キャロル・キング自伝 その2

前回の続き。

キャロル・キング自伝 ナチュラル・ウーマン
 

ブリティッシュ・インヴェイジョン

 私の二十二歳の誕生日に、世の中は大きく変わった。一九六四年二月九日、ジェリーと私がテレビを見ていると、番組司会のエドサリヴァンビートルズを紹介したのだ。

(略)

インタビューでの(略)無礼な受け答えは、多くの若者たちに、そうだ!ヤツらみたいな恰好をしたかったんだ、ヤツらは自分の思っていたことを口に出している、と気づかせた。

(略)

ビートルズが登場した翌日、アメリカ合衆国下院議会は一九六四年の公民権法を通過させた。

(略)

 ジェリーと私が公民権運動に関わるようになったきっかけは(略)人種問題について二人とも共通した怒りをもっていたからだ。そのためにミシシッピ州アラバマ州の最前線で遊説もしたし、活動家支援のための資金も出した。

(略)

長髪、ルネッサンス・ファッション、東インド・プリント柄カーテン、ビーンバッグ・チェア、ディスコテック、ポップ・アート、幻覚剤、そして反戦運動

(略)

 一九六四年、私はそんな時事にいくぶん関心をもっていたが、それ以上に心配だったのが、精神の解放を望む夫だった。私は精神解放なんかしたくない。家計をやりくりするためには、家族の誰かが脳細胞を十分に機能させておかなければならないし、少なくとも夫か私のどちらかは大人を演じる必要があった。ジェリーの歌詞は徐々に社会的関心度が増していったが、私はその歌詞にメロディをつけることで家計を守るしかなかった。

(略)

「ヒップ」だとする男性の長髪は反体制を象徴して世間の非難を浴び、社会的地位を「ストレート」として自慢する短髪のビジネスマンや丸刈り海兵隊員から見下された。ちなみに当時ストレートという言葉に性的な意味合いはなく、ヒッピーではない、という意味に使われていたのだ。

(略)

強い政治意識をもつ革新派は男らしいとして「ザ・マン」と呼ばれ、世の男はザ・マン本人か、ザ・マン反対派のいずれかに分けられた。

(略)

ボブ・ディランを始めとするフォーク歌手たちが「メッセージ・ソング」を掲げて、かつてヒット・チャートを席巻していたポップ歌手たちを凌ぐようになっていた。ヒット・シーンから取り残されたアーティストの中には私たちの曲を歌っていた者も多く、不幸にも我が家の生計にも影響は及んだ。

(略)

つまり、私たちの曲は必要とされなくなったのだ。その後の奇跡がなければ、私たちはそれまでの心地よい生活形態を維持することはできなかっただろう。

 だが奇跡は起きた。しかもそれは、クイーン・オブ・ソウルとして数世代にわたって君臨するビッグな女性による、ビッグな奇跡だった。

ナチュラル・ウーマン」

[二人でブロードウェイを歩いていると黒塗りリムジンが横付けし、ジェリー・ウェクスラーが顔を出し]

「アレサ向けの大ヒット曲を探してるんだ」(略)

「“ナチュラル・ウーマン”という曲を書いてみない?」

(略)

[40年後、当時を振り返り、ジェリーは]

こう語ってくれた。「君はピアノに座って、ゴスペル調のコードをいくつか八分の六拍子で弾き始めたんだ。そのコード進行が自分のイメージしていた曲の方向性そのものだった。君のおかげで、歌詞が楽に出てきたんだよ。君のおかげでまったく苦労しなかった」

(略)

ジェリーが私のコード進行がイメージそのものだったと言うならば、私は彼の描く歌詞世界に心底驚かされた。「遺失物取扱所に取り残されたソウル」……「引き取りに来た恋人」.…ジェリーは一体どうやってこのような表現を思いつくのだろう?

(略)

 アレサが歌う「ナチュラル・ウーマン」を初めて聴いたとき、滅多にないことだが、私は言葉を失った。そして今日まで、あのときの感情を簡単な言葉で伝えることができない。

 アロノウィッツとミドル・クラス

 ジャーナリストのアルフレッド・ギルバート・アロノウィッツは一九二八年五月五日、ニュージャージー州ボーデンタウンに生まれた。彼のビート・ジェネレーションに関する記事やコラムと、後の「ポップ・シーン」という題名の『ニューヨーク・ポスト』紙連載コラムは、五〇年代後半に成人した世代の共感を呼ぶような、直接的で生意気な姿勢が感じられるものだった。私の夫がアロノウィッツに最初に注目したのは、彼がアレン・ギンズバーグジャック・ケルアックと知り合いだと知ったときだ。その後彼はビートルズローリング・ストーンズとも交友関係があると知り、さらに興味をもつ。だが最もジェリーの信頼を高めたのは、アロノウィッツが「時代は変る」を書いた男の親友だったことだ。

(略)

ジェリーはすぐにディランに注目した。革命の声を聞いたように、のめり込んでいった。ディランの曲を聴けば聴くほど、ジェリーは自分の不安と戦うことになる。ジェリーが郊外と都会を行き来してティーンエイジャーの恋やダンスについてのポップ・ソングで金儲けをしている間に、ディランはブリーカー街で丹念に言葉を選んで歌を編み出している。若者に、親に敷かれたレールなど拒否して、本当の人生の意味を深く考察しようと勧告するのだ。そしてジェリーは、今のままの自分では人生の意味を見つけることなどできないと感じていた。彼はディランになりたかった。端的に言うと、ジェリーはディランをもっと知りたかった。

 アロノウィッツがジェリーをディランに紹介すると約束した日から、夫はアロノウィッツに強く引き寄せられていった。まるで池の底の巨石のように、頑として意見を譲らなかった。ジェリーがそうなればなるほど、私は不機嫌になっていく。

(略)

 アロノウィッツが我が家の平和を脅かすと私が認識したのは、理由がどうこうよりも私の勘だった。丸顔で、ボサボサの赤いヒゲを蓄え、私の考えていることを見通しているような抜け目のない笑顔を作るこの男と、私は戦いたいと思った。多分彼は気づいていただろう。

(略)

 アロノウィッツと出会わなかったとしても、時代はジェリーを引き寄せたのかもしれない。

(略)

夫がドラッグやフリーセックスを体験する一方で、妻はなぜ自分の夫がそれまで共有していた価値観を放棄するのか、理解できないでいた。

 もし私が四十二歳でジェリーが四十五歳なら、夫が放浪生活のような未体験の世界に目覚めても理解してあげられたかもしれない。だが私は二十二歳で、妻であり母でもあり、二十五歳の夫を前衛的発想の中に見失いつつあった。私の人生を返して欲しかった。

(略)

 一九六五年の初頭にアロノウィッツが、ジェリーと私と一緒にインディーズのレコード・レーベルを設立しないかと提案してきたときは、当然ながら反対した。だがジェリーを思い留まらせることができず、私は「友人は近くに置き、敵はもっと近くに置く」という格言に従って企画を受け入れることにした。最初のヒットと未来の成功を祈って、レーベルはトゥモロー・レコードと名付けた。アロノウィッツが連れてきたバンド、キング・ビーズはニュージャージー州の高校三年生五人組

(略)

未熟さはあったが、バンドの才能は明白だった。

夫のLSD中毒

 最初にジェリーが妄想症の兆しを見せて怯えていたとき、私はそのことに疑問を抱かなかった。LSDが非合法であり、摂取した者は当局に逮捕されて投獄されることを考えれば、LSD中毒者が怯えるのは当然だろう、と。それから、彼は他の精神障害を併発するようになったのだ。その時点でもっと注意すべきだったが、私は精神障害についてまったく知識がなく、弟の障害は別として私も周囲の誰も精神障害を経験したことがなかった。その後ようやく専門家の元に相談に行ったが、当時は精神衛生の専門家でさえ現代に比べるとごく限られた知識しかもっていなかった。

 ジェリーがますます挙動不審になると、私は彼が後々後悔するような行動に出ることを心配した。その時点でまだ彼の挙動は、危険というより苦々しいもの。子供達や私に対し暴力や虐待に走ることはなく、その兆候もなかったので家族を傷つける心配はなかったが、意味のありそうでないことを喋り、普通の人は思いついてもやらずにおくことを、やるようになっていた。例えばハシゴに登って家の外壁に「ラヴ・ユア・ブラザー」とペンキで描いたり。(略)

しかし、彼が自分の体を深く傷つけてしまったとき(幸いにも未遂で終わった)、外部に助けを求めるときが来たと私は確信した。

 最初、医者はジェリーを統合失調症と診断した。その後、躁病と判断して、鬱にするためのソラジンを大量に処方した。予想通り彼は深い鬱に陥る。医者たちは投薬を調整しながら精神科治療に通わせたが、ジェリーの深刻な鬱状態は変わらなかった。次に医者たちが勧めてきた治療は電気ショック療法だった。

(略)

 私には選択肢がないように感じられた。書類にサインし、病院を出て、泣きながら家まで帰った。十年後、ジャック・ニコルソンの強烈な演技を伴った映画が公開された。(略)

[『カッコーの巣の上で』の]ジャック・ニコルソンは電気ショック療法の恐怖感を見事に再現している。(略)

映画を最後まで見る自信はなかったが、彼にショック療法を許可したのは自分である事実を噛み締め、一コマ一コマしっかり見るよう自分に課した。

ブライアン・ウィルソン 

 

それから三十年以上経った二〇〇〇年(略)

私たちはお互い五十八歳になっていた。

 私たちはソングライターズ・ホール・オブ・フェイム (作曲家の殿堂)の式典に来ていた。私はジェイムス・テイラーを、ポール・マッカートニーブライアン・ウィルソンをこの殿堂に迎え入れる役だった。ブライアンと私が舞台裏で一緒に出番を待っていると誰かが、こう尋ねてきた。あなたたち二人が曲中で多用する、あのコードを先に使い始めたのはどちらか、と。ミュージシャンの間でそのコードは「IV・オーバー・V 」と呼ばれている。キーがCの場合これは“FコードにGのベース音”を意味し、キーがGなら“CコードにDのベース音” を意味する。これを「キャロル・キング・コード」とか「C・オーバー・K」と呼ばれているのを聞いたことがある。だがビーチ・ボーイズのファンはこれを「ブライアン・ウィルソン・コード」と呼ぶのだろう。呼び名が何であれ、ミュージシャンもそうでない人も、このコードは「グッド・ヴァイブレーション」のクライマックス部分で耳にする和音、と言えば分かりやすいだろう。全員の声が一つになって作り出す荘厳で印象的なあの瞬間。

「アーーーーー!」

(略)

 ブライアンと私はそのとき、どちらが先に使ったかについてはファン一人一人に答えを出してもらうことで合意した。「どうせ、ファンのほうが僕たちよりも僕たちの人生を熟知しているんだから」とブライアンは言った。私たちの世代がこれまで辿ってきた道のりを考えると、お互いにちゃんと元気で生きていることがどれほどありがたいか、二〇〇〇年になって十分すぎるほど分かっていた。

西へ 

 一九六七年、ジェリー・ウェクスラーが私に、アーティストとしてアトランティックとの契約を提示してきたとき、私の最初の質問は、「ジェリーにプロデュースしてもらってもいい?」だった。

「もちろん」

「私は作曲家で、パフォーマーではないのよ。それに子供もいるから、プロモーションのために外回りするつもりはないけど」

ウェクスラーはクックッと笑った。

「そんなこと僕が知らないとでも思ってる? ジェリーに相談して、君の希望を聞かせてよ」

 車を運転してリンカーン・トンネルに向かいながら、ジェリーのやる気を喚起させる方法を考えていた。ニューヨーク市内に引っ越したらどうだろう?(略)

グリニッチ・ヴィレッジだ。(略)

私はひたすら歩き続け、ひとかけらの可能性にしがみつくように、市内への引っ越しとプロデュースの話が結婚生活を救うことを願っていた。

 だがそうはならなかった。

 ジェリーのほうから、私を置いてカリフォルニアに引っ越すと言われたとき、私は、彼がドアから出て行くまで涙を流さなかった。そして私が、あんなに涙を流すとは思わなかった。家族が崩壊し始めたときから私は夢を見ていたのだ。神話に登場するような男性と四人の美しく健康な子供達に恵まれ、広くて賑やかな家に住み、これからの人生をいつまでも幸せに暮らす家族の夢を。

(略)

ゴフィン家の買い手が見つかった。(略)庭付きアパートを借り、娘たちが転校せずに住める手はずを整えた。やらねばならないことがたくさんあった。家具の処理、所持品の梱包(略)何とかしてやるべきことをすべて終わらせた。

 こうして私は一人で、元我が家の玄関広間に立ち、家と最後のお別れをしようとしていた。

(略)

私の夫はどこに行ったのだろう。大人になった私の初恋の人であり、作曲パートナーであり、娘たちの父親でもあるジェリー。家にいたときはどこの部屋よりも寝室のイームズ・チェアに座って考えを巡らし、ぼんやりとヒゲをなぜていた私のジェリーはどこに行ったのだろう?

(略)

ここで私はいくつか重要な決断を下さなければならない。(略)

すべての要素が、グリニッチ・ヴィレッジへの引っ越しに傾いているように思えた。だが何かが、あの家の契約を引き止めている。

(略)

私が西に行かなければならない理由があった。(略)

私が、娘たちと父親の距離を引き離すことはできないのだ。

(略)

 こうして一九六八年三月、シェリーとルイーズとライカテレマコス、そして私はカリフォルニアへ移住した。

ローレル・キャニオン 

 一九六八年、サンセット・ストリップがポップ・ミュージックとクラブ・シーンの商業中心地だとしたら、ローレル・キャニオンはその居住中心地だろう。

(略)

キャニオンの曲がりくねった道を運転すれば薬物誘発により正気を失った人々を、軽度から重度まで昼夜問わず見ることができる。

(略)

 キャニオンの起伏に富む道路をオープントップにしたムスタングで走ると、私のカーラジオと競い合うように周囲の渓谷から音楽が聴こえてくるのだった。それが生演奏なのかレコードやラジオなのか一度も判別できた試しはないが、常に音楽は空気中に流れていた。そして音楽があるところには、ミュージシャンがいる。バンドは様々な事情で結成し、解散し、再結成し、どこかのバンドは七桁の前金を提示された、とも噂に上る。どのミュージシャンも、七桁の小切手は自分のものとばかりに野望を抱いていた。

(略)

「誰かがそれだけの前金をもらえるなら……」一人のミュージシャンが、輪になって座る隣の人間にヨレヨレになったマリファナの残りを回して言う。「俺たちだってもらえるんじゃないか?」

 そして彼は深く息を吸い込む。続いて別のミュージシャンがマリファナの効果を最大限に生かそうと息を止めて沈黙し、「そうだよ……なあ?」と、彼も煙のもやの中にゆっくり長い煙を吐き出す。「俺たちでいいじゃねえか。この辺りじゃ一番クールなバンドだぜ」

 次の男は、マリファナが人間の指で持つには小さくなりすぎたのを見て、その吸いさしをくわえるため、ポケットから小さなワニ口クリップを取り出す。

(略)

グラハム・ナッシュの作曲した「アワー・ハウス」は、彼とジョニ・ミッチェルが一緒に住んだルックアウト・マウンテンの外れにある小さな一軒家について書かれた曲。かの有名な、フランク・ザッパが住んでいたトム・ミックスのログキャビンは、ルックアウトとローレル・キャニオンの角にある。ザ・バーズのメンバー何人かはワンダーランド・アヴェニュー小学校の下方にあるホースシュー・キャニオンに住み、中でもメンバーの一人は、小学校の勉強を大いに邪魔していた。彼は紫のベルベットのケープを羽織ってキャニオン周辺をバイクで暴走するのが大好きだったのだ。

(略)

 まだピンと来ない読者のために言っておく。その人物はデヴィッド・クロスビーだった。

 デヴィッドと知り合うのはそれから七年後だが、もう一人キャニオンの住人で彼はど有名人ではない女性と私は知り合いになっていた。彼女はカリフォルニアの人間で、詞を書いていた。

トニ・スターンの歌詞

私が見つけた生粋のLA人、トニ・スターン嬢はサンセット・ストリップ下方のウエスト・ハリウッド育ち。新しい環境に順応しようとしている私にとって、彼女はうってつけの友人だった。

 トニは“歌のフィーリングをもった詩”を書く人で、読むと自然とメロディが生まれてくるのだ。

(略)

曲作りの後に彼女は私をサンセット・ブルヴァードにある有名なローフードのレストラン「ザ・ソース」へ連れて行ってくれた。私たちが外のテーブル席に座り、サン・ティーをすすり、木のボウルに入ったチャイニーズ・サラダを著で食べる

(略)

長髪で性別不明の人々が、白のゆったりした服や花のプリント柄の服、あるいはジーンズと鮮やかな色合いの絞り染めTシャツ姿で行き交う。トニと私はこの大通りを行き交う人々、服装、ガソリンの臭い、人生、恋愛など二人の興味の赴く話題や、歌詞のテーマにぴったりの話題で盛り上がった。

(略)

 ト二は典型的なカリフォルニア・ガールだった。(略)

自宅の平らな屋根に寝転がり、大きなビーチタオルの上で紫外線を全身に吸収していた。ビーチも大好きだ。鮮やかな赤のビキニを着た小麦色のボディはしなやかで、長くたおやかなカーリーヘアは太陽に輝く千の川のように揺れ、非の打ちどころがない姿を露出していた。突然思い立って愛車のオープンカー、アルファロメオに乗り、髪をなびかせてビッグサーまで海岸沿いを走らせることもあった。

(略)

 トニの書く歌詞には明白なリズムがある。歌に託す思いや感情を、単語のアクセントのリズムで表現するのだ。彼女の歌詞からはメロディが応えるように頭の中に浮かび、私の声と指先から音楽になって流れ出す。これまで何年も、ジェリーが彼独特の言葉や身ぶりで表現しようとする方向性を、解析し翻訳し理解して、彼の意図するメロディを作り出してきた私にとって、トニの明晰な指示は開放的だと感じた。メロディの方向性を無言で示す彼女のやり方は、私に、彼女のアイデアを試しながら自分のアイデアを発掘しようという勇気を与えた。ジェリーなしでヒット曲を書けるのかまだ不安だったが、ト二と私の間に流れる気楽な空気は、消えた自信を再発見する重要なステップになった。

(略)

 トニの歌詞は、白い紙にきちんとタイプしてあるか、黄色い罫線入り用紙に特徴的な字で手書きされていた。彼女の詞は、歌詞的にも視覚的にもアートなのだ。曲のAメロやサビは、用紙の上で独特なシェイプを描いている。私はピアノの譜面台に彼女の歌詞を置くとすぐに心を開放し、曲のリズムや内容を無心で体に吸い込ませる。

次回に続く。