ノー・ディレクション・ホーム その3 ボブ・ディラン

 前回の続き。

 〈ライク・ア・ローリング・ストーン〉

『きみは一流の学校に行ったけれど、ミス・ロンリー/結局しぼりとられるだけだった』という歌詞を書いたけど、学校についての曲を書いたわけじゃない。周りがそう思ってるだけだ。ぜんぜん違うんだ!一流の学校はたんに泥沼から抜け出すって意味かもしれない。ここでの『学校』はどんな意味にもなる。この歌はまちがっても学校の歌じゃない」

ミスター・ジョーンズは誰か?

〈やせっぽちのバラッド〉

何かが起きているのにそれが何か分からないミスター・ジョーンズは世のなかにたくさんいることを私たちは知っている。ディランにとってミスター・ジョーンズは具体的に誰だったのか?『タイム』のジェフリー・ジョーンズという記者は(略)それはディラン自身のことに違いないと書いた。私ならディランのエレキ音楽に完全に面食らったピート・シーガーか、ディランのレコーディングについての考えを理解しなかったトム・ウィルソンか、映画『ドント・ルック・バック』でディランが激しく非難したもう一人の『タイム』の記者ホーレス・ジャドソンか

(略)

それ以外にもさまざまな説が流れた。ミスター・ジョーンズは好戦的な黒人作家リロイ・ジョーンズだ、ミスター・ジョーンズはヘロイン常用者の隠語だ、ミスター・ジョーンズはジョーンを男性化したものだ、ミスター・ジョーンズはオーウェルの小説「動物農場」に出てくる農夫だ……。

英国ツアー

イギリスのCBSレコードにとって、ディランのツアーは理想的なタイミングだった。一九六五年三月にリリースされた最初のシングル「時代は変る」はよく売れた。ツアー中に出た「サブタレニアン」はエレクトリックなビートとビートルズのお墨付きのおかげでさらに売れた。「マギーズ・ファーム」はツアー終了と同時にシングルで出た。CBSレコードの販売促進部の部長スタン・ウェストはのちにこう言った。「一九六五年の三月から十二月を通じて、ディランのレコードはわが社の契約歌手の誰よりもよく売れた」。ウェストはそれが一九六五年に盛んになった船上の海賊ラジオが要因でもあるとした。そうしたラジオは公共放送BBCの独占への対抗であると同時に宣伝にもなっていた。「サブタレニアン」と「ローリング・ストーン」はとくに海賊ラジオ局で人気を集め、ザ・バーズ版「タンブリン・マン」もヒットした。

 ディランのイギリス人気に刺激され――四枚のLPがトップ二十入りし、「バック・ホーム」はナンバーワン・アルバムになった――コロンビア・レコードは「ハモンドの愚行」と呼ばれたディランをアメリカで熱心に推し始めた。六月、コロンビアはアメリカでの一大プロモーションキャンペーンを発表する。ディランが「すべてを故郷に持ち帰る」というスローガンはキャンペーンの主要テーマだった。コロンビアはもうひとつ、「誰もディランのようにディランを歌えない」という広告文句を掲げ、二十センチの段ボールの切り抜きディラン人形と(略)フェリクス・トポルスキによる線描画つきの豪華な宣伝資料を用意し、大々的に宣伝した。

65年ニューポート・フェスティヴァル

六五年のニューポートは幸先が悪かった。バエズが新しい秘蔵っ子ドノヴァンを連れて現れた。午後のワークショップではフォーク純粋主義のアラン・ロマックスが、グロスマンと契約予定のポール・バターフィールド・ブルース・バンドの紹介のしかたをめぐって、グロスマンと派手に衝突した。「ブルースヴィル・ワークショップ」の主宰者で外交手腕に欠けるロマックスは、パネリストの黒人ブルース歌手に同情的になり、バターフィールド・バンドにかみついた。「このシカゴの子供たちがブルースの何を知っているか見てみようじゃないか」。バターフィールド・バンドの演奏が喝架を浴びると、グロスマンはロマックスの横柄な紹介を激しく非難した。暴言が飛び交い、やがてフォークロアの巨人とフォークビジネスの大物は取っ組み合いの喧嘩になった。

(略)

 ディランにとってはさらに苦しいことに、ピート・シーガーが日曜夜の最後のプログラムについて、これは現代のフォーク・ミュージシャンが新生児に送る、われわれが住む世界についてのメッセージだ、と宣言した。残念ながらこのテーマはディランのパフォーマンスの狙いとは合わなかった。彼の日曜の出番は、カズン・エミーとシーアイランド・シンガーズという非常に伝統的なパフォーマーのあいだにはさまれた。カズン・エミーの目玉は「オクラホマミキサー」だった。ディランは寄せ集めのバンドでサウンドチェックもなしに、与えられた枠を埋めなければならなかった。

(略)

ディランはマタドール・アウトロー風のオレンジのシャツと黒の革ジャケットで、エレキ・ギターを抱えて現れた。バンドが「マギーズ・ファーム」のエレクトリック・ヴァージョンを始めたとたん、ニューポートの観客は唖然とした。

(略)

激しいブーイングが次々に起こった。誰かが叫んだ、「カズン・エミーを呼び戻せ!」マイクとスピーカーは完全にバランスを欠き、音響はひどく、偏っていた。この新たな音楽の熱心なファンの目にも、そのときの演奏は説得力がなかった。

(略)

[アコースティックギターでステージに戻ったボブは]

「イッツ・オール・オーバー・ナウ、ベイビー・ブルー」を演奏したが、その歌詞は新しい意味を持ち、まるでニューポートに、フォーク純粋主義者たちにさよならと歌っているかのようだった。

「ミスター・タンブリン・マン」

 一九六五年、ザ・バーズがカヴァーした「ミスター・タンブリン・マン」は、その十年で最も売れたシングルのひとつとなり、ディランのロックへの、そしてのちにはカントリー音楽への傾倒に勢いをつけた。

(略)

[ロジャー・マッギン]は、それまでチャド・ミッチェル・トリオ、ライムライターズ、ボビー・ダーリンなどのバックを務めていた。一九六四年、マッギンにはフォーク音楽が「ひどく商業的になり、セロファンで包まれたプラスチック商品みたいになった」ように思え、「もっと別のことをやりたいと思うようになった」という。

(略)

デビューアルバム『プリフライト』には力強さに欠けた「ミスター・タンブリン・マン」も収録されていたが、ヒットはしなかった。

(略)

マッギンは言う。「隙間が見えたんだ。ディランとビートルズはコンセプト的にもたれ合っていた。その隙間に狙いをさだめた」。そして彼らはヒットした。軟弱に聞こえないよう、あえて「鳥」のつづりを避けて「Byrds」にした。一九六五年一月、コロンビアと契約したザ・バーズは「ミスター・タンブリン・マン」を再レコーディングした(プロデューサーはドリス・デイの息子テリー・メルチャーだ)。

 その曲を彼らがどうして見つけたのかははっきりしない。おそらくディランが正式にアセテート盤にする前、四枚目のアルバムで不使用になったテープをジム・ディクソンが見つけたのだろう。ジャック・エリオットも共に歌っていた。クリス・ ヒルマンによれば、ディクソンが「曲を持ってきた。最初はそんなに好きでもなかったし、意味も分からなかったけど、彼はぼくたちが理解するまでその曲を推してきたんだ」。マッギンはロスでディランに会い、「ぼくたちの『タンブリン・マン』のアレンジを聴かせた」。ディランは言った、「ワオ、踊れるじゃないか!」 マッギンいわく、ディランは「驚いていた。ぼくたちは彼の別の曲も何曲か歌ったけど、自分の曲だとすら気づいていないようだった。しばらくは親しくつきあったよ、でも結局、彼は導師でぼくらは生徒だ。

(略)

「ミスター・タンブリン・マン」の二度目のレコーディングで皮肉だったのは、参加したバーズのメンバーがマッギンだけだったことだ。他のメンバーは参加できず、有名なベースのイントロはラリー・ネクテル、ドラムはハル・ブレイン、セカンドギターはレオン・ラッセルが担当し、要のコーラスはバーズがあとから加えた。

(略)

一九七一年、マッギンは『サウンズ』誌のペニー・ヴァレンタインにこう語った。「一度だってディランをアイドルとして崇拝したことはない。彼のことはいつも仲間と思っていた……ディランは常にぼくの一、二歩先を歩いていたけど……彼に嫌われたのは『イージー・ライダーのバラッド』のせいだと思う。ぼくが曲を提供したその映画にはディランもかかわっていたから、映画のクレジットに彼の名前が載った。彼はひどく怒って電話をかけてきた。「はずせ。クレジットに名前を入れるなと言ったはずだろ。こんなことは毎日誰かにやっている。きみに詩の一節をあげた――それだけだ」。たしかにそうだった。ぼくたちはその曲に一緒に深く取り組んだわけではなかった」。

(略)

マッギンが西海岸でソロのレコーディング中、ディランが陣中見舞いに立ち寄った。友情復活のしるしにディランは、アルバム『ロジャー・マッギン』のリード曲「アイム・ソー・レストレス」のバックでハーモニカを吹いた。一九七五年になると、マッギンはディランの「ローリング・サンダー・レヴュー」ツアーにも名を連ねた。

ボブの罵倒に耐えるフィル・オクス

午前三時近く、ディランはデイヴ(ブルー)・コーエン、フィル・オクス、私と私のガールフレンドのリズ・ニューマンを集め、次の場所に向かった。私たちはボブがレンタルしたリムジンに乗りこんだ。(略)

ディランがコーエンに目をかけていた頃、長年ディランの信奉者だったフィル・オクスへの評価は下がり始めた。二か月前、ディランはコーエンとオクスのためにシングル「窓からはい出せ」を演奏した。コーエンは気に入ったが、オクスはこれが売れるとは思わないと言った。その晩、ディランはリムジンをとめて車からオクスを追い出した。「お前はフォーク・シンガーじゃない、ただのジャーナリストだ」。オクスはめげず、さらに罵られるのを覚悟で戻ってきた。デイヴが黙って座っているあいだ、ディランはオクスのポリティカル・ソングとトピカル・ソングをなじった。「そうじゃないんだ、分かるだろ。それはもう重要じゃない。時代遅れなんだ」。ディランがオクスの作品に詳しいことに誰もが驚いた。オクスは非難を黙って聞いていた。ディランがテーブルを離れたすきに私が「よく耐えられるな」と言うと、彼は「結局、ディランに何か言われたら聞くしかないんだよ」と答えた。デイヴは次の標的になるのを恐れたのか、早めに離れた。ディランはテーブルに戻り、毒舌を続けた。「いっそスタンダップ・コメディアンになったらどうだ?」彼はフィルに言った。楽しそうではなかった。ひどく青ざめ、チェルシー・ホテルに戻ろうともしない。ヴィレッジへのタクシーをつかまえるとき、リズが言った。「彼、今にも死にそうよ」

ヨーロッパ十字軍 

 スカンジナヴィアの観衆は「バンド」が現れたことに驚き、裏切りと見なした。

(略)

[ダブリン]

この頃には公演はアコースティック五十分、エレクトリック四五分の計九五分に短縮されていた。『ディスク・アンド・ミュージック・エコー』誌は「目の肥えた行儀のいい」観客の怒りが二部に入ったとたん爆発したと書いた。「裏切り者」「バックバンドを追い出せ」「ゴリウォーグ」「マイクを下げろ」といった叫びがあちこちであがった。

(略)

ビートルズはディランのアルバート・ホールでのコンサートに現れ、『ボブはすごい、実に素晴らしい』と言った。のちにジョージ・ハリスンは、ディランにはバンドを使う権利があると擁護した。「途中で帰った人は愚か者で、彼らが本当のディランを理解できたとは思えない。いまなおすべてがディランそのもので、彼は自分の進む方向を見つけなければならない。彼がエレキ・ギターで演奏しようと思うなら、それが彼の取るべき道だ。ルールを決めるのは誰だと思っているんだ?」。「野次が飛び交うなか(略)アルバート・ホールで私の後ろのボックス席に座っていたビートルズは嘆く観客に向かって叫んだ。『彼の好きにさせろ――黙れ!』