リベラリズムはなぜ失敗したのか

リベラリズムはなぜ失敗したのか

リベラリズムはなぜ失敗したのか

 

はしがき 

[この本を脱稿したのはトランプ当選三週間前](略)

わたしが大前提としたのは、わたしたちが受け継いだ文明的な秩序の基盤――家庭や共同体の中で、あるいは宗教や精神的支柱となる文化をとおして学び取る基準――は、リベラルな社会と政治の影響を受けて否応なく価値を失っていくだろうということだった。

(略)

正当性の危機が深刻になり、その擁護者が、反発を強める大衆にリベラリズムイデオロギーを押しつけざるをえなくなったとしても、国家主義者が応急処置をすれば、リベラリズムは伝統文化の規範と慣習を執拗に押しのけつづけるだろうと見ていた。

(略)

 そうした見地から私が示唆したのは、このような政情は結局はもちこたえられず、抑圧を強めるリベラルな秩序に対して大衆が、権威主義的非リベラリズムの形で答えるのではないかということだった。権威主義的非リベラリズムは、もはや制御不能に思える政府や経済、社会規範の解体、生活様式の混乱の勢いを、市民の力で抑えつけられると約束する。リベラリストにとってはそうしたことこそが、リベラルな体制が強制を強めるべき証しとなるのだが、リベラリズム自体が正当性の危機を招く原因を作っていることには気づきそうもない。

(略)

 自律と自己統治に不可欠な文化規範と政治的慣習をリベラリズムが解体しはじめてから何十年も経った今になって、強いリーダーを切望する声が広がっている。リベラリズムの形をとった官僚的政府とグローバル化された経済の支配権を、国民の手に取り戻そうとする指導者が求められているのだ。

(略)

現在多くの者は、目下の支配階級に対抗するために、リベラリズムが生む国家主義者の権力を利用しようとしている。また一方ではとてつもないエネルギーが、自己立法や熟慮ではなく、集団での抗議運動に注がれている。しかもその前面に押しだされているのは、民主的ガヴァナンスの刷新の要求ではなく、政治への怒りや絶望なのだ。この状況をつくり出したのはリベラリズムと、そのひどい悪夢を昇華させるために用いられた手段である。だが自己理解が欠落しているので、内在する過失は認識されていない。

(略)

賢明な道は政治革命などではなく、この非人格的な政治経済の秩序の中で避難場所となりえる、新しい形の共同体を忍耐強く育んでいくことなのである。『無力な者の力』は、チェコスロバキアのヴーツラフ・ハヴェルが反体制活動に身を投じていた当時にしたためた随筆である。この中でハヴェルはこう述べている。「体制の改善で無条件に生活の改善が保障されるわけではないだろう。むしろその逆が正しい。生活の改善が実現してはじめて、改善された体制が発展できるのである」現代の不信や不和、敵意や憎しみと入れ替われる可能性があるのは、古代の都市国家、ポリスでの経験に根差した政治体制しかない。ポリスの市民が共通していだいていた目的意識や責任感、感謝の気持ちといったものは、世代を超えて生活の中で経験する悲しみや希望、喜びから生じていた。また市民はおしなべて相互に信頼する能力を養っていた。

序 リベラリズムの終焉

 リベラリズムを創案し構築した者が約束したことは、ほぼすべて打ち砕かれた。リベラルな国家は生活のほとんどあらゆる面をコントロールするほどまでに拡大したが、国民は政府を遠くて制御不能な権力とみなしている。政府がたえず「グローバリズム」を推進するので、その無力感は強まるばかりだ。今日唯一保障されていると感じられる権利は、十分な富をもちそれを守る立場にいる者のものである。しかもそういった自立性――財産権、選挙権とそれに付随する代表的機関の支配、宗教の自由、言論の自由、書類と住居の安全の保障といった権利――も、合法的な意図や技術力から生じる既成事実によってますます侵害されつつある。経済がひいきにする新たな「メリトクラシー」(実力主義)は、勝者と敗者を容赦なく振り分ける教育制度によって強化され、世代間の継承によって優位性を永続させている。

(略)

 リベラリズムは失敗した。リベラリズムを実現できなかったからではなく、リベラリズムに忠実だったからである。成功したために失敗した。リベラリズムが「完成形に近づき」、秘められていた論理が明らかになり自己矛盾が目に見えてくると、リベラリズムイデオロギーは実現されているが、その主張通りにならないという病弊が生じた。平等を促進し、さまざまな文化や信念が織りなす多元的タペストリーを擁護し、人間の尊厳を守り、そしてもちろん自由を拡大するために世に送りだされた政治哲学が、現実にはとてつもない格差を生み、画一化と均質化を押しつけて、物心両面での堕落を助長し自由をむしばんでいる。成功が、達成してくれると信じていたことの逆の成果によって評価されているのだ。

(略)

今日のリベラリズムの「小さな政府」を見たら、昔の専制君主は羨み篤くだろう。何しろ市民運動や財政、国民の行動や思想まで監視しコントロールできるのだ。これほどまでに万能な権限は夢にすぎなかったはずだ。生活のあらゆる領域で政府活動が拡大しているので、リベラリズムが個人の良心、宗教、結社、言論、自己統治の権利を守るために誕生させた自由は、広範囲にわたって侵害されている。それでもこの拡大は止まらない。

(略)

名目上はむしろ支配下に置いているはずのひとつの存在に人々がさらなる介入を求める結果になっているからだ。

(略)

リベラリズムは、民主的手続きを経て選出されない冷淡な指導者による恣意的な支配を、選挙で選ばれた公僕を通じ民意を反映する統治に変えると主張していた。だが現在の選挙の過程は、一八世紀のロシア帝国の軍人、グレゴリー・ポチョムキン張りぼての景色を用意してエカチェリーナ二世に荒涼とした風景を見せまいとした逸話を彷彿させる。つまりなんとか取り繕って、国内政策や国際協定、そしてとくに戦争の遂行に、とてつもなく恣意的な権力を行使しそうな人物に対して、民衆の同意らしきものを与えているように思えるのだ。

 このように強く感じられる隔たりと手に余る状況は、改善され完成に近づいたリベラリズムによって解決できるものではない。それどころかこの統治の危機は、リベラルな秩序の成果なのである。

 リベラルアーツ

 先進的リベラリズムは、教養教育をイデオロギー的にも経済的にも実用的でないと考えて、躍起になって抹殺しつつある。

(略)

大学はあわてて実用的な「学習成果」を出すべく、学生を即戦力にするための新講座を数多く導入している。また既存の研究にイメージチェンジや新たな方向づけをして、経済との関連性を売りこもうとしている。グローバル化し経済の競争が激化する世界では、ただ単にほかに選択肢がないのだ。

(略)

 リベラリズムが絶頂にあるこのときに、リベラルアーツ(一般教養課程)は猛烈な勢いで撤退している。この科目は古くから、自由民でもとくに自律を望む市民にとって、不可欠な教育の形であると理解されてきた。重視されていた偉大な教科書は、古いというだけでなく、いや古いからでさえなく、人が自由になるために学ぶ技――それもとくに欲望をむき出しにする専制政治から自由になるための方法について、苦労して得られた教訓が記されているために偉大だったのだが、それでも切り捨てられてしまっている。その代わりに選択されたのは、かつて「奴隷教育」と考えられていたものである。もっぱら金儲けや働く者の生活をテーマにしていたので「市民」の称号を与えられなかった者のために取っておかれた教育だ。

(略)

リベラルアーツというその名は自由人の教養を支える基礎を意味するのにもかかわらず、そうした教育を受ける贅沢がなくなった理由を問おうともしない。

 リベラリズムの自滅後に何が続くのか

 またリベラリズムの自滅後に何が続くのかを考えるときに、ただその反対のことを考案したり、リベラリズムの功績の中で偉大で不朽の価値のあるものを否定したりすればよいというものではない。リベラリズムの魅力は、西洋の政治が伝統的に深く関与してきたものを受け継いでいることにある。その代表例が、専制政治や恣意的な支配、不当な権力の行使を抑制することによって、人間の自由と尊厳を保障しようとする努力である。この点においてリベラリズムはまちがいなく、何世紀もかけて古代ギリシャ・ローマの古典古代やキリスト教の思想と実践の中で発達を遂げてきた、きわめて重要な政治的誓約を土台にしていると考えられる。ところがリベラリズムの革新的技術――発案者が人間の自由と尊厳を強固に保障すると信じていたもの――でも、とくに自由の理想の再定義と人間の本性の再考によって成立しているものが、この誓約の実現を阻んでいる。

(略)

 世界で最初に生まれ最後まで残ったイデオロギーを拒絶するのに、新しくて、おそらくはほぼ代わり映えのしないイデオロギーとすげ替えるのはお門違いである。革新的な秩序を転覆させる政治革命は、ただ無秩序と悲惨さを呼ぶだけだろう。それにまさる道は、規模を抑えた地域型の抵抗運動に見出せる。たとえば理論より慣習に重きを置いて、リベラリズムのアンチカルチャーに対抗して復元力のある新たな文化を築くのである。

(略)

今のこの時代に必要なのは、わたしたちの哲学をさらに極めることではなく、もう一度自分自身に今以上の敬意を払うことである。よりよい自己をあらたに養い、共同体の文化の育成や弱者へのケア、自己犠牲、小規模な民主主義の促進などをとおして、他の者の自己の運命に惜しみなく投資することからよりよい慣習が生まれる。そしてそういった中から、いつしかリベラリズムの破綻しかけたプロジェクトよりすぐれた理論が現れるはずなのである。

 カール・ポランニー『大転換』

カール・ポランニーの古典的研究論文『大転換』ほど、この介入を明確に分析した著作はない。特定の文化的・宗教的な背景において経済的仕組みは、モラルに沿った目的をかなえるものと理解されていた。ポランニーはそうした背景から、いかにして経済的仕組みが切り離されたかを説明している。またそのような伝統的要素のために、経済行為が制限されただけでなく、経済行為を適切に行なえば個人の利益と優位性を向上できるという理解が妨げられてもいたと結論づけた。ポランニーによれば、そのように規定された経済交換は、社会的、政治的、宗教的な生活の主要な目的を優先させている。つまり共同体の秩序の維持とその秩序内の家族の繁栄である。自己の利益を最大化する個人の集積を土台に理解された経済は、正確にいえば、市場ではなかった。市場は、現実の物理的スペースで社会秩序の中にあり、抽象的な行為者が有用性を最大化するために取引を行なう、独立した理論上のスペースであるとは考えられていなかったのだ。

 ポランニーの論によれば、このような経済の置き換えには、計画的でしばしば力ずくの地域経済の再形成が必要だった。その際はほとんどの場合、経済と国のエリートの行為者が伝統的な共同体と慣習を崩壊させて消滅させている。人々の「個人主義」が必要としたのは、市場を社会的・宗教的な背景から切り離すことだけではない。自分たちの労働と生産物が、価格メカニズムに支配される商品にすぎないということの受容、つまり、新たな功利的で個人主義的な観点から人間と自然を同列に見るような考え方の転換も必要としたのである。しかも市場リベラリズムも、市場をモラルから切り離して、個人と自然は互いに分離していると考えるよう人々を「再訓練」するために、労働者と天然資源をこうした「擬制商品」――産業的工程で使用する材料――として扱うことを求めた。ポランニーがこの変革の本質を端的に突いているように、「自由競争主義は仕組まれていた」のである。

 個人の創出

 リベラリズムの哲学と実践から生じた個人主義は(略)国家を求めているし、むしろ同時にその権力を増大させてもいる。

(略)

リベラリズムにとっての急務は、人間の繁栄を支える非リベラル的なあらゆる形態(学校、医療機関、慈善団体など)と入れ替わることと、市民のあいだに深く根づいている将来や運命についての共通の意識を形骸化することであり、そうした切迫感に突き動かされて、さらなる法的・行政的な制度を必要としているのである。公的でない人間関係が行政指導や政治政策、法的規制にとって代わられて、自発的な市民の関わりが阻まれるなか、拡大しつづける国家機関が社会的協働を受け合うよう求められている。市民間の信頼と相互の関与が弱まりつつある一方で、市民の規範が脅かされ衰退しつつある兆しが表れているために、そのようなリベラリズムの成功の結果を抑えこむために、集中監視や警察の存在の誇示、刑罰国家が必要となっている。古典的リベラリズム個人主義の哲学と革新的リベラリズム国家主義の哲学が、結局互いに補強し合っている手管はたいてい気づかれていない。保守的リベラリストは、自由市場だけでなく家族の価値と連邦主義を擁護していると主張するが、最近政権を取ったときに継続的に実施して成功している保守的な政策は、規制緩和、グローバリゼーション、巨大な経済格差の擁護といった経済的リベラリズムだけである。そして革新的リベラリストは、個人主義的経済の勢いを緩めて所得格差を縮小させるべきだという、国家の運命と団結にかんする共通の意識を高めると主張するが、これまで左派が成功を収めた政策は、性の自己決定にかんするプロジェクトに代表される、個人についての事例にかぎられていた。共和党民主党も政治の場で首を絞め合っていると主張しているが、互いにリベラリズムによる自立と格差の原因となるものを推進しているのは、単なる偶然だろうか?

ソルジェニーツィンの指摘

ソ連の小説家アレクサンドル・ソルジェニーツィンは、リベラルな秩序の核心にある無法状態を明確に認識していた。この無法状態は何よりも、リベラリズムがあらゆる社会規範や習慣を空洞化しながら、法典を選択して「法の支配」の重視を主張しているところから生じている。一九七八年にハーヴァード大学の卒業式で行なった講演「引き裂かれた世界」で、ソルジェニーツィンは現代のリベラリストが「法律尊重主義的」な生き方に偏っていると批判して、物議を醸した。ホッブズとロックは法を、もともとは完璧に自然状態にあった自立を抑制する、実証哲学的な「石垣」として理解していた。そうした理解を反映するリベラルな法律尊重主義は、わたしたちの自然的自由と対立するので、可能なかぎり避けたりごまかしたりすべき強制とみなされる。あらゆる「達成」の――究極の目的もしくは繁栄の――概念からも、自然法の規範からも切り離された法律尊重主義は、その結果法的禁止をできるかぎり軽視しながら、いたるところで最大限の欲望を追求しようとする。ソルジェニーツィンは次のように述べている。

 

ある人が法律的に見て正しいなら、それ以上何も要求されません。それでもまだその人は完全に正しいとは言えないかもしれないと指摘して、自己抑制や法律上の権利を放棄するよう呼びかけたり、犠牲や無私のリスクを求めたりする人はだれもいません。そんなことを要求するのは愚かなことだと思われるでしょう。自発的な自己抑制を目にすることはほとんどありません。だれもがそういう法律の枠組みのぎりぎりのところで動いているのです。

 

 ソルジェニーツィンリベラリズムの大きな欠点と急所に切りこんでいる。それは自律を育む能力がないことである。

 リベラリズムに代わる共同体

 このような取り組みで力を注ぐべきなのは、共同体の中で文化を支える慣習の構築、生活経済の普及、そして「ポリスの生活」、つまり市民の共同参加から生じる自律の形である。

(略)

 一八二〇年代末にアメリカを訪れたトクヴィルは、アメリカ人の政治版DIY精神に驚いた。同国のフランス人は、中央集権化した貴族制秩序に従っていたが、アメリカ人は問題を解決するためにすぐに自治体に集まった。そうするうちに「組織や結社を自主的に形成し協力しあえる能力」も身につけた。(略)

トクヴィルは、地方のタウンシップ自治体を「民主主義の校舎」と呼んで、共通の暮らしのよさを守ろうとみずから関与する市民を賞賛した

(略)

土台にするのは、実際の人間関係や人づき合い、他の人間のために自分の狭い個人的利益を犠牲する後天的能力である。人間の抽象化などはしない。

(略)

文化とリベラルアーツの復活や、個人主義国家主義の抑制、リベラリズムの技術の制限を求めれば、まずまちがいなく警戒心から疑念をあおることになる。人種的、性差的、民族的な偏見から生じる不平等と不公平を先手を打って防ぐ、あるいは地域的な専制政治神政政治を法律で阻止する、といったことを、すべて確約するよう要求されることにもなりかねない。このような要求がこれまでもずっとリベラリズムの覇権拡張に貢献してきたのである。と同時にわたしたちは、拡張する国家と市場にますます従属し、自分の運命が意のままにならなくなったとしても、かつてなく平等で自由になったと自画自賛しているのである。

 わたしたちは今では、リベラリズムが理想を保障すると謳いながら、逆に格差を広げて自由を抑制することによって、世界への支配を拡大しつづける可能性を歓迎すべきである。いや、おそらく別の方法はあるのだろう。まずは何よりもリベラリズムが促進した、孤立し非人格化された生活とは異なるように、善意の人々の努力で他にないカウンターカルチャーの共同体を作るところからスタートする。栄華の極に達したリベラリズムの全体像がますます見えてくるにつれて、その病的失敗のために経済的、社会的、家庭的に不安定かつ不確実な状態に陥る人々が増えるにつれて、個人の解放の名のもとにますます市民社会の制度の形骸化が目立つようになるにつれて、そしてトクヴィルが予言したように、かつてなく完成された自由な状態がわたしたちを「独立して弱く」している事実に気づくにつれて、こうした実践にもとづく共同体は、かつてはそれを奇異でうさん臭いと思ったことのある者にとって、次第に灯台野戦病院のように見えてくるだろう。リベラリズムに代わる共同体の活動と例から、いつかは異なる政治生活を体験できるようになるかもしれない。その基軸となるのは、共通の自己統治の実践と相互教育である。

 今のわたしたちが必要としているのは、新しく現実的な文化の創造に目を向けて地域の環境で育まれる慣習、家庭内の高度な技術に根差した経済、ポリスでの市民生活の実現である。よりよい理論ではなく、よりよい実践。このような状態と、そこから形成される異なる哲学は、最終的に「リベラル」の名にふさわしいものになるだろう。