前回の続き。
ジェイムス・テイラー
一九七〇年、私は再び自分で歌詞を書くことに挑戦し始めた。もしかしたら今度こそ、人前で誰かのために演奏する勇気が出るかもしれないと期待して。それまでも家計のため自分で作詞することを考えたが、結婚生活に自信を失った時期の思い出を引っ掻き回すのは辛かった。私はジェリーの才能、豊かな知性、技術、実績に圧倒されて、自分の詞を人に見せるなど絶対にできなかったのだ。書きかけで終わっているものも多い。長い間ジェリーと共作し彼の作品の完成度の高さを知り尽くしている私は、作詞の途中で手を止め「別に書かなくても」と思ってしまうのだ。
もしかしたら私一人でも作詞できるのかもしれない、と最初にひらめいたのは、トニの曲作りへの好意的なアプローチを見たときだった。次のひらめきは一九七〇年、数年前からの知り合いによってもたらされる。
(略)
私が二十五歳でまだニュージャージーに住んでいた一九六七年、西四十八番街の音楽ショップでミドル・クラスのリックとチャーリーに出くわした。(略)
「絶対に奴らを見に行くべきだよ。信じられない演奏をするんだ!」とリックが言った。
そのバンド、フライング・マシーンは一晩四ステージ演奏していた。(略)
リックは私を、ドラマーのジョエル・“ビショップ”・オブライエンと、ボーカル、作曲、ギターを手がけるダニー・コーチマーに紹介してくれた。(略)
そのとき、ベーシスト、ザック・ワイズナーの眼差しの先にとてつもなく長身で長髪の男性が、バーの端に控えめに立っているのが見えた。(略)
[ダニーが紹介してくれたが]
ジェイムス・テイラーは「ふん、ふん」とか呟いてそっぽを向き、控え室へ大股で立ち去ったのだった。(略)
後になって、ジェイムスは私の作品に敬意を表すあまり、ダニーに紹介されたとき何を言って良いのか分からなかったと教えてくれたが、そのとき私は気にくわない客扱いされた気分だった。
(略)
ジェイムスのギターから最初の一音が発された瞬間……そのときから、私は彼に魅了された。(略)
ジェイムスが歌い出すと――長いこと音信不通だった友人が、実は目の前の天使だった――そんなシーンを目撃した感動に打たれていた。リックの言う通りだ。私はぶっ飛んだ。
(略)
フライング・マシーンはA&Rマンの注目を競い合うバンドの仲間入りをしたものの、ジェイムスのヘロイン中毒という壁にぶち当たる。
ザ・シティ
ミドル・クラスが空中分解した後、ファグスはベーシストにチャーリー・ラーキーを雇った。(略)
[ファグスのLA公演時]
ジェリーと私が別れたことも周囲に知れ渡っており(略)
コンサート後、彼は一緒に私の家に帰り、そのまま三日滞在した。(略)
[二ヶ月チャーリーは活動拠点をLAに移した]
クリア・ライトが解散したとき、ダニーもまた活動拠点を失っていた。そしてダニーもチャーリーも、ライブで他のミュージシャンをサポートして生計を立ててきたため、ダニーはチャーリーとジャム・セッションをしに我が家を訪れるようになった。「オレたち、腕は磨いておかないとな」と、ダニー(略)
チャーリーも同意する。
「指にタコができてなけりゃ、練習不足だ」
(略)
彼らがジャミングを始めた当初は邪魔しないでいようと思っていた。が、ト二と私が作った曲をベースとギター入りで聴いてみたいと自然と思い、そして三人でその曲を何回か演奏したところで、オーティス・レディングやマイルス・デイヴィスといった名前を口に出すだけで、彼らとソウルやジャズ・ナンバーのジャミングが始まったのだ。(略)
二人との共演は楽しいだけでなく、私のジャミング技術も大きく向上。私の引き出しに入る「リック」の数は増え、ジャズへの理解が深まり、自信も膨らんだ。そしてクーチには、他のミュージシャンに自分の限界以上の演奏力、作曲力、歌唱力を発揮させる才能があった。
(略)
私が彼らとの共演を楽しんでいるのを見て、チャーリーとダニーは私にライブ活動をするよう、いつも以上に熱心に説得し始めた。私の曲を、彼らをバック・バンドにしてレコーディングしてアルバムを制作し、バンドを引き連れてツアーに出ないかと言う。私は、彼らとスタジオに入るところまでなら許容できた。
ある日、プロデューサーの人選を話し合っているとき、チャーリーが「ルー・アドラーと知り合いなんだろ?彼に連絡してみたら?」と言う。
確かにルー・アドラーは知り合いだった。ルーは、ドニーことドン・カーシュナーの元を離れ、今や南カリフォルニアで最も成功しているプロデューサー、マネージャー、出版者となっていた。彼はレーベルを二つ、最初にダンヒル、次にオードを設立している。
(略)
[演奏を聴き、ルーはキャロルだけとの契約を提示してきたが、バンド全員でと主張]
「アルバムだけ。プロモーションのツアーも、ライブハウスもなしでね」と私は言った。
「問題ない」とルーは答えた。
(略)
レコーディングのみのバンドにも名前は必要だ。
「ふーむ」とダニーは思いにふける。
「僕らは全員ニューヨーク出身だから……こういう名前はどうかな……」(略)
「ザ・シティ!」
ジェイムス・テイラーと「ソー・ファー・アウェイ」
[69年ピーター・アッシャーがジェイムス・テイラーのバックに]招集したミュージシャンは、ギターのダニー・コーチマー、ドラムスのラス・カンケル(略)
ダニーが私をピアノ奏者として推薦したところ、ピーターは私をリハーサルに連れて来るようにダニーに頼んだという。
(略)
玄関を開けてくれた男性はトレードマークの赤い髪に眼鏡で、間違いなくピーター・アッシャー本人だった。イギリスのアクセントに上流階級育ちで自然と出る寛容な振る舞い
(略)
ジェイムスに会うのはあのナイト・アウル以来だ。彼は二十一歳になっていた。私たちに気づかず、かがんでギターに集中し優しく弦を爪弾く姿を見て、再び私はなんて背が高くて角ばった人なんだろうと実感した。
(略)
お互い笑顔で握手し目と目を合わせるとそれが、これから数十年続く友情の始まりとなった。
(略)
ピーターのプロデュース下、ジェイムスは一九六九年にアルバム『スウィート・ベイビー・ジェイムス』をサンセット・サウンド・スタジオでレコーディングした。
その年、私は七歳と九歳の娘の母親業以外に、ジェイムスのアルバムで演奏して歌い、自分のソロ・アルバム『ライター』をレコーディングし、さらに他のアーティストに曲を提供しデモ制作も行った。
(略)
次にジェイムスに会ったのは一九七〇年夏。以前と変わらず彼はピーター宅に滞在しており
(略)
演奏の手を止めて休憩したとき、ピーターは改まって私に、ジェイムスのツアー・バンドに入らないかと誘ってくれた。私は相変わらずツアーに前向きではなかったが、ピーターは家族を置いていくことへの不安を察知して、このツアーで家族と長期間離れ離れになることはない、一九七〇年秋に、週末のみの六~八公演が大学で行われ、公演の合間には家に帰れると説明した。ジェイムスと一緒に音楽を演奏できるチャンスは、拒否し難い魅力だった。(略)
「ソー・ファー・アウェイ」を完全に私一人で書いたのは、そのツアー中の週末だった。個人的にはチャーリーを思って書き、音楽的にはジェイムスを思い描いていた。ジェイムスの曲は一見シンプルな中に罠があり、実はひじょうに複雑で先が読みにくい。彼はメロディやサビそれぞれに、独特かつ巧みな特徴をもたせるが、どの部分も親しみやすく自然と馴染むのだ。ジェイムスの作曲スタイルに強く刺激された私は、自分の曲にもそのスタイルを取り入れるようになった。(略)
ジェイムスのために作曲している訳ではなかったが、「ソー・ファー・アウェイ」を書いたとき、頭の中に聴こえてきたのは彼の歌声だった。
『つづれおり』
当時A&Mでは、スタジオAでカーペンターズがレコーディング中、玄関ホールの奥にあるスタジオCではジョニ・ミッチェルがエンジニアのヘンリー・ルーウィを伴って『ブルー』をレコーディング中だった。そしてルーと私はハンク・シカロと共に、スタジオBでレコーディングしていた。
さらに、A&Mからサンセット・ブルヴァードを東に七ブロック行ったサンセット・サウンドでは、ジェイムス・テイラーが(略)『マッド・スライド・スリム』をレコーディングしていた。
(略)
自分のアルバムの作業がないときはサンセット・サウンドまで車で行ってジェイムスのサイドマンとして演奏し、バック・ボーカルを録った。クーチは両方のアルバムに参加していたので、クーチの車に相乗りして行くこともあった。そして定期的にジェイムスがA&Mにやって来て、私のアルバムのためにアコースティック・ギターを演奏し、バック・ボーカルを録ってくれた。ジョニ・ミッチェルが、私とジェイムスそれぞれのアルバムに美声を提供してくれたのは、私とはスタジオが近いという物理的関係で、ジェイムスとは恋愛面で近い関係にあったからだ。こんな中で私もジェイムスも、一枚の巨大アルバムを二カ所のスタジオでレコーディングしている気分になっていた。
スタジオCには “別格”との評判が高いピアノがある。赤っぽい、木製のスタインウェイ・ピアノだ。ある朝、偶然スタジオCに入ることができたのでそのピアノを弾いてみた。確かにそう言われるだけのことはある。何か他とは違う存在感があるのだ。タッチは気持ち良く、その格別な音色はルーとハンク・シカロをも感動させた。だが運悪くこのスタインウェイの音色はジョニ・ミッチェルとヘンリー・ルーウィも魅了し、その結果私とジョニはベーシック・トラック録音のため水面下でスタジオCの争奪戦を繰り広げることになる。
(略)
ある夜、スタジオCが空いていると聞き、すぐに部屋を押さえた。(略)
[のんびりやっていたが]
スタジオのマネージャーがやって来て状況は一変した。スタジオCは三時間しか空きがなく、その後はジョニ・ミッチェルが使うというのだ。
急いで私たちは各自の持ち場に移動し「アイ・フィール・ジ・アース・ムーヴ」のリハーサルに入った。
(略)
両曲とも機材の調整を最小限に抑えたことで、録音テープにはチャーリーと私の音楽的な親密度、そしてプライベートでの親密度まで記録することができた。こうして、ジョニが到着する前に三曲のベーシック・トラックを何とか仕上げたのだった。スタジオCの使用時間が限られていたことが私たちにプレッシャーになるのではなく、逆に活気づき、効率的になり、それがアルバム全体の基準を非凡なものにしたのだった。
(略)
ハンクは常々スタジオBを気に入っており、二〇一〇年に電話口で『つづれおり』のレコーディングとA&Mのスタジオについてこんな思い出を語ってくれている。
「『つづれおり』でスタジオAは一度も使わなかった。というのもカーペンターズがずっと独占していたからね。どっちにしてもキャロルのために使うなら、僕はAは嫌だったな。広すぎる。Aではあの親密な感覚は出せなかったよ。逆にCは狭すぎる。Bはちょうどいい広さだったんだ。街にある評判の良いスタジオはみんなBぐらいの広さだ」
「Bは、照明を使って雰囲気を作れるところが好きだった。それから僕はいつも、プレイヤーの顔がお互い見えるように立ち位置を決める。キャロルのピアノはスタジオの中央にあり、そこから君はドラマーが見えて、ドラマーも君が見える。君を囲むように半円状にその他のプレイヤーを置くことで、みんなが君を見えるようにした。君は頭の中で指揮するからね。それから曲の雰囲気によって、僕はいつもコントロール・ルームの照明とスタジオの照明を変えるんだ」
当時、そんなことは何ひとつ気づかなかった。
四パターンの試聴形態
私が「別室試聴」という試聴形態を発見したのは『つづれおり』のミキシングの最中だった。ハンクに、ファイナル・ミックス前のものをドア全開の状態で何回か再生してもらい、私はラウンジに出て紅茶をいれ、雑誌に目を通し、トイレに向かうスタジオ従業員と挨拶の言葉を交わす。散漫な集中力でミックスを聴くからこそ、潜在意識が必要な修正箇所に導いてくれるのだ。ピアノのフィルインがソフトすぎる、スネア・ドラムが大きすぎる、リード・ボーカルとバック・コーラスのバランスが不自然、など。ミックスが正しく処理されていれば、別室で聴いてもそれが確認できるのだ。
もう一つの確認方法は、様々なスピーカーで試聴すること。私たちが普段試聴していたのは、コントロール・ルームの角を占拠する巨大なアルテック製スピーカーだ。その低音域レベルは、その後二十世紀後期に登場する車載用ウーファーの先駆けとなるものである。このアルテックでの試聴以外に、ルーはヘッドホンを頻繁に使っていた。ヘッドホンのほうが左右センターの音の分離が明確に聴き分けられるからだ。何年も経ってから私がルーに、なぜあんなにヘッドホンを使っていたのかと尋ねたら、彼は「君の歌声とピアノの音を、頭のてっぺんの真ん中で聴くのが大好きなんだよ」と答えた。ファイナル・ミックスに近づくと、コンソールの台の上に載っかっているオーラトーンの小さいスピーカーで試聴したり、安っぽいモノラルのカーラジオ用スピーカーを目の前に置いて、人々の一般的な音楽鑑賞状況を再現したりする。これら四パターンを試して、すべて良い音に聴こえれば、次の段階「一泊試聴」に入るのだ。それはつまり、レコード盤を各自が家に持ち帰り、それぞれのステレオで再生し、家族や友人から意見を乞うというものだった。
「つづれおり」の曲順を考えたのはルーだ。(略)
私からも何種類か曲順を提案し試してみたが、何をやっても最後はルーの曲順に行き着くのだった。
全英ツアーの思い出、ジョニ・ミッチェル
ピーターからジェームス・テイラー/キャロル・キング/ジョー・ママのコンサートを彼の故郷イギリスにもっていくことを考えている、と連絡が入った。チャーリーと私はこの夏、全英ツアーに出ることは可能か?と。
可能です。
(略)
ジェイムスもまた、彼にとって大切な人を同行させた。私の全英ツアーの思い出には、ジョニ・ミッチェルが楽屋の応接スペースの長い木製ベンチに座り、片足を自分の体の下に挟んで、ルイーズとシェリーのスケッチ画を描いている風景が刻まれている。
(略)
ルイーズが自分の体ぐらい大きいアコースティック・ギターを弾き、シェリーは長い髪で半分顔が隠れながら、お絵かきパッドに絵を描いている。ジョニは体をびくともさせず、手に持った鉛筆だけを目的に向かってせわしなく動かす。それはまるで、彼女の目に映るものの本質を、ページ上に浮かび上がるイメージに置き換えていく作業のように思えた。ジョニが絵を描いている間、背後にあるフランス窓にはアルスウォーター・レイク・カントリーの緑豊かな夏の森が広がり、午後の光が彼女の長いブロンドの髪を照らしていた。親切にもジョニは、完成したスケッチ画をルイーズとシェリーにプレゼントしてくれた。そこには娘一人一人の魂の根幹が捉えられていて、それは、大人の女性に成長した今の娘たちからも感じとれるのだ。
全英ツアーが終わると、もう秋だった。娘たちは学校生活に戻り、チャーリーと私は新居への引っ越しを始めた。
(略)
冬が近づくにつれ、お腹の中の赤ん坊は私と一緒に成長した。
ジョンとヨーコの家へ
[イースト・サイドで『タクシー・ドライバー』を観に行き、トイレでヨーコに遭遇。ショーンが生まれて以来初めての二人だけの外出だとヨーコは言い、家に来ない?と誘ってきた。ダコタに向かう途中、初めてビートルズに会った65年のことを回想する著者。アル・アロノウィッツに「ビートルズに会いたい?」と言われ、「もちろん!」と答え、スイートルームに入ると、まずリンゴに遭遇]
アメリカへの歓迎の言葉を伝えると、彼は独特のリバプール訛りで感謝してくれた。
(略)
そこからそう遠くないところにジョージ・ハリスンを見つけた。彼の話し方は優しく、物静かで、簡潔だった。ジョージは外交的なタイプではなかったが、次に会ったビートルズ、ポール・マッカートニーは社交的で気が合いそうだった。彼は私を、この場でばったり会ったというより、まるで懇親会で顔を合わせたように親しみを込めて歓迎してくれた。そしてどんなにジョンと彼がジェリーと私の楽曲を楽しみ、尊重しているか、数分かけて、具体的に曲名やアーティスト名を挙げて語ってくれたのだ。その後お決まりパターンのように誰かがポールを呼び寄せ、彼はそちらに向かうのだが、彼は行く前に私の両手を握り締めて、来てくれてありがとうと言った。
最後に見つけたのはジョン・レノンだった。何人かの女性に囲まれ、どの女性も彼の妻ではないように見えた。彼は、何と表現したら良いのか……。
ハイだった。
「こんにちは、ジョン。私はキャロル・キング……」と言いかけると彼は私を遮るように、とても失礼な言葉をかけてきたのだ。何を言われたのか憶えてはいないが、言われたときの気持ちはよく憶えている。私は友好関係を申し出たのに、彼の反応は私に平手打ちを喰らわした。もし私が、ジョンの無礼は当時の生活への反抗心の表れとして理解を示せるほど大人なら、それほど深刻に受け止めなかったかもしれない。だが私は若く、その言葉に深く傷ついてしまった。もうそれ以上そこに留まる必要はなかった。スイートルームの正面玄関から帰った私は、まさか十一年後にジョン本人から直接、無礼な態度をとった理由を聞かされるとは思ってもいなかった。
(略)
[ダコタ・ハウスに到着]
インテリアは最小限で、どの部屋も白く、各部屋に置かれた数少ない家具も真っ白。赤ん坊のショーンを見かけた記憶はない。彼は乳母と一緒にいるとのことだった。憶えているのは、誰かが緑茶と白いお皿に盛られた日本風前菜を運んできてくれたこと、そして何よりも思い出深いのはジョンが幸せいっぱいに輝いていたことだ。白一色でクールな背景の住まいでジョンは妻とくつろぎ、なごやかで社交的で、満足そうだった。(略)
「実は、僕は主夫業を結構楽しんでるんだよ」ジョンの会話からは、リバプール育ちの名残がはっきりと感じとれる。リバプール人はニューヨークに移住しても、いつまで経っても春の次にくる季節のことをサマーではなく「スーマ」と発音する。ただしポールは例外だ。見たもの聞いたものを何でも真似できるポールは、意図的にリバプール訛りを封印する才能も持ち合わせているのだ。
ジョンは、リバプール訛りのまま続ける。「世の中は、ヨーコが僕を音楽から遠ざけて僕の才能を奪っている、と言いがかりをつけたがるんだが、主夫でいることは今の僕の才能でもあるし、僕が楽しいんだからいいだろう。男にはやりたいことをやる権利がある。そう思わないか?」
それは質問ではなかった。
(略)
私は深呼吸をして、聞いてみた。
「ジョン、昔私と会ったのを憶えている?」
「どうだったっけ」(略)
「一九六五年にワーウィック・ホテルで会ってるのよ」(略)「私が自己紹介したとき、あなたはとても無礼だったの。どうして?」
彼は少し間を置いて、こう言った。「本当に、知りたい?」
彼は憶えているのだ。
「怖かったからだよ」
私は驚いて彼を見つめ、よく理解できないでいた。
「君とジェリーはあまりにも偉大な作曲家だったから、見下されないためには何を言っていいか分からなかった。だから自分を楽にして、気の利いたことを言おうとしてたんだ」
今度は私のほうがばつが悪かった。
「ジョン、ごめんなさい。あの夜のことを思い出させようとした訳じゃないの。ただ、あなたの心の中に何があったのかずっと気になっていて、聞けたらいいなと思っていただけなの。本当に、大昔の話だし」
「それなら良かった」お茶をもう一口飲んでからこう言った。「悪く思ってないってことだよね?」
ホッとして私も「そのとおりね」と答えた。
「さてそれでは」と、ジョンはティーカップを置いてリックのほうを向き、こう言った。「君の彼氏の話を聞いてみよう」
リックは自分の話題になって得意げだった。話したいことはたくさんある。相手がジョンだけに、彼は私たちの人生設計を、私さえ聞いていなかったことも含めて打ち明けていった。それで分かったのは、リックは私以上にカウンター・カルチャーの教えを強く意識し、ハルマゲドンに向けた準備を考えていることだった。彼は自分を、災害を生き残る「サバイバリスト」だと思っている(略)
そのために森の奥に土地を二人で(私が)買って、世の中が崩壊しても生き残るために必要なものをすべて装備したい、社会の崩壊は避けられない、と彼は語った。
(略)
私は強い不安を抱き始めた。このような考えをそれとなく話題にすることはあったが、ここまで細部にわたる計画を、今の社会秩序の終焉に向けて練っているとは思ってもいなかった。私の収入はその社会秩序の上に成り立っている。サバイバリストとして生き残る発想は、私や私の家族にとって合理的とも現実的とも思えなかった。
ジョンは、リックが自分同様に養母に育てられてきた人とは知らず、直感的に彼に何か同志のような親近感を抱いた様子で、丁寧に話を聞いていた。そしてリックが将来の設計図を広げ終えたときに見せたジョンの反応は、これまで多くの人々の生き方に影響を与えてきた男の、生来の深い慈悲が表れたものだった。
「なるほど」とジョンは言った。「でも、僕にはできないなあ。僕には米があるとしても、他のみんなはどうすればいい?」
ジョンのその意見は私の不安を和らげただけでなく、深い感動を与え、しばらく思考回路が止まったほどだ。ほかにも何か言っていたのだろうが、それ以外は憶えていない。憶えているのは彼の慈悲の清らかさと、彼の言葉が私を暖かい毛布でくるんでくれた、その感触だけだ。
(略)
神様、どうかこの善良な男をお守り下さい。そのとき私はそう思った。
善良な彼は、幸せな日々をこの後五年近く楽しんで、一九八〇年十二月八日、ダコタの外で、男に殺されるのだ。その男の名前はこの本には書かない。一九七六年のあの夜、私と時を共有した男はとても有名で人気があり、驚くほど地に足が着いていた。彼の「イマジン」がどれほど私にインスピレーションを与えてくれたか、伝えておけばよかった。その曲は最もシンプルで最もパワフルで、これらの疑問に、希望に満ちた答えを導いてくれるのだ。私をより良い人間へと駆り立てるために。
なぜ人はお互いに傷つけあうの? なぜこの世界から強欲がなくならないの? なぜ人はお互いを思いやったり、お互いの違いを協力的に解決できないの?
想像してごらん。
次回に続く。