存在した。例えばオハイオ・プレイヤーズは、俺の大好きなバンドだ。ずば抜けた才能に恵まれ、ホットなグルーヴと、見事なライヴ演奏の手腕を有していた。しかし彼らは、バンドの成長期に大観衆の前で定期的に演奏していなかったため、大ヒットを放ってレコード制作のために多額の金をもらうようになっても、より大きな会場での演奏に適応することができなかった。(略)

俺たちと一緒にヒューストンのサミットでコンサートをした時、彼らは小さなコラム型スピーカーを持ってやってきた。振ると反響するようなスピーカーだ。彼らは、会場がどれだけ大きくてもそのスピーカーを使うと言い張ったが、それはまるで、アリーナの中央に高校の体育館を置くようなものだった。

 俺たちは、他のバンドに対してある程度のライヴァル意識を持っていた。少なくとも、常に周囲を見回し、ライヴァルの動向を意識していた。当時、俺たち以外で最大の黒人グループは、アース・ウィンド&ファイアーだったが、活動内容は大きく異なっていた。彼らは早い時点でハードなファンクを諦め、クロスオーヴァー・ポップへと鞍替えしていた。しかし、 それでも俺たちのマザーシップを作ったジュールズ・フ ッシャーを雇い入れると、ステージで使うピラミッドをデザインさせていた。その他には、キャメオやリック・ジェイムズなど、俺たちと一緒にツアーすることもあった新進アーティストや、ファンク・バンドとして再出発したバーケイズのようなヴェテランのソウル・グループがいた。

 そんな俺たちにも、ライヴァルのいない場所がひとつあった。カサブランカの内部だ。カサブランカには、モータウンのような社内プロデューサーはいなかった。ジョルジオ・モロダードナ・サマーをプロデュースし、ケニー・カーナーとリッチー・ワイズはキッスをプロデュースし、俺たちは俺たちでプロデュースした。このように、重複がなかったため、モータウンのような競争はなかった。その代わり、他のアーティストは同僚のようだった。社内で偶然顔を合わせる機会もあったが、俺たちはお互いを祝福し、キッスがハードロック、ドナがディスコを制覇する様を感嘆しながら見守っていた。こんなことができる環境が整ったのは、主にニールのおかげだろう。彼はあまりに行動が速く、頭も切れたため、彼についてこられるレーベルなど存在しなかった。また、セシル・ホームズからジーン・レッドに至るまで、レコード・ビジネスについて業界内でも屈指の知識を誇るヴェテランを擁しており、社内基盤も整っていた。

 クリエイティヴな面でも、財政的な面でも、あらゆる面において、カサブランカは真の成功例に思えた。あらゆる面の中には、もちろんドラッグも含まれる。カサブランカは、ドラッグ天国だった。コカインを鼻から吸引しながら、電話の応答をしていたほどだ。しかし、当時は特におかしな行動でもなかった。 あの頃、コカインは日常の摂取物だった。ハリウッドもやっていた。ウォール街もやっていた。市井の人々もやっていた。レコード会社の重役と昼食に行けば、食事の途中で重役はポケットからコカインの瓶を取り出し、テーブルに瓶の中味を出して吸引していたものだ。昼食の席でも、全く公の場でもそうだった。

(略)

ミュージシャンの大半は常時マリファナを吸っており、そのうちの少数はヘロインやエンジェルダストのようなハード・ドラッグをやっていた。最高のドラッグは、クエイルードだった。これはコカインと並んで、カサブランカの皆がやっていたが、セックス用のドラッグだ。あのドラッグをやると、セックスがしたくなる。幸運にも、クエイルードで一晩過ごせる時には、まさしくセックスで夜を明かすことになった。若くて美人の秘書やバックアップ・シンガーと親密になるだけでなく、不細工だと思っていた女でも、クエイルードを飲めばすぐに股間が疼きはじめ、そんなことは全く気にならなくなるのだ。(略)すぐさま勃起できたし、勃起せずに射精することもできた。女性陣もクエイルードを大いに気に入っており、「714」と印刷された小さな錠剤で、楽しい時間は約束される。しかし、クエィルードは忽然と姿を消し、どこにも見あたらなくなった。一時的にレモンと呼ばれるメキシコ産の代替品が出回ったこともあったが、本物のクエイルードの効果には及ばない。俺にはどうしても、政府がクエイルードを消したとしか思えない。あそこまで効果のあるものは、消えてなくなるものなのだ。

(略)

ロックン・ローラーは、ショウの後に気分を鎮めたり、思考を拡張したり、もしくは女と楽しむためにクエイルードを愛用した。しかしちょうどその頃、ディスコが台頭しはじめる(略)

俺がすぐさま気づいたのが、ディスコ・ピープルはファンキー・ピープルとタイプが違うということだ。ファンキー・ピープルは貧しい人が多い一方、ディスコ・ピープルは金持ちのパーティ愛好家だった。異性愛者もいたが、多くが同性愛者で、大半が物質主義者だった。金持ちがパーティすると、退廃的になる。あまりにも金があり、欲しいものは何でも買える。あまりにも多くの物を手に入れすぎて鈍感になり、ドラッグやセックスでは満足なハイを味わえなくなるため、特別待遇を受けることでハイになるのだ。

 ディスコの台頭で、俺はそんなことを感じはじめた。パーティ会場には、メルセデスランボルギーニが四台並んで停まっていた。また、ドラッグをやっている金持ちは、あらゆる意味で注文が多いことに気づかされた。彼らは最高のセックスとドラッグを要求し、一刻も待ってはいられなかった。彼らはポッパーのようなドラッグを好んでいた。俺たちもバーバーショップ時代にポッパーを試したことがある。当時は処方箋なしで購入できたのだ。ポッパーとは心臓用の薬、アミル・ニトライトだった。このドラッグの作用を知らずに試せば、自分がおかしくなったと思うことだろう。汗をかき、毛穴が開き、三十秒ほど爆発的な快感が訪れる。ディスコ・ピープルはこれをセックス用のドラッグとして使っていたが、ポッパーにはクエイルードのようなクールさやセクシーさはなかった。激しくて、少し危険。手早いセックスのためのドラッグだ。

 俺の本質は未だヒッピーだったため、ディスコに興味を引かれることはなかったが、ディスコに楽しませてもらうこともあった。

(略)

 ドラッグは問題だったが、問題だと思わなければ、問題にはならなかった。同じことがセックスにもいえた。当時、自分は性的倒錯者なのではないか、セックス中毒なのではないか、と誰もが心配しはじめ、高額な精神科医に通いはじめていた。それがハリウッドの流行だったのだ。何か異常なところはないものかと願いながら、誰もが精神科医にかかっていた。俺自身も、セックスを専門とするハリウッドの精神科医のもとに通った。ソングライティングの助けになるかもしれないと、女医と会話をして情報交換をしていたのだが、蓋を開けてみると、どんな患者よりもこの女医が一番の色情狂だった。彼女は異常な状況や環境に精通しており、誰かが特に異常な話をすると、その話で興奮を味わっていた。彼女の名前は教えられない。患者と医師の守秘義務というやつだ。

次回に続く。